Back to Howawan's Homepage to index to Yahoo's Homepage

envd04-01512021329/老人科なるもの ......

inhalts

envd04-01512021329@

老人科なるもの

あれは、5年前の事だった。小児科と精神科しかしらないボクが、ナ、なんと老人に接触したのだ。それは、いわゆる「未知との遭遇」だったわけで、最初のなんとも耐えがたい異質な感じから抜け出るまでまる3年かかったのです。いきなり自慢じゃないが、新生児室で、台所のダイコンのように(ニンジンと言ったほうがただしいか、いや長い、カブと言ったほうがいいかナ)、とにかく、大抵の大人達には区別のつかない、アカゴのズラっとならんだのが、我々小児科にはちゃんとひとりひとりの特徴がわかるわけです。ところが、老人を眼の前にしたボクは、その新生児室を訪れた、お母さんの身内ののおじさんのように困ったわけです。
「オ、オウ、繭子さんかわいいねエ、あれが太郎君かい?」「伯父さまイヤですわ。それは、隣の子!太郎はあそこです。かわいいでしょう?」
そんなもので、とにかくこまったものであった。こどもの場合は、「あっちのタロウの熱さがった?」と看護婦さんに聞くと、「今朝からさがったワヨ」と返事があり、「こっちのタロウ元気?」「元気」と返事があることが、不思議では無いわけで....。分かりますか?つまり、太郎とか、ユカなどと言う名前は、いくらでもあるのですから、勧銀太郎とか、富士太郎とか、姓をつけなくては、フツ-の人には分からないのです。ところが我々には、熱の出た太郎、ぐったりした太郎、変な太郎、困った太郎という個性的な属性を共通に捕えているわけなのです。似たようで眼のおおきさ、瞳のかんじ、抱いたり触ったときの具合など、我々とお母さんしか分からない共通の違いがあるのです。ところが老人の場合、シワシワのツタさんと言えば、ほとんど全部のツタさんがそうな訳で、ましてや、抱いたり触ったりはなかなかできないわけすから、最初は困りました。結局、内科の先生が、不思議な程、患者の姓名を覚えている訳が分かったような気がしました。内科には言葉が必要なのです。内科医は頭がよくなければだめですね。そういえば、M先生のように同期の医者でも内科は、頭がよく、理屈やが多いような気がします。
 ところが、一番こまったのが「蘇生」です。いまでもまるっきり分からないといって良いと思います。私はいつまでも薮医者なのでしょう。こどもなら、悪くなればつきっきり、絶えず変化する状況を詳細に把握し、どんどん手を打ちます。急変でもしようものなら、ほとんどあらゆる手を同時にうちます。A .....B.....C......D.....、挿管のタイミングも早い。少しでも、呼吸停止の徴候が見えたら、やります。間に合わないと取り返しがつかない。それに体して、老人では、年齢にも寄りますが、呼吸がとまってから挿管することもままあります。そしてしないこと、つまり見取りの場合もありうることです。3ケ月の赤ん坊が風邪をこじらせて呼吸困難になって挿管して助かれば、80才まで生きるかもしれないが、80才の肺炎のおじいさんに挿管しても、また肺炎になって繰り返し、80才3ケ月で亡くなるかも知れないからです。ましてや、家族が望まない事もある。このことは、小児科では表向き100%ありません。つい昨日もあったことですが、かなり状態の悪い92才のおばあちゃんがいる。ボケで皆目見当はつかないし、自分で食べる意欲もない。いわゆる老衰な訳です。それでもって感染もあり、胸がゼロゼロ言っている。体重などはそれこそ30キロあるかないかでしょう。ガリガリに痩せこけていまにもXXしそうな方です。
家族は教育家の息子さん夫婦がこられるが、こちらは、次男坊。長男夫婦は遠いところで暮らしているためノ-タッチ。いわゆるシビアなムンテラつまり、もういけないかもしれませんからお覚悟をと言うお話のことですが、この時、「もう、このまま、くるしめないように...」とおっしゃっております。ほとんど食べれないが、かといって積極的に点滴ル-トから栄養液を入れあげると、「延命」となってしまう。その延命も感染があるためにそんなに長くないと予想できます。御家族に確認をした次の日の夜、脱水と肺の感染のために痰がつまり、一時呼吸が止ったため、看護婦さんから緊急電話が入ったのが夜9時近かったと思います。このとき、私は、すぐ点滴をとは言わなかった。この意味は2通りあります。一つはこのまま安らかに...であり、一つは、看護婦さんが点滴をいれているカモ知れない、であります。駆け付けると、やはり点滴を入れているところでした。痰を無理矢理吸ってやると、かなり呼吸が楽になってきました。しばらくして御家族がこられ状況を説明、ここまでにしましょうねと打ちきり、そのままにするつもりがツイ、気管支拡張剤などを処方している自分に気がつきます。点滴をいれたらそれはインーintake、したがってアウトーoutputー尿量とのバランスを計測するのは鉄則です。私はそのことは触れずに帰宅します。案の定看護婦さんから電話がありました。「アノ、バルンー尿量測定のために尿道に管をいれるはどうしますか」「ソ、そうだね。いれてモいいよ」などと言うことがありました。この判断には実は、その看護婦さんが、準看であり、かつ、高看の学生であることも含まれている訳でして、これが、総じて「医療の現場」なるものであります。さて、血圧も100を切っているとのこと。これはそのまま様子を見ました。再び「まよなかの電話」が鳴ることを覚悟して、眠りに落ちました。
 翌朝、本人は、パッチリ眼を明け、熱は下がり、呼吸は楽そう。さんざん考えたあげくに、点滴もせず、胃へ管をいれて栄養を確保するだけで様子をみていたのが、看護婦さんの不眠不休の努力によってバアちゃんはよみがえったのです。その結果やいかに。御家族にはX?、看護婦さんには○、ボクにはマ、○?、そして御本人には?
はっきりしているのは、あの時点で、点滴を入れず、気管支拡張剤を使わず、酸素の量を増やさずにいたら、バアちゃんの今日はなかったのです。医者は時々カミのように振る舞います。そして、そういった、判断すら、神がお决めになったことだと思い込むことで無理矢理先に進んでゆきます。K病院の事務長が、ボクに言ったことがあります。「先生達が、どう判断しようが、名医だろうがヤブ医者だろうが我々には分からない。しかし、したことは必ず、先生達の寿命に跳ね返っていくんですよ。長くなるか、短くなるか、どうでしょうね。」、このことを知人の腕のたつ脳外科医に話たら、「その事務長が分かってそういっているとしたら、エライ!」とのことでした。さてさてボクは長生きできるのでしょうかねエ。とにかく、もし小児科医のままであり続けたら、こんな判断で悩むことはなかったことは確かです。こどもで何にもしないなんて。その結果、ながいきできたかって?過労で早死にするでしょう。人生とはかくも皮肉なものであります。そして、老人科と小児科の共通点は、当の御本人がちっともキチンと自分の事を考えてくれないことであります。