宗祇 そうぎ 応永二十八〜文亀二(1421-1502) 別号:自然斎・種玉庵・見外斎

出自未詳。姓は飯尾(いのお/いいお)とされ(一説に母の筋)、父は猿楽師であったとの伝がある。生国は紀伊と伝わるが、近年、近江説も提出された。
前半生の事蹟はほとんど不明。一時京都五山の一つ相国寺で修行し、三十余歳にして連歌の道に進んだらしい。宗砌(そうぜい)・専順・心敬らに師事し、寛正六年(1465)頃から連歌界に頭角を表わす。文明三年(1471)、東常縁より古今聞書の証明を授かる(「古今伝授」の初例とされる)。同四年には奈良で一条兼良の連歌会に参席し、同八年(1476)には足利幕府恒例の連歌初めに参席するなど、連歌師として確乎たる地歩を占めた。同年、宗砌・専順・心敬らの句を集めて『竹林抄』を編集する。同十九年(1487)四月、三条西実隆に古今集を伝授する。長享二年(1488)正月二十二日、肖柏・宗長と『水無瀬三吟百韻』を巻く。同年三月には足利義尚の命により北野連歌会所奉行に就く栄誉を得たが、翌年の延徳元年(1489)にはこの任を辞した。明応二年(1493)、兼載と共に准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』を撰進、有心連歌を大成した。この間、連歌指導・古典講釈のため全国各地を歴遊し、地方への文化普及に果たした役割も注目される。文亀二年(1502)七月三十日、箱根湯本の旅宿で客死。八十二歳。桃園(静岡県裾野市)の定輪寺に葬られた。
飛鳥井雅親一条兼良・三条西実隆らと親交。弟子には肖柏・宗長・宗碩・大内政弘ほかがいる。著書には上記のほかに源氏物語研究書『種玉編次抄』、歌学書『古今和歌集両度聞書』『百人一首抄』、連歌学書『老のすさみ』『吾妻問答』、紀行『筑紫道記』などがある。家集には延徳三年(1491)以後の自撰と推測される『宗祇法師集』があり、自撰句集には『萱草(わすれぐさ)』『老葉(わくらば)』『下草』『宇良葉(うらば)』がある。

宗祇法師の墓 神奈川県足柄下郡箱根町 早雲寺

「宗祇集」(「宗祇法師集」) 群書類従270(第15輯)・私家集大成6・新編国歌大観8

  4首  3首  5首  2首  4首 計18首

初花

消えもあへずけさやは桜雪とのみ思へばかをる春の山風(宗祇集)

【通釈】すっかり消え果てず、今朝はもしや桜が咲いたのだろうか――雪とばかり思っていたら、春の山風が薫ったよ。

【補記】第二句は「桜」に「咲く」を掛けて「今朝やは桜咲く」の意に用いている。この「やは」は感動を伴う疑問といったところ。

【参考歌】よみ人しらず「拾遺集」
吉野山きえせぬ雪と見えつるは峯つづきさく桜なりけり

寄霞花

かすめただ咲きも咲かずも春の山ただおしこめて桜とをみむ(宗祇集)

【通釈】ひたすら霞んでしまえ。咲いている木も、咲いていない木も、春の山をすべてひっくるめて桜と眺めよう。

【補記】「おしこめて」は霞の縁語として「(霞が春の山を)包み込んで」といった意を兼ねる。

【参考歌】正徹「草根集」
明くる夜の月と花との哀をもただおしこめてかすむ春かな

周防国に侍りしとき百首歌よみしに、おなじ心を

おもかげはかすめる花もとほからでこずゑにまよふ春の山ごえ(宗祇集)

【通釈】目に浮かぶ面影では、霞んだ花も遠くは感じられなくて、梢に迷いながら行く、春の山越えよ。

【補記】「こずゑにまよふ」とは、花が咲いていると見える梢に誘われて、道を迷いながら行くことを言う。なお宗祇が周防国(今の山口県東部)に滞在したのは、文明十二年(1480)〜十三年と延徳元年(1489)。

【本歌】藤原俊成「新勅撰集」
おもかげに花のすがたをさきだてていくへこえきぬ峰の白雲

源盛卿許にて歌よみ侍りしに、夕雲雀

思ひすてぬ草のやどりのはかなさもうき身ににたる夕雲雀かな(宗祇集)

【通釈】雲雀は暮れてゆく空への思いを捨てられず、鳴きながら草原の巣へ落ちてゆく――現世への思いを断ち切れず、草庵に果敢なく暮らす憂き身に何と似ていることか。

【補記】題「夕雲雀」では、暮れてゆく空でもまだ鳴いている雲雀、あるいは鳴きながら草原の巣へ降下する雲雀を詠むのが普通。ここでは後者。

閑居秋風といふ事を

さびしさも身になれはてて山里は秋ふく風の夕暮もなし(宗祇集)

【通釈】寂しさも我が身にすっかり馴染んでしまって、山里では、秋の夕暮に吹く風だからと言ってどうということもない。

【補記】古歌に歌われた秋の夕暮の寂寥も、孤独に慣れた我が身には無縁だと言う。

【参考歌】真観「白川殿七百首」「題林愚抄」
身になれて年はへぬれど今更にあはれさびしき秋の夕ぐれ

秋夕感思

身は老いぬ何の思ひの露にてもかからじとすれば秋の夕暮(宗祇集)

【通釈】我が身は老いてしまった。もはや何の思い悩むことがあろう――我が身に涙など露かかるまいと思えば、時は折しも秋の夕暮で――。

【補記】これは前歌とは逆に、老いても秋の夕暮の情趣に思わず涙を催す心情を詠んだ。

【参考歌】宗尊親王「柳葉集」
袖のうへにとすればかかる涙かなあないひしらず秋の夕暮

槿を

老はなほ夕かげまたぬ露ながらうつろふ花をはかなくやみん(宗祇集)

【通釈】老いた我が身は夕日を待たずに消えてしまう露のようなものだが、それでも露に濡れたまま衰えてゆく朝顔の花をはかないものとして眺めるのだろうか。

【語釈】◇槿(あさがほ) 古語の「あさがほ」がどの花を指したのかは諸説ある。いずれにしても朝ひらいて夕しぼんでしまう夏の花。因みに漢語の「槿」は木槿(むくげ)のこと。◇露ながら 「露(のようなもの)であるのに」の意と「露をつけたまま(衰える花を…)」の意を兼ねている。

【参考歌】紀友則「古今集」
露ながらをりてかざさむ菊の花おいせぬ秋のひさしかるべく
  藤原道信「後拾遺集」
あさがほを何はかなしと思ひけん人をも花はさこそみるらめ

谷落葉

道たえてはらふ人なき谷の戸の夕日がくれにちる木の葉かな(宗祇集)

【通釈】道が途絶えて、払いのける人もいない谷の、夕日が山の端に隠れる頃おいに散る木の葉であるなあ。

【補記】すでに谷を落葉が埋めているが、さらに枯れ切った葉がいくつかはらはらと散るイメージが思い浮かぶ。「夕日がくれ」は、日は山に隠れたものの、空は余光になお映えている様であろう。

島千鳥

妹が島ちぎりなくとも折からの夕なみ千鳥おとづれてゆけ(宗祇集)

【通釈】恋しい相手の棲む妹が島へ、約束はしていなくても、折からの夕波に乗って、千鳥よ鳴きながら訪れてゆけ。

【語釈】◇妹が島 万葉集初出の歌枕。和歌山市加太の沖の友ヶ島かという。◇夕波千鳥 万葉集の人麻呂作に由来する歌語。もともとは夕方の波に騷ぐ千鳥を言う。◇おとづれて 「音づれて」、すなわち鳴き続けての意が響く。

【参考歌】よみ人しらず「新続古今集」
妹が島かたみのうらのさ夜千鳥おも影そへて妻や恋ふらむ

を笹原ひろはば袖にはかなさもわするばかりの玉あられかな(宗祇集)

【通釈】笹原に散らばったのを袖に拾えば、果敢なさも忘れるほど美しい玉のような霰よ。

【補記】「を笹原」ゆえに霰の音がにぎやか。冬の侘しい景物とされることが多い霰を、明るく軽やかに詠んだのが珍しい。

【本歌】在原滋春「古今集」
浪のうつ瀬みれば玉ぞみだれけるひろはば袖にはかなからむや
【参考歌】紀長谷雄「後撰集」
わがためは見るかひもなし忘草わするばかりの恋にしあらねば

朝雪

つもるかとおき出でてみれば冴えし夜の月よりうすき峰のはつ雪(宗祇集)

【通釈】積もるかと起きて外に出て見れば、煌々と照っていた昨夜の月光よりも薄く積もっている峰の初雪よ。

【主な派生歌】
梢ふく風のたえまかかすむよの月よりうすき庭のうめが香(本居宣長)

浅雪

庭はまだ浜木綿ばかりふる雪にいくへ高嶺の遠のしら雲(宗祇集)

【通釈】庭は今のところ浜木綿の花びらほどに薄く降り積もっている雪――それに対して、幾重かさなっているのか知れないほどの、高嶺(たかね)にかかる遥かな白雲よ。

【語釈】◇浜木綿 ヒガンバナ科ハマオモト属の多年草。ハマオモトとも。夏に芳香ある白い花をつける。葉の付け根あたりの白い葉鞘が幾重にも重なっているので、和歌では「百重なす」などの比喩に用いることが多く、「いくへ」と縁語の関係を結ぶ。◇遠(をち)のしら雲 遠くの白雲。雪雲の厚さによって、積雪の深さを連想させる。「しら雲」には「知らぬ」を響かせる。

【補記】都の庭の薄い積雪と、高嶺の厚い積雪との対比。

【参考歌】藤原俊成「五社百首」
はまゆふもいく重かしたに成りぬらん雪ふりしける三熊野の浦

閑居五十首歌中に、寄雲恋

人しれぬきははおよびも中空にかからできえよ夕ぐれの雲(宗祇集)

【通釈】人知れずあの人を恋する程度は、誰一人及びもつくまい――しかし夕暮の雲が中空にかからずに消えてしまうように、私の思いも中途半端に現れないうちに消えてしまえよ。

【補記】「およびも中空…」に「およびも無からん…」を響かせている。「夕ぐれの雲」は恋する魂の暗喩。「きえよ」に恋い死にを暗示。

寄鏡恋

なにか思ふたとへば君がおもかげも鏡のうちのかりのかたちを(宗祇集)

【通釈】何を思い悩むのか。例えればあの人の面影も、鏡の中に映った仮の姿のように、実体のないものに過ぎないのに。

【参考歌】藤原公任「公任集」
世の中にわがある物と思ひしは鏡のうちの影にぞ有りける

羈中雲

いづくとか又もながめむ古里のかたみの雲は山風ぞふく(宗祇集)

【通釈】どこへ行くのかと、もう一度眺めよう。故郷の思い出のよすがの雲には、山風が吹きつけているのだ。

【補記】旅に出て以来故郷の形見として眺めていた雲が、山風に吹かれ遠く去ってしまう。

【参考歌】藤原俊成「新古今集」
なき人のかたみの雲やしをるらむ夕の雨に色は見えねど

野旅

しらぬ野べあらぬ庵もやどるまの契り思へば古里もなし(宗祇集)

【通釈】知らない野辺や、あらぬ様の庵も、一時宿る間の縁を思えばこれもまた宿縁であって、懐かしい故郷もありはしない。

【補記】四十六歳の時の東国下りを始めとして、知り得る限りの宗祇の人生は旅に終始したとの印象もある。亡くなったのは旅先の箱根湯本においてであった。享年八十二。

【参考歌】慈円「新古今集」
さとりゆくまことの道に入りぬれば恋しかるべき故郷もなし

老の後、卅首歌よみ侍りしに、述懐を

ことのはの道こそ憂けれさらでやは心のきはを人にしられん(宗祇集)

【通釈】和歌の道こそ辛いものだ。この道に打ち込まなければ、どうして浅い心の程を人に知られることなどあろうか。

【語釈】◇心のきは 心の限度。心がいかに深いか、その深さの程度。◇さらでやは 和歌の道に入らなければ、どうして…だろうか。

【補記】「ことのはの道」は、無論宗祇にとっては第一に連歌の道を意味したはず。職業的連歌師として、興行の場で常に「心の際」を晒し続けることを強いられた人生の厳しさを思わずにいられない。


最終更新日:平成17年05月28日