めちゃめちゃ陰気やでぇー! 島田洋七(B&B)

漫才の・・といえばやはりこの人をはずすことはできないだろう。大阪の芸人か東京の芸人か判断が難しそうな人であるが、元々師匠は島田洋之介である。つまり島田紳介の兄弟子にあたる。昭和50年代の漫才のイメージといえば、どこか古くさい古典芸能に近いイメージになりつつあった。このままでは若いやつは誰も漫才なんか見なくなるという時に登場したのが島田洋七のB&Bだ。スーツで登場するのがあたり前と思われていた漫才コンビが、自分たちのロゴの入ったトレーナーを着て登場し、よく聞かなければ聞き取れないような早口でまくしたてる。笑ってもらうのではなく、笑わせる漫才、圧倒的なスピード感とギャグの絡み合いは過去の漫才コンビの古くさいタブーなど吹き飛ばしてしまうほどの勢いがあった。空前の漫才ブームを巻き起こした張本人がこの人であり、その話術の巧みさと天才性は盟友のビートたけしも認めるところである。2人の出会いは洋七がまだB&Bとしてブレイクするずいぶん前にさかのぼる。そのきっかけはなんと横山やすし氏の紹介ということだ。もう一人の大天才ビートたけしに出会って刺激を受けたことと、当時東京で人気があったセントルイスよりも自分たちの方が絶対面白いという根拠のもと東京で勝負してみる気になった洋七は洋八とともに吉本興業を辞め、上京。戸崎事務所という弱小プロに所属しながら、めきめきと頭角を現し、始まったばかりだったコンテスト番組「お笑いスター誕生」でもぶっちぎりで勝ち進み、初代グランプリを獲得した。これが空前の漫才ブームと呼ばれる時期のスタートであり、その後彼らはレギュラーを26本もかかえるという超人気コンビになっていく。しかしブームが招いた漫才師のアイドル化によって、客層は本来の芸を求めるスタンスからは遠のいていき、次第にブームも終焉を迎える。早くからこの状況を予想していたたけしは自らのスタンスを漫才からTVのバラエティ番組の企画構成へとシフトさせていく。これによってかつてのドリフターズ以上の人気を得ること成功。一方の洋七は芸とは違った、お好み焼き店などの経営に着手し始め、自らのお笑いのスタンスを見失ってしまう。ブームの終わりとともに仕事を失った洋七は選挙に出馬したり新しい分野へ転身を図ろうとするがことごとく失敗。話術のセンスは決してたけしにひけをとらない洋七も自らを芸人としてプロデュースする能力に欠け、またそういったブレーンにも恵まれず長いトンネルに入ることになった。自らの芸にも自信をなくし、芸人を辞めることも考えたという。しかし、親友のたけしに「芸人をやめるなら友達づきあいもやめる」と宣告され、再び芸の道を志す決意をした洋七は吉本興業に復帰し1997年には解散後俳優になっていた洋八とともにB&Bを復活させた。かつてWヤングがそうであったようにB&Bもまた吉本興業では下からのスタートである。今の彼らにはあの漫才ブームの時のような勢いは望めない、が、洋七の話術のセンスは今でも超一流である。普通に受け答えしていることが漫才になっている特異な芸人さんだ。かつて洋七はお好み焼き屋で10万円の売り上げを上げるのは大変だが、芸人やったら営業に行けば、迎えに来てもらってさらに10万円くらいのギャラはものの10分くらいしゃべればもらえる。そやから芸人が店やるとうまくいかない。と言っていたが、それは並の芸人にはムリである。その実力は、今吉本でトップをいくカウスボタンやオール阪神巨人にも譲ることはないだろう。たけしもその才能を認めるからこそ芸の道に引き留めたのであろう。そして、漫才だけでなく、Mrビーンに影響を受けたというハートマンという映画を越前屋俵太の監督でつくるなど今度は芸の道で新機軸を模索している。

新しい時代のB&Bの漫才をこれから期待したいものである。