大伴三依 おおとものみより 生年未詳〜宝亀五(?-774) 略伝

大納言御行の子。名は御依にも作る。大伴旅人らと同じ頃、筑紫に赴任したらしい。天平元年(729)頃、賀茂女王より別れを悲しむ歌を贈られている。天平二十年(748)年、従五位下。主税頭・三河守・仁部(民部)少輔・遠江守・義部(刑部)大輔を歴任し、天平神護元年(765)、正五位上。同二年、出雲守。宝亀元年(770)十月、従四位下に上ったが、同四年五月、卒去。時に散位従四位下。
以下は万葉集に見える三依作全五首である。

大伴宿禰三依の歌一首

()が君はわけをば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜二つゆくらむ(万4-552)

【通釈】あなたは私に対し死ねとでも思っているのでしょうか。今夜も私は、逢える夜と逢えない夜と、二つの道を迷いながら行くのでしょうか。

【語釈】◇我が君 恋人を敬称で呼んだもの。相手が婦人でも、年長者や身分が高い人の場合、「君」を用いることがあった。◇わけ 自己を指す卑称。◇逢ふ夜逢はぬ夜二つゆく 逢ってくれるかどうかどっちつかずで、不安で苦しいという気持。

【補記】万葉集巻四、相聞。誰に贈ったとも分からないが、作者三依の恋人としては賀茂女王が知られる。いずれにせよ相手が身分高い女性であったので「我妹子(わぎもこ)」でなく「我が君」と呼んだものであろう。

大伴宿禰三依の悲別の歌一首

天地(あめつち)と共に久しく住まはむと思ひてありし家の庭はも(万4-578)

【通釈】天地のある限りいつまでも一緒に住もうと思っていた家庭は、ああ。

【語釈】◇家の庭はも 強い詠嘆を籠めて「家の庭」を偲ぶ心を表す。「家」は三依が「悲別」した相手の住んでいた家。おそらく大伴旅人邸。「家の庭」(原文「家之庭」)は漢語「家庭」の和訳か。家族の集まり、家族が住む場所を指し、今言う「家庭」とほぼ同じ意である。因みに「家庭」の語は『魏書』(西暦554年成立)や『藝文類聚』(同624年成立)などに見える由(新村出『語源をさぐる』)。

【補記】巻四相聞。大宰帥から大納言に遷任した大伴旅人上京の折の歌群にある。この「家」もおそらく旅人邸であろう。旅人は上京後間もなく亡くなったので、題詞の「悲別」とは旅人との死別を指すと思われる。死者の家族の身になって、家の主の不在を嘆き、遺族に贈った歌であろう。

【参考歌】皇子尊宮舎人等「万葉集」巻二
高光る我が日の皇子(みこ)の万代に国しらさまし島の宮はも
天地と共に終へむと思ひつつ仕へ奉りし心たがひぬ

大伴宿禰三依、離れてまた逢ひて歓ぶる歌一首

我妹子(わぎもこ)常世(とこよ)の国に住みけらし昔見しより変若(をち)ましにけり(万4-650)

【通釈】あなたは常世の国に住んでおられたようだ。昔お会いした時よりも若返っておられる。

【補記】大宰府から帰京後、久しぶりに再会した女性に贈った歌であろう。相手はおそらく親族の大伴坂上郎女であろう。賀茂女王であれば「我妹子」でなく「君」と呼んだはず。

大伴宿禰三依の悲別の歌一首

照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人無しに(万4-690)

【通釈】明るい月夜が闇夜に見えるほど泣きくれた涙――その涙で衣を濡らしてしまった。干してくれる人などいないのに。

【補記】巻四相聞。大伴坂上郎女の片恋を主題にした七首のあとに置かれている。制作事情などは不明。

大伴宿禰三依の梅の歌一首

霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日の里に梅の花見つ(万8-1434)

【通釈】霜も雪もまだ無くなっていないのに、思いもかけず、春日の里に梅の花を見た。

【補記】巻八春雑歌。諸本、題詞は「大伴宿禰三林梅歌一首」とある。「三林」を三依の誤写とする『萬葉集略解』の説に従う。


更新日:平成15年11月20日
最終更新日:平成21年10月01日