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Yの失踪 93.6.9
6月9日休日
日本国のおめでたいこの日にYは失踪した。茂辺地の山林から忽然と消えた。最後に車のドアをバタンバタン閉めるヒステリックな音を聞いたのが川に入った直後だから6/9午前10時30分ぐらいだろう。その後釣りの最中にパンダらしいエンジン音を聞いたから、それが、一旦車ごと帰りかけて思い直し、蒸発を決意し、ケンと車を戻しに来たときかも知れない。これが真実だとするとだいたい30分後の約11時。熊の出没するこのあたりから、麓の駅まで約8kmだから急げば1時間30分として、函館行の鈍行13:58には十分間に合う。たしか、江差方面にもこの時刻に下りが入るはずだが、行く先は鴎島か。ここは北海道に移住して毎年1月から2月に訪れるが、Yにセンチメンタルジャーニーは似合わない。青森方面まで足をのばすにはおそらく現金が足りず、江差で途中下車しないことには、内地へのキップ代はないはずである。で、素直に函館に戻るとして、2時間に一本はでているから、私が家に出発した
15:30までには函館に到着して、吉川町の自宅まで行き、とりあえずの下着類をバッグに押し込めるはずだ。
私が家に辿り着いたのが16:15だった。まず、メシを作りケンにも食べさせた。電話を待つがまるで無口に押し黙っている。たしかに怒らせたとは思うが、以前言っていたことを実行させるほどとは想像だにしなかった。ことしになってからの家出はこれで3回目である。いづれも演劇的で取るに足りなかったと思っていたが。一体どうしたというのだろう。死んでやるの最後の一言が重く浮かんできた。以前、もう騒いで死んだりしないから。わたしだって、迷惑かけない方法で死ねますなどと言ったことがあった。それがまさか、と思った途端いても立ってもいられなくなり、無駄とはわかりつつ、約40km離れた例の山林に車を飛ばしたが案の定なんの痕跡も有ろう筈がなかった。1回目の帰路につくころにで始めていた霧は2回眼の帰路にはすっぽりと函館を包んでいた。帰りついてからは雷と強い驟雨を繰り返す不安定な天気に変わり、気温も10度ぐらい。ぬれたりすれば肺炎にない兼ねないなどと考えながら、依然寝て過ごしたという車の後席を2時間ごと位に一度見て回るあいだ雨も安定して強く降り続いていた。こうして眠れない第一日の晩を過ごすことになった。
6月10日
今日仕事から帰り急いで食事を済せた。今日一日は仕事にならなかった。患者さんに申し分けなく思うが如何ともしがかった。とにかく落ち着かなかった。そのあと、ゆっくりYの痕跡を探すが、まるでない。考えてみれば空色のよく似合うスカート以外上の方はまったく思い出せないことから始まって、下着をもっていったものやら、衣服を何日分持っていったものやら、皆目検討のつかない自分を発見して私は茫然とした。私は、Yの日常をあまりに知らなかったことに気づいたが時はすでに遅い。鈍った頭で考えてみると、日頃着けるシャツや学校に持っていくものは、例によって居間に雑然と散らかっており、ケンの寝床になったままだ。近距離用の旅行バックはどうやらなくなっている。書類、書籍などは最近少しずつ整理していたが、それは几帳面な私がうるさく言うからだと思っていたが、そうでない可能性もある。これらを総合すると、やはり、失踪は、突然ではあるが、その機会に関しては、いつかはありうると言う予想に立っていたようなたたずまいであった。たしか--と言うのは、ものをあちこちに動かすので定かではないのだが--旅行バッグのあったあとに、大切にしていた古い時代のアドレス帳がてがかりとしてか否かおいてあった。2回もの家出のときに泊まったと思われる函館市内のホテルには電話してみたが当該の人物は見当たらないという返事であった。
これらを総合すると、ある程度は見透しをたてた突然の失踪と言うことで悲観のあまりの危険な旅ではなく、期限は数日以内と考えてよさそうだとひとりいいように解釈してみた。しかし、なにかしら不安が胸にしがみつき離れようとしないから無為で焦燥に任せた時間が冷酷に過ぎて行く。なにしろ電話を! と祈るしかない自分がとても情けなく涙がでる。
今日も待っていたが電話一つ来ない。あしたからは、