水無瀬恋十五首歌合 ―雨に寄する恋―


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〔寄雨恋〕雨にことよせて恋の心を詠む。『六百番歌合』と『仙洞句題五十首御会』(建仁元年九月)に先例がある。古くは『万葉集』巻七の「春相聞」「秋相聞」の部、および巻七の「譬喩歌」の部に「寄雨」の類題があり、すでに雨を涙に喩える例も見える。
最後の二題は「寄歌(よせうた)」である。


六十六番 寄雨恋
   左             権中納言
雨ふれば軒の雫のかずかずに思ひみだれてはるるまぞなき
   右            俊成卿女
ふりにけり時雨は袖に秋かけていひしばかりを待つとせしまに

左歌、「雨ふれば」とおけるより、末の句まで、雨のよせ有りてはきこえ侍るを、右の歌、「時雨は袖に秋かけて」などいへる文字つづき、えんに侍るにや。仍テ勝ト為。

左(公継)
雨ふれば軒の雫のかずかずに思ひみだれてはるるまぞなき


【通釈】雨が降って、軒の雫がしきりと落ちる。その数の多さほどに思い乱れて、私の心は晴れる間がない。

【補記】公継が題冒頭に置かれるのはこれが最初で最後。判詞に指摘されているように、「かずかずに」「みだれて」「はるる」など、雨の縁語を列ねて、優美にまとめている。題「寄雨恋」としてはありふれた発想だが、地歌の良き見本と言うべきか。

右(俊成卿女)
ふりにけり時雨は袖に秋かけていひしばかりを待つとせしまに


【通釈】袖に時雨は降ったことだ、秋になって…「秋になったら」と契った、その言葉ばかりを頼りに、待つ気でいる間に…むなしく時は過ぎて、約束は反古になってしまった。私の袖には涙が降り注ぐ。

【語釈】◇ふりにけり―「(時雨は)降りにけり」「(いひしことは)古りにけり」の掛詞。◇秋かけて―上下の句に掛かる。秋になって時雨は…、秋を目当てとして約束した…。

【本歌】「伊勢物語」九十六段
秋かけていひしながらもあらなくに木の葉ふりしくえにこそありけれ

【補記】掛詞や倒置法、本歌取りを駆使し、極度に圧縮した表現ながら、情意はよく伝わり、俊成女の本領発揮の一首であろう。「若宮撰歌合」「桜宮十五番歌合」では六十九番左の慈円の歌と合わされ、「殊にやさしきさまなり」と賞讃されて勝っている。

【他出】「若宮撰歌合」十二番右勝、「水無瀬桜宮十五番歌合」十二番右勝、「新古今集」1334、「定家十体」39(幽玄様)。ほかに「自讃歌」「新三十六人撰」など。

■判詞
左歌、「雨ふれば」とおけるより、末の句まで、雨のよせ有りてはきこえ侍るを、右の歌、「時雨は袖に秋かけて」などいへる文字つづき、えんに侍るにや。仍テ勝ト為。


【通釈】左の歌は、(初句に)「雨ふれば」と置いてから、末の句まで、雨と縁のある語を続けているように聞こえますが、右の歌の「時雨は袖に秋かけて」などと言った文字つづき、艶ではございませんか。よって勝とします。

▼感想
同じく雨に涙を喩えるという題の基本に立ちながら、旧風(古今風)と新風(新古今風)、それぞれのお手本のような対照的な歌の合せである。左の公継の歌が流暢に安定しているだけであるのに対し、右の俊成女の歌はまるで身を捩るような詞遣いで驚かせつつ、このうえなく優艷である。



六十七番
   左              有家朝臣
あれまもる雨も涙もふるままにえならぬ床に水たまりつつ
   右             定家朝臣
ゆくへなき宿はととへば涙のみさののわたりのむらさめの空

左、「えならぬ床」は我が床にや侍らん。右、「佐野のわたりのむらさめの空」、ふるからずはよろしくも侍るべし。勝の字付け侍りにけり。

左(有家)
あれまもる雨も涙もふるままにえならぬ床(とこ)に水たまりつつ


【通釈】雨は屋根の粗い隙間から洩れて来るし、私の涙も堰がゆるんでしまって、とめどなく溢れ落ちるしで、床はあり得ぬ様に水が溜まってゆく。

【語釈】◇あれまもる―荒間漏る。『御室五十首』の守覚法親王作に「荒間もる軒ばの月は露しげきしのぶよりこそやどりそめけれ」と用例がある。◇えならぬ―あり得ないほどである。並大抵でない。

【校異】親長本、末句は「露まさるらし」。

【補記】「あれまもる」「えならぬ」など珍しい詞遣いだが、ありふれた情趣を誇張して詠んでいるに過ぎない。

右(定家)
ゆくへなき宿はととへば涙のみさののわたりのむらさめの空


【通釈】どこへゆくとも知れぬこの旅、そして我が恋――今宵の宿はどこかと自ら問えば、答えはなく、ただ涙があふれるばかり。佐野の渡し場で、村雨を降らせる空の下…。

【語釈】◇さののわたり―佐野の渡り。万葉集の「苦しくも降り来る雨かみわの崎狭野の渡りに家もあらなくに」(長意吉麻呂)に由来する歌枕。現在の和歌山県新宮市。但し中世には大和国の歌枕と考えられたようである(『八雲御抄』など)。

【本歌】長奥麻呂「万葉集」
苦しくも降り来る雨かみわの崎狭野の渡りに家もあらなくに

【補記】歌枕「さののわたり」は、もはや実在の土地とはまったく無関係に、進退窮まった作中人物の境涯を象徴しているにすぎない。上句も極めて暗示的な表現で、窮まった幽玄態の歌というべきであろう。

【他出】「拾遺愚草」2549。

■判詞
左、「えならぬ床」は我が床にや侍らん。右、「佐野のわたりのむらさめの空」、ふるからずはよろしくも侍るべし。勝の字付け侍りにけり。


【通釈】左の「えならぬ床」は、我が床ということでしょうか。右の「佐野のわたりのむらさめの空」、古めかしく聞こえないのであれば、結構でもありましょう。勝の字を付けました。

▼感想
定家の勝は文句の付けようがないところだが、「佐野のわたり」は万葉歌に見える歌枕であり、「むらさめの空」は新古今時代に流行した締めの句であったので、「ふるからずは」(古くて陳腐でなければ)という留保が付いたのであろう。



六十八番
   左             親定
おもふことそなたの空となけれども伊駒の山のあめの夕暮
   右              雅経
ながめわびたえぬ涙や雨とふるしぐるる空にまがふ夜の袖

左歌、「そなたの空となけれども」などいへる、誠にをかしくこそみえ侍れ。右歌、「たえぬ涙や雨とふる」などいへる、えんにはみえ侍れど、猶左の「雨の夕ぐれ」、あはれおほくこもりてみえ侍り。勝の字しかるべく侍るべし。

左(後鳥羽院)
おもふことそなたの空となけれども伊駒(いこま)の山のあめの夕暮


【通釈】私の物思いは、そちらの空にゆかりがあるとか、そういうわけでもないのだけれど、つい生駒山の方が眺められる――山に雲がかかり、雨を降らせる、この夕暮……。

【語釈】◇伊駒の山―生駒山。奈良県と大阪府の境の山。

【参考歌】「万葉集」
君があたり見つつも居らむ生駒山雲なたなびき雨は降るとも
  「伊勢物語」第二十三段
君があたり見つつを居らむ生駒山雲なかくしそ雨は降るとも

【補記】上の参考歌は、伊勢物語の名高い「筒井筒」の段の後半に出て来る。河内国高安の女が、心離れた「大和びと」を思い、大和との国境をなす生駒山を眺めての作である。後鳥羽院歌の情趣はこれを遠い背景とする程度で、独立した鑑賞を促す歌となっている。

【他出】「若宮撰歌合」十一番右持、「水無瀬桜宮十五番歌合」十一番右持、「後鳥羽院御集」1608。

●右(雅経)
ながめわびたえぬ涙や雨とふるしぐるる空にまがふ夜の袖


【通釈】夜空をじっと眺め、物思いに耽る――やがてその気力も失せて、堪えきれない涙が雨と降るのだろうか。時雨れる空と見分けがつかない、夜の我が袖よ。

【語釈】◇ながめ―「眺め」「長雨」の掛詞として用いることが多いが、この歌で掛詞を意識することが無用であることは言うまでもない。時雨(晩秋から初冬にかけての間歇的な雨)と長雨(仲秋頃の継続的な雨)はまったく異なるものだからである。◇しぐるる空にまがふ夜の袖―夜の衣の袖に涙を降り注ぐさまが、時雨の降る空と見分け難い、ということ。

【校異】親長本、第三句「雨となる」。

【補記】涙雨という常套の題材を、言葉のつなげ方の工夫で活き返らせようとしている。

【他出】「明日香井和歌集」1110。

■判詞
左歌、「そなたの空となけれども」などいへる、誠にをかしくこそみえ侍れ。右歌、「たえぬ涙や雨とふる」などいへる、えんにはみえ侍れど、猶左の「雨の夕ぐれ」、あはれおほくこもりてみえ侍り。勝の字しかるべく侍るべし。


【通釈】左歌、「そなたの空となけれども」など詠んだのが、まことに興趣に富んでみえます。右歌、「たえぬ涙や雨とふる」など詠んだのが、艶には見えますが、やはり左の「雨の夕ぐれ」、しみじみとした情感が多く籠もって感じられます。勝の字、もっともでございましょう。

▼感想
両首優艷の好一番だが、感情をそれと指示せず、「雨の夕暮」をことさら涙と関連づけなかった左歌は、それゆえにこそあわれ深く幽玄の境地に達し、右歌を遥かに引き離している。



六十九番
   左            前大僧正
はれぬ雨の曇りそめけん雲やなに恋よりたてし烟なりけり
   右             宮内卿
年へたる思ひはいとどふかきよの窓うつ雨も音しのぶなり

左、「雲や何」とおきて、「恋よりたてしけぶなりけり」といへるすがた、めづらしくもをかしくもみえ侍り。右は上陽人などの心さこそは侍らめ。左なほ勝たるべし。

左(慈円)
はれぬ雨の曇りそめけん雲やなに恋よりたてし烟なりけり


【通釈】いつまでも晴れない雨――そもそも曇り始めた時の雲は、いったい何だったのか。この恋からたちのぼった煙だったのだ。

【語釈】◇はれぬ雨―「心晴れず、止まらない涙」を暗示。

【校異】◇雲やなに―右傍に異本参照「(雲や)げ(に)」。判詞に引用された箇所にも同じ書き入れがある。親長本は「雲やけ(げ)に」。若宮撰歌合(有吉保氏蔵本)では「ゆかりかな」。桜宮十五番歌合(書陵部蔵本)では「空やなに」。

【補記】小味の効いたエスプリの歌。慈円らしい。

【他出】「若宮撰歌合」十二番左負、「水無瀬桜宮十五番歌合」十二番左負、「拾玉集」4959。

●右(宮内卿)
年へたる思ひはいとどふかきよの窓うつ雨も音しのぶなり


【通釈】長い年月を経てきた思いは、いよいよ深くなる、この深夜――窓を打つ雨も、音を忍ばせるようだ。

【語釈】◇いとどふかきよの―「ふかき」は、「思ひは」を受けるとともに、「よ(夜)」を修飾する。◇窓うつ雨―「蕭蕭たる暗雨 窓を打つ声」(白氏文集巻三 上陽白髪人)に拠る。

【校異】親長本、第二句「思ひやいとど」。

【補記】判詞に指摘されているとおり、白氏文集の上陽人を背景とした歌であろう。唐の玄宗の時、楊貴妃に妬まれ、上陽宮に幽閉されたまま年老いた官女が、さびしげな雨の音を聞きつつ秋の夜長を過ごす、という場面である。

■判詞
左、「雲や何」とおきて、「恋よりたてしけぶなりけり」といへるすがた、めづらしくもをかしくもみえ侍り。右は上陽人などの心さこそは侍らめ。左なほ勝たるべし。


【通釈】左、「雲や何」と置いて、「恋よりたてしけぶなりけり」といった姿が、珍しくも興趣深くも見えます。右は、上陽人などの心、こうであったでしょう。左がやはり勝でしょう。

▼感想
秋の長雨により、永く報われない恋の憂鬱を象徴させた二首。いずれも知的な発想、となれば、より「めづらしく」「をかしく」見える慈円の歌が勝つのも理の当然であろう。



七十番
   左              左大臣
こぬ人を待つ夜ながらの軒の雨に月をよそにてわびつつやねん
   右              家隆朝臣
わびつつもうちやはねぬる宵の雨にやがて更け行く鐘の音かな

左右の歌ふるき心ともにて侍るを、左、「月をよそにて侘びつつやねん」といへる心、殊によろしく侍るべし。仍て勝に付くべし。

左(良経)
こぬ人を待つ夜ながらの軒の雨に月をよそにてわびつつやねん


【通釈】来ぬ人を待つ夜――その間ずっと降り続ける軒の雨に、もう月はうち遣ってしまって、嘆きながら寝ようか。

【語釈】◇月をよそにて―月を無縁なものとして。今宵はもう月は出ないだろうと思い決めて。月夜なら恋人の訪問にまだしも期待できるが、雨夜ではそれもかなわない。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
月よにはこぬ人またるかきくもり雨もふらなむわびつつもねむ

【補記】本歌は「月夜なら来ぬ人を待ってしまう。いっそのこと雨が降ってくれれば、歎きながらでも諦めて寝てしまうのに」という心。これを反転して、雨夜でもやはり未練がましく恋人を待つ女心を詠んだ。「待つ夜ながらの」「月をよそにて」などの凝縮した表現に情感を籠めている。

【他出】「秋篠月清集」1448。

●右(家隆)
わびつつもうちやはねぬる宵の雨にやがて更け行く鐘の音かな


【通釈】あの人が来ないことを嘆きながら夜を過ごし、こんな状態で寝ることなどできようか。宵の雨はやまず、そのまま時は更けてゆき――雨音のなか、深更を告げる鐘の音を聞くことだ。

【語釈】◇うちやはねぬる―「やは」は反語。「うち寝る」を否定する。

【本歌】左歌に同じ。

【補記】こちらは本歌の続編といったところか。本歌で「わびつつもねむ」と床に臥した作中人物に、家隆は「うちやはねぬる」と不満を述べさせ、雨中、深夜の鐘の音を聞かせるまで虐めている。

【他出】「壬二集」2810。

■判詞
左右の歌ふるき心ともにて侍るを、左、「月をよそにて侘びつつやねん」といへる心、殊によろしく侍るべし。仍て勝に付くべし。


【通釈】左右の歌、古い歌の心が共通していますが、左の「月をよそにて侘びつつやねん」と詠んだ情趣が、格別結構でございましょう。従って勝に付けるべきです。

【語釈】◇ふるき心―古歌に詠まれた情趣。

▼感想
同じ本歌取り。まるで左歌を承けて右歌が詠まれたかのようにも見え、面白い合せとなった。月夜と雨夜の対比という主題をうまく取り込んだ良経の歌が、情趣の深さでそのまま押し切ったのである。



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最終更新日:平成14年2月15日