慈円の家集『拾玉集』より「花月百首」を抄出した。同百首については花月百首定家詠を参照されたい。テキストは青蓮院本を底本とする新編国歌大観によるが、表記は読み易さを考慮して適宜改め、またルビを振った。
001 吉野山花まつ空の朝霞さかぬ梢の色とこそ見れ
002 はやにほへひとりながむる山桜さかずはたれか尋ねてもこむ
003 春ならでたれかとひこし山里に花を待つこそ人を待ちけれ
004 木ずゑには花のすがたをおもはせてまづ咲くものは鶯の声
005 山里の春のあるじを人とはばおのがたづぬる花とこたへよ
006 吉野山はなをたづぬる人はみなわがたぐひとや我を見るらむ
007 さきそむる花の梢をながむれば雲になりゆくみ吉野の山
008 山桜にほはぬ程の白雲はいつかはよそのめにもかかりし
009 みな人の心にかかる物やなに春のやよひの白川の雲
010 花ゆゑにいとふ物までながめかなへだつる霞ちらす山風
011 ほかはおはず宿のものとはここのへの
012 まづ思ひ惜しむなげきのひまにただあはれ程なき花ざかりかな
013 山ざくら思ふあまりに世にふれば花こそ人の命なりけれ
014 春の花ながむるままの心にていくほどもなき世をすごさばや
015
016 ながむれば心もおはず山桜うき世のほかの花とこそ見れ
017 春をへて花をあはれと思ひしる心のやどはみ吉野の山
018 吉野山このすまひにぞ思ひしる憂き身ならずは花を見ましや
019 つくば山しげき梢をおしなべてさながら花と思はましかば
020 花の名を春とはいはん山里に花なかりせば春を見ましや
021 花の色やなほ濃からましにほふ
022 故郷と思ひしかども花ゆゑにかへりすむ身となりぬべきかな
023 吉野山花にかさなる花なれや桜が枝にかかる白雲
024 あくがれておほくの花を見しかどもなほ山里の色はありけり
025 身の憂さに思ひよそへてながむれどのかぬは花のなさけなりけり
026 花ゆゑにとひくる人のわかれまで思へばかなし春の山風
027 雲にまがふ高嶺の花の面影はちらで心にかかるなりけり
028 花にふく春の山風にほひきて心まどはすあけぼのの空
029 みぎはにもあらぬ桜の枝にさへさざ波よする志賀の山風
030 風わたる梢もみちも春ながら雪ふみわくる志賀の山ごえ
031 風をいたみ山こぐわれは舟なれや花の白浪わけてきつれば
032 山桜をしまぬ人もありぬべし風の心をわれになしつつ
033 松風にながめし秋は花ゆゑにいとふべしとは思はざりしを
034 み吉野の花の木ずゑにさそはれてあだに散りくる春の山風
035 いほのうへにいくへ錦をふきつらむ花ちる春の
036 花のちる吉野のおくのさむきかな空にしらるる雪と見るまで
037 桜花をしみかねたる夕ざれは涙も風にちる心ちして
038 山たかみ雲にまがへてみる花のちるははれぬる心ちこそすれ
039 山里の峰の白雲ちりぬれば花見る人もまたはれにけり
040 峰の花ちりかかれるをたよりにてながれぬかげをながす山水
041 あたらしや
042 み吉野の外山の花はちりにけり奥の梢やさかりなるらん
043 うつろへど人の心の花はなほ見えせぬ色になぐさみもしき
044 かくばかりへがたきものを月よりも花こそ世をば思ひしりけれ
045 心あれや惜しまれてこそ花はちれあはれ憂き身の風をいたまぬ
046 かねて思ふことはさながらたがふ世にこのことわりをそむく花かな
047 花はちりぬ又こむ春ははるかなり折につけたるなぐさめやなに
048 さらでだにちればむなしき花の色にそめし心を思ひかへしつ
049 思ふべし今年ばかりとながめきて
050 ちる花の故郷とこそ成りにけれわがすむ宿の春の暮れがた
051 三日月のほのめきそむる垣根よりやがて秋なる空の通ひ路
052 待ちえたるかげはものかは夜半の月出づるけしきの山の端の空
053 出でやらぬ月をぞ思ふ待ちえてもやがて涙にくもるべけれど
054 すむ月よ思ひしままの心かな秋とたのみし影をまちえて
055 たづねきて見るもかひある広沢の池こそ月の光なりけれ
056 あふ坂にこまひく夜半の月影を秋のみ空の関とこそみれ
057 くもるとて今日のみ空をながめずは名をえたる夜のかひやなからん
058 秋の夜をなに長月と思ひけむこよひの月にあくるしののめ
059 秋の夜はよもさらしなと思ひしにをばすて山に雲のかかれる
060 秋の夜の月のあたりの村雲をはらふとすれば荻のうは風
061 をりしれる秋の野原の花はみな月の光のにほひなりけり
062 さ牡鹿も今夜は声やたてざらむ月の光の雪にむもれて
063 虫のねを月とともにぞながめつる野原の露を袖にまかせて
064 たれとなく心に人の待たるるやながむる月のさそふなるらん
065 くもれ月ながむる人やたち入るといらずは空も心ありなむ
066 うち
067 月影の身にしむ音となる物は光をわくる峰の松風
068 ながめこし心は花の名残にて月に春あるみ吉野の山
069 いほりさす野ぢも山ぢも月さえて折よき旅の草枕かな
070 み山べは木かげもくらし浪ぢこそはるかに月はさえまさりけれ
071 清見がた月の光のさえぬれば浪のうへにも霜はおきけり
072 憂き身にはながむるかひもなかりけり心にくもる秋の夜の月
073 わが涙こはなに事ぞ秋の夜のやみなき空にやみをしかせて
074 春も秋も思ひわかれぬふかき山にすむなる人も月は見るらむ
075 思ひ入る心の末に月さえてふかき色ある山の奥かな
076 思ひ入れてながむる夜半の月影は都の空もをばすての山
077 くもりなく月はさりともてらすらむ物思ふ身の行末の秋
078 みな人の心のうちにすむ月のほかとや思ふ秋のみ空を
079 くもりこし心の空もはれぬべしうき世をさそふ月をながめて
080 かへりいでてのちの闇路をてらさなん心にやどる山の端の月
081 いつかわれ都のほかの月をみて思ひし事を思ひあはせむ
082 わが宿にあまりなさえそ夜半の月思ふことある身とはしらずや
083 見る人の心よりすむ月なればふけ行くままにさえまさりけり
084 播磨がた磯うつ浪はみみなれてかたぶく月に夢をのこしつ
085 月影のながるる
086 野べしむるすずの篠屋に
087 うき世思ふ柴のいほりのひまをあらみさそふか月の西にかたぶく
088 有明の月の行方をながめてぞ野寺の鐘はきくべかりける
089 月を待つ宵ののたもとのままよりもなほ露ふかきしののめの空
090 月よりもなほすみまさる心かなひとり寝覚めの秋の有明
091 月影にあはれをそふる鹿のねにまたあはれそふ鐘の音かな
092 さえわたる月に心のかよふかな浜名の橋の有明の空
093 いりぬれど涙の露に影とめて月はたもとに有明の空
094 山の端にあかで入りぬる月かげは松のあらしに残るなりけり
095 年をへて月やあはれと思ふらむながむる人のかはりゆくをば
096 木のもとに月も光をやはらげて神さびわたる峰の秋風
097 三笠山ながむる月は行末の秋もはるけし秋の宮人
098 万代の秋のためしと見ゆるかな
099 いかばかり暮れゆく秋ををしままし月のさかりの別れなりせば