Back to Howawan's Homepage to index to Yahoo's Homepage

envd03-01511281834/五.森病院 ......

inhalts

envd03-01511281834@

五 森病院
 ここに来てもう3年が経ちますが、1週間いなくても、病院の機能にはあまり影響が出ていない(ようにみえる)のは、気のせいでしょうか。人間が強く生きていくために、あるいはハリをもってボケずに生きていくためには、あるていど「期待される」必要があります。ここでの私に対する期待度は、ほとんど0のような気がします。つまり、ウルサイだけの存在なのです。と言うと、ユミちゃんはそれは、被害妄想ですと軽く一蹴するのですが。被害妄想であってもなくても、本人はそう感じているわけだけだから、本人に対する影響は悪いのです。もっと、期待されたい、西本先生でなければだめだ、と言う声を聞きたいのです。それは、わがままでしょうか。そうでなければ、人は自分の生活にだけ意義を見いだそうとするしか、「期待されない」ことに対する言い訳は見つけられないと思うのです。つまり、簡単に言うと、わたしは生活のために働いてる、それだけサ、と言う開き直りになるわけです。これは、我々サ〓ビス業の場合致命的な労働スタイルなのです。人様にサービスする仕事で自分の為だけ、金のためだけ、等と思える矛盾は、実は職業不適性と同じくらい大問題のような気がします。医者や看護婦が、患者さんにニッコリ微笑むとき、実は単に職業的スマイルだなんて、シャレにもなりません。患者さんは、常に愛情に飢え、弱者の負い目を感じているのです。意思の疎通しないコミュニケーションなどありえない。愛情のない微笑みなどありえない、寛容の感じられない世話などないのです。
 私達はハキだめの鶴よ、と忘年会で酔っ払った看護婦さんが、言いました。すかさず、なにがハキだめだ、と思った人もいたようです。そこにこだわってはいけないのです。ツルだと自認するすばらしさを分かってあげなくてはならないのだと思います。その場合その人の容姿がツルのように美しいかなどと言う問題を取り上げてはいけません。ハキだめのような職場で、ともすれば自分のことだけに徹し、OLのように暮らそうとする人が多い中で、それでも、私はツルよ、とサービス精神が旺盛なところをケナげに見せるところがすばらしいのです。それなくしては、医療は成り立たないと思うのです。私はしかし、そのアジを聞いてつい、「じゃあもし、ツルがいなければ、ただのハキダメなんだなァ」と考えてしまったのでた。
 だれしも、ツルのいないハキだめなんかで仕事をしたくない。ハキだめに吹き寄せられた新聞紙が患者さんだなんて考えられないではないですか。とは言え、はっきり言って、私達の病院は、ハキダメです。
 と言ったからと言って卑下しているのではありません。これは、現実なのですから。そして、そこに、ツルがいるのも事実なのですから。ハキダメのツル! ああなんて心地良い、そして希望に満ちた言葉なのでしょう。ぼくは、その看護婦さんが、それ以来とても好きになりました。そして、なんとなく、ユミちゃんにうしろめたい気持ちも感じたのでした。それ以来ぼくはその看護婦さんとお友達になった気がしていますが、すこしキッとしながらユミちゃんは、それは錯覚だと教えてくれました。これで、患者さんたちは、救われたのです。それでも、その看護婦さんは、私ははいる(入院する)なんてマッピラだと言っていました。その言葉は、多少寒々とした気持ちを抱かせたのですが、その後その看護婦さんは病気になってちゃんと入院したので、それは、たんにテレだったのだと思います。よかったよかった。
 ところで、この病院には、職員の間でコミュニケーションの病気が蔓延しているようです。それを分析するといかに述べるような具合です。このコミュニケーション病は、人間不信の病でなかなか治しがたい。これが、ハキダメの根源だとボクは思うのです。これは、人間が不思議なことに幼児性が抜けないまま社会に出た場合の症状だと思うのですが、それが蔓延するというのはかなり異常な事態だと思います。コドモの病気だからちょっとコドモの言葉で描いてみます。   ボクが経験したことを病棟日記から抜粋してみましょう。

(「病棟日誌より」へ続く)