Back to Howawan's Homepage to index to Yahoo's Homepage

envd01-01511271005/二.モラトリアム ......

inhalts

envd01-01511271005@

二.モラトリアム
 それを端的にする事件が高校の時にありました。小学生の時は医者の息子と言うことで、地域の名士のおぼっちゃま扱いをされました。家も大きかった。それでも周りの人に親切にされたのは一つに引っ越してきたときにはあか紙をはられ、おばあちゃんが右往左往し、「なんでこんなものがはってあるン」と聞いた覚えがありますし、そのころ、小アジの味醂付けばかり食べていた記憶があるのです。そんな状態が一年ぐらい続いてから、週一回少し離れたラ―メン屋さんにチャ―シュ―メンを食べに行くようになり、こころもお腹もとってもハッピ―になったことを覚えています。それからしばらくして、オバアちゃんが父の妹のところにいき、隣の庭と犬の居る大きな家に引っ越したのでした。犬の一匹はアキと言う秋田犬、もう一匹はアドと言うシェパ―ドでした。このシェパ―ドはやさして大きくてとっても良いおともだちだったと思います。メダルも銅メダルをもっていましたが、我家から連れていった中型日本犬のツルにまったく頭が上がりませんでした。付け加えると、このアドのフルネ―ムはアドロフヒットラ―と言うのでした。まあ、近くの人は、引っ越してきた隣人のこんなかなり大きな変化を知らないわけがありませんから、ぼくら兄弟は思いのほか、特別扱いをしてもらったのだと思います。
このことと高校の事件とは直接関係はありません、が、ぼくのこころの発達には大きく関係しました。小学校の先生もぼくと親友の三人が、漁師町の小さな学校から、県下になだたる有名中学に受験するという学校始まって以来の一大事のために、かなり期待をしてくれて、六年になってからは、先生とぼくら三人が知能テストや特別学習をぼくの家で良くやりました。ぼくら三人はぼくが知能テストでも学習テストでも二番目でした。ぼくは、一番になれない人だ、これがその当時から運命論者だったぼくの抱いた結論めいた心情でした。
 中学はまったくの暗黒時代で、有名中学にはいってから、三百人中百人にはいるには学校に行くだけではダメなんだとわかってからは女の子といかにつきあうかだけが最大の興味になったのです。そのせいかどうか、わたしを大変尊敬してくれる友人が何人かいて、よく遊んだりしたことを記憶しています。その人達はいづれも高校ではまったくつきあわなくなり、彼らは国立一期にすすみます。一番中の良かった友人はなんと一ツ橋を卒業してから東大の医学部に入りなおすという偉業を成し遂げたのです。ぼくもこれからいう友達に高校になってから出会わなければ、中学の友人の尊敬を失わないように少しは勉強してよい大学に入れたかも知れません。ところが現実はカジカワ君にであったのでした。かれは学校の教師の母と、なにをしているかわからない父親の息子で、金持ちが嫌いな性格でした。芸術をこのみヘタは詩や絵画を人に売り付ける奴でした。しかし、とにかくカリスマ性のある、頭の良い人間でした。わたしは他の同級生同様彼の「もちあじ」に惹かれました。他のなかまから「おもえらはホモか」といわれるぐらい始終一緒でした。かれはぼくを尊敬しませんでしたがぼくはかれを大変尊敬していました。こうして、まったく勉強とかけはなれた、しかし、とっても、刺激のある高校生活が保証されてしまったわけです。授業は親切なできる友人のノ―トですごし、とにかく、心理学の本を読み漁り、文学や哲学の本を授業中に読んでいました。そんなとき、知能テストがありました、これで、三年の時の受験の程度が判定されるのです。ぼくは悲しいくらいにできませんでした。精神科の父をもち、小学生の頃から知能テストやティ―エイ―ティ―絵画テストに親しんだ身では、その質問の意味が痛いくらいわかり、失敗すればどう判定されるか考えてしまいます。それに、例のカジカワ君の影響で詩の文章に感化されて、「・・太郎君が・・行きました・・やさいを・・買いに・・八百屋に」をちゃんとならべられなくなってしまったのです。ダメダ、ぼくは心で叫びました。これでちゃんと理解できる。どうすればいいんだ。まわりを見まわすとみんなドンドンやっていっているではありませんか。カジカワ君もスラスラやっています。ボクはバカだ。これがそれ以来の隠れたぼくの恐怖になりました。
小学校は神童で、二十歳過ぎればただの人とは、良くいったもので、自分でも固定観念的にこの概念が染み付いている自分を発見しては、納得してきました。それが、私の強さにも弱さにもなっており、自分自信であり続けること以外に、社会的地位や名誉はすべて自分の埒外においてきました。その分だけいろんな人と医者と言う気分をすてて接してこれました。よく「きみは医者なんて信じられないな」といわれ、そのことを是んじてきました。これが裏返しの誇りだったわけです。有名になれないことが誇りだったわけです。有名になろうとする努力が嫌だったのかも知れません。「ひととして生きること」これがわたしの唯一の許された道だと思うようになりました。ことしで四十になる一年前、それまできづいてきたものをすべて過去に捨て去りました。会社の失敗がそうさせたのですが、それは表向きのことで、これはやはり例のわたしの運命だったと思います。挫折感はありませんでした。表面的に恥ずかしい思いはありました。捨て去った患者さんにすまない気持ちはありました。しかし、いまは、自分自身を感じます。これで良いとも思います。たぶんわたしは長生きするでしょう。親の死目にもあえないでしょう。たぶんこれは運命なのです。
 間違ってもらって困るのは、この実感は惜哀でも、悲哀でもましてや、死期の近づきの悟りでもありません。わたしは、いま長生きするでしょうといいました。これは死にたくない抵抗でもありません。おそらく家系の長男としての運命で、今までの挫折の数々が、それなりの生き方のあかしであり、強化であったような気がします。かといって、痩がまんでも強がりでもありません。私はわたしじしんであること。これが、家系の長男に投げられた運命のサイであるとおもうのです。それによって、正しい道に回帰できるのか、今までのように路傍の医師で終わるのかが決まると思うのです。わたしはこの運命を甘んじて受けようと思うのです。しかし、面倒なものをすべて捨て去り、親を捨て去り、世を捨てて釣りざんまいをしてよいわけではなく、いままでのように、自分の信念にもとづいた行動は取り続けなければなりません。世間の人が誤解する所は此です。自由に生きるとはすべての戒律を無視することではなく、自分の戒律を守ることなのです。こうしてわたしの道は決まったように思います。