恵子女王 けいしじょおう 延長三〜正暦三(925-992) 通称:桃園宮

代明親王(醍醐天皇の皇子)の子。贈皇后宮懐子・藤原義孝の母。兄弟に大納言源重光・同延光・中納言保光、姉妹には村上女御荘子女王・藤原頼忠室厳子女王がいる。藤原伊尹(謙徳公)の室となるが、夫の死後、出家した。
応和三年(963)、子の懐子・義孝らと共に「宰相中将君達春秋歌合」に加わる。勅撰入集は拾遺集に一首、新古今集に二首。

贈皇后宮にそひて、春宮にさぶらひける時、少将義孝久しく参らざりけるに、撫子の花につけて遣はしける

よそへつつ見れど露だになぐさまずいかにかすべき撫子の花(新古1494)

【通釈】撫子の花をあなたに擬(なぞら)えては眺めるけれども、心は少しも慰みません。どうすればよいのでしょうか。

【語釈】◇贈皇后宮 作者の子、藤原懐子。冷泉院の女御。◇春宮 師貞親王(花山天皇)。◇少将義孝 作者の息子。◇よそへつつ 撫子の花を君(義孝)になぞらえつつ。◇露だに 少しも。露は撫子の縁語。

【補記】詞書の「贈皇后宮」は作者恵子女王の子、藤原懐子。冷泉天皇の女御となり、安和元年(968)、師貞親王(のちの花山天皇)を生んだ。翌年師貞親王が春宮となると、恵子女王は懐子に付き添って春宮に伺候した。その頃、息子の義孝が久しく訪れなかったので、撫子の花につけてこの歌を贈ったという。義孝が亡くなる五年前のことである。

【他出】義孝集、定家十体(濃様)、定家八代抄

【参考歌】大伴家持「万葉集」
我が屋戸に蒔きし撫子いつしかも花に咲きなむなそへつつ見む

【主な派生歌】
よそへつつ見るに心は慰まで露けさまさる撫子の花([源氏物語])
見るままに露ぞこぼるる後れにし心も知らぬ撫子の花(*上東門院[後拾遺])

謙徳公の北の方、二人こども亡くなりて後

あまといへどいかなるあまの身なればか世に似ぬ潮を垂れわたるらむ(拾遺1298)

【通釈】海人と言っても、どのような海人の身であるからというので、世の中に比較しようもないほど辛(から)い塩水を垂らし続けるのだろうか。

【語釈】◇あま 海人・尼の掛詞。作者は二年前、夫を亡くして出家の身であった。◇世に似ぬ潮 世間一般の海水には似ない海水。潮に涙を暗示。

【補記】恵子女王の息子挙賢・義孝は、共に天延二年(974)九月十六日、天然痘により死去。二人ともまだ二十代だった。女王出家二年後のこと。

【主な派生歌】
浦風になびく焚く藻の夕煙いかなる海人の思ひなるらむ(飛鳥井雅経)
我がためはつらき心の奥の海にいかなる海人のみるめかるらむ(後鳥羽院)
夕暮の浦もさだめず鳴く千鳥いかなる海人の袖ぬらすらむ(土御門院)


公開日:平成12年09月06日
最終更新日:平成21年07月17日