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envd03-01511281837/病棟日誌より ......

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◇病棟日誌より
91年5月15日 ?F婦長の「じゃ、先生とAさんが婦長でやってください!」、「夫婦を職場に持ち込まないでください」と高い声で、患者、他の看護婦のいる前で発言。そとでC看護婦も聞いている。3月の終わりから連休にかけて異常に忙しくsterbenも多い。そんななかで婦長が連休とあと何日か休んだ。状況判断に欠ける。精神的にも不安定である。
 総婦長は総婦長で、?f婦長から「西本先生はこの2ケ月で、教育を行なう」と言ったと聞きつけて、あわてて私を訪問。「もしそうなら私は(と自分をさしながら)ついて行けません。」とのこと。この半年で、多くの患者が失われた。そのほとんどが自然経過としても、患者の命に医療者は常に真摯であるべきだ。これで良かったか。落ち度はないか。つにに自問自答する。それは、みな同じだと思う。しかし、それを衆知のこととし、協議することで、自己反省だけでなく、チームとして前進的に進歩する。過度の自信イコール責任の回避イコール不安なのか、単に楽に仕事をしたいのか、ここでは、そう言った前進的態度に欠けているのが、残念なことだ。
 A看護婦が、言葉態度が不孫だと言うことで、2-3人の高看が辞めると?f婦長に言ったらしい。婦長はそれをAに言えず、悶々として自分が疲れてしまった。小学校で、あるグループが先生に「Aちゃんが嫌だから来ない」と言ったとして、その先生の取る態度は、Aちゃんの親は代議士だから言いにくいという条件をその解決に含むか、と思う。それ以上に、自分の責任に於てその双方の言い分を聴き解決をしようとするだろう。医療従事者は、医療上の問題点をその進退の原点とすべきで、感情の行き違いが辞める辞めないの原点となるようであれば、おしまいだ。というより、それは、コドモの論理である。管理者の無能力が問われてしかるべきであるし、第一その「イジメの構造」が「うわさ」に発し、責任者が、それに惑わされるようでは、正しい組織運営は行なわれない。法律で言われる「当事者」の正しい把握より、興味本位な「うわさ」で人が動くようでは、成熟した組織、社会と言えず、構成員もコドモなら、リーダーは、もっとコドモで、いわんや、医療の現場で患者の問題より感情の行き違いで支障を来たすとすれば、そんな現実を情けないと思う。


92年6月25日
 ことしになってから、ぜんぜんおもしろいことがない。ひとも死に、ゾンビもでた。患者さんに対する態度に慣れが出てきたかも知れないなどと考える。最近?fの看護婦さんたちの態度がおかしいと思ったら、D看護婦のことのようである。正直バカげていると思う。
 ぼくたちはお医者さんゴッコをしているわけでなく、ほんとうのお医者さんとかんごふさんなのだから。医者がかんごふさんのまちだいをダメ!っていっただけなのにこの反応はなんだろうまたコドモにもどったようだ。だからコドモ言葉で話そう。
ぼくはすこしもやましくありません。だいいちDちゃんのほうがちいちゃい(?)のにとってもなまいきだから、なまいきだといっただけです。Dちゃんもおおきくなったらわかるとおもいます。しかもこのことはプライベートな意味もあることはうわさのゾンビ達のことだから分かろうと思うが、そういったプライベートなことに他人が頚を突っ込んだ挙げ句、治療や報告業務にまで影響を出しておいて反省しないなどというのは、夜になったら人の迷惑を省みず、走り回るだけの暴走族と同じだと思う。つまり、集団心理が働くと、ひどく排他的になって「ナカマナカマナカマ」と仲間意識だけのアマーイ群れができあがる。守るのはナカマだけ。
 第一、プライベートなことをどれだけみんなわかるのか、と思う。きめつけんジャネーヨ。それは、ぼくとDちゃんのもんだいなのです。
 だいたい、この学校(つまり病院)は、転校して来たときから、へんなぐあいで、なにが変かは、よくわからなかったのです。そのうち、この学校では、AくんとBくんがいっしょけんめいに言いあいをすると、とうぜんそれぞれのおともだちにそのことを言うのですが、それぞれのお友達は、あいての人の言い分をぜんぜんきかずにそれぞれのおともだち(自分の味方側当事者)のみかたばかりするのに気がつきました。そのうち、それぞれのおともだちは、当然面白がっていろんなおひれをつけてはなすので、もうひとりの当事者の耳にそれがはいるころには、うわさゾンビの完成となるわけなのです。当事者が話し合えば「わかる」ことでも、その関係ないそれぞれのお友だちが話をおもしろおかしくして、じぶんの都合のよいようにかえて話すものだから、一番こまるのは「とうじしゃ」」なのです。けっきょく、おともだちの数の少ない人は、多い方ひとからしらんプイされてかわいそうなのです。ぼくはそういうのは間違っていると思うのです。おなじ学校にいるのですから、最初から「がっこうなかま」です。でもそれは、皆んなにとっては、自分につごうのよいはなしを聞いてくれる人が「おともだち」なのです。ぼくは、そういうのは本当に間違っているとおもうのです。だいいち、先生やおばさん(つまり婦長)たちもおんなじで、例えば、ぼくがDちゃんを叱っているとき、おばさんはぼくにもDちゃんにもなんにも言いませんでした。おとなはずるいよ。おばさんが、「はいはいマーくんわかりましたよ。Dちゃんには、ちゃんといっておきますからそれでいいでしょ」と言えばよかったとおもいませんか。Dちゃんは、怒る人をまちがえています。この学校では、すべてこうだから、新しいお友達ががみんな「ヘンだヘンだ」といいながら転校していくのに、転校していくやつを「かわいくない」と思うなんて、なんか変だよね。さびしいね。
 転校してから2年がたちますが、去年は面白かった。擁護のおともだち(つまりねたきりの患者さん)をおふろにいれたり、カゼをこじらした人(つまり患者さん)のまわりをきれいにしたり、いろいろ手伝ってくれた友達をぼくはともだちだと思っていたのに、そのひとたちがぼくに「ネエネエどうしたの」とは聞かずに、みんなDちゃんの味方をするのですからね。それにこれは、第一、けんかではないのです。Dちゃんの事をいえば、あんなに、こーふんして、自分の立場をわきまえないで大騒ぎするひとはやはりちっちゃい子だとおもいます。それなのにそれを可哀相だとヨシヨシばかりしてあげるのは、実はそのひとをばかにするのと同じです。じぶんだってソー思うだろうに。好き嫌いだけでものを決めてみんな小学生してるのに、そのくせ、Dちゃんをつついて、人を本当に信用しないとこだけ、めんどうを嫌うとこだけ、批判をきらうとこだけ、傷つくのを恐れるとこだけズルイおとなみたいにしてしまうだけです。ぼくはというと、Eちゃんも皆んなも「おともだち」なんて喜ばしといて、じぶんの都合の良いことを聞いてくれるかな、なんて利用しただけじゃないですか。つごうのよいこと以外のことでは知らんぷりだもんね。みんな人を助けるのが仕事のひとで、擁護の人の世話をしたりお話しを聞いたり悩みをきいたりしているわけでしょう。オーエルのおねえさんたちとは違うわけでしょう。なのにどうして、いろんなことをお互いの意見をきき、はなし合ってゆるし合っていくひろい心がもてないのか、ぼくにはわかりません。だから、ぼくも、もうお友だちと思わず、一緒にたべたり遊んだりにさそわず、お仕事だけすることにします。きっと、みんなプロだから、まさか、擁護の人たちが困るようなことはしないと信じています。  みなさん! いろんな立場や考えがあるのではないですか。それがすき嫌いだけで判断されるせかいは子供の世界です。それが人のため、お仕事のための意見の違いなら、ドードーと話し合えはよいとおもうのです。かげでこそこそするのはみっともないと思います。ただしいことは正しい事、まちがったことは間違った事だとおもいます。それを実行する信念が擁護の人への信念だと思うのです。Mちゃんはきっとそのことを言いたかったのだとおもいます。ぼくもおんなじ意見です。
 そろそろそんなこどもみたいなことはやめて、擁護の子もぼくらも本当にお互いに信じあったり、感じあったり、喜んだりする仲間をつくっていかないと、ぼくらの学校もダメだとおもいます。
 Gちゃん、それをあきらめて、ただただながめることを「おとなになる」というのだったら、それは違うとおもいます。おとなになるためには、もっともっと自分を知らなければならず、それは、年齢とは関係なく、いくつになったから、だからおとなになったんだと言うわけには行かず、人に、なにかを教える自信や、ひとに本当に必要なことが理解できるようになった時「おとなになる」んだとおもいます。つまりつまりつまり、なれあいや傷のなめ合いは、ちっちゃい頃うけた心の傷がなおってなくて、じぶんに自信がもてない証拠だとおもうのです。
 すくなくともぼくは、小学生なりに、自分のやっている事はこうだ!と言えるだけのじしんがあるつもりですし、その努力もしているつもりですから、よくみてください。


(つづく)