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envd03-01511281813/第5回公判6 ......

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 そこで、おもむろに立ち上がった私はメモをもったまま被告席にたちました。そう言えば、この被告席、イスがおいてあるのに被告人は座ったら叱られるのです。
しばらく、ボクの地であるところのベランメエ調にならないよう、手をふるわせながら「どうもありがとうございます、このような....機会...でして、エ−...」などと分けのわからない事をつぶやいて感情を整えました。それから、いよいよ始めました。
「では、エ−....裁判長、まず、色についてですが、アズキ色、アウディの特殊な色、白の三色について、一番目立つのはアウディの色、白はノイズまたは無に等しく白イコ−ルいなかったあるいは覚えていないとすれば、証人、警官共に、その証言に矛盾はないと思います。付け加えると証人は4人の男が車にいるとは言っておりません。…」
「つぎに、スピ−ドですが、120km以下であれば、30m追い付くのに200km/時はいらず、「数秒の移動に200km/h必要」は、簡単な算数の間違い。またRS720CR型は180km以上のスピ−ドは測定誤差が大きいと聞いておりますので、検事補の発言はナンセンスであります。さらに、」
「本件は、前妻と協議離婚後の事であり、函館には友人の勧めで言ったわけで、来年2月20日にハワイで2人で挙式の予定でありますから、(ユミちゃんゴメン!)この係争を通じで親密になり、ゴ−ルに向かうことを検事補さんや皆さんに深く感謝します。...さて、」.....このセリフ、皮肉たっぷりに検事席、次に傍聴席を向いて喋ったのですが、ヒルカワさんは苦り切った表情で下を向き、おまわりさんは、アッケにとられた顔でボクを見つめていました。さア、こうなったらボクちゃんのベ−スです。ついでに、
「..検事補は、その求刑において、被告の「被害妄想」や「荒れた生活」など、基本的な人権の侵害とも言える発言を繰り返すが、私の医師、鑑定医の立場から、後天的に申しますと高血圧などからの偏執的な「言語捕捉」の症状がめられ、かかる実務には不適当と思います。(ワシャカンテ−医だゾォこのやろう!)」
「....最後に裁判長、私の主張する点は、結局つまるところ、真実と言える以下の点であります。...」と、ボクは、もとの調子に戻しました。裁判官が何か言いたげな顔をしたからです。こう言ったせいか、裁判官は何か言う替わりに、次の句をうながすようにコクっと一つうなづいて黙って聞いていました。
「一つ。K景観の現場見取り図は、その作成年月日共々間違っていること、
二つ。他の車は絶対にいた。つまり、位置、速度など関係なく複数であったこと、それに、
三つ。点滴等診察行為中の証人に対する無理強い電話と、私に対する虚言「私(検事補)は、天地神明にかけて、あなたが正しいと思いますが、警察官も家族が居ることですし...」は、絶対に許せないこと。
以上です。私は無実であります。公正かつ民意に沿った審理をお願い致します。」
 .........これで、ついに最終弁論も終わったのでした。ボクは少しすっきりしてイスに座り、「もういいかナ」っと、ふと思いました。これで終わったのです。
 さっきも少し言いかけましたが、山口にも五重の塔があったんです。説明の看板によると15世紀中期に建てられたものだそうです。作りは質素で麗美さはないが、しっかりした建物です。五重の塔は、広島の厳島のそれが有名で、移りすんでからも父の客とかの接待で、よく一緒に行ったもんですが、厳島神社の長い回廊と共に、行くたんびに不思議と感激を覚えたものです。何故不思議かと言うと、文学とかそういった、風情の素養ある人なら兎も角、やたら機械が好きで、錆びといったら金属のそれしか知らないような、自転車や自動車の改造と言ったものばかりやる人間だからであります。子供の頃から、手はいつも油臭くて汚れ、ささくれていた記憶があります。そういったボクにも、厳としてその存在感を示すところが、さすが日本三大美景の一つということなのだと思うのです。その際の「あるもの」が、私にとっては、五重の塔といったわけでした。
 これまでの4回は、いづれもザビエル記念聖堂にいったというのもお話ししました。結局それは、神様にお佗びが出来る余裕があったのだと思う。今回は最終回。神様の目を背後に感じつつ、精神の興奮を感じつつ、そして押さえつつ、目の前の課題に取り組む所謂「現場の力」しか残っていない、それです。そんな状態だったと思います。
 病棟にいて、人の死に臨むとき、何度となく神に祈らなければと思ったことか。そのたんびに、それが過ぎ去ってすぐ後、「しまった。頼むのを忘れた。」と気付いたものでした。神を信じてないから忘れるのかとも思いました。しかし、そうではないようですね。神様にすがる余裕がないのです。「現場の力」しか残っていないのです。あるいは、神の手が、前しか見ないようにと、現実の努力をするステップだとガイドしているのかも知れないとも思うのです。考えるときではなく、行なうときなのです。それで良かったのだと今になって思っています。大切な何かを一生懸命に実行しているとき、後悔や反省をする余裕はない。いやそれよりも、患者や、自らの人生の苦難の時に当たっては、あってはならないのではないかとまで思うのです。それが、大きなことから小さなことまでうまく敷衍されているとき、それが、その人の生き方の公式の様な物であるのだと思うようになりました。で、それをうまく作る人と作れない人がある。私は作りたくても作れない人間のようです。それで、こんな裁判をやる羽目になるのです。でも、誰もそうかも知れないですね。それが、生きることだし、自分に真面目であることではないでしょうか。
 などと、ちょっと神妙な気持ちのうちにボキちゃんの裁判も結審を待つばかりとなりました。ルルルルル。ガタタ。新幹線君が走り始めました。次は飛行機か。