水無瀬恋十五首歌合 ―関路の恋―


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〔関路恋〕「関路(せきぢ)」は、関所へと通じる道。歌題「関路恋」は当歌合が初例のようであるが、「寄関恋」「関恋」の題は、『金葉集』の源俊頼作、『田多民治集』の藤原忠通作、『藤原教長集』、『六百番歌合』などに見える。
万葉以来、関は恋人を隔てる障害の例えとして詠まれて来た長い歴史がある。「関なくは帰りにだにもうち行きて妹が手枕まきて寝ましを」(大伴家持)。平安時代になると、須磨の関・逢坂の関などが詩的想像力を掻き立てる歌枕として好んで取り上げられた。


五十一番 関路恋
   左            前大僧正
東路やひとり旅ねの日数へて涙せきあへぬあしがらの関
   右             権中納言
いかで云はんかくこそ有りけれ関守もいづら勿来のなを答へけん

左歌、とがなくみえ侍り。右歌、「いかでいはん」など、珍らしきやうには侍れど、こころえず侍れば、左勝に定め申し侍りしなり。

左(慈円)
東路(あづまぢ)やひとり旅ねの日数へて涙せきあへぬあしがらの関


【通釈】東海道にひとり旅寝する日々を重ねて、ついに足柄の関に辿り着き、もはや涙が溢れるのを留めようにも留められない。

【語釈】◇東路―都から東国へと通じる道。この歌では東海道。◇せきあへぬ―堰き止め切れない。「堰き」は「関」の縁語。◇あしがらの関―足柄の関。神奈川県駿東郡小山町と南足柄市の境をなす足柄峠にあった関。現在、小山町に関所跡がある。

【補記】足柄の関以東が「坂東」と呼ばれていたように、この関は古人にことさら重要な境界として意識されていた。倭建命が足柄の坂下で亡き弟橘比売を偲び「あづまはや」と嘆息したとの伝説もある。境界性に敏感だった古人は、異界へと入り込むに際し、強烈なノスタルジー(家郷恋しの情)を覚えたのである。「涙せきあへぬ」の句には、そうした背景も考えるべきであろう。

【他出】「拾玉集」4956(「遠ざかるままに都のしのばれて涙せきあへぬあしがらの関」)。

●右(公継)
いかで云はんかくこそ有りけれ関守もいづら勿来(なこそ)のなを答へけん


【通釈】どのように言おう。こうだったのだ。関の番人も、さあどうか、勿来という名を答えたという話だ。(あなたも、私に「な来そ」―来るな―と言うだけだろう。)

【語釈】◇勿来―勿来の関。奥州三関の一つ。今の福島県いわき市勿来町。「なこ来(こ)そ」(来るな、の意)を掛けるのが普通。

【補記】この歌は意味不明。作者自身、分かっていないのではないか。

■判詞
左歌、とがなくみえ侍り。右歌、「いかでいはん」など、珍らしきやうには侍れど、こころえず侍れば、左勝に定め申し侍りしなり。


【通釈】左の歌は、難がないと見えます。右の歌は、「いかでいはん」など、珍らしいようではありますけれど、意味が理解できませんので、左を勝に定め申したのでございます。

▼感想
東国の関を詠んだ二首の合せ。という以外、特に言うことが見つからない。



五十二番
   左             家隆朝臣
わすらるるうきなもすすげ清見がた関の岩こす波の月影
   右              雅経
みし人のおも影とめよ清見がた袖に関もるなみのかよひぢ

左右の清見がた、ともによろしき様にはみえ侍るを、左の「うきなもすすげ」、いかにぞや聞え侍る。「なみのかよひぢ」は、すこしまさるべくやとはみえ侍れど、持に付け侍りにけり。

左(家隆)
わすらるるうきなもすすげ清見がた関の岩こす波の月影


【通釈】今頃都では、私が恋人に捨てられたという評判が立っているだろう。そんな浮名も洗い流してくれ、清見潟の関所の岩を越えて寄せる波よ。おまえの映す清らかな月の光によって。

【語釈】◇わすらるるうきな―忘らるる浮名。忘れられ捨てられたという評判。◇清見がた―駿河国の歌枕。清水市興津の海辺。「潟」は遠浅の海。富士山や三保の松原を望む景勝地。平安時代に関が設けられ、柵が海まで続いていた(「関屋どもあまたありて、海まで釘貫したり」と『更級日記』にある)。「清」は「すすげ」の縁語となり、結句の「月影」にも響く。◇波の月影―波に映った月の光。

【本歌】平高遠妻「後撰集」
わするなといふにながるる涙河うきなをすすぐせともならなん

【補記】家隆の技倆は十分に発揮されている作だが、やや誹諧歌ふうの軽みが感じられる。

【他出】「壬二集」2807。

右(雅経)
みし人のおも影とめよ清見がた袖に関もるなみのかよひぢ


【通釈】都で愛し合ったあの人の面影が、清らかに見え続けるよう、記憶にとどめてくれ、清見潟よ。波に打たれつつ通るこの関路、私は波のように寄せて来る涙を、袖で必死に抑え止めているのだ。

【語釈】◇みし人―かつて男女の契りを交わした人。この「見」は、情を交わす、夫婦として暮らす、などの意。◇とめよ 「とめ」は「せき(関)」の縁語。◇清見がた―左歌に既出。「清く見る」意を掛ける。◇袖にせきもる―袖で涙を堰き止めることを、清見が関の縁で「関守る」と言った。

【補記】雅経の手練の程がよく窺える作。声調もよくととのい、本題では最高の出来であろう。

【他出】「新古今集」1333。「明日香井和歌集」1107。

■判詞
左右の清見がた、ともによろしき様にはみえ侍るを、左の「うきなもすすげ」、いかにぞや聞え侍る。「なみのかよひぢ」は、すこしまさるべくやとはみえ侍れど、持に付け侍りにけり。


【通釈】左右の「清見がた」の歌、ともに結構な様には見えますが、左の「うきなもすすげ」、どうかと不審に聞こえます。「なみのかよひぢ」は、少し勝っているだろうかとは思いますけれど、(衆議判で)勝負なしと決まってしまいました。

▼感想
「うきなもすすげ」が「いかにぞや」というのは、いかにぞやと思える。後撰集の歌を忘失したか。俊成は雅経の歌がまさっていると見たが、衆議判の結果により持となった。好勝負。



五十三番
   左            俊成卿女
相坂の木綿付鳥よなれをしぞ哀れと思ひねになきてこし
   右             宮内卿
たえはつる人やはつらき心からなさへうらめし相坂の関

両首の相坂、いくほどの勝劣有りがたきやうに侍れど、ふるき心も故なきにあらず侍れば、左の勝にこそ侍らめ。

左(俊成卿女)
相坂(あふさか)の木綿付鳥(ゆふつけどり)よなれをしぞ哀れと思ひねになきてこし


【通釈】ないて人を見送るという逢坂の木綿つけ鳥よ、おまえのことをしみじみ思って、私も声あげて泣きながらこの関にやって来たのだよ。

【語釈】◇相坂―逢坂。山城・近江国境の峠。畿内の北限にあたり、東国との境をなす関があった。「逢ふ」という語を含みながら、人との間を隔てる関であるというパラドックスが王朝人に好まれ、さかんに歌に詠まれた。◇木綿付鳥―木綿をつけた鶏。もともとは、騒乱などがあった時都の四境で御祓いに用いるため関に置かれたという。

【校異】親長本は第四句「あはれとおもふ」。また、底本は第五句「ねに鳴きてこし」とあるが、「鳴」は親長本に従い平仮名に改めた。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
相坂の木綿つけ鳥もわがごとく人やこひしきねのみなくらむ
【参考歌】閑院「古今集」
相坂の木綿つけ鳥にあらばこそ君が行き来をなくなくも見め
(大意:逢坂の関にいる木綿つけ鳥であったなら、あなたの行き来を鳴き―泣き―ながら見送ろうが、我が身はそれも出来ず、ただ泣くばかりである。)

【補記】言外に、恋人と関で別れる悲しみを詠んでいる。

●右(宮内卿)
たえはつる人やはつらき心からなさへうらめし相坂の関


【通釈】あの人とは、すっかり仲が絶えてしまった。こうなってしまった原因は、あの人の冷淡さだったろうか。いや、わが心からのことだったのだ。その名さえ心の底から恨めしく思えるよ、人と「逢う」という名の、逢坂の関。

【語釈】◇人やはつらき―人は冷淡だったろうか、いやそうではない。「やは」は反語の係助詞。連体形で結ぶ。二句切れ。◇心から―自分の心が原因で。恋人との別れは、自分に咎があったのだ、ということ。また、第四句にもかかり、「心から(心の底から)うらめし」の意にもなる。

【補記】これも、「相坂の関」という「逢ふ」「別れる」両意を含んだ名からの発想であろう。

■判詞
両首の相坂、いくほどの勝劣有りがたきやうに侍れど、ふるき心も故なきにあらず侍れば、左の勝にこそ侍らめ。


【通釈】相坂を詠んだ両首、どれほどの優劣もありそうになく見えますけれども、古びた情趣も由緒がないわけではありませんから、左の勝でございましょう。

【語釈】◇ふるき心―俊成女の歌が取り入れた古歌の情趣。

▼感想
いずれも「相坂」という関の名に寄せて、恋人との別れを暗示的に詠んでいる。



五十四番
   左             左大臣
我が恋やこのよを関と鈴鹿川すずろに袖のかくはしをれし
   右              有家朝臣
誰も又関もれとやは清見がたみせばや袖のなみの月影

左歌の「こよひを関とすずか河」、珍らしくこそ侍れ。右の歌、「みせばや袖の」など優によろしく侍るを、上句いかにぞや聞え侍れば、左のかちたるべきなり。

左(良経)
我が恋やこのよを関と鈴鹿川すずろに袖のかくはしをれし


【通釈】私の恋は、この世を関のような障害とし、現世では実ることがないのだろうか。鈴鹿川を渡るとびしょ濡れになるように、むやみと袖がこんなに窶れてしまった。

【語釈】◇このよを関と―次句の「鈴鹿川」の「す」を借りて、「この世を関とす」。現世を関(障壁)として恋が実らないことを言う。「よ」には男女の仲の意もあり、「あの人との仲」の意も響かせる。◇鈴鹿川―三重県の鈴鹿峠付近に発し、伊勢湾に注ぐ川。渡り瀬の多い川として詠まれたり、「鈴」の縁で川音に着目して詠まれたりすることが多い。例「さみだれの日をふるままに鈴鹿河やそせの波ぞ声まさるなる」(皇嘉門院治部卿『詞花集』)。次句「すずろに」を導く序のはたらきもする。◇すずろに―わけもなく。むやみに。◇しをれし―涙で濡れてやつれた。

【校異】◇このよを関と―親長本は「こよひをせきと」。若宮撰歌合・桜宮歌合では「この世を関と」とあり底本に同じ。

【参考歌】藤原俊成「治承二年右大臣家百首」「新古今集」
難波人あし火たくやにやどかりてすずろに袖のしほたるるかな

【補記】技巧を凝らしつつ力みがなく、言葉の続け柄がみごと。雅経の歌とともに、本題の佳作であろう。

【他出】「若宮撰歌合」九番右負、「水無瀬桜宮十五番歌合」九番右負、「秋篠月清集」1445(第二句は「このせをせきと」)。

●右(有家)
誰も又関もれとやは清見がたみせばや袖のなみの月影


【通釈】誰もがみな、関の番をせよ――涙を堰き止めよというわけではあるまい。私は清見潟で都の恋人を思い、涙を流す。あの人に見せたいものだ、袖にかかった波に映る、月の光を。

【語釈】◇袖のなみの月影―「なみ」に涙を暗示。

【校異】親長本、初句は「これも又」。

【補記】上句は俊成の判詞にもある通り、意味不明。通釈は無理矢理意を通してみたに過ぎない。

■判詞
左歌の「こよひを関とすずか河」、珍らしくこそ侍れ。右の歌、「みせばや袖の」など優によろしく侍るを、上句いかにぞや聞え侍れば、左のかちたるべきなり。


【通釈】左歌の「こよひを関とすずか河」、珍らしくあります。右の歌は、「みせばや袖の」などが優で結構ですが、上句がどうかと聞えますので、左が勝って然るべきです。



五十五番
   左             親定
恋をのみすまの関屋の板びさしさして袖とも波はわかじを
   右              定家朝臣
すまの浦や波におも影立ちそひて関ふきこゆる風ぞかなしき

左右の須磨の関、左は「さして袖とも」など珍らしく侍る。右は「関吹きこゆる」などは、よろしく侍るべきを、「風ぞかなしき」、あまりにやと聞え侍るうへに、左誠にえんにみえ侍り。尤モ勝ト為可シ。

左(後鳥羽院)
恋をのみすまの関屋の板びさしさして袖とも波はわかじを


【通釈】恋しい思いばかりする須磨の関――その関屋の板廂の差す下で、私の袖ばかりがびっしょり濡れている。ことさら袖を目指して波が寄せるわけでもあるまいに。

【語釈】◇すま―須磨。いまの神戸市須磨区。西国との境をなす関があった。源氏物語では光源氏流謫の地。「為(す)」を掛ける。◇関屋―関所の番小屋。◇さして―末句「わかじ」に掛かる。このように否定を伴う場合「格別…でもない」の意になる。(板廂を)「差して」、(袖を)「指して」の意を掛ける。◇波はわかじを―波は(寄せる対象を)区別などすまいものを。

【参考歌】源師俊「千載集」
はりまぢや須磨の関屋のいたびさし月もれとてやまばらなるらん

【他出】「後鳥羽院御集」1605。

●右(定家)
すまの浦や波におも影立ちそひて関ふきこゆる風ぞかなしき


【通釈】ああ、須磨の浦で――しきりと寄せる波に、恋人の面影が浮かび、我が身から離れない。関を吹き越えてゆく風が切ない。(私も風のように都の方へと関を越えてゆきたい。)

【語釈】◇立ちそひて―「立ち」は現れる意。波の縁語。

【参考歌】在原行平「続古今集」
旅人は袂すずしくなりにけり関ふきこゆる須磨の浦風
「源氏物語・須磨」
須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆると言ひけん浦波…

【他出】「拾遺愚草」2546。

■判詞
左右の須磨の関、左は「さして袖とも」など珍らしく侍る。右は「関吹きこゆる」などは、よろしく侍るべきを、「風ぞかなしき」、あまりにやと聞え侍るうへに、左誠にえんにみえ侍り。尤モ勝ト為可シ。


【通釈】左右とも須磨の関を詠んだ歌。左は「さして袖とも」など珍らしくあります。右は「関吹きこゆる」などは、結構でしょうけれど、「風ぞかなしき」、行き過ぎではと聞こえます上に、左はまことに艶に見えます。当然勝とするべきです。

▼感想
源氏物語を背景に思えば、流謫の悲しみが漂い、定家の「風ぞかなしき」が行き過ぎた誇張とも思えないが、俊成の耳には、歌合歌としては「あまりにや」と聞こえたのであろうか。いずれも須磨の侘しげな情趣をよく描いて、なかなかの好一番だと思えるのだが。



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更新日:平成14年1月22日
最終更新日:令和4年6月11日