承均 そうく(ぞうく) 生没年未詳

伝未詳。元慶(877-885)頃の人で、父は大和大掾を勤めた人(古今和歌集目録)。勅撰入集は古今集の三首のみ。

雲林院(うりんゐん)にて、桜の花のちりけるを見てよめる

桜ちる花のところは春ながら雪ぞふりつつ消えがてにする(古今75)

【通釈】桜が散る花の林を見れば紛れもない春であるのに、地面では雪が降り積もってはなかなか消えないでいる。

【語釈】◇雲林院 洛北紫野にあった寺。京都市北区に紫野雲林院町の名が残る。もと淳和天皇の離宮であったが、その後、常康親王に付され、また親王の死後は遍昭が住んだ。平安朝の歌集には「雲林院の桜を見てよめる」などの詞書が散見され、桜林のある広大な庭を有したらしい。桜の花は雲に喩えられたので、「雲林院」という名自体が桜への連想を持ち、詞書にわざわざ場所の名を入れたのは用心あってのことである。◇桜ちる花のところ 桜の花が散るところの意であるが、詞書によって、具体的に花の名所雲林院の桜林を指すことになる。

【補記】当時桜の名所であった雲林院で、花が散っていたのを見て詠んだという歌。散った花を雪に喩え、融けやすい春の雪のはずなのになかなか消えないと見て興じた。「桜散る花のところ」については諸説あり、例えば窪田空穂『評釈』は「桜が、散る花となっている場所、すなわち樹上」と解して、「樹上では春の花であるのに、樹下では忽ちに冬の雪と化す」と樹上樹下を対照させているとするが、やや分解的に過ぎる見方ではないか。むしろ「花のところ」というような大雑把な捉え方が興趣を生んでいる歌であろう。

【他出】新撰和歌、綺語抄、古来風躰抄、定家八代抄、歌枕名寄

【主な派生歌】
咲かぬまは花と見よとやみ吉野の山の白雪きえがてにする(二条院讃岐[新勅撰])
そことなき花の所も春ふかみ空に知られで匂ふ春風(洞院公賢[新拾遺])

雲林院にて、桜の花をよめる

いざ桜われも散りなむひとさかりありなば人に憂き目みえなむ(古今77)

【通釈】さあ桜よ、私もおまえが散るのと一緒にこの世を去ろう。一時の盛りが過ぎてしまえば、人に情けない我が身をさらしてしまうから。

【語釈】◇ひとさかり 桜の満開に人生の盛りの意を掛ける。

【補記】同じく雲林院で桜の花を見て詠んだという歌。美しいままに散ってしまう花を見て、自身も衰えた醜態をさらすことなくこの世を去ろうとの決意。自然から人事への連想は、当時好まれた詩情。

【他出】素性集、古今和歌六帖、僻案抄

【主な派生歌】
いざ桜散るをつらさに言ひなさで梢のほかの盛りともみむ(藤原基任[新拾遺])
時ありて花も紅葉も一さかりあはれに月のいつもかはらぬ(*京極為子[風雅])
憂き目のみ見てこそ過ぐれ一盛りありなば桜散るは何ぞは(大隈言道)


更新日:平成16年01月12日
最終更新日:平成21年03月08日