千人万首 番外

武田信玄 たけだしんげん 大永一〜元亀四(1521-73) 号:徳栄軒

甲斐源氏の血をひく信虎の長子として甲斐国に生まれる。母は大井信達の娘。義信・勝頼・信清らの父。
天文五年(1536)元服し、晴信を名乗る。同十年(1541)、父信虎を駿河に追放して自立し、翌年信濃に出兵。諏訪氏などを次々に攻め滅ぼした後、天文二十二年から永禄七年(1564)にかけ、五度にわたり宿敵上杉謙信と合戦、ついに信濃全土を支配下に置く。この間、永禄二年頃剃髪して法性院信玄と名乗った。また甲州法度を制定し、治水事業を進めるなど、内政にも力を尽した。永禄十二年(1569)、駿河から相模に進攻。その後北条氏と和睦し、将軍足利義昭・朝倉氏・浅井氏らと結んで、織田信長に包囲網をしく。同三年(1572)、自ら精鋭を率いて京を目指し、遠江国三方ヶ原で信長・家康連合軍を大破。天下統一を窺うが、三河国野田城を攻略中に発病し、元亀四年(1573)四月、甲斐への帰国途中、伊奈郡駒場で病没した。五十三歳。
『武田晴信朝臣百首和歌』がある(古典文庫所収)。

七夕草

うちなびく水かげ草の露のまも契はつきぬ星合のそら(保阪家蔵短冊帖)

【通釈】秋風に靡く水辺の草から露が落ちる――その露のようにはかない僅かな間も惜しんでの逢瀬だが――とうとう七夕の夜は明けて、二星の交わりの時は尽きてしまった。

【補記】「水かげ草」は水辺の物陰に生えている草。七夕の歌によく詠まれ、織女のなよやかな姿態を暗示する。「契(ちぎり)」は牽牛・織女の情交。川田順『戦国時代和歌集』より。

【参考歌】藤原有家「水無瀬恋十五首歌合」
打ちなびく草葉にもろき露のまも涙ほしあへぬ袖の秋風

―参考―

 

誰も見よ満つればやがて欠く月のいざよひの空や人の世の中(甲陽軍鑑)

【通釈】誰も見よ。満ちればやがて欠ける月の、十六夜の空であるよ、人の世というものも。

【語釈】◇いざよひ 陰暦十六日の夜。満月の翌日で、月は欠け始める。第四句「いざよふ空や」とする本もあるが、意が通らない。

【補記】天文十五年(1546)十二月、腹心の郡代板垣信形(信方)の慢心を戒めて詠んだ歌として『甲陽軍鑑』『武田三代記』等に引かれているが、実は正徹の作「誰もみよみてればやがてかく月のいざよひの空ぞ人の世間」の借用である。信玄作として伝わる名高い歌なので、参考として挙げておく。


最終更新日:平成15年10月29日