Mental Attitude


私たちの誓い

 奴僕の行
   明るい笑顔で奉仕のはげみ
 羂索のおさとし
   まごころこめて助け合い
 磐石の決意
   苦難に耐えれば開ける希望
 燃えさかる火炎
   精進努力に豊かな実り
 ゆるぎなきみ心
   常に冷静 不動の心
 利剣の智慧
   正しい判断さとりのめざめ
 加持力
   いただくご利益みんなと共に

成田山新勝寺「不動尊信者の心構え」より

不動明王真言 梵音


 般若心経

 般若心経 延々繰り返し聞き流し練習用(The Heart Sutra endless) 

 観音菩薩が、深遠な智慧を完成するための実践をされている時、人間の身心を構成している五つの要素がいずれも本質的なものではないと見極めて、すべての苦しみを取り除かれたのである。そして舎利子に向かい、次のように述べた。
 舎利子よ、形あるものは実体がないことと同じであり、実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。従って、形あるものはそのまま実体なきものであり、実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。残りの、心の四つの働きの場合も、まったく同じことなのである。
 舎利子よ、この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない、という性質があるから、もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、増えることもなく、減ることもないのである。従って、実体がないということの中には、形あるものはなく、感覚も念想も意志も知識もないし、眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もないし、形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞれの器官にたいする対象もないし、それを受けとめる、眼識から意識までのあらゆる分野もないのである。さらに、悟りに対する無知もないし、無知がなくなることもない、ということからはじまって、ついには老と死もなく、老と死がなくなることもないことになる。苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。知ることもなければ、得ることもない。かくて、得ることもないのだから、悟りを求めている者は、智慧の完成に住する。
 かくて心には何のさまたげもなく、さまたげがないから恐れがなく、あらゆる誤った考え方から遠く離れているので、永遠に静かな境地に安住しているのである。過去・現在・未来にわたる「正しく目覚めたものたち」は、智慧を完成することによっているので、この上なき悟りを得るのである。従って、次のように知るがよい。
 智慧の完成こそが、偉大な真言であり、悟りのための真言であり、この上なき真言であり、比較するものがない真言なのである。これこそが、あらゆる苦しみを除き、真実そのものであって虚妄ではないのである、と。そこで最後に、智慧の完成の真言を述べよう。
 すなわち次のような真言である。
 往き往きて、彼岸に往き、完全に彼岸に到達した者こそ、悟りそのものである。めでたし。智慧の完成についてのもっとも肝要なものを説ける経典。

 般若心経.現代語訳 般若心経 「超訳」 

 

摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色 受想行識
亦復如是 舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明盡 乃至無老死
亦無老死盡 無苦集滅道
無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罜礙 無罜礙故
無有恐怖 遠離一切顚倒夢想
究竟涅槃 三世諸佛
依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多 是大神咒
是大明咒 是無上咒 是無等等咒
能除一切苦 真實不虚
故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰
羯諦 羯諦 波羅羯諦
波羅僧羯諦 菩提娑婆呵
般若心経


 般若心経とは

 100分de名著 般若心経1/4「最強の262文字」 100分de名著 般若心経2/4「世界は"空"である」 100分de名著 般若心経3/4「"無"が教えるやさしさ」 100分de名著 般若心経4/4「見えない力を信じる」


 光明真言 読経

 光明真言Mantra of light Buddhism 大日如来


 法華経 読経

 観音経 妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五 日蓮宗法華経 お経


 観音経 読経

 普門品偈(妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈)


 華厳経 読経

 『華厳経』読経


 曹洞宗大本山總持寺 朝課


 ブッダの真理の言葉 第1章〜第26章 通読 梅尾泰巌


 このホームページもそろそろ終了したいと思っている。約19年間続けてきたが維持できなくなりつつある。唯々ここまでこられたことに感謝するのみである。


 日本のこくみんよ、現在の自民党の政策が日本国民を豊かにするするものかよく考えられたい。


  2021.11.2【ガソリン価格】🇯🇵7年ぶりの高値急騰❗️日本のガソリン代の半分近くが税金+消費税《二重課税》今こそガソリン減税を‼️【及川幸久−BREAKING−】


  公務員は日本の国民のために法案を作っているのかもう一度考えられたい。


 田坂広志が語る「すべては導かれている ー 逆境を越え、人生を拓く五つの覚悟 ー 」|あすか会議


 絶対の幸福とはいったいどんな幸福なのか、親鸞聖人の言葉から説明する


 人に感動を与えることを常に考えて行動することである。人が喜ぶ姿を見ることによって嬉しくなるからである。


 与えられたこと総てに感謝しながら生きることである。どのようなことであろうとも神から与えられたものと思うこと。


 これほど自分さえよければという価値観が蔓延してしまうと、他の人に対する思いやりなど全くと言っていいほどない。このような状況にしてしておきながら老人となると、見守りをしてほしいと希望する。全く持って身勝手な人たちである。老若男女全てが身勝手な人たちばかりである。日本人が長い年月を掛けて育んできた価値観は捨てさられてしまった。空しいことである。


 この世に生まれ親に捨てられ、養護施設に預けられて大人になる人がいる。親子の愛情もなく成長する人がいる。このような人生を歩まねばならないことは不幸としか言えないように思う。家族というつながりを体験することなく生きること、また一人で生活しなければならないという現実がある。何とも言えない寂しさを感じる。


 人は可能性があるとそれも実現したいと望む。可能性の程度にもよるがそれなりのリスクもある事を予想しない。足ることの大事も忘れてしまう。本当に人は貪欲である。


 今月は予想した通り運ばない。こんな月もあるのだろう。予想はあくまでも予想である。人が思った予想なのだから。


 役所への提出資料は量が多すぎることと、記入する内容が分からない。役所の役人しかわからない表現であるためである。


 嬉しいことが起こる事を想像することである。そうすればよいことばかりがきそうである。


 今日一日の生を与えてくださいましたこと、深く感謝申し上げます。前向きに考えることだ。そうすれば未来が見えてくる。


 ほんのちょっとしたことでよい。人が喜んでくれることを考え行動することだ。喜んでくれそうなことを一つ一つ考える習慣を身につけよう。


 失って始めてその機能の大切さがわかる。ちょっとした事でもできなくなるとそのことが大事となる。自由にできることは本当に有難いことである。そのありがたさを忘れないことである。高齢になれば失う事ばかりである。


 高齢者が住む街となった。一人暮らしの高齢者を見回ることを市が自治会に要請しているが、見回るスタッフも高齢者となっている。見回り活動も高齢者となれば簡単にできる仕事ではない。災害時には見回り活動するスタッフが一人暮らしの高齢者を誘導する役割を担う。しかし、災害時には見回り活動をするスタッフの安全を確保する必要もある。第一に考えることは、自らの安全と健康を守ることが何より重要であることだ。自らの安全と健康を守りながら一人暮らしの高齢者の支援にあたることである。


 運気が上昇することを願う。ある事に執着すると他が見えなくなる。困った状況である。


 人との関りは、始めよさそうに思えても、時間がたつにつれ、自分と合わない部分が明らかとなり近寄りたくなくなる。よく観察してから行動を共にすることである。


 物事は予定通りに進まないことが多い。これが当然なのだと思うようにしよう。イライラすれば益々上手くいかなくなる。


 人は自分にとって不利な状況になると、自分に都合の良いように話を作る。なかなか他人は信用できない。依頼した事に対して返答がない場合は不都合な場合が多いと考えることである。


 北欧諸国では、自分の口で食事ができなくなった高齢者は、徹底的に嚥下訓練が行われるが、それでも難しいときには無理な食事介助や水分補給を行わず、自然な形で看取ることが一般的な考え方であるということだ。 医療費の負担が日本の財政を圧迫するようになれば、日本においても人の死に対する考え方を考え直す時期にきているのではなかろうか。死生観に対する考えを議論する必要があろう。延命措置による平均寿命を伝えるのでなく。


 老人はこれから何のために生きるのかを自問自答する必要があると考える。他の人の手を借りなければ生きられない状態になる前に考える必要があろう。


 老人に対する生き甲斐支援の活動をホームページで見ると、介護サービスを提供する施設の宣伝の一部のようである。生き甲斐サービスもお金を使わなければ得られないという社会となっている。老人に対する生き甲斐のための支援活動は、国や地方公共団体が無償で行うべきである。老人に対する生き甲斐サービスを提供することによって笑いのある生活がもたらされるように思う。金かね金の世の中である。


 夜明け前に目を覚ますと孤独感が心の奥底から湧き上がってくる。近所の老人が亡くなったことを思い出す。一人生活であった。静かに息を引き取ったようである。窓から隣の庭を見るとその老人が雑草を採っている様子が見られた。今でも生きているようで、隣の庭を見てしまう。彼岸花と鶏頭の花が寂しく咲いている。人は静かに去っていく。この街は高齢者が住むところとなった。いずれ去っていくのだろう。


 高齢者の一人暮らしには、認知症の進行によって引き起こされるトラブルや、孤独死などの問題がつきまといます。
 
●認知症の進行
 一人暮らしの高齢者が認知症にかかると、地域の約束事を守れなくなり、近所の住人とトラブルになることが懸念されます。例えば、症状の悪化に伴いごみ出しのルールを守れなくなったり、悪いことと認識できず大声で騒ぎ、騒音の苦情が発生したりすることがあります。最悪の場合、今住んでいる部屋からの退居を余儀なくされたり、犯罪に発展したりするケースもあるため、認知症高齢者を一人きりで生活させるのは問題が大きいといえます。

●孤独死
 高齢者の一人暮らしについて考える上で、孤独死もまた避けられない大きな問題の一つです。
 地域や民間の見守りサービスには、郵便や荷物の配達員が高齢者の家に立ち寄って声掛けしてくれるものや、カメラやセンサーなどを使用して、異常事態が起きた場合に検知してくれるタイプなど、さまざまな種類があります。しかし、こうした見守りサービスも、できることには限度があります。

 上記のことに対する対策はそのほとんどが家族に任されることになります。社会的な対応は表面的なものが多く、根本的な解決策とならない場合が多い。


 長生きする老人は、孤独に耐えなければならない。何れ夫婦の一方が他界すれば、一人で生活することになる。一人生活は、孤独で寂しいものである。それを覚悟しながら長生きを考えることだ。自分以外の人に対する感謝の気持ちを忘れないことだ。ここまで生きられたのは、いろいろな人のお陰であるという気持ちを忘れないことだ。何か長生きできたことを自慢しているような老人が多い。ここまで長生きできたことに対する感謝の気持ちが感じられない老人ばかりである。


 ある一定の年齢になったら自己が生きることばかりを望むのでなく、自分以外の人に対する思いやりの心を抱くようにすることである。今まで生きられたことに対する感謝の気持ちを常に持ち合わせることだ。老人は自分が生きることばかりを考えて行動しているようにしか思えない。静かに生きていくことだ言いたい。


 理性を失った老人は他の人の力を必要とする。本人の意思は尊重するとしても、周りに与える迷惑を考えて何らかの措置が必要となろう。


 自己中心の人間は、調和がとれない集団となる。話し合って解決していくという能力に欠けるということだ。一定の目的のために協力するという言葉がない。人間なのかと思う。馬鹿の集団ということだ。一般にいうところの思考回路を持ち合わせていないということだ。お金しか信じていないのだろう。


 世の為、人の為を報道する記事がなさすぎる。自己の優位性を紹介する記事ばかりである。


 老人が認知症になると隠し事ができなくなる。介護施設にお世話になっていると、お金がどこどこ銀行に預金してあるとか、宝石がどこどこ銀行の貸金庫においてあるとかを施設の人に話してしまう。全く状況判断ができなくなる。これほど困ったことはない。長生き老人は困った存在になりうる。長生きしている意味がない。


 自己の先祖を見守っているお寺に対しては寄付を惜しまないが、今回の土地の件では神社に対する寄付の心があるのかどうか見極めたい。我欲が強い人である。仏様に対する心持と神様に対する心持が同一であるのか見てみたい。


 八正道は、人生に安心を与え、輝いて生きていくための道しるべ

 正見   自分中心の見方や偏った見方をせず、物事を正しく見ること。

 正思   むさぼる心や怒りの心、我を押し通す心を捨て、すべてを正しく、大きな心で考えること。

 正語   うそ、二枚舌、悪口、でまかせな言葉のない正しいものの言い方をすること。

 正行   意味なく動植物の生命を絶つ、盗みを働く、道ならぬ男女の過ちのない正しい行ないをすること。

 正命   人のため、社会のための正しい仕事で得た収入で、衣食住の生活必需品を正しく求めること。

 正精進  「精進」の「精」は「まじり気のないピュアなこと」という意味で、自分がめざす正しい目的や目標に対して、一途に努力しつづけること。

 正念   常に正しい心をもち、正しい方向に心を向けつづけること。

 正定   心をいつも正しくおいて、周囲の変化によってグラグラ動かされないようにすること。

 人はすべて上記のようでありたい。


 今年の仕事も最終目標が見えるようになってきた。唯々学習をし行動するだけだった。完成の時期ばかりを早めることを要求されていた。司法書士は自分の領域の仕事を確保することのみで、他の人との関係を考慮しようとはしない。これが現実の仕事なのだろう。自己の安全のみを考える人たちであった。 世の中悪人がほとんどである。


 人間は愚かである。自分の事しか考えない人が多すぎる。これで世の中が良くなるわけがない。他人のことを思いやる心もない。この様な人たちと過ごしててよいのだろうか。 宮沢賢治のような心はないのだろうか。


 日本の政治家さん、日本の年金生活者の実態を自分のものとして考えなさい。これほど未来がない状態はない。


 「こんにちは」「ありがとう」「おつかれさま」「お世話になります」などの言葉が自然に発せられるように習慣化することです。このような言葉を使わない人たちがいます。どれほど財を成してもこのような言葉を使えない人は人間性に問題があるとしか言えない。


「無財の七施」

1.眼施(げんせ) やさしい眼差(まなざ)しで人に接する

「目は口ほどにものを言う」といいますように、相手の目を見ると、その思いはある程度わかります。相手を思いやる心で見つめると自然にやさしい眼差しとなり、人は安心します。自らの目を通して相手に心が伝わって、相手も自分の気持ちを理解して、お互いが打ち解けることができることでしょう。

2.和顔悦色施(わげんえつじきせ) にこやかな顔で接する

眼施と同様、顔はその人の気持ちを表します。ステキな笑顔、和やかな笑顔を見ると幸せな気持ちになります。そして周りにも笑顔が広がります。人生では腹の立つこともたくさんありますが、暮らしの中ではいつもニコニコ、なごやかで穏やかな笑顔を絶やさぬよう心がけたいものです。また、メールの顔文字も一工夫してみてはいかがでしょうか。

3.言辞施(ごんじせ) やさしい言葉で接する

言葉は人と人との関係を円滑にするコミュニケーションの大事な方法です。私たちは言葉一つで相手を喜ばせたり、逆に悲しませたりする場合があります。相手を思いやるやさしい言葉で接していきましょう。「こんにちは」「ありがとう」「おつかれさま」「お世話になります」など、何事にもあいさつや感謝の言葉がお互いの理解を深める第一歩です。

4.身施(しんせ) 自分の身体でできることを奉仕する

重い荷物を持ってあげる、困っている人を助ける、お年寄りや体の不自由な方をお手伝いするというような身体でできる奉仕です。どんなによいことと思っても、それが実行できなければ意味をなしません。よいことを思いついたら実行し、自ら進んで他のために尽くしましょう。その結果、相手に喜んでいただくと同時に、自己の心も高められるのです。

5.心施(しんせ) 他のために心をくばる

心の持ち方で物事の見方が変わってしまうように、心はとても繊細なもので、自分の心が言葉遣いや態度に映し出されます。自分だけがよければいいというのではなく、心底からともに喜び、ともに悲しむことができ、他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れれば言うことはありません。慈悲の心、思いやりの心から自然とやさしい顔や眼差しにも表れてくることでしょう。

6.床座施(しょうざせ) 席や場所を譲る

「どうぞ」の一言で、電車や会場でお年寄りや身体に障害を持っている方に席を譲ることです。座席だけでなく、全てのものを分かち合い、譲り合う心が大切であるという意味が含まれています。何事も独り占めはいけません。少なくとも電車やバスのシルバーシートは本来の意義に従って利用しましょう。場合によっては自分の地位を譲って後のことを託すという意味も含まれるでしょう。

7.房舎施(ぼうじゃせ) 自分の家を提供する

四国にはお遍路さんをもてなす「お接待」(おせったい)という習慣が残っています。人を家に泊めてあげたり、休息の場を提供することは様々な面で大変なことですが、普段から来客に対してあたたかくおもてなしをしましょう。平素から喜んでお迎えできるように家の整理整頓や掃除も心がけたいものです。また、軒下など風雨をしのぐ所を与えることや、雨の時に相手に傘を差し掛ける思いやりの行為も房舎施の一つといえるでしょう。

 現在お会いしている人で自己中心的に生活をされている人たちに「無財の七施」の言葉を贈りたい。特に、「こんにちは」「ありがとう」「おつかれさま」「お世話になります」などの言葉が自然に発せられるようになってほしい。


 自分の立場からしか考えることのできない人が多すぎる。一般的に視野が狭い人だといわれている。人は色々なことを経験しながら成長するのだと思うのだが、全く変わることがない人がいる。そのような人に会うとがっかりする。人の好意を理解できないタイプの人である。有り難うがいえない人である。


 彼岸がくる。他界した親族に会いに行く。お話がしたい。あの世の話が聞きたい。お花を買って仏壇に供えよう。明るい色の花がいい。元気だった頃の姿が思い出される。


 生き方に不安があるために仏教を学習した。どのように生きるかの教えを学んだが、死の恐怖を克服する教えは説かれていなかった。臨終における心の在り方は何も知ることができなかった。これが仏教である。【第3話】なぜ生きる・生きる意味の答え(仏教)


 人生の最終章となっているが、何かやり残しているようで不安である。それが何になのか認識できていない。ただ、不安ばかりが募る。


 死に欲という言葉を耳にしたことがあるが、老人になり健康を損ねるような状況になると、自分が築いてきた財産を相続人に渡すことを嫌う人がいる。何れお前たちの物になるといいながら、引渡すことをためらう老人が多い。依頼ごとに対する感謝の言葉を発することもない。頼みごとを完成させて引き渡しても、報酬を払うことをためらう人がいる。如何に財産を築こうとも人に対する感謝の気持ちを忘れたら醜い人と映る。死が迫った老人の中には、誰にも渡したくないという死に欲を抱く老人が何と多いことか。醜い人という印象のみが強く残る。人間として最低だと言わざる得ない。財を成しても、その財の使い方いかんでその人の価値が決まる。


 人は高齢になれば現状のままでありたいと望む。老齢になればその意識は強くなる。他の人の協力がなければ生きることができないという現状を認めず、口先だけの感謝の言葉を発する。存在自体に疑問を抱かない老齢者が多すぎる。現状のままでありたいと望んでいる。「生と死」の名言集一覧


 9月になり新しいことが次から次へと起こる。このように変化するときは、予想もしなかったトラブルが発生する。如何に防止のための試みも空しい状態となる。このようなときはどうすれはよいのかと途方にくれる。じっと耐えるしかないのだろう。


 人の評価は現世を他界してからわかる。あの人は人間愛に満ちた人だった。皆が共感できる生き方だった。人に愛された人であった。自分の考える生き方ができた。素晴らしい人であった。納得のできる生き方であった。このような言葉に包まれて現世を逝った人であることが望ましい。財を成したとしても現世においてどのようにお金を使ったかによって評価されると思う。


 心が真っ黒な人がいる。財を成したが金を得るためにはどのような手段も使うという人がいる。財をなすには利他の心など全くないという人がいる。利己主義であり、自身のためにしかない。こんな人がいるのかと思ってしまう。現実の問題として、このような人と話すのも嫌である。しかし、このような人がまとわりついてくる。理不尽でならない。どのように接したらよいのか迷っている。


 昔アイドルであった人が最近ラジオ番組に出演されていた。現在の年齢は50歳半ばだろうと思う。ラジオのトーク番組の話の内容を聴くと全く人間として成長していないように感じられ た。トーク番組の司会を務めていたのは高齢のアナウンサーであったと思うが、元アイドルはこのアナウンサーの質問を無視し、勝手に自分の興味のある話題を話していた。人間として成長していないな、場の空気が読めない人だなと感じられた。大人になっていないように思われた。マスメディアは、元アイドルや元女優をコマーシャルで使っているが、人間として成長していないタレントを起用しているコマーシャルを聴くとがっかりする。他人の痛みがわかる人になってほしいと思う。相手を思う心を磨いてほしいものである。人に対する感謝の心を持ち合わせてほしい。


 一か月に一度の検診のために診療所であるクリニックにいった。朝早くに行ったので老人が多かった。杖を頼りに歩く必要のある老人がきていた。付き添いがきていたが、診療所までは付き添っていない様子であった。付添人は駐車場に自動車を置き買いもをしているようである。診療所にいる男性の老人は90歳くらいだと推測される。背骨が曲がり足がまっすぐにできない。杖を持っているが、杖を頼りに歩くことが困難である。診療所の中で必要となる検査を受けるにしてもほとんど歩くことができない。看護師が介助しないとほとんど歩けない状況であった。このような状況であっても生きたいと思っているようだ。哀れでならない。介助をする親族がきているようであるが全く付き添っていない。他の人の介助を期待しているようだ。本当に醜い生き方である。自分自身の状況を客観的に判断できない状況である。命は大切であるとしても人を頼りにしていきたいのだろうか。


 メディア媒体により知り得る生き方として幼少の頃から興味と関心を抱いていた事柄を一生続けている方が多い。興味と関心が高ければ、どのようなことも乗り越えて素晴らしい境地に至る事ができると記されている。一途な意識がそれぞれの難事を乗り越えることができることを示しているようだ。幼少の頃抱いていた職業につくことができた。しかし、定年後の計画を立てていなかった。そのため定年後の仕事は満足のいくものでない。人生の最終章に至り生きていて良かったといえる生き方ができていない。人生 においてやりたかったことが明確に描けていなかったことが原因であろう。色々な人に喜ばれることは何かを深く思索しなかったためだろう。頼まれた事柄を自分なりに考えて一生懸命することだろう。人が喜んでくれることは何かを常に考えて行動したい。


 この世の中には世の為、人の為にという心構えでコツコツと行動して生きている人がいる。反面、自分の利益のみを最大限にすることのみを目標に行動している人がいる。なんと利己主義で生きている人がほとんどである。自己が生きられているのは他の人のお陰に依っているのだという意識がない。90歳代になった老人でも利他の心が薄く、利己主義の人が多い。世の中の不公平さに対する意識がない。醜いものだ。


 人生100歳まで元気で生きようと考えれば、自分の好きな仕事を自ら起業し経営する覚悟が求められると思う。年代別の働き方として他の人に雇われる働き方では不可能だと考える。50歳を迎えるころから起業することを模索し実現しなければ、生き生きとした100歳を迎えられないと言えよう。自分の好きな事業で客がら喜ばれる仕事でなければ生き甲斐を喪失すると思う。前回記した年代別働き方を考えるとしてもそれは不可能である。つまり一生働ける事業を起業し、それを続けていくしかないと思う。これまでの考え方であるサラリーマンとして定年まで働き、リタイア―するということでは、100歳まで生き甲斐を持って生き生きと生活することはできない。 サラリーマンとしての働き方は、100歳まで生きるための途中の手段であって最終目標ではないということだ。


 定年後いかに生活するかの書籍が注目されているが、定年後の年金以外の収入として月5〜6万円稼げれば資金的には楽であると書かれている本が多い。人はこの程度であれば容易に稼げると思ってしまう。65歳定年時には仕事を選ばなければ出来ると思ってしまう。しかし、70歳となれば高齢者の仕事は簡単ではないということだ。知力、気力、体力も衰えた老人を誰が雇うと思うのかである。老人を雇い入れた場合、身体面で何らかのトラブルが発生する確率が高い。そのことを恐れて事業者は老人を雇おうとはしないはずである。人生100年と考えれば、70歳代、80歳代、90歳代の働き方が異なるし、実現できるものなのだろうか考えてしまう。これが現実ではなかろうか。高齢になれば歩くこともできなくなること、一人で日常生活ができなくなること、一人で病院にも行けなくなることに気が付いていないのだと思う。わが国では、安楽死は法的に認められてもいないし、尊厳死であっても厳格な要件を満たさない限り認められない。終末期の緩衝ケアーを誰でもが受けられるようであれば安楽死、尊厳死を望む人は少なくなると思う。自分の死を受容することはなかなか難しいことである。死の恐怖に耐えられないからである。突然迎える死を受容するための心構えを徐々に身につけていかなければならない。


 仕事選びは、人が喜んでくれる内容で本人が無理なくできる仕事であるべきだ。どれほど努力して達成できたとしても、他の人が喜んでくれる仕事でなければ上手くいかないし続けられない。


 生き甲斐をなくした一人暮らし老人に対する地域の見回り活動は、地域の民生委員や自治会の人のボランティアに依っている。市町村にある保健福祉センターの職員は直接見回り活動をしない。地方自治体の役割は地域住民に貢献することではないのかと思う。単に地域で活動する民生委員や自治会の担当者に見守りを依頼することではないと思われる。生き甲斐をなくした老人は家に引きこもりがちとなる。地域住民のボランティア活動によって一人暮らしの老人に生き甲斐を与えることも、その能力も専門的に身につけてもいないと思われる。生き甲斐をなくした老人はゴミ出しも買い物もいかなくなり、役所に対する諸手続きも停滞する傾向にある。日常生活でのゴミ出しや買い物も地域住民の支援には限界がある。有料のボランティア活動に依存する必要があろう。役所への手続きや病院への送り迎えに対しても有料ボランティアが必要であろう。 あるいは一人暮らしに対する支援団体に資金援助する仕組みが必要と思われる。地域にはアパート経営やビル賃貸をしている富裕層がおり、自身の老後の暮らを心配する必要もない人がおられるが、地域住民に対するボランティア活動を資金的に支援する富裕層がいない。自身のお金を増やすことにしか関心を抱いていない。中国人の街「西川口」の変貌っぷりが凄すぎる【アパート経営】


 人生100年と言われ、長生きすることが当たり前のように言われている。本当に長生きすることが幸せなのだろうか。経済的にも貧しくなり、目も見えなくなり、耳も聞こえなくなる。身体的に足が弱くなり、歩くことも思うようにいかなくなる。気力、知力、体力が弱くなりながらの生活は、本当に幸せといえるのだろうかと考えてしまう。体験して初めてわかる現実である。


 人は今後少しでも改善するという見込みがなくなると生き甲斐を感じなくなるのだろうか。ましてや現状より見通しが悪くなると考えると生きる気力もなくなるものなのだろう。


 物は耐用年数を過ぎると機能しなくなる。諸行無常である。一定の時間がたつと大きな変化となっていることを知る。本当に時間が止まってほしいと思う。


 今まで生きてきた過去を思い出して見ることも大切である。一つ一つのことを思い出し、それぞれの原因を想像してみることが大事である。その時その時の状況に応じて判断した結果を考えてみることである。適切な判断であったかどうかを考えるのでなく、自分がどのような生き方をしたのかを知ることができる。


 食事の量を多くしても空腹感が残る。病気によるものと思われる。治ることのない病は生きる気力を減退させる。本当に健康が一番である。


 いずれ家族が崩壊すると気が付いた。一つの家族が形成され、崩壊していく。崩壊があれば新たな家族が生まれてくる。この繰り返しである。分かっているが苦しいことである。


 人は生まれながらにして別人である。それぞれの心があり分かり合えないことのみである。それぞれの行動をとるのは自然のことである。


 霧で先が見えない。見えそうで見えない苛立たさを感じる。先の状況はわかっているのだが。心が離れていく。寂しいことだ。


 常に可能性を追求し、希望する状態に至らしめることである。生きる源かもしれない。


 人と会い話をすれば、疑問や課題が発生する。調べて考えることによって解決策が浮かぶ。単なる会話でなく、解決すべき課題を発見し、解決策を考えることが生きがいとなる。この連鎖を続けられるように工夫すべきである。


 久しぶりに外に出かけ仕事をした。人に会い相談内容を聴きアドバイスする仕事である。相手の話をよく聞き理解することが解決の糸口をつかむコツである。仕事をすることによって生き甲斐を感じた。高齢になっても仕事の依頼がくるように努力することが大切だと思う。さらに知力と体力の低下を防ぐ必要がある。


 人生の最終章は、迷うことなく自分で決めて一歩一歩進めていくことである。誰の人生でもない、自分自身の人生なのだから。


 平成30年分所得税は、「給与所得控除」「公的年金等控除」「基礎控除」も10万円引き下げられ増税となっている。また「青色申告特別控除」も65万円から55万円に引き下げられ増税となっている。「扶養親族の範囲」「配偶者特別控除」などの控除範囲の要件を引き上げて減税を図っているが、いくら増税となっているのか試算出来ないような改正である。日本の財務省は、色々な部分を少しづつ改正し、簡単に税金の増減計算ができないよにしている。平成30年度の国会における予算委員会での財務省の対応によく似ている。国民から信頼のおける財務省でないことが露呈している。公務員は誰のために働くのかをよく考えるべきである。政治家の為でないはずだ。 社会保険料の増額を操る厚生労働省の役人も財務省の役人と同じである。これほど信頼のおけない政権と役人は総退陣すべきである。


 以前のような感動が得られる充実した一日を過ごしたいものだ。生きていることが素晴らしいといえる時を過ごしたい。


 無事に生きられたことに感謝する。最後の仕事の方向性もようやく見えるようになった。一つ一つ登っていくことだ。それによって達成できるだろう。今日は本格的な雨である。南の方では梅雨入りとのことである。


 今日も一日生きられたことに感謝する。目標は明らかであるが、目標に至る道筋がいまだ明らかでない。探すのみであり、トライアンドエラーを繰り返すのみである。人間的な深みが自然に出るようになりたい。いまだ感謝の念が足りないためだろう。


 人はやらなければならないことを自覚することによって生き甲斐が起きる。一人の人がこの思いを抱けば他の人にも光明がともる。連鎖してどん底から這い上がることができるようになる。


 今年は秋季から冬季にかけての最後の仕事をする時期である。上手くいくことを念じながらひたすら行動するのみである。全ての人に対し感謝しながら歩む。


 命の泉に戻る前までの生き甲斐を明らかにし、その生き甲斐に至る道筋を考え、一歩一歩進むことにしよう。各人が進む独自の歩みである。人生100年の時代を想定し、春夏秋冬の生き方を考えてみることだ。


 値上げする理由として、原材料が値上げされたため、人件費が増加したため、運送費が値上げされたためなど外部要因による値上げが多いです。これほど円高になってきているので、輸入材料は下がるはずですし、値上げ理由とならない部分もあります。人件費の増加はほとんどないでしょう。むしろ減少しているはずです。何かしっくりしないです。


 平成30年4月から変わるお金のこと。色々と変わります。ただし、高齢者に対する負担は増えるばかりです。 家計に与える影響額は計算されていません。影響額を計算することが容易でないからだと思います。

 「4月から変わるお金のこと全部教えて」年金、国保、手当、納豆、牛丼などをまとめました。


 YouTubeの情報内容についての信頼性については各自が確認する必要がある。また、記載されている公開コメントについては、無知の人が多いので参考程度とすべきである。 公開コメントは無責任な意見が多く、表面的な意見ばかりである。事実確認後の意見ではない。


 おひとりの老後で困るのが賃貸・入院・老人ホームの身元保証人問題の現状 公開コメントの一部「近くの公団家賃3〜4万円だけど、外国人ばっかり、此れはもっとおかしい。長年税金を払い続けて来た日本人の老人が、酷い扱いをされている。 」マスメディアは、何故この現実を調べ報道しないのか。 身元保証人の依頼等はインターネットを利用せず、区役所・市役所の高齢者支援課や社会福祉協議会に出向いて相談するとよい。民間が引き受ける身元保証人関係の諸費用は相当高額です。

 おひとりさまの老後で困るのが賃貸・入院・老人ホームの身元保証人問題 定年後65歳以上の高齢者の“引っ越し事情” 賃貸住宅に入りたいが、保証人がいない人のための支援制度(シニアガイド) おひとりさまの老後は「家族不在」欠かせぬ保証人(NIKKEI STYLE) 次の住まいに困ったら、公営住宅を探してみよう(シニアガイド)


 医療、介護、福祉に係る料金が値上げされる。また、給付水準が引き下げられる。日本で優秀な人材が、国家公務員として採用されている。料金値上げと給付水準の引き下げは誰でもできる方法である。これほど優秀な人材が雇用されている公務員が誰でもできる方法しかとれないのであれば何も国家公務員を雇う必要はない。 昨年10月1日にも値上げされた。年金生活者などの弱い世帯に影響の与える項目ばかりである。また、老人は生きる価値がないという考え方が奥底にあるようだ。


 始めがあれば終わりがある。終わりがきたら次の扉を開ける。そして終わりがきたら次の扉に向かう。


 今日一日生きられてことに感謝します。美味しいものを食べられました。お酒も飲むことができました。桜の花が満開です。あとは散るだけです。散る姿も素晴らしいと思います。あっという間に散ります。あとは桜の葉が繁ります。桜のありさまは人生そのものです。パット花が咲くように生まれ、パット花びらが散るように消えます。この繰り返しが人生です。何も人生の目的など考える必要もないのです。この世に生まれ、世の中のことを体験し、この世から消えていくのです。生きたことが素晴らしいのです。何も人生の目的など考える必要はないのです。何十年かをこの世で生き消えていくのです。この事実を体験することが人生です。何も考える必要がないのです。事実を受け入れることです。誰もが経験することです。そんなことと思うのです。事実を素直に受け入れることです。単なる事実を受け入れることです。理由など考える必要もありません。無駄なことです。


 人が仕事をするのは第一義的に食べ物を得るためである。生きるためである。社会に役立つための活動は、この生きるための活動を充足できた状態にならないと行えない。


 日本国民の生活に多大な影響を与える事項が、少数の国家公務員に委ねられているのが現状である。文章書換えという事実があっても、その原因を解明できないという苛立ちさを覚える。自己保身ばかりに頭脳を使う政治家、役人ばかりである。政治家と役人の役割は何であるのかを再確認してほしい。人間はなんと罪深いことをするのか。


 人間は色々な経験をし、いろいろな約束事を構築するが、結果として真実が明らかになることは少ない。人間の知恵とはこんなものである。真実を明らかにすることは愚かなことといえる。これが人間社会である。


 全ての行動は、人に役立つ視点に立って考え行動すべきである。また、行動後は他の人が喜んでくれていることを確認すること。


 人は他の人のために役立つことをすることが生きる目的である。自己のことのために生きることではない。人間よ自覚せよ。


 老人となれば静かに話し合える友人を見つけることが大事である。現世の我欲を捨てた話し合いができる友人を作ることである。何人かの人が集まり行動すれば相互に押し付けあう状態が起こる。それは我欲を捨てた人の集まりではない。死をいただくまでの友人は共に語り合える人でなければならない。ともに導きあえる友でなければならない。


 老人となり一日中人と話をしなくなることは異常な状態だと考える。会話のできる地域社会を構築すべきである。また、相互に会話のできる人となることである。


 意識的、無意識的に関わらず行動したことにより、他人が感動したあるいは感動することを仕事とすべきである。特に意識することなく行動したことによって相手が感動することを本来の仕事とすべきである。相手が感動しないことはすべきでない。


 このページで発信している情報を読んでくれている人がおられるのだろうか。多分いないだろう。でも情報を発信することにする。


 人との関りは慈悲の心で接することである。忘れないことだ。優しさを忘れないように。


 喜びは一瞬、後は悲しみばかり。生きるとはこの一瞬の為なのだろう。耐えて涙し一瞬の喜びを得る。


 出会いがあれば、別れがある。その時間は瞬間である。いづれの時にか消えてゆく。二度と帰らぬ出来事である。

 方丈記・鴨長明 


 生きるために必要なサイズの生活状態を知ることだ。そのサイズの生活を体験すれば色々な可能性がある事を知ることができよう。無駄な生活を知り改善しながら生きることだ。体験の中で豊かな生を作り上げることだ。


 この世に生まれ、生きられたことがよかったといえる生き方をしよう。臨終のときにこの世に生まれ生きられたことが幸せであっといえるようになりたい。


 人に与えた感動が大きければ大きいほど、その大きさに比例して幸せが帰ってくる。幸せを得るためには、感動を与え続けなければならない。感動を与えるためには、エネルギーが必要である。そのエネルギーはどのように確保すべきなのか想像もできないが。


 近所に一人暮らしの老人がいる。朝7時頃になるとゴミ出しのために外に出てくる。朝9時には家の近くで体操をし健康維持の行動をする。区役所の近くまで散歩しかえってくる。昼になると自動車にのってデパートに行き夕方まで過ごしている。体の健康維持のための運動や外出は良いことであるといえる。しかし自身の健康維持のための行動は何のためなのかと考えてしまう。単に生きているから健康維持のための行為をしていとしか思えない。近隣住民のための活動は一切していない。また関心もない。健康維持は何のためにするのか目的もなさそうである。生きているから健康に生きたいということなのだろう。目的もなく、目的を考えることもない生き方もあるということだ。老人の多くがこのような生き方なのだろう。目的志向で生きている人間にとって理解できない生き方である。色々な生き方があるということだ。


 下に掲載したYouTubeの動画は、定年退職後の老齢者の実態を示している。定年退職を迎え高齢者が仕事を探すが仕事はない。これが現実である。高齢者の仕事は「清掃作業」か「夜間警備」くらいしかない。人手不足というが、高齢者には関係ない。高齢者は70歳になると仕事の募集はほとんどない。あっても仕事場所は駅から20分以上離れた所であり、交通手段を確保しないと応募できない。高齢者世帯の生活費は年金だけであり、生活ができる額ではない。貯えは数年でなくなってしまう。厚生労働省は何を基準に年金額を計算しているのかわからない。時間をかけて徐々に年金支給額を減らす方法をとっており、5年もしたら大変な減額であった事が分かるようになる。このような方法を採るために家計の収支予想は不可能である。気が付いた時には大幅な減額であり、生活費を大幅に圧迫し生活できなくなっている。消費税の増税をしたら高齢者は死ぬしかない。これが今後の状況である。政治家と役人は家計に与える影響を隠すことばかりしている。日本の高齢者は貧困に耐えることばかりを強いられる。日本人は現状を変えなければ豊かにはなれない。政治家と役人の意識を変える方法をとらなければならない。このままでは老人は死ぬしかない。家を失う高齢者に対する支援団体であるNPO法人が少なすぎる。 生活実態を正確に捉え情報発信していない。厚生労働省の役人は何もしていない。

 驚愕! 定年後無職がヤバいぞ!! 「定年後無職」急増で、この国の消費は驚くほど停滞する!! なんと現状でも4割が「無職世帯」に??? 定年後の生活 年金13万円 高齢者達の実情 年金だけでは暮らせない 貧困の問題(1) 年金だけでは暮らせない 貧困の問題(2) 定年後65歳以上の高齢者の“引っ越し事情” 【老後破産】老後は2人に1人が生活保護以下?貧困生活を防ぐための必要額と年金生活の赤字を減らす工夫 定年後の生活 高齢者達が陥る 75歳年金受給が招く“悲劇”とは? 家を失う高齢者相次ぐ


 老人が初めて就職に挑戦してみた。募集している職業は、夜間警備、駐車場警備、清掃作業である。募集先に連絡してみたが対応は冷たいものである。体験したことをレポートしてみたい。時給は最低賃金額であり、労働条件は最低である。募集内容として24時間勤務であり実働18時間仮眠時間4時間である。このような条件の仕事を老人はしたいと思うのだろうか。これが現実である。元気な老人であれば仕事ができるはずだと無責任なコメントを書く人が大勢いる。募集している仕事は老人ができるような仕事内容なのかも調べずにコメントを書くひとが多すぎる。世の中無責任な意見が多い。


 人生は才能と運と努力によってほとんどが決定づられる。才能のないものが努力してもなかなか満足の得られる人生は得られない。人生は努力によって人生を変えることができると説くが、なかなかできない。才能と運勢のある人は、努力によって花を咲かせることができる。このことは真実である。若い頃に才能と運勢によって開花した人は、歳をとってもその才能を開花させることができる。何も才能と運勢のない人はいつまでたっても人生を開花させることは不可能である。


 新しい事柄を学習し記憶すると過去の重要な事柄を忘れてしまう。老齢化に伴い忘れることが多くなった。マイナンバーのパスワードは一年間に数回使用するか否かであり、忘れてしまう。マイナンバーは誰のための物なのか疑問である。何か税金を徴収・管理する役人の為にあるように思えてならない。


 生きる目的を喪失した生は空しい。ただ生があるから生きるという事は空しい。老人になるとこのことが頭を支配し始める。


 人間は感動があるから生きられるのである。全く感動がなければ生きる意味がない。 人に感動を与える何かを考えすべきである。


 私はこの世に来た目的がわからない。あの世において約束した現世での役割を見つけていないからである。これでよいのだろうか。それを発見することが生きる目的なのだろう 。


 人は自分以外の人に多くの感動を与えることである。感動する言葉や歌を発することである。人が感動した姿を見、声を聴けばうれしさが湧き上がってくる。人々が感動する言葉や歌を発し続けることが生きる目的のように思われる。


 ラジオ放送を聴き思うことは、もう少し国民のために役に立つ話をする人を番組に出演させるべきである。ラジオに出演している人たちだけが分かる話をして仲間同士が笑っている番組が多すぎる。ラジオ放送を聴いている人々に分かる話をすることが基本ではないのか。番組に出演している仲間がわかる話題ばかりを話しており、番組を聴いているリスナーが理解できる話をしていない。このような番組が公共電波を利用しているとは情けない。このような番組が続けばラジオ番組は衰退するしかない。一人で静かに番組を楽しむことができるのはラジオ放送しかない。色々な視点からの話を聞き新たな発見のできる番組はラジオ放送しかないはずである。


 最後の生を孤独に過ごしたいと考えてる。人里離れた古民家を借り、生活することでこの世に生まれた役割を発見したいと考えている。


 疑問を抱かずに医者の言う事を簡単に信じていませんか?

 【武田邦彦】あなたを騙して「死亡に向かわせる物」を売りつける奴らの正体!※これは異常事態です※


 役人や政治家は、何のために存在するのか、国民が豊かになるためではないのか?

 【武田邦彦】なぜ、あなたのお金は「特定の団体」に奪われるのか…?


 世の中、信じられないことが起きている 。日本人が創り上げてきた価値観が地に落ちたといってよい。世界の好ましくない考え方を取り入れる必要はない。

 <商工中金>融資不正で処分1000人 体質刷新図る 商工中金全店不正 ノルマ重視、改ざん誘発 商工中金 統計も不正 支店担当者、調査せず売上高捏造


 老人が住む住宅街は、いずれ静かな住宅街となろう。跡継ぎが住まない街は、徐々に老人ホームなどに居住し、誰も住まない地域となる。空き地が多くなり、電気の明かりも少なくなるだろう。地方都市の住宅街は、ほとんど人が住まない空き家となろう。寂しいものだ。東京の古い団地と同様になりつつある。


 人生設計は、40歳代から計画することである。常に20年先の姿を描くことである。 リスク管理も十分に織り込むこと。

 定年後に自由になっても全く意味が無い理由と老後破産のリスク 老後破産!普通のサラリーマンだった私は、定年からたった10年で破産した 「貯金0の人がこんなにいるの知っていますか?」貯金ゼロの人は〇〇%!各年代の平均貯蓄額は? 65歳以上の「貧困率が高い国」ランキング 日本は?


 大変疲れた。考える力がなくなっていくようだ。苦しい。希望がなくなることはこれほどまでに苦しいことなのかということである。何のために生きるのかという疑問が徐々に大きくなる。 他人のために奉仕することそれが生きる意味である。忘れてはならない。


 定年退職者の過ごし方の現状  動物の群れは雄1匹と雌と子どもから構成されている。群れにいた雄の子どもは成長するにつれ群れから離れ、はぐれ雄となる。人間も動物であるので男性は退職後一人ぽっちで過ごす人が多い。何か特別の仕事を営んでいれば、はぐれ雄とはならずに生活している。定年退職後の男性は、自治会活動などの地域社会との接点を持っている人以外は静かに家の中にいる人が多い。野良猫に餌を与え、一日中猫に話しかけている老人もいる。定年退職後の数年間は、図書館に行ったり、デパートに行ったり、総合スーパーで過ごしたり、カフェ等に行って過ごしている人が多いが、いづれ一人ぽっちとなり家で過ごす人が多い。特に独居老人は、外の人とのつながりを拒否する人が多い。地域社会において一番の問題が独居老人である。家族との連絡を拒否している人が多く、親族との連絡も取れない。認知症にかかっても見守る人がいない。独居老人は近隣に対して迷惑行為をする人も多くみられる。このような状況の独居老人はどのようにして見守りしたらよいのか悩むところである。地域包括センターが市区村町に開設されているが 、日曜日・祝祭日はお休みである。一番必要とするのは日曜日・祝祭日である。地域包括センターなどは、日曜日・祝祭日も開設する必要があろう。

 「一人ぼっち」で過ごす定年退職者の哀愁、午前中の図書館、カフェ、ジム…


 日本はこれほどまでに労働条件が悪くなっているのか。一度転落すると基に戻れないということである。派遣会社の労働実態。

 ブラックバイト・パート・派遣の実態


 日本政府は、税金、社会保険料の負担を国民に押し付ける政策を続けている。年金受給者にとって年金が増えず、むしろ減額される状況である。年金生活者の生活は益々苦しくなっている。年金受給者は、日本政府の税金、介護保険、国民健康保険政策に対して何も反発しているという報道をあまり聞かない。年金生活者は耐乏生活に耐えろといことなのか。年金受給年齢を引き上げられれば、益々生活が苦しくなるはずである。老齢(70歳)になれば、仕事はほとんどなくなる。老人になれば体力・注意力が一般的に落ち、雇用した老人がケガや病気になる確率が高くなるため、経営者は高齢者を雇用しなくなる。国会議員や役人が想定しているように、人手不足になれば、高齢者を雇用するだろうと考えている。そんなことはありえないのである。本当に安易に考えているとしか思えない。 日本の高齢者の生活実態を調査し、報告してもらいたい。高齢者の本当の実態を報道してもらいたい。役人は国民のために働くことが役割である。


 10月1日から食料品などの値上げがあった。何時も購入する食料品などが10%以上値上がりしている。年金暮らしの老人にとっては、また生活費を切り詰めなければならない。医者にかかる費用を捻出する必要があるからだ。現役で仕事をしているときは、臨時収入もあった。老人になればその臨時収入さえも得られなくなる。増えない年金生活では、臨時支出があるとその月の収支が大幅に狂ってしまう。特に治療費や食費は切り詰めることができない支出である。老人になると将来の希望が全く描けなくなってしまう。これが日本の老人の姿である。


 年寄りの自殺者が多いのはというYouTubeへのコメント記事内容を示す

 年寄りの自殺が多いのは、何故か?私が思うに、税金だ!先ず、「後期高齢者保険」での1割負担は嘘!確かに、各病院や薬局での支払いは、1割負担だが、毎年4月に来る国民健康保険税が高額なんです!年金暮らし「2ヶ月に一回の支給」×1年に6回だが、国民健康保険税を払うと、年金支給額が1年に5回と同じに成る!仮に、1回の年金支給額が、30万円だと、かける6回だが、国民健康保険税を払うと5回分にしか成らない!国民健康保険税を支払わない場合 30万×6回=180万円  国民健康保険税を支払った場合 30万×5回=150万円と成る。大半の人は、働いている時は社会保険で、辞めたり・定年退職をしたりすると、国民健康保険に成るが、その保険料が、馬鹿高い!会社を辞めるまで、1ケ月30万円の給料の人ボーナス抜きでだと、3万×12ヶ月分=36万円の国民健康保険税が来ます。ボーナスが、加算されればそれ以上来ます。毎年、働かなくとも高額の国民健康保険税が来ます!これでは、自殺したくなるのも解ります。むしろ、自殺するのが自然かもしれません。要は、税金に殺されるのが現状!  退職すると国民健康保険料や介護保険料は全額負担となる。現役の時は、労使折半となるので負担額は半分である。現役を引退すると負担額が増える。


 獣医学部の創設に対する状況

 【『大学関係者に獣医学会の特権の保護だと言われてる』】武田邦彦が加計学園問題に絡む日本の教育システムの問題


 金持ちの国シンガポール、このような国になりたいですか?

 【森永卓郎】シンガポールは金持ち優遇で繁栄、こんな国になりたいか?


 日本経済の世界における現実を知ろう

 『少子高齢化が日本経済を救う(後編)@』三橋貴明 AJER2017.5.30(1)


 配偶者のパート収入に対する社会保険の適用は、1か月あたりの決まった賃金が88千円以上であること(賃金の中に賞与、残業代、通勤手当は含めない)、1週間当たりの決まった労働時間が20時間以上であること、雇用期間の見込みが1年以上であること、学生でないこと、従業員数が501人以上の会社または従業員数が500人以下の会社で働いていて、社会保険に加入することについて労使で合意がされていること(平成29年4月から)。

 平成28年10月から厚生年金保険・健康保険の加入対象が広がっています!(社会保険の適用拡大)


 日本の外国人労働者の増加に伴って、日本の治安が悪くなり、国民の自由が制限されるようになる。これからの移民増加に対して国民はこのことを覚悟すべきである。

 【三橋貴明】日本の外国人労働者100万人突破!問題点は過度なグローバリズム 「外国人雇用状況」の届出状況(平成27年10月末現在)【概要版(厚生労働省) 日本の外国人労働者、初の100万人超え 技能実習・留学生が増加


 日本政府の農業政策は売国政策であることを知るべき

 ”三橋貴明” 売国奴安倍晋三!拡散必須の崩壊の足跡のお聞きください。


 長期化は堕落の始まり

 金子勝×室井佑月×大竹まこと「安倍晋三は戦後最悪の…」支持するは恥


 地方公共団体の住民サービスの曜日・時間指定は、住民の視点から規定すべきである

 【武田邦彦】皆さん奴●状態です、、日本人は活躍してはいけない、、頭痛いです


 物事の基準の規定の仕方に対する考え方が疑問である

 【武田邦彦】2020年、時代が激変する!


 日本人は疑問を抱くことなく白人の決めた基準に従ってしまう召使思想を有している。日本人は新しい思想やシステムを構築し、世界に広めていくことができない。武田先生は慎重に日本人の性格を分析され指摘している。

 【武田邦彦】仏教成功の裏側から見えてくる日本人の唯一欠点


 日本の報道機関の世論調査は注意すること

 【武田邦彦】ついつい信じてしまう”世論調査”には注意しろ!!


 温暖化対策は誰のためなのか、公務員の利権のためなのか

 武田邦彦◆冷房温度、正しく設定してますか 


 役人は国民のために働け

 武田邦彦 ○○家が国民のために働くのは当たり前だ


 役人、政治家、公共放送の情報については、慎重に判断することが必要である。騙されないこと。

 【武田邦彦】財務省とNHKのウソを暴く!! 武田邦彦】消費税は役人・政治家のためのお金にしかならない!!※増税賛成の人聴いて下さい


 日本のGDPは横ばいである。人口が減少に転じ、65歳以上の人口が26.7%となっており、労働生産人口は確かに減少している。労働生産人口が減少しているにも関わらず、 GDPが横ばいであることは、労働生産性が高まっていることを示している。一人当たりの生産性が向上していれば、人口が減少していても豊かになれることを示している。日本の対外債権は世界一であり、経済成長率が減少している状況であっても日本の純対外債権は増えているのである。このことは日本人の知恵による努力の賜物によるものである。日本人は今も富を蓄積していることを自覚すべきである。福沢諭吉が「学問のすすめ」で指摘した「教育の必要性」を実践してきたことによるものである。日本国民の教育レベルは高く、国民自らが自発的に学び何が必要かを考え実践していることにより、労働生産性も高く 、純対外債権も増加している。日本の名目GDPの推移 日本のGDPデフレーターの推移 日本の実質GDPの推移 労働力人口の推移-厚生労働省


 政治家、公務員が考えた愚策(一部の会社の利益の為に国民全体が負担している電力買取価格)経済発展ができなくなっている日本国では、国民負担を大きくすれば益々国民の生活は苦しくなる。役人は国民から数年かけて少しづつ徴収する額を増やす施策をとる。国民負担額は初めのうちそれほどでもないが、数年もたつと負担が相当大きくなっている。まさに厚生労働省が考える社会保険料負担政策と社会保険の給付政策に表れている。国民所得が増加する局面では有効な政策ではあるが、デフレ状況では愚策としか思えない。国民は政府に対して判断のできる情報を提供することを要求し続けるべきである。 役人は、国民のために働けということだ。

 【三橋貴明】再エネ固定価格買取制度(fit )の深い闇 年間4兆円もの国民負担の実態!3


 老後年金支給額の減少、老後年金支給開始年齢の引き上げ、介護保険料の値上げ、介護保険料負担額の増額、国民健康保険料の負担増加、医療負担の増額などが行われている状況を考えれば、老後資金を貯めなければと思う。これらの不安に対処するためには消費を減らし蓄える行動をとるはずである。老後資金が不十分な年金生活者は食費を切り詰め、医者にいかず、介護保険サービスを減らす行動を取らざるを得ない。65歳以上の高齢者が人口の26.7%を占めており、これらの高齢者が生活防衛のため消費を減らさざるをえない状況であり、生産年齢者が老後の生活資金を確保するために消費を減らし貯蓄行動をとれば、家計消費支出は減少しGDPが減少することになる。総務省の統計データを見れば、家計消費支出は減少し続けており、国民の生活状況が 悪化していることがGDPデフレータによってわかる。現在の政治家や公務員が実施している政策は、国民を豊かにする政策ではない。国民は本当の姿を判断できる情報を政府機関に要求し続けなければならない。財務省が行おうとしている増税は、国民の生活を豊かにするものでもない。国民の可処分所得を減少させる政策は国民を不幸にさせる。統計からみた我が国の高齢者(65歳以上)−「敬老の日」にちなんで(総務省)− 3.高齢者の就業(総務省)


 未知のことについては不安を感じて出来ないと考える傾向がある。実際に行動してみなければ出来るか出来ないかはわからない。人間は不安を抱くと出来ないと考えるようだ。出来ない根拠が不安からきているようである。出来ない根拠が主観によるものだということを理解しよう。考えを替えて行動すればできるようになるはずだと思う。


 ちょっとしたお手伝いに対して、ありがとうのことばをいただいた時は、心を満足させてくれる何かがある。ありがとうのことばが自然に発せられるようになりたい。また、多くのありがとうが戴けるようになりたい。


 高齢者の実態調査を開始した。調査に対してご協力してくださるお年寄りが多く感謝する次第である。高齢になると日常の買い物が容易にできなくなる不安を抱えている人が多いことに気が付いた。地方の中核都市から離れた町では、日用品を購入できるお店も限られるし、歩いて20分間くらい要する。高齢になれば足の筋肉が弱くなり歩くのも困難となる。また、自動車を運転することも容易でなく、運転をしなくなる。あるコンビニエンスストア―では、注文した商品を配送してくれるサービスもあり、通信販売を利用すれば日用品を宅配してくれるので便利である。食事も宅配を利用すれば困ることはなくなっている。しかし、これらのサービスを利用するためには、身体的に健康であり、十分な老後資金をお持ちの高齢者しか利用できない。高齢者になり認知症を発症したり、老化に伴ない音声が聴きづらくなったり、目が見えなくなったり、足を骨折して歩けなくなったりすると日常生活が非常に困難となる。介護保険によるディサービスなどを利用すれば解決できることなのであるが、その手続きができないお年寄りもおられる。人の助けを極端に嫌う高齢者もおられる。なかなか難しい課題である。どのようにしたらよいのか良いアイデアが浮かばない。考えるしかないのだろう。ブッダ真理のことばを学ぼう。


 「仕事が大変そう」民生委員、「なり手」を確保するため“助っ人”制度


 奨学金を受給しながら大学に行く価値があるのか疑問である。 日本人でビジネスにおいて成功した人をメディア等で知ることができるが、世の為・人の為という他利思考で儲けたお金を提供する人が少なくなったように思う。ITビジネスで何兆円も稼いでいる若者もいるが、儲けたお金を他利の為に使おうとする人がほとんどいない。これでよいのだろうか。

 日本の大学生 奨学金への 過度の依存・月8万円・返済のために 風俗店で働く人も 奨学金破産 ドキュメンタリー 奨学金破産の実態


 少しだけ良い方向に行くのではないかという予感を感じる。少しでも良い方向に行ってほしい。一瞬の光明が現れてきているように思う。


 老齢になっても仕事がしたいものである。一定の時間、労働に奉仕する仕事をすべきである。目標を持つことはすべてにおいて生きるための土台となる。土台を失えば不安定となり建物は倒壊してしまう。人も土台を失えば生きている価値はないものと言える。生きている限り仕事はすべきである。一生涯できる仕事は、相当独創的な仕事のみである。常に考えることだ。高齢者になると仕事がほとんどなくなる。これが現実である。仕事がなくなれば、近い将来のことを考えるようになる。意識に入るのは自己の死についてである。最後の仕事である死をどのように迎えるのかという死に対する受容をどのように形作っていくかということである。死の恐怖をどのようにして克服していくかである。本当に難しい心の修行である。悟りを開くということなのだろうが、それが具体的な実感として理解できない。


 常に役割を探し求めよう。やらなければならない役割を常に考え、見つけて、行動してみることだ。人に役立っているのだという実感が生きる生きがいとなる。視点を変え視野を広げて役割を見つけ出そう。命の泉となろう。


 今までの事象に対して有り難う、感謝します。これから起こる事象に対しても有り難うと感謝を忘れないことです。


 また不安の虫が騒ぎ出した。毎週やるべき仕事がなくなり、自分を見つめる時間が多くなった。お釈迦様が教えてくれた生老病死の四苦が気になりだした。避けることのできない四苦であることを思い出し、不安の虫が一層騒ぎ出したのである。避けることのできない苦は、悟ることによって解放されるとのことである。しかし、一般の人が悟ることなどできるものなのだろうかと、また、疑問と不安が生じる。このまま死ぬまで不安とともに生きなければならないのかと諦めてしまう。夜中になると不安の心が現れる。自由に考える時間が増えたからだろう。自問自答をする時間が増えることが苦痛となる。


 老人になり、やるべき仕事が徐々になくなっていく。生き甲斐の源が喪失しつつある。希望の泉がなくなれば、この世との別れなのだろう。そんな実感を感じるようになった。去るべき時機が来たのだろう。心の準備をしておこう。


 厚生年金の平均月額受給額の年齢層別のまとめ 85歳〜89歳は17万959円で、65歳〜69歳は15万118円2万841円の差額がある。

 厚生年金の受給額、月いくら? 年齢によって、こんなに違った【図表】


 公務員と政治家が有利になるしくみを自由に作ることができるようにすればするほど、国民は不幸になるばかりである。国民は国民が豊かになる政策であるのか否かを厳しく判断のできる情報を提供する情報機関を育てなければならない。公務員と政治家を監視する仕組みがなければ国民は貧乏になるばかりである。

 武田邦彦◆終わらぬ天下り地獄 武田邦彦◆仮想年金で対策しよう


 我が国の統計データも他国と変わらないようだ

 内閣府が2017年5月18日発表した2017年1〜3月期の国内総生産(GDP、季節調整済み)速報値は、物価変動の影響を除いた実質で前期比0.5%増、年率換算で2.2%増だった。個人消費や輸出がけん引し、約11年ぶりに5四半期連続のプラス成長となった。物価の影響を反映し、生活実感に近い名目GDPは前期比0.03%減、年率0.1%減。原油・天然ガスの輸入価格が上昇した影響で5期ぶりにマイナスになった。時事通信の記事として記載されていた。実質GDPが成長すれば豊かになると一般的に説明されているが、名目GDPの方が生活実態を示しているように思われる。なんだか政府が発表する数値は信用できないようである。統計的なマジックを使っているように思われる。他国の統計データと何等変わることはない。政治家や公務員が関与する世界は信頼できなくなっている。


 人生は運まかせ。

 武田邦彦 不運は雨に降られることと同じと考えよう


 他人に貢献することが生きる意味

 武田邦彦 他人に○○することが生きる意味


 洗脳された嘘は正さなければならない。

 【武田邦彦】森林伐採の大ウソをまき散らす正体!野蛮な日本は猛省せよ!


 世界の歴史から物事を考えよう。

 【武田邦彦】シ◎アという国は存在しなかった!?※衝撃※


 認知症介護の苦悩 個人ができる事には限界があります。一人暮らしの高齢者をその地域全体で守るため、自治体や民間業者などが協力することが大切です。

 一人暮らしの高齢者を一人にしない。孤独死対策は周囲の見守る目から。


 一人暮らしの老人に対する社会的な支援は、インターネット、市町村長のホームページ、地方公共団体のチラシ置き場にて知ることができるが、一人暮らしの老人にはその情報が届いていない。一人暮らしの老人は、スマートホンやパソコンなどの電子機器を所持していない人も多く、身体的理由から外出することもできない。地方公共団体の職員は、ホームページに情報を掲載すればその情報が一人暮らしの老人にも届くと思っている。また、一人暮らし老人のところに訪問することもしない。このような現状では、老人にとって必要な情報が伝達されているとも言えない。市区町村の広報誌が新聞の折り込みにて配達されるが、新聞を取っていない老人も多い。老人同士が集まり、自由に意見交換のできる場所を、公共機関の中に設置してほしいものである。土曜・日曜も集まれるコミュニケーションの場を多く設置してほしいものである。施設利用は利用者視点での運営とされたい。 一人暮らしの老人が意見交換のできる場所は、ディサービスを利用していれば介護老人施設となる。介護施設における生活相談員のサポートと管理が重要となる。


 お墓を建てずに遺骨を処分してもよいのか?


 無縁仏になったお墓はどうなる

 無縁仏とは、近親者が全て亡くなるなどして、お墓の管理をする人がいなくなった死者(遺骨)の事である。近親者が存命中でも、経済的事情や引っ越しで遠方になった等の問題で、お墓の管理を拒否した場合には、お寺から無縁仏として扱われる事もある。
 近年はライフスタイルが多様化し、核家族化で親子がバラバラに暮らすというケースが多くなった。宗教を信じない人も増え、墓参りや法要などの行事は「無駄なものだ」と切り捨てられがちである。また少子化により、子供が女性だけという家系も増えており、先祖の家墓を継ぐ者が途絶えるケースもある。いずれにせよ、先祖代々の家墓を守るという価値観が希薄になり、無縁仏となる故人が増えているようである。
 基本的には、
無縁仏になったお墓は、お寺によって撤去される事になる。お寺にお墓を設置する際に支払う永代使用料は、あくまでそこにお墓を置く権利を得るために支払うお金であり、土地を購入しているわけでは ない。そのため、お墓を管理する人がいなくなった場合はその権利が消滅する。残された遺骨は、お寺によって供養・処分される事になり、跡地は別の家庭の新たなお墓として再利用される。


 日本の老人に関する問題は、個人の自助努力で解決できる課題ではない。日本人全体の問題として政府が取り組む課題である。民間のそれぞれの組織が対応することができないほどの大きな問題となっている。


 人は老人となり認知症を発症する可能性が高くなる。認知症となれば介護が必要となる。現在の年金支給額では、受給した年金は生活費で消えてしまう。介護費用を負担することなど不可能となりつつある。介護用品の支払い、介護のためのロボットなどのサービスを受ける必要がある。老人は医療費の負担の増加により病院に行くこともできなくなってきている。日本経済の現状はデフレから脱却できていない状況である。総務省の世帯当たりの消費支出も減少しており、益々高齢者は貧乏になり耐えるしかない。高齢者が国民の26%を占めている状況において、老人世帯の生活が苦しくなっていくことは、消費が減り需要不足となり、景気が悪くなることを示す。この状況が続くようであれば日本の国力は益々弱まり、後進国に成り下がることである。日本全体の問題として全国民が日本の経済成長を促し、国民の可処分所得を向上させるようにしなければならない。労働生産性を高めて日本国民を豊かにしなければ、解決できない。財務省の役人が考える増税では解決できないことに国民は気づかなければならない。資本主義体制では、借金をしてでも国内総生産を増大するしか豊かになれないのである。日本の民間活動を活発にするしか方法がないのである。

 【武田の乱】庶民が金持ちになるのを妨害しているもの #武田邦彦


 老齢介護、一人暮らし老人に対する支援等は、自助努力によって解決することのできない問題である。社会的制度を構築して取り組むことが必要である。国民全体が安心して暮らせる社会を構築することが日本の目標ではないか。


 介護保険制度、地域支援介護活動

 【老いるショック】知っておかなきゃ!介護保険・前編 要介護認定の手続き 2015年10月13日放送 【老いるショック】知っておかなきゃ!介護保険・後編 受けられるサービスは? 2015年10月14日放送 【老いるショック】高齢者が戻ったマチ 廃校を施設に変えた看護師の挑戦 2017年4月4日放送


 介護ロボットの状況

 石川和男「介護ロボット 夢とカネ」 超高齢化社会 介護問題の切り札 [モーニングCROSS]

 家庭でも活躍する最先端介護ロボット〜最新福祉用具展示会から


 戦争したがる理由とは、軍需産業とそれを支える金融が繁栄するためである。

 【武田の乱】意図的にセンソウを起こしているのはこの2つ #武田邦彦


 日本経済の理解のために

 武田邦彦◆36兆も政府が隠してたら……


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 老いることの意味の再考

 老いるということは、ことを始めなくなること、もうこれで終わりだと考え、だんだん心が縮んでくることだといえる。したがって、これから先について考えることもなくなる。このような状況にいたるのは、人との触れ合いが少なくなることと、近所の人との会話が少なくなるからだと思う。特に男性は立ち話がどちらかというと得意ではない。そのため地域における情報が入りにくくなり、地域に対する関心も抱かなくなってしまう。老人になると自分以外のことに関心を持たなくなる。それは日常の生活が若い時のようにできなくなり、上手くできるようにと意識を集中するからであろう。老いることは、本人が思ったように行動できなくなり、目も見えなくなり新聞を読む気力もなくなり、これからの生き甲斐も考えようとしなくなる。そのため自分は何ができるのかを考え、地域活動に参加する勇気を持つことだと思う。この世に生まれてきたのは、他人のために貢献することだと考える。そして常に行動することだと思う。


 認知症を発症した人の行動を見守るための方法、いづれにしてもお金が相当かかります。

 認知症による一人歩きの見守り 効果的な方法は?


 認知症の人が地域で望むサービス

 認知症700万人時代 地域社会はどう向き合うか


 漂流 認知高齢者の実態を知るために

 漂流 認知症高齢者 (1/2) 漂流 認知症高齢者 (2/2) NHKスペシャル “認知症800万人”時代 “助けて”と言えない「孤立する認知症高齢者」


 地域には色々な人が気楽に話せる場所を開設することが大事だと思う。人生における悩み事を気さくに話せアドバイスを頂戴できるような場所が必要である。相談内容は一切秘密事項とし、本人のプライバシーが厳格に保護される相談施設が開設されることが望まれる。


 人の死は、想像したよりも本人の思い通りにはいかないということである。色々な人の手を借りないとあの世には行けないということである。死は自然のことで静かなことであるとある書物に書かれていたが、そうではないことを最近のテレビ報道で知ることができた。死に対する恐怖を回避するために、静かに眠り続ける処置を最後に行っていた。どれほど本人が死に対する恐怖を和らげる努力をしても、深層心理において消すことができないということである。深層心理における恐怖が行動に表れる。死を受容する心ができるまでその心理状態が現れるものだということである。本当に本人が死を受容する心を作るためには相当な時間が必要であり、宗教の力も必要となる。死の恐怖を消し去ることはなかなかできない。


 地域による認知症高齢者の見守り事例 

 認知症高齢者と介護者 共に生きるために


 早死にした人に共通する生活習慣ワースト10!と原因の説明

 早死にした人に共通する生活習慣 前兆 初期症状 怖い病気 知らないと損をする!知ると後悔 知らなきゃヤバい 嘘のような本当 大人の雑学 【武田邦彦】早死にした人に共通する生活習慣ワースト10!


 どのように考えて生きていくとよいのかのヒントを得るために掲載します。

 人生で後悔していること、7割の老人が同じ回答結果に! 後悔しないためには!


 一人暮らしのお年寄りが、認知症になった場合の介護は容易でない。多くの人たちの支援が必要であることは明らかである。地域の支援が求められているが、無償ボランティアによる支援には限界がある。認知症の病状を知れば知るほど、介護をされる親族の方の心は暗くなってしまうだろう。地域住民の一人暮らしのお年寄りの見守りをしなければならない。介護されている親族であってもコミュニケーションをとることが容易でない、ましてや他人である場合どのような接し方をすればよいのかと考えると、気力が萎えてしまう。一つ一つ経験しながら接し方を身につけていこう。


 認知症のお年寄りの方との接し方、コミュニケーションの仕方が記載されているWebページを掲載してみました。ポイントを理解したいと思います。

 認知症高齢者への接し方 症状も和らぐ!認知症患者とのコミュニケーション方法 「否定しない」が大原則。認知症の方との上手なコミュニケーション方法 認知症の人とのコミュニケーションがうまくいく2つのステップ 認知症の人とのコミュニケーションで大事な要素とは


 一人暮らしのお年寄りで認知症の方や耳の聞こえない方をどのようにして見守りしたらよいのか、問題が発生したときどのようにしたらよいのか悩んでしまう。市区町村のあんしんケアーセンターが開設されているが、一人暮らしのお年寄りは、親類縁者との連絡を絶っている人が多く、親族との連絡がとれない。そのため何かことが起きても連絡することもできない。市区町村のあんしんケアーセンターに連絡し、手続きをお願いするしかない。自治会活動の一環として一人暮らしのお年寄りを見回ることをしているが、認知症のお年寄りや耳が聞こえなくなっている老人の中には、電話連絡 先の登録がなく、直接居宅に伺っても留守である事が多い。また、会うことを拒否している老人もいる。これのような状況において一人暮らしの老人の安否確認は容易ではない。認知症のお年寄りに対する対策は困難が伴う。 孤独死は一人暮らしの男性が8割を占めるということである。年齢は必ずしも高齢とは限らない。孤独死の原因の半数以上が病死である。発見されるまでの日数は、4日〜14日(26.8%)、15日〜29日(19.0%)、30日〜89日(23.0%)で、発見されるまで相当の日数がかかっている。腐敗臭がひどくなるケースが多くなる。<認知症>介護相談者、8割が女性 実母巡り娘に負担 武田邦彦 認知症予防に毎日〇〇を使う効果 【武田邦彦】『認知症の正体は◯◯だ!』業界のタブーを大暴露!


 人はいろいろな人のまごころに支えられて生きているのだということを忘れてはならない。いろいろな人の支えに感謝しながら生きることだと思う。人生において困難な境遇におちいり、みじめな生活をしていようが、生を与えてくれたことに感謝しよう。皆現世においてしなければならない仕事がある。その仕事を最後までしなければならない。悔いている時間はない。


 人は命の泉から現世に生まれてきた。この世においてしなければならない天命をするために。そしてその天命を成し遂げたら黄泉の国に戻ることができる。誰もがこの世でしなければならない仕事があるのだということだ。一人暮らしの老人との話のきっかけとして、その老人に対してこの世でしなければならない天命は何なのか、また、その天命を成し遂げたのかを問うてみたい。老人になっても、いま何を考えなければならないか、何をしなければならないのか自問できるようになることだと思う。人は心の底から自問自答し続けることだと思う。今日も生を与えられたから生きるということではなく、今すべきことは何かを考え、真剣に考えて生きることだと思う。人は何のために生きるのかである。


 一人暮らしの老人を勇気づける言葉を考えよう。言葉は言霊といわれている。言葉には霊力があると信じて、生きる喜びを導く「言葉」を見つけようではないか。そうして一人暮らしの老人が生きていて良かったといえるようになる言葉を探してみることだ。人は心の底から発する情熱や行動に共鳴し感動を覚えるではないか。そうした何かを感じる言葉を探し発することたと思う。人は何に感動を覚えるのかじっくりと考えよう。心がワクワクする言葉を探そうではないか。そして行動してみることだ。


 書棚を眺めてみると今後全く利用することのない書籍が目に付く。今まで仕事で必要と思えた書籍ばかりである。仕事に関係する書籍は、その仕事がなくなれば用済みとなる。利用価値のない本は、時間をかけて処分しなければならない。生きる階段のステップに応じて見直し整理することが必要となる。目の前にあったもののほとんどが急に不必要となったのは、生き方のステージが大きく変化したことが原因であると改めて思った。現在のステージにあった生き方「生きていて良かったと言える生き方」を実践する時が来たのだと思う。


 人は皆一人でこの世に生まれ、一人で黄泉の国に行く。これが自然の摂理であると分かっていても、黄泉の国に旅立つとき誰も看取る者がいないのは哀れである。この世での因果を知ることはできないが、誰にも看取られず静かに去っていく一人暮らしの老人が多い。寂しい世の中である。


 一人暮らし老人との接触は、容易にできる人と接触することが困難である場合のいづれかである。接触困難な人は、人嫌いであり、家族との付き合いが途絶えているひとが多い。個人のプライバシーを極端に守り、他の人に知られたくないと考えているひとが多い。一人暮らしのお年寄りの状況を把握する必要があって訪問する。室内の電気が灯っており、電気メータが動いているので部屋にいるのではないかと思い、ドアーのチャイムを鳴らすがドアーを開ける様子も窺えない。人それぞれであり、気持ちを理解することは不可能である。人との接触を好まない老人もいる。このような人とのコミュニケーションは、どのようにしたらよいのか悩むところである。「まごころこめて助け合い」の心構えなのだろうか。


 郵便はがき料金が52円から62円に平成29年6月から10円の値上げとなる。値上げの理由はわからないが、次の情報から海外企業の買収の失敗(<日本郵政>数千億円規模の損失計上へ 豪の会社業績悪化で)や「かんぽの宿」事業の失敗<かんぽの宿 日本郵政、赤字続き>などの経営悪化によるものと思われる。日本における民営化事業は、そのほとんどが失敗しているようだ。何か日本的経営は間違っているようだ。


 家計調査(二人以上の世帯)平成29年2月分速報(総務省)によれば、消費支出は前年同月比マイナス3.8%である。消費支出が減少していることは、可処分所得が減少しているため消費に回すことができないことを表しているといえる。勤労者世帯の収入も前年同月比1.1%の増加である。人手不足といわれている状況においても前年同月比1.1%の増加しかない。消費税を上げやすい景気状況といえるのか疑問である。家計調査(二人以上の世帯)平成29年(2017年)2月分速報(平成29年3月31日公表)総務省統計局 政府や公務員が提供する情報が本当に信頼できるものであるのかどうか判断できる統計データを示すことが必要である。どのような統計データによって上げやすい景気状況なのか示す必要がある。日本政府、財務省にとって上げやすい景気状況といってるに過ぎないのではないのか。増税によって国民がどれほど豊かになるのかの判断情報を提供すべきである。単に財政状況にすり替えることがないようにして欲しいものだ。


 極東アジアの緊張状態を迎えている最中に、消費税の増税の議論を政府や財務省が始めている。国民の生命・財産を守る方策も公開されていないし、議論もされていない。政府や公務員が真剣に国民の生命・財産を守る法律や政策を作り上げることをしていない。消費税の増税議論をする状況なのか考えるべきである。政府や公務員は、国民を豊かにすることが目的である。本筋を忘れないことである。麻生氏「上げやすい景気状況に」消費増税に意欲


 老いるとは

 老いるということは、ことを始めなくなること、もうこれで終わりだと考え、だんだん心が縮んでくることだといえる。したがって、これから先について考えることもなくなる。そうではなくて、未来に花が咲くことを希望する、そのことを考えることはできる。私の考え、私の思いは未来に開くのではないかという願いをもちながら、いま何を考えなければならないかと自問できることだと思う。


 血圧が高くなっている。血管が切れる危険性が高まっているのだろうか。不安である。繰り返して書く。とかく私たちは、「過去に、未来に、そして余所に、他人に」、本物や素晴らしいことがあるというふうに錯覚しがちである。しかし、本当は、「いま」という瞬間、「ここ」という場所、そして「私」というところに、悟りがあり、本物がある。それを常に自覚して生きていく、いまこの瞬間に全神経を集中していくことが真の幸せなのである。


 初めての体験は予想がつかないので心が高まる。ドキドキ、ワクワクすることが生き甲斐の証なのかもしれない。


 人を騙してお金を何億円も集める老人がいるが、どのような話をしながら人に近づき、どのようにしてお金を引き出させるのか想像もつかない。世間にはこのようなことを日常的にすることができる人が結構いるようだ。おひとよしの人は注意してください。


 今日も何もしないうちに時が過ぎた。昨年4月の記録を読み、体調がよくなかったことが記録されていた。昨年4月の段階では、やらなければならない仕事を抱えていた。今年は一変して、納期のある仕事はない。気は楽であるが、緊張感が喪失した。これが生きる事なのかもしれない。


 時々何のために生きているのかと疑問に思う。一日の生が与えられたからそれに従ったまでといえなくもない日が多い。他利のために何かをしなければと思うのだが、具体的なことが浮かばない。一人暮らしの老人の家を訪問し、声掛けをしなければと思うのだが勇気が 湧かない。まごころこめて助け合う心と行動あるのみなのだが。


 電子メールアドレスを所持しているが、自社の為のメールばかりが送信されてくる。自社の宣伝のためのメールばかりである。他利の為のメールがない。相手の都合をうかがうメールがない。受信した方は、メール削除のための無駄な作業があるのみである。送信する側は、そのことを何も考えていない。電子メールが発展しない理由はここにある。一定の時間が経過したら削除されるシステムが必要である。


 何の目的もなく感じたことを綴っている。書きたいという心の状態になったときにワープロを走らせる。心のこもったメッセージを発信することはできないが、他の人がどのように感じたのかを知るきっかけとなればと思う。


 ひと時の旅行、食事会、観劇、気に入った商品の収集など一時の満足の為に人は働き行動する。人生において一瞬の喜びのために人は生きるのだと思う。自己が満足できる一瞬をいかに多く作り出せるかである。


 平日のラジオ放送を聞くことが多くなった。35〜40年前に甘えた声で歌っていた歌手が、現在も出演して当時と同じ雰囲気で歌っている。アナウンサーがその歌声を褒めるとその気になって喜んでいる歌手が多い。結婚して子供が生まれ成人しているような状態の歌手が、若いころの甘えた声て歌っている姿は滑稽である。自分自身の姿を客観的にとらえることができないのだろう。人は人間的に成長するのであり、より客観的に自己をとらえられるようになるものと思うのだが。35年〜45年前にアイドルだった歌手が、当時の雰囲気を持続してラジオに出演している歌手が多くなった。姿をリスナーは知ることができないが、想像するとマッチせず滑稽としか言えない。歌と外形とが不一致となっていよう。


 人はどうにもできない状況になって始めてその人の本来の性格が現れるのだろう。手助けしてもよいと思うのだが、そのほとんどが金銭的な問題であり、助ける気力を消失させてしまう。金銭的な問題になる前の状況であれば改善方法を提示することもできるのだがと思う。


 地震などにより被災した人々が、復興を諦めざるを得ない状況に至ったときの絶望感はいかばかりであるか想像することができない。寿命までじっと耐えなければならないのだろう。静かに自分との対話をするのだろう。今までの生活が天国のようだったと感じることだろう。生きることは静かに過ごすことなのだろう。来世を夢見て生きるのだろう。


 自力で解決できないと分かった時点で、これほど空しいと思ったことはない。少しでも自力で解決できるという可能性があれば生きる勇気も沸く。このまま静かに耐えて、朽ちていくことしかないのだろう。考える勇気もなくなっていく。夜がくるのが恐ろしくなる。別の事を考えよう。空しさを忘れるために。


 極東アジアは、相当な緊張状態(北朝鮮に対する緊張感)であるにも拘わらず、地上波のメディアは、命を守る方法を放送していない。東日本大震災の原発事故の時のように国民が混乱するという理由で真実の情報が放送されなかった。極東アジアの緊張状態がどの程度であり、ミサイルが発射された場合の被害予想と対処の仕方についても何ら報道されていない。全く、原発事故のときのようだ。日本国民を守る施策を国会で審議もされていないし。予防策も検討されていない。


 野菜・肉・魚介類・惣菜の値段は、3年前と比較して2倍になっている。一度値上げすると値段を下げることをしない。これが日本の食料品の販売店である。生鮮食料品は、風水害などの自然災害により収穫ができなくなると値段が上がる。自然災害の状況が改善しても風水害により値上げした値段を維持しようとする。これが我が国の商人である。人々に好かれる商人が少ない。これが人間なのだろう。


 国の施策は国民の生活を安全に豊かにすることであると思う。しかし、ほとんどの施策が国民の為でなく、一部の国民の為となっている。嘘の情報をまき散らしているとしか言えない。


 心静かに生きたいものである。他の人の干渉を受けることなく。自分の道を思索し創っていこう。


 日本人の老後の世界は、希望がなく、我慢の世界である。徐々に真綿で首が絞められていくようだ。どのような状況になろうとも笑顔は忘れないことだ。心からの笑顔ができるようになることだ。寿命まで笑顔で自然体で生きることだ。


 世の中の生き方が、核爆弾を保有する為政者の考え方によって相当の影響を受けていると思うと虚しさを覚える。人間とは愚かなものだ。


 日本の経済政策は上手くいっていない。緊縮財政を採っており、財政拡大政策が採られていない。需要不足の為、縮小均衡に向かっている。年金資金の運用はいずれ失敗する。資金運用のプロである金融機関でさえ、運用結果は1%以下である。公務員がどのように運用しようが金融のプロのような運用結果は期待できない。いずれ元本割れしてしまうだろう。誰も責任を採らない。無責任国家である。


 嘘だらけの日本、何を信じたらよいのかわからない。日本人は貧乏になることばかり選択している。


 今年5月から電力料金が値上げされる。東日本大震災による原発の廃炉に向けた費用を国民に負担させることと、自然エネルギーによる電力供給を維持・発展させるためとのことである。東芝に対する国の援助はない。東京電力も民間企業であるにも関わらず、会社が負うべき損失を国民が負担するしくみを取っている。廃炉の為には50兆円が必要であり、100年間必要とされている。国が資金援助することは、国民の税金で賄うことを示している。東芝の肩を持つわけではないが、アメリカのウエスチングハウス(原子力発電所の開発・制作会社)を日本の会社である東芝が支援した事による。民間の一企業が単独で支援を決定したとは思われない。国の行政機関が何らかの形で関与しているはずである。一方は国・国民の負担し、もう一方は民間企業の責任としている。日本で培われた技術が国外に移転してしまう危険もある。【武田邦彦】国民のお金を搾取する経営者を無一文にせよ『森園学園の80万倍の金額、麻痺してる?』


 日本の家計消費支出は、2014年〜2017年2月まで減少し続けている。このことの意味は国民の生活が貧乏になっていることを示している。食料品などは値上げされており、給料、年金も増えてはいない。そのため世帯の生活は著しく苦しくなっていることを示している。国家の政策は間違っていることを表している。一般のメディアでは国民に分かり易く解説していない。国民が判断できるような情報がきていないということだ。こんな情報国家でよいのか。日本のメディアは、国民が必要とする情報を発信していない。【武田邦彦】豊洲問題でタチの悪い専門家たち  ※重要【武田邦彦】銀行には絶対に預金するな!!


 時間はむなしく過ぎ去っていく。これほど早いとは気づかなかった。やるべきことが沢山あるのに処理する能力が追い付かない。


 時間はかかるが法務省へ提出する書類の書き方について学習することとする。法律に基づく書類の作成は作成要件があるため一つ一つの用語の意味の理解と要件が規定された理由を理解することである。長い時間がかかるだろう。


 現役時代の働き方は、老後のことを考えて仕事をすべきである。現役であるときは、組織に対し全力で尽くしてはならない。老後においても仕事ができるような環境を整備することだ。一生働けるような状況を作っておくことだ。組織の評価を気にすることなく。自己の生き甲斐が持てるような状況を整備しておくことだ。組織は個人に対して何も生き甲斐を与えてはくれない。組織が気に入るような人間となってはならない。


 外国の株価は、最高値に近づいているのに、日本の株価は全く最高値に近づく気配も見られない。日本における株式の売買は、外国人投資家による売買がほとんどであり、日本人にとって有利な取引ではない。また、原油価格も海外での取引では大幅に増減するが、日本では原油価格の変動は少なく、日本にとって有利な価格とはならない。円に対する為替レートもアメリカ合衆国の金利が上がったにも関わらず円高傾向になった。今までの考えとは真逆の傾向を示している。日本人のあるべき行動基準は、自国の国益を考えて行動すべきであるが、そのような行動をしていない。CO2の排出についても日本は地球環境の事を考えて排出量を削減する行動を採るが、外国は日本のように排出量の削減を考えて行動はしない。逆に排出量を多くしてGDPを大きくする行動をとる。日本がCO2の排出量を削減すれば、外国も削減するだろうなどと考える国は全くないということだ。日本では二酸化炭素を削減しない国に対して異議をとなえる活動家もいない。全く聞く耳を持たない国に対して異議を唱えず、日本国内において反対運動をしている。全く馬鹿としか言いようがない。世界にたいして平等に抗議すべきだろう。日本のマスコミも真実を報道する姿勢がない。地球の環境問題 (地球温暖化)について真実を伝えず、嘘ばかり報道している。


 年金支給額は消費者物価の減少により4月から減少する。65歳以上の老齢者が日本の人口の四分の一以上を占める。年金支給が減少すれば消費支出も減少する。65歳以上の老人の家計支出のほとんどが、食料品などの生活費である。消費者物価指数の統計では、生鮮食料品や石油製品の価格を除いて計算されている。生鮮食料品や石油製品の価格は変動が大きいとして統計計算から除外している。老人世帯が支出する生活費は、そのほとんどが生鮮食料品やエネルギー支出である。食料品や加工食品、暖房や調理の為のエネルギーは数年前と比較して2割から5割程値上がりしている。野菜・肉・魚などの価格を2割から3割値上がりしている。調味料・油・小麦粉なども2割から3割ほど価格が上がっている。消費者物価指数に国民の生活に重要な影響を与える生鮮食料品やエネルギー価格を取り入れないのが不思議である。消費者物価指数が、消費者の実感とかい離しているのは、生活に重要な影響を与える生鮮食料品やエネルギー価格を含めていないからである。厚生労働省管轄の介護保険料、国民健康保険料、国民年金保険料、厚生年金保険料等の社会保険料関係の徴収額が増えているため、老齢世帯の生活は苦しくなっている。日本の景気がよくならないのは、可処分所得を徐々に減少させる政策をとっているからである。年金支給額を消費者物価指数と連動させるのであれば、全ての物価を含めた統計指数を計算すべきである。


 人間の欲望というのは、これほどひどいものとは想像もできなかった。自分の欲望を満たすために虎の威を借りて強引に資金を集め、外見的な見栄えのよい建物を作るという方法をとる。社会に貢献するという考えもなく、人をあつめて自己の欲望を満たすという人が多すぎる。これほど情報社会となっているのにもかかわらず、個人のこれまでの実態や経歴が報じられることもない。人は表面的な言葉や外形で判断するということだ。人の内面的な価値観を知ろうともしない。また、現代の社会では人の生き方に対する価値観は少しも進歩していない。地上波としてのTV報道は、表面的な花ばかりを報じ、根や茎に対する真実を報道しない。人としての進歩・発展に貢献する番組が少なくなっている。日本の伝統的な価値観の素晴らしさを知らせることはせず、日本よりも劣る世界の価値観ばかりを報じている。日本人もバカである。世界のどこの国ではこのような考え方と仕組みを採用し成功していると報道されれば、なにも検証することもなく、信じてしまう。数千年にわたる歴史の中で作られた日本人の価値観の良さを理解しようともしない。過去の価値観を破壊しながら作られた世界の歴史観を是とする考え方と日本人が創り上げてきた過去の歴史観を基礎としながら新しい価値観を築き上げるという歴史観とを比較することもしない。


 過ぎ去った仕事に関する資料は整理することだ。捨てることによって、新たな知識が追加されるだろう。常に過去は捨て去ることだ。


 生きるための希望を探そう。ほとんどの人が私を含め生きているから生きると考えてしまう。気持ちの切り替えが必要だと思うが切り替えられない。


 私が住む町内会においてこれほど独居老人が多いとは想像もできなかった。これから独居老人に対する生活状態や健康状態を調査しケアしなければならないのかと思うと気が遠くなってしまう。訪問しても確認が取れない場合が多い。老人となれば、買い物に行くことも億劫となる。一人で生活していれば、話す機会もなくなる。生きる気力も失せてしまうだろう。対応するには神様の助けにすがるしかない。自信を喪失しそうである。生きるよりどころを真剣に考えなくてはならない。


 世の中、これほど不公平なことはない。神はすべてを見ているというが、必ずしもそうとも言えないのではないだろうか。記憶は消えていく。何もかもが消失していくのだろう。無常ということだ。


 毎朝、生きていてよかったといえる生き方をするには、今日何をなすべきかを考え行動することだ。これを繰り返すことと考える。  


 人は未来に向かってなすべき事柄を抱き続けることが大事である。朝目覚めてこれからなすべき何かがないことは寂しいことである。生活の為の日常行動以外のなすべき事柄を常に見つけ、行動に移すことである。そうすればその日は充実したものとなる。


 Webを使って仕事の受注をとる方法が多く採用されているが、発注する際の重要な要素となる料金の目安を明示しないWeb広告が多い。仕事内容によって料金が変わるとしても、一つの工事に対する最低料金と最大料金並びに平均的な料金を目安として示す必要があろう。料金を明示できない業者は、選択業者から外すべきと考える。不親切な業者が多すぎるようだ。


 台所の排水溝が詰まった。業者を頼み排水溝の掃除をしてもらった。工事代金が非常に高いと思った。私が無料税務相談で頂戴する8日分に相当する。一日7時間の相談業務の内容と比較するとあまりにも高すぎる。たった4時間の掃除代金と8日分の労力とが同じであるとはいかがなものかと思った。皆がやりたがらない仕事とはいえ納得できない。このような不合理が現実にある。 仕事に対する価値とは何であるのかと考えさせられた。


 自らやるべき仕事を見つけないと、高齢となれば仕事がなくなってしまう。仕事があるうちが花である。


 今までしていた仕事が今年3月に終了する。毎日の記録帳を眺めると日々の予定表の記録数が大幅に減っている。これが現実なのだろう。次の仕事の予定表を記録するが以前よりも大幅に減ってきている。生きている現実を改めて知ることができた。やるべきことがなくなり寿命となるのだと思う。


 皆それぞれの生き方があり、必死に生きている姿をあらためて意識することができた。一瞬一瞬の喜怒哀楽を噛みしめながら生きているのだと再認識することができた。


 老人にとってコンピュータ社会は苦痛を伴う。若い人にとっては、スマホやパソコン操作は苦痛とは感じないだろう。老人になってもコンピュータ操作を強いられる手続きがある。操作についてアドバイスしてくれる部署があるが、ある程度の操作ができることが前提となっているように感じる。これほどアプリの改良が頻繁になされると、初めて利用するのと変わらない。過去に学習した知識が活用できなくなってしまうからである。コンピュータ社会は、変化に対応できない老人にとって苦痛しか与えない。利便性などないといっても過言ではない。すべての処理の前提がコンピュータであり、家庭にはコンピュータがあり、簡単に操作できるという前提で、物事の事務手続きが構築されている。老人になり、コンピュータ操作ができないという前提での事務処理を考えていないのである。これほど傲慢な社会はないと思う。共に助け合うという人間の心を忘れてはならない。


 いまだ現世にある事は、しなければならない天命をやり終えていないことと考える。それは何かわからないがそれを待つ。


 老齢になると今迄身につけてきた衣服が毎日毎日剥がされていく。本来の自分自身に戻るようだ。今迄に身につけた衣服は、何のためのものだったのかと疑問に思う。自然の姿を知り、本来の生き方とは何かと考えるようになった。


 人は年齢にかかわらずその時その時を真剣に生きるしかない。世間では現在の老人は恵まれているというが、必ずしもそうとも言えない。若い時には意思通り身体を働かせることができたが、年齢とともに思うような行動ができなくなり、役所関係の届もなかなか思うようにできなくなる。役所関係の届出を忘れると役所のサービスも受けられなくなる。常に緊張した生活をしなければならない。他の人に頼むことをすればと簡単に思いがちであるが、老人ばかりが住む住宅街となれば、頼むことは容易ではない。これが現実である。個人主義が進むと、町の共同体意識がなくなり、それぞれが自己を守るための行動を独自にしなければならなくなる。町の共同体意識を高めればと考えるが、個人主義に慣れた人は、老人にとって役立つ講座があることをお知らせしても、私には必要ないと素っ気ない態度をとる人がいる。つまり一度個人主義に慣れてしまうと、共同体意識を作り出すことができなくなってしまう。このような人が他の人の助けを必要とする状況になるまで気が付かないのである。人の親切心を常に受け入れる事のできる広い心を持つことである。人は誰でも何れ死のスイッチがオンになるのである。視点を広げた自分なりの死生観を常に抱くことである。


 自分の弱さを素直に受け入れてみよう。「あせってはいけません。ただ、牛のように、図々しく進んでいくのが大事です。」という言葉をインターネットで知ることができた。私の弱さは、「図々しく進む」ということができない。なぜそうできないのか、その原因を考えてみよう。何かを恐れるもう一人の自分がいるためである。


 現在、近い将来のことを考えると不安が襲ってくる。考えないようにと逃避する心が現れる。勇気の出る言葉を見つけなければと思い探してみた。その時見つけた言葉が次の言葉である。「人生の答えなんて考えたって分かるものじゃない。その時その時をギリギリ一杯生きている奴だけに、その答えは見えてくるんじゃないだろうか」であった。その時その時をギリギリ一杯行動してみることだ。考えずに行動してみよう。


 人生の最終章になってその時その時を精一杯生きてみようと思う。考えれば考える程苦しくなるからである。


 今まで築き上げてきた物が崩れ去ろうとする状況を想像すると息苦しくなる。諸行無常とはいえ崩れ去ることは空しい。これが現実である。Webで記載した言葉も跡かたなく消え去るのみである。書く言葉もなくなった。


 物事が順調に進んでいるときは、体のことを忘れていることが多い。ちょっとした体の変化に対して意識しないことがある。体の変化に対して意識することだ。思わぬ身体的苦痛に襲われることがある。神経性の痛みに対しては注意が必要だ。神経性の痛みは、思考能力を停止 させ、やる気をなくさせる。すべてが停止した状態になる。健康であることが大事である。意志力によって一時的に神経性の痛みを忘れさせることができるが、本質的に解決したことにはならない。


 自己が計画している事柄が他の人の行動に依存している場合、自己が思うように進まないことがある。その場合は、焦るのではなく、じっと待つことである。待てばいずれ解決にむかう。


 人間は神様ではないので不完全である。何が正しくて、何が誤りであるか判断できない。人それぞれの判断で生きるべきである。


 どのような状況に直面しても平静な心でいられる人になりたい。


 他の人がしてくれたことで嬉しかったことは、素直に表現できる人になろう。その人に勇気を与えることができるから。


 「南米の大統領」となったムヒカ大統領の新スピーチ全文(日本語訳)


 リオ会議でもっとも衝撃的なスピーチ:ムヒカ大統領のスピーチ(日本語版)


 親は高齢になると身の回りの世話は子がするのが当たり前だと考える人が多い。できることは自分自身でする心を持つことである。子がしてくれたことに感謝する気持ちを忘れないことである。


 つまらないなと思うことがあるが、そのことに執着せず、楽しいことや嬉しくなることを考えて行動してみることである。


 今日も生きていられたことが、良かったと思えることをしよう。


 ポジティブな生き方が理想のように説くが、人それぞれである。性格的にポジティブになれない人もいる。何も苦痛に思うことはない。本来の性格に従って生きればよい。


 自分が持っている本来の心で生きることだ。人に受け入れてもらおうなどと奢った考え方は捨てるべき。生まれてきたときの心で行動することだ。この世に生まれてきた役割だと思う。


 人生おいては、体調を崩すことがある。病院に入院したり、休みをとらなければならないことがある。公務員や大手の会社に勤めていれば、人事課が健康保険高額療養費の支給申請や健康保険疾病手当金の支給申請などの手続きをしてくれるが、中小企業等に勤めている場合や年金生活者となれば、自分で申請書を入手し申請しないと保険給付を受けられない。健康保険給付については、億劫がらずに調べてみることだ。小舟に乗ると本当に生きることは戦いである。


 欲望に目が眩み行動すべきではない。今まで築いてきたすべての信頼を一瞬にして失うことになるから。


 物事の真実を見極める力を身に着けようではないか。余りにも偏った情報が沢山発信されている。これらの情報を鵜呑みにして行動すると間違ったことをしてしまいそうである。マスメディアは、視聴率を得ようと、芸能人のゴシップやスポーツ情報ばかりを取り上げている。報道機関としての役割を忘れているようだ。


 他の人から信頼されることは嬉しいことである。常に他の人から信頼される人になれるよう行動しよう。


 自分が正しいと思ったことは、実行してみることである。色々な視点から考えれば誤りもあるであろう。その時は素直に他の人の意見を受け入れる寛容さをもとう。


 人に気を遣って生きることはない。色々な性格の人がおり、それに振り回されることもない。相手の性格は変えることもできないし、そのことに執着する必要もない。あるがままに生きることである。


 自分のあるべき姿が描けたら、実現可能な目標を選択し、筋道を立てて行動してみることである。


 どのような状況に遭遇しても平静の心が保たれる人でありたい。人間は感情をなかなか制御できない性質を持っているから。


 常に視点を広くして自分のあるべき姿を描いてみることことだ。向かうべき方向が明らかになるから。


 どのように些細なことでも真心を込めて行うべきである。この差が将来大きな差となって現れるから。


 欲望を満たすことばかりするのではなく、魂が喜ぶことをしよう。


 幸せは求めて得られるものではない。結果として与えられるものである。


 ただ生きているだけで十分に特別なことであり、個性的なのである。才能があるから価値ある人間とはいえない。生きているだけで価値があることを忘れてはならない。


 花のみを追い求めてはならない。花には茎もあり、葉もあり、根もあることを忘れてはならない。


 種をまかなければ、花も咲かないし、実もならない。


 意識を変え行動してみることである。新しい世界が現れるから。


 先人の知恵を取り除いたら何が残るだろうか。ほとんど何もないに等しい。


 死は自分が思ったよりも早く忍び寄ってくる。死を意識しながら生きることである。いずれ命の泉に戻ることを忘れないことである。


 静かな人生を歩める唯一の道は、徳に沿った道である。


 この世に生きていて意味があったと思える生き方をすることが大事。自己の欲望を満たすことばかりでなく、他の人を思いやる生き方をしよう。


 自分の思うようにいかないときは、自分の考え方や前提条件を振り返ってみることにしよう。


 幼少のときにしたいと考えたことをすべきである。それが一番満足できる生き方である。何がしたかったのかをじっくりと考えてみよう。


 常に意識を変え、努力してみることである。努力しなければ、何も変わらない。意識が変われば、見方も変わり、悩みも忘れることができる。


 辛いことが繰り返し起きたとしても、それは魂を高めるための修行であると思うことである。そうして一段ずつ魂を高めることである。


 一生懸命一つの道を歩み、日々の暮らしに満足しているならば、あなたは成功者である。


 消極的になるなかれ、心が迷わせただけであり、何事も変わっていないのだから。自分を外側から見直してほしい。


 生きることに迷ったら、実現できそうな目標を定めることである。実現可能な目標であれば、達成しようとする意欲がわいてくる。どのように小さな目標でもよい。生きる意欲が湧いてくるから。  


 今日も素晴らしい一日でありますようと願いながら過ごす。朝が来て、昼間となり、夕方となって夜をむかえる。自然の流れに身を任せて過ごす。  


 心は弱いものである。挫けそうになることがよくある。そのような時、積極的に生きるのだと唱える。消極的な心を忘れるために。


 今日よりも、明日はもっとよくなろうとする気持ちを抱き続けることである。


 人生とは、目の前に現れた出来事を素早く処理し終わらせ、次の出来事に向かって働き続けることである。何も考えることはない。


 物事は、できるところまで一生懸命努力しなければならないが、後は天命にゆだねることである。結果がどうであれ神様の判断である。それに従うことである。


 どのような逆境に遭おうとも狭い心を持つなかれ、広い心で対処すべし。


 有能な人の助言を得たいならば、それ相当の対価を支払うべき。このことを忘れて自己の欲望を満たすことばかり考えてはならない。  


 自分に役立つ情報を得たいならば、それ相当の対価を支払う覚悟が必要である。ただで得た情報は四則演算してもゼロであることは真実である。


 あまり多くのことを望まず、与えられた身の丈にあった生き方をすることである。そうすれば、苦しむこともないし、悩むこともない。心の安らぎを得ることができる。


 今日与えられた命を精一杯生きることである。今日しなければならないことを一つ一つ達成することである。


 老齢にともない社会的存在が一つ一つ薄れるが、天寿まで一つ一つ与えられた役割を粘り強く達成していくことである。


 すべてのことを分りやすく教えることが教えではない。自分で調べる必要性と方向性を導いてあげることである。


 真実を見極める眼力を養うべきである。生涯の友となる人を探し求めることが大切である。そうすれば心安らかな日々が得られるであろう。


 幸福とは望んで得られるものではない。望むべきものでもない。それは結果として与えられるものだ。

ビクトール・エミール・フランクル  


 生きるためには、目標を立てて粘り強くよく努力することが大事である。


 孤独を我が友とすること。


 迷ったら、遠くにあるぼんやりしたことを見るのではなく、目の前にはっきり見えるものを実行に移すことである。


 あなたに起こるすべての出来事はあなたの先生である。その秘訣は、自分自身の人生の足もとにひざまずき、教えを受けることを覚えることである。起こることはすべて、教えであるうえに恵みでもあるか、恵みであるうえに教えでもあるかのどちらかである。 


 障害は阻むものではなく、導くものであると考えること。 


 人生に、あるべき形などない。人生はあるがままである。関わり方によって、それは変っていく。 


 物事を変化させるには、まず自分の内に変化を起こさなければならない。


 他人に押しつけられた「すべき」ことではなく、自分がしたいと「感じる」ことをしよう。


 誰もが独りでいるよりも、いつも他の人に囲まれていたいと考え、時間と労力を注ぐ。しかし、「独りになること」によってのみ、自分の内なる声を察知することができるのである。沈黙し、完全なる平静さを保つことが、内なる導きの声を活性化する最善策なのである。


 人はそれぞれ目的が異なるし、条件も異なる。それぞれの内なる声に従って生きるべし。


 自分にとって満足のできる仕事を見つけられれば、あなたは二度とこれまでのように働かなくてもよいようになる。


 生き方は人それぞれである。他の人の生き方は参考にする程度と思い自分自身の生き方をすべきである。人の一生はこの世に生を得、生き死んでいく定めである。マクロ的に思考すれば生老病死である。しかし、ミクロ的に考えれば、それぞれの生老病死がある。一人一人の全く別の生き方である。何がよくて何が悪いのかという世界とはことなった世界である。すべてが素晴らしいという世界である。


 人間の心によって創り出されたあらゆる条件づけは、ひっくり返したり、再構築したりすることができると気づかなければならない。


 自己評価することで、自分の限界を知り、自分だけの潜在的な力を発見することができる。


 人間は皆、自分自身の努力によってより進歩することを学ばなければならない。そうしなければ、進歩する能力を失うということ。


 すべての偉大な達成は、小さな達成の積み重ねの結実である。


 情熱のないところに、偉大なものの達成はない。


 自分のやっていることに精魂を込めていれば、自分の欲望に惑わされることはない。


 あらゆる障害物を、成功のために払わなくてはならない代償と考えよう。自分を弱らせるためでなく、強くするために利用しよう。


 人間としての威厳を忘れないようにしよう。どんなことでも耐えうるということを忘れないようにしよう。耐えうることは、人間の偉大な力である。これによって、真の威厳が授かる。


 ものを引き寄せる力はあなたの中にあり、あなたはずっとその力を持っていることを自覚しなければならない。


 成功の鍵となる要因は、真の信頼であり、真の成功は自分自身を信じることから始まる。


 物事を先送りにする習慣は、人々の目標達成にとって阻害となる最大の要因の一つである。


 自分が欲しい役を演じるチャンスは一度しかない。


 何もしないよりは、遅くともしたほうがいい。


 もっている者はさらに与えられるだろう。もたない者は、もっているものすら取り上げられるだろう。

聖書


 成功とはただ一つ、自分独自の生き方ができることである。

クリストファー・モーリー


 ひたすら智恵を磨くべし

 俗悪な人間は、社会的に何らかの貢献をしようなどとは思わず、自分の欲望を最大限に満たすことばかりを考えて、先輩を頼って利用し、後輩を踏みつけてのし上がっていく。ところが、すぐれた人物は、ひたすら知恵を磨き、ただ一人人間をひたむきに歩む。

釈尊


 人生の一切の苦は、すべて自分が、”したこと” ”すること”から生じる。”これだけのことをしたんだ”というような誇らしげな自意識がなくなってしまえば、いかなる苦も生じることはない。

釈尊


 私はいつも、一つの考えが思い浮かぶと、それを自分の目前に止めておいて、ちょっとの間もこれを見失わないように努めます。そうすると、次第にそのことがおぼろ気ながらにわかってくるものです。そこでやめないで根気よく続けていると、おぼろな姿がすこしずつ明らかになり、ついにはハッキリした形をとって現れきます。私が真理を発見したというのは、たいていはこうした忍耐の結果に他なりません。

アイザック・ニュートン


 運の成る木は、ほこりをかぶって見つかりにくいかもしれない。だが、探そうと決心したとき、きっとあなたにその位置を知らせるだろう。自分を信頼する光となって。


 あなたが何を目指そうともたとえ社会から認められなくても、一生懸命一つの道を歩み、日々の暮らしを満足しているならあなたは成功者である。


 足ることを忘れると成功は遠くなる。


 自分の状況が変らなくともあきらめないで進む人を冒険者という。


 望みを成功にみちびくために

 一つが成功すると、次々と成功への道が開かれてゆきます。あなたが望んだものが近づいてくるスピードも、望んだものにあなたが近づいてゆくスピードもどんどん速まって行くでしょう。成功を重ねてゆくと、さらに大きな成功がやってきます。ある人が生き生きとした人生を生き始めると、ますます多くのものがその人に向かってやってきます。そして、あなたの欲求が与える影響は何倍にも大きくなってゆきます。より大きな生命を発揮してゆきたいという欲求は、すべてのものに生まれながらに備わっているからです。毎日、その日にできることはすべてやりましょう。そして、すべてを効率的に行ってください。

 どんなに小さな、あたり前のことであっても、行動するときはビジョンを持ち続けることです。細かいところまでいつもきちんとみるべきといっているわけではありません。暇な時間があるときに、あなたのビジョンの細かいところまで想像力を働かせて、頭の中にしっかりと刻みつけてください。

 なるべく早く結果を得たいのであれば、自由時間はすべてこの作業に使ってください。いつもこの作業をやっていれば、欲しいもののイメージを頭の中にしっかりと焼きつけることができるようになります。仕事をしている時間は、そのイメージを呼び起こすだけで、決意と信念を新たにし、最善の努力ができるようになるでしょう。自由な時間があるときは、いつもそのイメージについて考え、いつもすぐ全体を思い浮かべられるようにしておくのです。そのイメージが約束する明るい未来に心が躍って、それを思い浮かべるだけで、体全体にエネルギーが充満し、とても元気になるでしょう。


 強いオーラを発しましょう

 あなたが接するすべての人に、上司も同僚も職場以外の人々が、あなたの発している強いオーラを感じるほどに、決意と確信を持ち続けることです。あなたがそれほどの決意と確信をもてば、あなたに接する人々もその影響を受け、自分自身もまた前向きになり繁栄するという感覚を得ることができるでしょう。すると、いろいろな人があなたにひきつけられてくるでしょう。そして、あなたがいまいる仕事にはこれ以上の可能性がなければ、やがて、別の仕事に移る機会がやってきます。


 自己向上に向けて仕事をしましょう

 毎日、自分にできるすべての仕事をやりとげましょう。どんな仕事も、自分の描いた目標にむけて完全にやりとげましょう。一つひとつの仕事に豊かになろうという決意とパワーをこめましょう。しかし、これは経営者のごきげんをとるためではありません。上司があなたの仕事ぶりに感心して、出世させてくれるのではないかと期待しても、彼らがそうすることはほとんどあり得ません。つまり、よく働き、自分のポジションで満足しているような、単なる善良な労働者であれば、雇い主には価値があります。しかし、彼らはそういう労働者を昇進させる気はありません。いまいるポジションに置いておく方が価値があるからです。
 雇い主をよろこばせようとして、自分の仕事以上のことをしてはいけません。それは自分を向上させるためにすることです。勤務中も、仕事が終わってからも、仕事を始める前も、もっと成長するのだという決意と確信を持ち続けることです。


 話し方に注意しよう

 自分の話すことに注意しましょう。自分自身のことや、自分の抱えている問題、その他何を話すときも、否定的で、やる気をなくさせるような話方はしないようにしましょう。失敗の可能性について触れたり、失敗をうかがわせるような話し方はしないことです。あなたに確信があれば、失敗だと見えたものは、ただそう見えただけだとわかるでしょう。いつも積極的な気持ちを持つことです。確信を持ち続け、決意を保ち、感謝の気持ちを持って、毎日、その日にできることはその日のうちにやり終えるならば、失敗とみえたものは、実によい結果をも たらしてくれます。


 本当にしたい仕事につくために

 仕事を変えるか、変えないかは別として、今している仕事を一生懸命にすることです。今まで積上げてきた仕事をこれからも日々確実な方法で行い、今の仕事を建設的に利用することによって、あなたは本当にしたい仕事につくことができます。そして、あなたの仕事が、電話やメールなどで、または直接に人とかかわるものであれば、相手の心に繁栄の感覚を伝えることがとても大切なことです。
 繁栄とはすべての人が求めているものです。それは人間の中にある無形の知の完全に表現されたいという強い欲求の現れです。繁栄したいという願望は自然界のすべてのものの中に存在しています。それは宇宙の本質的な衝動です。人間のあらゆる活動の根底には繁栄したいという願望があります。人々はもっと食べ物が欲しい、もっと衣類が欲しい、もっといい家が欲しい、もっとぜいたくがしたい、もっと美しくなりたい、もっと知りたい、もっとたのしみたいなどと、より豊かになること、より活力を高めるものを望んでいます。あらゆる生き物は持続的な繁栄を続ける必要があります。繁栄がとまってしまうと、すぐに衰退し、死んでしまいます。人間は本能的にこのことを知っているため、永遠に多くを求め続けているのです。
 「豊かになりたい」という願望は自然なもので、邪悪のものでも、非難されるべきものでもありません。それはただ単にもっと豊かな生活がしたいという願望に過ぎません。その願望は最も根源的な本能であるために、人々はより豊かな生活手段を与えてくれる人に魅力を感じるのです。


 自分のやりたいと思うことをするのが人生です

 自分のやりたいと思うことをするのが人生です。気の進まないことばかりをさせられて、やりたいことができなければ、心からの喜びを感じることはできません。それに、自分のやりたいことなら、必ずできるはずです。やりたいと思う気持ちがあるということは、あなたの中にそれをやりとげる力があるという証拠です。やりたいという気持ちこそ、持てる力のあらわれです。
 音楽を演奏したいという欲求は、表現と発展を求めている力のしるしです。機械を発明したいという思いもまた、開発され、表現されたがっている力のあらわれです。もし、あなたの中にパワーがなければ、それをしたいという欲求は生まれません。もし何かしたいという強い欲求があれば、それはあなたの中に、それをしたいという強い力があり、正しい方法でのばされ、活用される必要があるというしるしなのです。特にこれといったものがなければ、得意分野の才能を生かせる仕事をえらぶのが最適です。しかし、何かをどうしてもやりたいという願望がつよければ、その仕事を究極の目的とするとよいでしょう。
 あなたがやりたいことはきっとあります。自分に一番あっていて、一番楽しい仕事や職業を選ぶのは、あなたの当然の権利であり、特権でもあります。好きでない仕事をする義務はありません。やりたい仕事につながる手段としてであれば別ですが、やりたくない仕事をずっとやっていてはいけません。もし、過去のまちがいの結果として、あなたが望まない仕事や環境に身を置いている場合は、当面は、今の仕事を続けなければなりません。そして、今の仕事は本当に自分のやりたいことを可能にする手段だとわかれば、楽しく働けるようになるでしょう。
 たとえ、今の仕事は自分に合っていないと思ったとしても、別の仕事をあわててさがそうとしてはいけません。職場や環境を変える最良の方法は、あなたがその場所で成長することです。目の前にチャンスがやってきて、慎重に考えた上で、それが確かにチャンスだと感じた時には、突然で急激な変化を恐れてはなりません。しかし、そうしない方がいいと疑いを感じたら、急激な行動をとってはいけません。あなたが創造的な力を働かせるときは、急ぐ必要はありません。チャンスはいくらでもめぐってくるからです。
 不安と優柔不断の気持にゆれた時こそ、感謝の気持ちを育てましょう。あやまちが起きるのは、あせったり、恐れたり、疑ったり、「正しい目的」を恐れたりするときです。正しい目的とは、すべての人に豊かな人生を与え、誰からも奪われないということです。


 欲望は否定すべきものにあらず、生命の本源的な目的を達成するエネルギーである

 人間の欲望は生まれた時から死ぬときまで消えることがない。人間の欲望は生命の目的であり、自己を進歩向上させ、完全となるために本源的に与えられたものである。この本源的に与えられた生命の目的を否定することは誰もできない。この宇宙から与えられた自己向上と完全となる欲望は宇宙本体そのものの願いでもある。自己向上と完全となる欲望を、他のものを犠牲にして達成しようとする競争ではなく、人間に与えられた創造力を使って叶えていくことが本来の姿である。欲望は悪であると否定することもない。欲望を達成する方法を本源的に与えられた創造力を使って達成することを望んでいるからである。自己が完全となることによって、世のため人のために役立つのである。 つまり、誰もが完全となる可能性を持っており、究極の目的である完全性を持ちえれば、誰もが豊かになりえるからである。


 不安な心を持つと豊かにはなれません

 人は過去のことを思い、ああすればよかった、こうすればよかった、と後悔し不安になることがあります。また、将来のことを考え、このようになってしまうのではないかと予想し不安になることがあります。過去のことはどうすることもできません。また、未来は向こうからやってくるもので、いま行動することはできません。未来のことは、向こうからやってきた時点で行動をおこせば間に合います。沢庵禅師の教えにあるように、不安ばかりを考える妄心を捨て、柔軟に物事を考える本心を持つことです。心を過去や未来からときはなして、今日一日を精一杯生きることです。今しなければならないことをすべて行い、明日のことは明日になって行えばよいのです。過去、未来に心を移し不安になることは時間の浪費であり、豊かな心を持つことができなくなります。今日の小さな成功に感謝し、毎日小さな成功を積み重ねていけば、心に描いた目標を達成することもできます。いつも積極的な心を保つようにすれば、不安はなくなります。


 世のため、人のためにできうる最善のことは、あなた自身が生まれながらに持っている能力を最大限に生かすことです。貧しい人を助けたいと思うならは、まずあなたが豊かになって、彼らも豊かになれるのだということを示すことです。


 誰でももっと豊かに、もっと幸せになる権利があります

 すべての命の目的とは進歩することです。生きているものはみな可能な限り成長する権利があります。それは誰にも譲ることのできない権利です。人間にとって生きる権利とは、心と魂と体を十分に開花させるために必要なものすべてを、自由に無制限に使うことのできる権利のことです。言い換えれば私たちにはお金持ちになる権利があるのです。お金持ちであるということは、少ないもので満足することではありません。もっと多くのものを手に入れて楽しむことができる時に、少しのもので満足してはなりません。万物の目的は成長し開花することです。人は誰でも生命の力や気品、美しさや人生の豊かさを得るために役立つものすべてを、持つべきなのです。
 人は誰でも自分の能力の許す限り、自分のなりたいものになる権利があります。この内なる可能性を実現したいという願望は、人が生まれた時から持っているものなのです。人生における成功とは、自分がなりたいものになるということです。なりたいものになるためには、様々なものが必要です。そして、十分なお金がなければ必要なものを自由に買うことができません。お金持ちになりたいと思うことは決して悪いことではありません。お金持ちになりたいと望むことは、人生をより豊かに、より充実し、より実りのある人生にしたいと願うことであり、それは称賛されるべきことです。もっと豊かになりたいという願望がない人はあまりいません。自分が欲しいものを買うための十分なお金を欲しいと思わない人は、まだ自分の可能性を十分に生かしていないのかもしれません。


 自然とは行者のはからいにあらず

 自然とういは、自はおのずからという、行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。然というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。
 法爾というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。法爾は、このおんちかいなりけるゆえに、すべての行者のはからいのなきをもて、この法のとくゆえにしからしむというなり。すべて、人のはじめてはかなわざるなり。このゆえに他力には、義なきを義とす、としるべしとなり。
 自然というは、もとよりしからしむということばなり。彌陀の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿彌陀佛とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞときゝて候。

親鸞


 自分の命の中に与えられた、力の法則というものを、正しく理解して人生に活きる人は、限りない強さと、喜びと、沈着と、平和とを、作ろうと思わなくてもできあがるようになっている。


 本心と妄心 と申す事の候。本心と申すは一所に留まらず、全身全体に延びひろごりたる心にて候。妄心は何ぞ思ひつめて一所に固り候心にて、本心が一所に固り集りて、妄心と申すものに成り申し候。本心は失せ候と、所々に用が欠ける程に、失はぬ様にするが専一なり。たとえば本心は水の如く一所に留らず。妄心は氷の如くにて、氷にては手も頭も洗はれ不申候。氷を解かして水と為し、何所へも流れるやうにして、手足をも何をも洗ふべし。心一所に固り一事に留り候へば、氷固りて自由に使はれ申さず、氷にて手足の洗はれぬ如くにて候。心を溶かして総身へ水の延びるやうに用ゐ、其所に遣りたきまゝに遣りて使ひ候。是を本心と申し候。

沢庵


 ただ生きていられる生きているという惰性的な生き方ばかりして生きていると、思いもよらない大きな病を身に引き受けたり、しなくてもよい苦しみを、自分の生命に与えてしまうのである。人間の生命は、どんな嵐がいつなんどき吹いてこないともかぎらないというのが人生である。


 今まで積み上げてきたすべてのことが一瞬にして崩れ去ってしまうのが現実である。どれほど注意をしていても愚かな心が現れてすべてを 奪い去ってしまう。それは欲望である。


  坐禅和讃     白隠

衆生本来仏なり。水と氷の如くにて、
水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし。
衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ。
譬えば水の中に居て、渇を叫ぶ如くなり。
長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず。
六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり。
闇路に闇路を踏み添えて、いつか生死を離るべき。
夫れ摩訶衍の禅定は、称嘆するに余りあり。
布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、
其の品多き諸善行、皆この中に帰するなり。
一坐の功をなす人も、積みし無量の罪ほろぶ。
悪趣何処にありぬべき、浄土即ち遠からず。
辱なくもこの法を、一たび耳に触るる時、
讃嘆随喜する人は、福を得ること限りなし。
況や自ら回向して、直に自性を証すれば、
自性即ち無性にて、已戯論を離れたり。
因果一如の門ひらけ、無二無三の道直し。
無相の相を相として、往くも還るも余所ならず。
無念の念を念として、謡うも舞うも法の声。
三昧無礙の空ひろく、四智円明の月冴えん。
この時何をか求むべき、寂滅現前する故に、
当処即ち蓮華国、此の身即ち仏なり。


  心に従わず、心の主となれ     仏教聖典

 教えのかなめは心を修めることにある。だから、欲をおさえておのれに克つことに努めなければならない。身を正し、心を正し、ことばをまことあるものにしなければならない。貪ることはやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。
 もし、心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。心に従わず、心の主となれ。心は人を仏にし、また、畜生にする。迷って鬼となり、さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。だから、よく心を正しくし、道に外れないよう努めるがよい。


 人間いたる所 青山あり    月性

男子志を立てて郷関を出ず
学もし成らずんば死すとも還らず
骨を埋むあに墳墓の地なからんや
人間至る所青山あり

 

男子たるもの一旦志を立てて郷里を出た以上、
もし学が成就しないならば死んでも郷里に還るものではない。
その途中で骨を埋めるようなことになっても、
どうして祖先の墳墓の地に埋めることができようか。
この世はいたるところ、青山に満ちている。

 

 とかく私たちは、「過去に、未来に、そして余所に、他人に」、本物や素晴らしいことがあるというふうに錯覚しがちです。しかし、本当は、「いま」という瞬間、「ここ」という場所、そして「私」というところに、悟りがあり、本物があるのです。それを常に自覚して生きていく、いまこの瞬間に全神経を集中していくことが真の幸せなのです。


 無財の七施   雑宝蔵経

一、眼施       他人に対して優しい眼差しで施すこと
二、和顔悦色施     にこやかな顔つきで他人の気持ちを和やかにする施し
三、言辞施      他人に対して優しい言葉で施すこと
四、身施       他人に対して行動や身をもって施すこと
五、心施       善い心をもって他人に施すこと
六、床座施      他人のために座席を設けたり、譲って座らせてあげること
七、房舎施      他人を寝泊まらせてあげること


 苦の根元は我を思う一念

 修行の道、千差万別なりといえども、肝要はただ身を思う念を退治する外なし。苦の根元は己、己を思う一念なり。かくのごとくなりとしるは理なり。この理を知って力を出し、真実勇猛の心をもって、この一念を滅却するは、ひとえに義のなすところなり。理なき人は苦楽の根元を弁えず、義なき人は生死のきずを切ることあたわず。強く眼をつく すべし。しかれば凡夫心に物に勝って浮かぶ心あり、物に負けて沈む心あり。浮かぶ心を用いるは仏界に入る門なり。沈む心を用いるは獄中に入る道なり。もっぱら出離の願力をもって、昼夜浮かぶ心を守るべし。

鈴木正三


 聖教に説きて云はく、「若し人生きて百歳にして生滅の法を解せざらんよりは、如かず、生きて一日にして而かも之を了解する事を得んには」と。実に朽木の如くくして何なく生けらんよりは、覚り深くして一日生けらんに比ぶべからざる也。
 已に仏の御教を受けて、有為の果報は皆苦みなりと知りなば、速に是を捨離すべき思ひを成すべし。我等無始より以来生死に輪廻せし間、此の身を痛はり惜んで相離れず、徒に苦患の中に沈み、妄りに楽を求む。喩へば敵を養ひて家に置いて、常に敵に悩まされんが如し。早く生死の果報を思ひ捨てて仏の位を求め頼むべし。
 かかる果報を捨てずば、生々世々の中に苦みの多かるべし。仏の真実の利益は只是の果報を捨てしめて、大涅槃の楽を与え給ふなり。

明恵

 仏教でも次のように説いている。人が百歳まで生きても生滅の法を悟り得ないのであれば、一日生きてこの法を悟り得た方が、はるかにまさっていると。朽木のようにぼんやりして生きるよりも、悟るところ深く一日を生きる方が比較にならぬほどよいのである。
 既に釈尊の御教えによって、さまざまの因縁によって生じた現象は皆苦しみであると知ったならば、早くこれを捨て去る決心をすべきである。我々は無始からずっと生死の輪廻を繰り返しきた間、自分の身を大切にし、惜んで離れず、無駄に苦しみや患いの中に沈み、かってに楽しみを求める。
 例えば敵が我が家で養っていながら、いつも敵に悩まされているような矛盾したことだ。早く生死の果報をきっぱりと思いあきらめて、仏の位を求め頼るべきである。生死の果報を捨てなければ、生れ変り死に変りして幾千万年の間苦しみが続いて多かろう。仏の本当の恩恵とは、ただこの果報を捨てさせて、完全な悟りの境地の楽しみを与えて下さる点にある。


 人間本来無一物   草木国土悉皆仏性


 それ生は我が願いに非れども、無明の父我を生ず。
 死は也我が欲うに非れども、因業の鬼我を殺す。
 生は是れ楽に非ず。衆苦の聚まる所なり。死も亦喜びにあらず、諸憂乍ち逼る。
 生は昨日の如くなれども、霜鬢忽ちに催す。強壮は今朝、病死は明夕なり。徒に秋の葉の風を待つ命を恃んで空しく朝の露の日を俟つ形を養う。此の身は脆きこと泡沫の如し。吾が命の仮なること夢幻の如し。
 無常の風忽ちに扇げば、四大瓦のごとしに解け、閻魔の使い乍ちに来れば、六親誰をか憑まんや。朝朝、夜夜、衣食の奴に労し、歳歳、月月、恩愛の縄に繫がる。心肝は父に離れ、母に離るる哭に爛れ、涕涙は倶を喪い子を喪う悲しみに溢てり。地獄の猛炎は殺生の業より発り、餓鬼の醜形は慳貪の罪より生ず。
 此に彼に生じて、生死の獄出難くして、人となり鬼となって、病苦の怨招き易し。
 悲しい哉、悲しい哉、三界の子。
 苦しい哉、苦しい哉、六道の客。
 善知識善誘の力、大導師の大悲の功に非んば、何ぞ能く流転の業輪を破し、常住の仏果に登らん。

空海

自分が願ったので生まれてきた、というわけではなく、無知という根本原因によって生まれてきた。
自分から願って死にたいとは思わないのに、因果応報の理によって死んでゆく。
生まれることは喜びではなく、その後にいろいろな苦しみが起こる。死ぬことも喜びではなく、さまざまな心配がやってくる。
生まれたのはつい昨日のように思っていたが、老いはすぐにもやってくるのだ。今日の朝は元気であっても、明日の夕方には病んで死んだりすることになる。風にゆれる秋の枯れ葉のようなもろい命、朝になれば消えていく露のようなもろい命をどうにかやっと保ってはいるが、人間の生命は泡のようにはかないものだ。自分の生命が一時的なものであるのは夢や幻のようなものだ。
いったん無常の風が吹いてくると、身体の四つの構成要素はばらばらになり、閻魔王の使いがやってくると、家族のだれもが頼りにならなくなる。朝から晩まで生きるために働き、毎日毎日、恩や愛の対象ときずなにしばられながら生きている。父や母と死に別れれば、内臓がただれるほどに悲しむし、配偶者や子どもを失ったりすれば、涙もかれんばかりに泣き叫ぶのである。地獄に堕ちて猛火に焼かれるのは殺生を犯した罪によるし、餓鬼道で醜い姿となるのは物惜しみした罪に依るのだ。この世界からあの世界へと輪廻転生の輪をめぐって、あるときは人間、あるときは餓鬼と生まれ、病によって苦しみもだえるのである。
なんと悲しくもつらいことであるか、これらの世界に生まれるということは。何と苦しいことであるか。六道に輪廻することは。善き師の正しい導き、仏の大慈悲の功徳がなかったなら、どうしてこれらの輪廻する世界から抜け出して、永遠の悟りに到達できるだろうか。


 自己をはこぶは迷いなり

 諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
 万法ともにわれにあらざる時節、まどいなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
 仏道、もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
 しかもかくのごとくなりといえども、花に愛惜にちり、草は棄嫌におうるのみなり。
 自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
 迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。
 さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。
 しかあれども諸仏なり、心を証しもてゆく。

道元

 

 ありとあらゆるものが仏法であるとみるときには、迷いもあり悟りもあり、修行もあり、生もあり、死もあり、諸仏もあり、衆生もある。しかし、ありとあらゆるものが我とともになくなったときには、まどいも悟りもなく、諸仏も衆生もなく、生も滅もない。いっさいは絶対むである。仏道はもとより、このような有無の境界をとび抜けているのであるから、事実は事実のとおり、生滅もあり、迷悟もあり、衆生も仏もある。しかし、それはそうでありながら、花が散ればまことに惜しいし、草が茂れば実にいやなものである。自己が主体となって、環境世界を実証するのが迷いである。逆に、環境世界が深まって、そのなかで自己が実証されるのが悟りである。迷いを大悟するのが諸仏であり、悟りのなかにありながら迷っているのが衆生である。さらに、悟ったうえにも悟り抜いていく人もあり、迷いのなかに迷いを重ねていく人もある。諸仏がまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏であるという意識はない。しかしながら悟っていく仏である。だから仏を悟っていくのである。


 観音経『法華経観音品』

世尊妙相具 我今重問彼
仏子何因縁 名為観世音
具足妙相尊 偈答無尽意
汝聴観音行 善応諸方所
弘誓深如海 歴却不思議
侍多千億仏 発大清浄願
我為汝略説 聞名及見身
心念不空過 能滅諸有苦
仮使興害意 推落大火坑
念彼観音力 火坑変成池
或漂流巨海 龍魚諸鬼難
念彼観音力 波浪不能没
或在須弥峯 為人所推堕
念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山
念彼観音力 不能損一毛
或値怨賊繞 各執刀加害
念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終
念彼観音力 刀尋段段壊
或囚禁枷鎖 手足被杻械
念彼観音力 釈然得解脱
呪詛諸毒薬 所欲害身者
念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等
念彼観音力 時悉不敢害
若悪獣囲繞 利牙爪可怖
念彼観音力 疾走無辺方
蚖蛇及蝮蠍 気毒煙火燃
念彼観音力 尋声自回去
雲雷鼓掣電 降雹樹大雨
念彼観音力 応時得消散
衆生被困厄 無量苦逼身
観音妙智力 能救世間苦
具足神通力 広修智方便
十方諸国土 無殺不現身
種種諸悪趣 地獄鬼畜生
生老病死苦 以漸悉令滅
真観清浄観 広大智慧観
悲観及慈観 常願常瞻仰
無垢清浄光 慧日破諸闇
能伏災風火 普明照世間
悲体戒雷震 慈意妙大雲
澍甘露法雨 滅除煩脳燄
諍訟経官処 怖畏軍陣中
念彼観音力 衆怨悉退散
妙音観世音 梵音海潮音
勝彼世間音 是故須常念
念念勿生疑 観世音浄聖
於苦悩死厄 能為作依怙
具一切功徳 慈眼視衆生
福聚海無量 是故応頂礼

 

  仏はすぐれた姿をしておられるが、私は今重ねて仏に次のことを質問したい。
「この菩薩は、どういうわけで観世音と名づけられるのか」と。
 すぐれた姿をされている仏は、詩の形で次のように無尽意菩薩に答えられた。
「お前は、観音の修行がどんなにすぐれているかについてよくきくがよい。
 弘き誓願の深きこと海の如く、どれ程の時間をかけて考えても人間の知恵には思いも及ばない。
 何千億の仏たちのもとで、大いなる清らかな願いをおこした。
 しかし、今、私は、お前のために簡単に説明しよう。この菩薩の名をきき、姿を見て、
 心にしっかりとどめれば、あらゆる苦しみは消滅する。
 たとえ悪人が、悪意を持って火の燃えている穴に落としたとしても、
 この観音の救いを心から念ずれば、火の穴はたちまち池に変わる。
 或いは大海の中で漂流して、龍や怪魚や鬼などにおそわれても、
 この観音の救いを心から念ずれば、波の中に没するようなことはない。
 或いは高い山の頂上で、他人から下に落とされそうになっても、
 この観音の救いを心から念ずれば、太陽のように空中にとどまれる。
 或いは悪人どもに追われて、高い山から落ちたとしても、
 この観音の救いを心から念ずれば、一本の髪の毛だって傷つかない。
 或いは強盗にかこまれて、刀で殺されそうになっても、
 この観音の救いを心から念ずれば、彼らの心はたちまちやさしくなってしまう。
 或いは権力者にとらえられ、いよいよ刑場で殺されそうになっても、
 この観音の救いを心から念ずれば、刀がばらばらに折れてしまう。
 或いは牢屋に入れられ、鎖でつながれたとしても、
 この観音の救い心から念ずれば、たちまちに鎖は解けてしまう。
 のろいや毒薬によって、殺されそうになったとしても、
 この観音の救いを心から念ずれば、殺そうとした人にそれらがもどっていく。
 或いは悪鬼や毒龍といったさまざまな怪物に出会っても、
 この観音の救い心から念ずれば、どれもが害を与えないようになる。
 もし猛獣にかこまれて、牙や爪で殺されそうになっても、
 この観音の救い心から念ずれば、みんなどこかへ走り去ってしまう。
 とかげ・へび・まむし・さそりなどが毒気を吐いても。
 この観音の救い心から念ずれば、毒気はたちまちになくなってしまう。
 雷がとどろきいなずまが光り、ひょうが降り大雨がそそいでも、
 この観音の救い心から念ずれば、たちまちそれらは消散してしまう。
 人びとが困難なめにあい、さまざまな苦しみがせまる時、
 この観音のすぐれた力が、人びとの苦しみを救ってくれる。
 神通力を全部そなえ、智慧にとんださまざまな手段によって、
 あらゆる方角にある国の、どこにでもその姿を現す。
 そして悪いさまざまな世界、地獄や鬼や畜生の世界、
 さらには人間の世界にある四苦の、これらをすべてなくしてしまう。
 真実を観、清浄なるものを観、広大なる智慧を観、
 そして、大慈大悲を観ているこの観音を、常に仰ぎ見て頼りにすべきである。
 けがれなく清らかな光を持った智慧があらゆる闇を破り、
 あらゆる災害をなくして、あまねく世界全体を照らしている。
 あわれみの心で人びとを包み、いつくしみの心で人びとを覆う。
 永遠の教えの雨を降らし、人びとの煩悩の火を鎮める。
 争いを法廷に持ち込んだり、戦場で危険にさらされた時、
 この観音の救い心から念ずれば、あらゆる敵はみな逃げてしまう。
 すぐれた音・世間を観る音・梵天の音・大海の音を持ち、
 世界のあらゆる音にまさる音を持っている。したがって常にこの観音を念ぜよ。
 一念一念に念じて決して疑ってはならない。この観世音という浄き聖者は、
 苦しみや死の災害がやってくる時、最後のよりどころとなるのである。
 あらゆる功徳を持ち、慈悲の眼をもって人びとを眺める。
 その福の集まる姿は無量であり、だからこそ心から礼拝すべきである。」


色即是空 空即是色

摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色 受想行識
亦復如是 舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法
無眼界 乃至無意識界 無無明
亦無無明盡 乃至無老死
亦無老死盡 無苦集滅道
無智亦無得 以無所得故
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罜礙 無罜礙故
無有恐怖 遠離一切顚倒夢想
究竟涅槃 三世諸佛
依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多 是大神咒
是大明咒 是無上咒 是無等等咒
能除一切苦 真實不虚
故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰
羯諦 羯諦 波羅羯諦
波羅僧羯諦 菩提娑婆呵
般若心経

 

【十回復唱】般若心経・癒し 瞑想 暗記 作業などに

 摩訶般若波羅蜜多心経
 観自 在菩薩深般若波羅蜜多を行ずる時 五蘊皆空なりと照見して 一切の苦厄を度したもう 舎利子よ 色は空に異ならず 空は色に異ならず 色即ち是れ空 空即ち是れ色 受想行識も亦復是の如し 舎利子よ 是の諸法は空相にして 生ぜず滅せず垢つかず浄からず増さず減らず 是の故に空の中には 色もなく 受想行識もなく 眼耳鼻舌身意もなく 色声香味蝕法もなく 限界もなく 乃至意識界もなく 無明もなく 亦無明の尽ることもなく 乃至老死もなく 亦老死の尽ることもなく 苦集滅道もなく 智もなく 亦得も無し 所得なきを以ての故に 菩提薩埵般若波羅蜜多に依るが故に 心に罜礙無し 罜礙無きが故に 恐怖あること無し 一切の顚倒夢想を遠離して 涅槃を究竟す 三世の諸佛 般若波羅蜜多に依るが故に 阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり 故に知る般若波羅蜜多は 是れ大明咒なり 是れ大明咒なり 是れ無上咒なり 是れ無等等咒なり 能く一切の苦を除きて 真実にして虚ならず 故に般若波羅蜜多の咒を説く 即ち咒を説て曰く
 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆呵 般若心経

 

 観音菩薩が、深遠な智慧を完成するための実践をされている時、人間の身心を構成している五つの要素がいずれも本質的なものではないと見極めて、すべての苦しみを取り除かれたのである。そして舎利子に向かい、次のように述べた。
 舎利子よ、形あるものは実体がないことと同じであり、実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。従って、形あるものはそのまま実体なきものであり、実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。残りの、心の四つの働きの場合も、まったく同じことなのである。
 舎利子よ、この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない、という性質があるから、もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、増えることもなく、減ることもないのである。従って、実体がないということの中には、形あるものはなく、感覚も念想も意志も知識もないし、眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もないし、形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞれの器官にたいする対象もないし、それを受けとめる、眼識から意識までのあらゆる分野もないのである。さらに、悟りに対する無知もないし、無知がなくなることもない、ということからはじまって、ついには老と死もなく、老と死がなくなることもないことになる。苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。知ることもなければ、得ることもない。かくて、得ることもないのだから、悟りを求めている者は、智慧の完成に住する。
 かくて心には何のさまたげもなく、さまたげがないから恐れがなく、あらゆる誤った考え方から遠く離れているので、永遠に静かな境地に安住しているのである。過去・現在・未来にわたる「正しく目覚めたものたち」は、智慧を完成することによっているので、この上なき悟りを得るのである。従って、次のように知るがよい。
 智慧の完成こそが、偉大な真言であり、悟りのための真言であり、この上なき真言であり、比較するものがない真言なのである。これこそが、あらゆる苦しみを除き、真実そのものであって虚妄ではないのである、と。そこで最後に、智慧の完成の真言を述べよう。
 すなわち次のような真言である。
 往き往きて、彼岸に往き、完全に彼岸に到達した者こそ、悟りそのものである。めでたし。智慧の完成についてのもっとも肝要なものを説ける経典。


《いろはうた》

色は匂へど散りぬるを             形あるものはいつか消えゆくが、
わが世誰ぞ常ならむ             この世の存在はすべて無常である。
有為の奥山今日越えて            このような現象の世界を超越して、
浅き夢みじ酔ひもせず            浅はかにも形あるものに執着する
                      ようなことをしてはならない。

 


 勇気を持って行動を起こしたにも拘わらず思った結果が現れない時もある。そのときは自然に展開するときがくると信じてじっと待つことである。しかるべき結果が出たらそのすべてを受け入れることである。


 危険に身をさらさなければ、ほんとうの自信は得られない。


 完全を期して何もしないよりも、未完成でも何かをするほうがいい。


 成功とは、必ずしも目標に到達することではなく、最大限の可能性に到達することをいいます。つまり、あえて不完全な危険を冒すこともまた、信念のうちです。


「この道を保つ者は、盈つるを浴せず」「持してこれを盈たすは、その已むるにしかず。揣ちてこれを鋭くすれば、長く保つ可からず。金玉、堂に満つるは、これを能く守るなし。富貴にして驕るは、自らその咎を遺す。功成りて身退くは、天の道なり」 老子

Friday, April 29, 2005


「人力ではどうすることもできないと悟ったとき、運命のままに従うことこそ、至上の徳であるといえよう」「すべてを物事のなりゆきのままにまかせ、心をゆうゆうと自由の境地に遊ばせて、やむにやまれぬ必然のままに身をゆだね、心の中におのずからなる中正の状態を養うがよい。しいて、よい結果を求めようとするな。ひたすら天命のままに従え」「聖人は、何ものも失う恐れのない境地、一切をそのままに受けいれる境地に遊び、すべてをそのままに肯定するのである。青春をよしとし、老年をよしとし、人生の始めをよしとし、人生の終わりをよしとする」  荘子

Saturday, April 30, 2005


無限の道と言葉

 道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名にあらず。無名は天地の始めにして、有名は万物の母なり。故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る。此の両者は同出にして名を異にするも、同じく之を玄と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり。

 

和光同塵

 道は沖しくして、之を用うるに或に盈たず。淵兮として万物の宗に似るたり。其の鋭を挫き、其の粉を解き、其の光を和らげ、其の塵を同じくする。湛兮として或るに存するに似たり。吾れ誰の子なるかを知らず。帝の先に象たり。

 

無である道からの有である徳の発生

 孔徳の容、惟だ道に是れ従う。道の物為る、惟れ恍、惟れ惚たり。惚たり恍たり、其の中に象有り。恍たり惚たり、其の中に物有り。窈たり冥たり、其の中に精有り。其の精は甚だ真にして、其の中に信有り。古より今に及ぶまで、其の名去らず、以て衆甫を閲ぶ。吾れ何を以て衆甫の状を知るや。此れを以てなり。 

 

虚静の道への復帰

 虚を致すこと極まり、静を守ること篤ければ、万物並び作るも、吾れ以て其の復るを観る。夫れ物の芸芸たる、各おの其の根に復帰す。根に帰るを静と曰い、是れを命に復ると謂う。命に復るを常と曰い、常を知るを明と曰う。常を知らざれば、妄りに凶を作す。常を知れば容なり。容なれば乃ち公なり。公なれば乃ち王なり。王なれば乃ち天なり。天なれば乃ち道なり。道なれば乃ち久しく、身を没うるまで殆うからず。

老子

Saturday, April 30, 2005

 老子の思想とは、無為自然

 100分de名著「老子」(2013年)


「考える機会が多ければ多いほど、また長ければ長いほど、常に新たなる感嘆と崇敬をともなって私の心を満たしてくるものが二つある。それは、我が頭上の星空と我が内にある道徳律である」

「道徳律は、社会規範や、時代の精神や、自然や、残されている神の言葉から来るのではない。道徳律は自分の中にある理性が要求する」

「その格律が普遍的な法則となることを、あなたが同時に望むような格律にしたがってのみ行為すべし」

「他人をも自分をも、手段として扱ってはならない。すべての行為において人間が目的となるように行為すべし」

インマヌエル・カント

Tuesday, May 10, 2005,


 上士は道を聞けば、勤めて之を行なう。中士は道を聞けば、存するが若く、亡するが若し。下士は道を聞けば、大いに之を笑う。笑われざれば、以て道と為すに足らず。故に健言に之有り、「明道は昧きが若く、進道は退くが若く、夷道は纇なるが若し」と。上徳は谷の若く、太白は辱れたるが若く、広徳は足らざるが若し。健徳は偸なるが若し、質真は渝るが若し。大方は隅無く、大器は晩成す。大音は声希にして、大象は形なし。道は隠れて名無し。夫れ唯道は善く貸し且つ成す。   

 天下、皆、美の美為るを知るは、斯れ悪のみ。皆、善の善為るを知るは、斯れ不善のみ。故に有無相生じ、難易相成し、長短相形われ、高下相傾き、音声相和し、前後相随う。是を以て聖人は無為の事に処り、不言の教えを行なう。万物作るも辞せず、生じて有せず、為して恃まず、功成りて居らず。夫れ唯居らず、是を以て去らず。

老子

Wednesday, May 11,2005


 夫れ言は吹くには非ざるなり、言う者は言うことあり。その言う所の者、特末だ定まらざるなり。果たして言うことありや、それ未だ嘗て言うことあらざるか。その以て鷇の音に異なれとなすも、また弁ありや、それ弁無きや。
 道は悪くに隠れて真偽あるか、言は悪く隠れて是非あるか。道は悪くに往きてか存せざる、言は悪くに存してか不可なる。道は小成に隠れ、言は栄華に隠る。
故に儒墨の是非あり。以てその非とするところを是とし、その是とするところを非とす。その非とするところを是とし、その是とするところを非とせんと欲すれば、則ち明を以てするに若くはなし。

 荘子

Thursday, May 12, 2005
 


 可を可とし、不可を不可とす。道は之を行きて成り、物は之を謂いて然りとす。悪くにか然りとするや。然るを然りとす。悪くにか然らずとするや。然らざるを然らずとす。物は固より然りとする所あり、物は固より可とする所あり。物として然らざるは無く、物として可ならざるは無し。故に是れがために、莛と楹、獅ニ西施、恢恑と橘怪とを挙ぐる。道は通じて一たり。その分かるるは、成るなり。その成るは、毀つなり。凡そ物は、成ると毀つとなく、また通じて一たり。ただ達者のみ、通じて一たるを知る。これがために、用いずして、これを庸に遇す。庸なる者は用なり。用なる者は通なり。通なる者は得なり。適たま得て、幾し。是に因る已。已にして其の然るを知らず。これを道という。

荘子

Monday, May 16, 2005
 


 道には始めもなく終わりもないが、個々の物には生があり死がある。あるときは虚しく、あるときは満ち、虚無と実在とをくりかえし、一定不変の形にとどまることがない。寄る年なみを押しかえすことはできず、去りゆく時は引きとどめるすべもない。このようにして万物は消滅と生成、実在と虚無をくりかえし、その存在を終えてはまた始めるものなのである。
 すべての人がこの世に生きているのは、あたかも馬を走らせて駆けぬけるようなものであり、動くにつれてたえず変化し、時とともに不断に推移するものである。ともすれば、この定めのない人生において、何をすればよく、何をしなければよいといったことは問題にもなるまい。ただひたすらに自然に変化のままに身をゆだねていれば、それでよいのだ。

荘子

Thursday, May 19, 2005


 古の真人は、生を説ぶことを知らず、死を悪むことを知らず、その出ずるも訴はず、その入るも距まず。翛然として往き翛然として来たるのみ。その始まる所を忘れず。その終わる所を求めず。受けてこれを喜び、忘れてこれを復す。これをこれ、心を以て道を捐てず、人を以て天を助けず、と謂う。これをこれ真人という。

荘子

Friday, May 20, 2005


 生死は命なり。その夜旦の常あるは天なり。人の与るを得ざえる所あるは、みな物の情なり。彼は特り天を以て父と為してこれを愛す。而も況んいやその卓なるをや。人は特り君あるを以て己れより愈れりと為して、身をおこれに死す。而も況んやその真なるをや。

荘子

Friday, May 20, 2005


 夫れ大塊は、我を載するに形を以てし、我を労するに生を以てし、我を佚するに老を以てし、我を息わするに死を以てす。故に吾が生を善しとする者は、乃ち吾が死を善しとする所以なり。

荘子

Saturday, May 21, 2005


 特り人の形を犯すも、なおこれを喜ぶ。人の形のごとき者は、万化して未だ始より極まりあらざるなり。その楽しみたるや、計うるに勝う可けんや。故に聖人は、まさに物を遯るるを得ざる所に遊びて、皆存せんとす。夭き善しとし、老いを善しとし、始めを善しとし、終わりを善しとす。

荘子

Sunday, May 22, 2005


 「人間が生きているというのは、生命を構成する気が集合しているということである。気が集合すると生になり、離散すると死になる。もしこのように生死が一気の集散にすぎないとすれば、生死について何を憂える必要があろうか」

荘子

Thursday, May 26, 2005


 「天下の万物は、有より生じ、有は無より生ず」

 「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負うて陽を抱き、冲気は以て和を為す」

老子

Thursday, May 26, 2005


 夫れ言は吹くには非ざるなり、言う者は言うことあり。その言う所の者、特末だ定まらざるなり、果たして言うことありや、それ未だ嘗て言うことあらざるか。その以て鷇の音に異なれりとなすも、また弁ありや、それ弁無きや。
道は悪くに隠れて真偽あるか、言は悪くに隠れて是非あるか。道は悪くに往きてか存せざる、言は悪くに存してか不可なる。道は小成に隠れ、言うは栄華に隠る。
 故に儒墨の是非あり。以てその非とするところを是とし、その是とするところを非とす。その非とするところを是とし、その是とするところを非とせんと欲すれば、則ち明を以てするに若くはなし。

荘子

Tuesday, May 31, 2005


 北冥に魚あり、その名を鯤となす。鯤の大きさは、その幾千里なるかを知らざるなり。化して鳥となる。その名を鵬となす。鵬の背は、その幾千里なるかを知らざるなり、怒りて飛ぶに、その翼は垂天の雲のごとし。この鳥や、海運けは、則ちまさに南冥に徒らんとす。南冥とは天池なり。
 野馬 や、塵埃や、生物の息をもって相吹くや、天の蒼蒼たるは、それ正色なるや、それ遠くして至極するところ無きや。その下を視るや、またかくのごとくならんのみ。

荘子

Thursday, June 2, 2005



 心をきびしくきたえ、高尚な行ないをし、世俗に同調せず、高踏的な議論をし、世間を恨んで非難し、みずからを高く持するものがある。このような態度は、山谷の士とよばれる人びと、世俗を非難してやまない人物、みずからは苦しみにやせ衰え、淵に身を投げるといった人びとが、好んで取るところのものである。
 仁義や中信について語り、うやうやしく控えめな態度をとり、もっぱら身を修めることに努めるものがある。これらは平安の世を念願とする人びと、他人の教化を志して、諸国を遊説したり、わが家で道を説いたりする学者たちの好む道である。
 大功について語り、大きな功名を立て、君臣の礼 義を定め、上下の秩序を正しくし、もっぱら国を治めることに専念するものがある。これらは、朝廷の士とよばれるもの、君主を尊厳にし、国家を強くすることを念願とする人物、功労を立て、他国を併呑しようとするものが、好んで行なうところである。
 山林や沢地にすみ、閑静無事の地に身をおき、静かなところで魚を釣り、もっぱら無為の生活を送るものがある。これらは、官に仕えず、広大な天地をわが家とする、いわゆる江海の士とよばれるもの、世を避ける隠遁者、のどかな生活を愛するものが、好んで行なうところである。
 息をはいたり吸いこんだりして呼吸運動をし、古くなった生気を吐き出し、新しい生気を体内に入れ、まるで熊が木によじのぼり、鳥が伸びをするような格好をして、もっぱら寿命を長くしようとするものがある。これらは、道引の士とよばれる人びと、身体を養うことに専念するもの、彰祖のような長寿を願うものが、好んで行なうところである。
 だが、もし心をきびしくきたえなくても自然に行ないが高くなり、仁義に努めなくても自然に身が修まり、功名をたてなくても自然に国が治まり、大江や海に出かけなくても自然に心がのどかになり、道引などをしなくても自然に長寿になる境地に達するならば、いっさいを忘れ去るとともに、いっさいを有することができるようになるのである。
 この 境地では、心は静かで空しく、無限の大きさをもつようになり、あらゆる美徳が自然にそなわるのである。これこそ天地自然の道であり、聖人にそなわる道にほかならない。

荘子

Saturday, June 4, 2005


  至人の心を用うるは鏡のごとし。将らず迎えず、応じて蔵せず。故に能く物に勝えて傷つかず。

荘子

Tuesday, June 7, 2005


 魯の国に、足ぎり刑にあった王駘というものがいた。たいへんな人気があって、かれのもとに学ぶ者の数は、孔子の門下に集まるものとひとしいほどである。常季というものが不思議に思い、その理由を孔子にたずねた。すると孔子は答えた。
 「あの人は聖人だよ。私もお目にかかりたいと思うほどだから、大勢の人間が集まるのは当然だよ。
 生死は人間にとっての重大事だが、その生死もかれを変化の道づれにすることができない。あの人物は、表面の現象を越えた真実の理を明らかに知り、物の変化につれて心を動かされることがない。すべて物の変化は天命によるものとし、変化の根本にある不変の道を守っているのだ」
「それは、どういうことなのでしょうか」
「物を差別するという立場からみれば、同じ身体のうちにある肝と胆との間にも、楚と越の間ほどの隔たりがある。だが、すべてを同じとする立場から見れば、万物ことごとくが一つである。このような万物斉同の立場にたつ者にとっては、自分の心を、すべてが一つとなって和合する境地に遊ばせるのである。
 この ような人物が万物をみるとき、その同一である本質だけをみて、個々の物が失われてゆくという現象にとらわれることがない。だから足ぐらいを失っても、土くれをすてたほどにしか感じないのだよ」

荘子

Thursday, June 9, 2005


 上徳は徳とせず、是を以て徳有り。下徳は徳を失わず、是を以て徳無し。上徳は為す無くして、以て為す無く、下徳は之を為して、以て為す有り。上仁は之を無して、以て為す無し。上義は之を為して、以て為す有り。上礼は之を為して、之に応ずる莫ければ、則ち臂を攘って之を扔く。
 故に道を失いて而る後に徳あり、徳を失いて而る後に仁あり、仁を失いて而る後に義あり、義を失いて而る後に礼あり。夫れ礼は、忠信の薄きにして、乱の首なり。前識は、道の華にして、愚の始めなり。
 是を以て大丈夫は其の厚きに処りて、其の薄きに居らず。其の実に処りて、其の華に居らず。故に彼れを去って此れを取る。

老子

Thursday, June 9, 2005

 高い徳をそなえたものは、徳を徳として意識することがない。だからこそ徳をもつことができるのだ。低い徳をもつものは、徳を失うまいとして固執する。だから真の徳をもつことがない。
 高い徳をそなえたものは、徹頭徹尾、意識的な行為というものがない。低い徳をもつものは、どこまでも意識的な行為から離れようとしない。最上の仁は、いちおう行動に出ることはあっても、意識的な行為を伴わない。義は最上のものであっても、どこまでも意識的な行為から離れることがない。礼となると、たとえそれが最上のものであっても、こちらが礼をつくして相手が応答しないと、腕まくりして相手を引きよせ、むりにでも礼をさせようとする。
 だから真の道を失ったところに徳が生まれ、徳を失ったところに仁が生まれる。仁を失うところに義が生まれ、義を失うところに礼が生まれる。礼というものは、誠意の薄いことをしめすものであり、世の争乱を招く張本人である。人の先に立つさかしぶりは、道のうわべを飾る華にすぎず、まことは愚の骨頂にすぎない。
 だから 真の大人物は、誠意の厚い場所に身をおき、誠意の薄い礼に身をおくことがない。道の実である本質に身をおき、うわべの華であるさかしぶりに身をおかない。だからこそ、世の常の道徳を去って、この自然の道徳をとるのだ。


 まず道の基本的な性格についてみよう。
 「混沌とした一つの物があって、天地に先立って成立していた。
 音もなく静まりかえり、目にみえる姿もなく、ただひとりあるのみで、そのありかたを変えることもない。
 宇宙の至るところを、へめぐりあるきながら、しかも疲れを知ることがない。
 これぞ万物の母たるにふさわしいものである。
 だが、その名を何とよんだらよいのか、私にはわからない。かりの名をつけて道とよび、しいて名づけて大とよんでみよう。
 大であれば、あまねく行きわたり、あまねく行けば、ここを遠ざかり、ここを遠ざかれば、ふたたびここに返る。
 このように道は大なるものであるが、大といえば天も大であり、地も大であり、王者もまた大である。
 このように世界のうちに四つの大なるものがあるが、人間である王者もまたその一つの位置を占めている。
 このようにして人間は地にのっとり、地は天にのっとり、天は道にのっとり、道は自然にのっとるのである」

老子

Saturday, June 11, 2005


 こんどは道の中に入りこみ、道を内側からながめてみよう。
「道というものは恍惚として、おぼろげであり、見定めがたいものがあり、物らしいものがある。
 その薄暗い窈冥のうちに、霊妙な何ものかがある。その霊妙さは、否定しがたい真実さをもち、そのうちに確かさをそなえている。
 太古から今に至るまで、道とよばれものの存在は変わることなく、物の始めとなる者たちを統べる。
 私はなぜ物の始めとなる者たちが道に統べられているのを知ることができるか。それはこのような道の直観によるのである」

老子

Saturday, June 11, 2005


「昔の一を得る者は、天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧らかに、神は一を得て以て霊に、谷は一を得て以て盈ち、万物は一を得て以て生じ、候王は一を得て以て天下の貞を為す。其の之を致せるは、一なり」

「ここを以て聖人は一を抱いて天下の式となる」

「営魄に載りて、一を抱き、能く離るることなからんか」

「学を為すは日に益す。道を為すは日に損す。これを損して又損し、以て無為に至る。無為にして為さざるはなし」

老子

Sunday, June 12, 2005


「目をこらして見ようとしても見えないから、つかまえどころがないといおう。耳を傾けてもその音をきくことができないから、かぼそいといおう。これを手で捕らえようとしても捕えられないから、微小というほかはない。
この三つの表現だけでは、まだその正体をつきとめることはできない。だから三つの表現を混ぜあわせて一つにすれば、それに近いものとなろう。
そのものは、上部のほうだからといって明るいわけではなく、下部のほうだからといって暗いわけでもない。
どこまでも延々と連なって切れ目がないから、言葉で捕らえることができない。その果ては無限のかなたに連なり、何ものも無い世界に帰ってゆく。
しいて言いあらわせば、状なき状であり、物ならぬ象である。いいかえれば恍惚であり、定かならぬものである。
これを前から見ても、その頭を見ることはできないし、これを後から見ても、その尾を見ることはできない。
だが、 この太古から伝えられた道をしっかり手に握りしめ、今あるものを統制するならば、万物の始めのありさまを知り、これを再現することもできるであろう。これを道による支配とよぶ」(第14章)

老子

Sunday, June 12, 2005


 諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
 万法 ともにわれにあらざる時節、まどいなく悟りなく、諸仏なく衆生なく、生無く滅なし。
 仏道、もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
 しかもかくのごとくなりといえども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におうるのみなり。
 自己 をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するは悟りなり。
 迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。
 さらに 悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。しかあれども証仏なり、心を証しもてゆく。

道元禅師『正法眼蔵・現成公案』

Sunday, June 12, 2005


  花は無心にして蝶を招き、
  蝶は無心にして花を尋ねる
  花開く時 蝶来たり
  蝶来たる時 花開く
  吾もまた人を知らず
  人もまた吾を知らず
  知らずして帝則に従う

良寛

Monday, June 13, 2005


 まだこない未来にあこがれて、とりこし苦労をしたり、過ぎ去った日の影を追って悔いていれば、刈り取られた葦のように痩せしぼむ。
 過ぎ去った日のことは悔いず、まだこない未来にはあこがれず、とりこし苦労をせず、現在を大切にふみしめてゆけば、身も心も健やかになる。過去を追ってはならない、未来を待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを、強く生きねばならない。
 今日するべきことを明日に延ばさず、確かにしていくことこそ、よい一日を生きる道である。

Monday, June 13, 2005


「大国とは川の流れの下に位置するものであり、そこにすべてが流れ集まる場所である。女はその静けさをもって男に勝ち、その静けさの故に下に位置する。すべて大なるものは下に位置すべきものなのである」

「柔を守ることこそ、強なのである」

「人間の生まれたときの状態は柔弱であるが、死ねば堅強の状態になる。よろずの草木が萌え出たときは柔らかであるが、枯れたときには固くなる。してみれば堅強は死の属性であり、柔弱は生の属性である。だから兵は強ければ勝つことができず、木は強ければ折れる。強大なるものは下位におち、柔弱なるものこそ優位に立つのである」

老子

Wednesday, June 15, 2005


「名声とわが身とは、どちらがより切実なものであろうか。わが身と財貨とは、どちらが価値あるものであろうか。わがものとするのと、台なしにするのと、どちらが苦しみをもたらすか。だから、あまりにも名声や財貨を愛することは、かえって大きな消費に結びつき、あまりにも多く蓄えることは、かえってそれを失う結果を招く。足ることを知れば、世の辱めからまぬがれ、止まることを知れば、危険に陥ることもない。これによって長久であることができるのである」

老子

Thursday, June 16, 2005


 生は死につき従うものであり、死は生の始めである。いずれがその本であり、始めであると知ることができようか。人が生きているのは、生命を構成する気が集合しているということである。気が集合すれば生となるが、離散すれば死となる。もし生と死とが一気の集散にすぎず、同類のものとするならば、生死について憂える必要が、どこにあるであろうか。
 すべて万物は一気によって構成され、もともと一つのものである。その一つである万物のうちで、人が美しいとし、めでたいものとするのは生である。人が醜いとし、臭くて腐ったものとするのは死である。だが、その臭くて腐った死も、やがてまた循環し変化して、すぐれてめでたい生となる。そのすぐれてめでたい生も、やがては変化して、臭くて腐った死となる。
 このようにみるならば、天下の万物はすべて一気に還元されるといえよう。だからこそ、聖人は万物が一であること、万物斉同の理をとうとぶのである。

荘子

Friday, June 17, 2005


「大河や大海が、よく幾百ともしれぬ谷川の王者となりうるのは、それが最も低い下位にあるからだ。だからこそ百川の王となりうるのである。人間も同様で、民の上に立とうと欲するものは、謙虚な言葉でへり下る必要があるし、民の先頭に立とうと欲するものは、身を後におかなければならない。だから、このような聖人が民の上位にいても、民はそれを重荷に感じないし、民の先頭に立っていても、民はこれを気に食わぬとは思わない。したがって天下の民は、このような聖人を上にいただくを楽しんで、いやがることがない。争いの心をもたない人間であればこそ、天下の民もこれと争うことがないのだ」

老子

Saturday, June 18, 2005


天は長く、地は久し。天地の能く長く、かつ久しき所以の者は、その自ら生ぜざるを以てなり。故に能く長生す。
是を 以て聖人は、その身を後にして身先んじ、その身を外にして身存す。その私なきを以てにあらずや。故に能くその私を成す」

老子

Sunday, June 19, 2005


「天下に禁制が多くなればなるほど、民はいよいよ貧しくなり、民が文明の利器を多く持てば持つほど、国家はますます混乱するようになる。人民が技術をおぼえればおぼえるほど、珍奇な物が作られるようになり、法令が整備されればされるほど、盗賊はいよいよ多くなる。だから聖人もいう。『わたしが無為のままにいれば、民は自然に教化される。わたしが静けさを好めば、民は自然に正しくなる。わたしが事業を起こすようなことがなければ、民はおのずから富むようになろう。わたしが無欲であれば、民はおのずから純朴になるであろう』と」

老子

Monday, June 20, 2005


「自然の徳を豊かにそなえた人間は、生まれたばかりの赤子に比べられる。抵抗することがないから、毒虫もささず、猛獣も猛禽も襲いかかることがない。その骨は弱く、その筋肉は柔らかであるのに、ものを固く握ることができる。まだ男女の交合もしらないのに、陽物が立つのは、精気が完全にそなわっているからである。終日、泣きわめきながら、声がかれないのは、身体の陰陽の調和が完全であるためである。この調和を知ることを永久不変の道とよび、永久不変の道を知ることを、真の知恵とよぶ。人為的に生命の力を増進させようとするのを不吉の行為とよび、心が意識的に気力を発揮させようとするのを強とよぶ。すべて物は強壮であれば早く老いるものである。これを不道-----不自然な道とよぶ。不自然な道は永続きせず、すぐにだめになるものだ」

老子

Thursday, June 23, 2005


 永遠不変の真実はただ一つである。人間の想念が、多くの虚像を生み出すにすぎない。人はそれぞれ、「私の見解こそがまともであり、あなたは間違っている」などというが、それは自分なりの想念のしからしめるところなのだ。

釈尊

Sunday, July 3, 2005


 蜂は、いろいろな花からその蜜を吸い取るが、花の色や香りを少しもそこなうことがない。また、荷物を運ぶに当たっては牛の背中に乗せるが、ほどよく乗せるからこそ、牛が運んでいってくれるのである。万事に、無理をしてはいけない。多くを求めすぎないように心がけねばならぬ。

釈尊

Monday, July 4, 2005


 人生の一切の苦は、すべて自分が "したこと" "すること" から生じる。"これだけのことをしたんだ" というような誇らしげな自意識がなくなってしまえば、いかなる苦も生じることはない。

釈尊

Thursday, July 7, 2005


 利得の観点から学問をすれば、利得がない場合に腹が立つ。何かを貪り求めて執着すれば、必ずもだえ苦しみ、うまいものだけを食べれば、うまいものに振り回されるようになる。そんな生き方をしていては、いつまでたっても心がやすまるものではないか。

釈尊

Saturday, July 9, 2005


 戒律を守り続け、苦行に励むことは、確かによいことではあるが、忍耐に徹することほどすばらしいことはない。どんな災難、事件にも耐え抜ける者は、"有力の大人" といわれる。悪罵の毒を喜んで受けとめて、ジュースのように飲み下せる人ならば、最高で完全な人格者であるといってよかろう。

釈尊

Sunday, July 10, 2005


 この世の中の第一の財宝は、"信じて疑わぬ" ということである。"信じる" という実ほど、美味なものはこの世のどこにもない。そして、現実の生活をいとなむに当たっては、知恵を何よりも重んじ、道徳にそう行動に終始すれば、心はいつも安んじ、人生を楽しむことができる。

釈尊

Thursday, July 14, 2005


 世俗の人が楽とすることを、優れた人物は苦とするし、その逆のこともそのままいえる。俗人には、人間をして人間たらしめる真理を掴むのは誠に難しい。無知の暗闇に身を置く彼らは、果てしなく迷い、苦しむ。しかし、優れた人物にとっては、それらは心の安らぎを誘う身辺の明白な事実たるに過ぎない。

釈尊

Friday, July 15, 2005


 たとえば、野生の鹿が林の中などにいる場合には、食べ物を求めて、どこへでも自分の行きたいところへ出かけていく。それと同じく、知恵ある者は他の何ものにも頼らず、ただ自分だけを頼みとして、歩んでいかねばならぬ。

釈尊

Sunday, July 17, 2005


 たとえ他人にとってはいかに大事でも、他人の目的のために自分本来の務めを捨て去ってはならぬ。人間は自分の最高の目的を見極めて、自分の務めに専念しなければならない。

釈尊

Tuesday, July 19, 2005


 会議の席、あるいは集会の席で、人は偽りの言葉を口に出してはならない。自分がそれを守るだけではなく、参席者のすべてに虚言を語らせないようにし、または、虚言を語る人を断固として否定することだ。つまり、実質を伴わない言葉は一切避けねばならない。

釈尊

Saturday, July 30, 2005


 人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富む。強めて行う者は志有り。其の所を失わざる者は久し。死して而も亡びざる者は寿し。

老子

Thursday, August 4, 2005


 将に天下を取らんと欲してこれを為すは、吾れ其の得ざるを見るのみ。天下は神器。為すべからず、執るべからず。為す者はこれを敗り、執る者はこれを失う。凡そ物、或いは行き或いは随い、或いは歔し或いは吹き、或いは強く或いは羸く、或いは培い或いは隳つ。是を以て聖人は、甚を去り、奢を去り、泰を去る。

老子

Friday, August 5, 2005


 道、これを生じ、徳、これを畜い、物、これを形づくり、器、これを成す。是を以て万物、道を尊びて徳を貴ばざるは莫し。道の尊きと徳の貴きは、夫れこれを命ずる莫くして、常に自ら然り。
故に 道、これを生じ、徳、これを畜い、これを長じこれを育て、これを亭めこれを毒くし、これを養いこれを覆う。生ずるも而も有とせず。為すも而も恃まず、長たるも而も宰たらず。是れを玄徳と謂う。

老子

Friday, August 5, 2005


 天下に始め有り、以て天下の母と為すべし。既に其の母を得て、以て其の子を知る。既に其の子を知り、復た其の母を守らば、身を没うるまで殆うからず。
 其の兌を塞ぎ、其の門を閉せば、終身勤れず。其の兌を開き、其の事を済せば、終身救われず。
小を見るを明と曰い、柔を守るを強と曰う。其の光を用いて、其の明に復帰すれば、身の殃を遺す無し。是れを常に襲ると謂う。

老子

Friday, August 5, 2005


 知る者は言わず、言う者は知らず。
其の兌を塞ぎて、其の門を閉し、其の鋭を挫いて、其の紛を解き、其の光を和げて、其の塵に同ず。是れを玄同と謂う。
故に 得て親しむべからず、得て疎んずべからず。得て利するべからず、得て害するべからず。得て貴くすべからず、得て賤しくすべからず。故に天下の貴きものと為る。

老子

Friday, August 5, 2005


 其の安きは持し易し、其の未だ兆さざるは謀り易し。其の脆きは泮かし易し、其の微なるは散らし易し。これを未だ有らざるに為し、これを未だ乱されざるに治む。合抱の木も毫末より生じ、九層の台も累土より起こり、千里の行も足下より始まる。為す者はこれを敗り、執る者はこれを失う。是を以て聖人は為すこと無し、故に敗るることも無し。執ること無し、故に失うことも無し。
 民の事に従うは、 常に幾んど成るに於いてこれを敗る。終わりを慎むこと始めの如くなれば、則ち事を敗ること無し。是を以て聖人は、欲せざるを浴して、得難きの貨を貴ばず、学ばざるを学びとして、衆人の過ぎたる所を復し、以て万物の自然を輔けて、而して敢えて為さず。

老子

Sunday, August 7, 2005


 希言は自然なり。故に飄風は朝を終えず、驟雨は日を終えず。孰れか此れを為す物ぞ、天地なり。天地すら尚お久しきこと能わず、而るを況んや人に於てをや。
 故に道に 従事する者は、道に同じ、徳なる者は、徳に同じ。失なる者は、失に同ず。道に同ずる者には、道も亦たこれを得るを楽しみ、徳に同ずる者には、徳も亦たこれを得るを楽しみ、失に同ずる者には、失も亦たこれを得るを楽しむ。
信足らざれば、焉ち信ぜられざること有り。

老子

Sunday, August 7, 2005


知りて知らずとするは上なり。知らずして知るとするは病なり。聖人は病あらず。其の病を病とするを以て、是を以て病あらず。

老子

Tuesday, August 9, 2005


天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、招かずして自ら来たし、繟然として善く謀る。天網恢恢、疎にして失せず。

老子

Tuesday, August 9, 2005


信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は弁ぜず、弁ずる者は善ならず。知る者は博からず、博き者は知らず。
聖人 は積まず、既く以て人の為めにして、己れは愈愈有り、既く以て人に与えて、己れは愈愈多し。
天の道は、利して而して害せず、聖人の道は、為して而して争わず。

老子

Wednesday, August 10, 2005


 大知は閑閑たり、小知は顯閧スり。大言は炎炎たり。小言は・・たり。大恐は縵縵たり、小恐は惴惴たり。其の寐るや魂交わり、其の覚むるや形開き、与に接りて構を為し、日々に心を以て闘わしむ。縵なる者あり、窖なる者あり、密なる者あり。其の発すること機栝の若しとは、其の是非を司くるの謂いなり。其の留まること詛盟の如しとは、其の勝ちを守るの謂いなり。其の殺すること秋冬の如しとは、以て其の日々に消ゆるを言うなり。溺れて為す所は、これを復らしむべからず。其の厭がること緘の如しとは、以て其の老洫なるを言うなり。死に近づくの心は、復た陽かしむるなし。

荘子

Wednesday, August 10, 2005


 生死は命なり。其の夜旦の常あるは天なり。人の与るを得ざる所あるは、皆物の情なり。彼特だ父を以て天と為して、身は猶おこれを愛す。而るを況んや其の卓たるをや。人は特だ有君を以て己れに愈ると為して、身は猶おこれに死す。而るを況んや其の真なるをや。泉涸れて、魚相い与に陸に処り、相い呴くに湿を以てし、相い瀉すに沫を以てするは、紅湖に相い忘るるに如かず。其の尭を誉めて桀を非らんよりは、而忘して道に化するに如かず。夫れ大塊我れを戴するに形を以てし、我れを労するに生を以てし、我れを佚にするに老を以てし、我れを息わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとする者は、乃ち吾が死を善しとする所以なり。

荘子

Sunday, August 14, 2005


 名を戸と為ることなかれ。謀の府と為ることなかれ。事の任と為ることなかれ。知の主と為ることなかれ。尽を体して窮まりなく、而して朕なきに遊び、その天より受くる所を尽くして、得るを見ることなかれ。亦だ虚なるのみ。至人の心を用うることは鏡の若し。将らず迎えず、応じて蔵せず。故に能く物に勝えて傷わず。

荘子

Friday, August 19, 2005


民威を畏れざれば、則ち大威至る。
其の居る 所を狎めること無く、其の生くる所を厭すること無かれ。
其れ唯だ厭せず、是を以て厭せられず。
是 れを以て聖人は、自ら知りて自ら見わさず、自ら愛して自ら貴しとせず。故に彼れを去てて此れを取る。

老子

Saturday, August 20, 2005


 今且れ此に言あり。其の是れと類するや其の是れと類せざるやを知らず。類すると類せざると、相い与に類を為さば、則ち彼と以て異なること無し。然りと雖も、請う、嘗みにこれを言わん。
 始めなる者あり。未だ始めより始め有らざる者あり。未だ始めより夫の未だ始めより始め有らざるもの有らざる者あり。有なる者あり。無なる者あり。未だ始めより無あらざる者あり。未だ始めより夫の未だ始めより無あらざるもの有らざる者あり。俄かにして有無あり、而も未だ有無の果たして孰れか有にして孰れか無なるやを知らず。今、我れ則ち已に謂う有り、而も未だ吾が謂う所の其の果たして謂う有りや其の果たして謂う無きやを知らず。

荘子

Friday, August 26, 2005


 夫れ道は未だ始めより封あらず、言は未だ始めより常あらず。是れが為めにして畛あり。請う其の畛を言わん。左あり右あり、倫あり義あり、分あり弁あり、競あり争あり。此れをこれ八徳と謂う。六合の外は聖人は存りとするも論ぜず、六合の内は聖人は論ずるも議せず、春秋の経世・先王の志は、聖人は議するも弁ぜず。故れ分かつとは分かたざる有り、弁ずるとは弁ぜざる有り。曰わく、何ぞや。聖人はこれを懐にし、衆人はこれを弁じて以て相い示す。故に曰わく、弁ずるとは見ざる有りと。

荘子

Friday, August 26, 2005


もろもろのものはどのようなものでも、どこにあっても、何時でも、自らも他からも、自他の二からも、さらに無因からも、生じたものとして認められない。
もろもろのものの自性は縁等に認められない。自性が認められないから他性も認められない。
縁は四種である。因縁と所縁縁と次第縁と増上縁とであって、第五の縁はない。

『中論』 竜樹

Saturday, August 27, 2005


 化声の相い待つは、其の相い待たざるが若し。これを和するに天倪を以てし、これに因るに蔓衍を以てするは、年を窮むる所以なり。何をかこれを和するに天倪を以てすと謂うや。曰わく、是と不是と、然と不然と、是若し果たして是ならば、則ち是の不是に異なるや、亦た弁なし。然若し果たして然ならば、則ち然の不然に異なるや、亦た弁なし。年を忘れ義を忘れて、無竟に振るう、故に諸れを無竟に寓す。

荘子

Saturday, August 27, 2005


 吾が生や涯あり、而して知や涯なし。涯あるを以て涯なきに随う、殆うき已にして知を為す者は殆うきのみ。善を為さば名に近づくことなからんや、悪を為さば刑に近づくことなからんや。督に縁りて以て経と為さば、以て身を保つべく、以て生を全うすべく、以て親を養うべく、以て年を尽くすべし。

荘子

Sunday, August 28, 2005


 天の為す所を知り、人の為す所を知る者は、至れり。天の為す所を知る者は、天にして生くるなり。人の為す所を知る者は、其の知の知る所を以て、以て其の知の知らざる所を養う。其の天年を終えて、中道に夭せざる者は、是れ知の盛んなるなり。然りと雖も患あり。夫れ知は待つ所ありて而る後に当たる。其の待つ所の者、特り未だ定まらざるなり。庸詎くんぞ、吾が謂わゆる天の人に非ず、謂わゆる人の天に非ざるを知らんや。且れ真人ありて、而る後に真知あり。

荘子

Monday, August 29, 2005


 何をか真人と謂う。古えの真人は寡しきにも逆らわず、成んなるにも雄らず、士を暮らず。然くの若き者は、過てども悔いず、当たれども自得せざるなり。然くの若き者は、高きに登るも慄れず、水に入るも濡れず、火に入るも熱からず。是れ知の能く道に登仮するや、此くの若し。古えの真人は、其の寝ぬるや夢みず、其の覚むるや憂いなく、其の食らうや甘しとせず、其の息するや深深たり。真人の息は踵を以てし、衆人の息は喉を以てす。屈服する者は、其の嗌び言うこと哇くが若し。其の耆欲の深き者は、其の天機も浅し。

荘子

Tuesday, August 30, 2005


 古えの真人は、其の状義きも朋れず。足らざるが若き承けず。与乎として其れ觚なるも堅ならざるなり。張乎として其れ虚なるも華ならざるなり。邴邴乎として其れ喜ぶ似たるかな、崔崔乎として其れ已むを得ざるかな。滀乎として我が色を進むるなり。与乎として我が徳に止まるなり。詞チとして其れ世に似たるかな。謷乎として其れ未だ制すべからざるなり。連乎として其れ閑を好むに似たり。悗乎として其れ言を忘るるなり。刑を以て体と為し、礼を以て翼と為し、知を以て時と為し、徳を以て循と為す。刑を以て体と為すとは、綽乎として其れ殺すなり。礼を以て翼と為すとは、世に行なわるる所以なり。知を以て時と為すとは、事に已むを得ざるなり。徳を以て循と為すとは、其の足ある者と丘に至るを言うなり。而るに人は真に以て勤めて行なう者と為すなり。故に其のこれを好むや一、其のこれを好まざるや一。其の一なるや一、其の一ならざるや一。其の一なるは天と徒たり、其の一ならざるは人と徒たり。天と人と相い勝たざる、是れを真人と謂う。

荘子

Thursday, September 1, 2005


 夫れ道は情あり信あり、為すなく形なく、受くべきも伝うべからず、得べきも見るべからず。自ら本となり自ら根となり、未だ天地あらざるとき、古えより以て固より存す。鬼を神にし帝を神にし、天を生み地を生む。太極の上に在るも高しと為さず、六極の下に在るも深しと為さず、天地に先きんじて生ずるも久しと為さず、上古に長ずるも老いたりと為さず。

荘子

Friday, September 2, 2005


 忘れている言葉

 「家族の絆を大切にしよう」。この言葉は日常の中で使われているが、本当の意味で意識していないことが多いのではないかと思う。考え方を大きく変化させるような出来事に遭遇した場合、この言葉の重さをが身に沁みるのではないでしょうか。人間が生きていく最小単位ともいえるのが家族ではないでしょうか。普段の忙しい生活のなかでは意識しない言葉と思われる。

                                                                                            2006.4.12


 この世に生を受けていることに感謝しよう。この世の中に生を受けたのは何らかの仕事をするために現れたのだと思う。この世の中でしなければならない天命を成し遂げないと元の世界には戻れないのだから。

2006.4.12


人にときめきを抱かせる言葉を発しよう

人にときめきを与える言葉を発しよう。夢、美味しい食事、お似合いの洋服、恋人、人間愛、家族愛、幸運をつかまえる、魔法など誰もが想像し楽しくなる言葉を沢山使いましょう。

2006.4.13


朝起きたら鏡の前で幸せさんこんにちはといってみよう。きっと幸せが訪れるからね。

2006.4.14


信頼される人になろう                                

 起業するには信頼される人になることが大切です。いつも人と話をしたりビジネスをするときには相手の立場に立って考えることを心がけるとよい。相手が困っていることを知ることが話を進める第一歩である。相手が困っていることを知り解決策を提案することができれば信頼される人にもなれる。相手にとってメリットになること、自分にとってもメリットになり、しかも第三者にとってもメリットになることを考えながら行動を起こすとよい。接するすべての人を魅了する人間性を持つことが幸運をもたらす。

2006.4.23


 便利さは脳の天敵

 人が社会生活を送るにあたって「読み」「書き」「そろばん」が不可欠である。「読む」「計算」する行為は毎日の生活を送るうえで何回も繰り返している。そのためあまり抵抗感がない。「書く」行為はメモ書き程度ならあまり抵抗なくできるのだが、文章となると億劫になる。最近、電話や電子メールが普及したため手紙を書くことが少なくなった。お礼の返事は電話や電子メールでということになる。益々正式な文章を書く機会がなくなる。

メモや電子メールは日常で沢山書いている。人は誰でも文章はメモ書き、電子メールの延長線にあると考え、容易に書けると思っている。しかし、メモ書きは自分が後でわかればよい訳であって他の人が理解できるようにはなっていない。電子メールは相手に伝えるために利用されるが、必ずしも正式な文章とはいえないことが多い。日常使う話し言葉で用件が済む。そのため正式文章が書けない。正式文章を抵抗なく書けるようにするには日記を書くようにするとよい。始めはメモ書き程度の文章であるが、これが習慣化すると文章を書く億劫さがなくなる。抵抗なく自然に文章が書けるようになる。

 最近は便利なワープロソフトが普及し、ワープロで文章が作れるようになった。あまりの便利さ故に、手書きで日記を書こうとすると漢字が思い出せない。人間は便利な道具を発明し利用している。しかし、便利さは脳の機能を退化させるようだ。携帯電話が普及し着信履歴を使って電話するが、電話番号を入力しないですむ。昔は電話番号を覚えていたが、この便利な機能のおかげで電話番号を覚えていない。不便のようだか、便利な道具は使わず、手を使う習慣を身につけ、脳の老化を防止しよう。

2006.4.27


人生は後になってみないと理解できないものである。だが、私たちは前向きにいきなくてはならない。

キルケゴール


自分の後ろにあるもの、そして自分の前にあるものはささいなものである。自分の内部にあるものに比べれば。

エマーソン


吟味されていない人生など、生きる価値はない。

プラトン


外の世界で夢見ている人間は、内の世界で己の覚醒を見ている。

ユング


もし理解すれば、物事はありのままそこにある。もし理解しなければ、物事はありのままそこにある。


あなたが本当に信じることは、いつでも実際に起きる。それを信じる心がそうさせるのである。

フランク・ロイド・ライト


 人間は皆、人生において、具体的な課題を実行し、完成させるという明確な使命や任務をもっている。そこでは彼らの代わりみなるものはおらず、人生を繰り返すこともできない。従って、それぞれの仕事と、それを遂行するためのチャンスもすべて独特である。

ビクター・フランクル


甘美なるものは逆境のときにこそ真価を発揮する。

シェークスピア


 あなたは目的のためにここにいる。この広い世界に、あなたと同じ人物は一人もいない。これまでもいなかった。これからもいない。あなたは、なにか特定の必要性をもって生まれてきたのだ。このことをじっくり考えてみよう。

オースチン


 もしある人が、人生の夢や冒険の方向性に対する確信で、他人をしのいでいるのなら、それはその人が成功に出会うことを、想像してきたからである。あなたは、失敗するためではなく、成功するために生まれてきたのだ。

ソーロー


 恐れていることをせよ。そうすれば恐怖は確実に死ぬ。

マーク・トウェイン


 何かを実行できるようになるためには、まず何かになっていなければならない。

ゲーテ


 勇気は恐怖心の欠如ではない。それは恐怖心を支配する。

ラドヤード・キップリング


 成すべきことをせよ、すると力が得られる。

エマーソン


 すべての逆境には、それに相当する、またそれ以上の益をもたらす種がある。

ナポレオン・ヒル


 唯一の保障は個人の心の中にある。どんな逆境や危機にあっても、あなたの背中を押してくれる信念の中にある。

コリン・ターナー


 何もしないよりは、遅くともしたほうがいい。


 自分が欲しい役を演じるチャンスは一度しかない。


 毎日一時間か二時間の積み重ねが、たくさんの階段を上がるように、あなたを行きたい場所に連れていくのである。いつでも心を、自分の欲しいものにだけ向けていよう。


 もし、あなたが運をつかみたい、人生を変えたいと願っているなら、今この瞬間に、次に何をすべきかを、真剣に考えてみることから始めてみてはどうでしょう。意外にも多くの選択肢があることに気づくはずです。

日野原重明


 自分のことをあまり考えすぎるな。他人のことを配慮することが習慣的に行える人間になってほしい。そして、正しいと思ったことを、勇気を持ってやる人間になってほしい。

C・W・エリオット


 失敗はあって当然。嫌がらずに失敗から学べ。


 人生において一瞬たりとも気を抜いてはならない。全てが真剣勝負の世界である。


 あなたを好きになる人が増えれば、あなたに訪れるチャンスも増える。人は誰でも、自分が自分であることに対して、気分をよくさせてくれる人が好きになるものである。


 運の強い人たちは休まない。いつも新しい仕事のチャンスを探している。


 良くなろうという気持ちさえあれば、どんな問題も克服できる。

日野原重明


 私たちの人生の意義は、長きより中身で決まるということ。自分に与えられたいのちであり、このいのちの長さは自分で決められないが、生き方は自分で創り出せる。

日野原重明


 あなたは現代を生きる今世紀最高の人物であり。偉大な業績の最初の一歩として、自分の内にある限りない可能性を信じよう。


 あなた特有の才能が何であれ、まずそれを発見し、使い、ほかに分け与えることを決意しよう。


 あなたが引き出したものは増大し、ほかに分け与えたものは増殖し、抑制したものは減少する。もって生まれたものは求められ、使われ、発展させねばならない。


 十分な数のドアが開いていれば、誰でも成功者になれる。必要なのは鍵だけであり、それはすでにあなたの中の奥深くにある。


 彼岸がきた。ご先祖様を向かい入れよう。賑やかにお過ごしください。生きていた時のように。皆でいろいろなことを話そう。それが我が家の習わしではないか。


 知識とは、けっして危険なものではない。知らないことが幸せということはない。勇気を出してあなたの心の力を探ってみよう。


 人間の本質とは、限界を打ち破ることに喜びを感じながら生きていく動物である。


 視覚化は成功にとって欠くことのできない重要なものであり、私たちに想像力が与えられている大きな原因の一つでもある。


 外の世界を強化するためには、自分の内なる世界に働きかけよう。


 恐れとは、予感から生まれる痛みである。

アリストテレス


 あなたが、希望、ビジョン、豊かさの話をすれば、あなたの人生は喜びと豊かさに満たされるだろう。


 ふだん話す言葉に、思いやり、ビジョン、愛、友情、感謝がいっぱい詰まった話し方をしよう。


 人に多くの感動を与えることを、何時も考え、行動し、習慣化することです。


 コミュニケーションの鍵は、自分でまず何を感じているかを捉え、それを的確に伝える人がコミュニケーションの達人である。


 老年の欠乏を補うに足りるものを青年時代に獲得しておけ。そして、もし老年は食物として知恵を必要とするということを理解したら、そういう老年に栄養不足にならぬよう、若いうちに努力せよ。十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ。

レオナルド・ダ・ヴィンチ


 謙虚さというのは、自分を飾らぬというより、もっとふかいものである。それは、人間のひよわさをひよわさとして認めることだ。

松田道雄


 われわれ人間は、たえずといっていいほど悩みにつきまとわれる。しかし私は、悩みがあるということは、人間として大事なことではないかと考えている。なぜかというと、常に何か気にかかることがあれば、それがあるために大きなあやまちがなくなる。心がいつも注意深く活動しているからである。だから、悩みを持つことは、むしろプラスにつながる場合が多い。したがって悩みに負けてしまわず、自分なりの新しい見方、解釈を見出して、その悩みを乗り越えていくことが大切である。悩んでも悩まない、そういうように感じることができれば、人生は決して心配することはない。

松下幸之助


 天は誰に対しても心安らかに過ごせる環境と条件を与えてくれている。人が不安に思うことは、自分で不安な心を創りだしているからである。それに気がついて安息の心をつくることである。将来にたいして不安を抱いても誰も解決することはできない。未来はどうなるのか分からないからである。未来は向こうからやってくるのであり、何が現れるか予測もできない。人は生まれたらいつしか死を迎えるのである。これは誰でもが体験することである。色々なことを思い、色々なことをするが、何も天国へはもっていけないのである。総てのことを受容し、一日一日を楽しく過ごすことが大切である。不完全な人間が作り出した基準と比較して、”ああでもない”、”こうでもない”といって悩む必要もない。人は情熱をもって事に当たれば、人は感動し支援をしてくれるようになる。色々な事を一人で総てを解決しようとしないことである。多くの人たちの知恵をお借りして、物事を成就するように心掛けることである。人を信頼し、人に任せることも大事であり、心から通じ合える仲間を沢山作り、共同してことにあたることである。


 われわれはともすれば自分の利害を中心に物事を考える。これは当然の姿かもしれない。それだけにそれを超越した姿に対しては、心を動かされる。これもまた人間としての一つの姿ではないだろうか。


 宇宙が与えた総ての自然は人の心を和ませることができる。人智によることでも、自然と調和しないことは人を和ませることはできない。人は不完全なのだから総ての人を満足させることはできない。いつも自然の摂理との一致を確かめながら行動することが大切である。何か不快な気分を感じたら自然の摂理に反していることをしているのだと感じることである。そして、考え新たな行動をしてみることである。


 人の癖ほど不思議なものはない。本に書かれている文字と同じに書いたと本人は思っている。しかし、相違していることがある。脳に保存されたことが行動となって現れるのだから、視覚で受け入れた情報が誤って保存されているのではないかと考えられる。本の文字と脳に保存された図形とが相違しているのだが、気がつかない点である。これを癖といえばそれまでだが、不思議でならない。
 人間の無意識の領域に誤った情報が保存されていることなのだろう。人間はいつも自分は正しいと考える傾向がある。そのため、自分を振り返ることが大切ではないだろうか。


 義務としての行動と全体を受容して行動する心は相違する。総てを受け入れる心は感謝する心から生まれる。本来、人間は心の安らぎを得ながら生きていくことではないだろうか。安らかな心で生まれ、安らかな心で眠りにつくことが本来の姿ではないだろうか。


 あなたが一番自分のことが見えていないのかも知れない。あなたは困ったときや苦しいとき、いつも外に答えを求めようとしてきただろう。答えは自分の中にあるのだとどこかで知りながら、自分が信用できないためにすぐに人に頼ってきたのではないだろうか。しかし、あなたのすべてを解決できるのは、あなたしかいない。だから、もう一度潜ってみて宝物の英知と運を見つけるようにして欲しい。


 あなたのトラブルは、それがどこからか来たように見えても、たとえ、事故や天災であっても実は自分が呼び寄せたものなのである。そんなバカなと反論するかもしれない。だが、最悪になる前にあなたの無意識下で最低限の抑えた結果のトラブルなのだ。そして、さらに大事なことは、あなたの力量で解決できないトラブルは決して起こり得ないということである。そのトラブルはあなたに何かを教え、結果的に飛躍的な成長をもたらすはずである。悪いことが起きるのは、最悪のことではない。最悪とは人生に何も起こらないことである。何が最良で何が最悪かは、後になって初めてわかる。今度のトラブルはあなたに何を教えてくれるのだろう。


 本来、仕事先であっても、理不尽だと思ったときは我慢しないで感情を表現したほうがいい。相手から何も反応がないとわからない鈍い人や、他人の痛みに気づかない人もいる。そういう人に、あなたがどう傷ついたのかと感情を教えることは、その人の魂にとっても進化のチャンスとなる。大切なのは、物の言い方やタイミングである。あなたに、相手を愛しながら怒ることができるだろうか。相手が間違っていることを今教えなければ、その人がいつか損をすると思いやったとき、適切な言葉とタイミングが生まれてくる。そのとき、あなたの怒りはアドバイスに変わっている。


 愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。


 老いるということは、ことを始めなくなること、もうこれで終わりだと考え、だんだん心が縮んでくることです。したがって、これから先について考えることもなくなります。そうではなくて、未来に花が咲くことを希望する、そのことを考えることはできます。私の考え、私の思いは未来に開くのではないかという願いをもちながら、いま何を考えなければならないかと自問できることだと思います。


 世界が一つの舞台、そこでは男女は問わぬ、人間はすべて役者にすぎない。それぞれ出があり、引っ込みがある。

シェークスピア


 学校によって徐々に教えこまれる制度化された価値は、数量化された価値である。学校は人間の想像力をも含めて、否、人間そのものまでをも含めて、すべてのものが測定できるような世界へ若者を導き入れる。

 学校において何でも測定するように教育されてきた人々は、測定できない経験を見逃してしまう。彼らにとって測定できないものは第二義的となり、彼らを脅かすものとなる。

イヴァン・リッチ


 現在の大都会の生活で最も忘れられているのは、退屈するという心の状態ではないか。何もしない、ボヤーッとして、退屈しきっている状態。これはあるいはいまの忙しすぎる都会の生活の中で唯一自分にかえる機会かもしれないのに。そのせっかくの機会をくだらない映像や、流行の音楽で使ってしまうなんてもったいないと思わないのでしょうか。


 死はいつ人を襲うかもしれず、つねに今日がその日かもしれぬと覚悟しなければならぬのが、私たちの生である。吉田兼好は『徒然草』の中でくり返しその考えを持つ必要を説いているが、事実そのとおりであって、だとしたら自己の実現を先延ばしにのばす人は、明日を知らぬ人というしかないのである。「今ここに」をおいて他のどこに私たちの生きられる時と場があろう。


 マニュアルにしたがってばかりいると、人は自分で考えることをしなくなる。「ここで食べるんだけれど、ハンバーガーを一つください」という客に、「こちらでお召しあがりになりますか」と機械的に質問して、おかしいということにきがつかない接客になる。それと同じで、安全確実といわれている生き方や、多数派の生き方を何の疑問もなく模倣するようなことばかりしていると、自分が他人の人生をなぞっているだけだということにさえ気がつかなくなっていく。もちろん、それはそれで生きていける。それでいいという人は、そういう生き方を続けたらいい。しかし、自分の人生をより深く生きようとするなら、まず、「自分はこう生きてみよう」というものを持つことだ。それがスタートになる。


 夢が実現することは喜ばしいことだ。しかし、それ以上に、夢を抱くことは、素晴らしい。夢を抱くことによって、人生がいきいきとしたものになるからだ。元気な声も、輝く顔も、充実した日々も、すべてその人に夢があるからである。


 社員がよく働いている会社では、社長のスケジュールを社員が全部知っています。社長室が閉鎖されていない。ヒラ社員がどんどん社長室に入っていって、ヒラ社員のたまり場になっている会社が伸びていく会社です。のりとはさみを使って切り貼りするような作業を、ヒラ社員が社長室で平気でやっているような会社が社員が動いていく会社です。


 生きがいとは、自分にとっての美しいものを追求することであり、自分が追求している美しいものを、みんなに共感してもらうことだ。さらに欲をいえば、この世を、自分が美しいと感じるものばかりにすることだ。


 仕事自体が人助けだと言うひともいるが、仕事以外にも助けを必要としている人はたくさんいる。どんな問題も小さな事から始めればやがて解決できる。何をすればではなく、どこから気がついていくべきかである。


 日本のサービス業はたいてい若い人を雇いたがる。よく働き、職場が明るくなるからだろうが、実態は自己中心的で仕事にムラがあるという経営者が多い。ヨーロッパではホテルやレストラン、旅行代理店など熟年の人をサービス業に雇っている所がたくさんある。サービス業の基本は相手の立場に立つ視点にある。若い人の批判をしているわけではない。ただ、人生経験の豊かな人が、人の苦楽を知る必要のあるサービス業に向いていると思うだけである。


 親がいて、子どもがいて、そうした集団を家族といいます。でも、ただ両親がいて、子どもが誕生すればすぐに家族になれるかというと、本当はそうではないのです。お互いを思いやったり、助け合ったり、愛し合ったり、認め合ったり という環境のなかで、初めて家族の関係が育まれていくのです。子どもに良い習慣を教えることは、親から子への愛情表現ということもできます。


 自分を甘やかす者は結局不幸な人間になり、自らむち打って努力する人は素質に恵まれぬ人でも救われる。


 からだがそう悪くなくても、ただ老いのために人間としての働く権利を放棄した人は、生きがいや、生きる幸福を失います。


 私たちはめいめいの生き方を見いだして、自己開拓をしつづけるという強い意志をもち、老いても価値ある仕事に就けたなら、それは幸福な人生といえるでしょう。


 人は、利益を離れて自分以外のものに自分を捧げるという習慣がありませんと、引退後はただひたすら孤独に陥ることになります。しかも、人は老いてから大病をしますと、体力だけでなく精神力まで急速に落ちます。心身を積極的に使うことよりも、用心のために過度の安静に傾き、それがかえって悪循環を招きます。老人は病んでも、自らを老いの中に幽閉してはなりません。


 悟るということは、知識ではありません。体験の中から生じる知恵であり、迷うことのポジティブな成果として勝ちとれるものです。


 「あきらめない」限り、ハードルの高さは問題ではない。

ヘレン・ケラー


 ある一定の指導者の基で仕事をしていると、指導者の判断基準を押しつけられるようになる。そのため、全く新しい考え方が生まれにくくなる。それを回避するためには環境を変えてみることだ。多くの書籍を読むことも大切であり、異なった考え方を持つ指導者についてみるのも必要となる。常に新しい領域の異なる考え方も取り入れることを忘れないようにすることだ。


 「大きな幸せは天から、ささやかな幸せは人からやってくる」と中国のことわざがある。人が導いてくれる幸せはささやかなものである。本当に大きな幸せは、日々の自分の地道な努力によって、いずれかのタイミングで天が導いてくれる。そのチャンスが到来したときに生かせるか、あるいは気がつくかかがキーポイントのような気がする。


 良い水は体のエネルギーバランスを調整するだけでなく、気も浄化する。仏教の斎戒沐浴もキリスト教の洗礼も神道のみそぎも水である。良い水の使い道は無数にある。


 一時的に見捨てられたように感じたときでも、必ず助けがくると人生を信頼することである。人生を信頼する者にだけ、幸せは訪れるのだから。


 気分が高まり、作業が集中して出来るようになるには、ある程度理解することが必要だ。頭を使って判断しながら作業しないと気分が乗らない。何かをするにも準備の時間が必要だということである。自分らしい仕事をするには、自分の体力や気力に合ったものだけをするようにしないと目標を達成できない。他の人に左右される仕事はなるべく避けることである。落ち着いた気分で仕事をしないとミスが発生しやすくなる。


 小さな喜びを見つけて行動しよう。何事も小さな事の積み重ねによって大きな喜びがもたらされるのだから。


 どんな人間的美徳も、それがまだすっかり習慣となってしまわない限り、たしかにわがものとはいえない。徐々に勤勉の習慣を養うならば、怠慢の抵抗はしだいに弱まり、ついには勤労の生活が欠くことのできないものになる。そうなれば、もうわれわれは人生における普通の困難の大部分を免れたも同然である。

ヒルティ


 心ほど扱いにくいものはない。無意識の世界に奢りが芽生えると一寸した行動にも現れてしまう。行動には色々な形がある。言葉であったり、態度であったり、文章表現であったりする。心がいつも清らかであれば行動も清らかなものとなる。人々は馬鹿ではない。一寸した変化でもそれを見抜き反応する。そして、一寸した変化をとらえて人を評価する癖がある。自我を確立しておくことが大事である。色々な人がいるのだから、賛成してくれる人も、反対する人もいる。そのことを当たり前のことだというふうに考えることだ。他の人の基準で自己を評価しないことだ。


 誰もが喜ぶことができるのは褒められて嬉しいと思うときである。人が嬉しいと思ったその表情をみるときも嬉しいものである。人はやらされていると感じればストレスとなって態度や行動となって現れる。心が豊かであれば褒める行為も心からの表現となって満ち溢れる。心が豊かであれば人に対してその豊かさを分かち合えることができる。豊かな心は神様の心を反映しているといえよう。慈悲の心は誰が触れても心が和むことができる。赤ちゃんを見て心が慰められるのも神様の心が映し出されているからであろう。


 どんな受難にも理由があり、真相を解明しようと努力し、そこから何が得られるのかを探ったとき、受難はもはや受難ではなくなる。魂に課せられた進化のための大きな試練となる。それは断絶していた家族間の調和を取り戻すことを教えたり、人やモノに感謝することを思い出させるチャンスなのかもしれない。


 人間は相手にどう見てもらえるかではない。自分をどう表現したときに自分らしくなれるかである。あなたは相手の中で生きている人形ではないのだ。誰もあなたの本質を理解してくれないと孤独に思う必要はない。誰よりもあなたをよく知っているもう一人の自分がいつも見つめている。自分に正直に生きること。そして人を純粋に見ること。そうすれば社会もあなたも正しく見るようになる。


 振り返ってみると何をするために生まれてきたのかわからない。ただ生きているから生きたとしか思えない。すべてにおいて目標がなかったように思う。生きることの本源的な意味を理解していなかったようだ。人生の最終章になって気づいたことである。


 凡人は、自分のできることはせず、できもしないことをしようとする。できもしないことにあこがれたり、幻惑されていたのでは、みずからが成功することはできない。


 無理をして頑張りすぎることはないが、後ろ向きにならないことだ。諦めないことだ。人は、諦めたとき、だめだと自分を見限ったとき、自分のなかにある可能性を失うのである。ゆっくりでいいから、夢や希望に照らし出されて地平に向かおう。


 光、光、光、光、光が欲しい。一寸先が光でありたい。


 いま自分に必要なことを目標にして懸命に生きることこそ、具体的な自分の人生であり、人生においてなすべきことである。


 人が生きていたという痕跡は、いずれ消え忘れられていく。何代にもわたって生まれ生きそして消えていく。これが人の生きることなのだと思う。マクロの視点から見れば生老病死を繰り返しているに過ぎない。命を伝えていくということのみである。空しいことではないだろうか。


 いまあることは宇宙から与えられたことであり、感謝して受け止めていこう。何も不安に思うことはない。総てのことを受け入れて行動してみることである。 与えられた命をどのように生かしたらよいかである。先が描けなくなっている。


 このホームページもそろそろ終わりが近づいてきた。続けようという気力が喪失したようだ。色々な人がいろいろな視点から意見を発信している。余り変わり映えのしない意見はそろそろ引退すべき時が来たようだ。ホームページを見てくださいました方々には、厚く御礼を申し上げます。時の経つのは早いものです。 書き始めてから19年がたとうとしています。自己の意見は僅かであったと思います。人の意見をそのまま書いていたように思います。