千人万首 番外
美濃国の生れ。出自は不詳であるが、土岐氏の一族、明智光綱の子という説などがある。生年は大永六年(1526)ともいう。
諸国流浪の後、越前の朝倉義景に仕える。一乗谷に寄寓した足利義昭の直臣となり、義昭の側近、細川藤孝(幽斎)とも親交を持った(のち娘を幽斎の長子忠興に嫁がせる)。義昭と信長を仲介し、永禄十一年(1568)、義昭を奉じた信長に従って上洛、京都奉行となって行政手腕を発揮した。
信長の重臣となり、北陸・伊勢・近江・丹波などの戦に参加して功をたて、元亀元年(1571)、近江志賀郡を与えられて坂本城主となる。
天正二年(1574)、従五位下に叙せられ、日向守に任ぜられる。翌年、惟任の姓を与えられ、丹波国領主となる。同六年、細川藤孝とともに亀山城を攻略。さらに八上城を落城させ、同八年、亀山城主となる。
天正十年(1582)五月、羽柴秀吉の中国征伐への援軍を命ぜられ、出陣する。ところが六月二日、本能寺に宿泊していた信長を急襲、自刃に追い込んだ(本能寺の変)。同月十三日、備前から軍を返した秀吉を山城国山崎に迎え撃って敗れ、近江坂本城へ逃れる途中、山科の小栗栖において農民に竹槍で刺殺された。五十五歳。
連歌を好む。本能寺の変の直前、紹巴を宗匠として巻いた『愛宕百韻』の発句「ときは今天が下しる五月哉」はよく知られている。
志賀唐崎の松、いつの比にか枯れたりしを、光秀植ゑつぎて、今の松なり。光秀よめる歌、
我ならで誰かは植ゑんひとつ松こころしてふけ志賀の浦風(常山紀談)
【通釈】私以外の誰が植えようか、唐崎の一つ松を。用心して吹くがよい、志賀の浦風よ。
【本歌】後鳥羽院「御集」
我こそは新島守よ隠岐の海のあらき浪風心して吹け
【補記】志賀に坂本城を築いた時、唐崎の松に寄せて、城主としての誇りと自恃を詠んだもの。
更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日