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envd04-01512021238/ユミちゃん失踪する3 ......
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envd04-01512021238@
女に逃げられた前科2犯の薮医者の話
この夏は、私にとっても冷夏だった。8月の初めに3年勤めた知人の病院を辞してもう早2カ月が経とうとしているのに、仕事口がロクに見つからないのである。6月の初め、皇太子の婚姻があった日、ユミちゃんが忽然と私の前から姿を消した。釣場からである。2日たっても3日たってもユミちゃんは見つからず、 ........そうか、これはもう話たっけ。
とにかくだ、........結核に負けて北大を諦め、引越不精とカミさん孝行で、出世を諦め、我慢不足で我が社をつぶした男としては、あまり、この変をいじくるのは、反省不足というか、結局ミイラとりがミイラになりそうな、そんな感じですね。
とは言え、函館に移り住んではや3年、胃カメラばかりやって、ひまを持て余して漫画をよんでのサラリーマンをいつまでも続けるわけには行かないのです。久々に小児科の問題集をやってますが、まるっきり忘れている問題も多々あるわけで、働き盛りの40代、開業して忙しくしてらっしゃる方々、また、大学に残って診療と研究に勤しんでいる同僚のことをおもうと、自分だけが老後を迎えたような、そんな虚しさと、自信の失せる感じがします。だれかさんは、まだ、大学から離れて3年しかたっていないし、講師などやっていた自信もあるし、なによりも、あたらしいプロジェクトに打ち込んでいる、と言うよりは実業家の道を歩みつつあるようで、もともと医療から離れられない我が身と比べて、落ち込みはないようです。これも、性格と言うようなものでしょう。
自分の道程をまとめた環境小児科学マニュアル89年版の末尾を見開くと、77年の卒業以来、2年の留学も含めて、83年までの6年間が医者修業の6年でした。それから広島に帰って、精神科の研修を1年してからの89年までの6年間が、自分のやっている事がストレス小児科学なのだ、これが自分のライフワークだと思えた期間だったようです。これらの前の6年は、医学部が6年な訳だから大学の6年、その前が633制の6年と言うわけで、なにやらこれまでは我が人生6年ごとの節があったようです。
とすれば、いまの次期は、乳幼児期、学童期、思春期、青年期(イコール大学)、医者としての研修期、開業時期の6x7イコール約40年の次の6年期に入っているわけで、89年ー95年
が武者修業期とでもいえるものでしょうか。この時期に医者としての自分を確立する必要に迫られているわけで、それで、毎日マンガを読んでいる訳なんでしょうか。焦ってはいけない、人間6年ぐらいでそんなにバカにはならないと信じたいところですが、なかなかそんなには卓見できません。ただ、これまでの自分は、とにかく周囲の人から「あせるなあせるな」と言われた時期でしたから、そして、ツッパしった時期でしたから、普通の人生なら過労死の原因になるほと苛酷なこの時期に、「ひま」と言う、自分の人生になかった言葉、「にんたい」と言うあまり、気にしなかった言葉を体験する時期なのかも知れません。と言うわけで、ただただ漫画を読み、人に優しく、とくに優美ちゃんに優しくなれるよう、「忍、忍、、」の6年だと思うのです。あせらず、ゆっくり、一時休養したいものです。出来るかどうか自信がないまま3年きましたが。
そうそう、今は、2台のイタ車のせいもあって苦しい台所が続き、お金の忍耐も続いているのでした。それらローンと言うものが一応楽になるのが平成7年つまり1995年で、この年うまく行けば優美ちゃんも高看とやらになれるわけで、経済的にはホット出来る年と、「忍ニン」の期間が終わる年とがくしくも一緒という訳です。
今は、フとその先を考えるのを我慢して、あと3年を自分の靴先をジジッとみて暮らしたいものだと思っています。1995年と言うとケン介がその4月に11才になるはずです。まだ、ケン介によい生活をさせてやることができるチャンスがあるかも知れません。ネ。その後は、と考えてはいけないことになってはいるのですが、千歳の住宅地で、ケンを庭であそばせてやりたいと思っています。あと、正確には、今年ののこり2ケ月+93年12ケ月+94年12ケ月+95年の3ケ月のしめて2年と5ケ月ですか。
この約3年のがまんのうちによい巡り合わせになれば中吉、結局なんの変化もなければ吉としましょう。
高校の時、七十年安保の嵐が吹き荒れました。今度の米大統領の世代なのですから当然ですね。このとき、自分と人との係わり型の見本みたいな事がありました。それからの私の人間関係と言えば、そのように規定されているようです。それは、高校三年と時にキドウタイが2回侵入しました。過激派の学生の排除が目的ですが、その後、自分達の問題は自分達でと言う学生側の意見で、そのことの学校の是非を問う全体集会がありましたが、その時のことです。過激派は、もちろん学校側の態度を激しく非難しました。受験を控える大半の学生は、学校が受験高だったこともあり、授業を出来なくするような過激な行動を非難しました。それまで、ぼくも、過激はカジカワ君と付き合っていたし、(本当はかれは過激派ではなく過激派と心情を一にしていただけです)、過激派側の人間のように思われていました。事実、授業中、授業をぬけだしたり、教室での議論の時に教師を弾糾したりしましたから。その先生の一人がうらんで知能テストで責めた話はもうしました。
こうくどくどと昔のことを話す、話しだしたら止らない、いつのまにか、女に逃げられた前科2犯の薮医者の姿がここにあったのです。
愛-そして離別の意味-そして次を待って耐えること。おい求め、一緒になりそして別れる。これが結婚だ。男と女が一緒にいようとする力が愛だとすれば、別れることの力はなんなのだろう。マイナスに考えれば、愛がなくなりことであり、プラスに考えれば死別あるいは更なる愛を求めるといえるのだろうか。しかし死の力は、生への反逆であり憎悪である。病気などでの自然死といえばそこに恨みはないように聞こえる。しかし、肺炎や心臓の病気あるいは癌などで死ぬとき、本人や家族の側からそれが自然であるはずがない。もっと生きたかったのにと誰もが思うであろう。天寿を全うすることがある。あるいは、ねたきりの老人がなくなる場合は生への反逆的な意味合いの力ではない。それは訪れることを誰がかが願っている。
(つづく)