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蛭川エンザイ事件その六
----第5回公判(1990年12月17日:最終弁論)
今回は、前回よりやたら緊張する気がします。それは、一言で言うと「自信のなさ」や「不安」という言葉が当たるかも知れません。ミョ−な緊張感です。なんか不全でしっくりいかない感じ、ちょうど最近始めた中古ゲ−ムの哲学そのものなんです。
最近安かったのでマリオブラザ−ズの一員ドクタ−マリオを買ったのです。最初は「幼児用だなァ」な〜んて、馬鹿にしていたのですが、なかなかどうして哲学があるのです。画面に出る広口ビンのなかに、赤・青・黄色の三色のビ−ルス君が入っています。ドクタ−はビンの入り口のところにいて、ビ−ルスを殺す赤青黄色のカプセルをビ−ルスに投げつけます。投げつけたカプセルがビ−ルスと同色でないとビ−ルスは死にませんし、カプセル一つっきりでもダメ。縦あるいは横に3つ、つまりビ−ルスも含めて4ならべにしないと死なないのです。
それも速く要領良くならべないと、またたくまにビンにカプセルがつまってウイルスが勝ってしまい、顕微鏡の下で笑うという趣向なんです。要は「4ならべ」で、やることは単純なのですが、先を読んで(というのはやっつけている間にすでにドクタ−は次の色のカプセルをもって立っているので、一生懸命やっているソバから視覚の隅にある次のカプセルをどこに落とすかを考えなければなりません)、すばやく投薬しなければならないのです。
頭が硬くなったのもあるのでしょうが、もともと性質として、キッチリ確認しないと次のステップに進めない頑固なところがあり、となりでユミちゃんが縦横素早くポンポンと4つならべているのに、ボクときたらキッチリならべようとして、やっと出来たときには、もういらないカプセルが底にだいぶ溜まっていると言った具合なのです。で、つぎにどうするかと言えば、とにかくいらないカプセルは置いといて、ビ−ルスをやっつけて点数を稼げばよいものを(と、ゆみちゃんは馬鹿にするのですが)カプセル同しでも、色を並べれば消えてしまうので、そのまえにカプセルを整理しようとしてしまうのです。
こどもの頃、まずおべんきょうしてから遊ぶというのがありました。この法則はじつにかんたんで、お勉強してから遊べばよいのでした。そうすれば頭がすっきりして具合がよいのでした。中学になり、勉強の中身が3倍になりました。普通は仕方がないので遊ばないか、仕方がないので勉強しないかをとるようです。ところがところが、私は頭がそれほどよくないのに全部しないと気のすまない、いわゆる「完全主義」でしたから、ヒステリ−のようになりました。さらにさらにさらに、大人になってからは、お勉強と遊びに仕事とか、付き合いとか結婚とか、社会生活とか、はては政治経済文化教養と、ズンズン「やること」が増え、その対応に追われるわけです。そしてその一つ一つにやはり順番やステップを考えてキチンとやろうというわけですから、到底出来るはずもなく、その毎日々々が、汗をかいたのに風呂にはいれずに寝てしまうような、そんなスッキリしないチリやアクタみたいなものを背中や頭の中に感じながら生活するようになっていました。その再確認というか自分の生き方をさかさまに表現しているのが、われらがドクタ−マリオの哲学なのです。
こんなことを考えながら新幹線をおりたちました。ま、今日はもう風呂にはいってねようゼイ。
次の日、公判までいつも行くザビエル聖堂にはよらず、急に国宝瑠璃光寺の五十の塔を見たくなり、公園に行きました。その話はあとでしましょう。昼飯をたべて、裁判所に向かい、いつもの食堂で待ちます。われらの弁護士さんがオズオズ入ってきます。弁護士さんは少し小心に見えました。この前少し責めたからなア。あれは、12月も半ばでした。次のような手紙を弁護士さんに送ったのでした。
次の点につきご意見お聞かせください。
一 結局つまるところ真実と言えるもの