毛利元就 もうりもとなり 明応六〜元亀二(1497-1571)

弘元の次男として安藝吉田荘(広島県高田郡吉田町)に生れる。母は祥の方。正室は美伊の方。子には隆元・元春・隆景・五龍ほかがいる。大永三年(1523)、兄興元とその子幸松丸の死に伴い、毛利宗家を継ぐ。はじめ尼子氏、ついで大内義隆に仕える。天文十年(1541)、尼子晴久を破る。天文二十年、義隆は重臣陶晴賢に離反され追手に囲まれ自害。元就は弘治元年(1555)、厳島合戦で晴賢を敗死させ、主君の仇を討った。同三年、大内義長を滅ぼし、安藝・長門・周防を領国とする。永禄九年(1566)、尼子氏を降し、山陽・山陰十国と豊前・伊予の一部にまで領土を拡げた。
和歌を能くし、『元就卿詠草』『贈従三位元就卿御詠草』『春霞集』(いずれも祖本は同一)と呼ばれる詠草がある。

躑躅

岩つつじ岩根の水にうつる火の影とみるまで眺めくらしぬ(春霞集)

【通釈】岩躑躅が夕日に照り映えて岩根の水に映る火影かと見えるようになるまで、眺め暮らしてしまった。

【語釈】◇岩根 どっしりと大地に根付いた岩。「岩根の水」は岩を巡らした庭池を言うか。◇火の影 水面に映った炎の反映。

【補記】躑躅の赤い花が入日に映えて、燃え上がるような紅へと移りゆく。その変化に見とれるうちに日が暮れてしまったというのである。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成19年12月19日