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envd04-01512021241/ユミちゃん失踪する4 ......

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  •  私の愛は別れである。愛した後嫌いになって別れるわけでもなく、愛しているときに別れるのである。こう書くとさも別れを望んでいるようにも聞こえる。だいいち、愛は別れであるというのは、美学的で現実感に乏しい表現かも知れない。身勝手でもある。なぜなら、通常人は誰もそのような別れを望まないだろうか羅である。つまりは、私の別れる相手もそれを望んでいるとはとても思えない。
  • しかしこれも私にとっては現実なのである。嫌いになってからの別離は、憎悪を多少なりとも伴い、相手からなにか奪い取ってやろうと言った欲を伴う。別れるなら相手のためを思って別れたい。
  •  とはいえ、これは、私の感情であり私の思うところであって、Yの感情ではない。普通なら、愛しているのなら別れたいなどとは思わないだろう。そこに私の敗北と、余生がある。子供の作れない痛みは私しかわからない。健康な側は、それだけで従属すべき状況なのである。病は強い。Yは健康である。だから私の別れの論理が成り立つわけである。これは、Yを追い詰める。私は、追い詰めているという自責の念に駆られながら、追い詰める。それは、Yとてある日ふと自分達に子供の恵まれないことに気がつき愕然とするだろう。わたしはそれを予想する。その予想は凡その力では太刀打ちできないほどの現実感をもって迫ってくるのである。そんなとき、とめどもない衝動に駆られて、私はYと別れたくなるのである。
  • 不妊ほどの強迫的要素はないにしても年令の差もまた愛のネガティブな力である。普段は気にもならないこの問題も、時としてけんかなどして、どちらの言うことが正しいかなどという愚かしい駆け引きが始まると、谷間の底から吹き上げる冷たく重い霧のように暗然たる力を持つのである。私の論理は40何才の経験がある。若いほうはそれがない。だから私が正しいのである。なぜそういえるかと言うと、それはまるで病気の診断のように前例を添えられるからだ。したがって、その点末も予想がつく。そのことを踏まえて私が正しいことになり、最後に一喝「だまれ」で終わるのである。この経験はYに動揺の状況になり始めると、強迫的に働きヒステリックにさせてしまう。私はと言うと、その状況を把握できているのにその方向から逃れられず、むしろそれを加速させてしまいたい衝動にかられてしまう。ヒステリーとそれを有無強迫観念の恐ろしいいたちごっごが始まる。
  •  もちろん以上は我々の愛の暗い側面を現しているのであって、愛は、昔からあかるく美しい面を表現することの方が多い。私流の言い方をすれば、明るい愛は、幸福そのものであり、暗い愛は悲劇と言う。そして両面があるが陰が勝つ我々の愛は「現実」と表現したい。それは、いつのまにか一人歩きをして二人の生活その物を右往左往させ、振り回し、ついには破壊するかも知れないからである。最初の結婚はその事の意味をいやと言うほどわからせてくれた。だから私は「正しい」のである。その当時と現在との差異をさがせば、前妻には申し訳ないが、一縷の望みを託すから言わずにはおれないのだが、Yにたいする愛は非常に大きいという事だと思う。したがって、フリコの振れと同じく、暗い愛の側面も大きく、明るい愛の側面をいつもその陰で覆ってしまうほどのかげをしょっている。太陽の光は明るければ明るいほどその陰は強く明確な輪郭を有する理である。
  • これらの愛の陰と陽をうまく制御し若きYを安寧の衣につつむには、私の寛容さは、決定的に容量不足に悩んでいる。その容量のなさはYをしてついには私を嫌悪するほどの程度である。こんどの亀裂は深く、まるで、暗く閉ざされて水音のみでその存在を知らせる淵のようである。発端は小さく、亀裂は深い。
  •  そんなことがあった後、私は車検のあがった自動車をわざわざ磐城くんだりまで取りにいった。その帰り、久しぶりの高速路で、久しぶりに飛ばしに飛ばしたものだ。少し満足して盛岡で宿を取った。考えてみれば、高速道路が庭だったような生活から、今のように地域の一般道しかない生活では、車の持てる力の半分も発揮することがない。なんでも精一杯辞内と満足出来ない私とて、これは中々堪え難い状況ではある。人だろうと、物だろうと、何かの因果でそこに存在して私とかかわっているかぎり、共に一生懸命でありたいのが、 これからどうするかと言うことは、実は生きて行くのに一番大切なことなのだろうか。いや、いま現在を大切にすることの方がそれこそ重要に違いないのである。しかし、今は、未来に向かっているのだから、それを計画したら、現在が失われることを恐れることもありうる。現在とはなんだろうか。ひとつは篭のとり問題、ひとつは薮医マ-庵の問題である。
  • 篭のとり問題は、予想できたことで、既に書いたようにこれからの家庭問題の一番頂点にある。私としては、このままでいたいが、それは如何ともしがたい。私のすることなすことすべてがYに煩わしくなれば、愛情があっても離別するしかないからである。
  •  それよりも、私自身が、木村の死によって蘇生した事の方が今は、最重要である。なぜなら篭のとり問題は、Yが自分で決めるより方法がないからである。
  •  先日母が突然仕事中に訪ねて来た。それはすでに遠い存在のひとつであり、私は気分が独立しているのを感じた。その時間だけで母は帰っていき、父の葬式があっても赴かない旨伝えた。それは簡単な主旨の説明だけだった。そういうものだと私は思う。私は、家と縁が切れたのだと思う。又ひとつ孤独になった。
  • (つづく)