舒明天皇 じょめいてんのう 生年未詳〜舒明十三(641) 諱:田村皇子

敏達天皇の孫。彦人大兄皇子の子。母は糠手姫(ぬかてひめ)皇女。宝皇女との間に葛城皇子(中大兄皇子)・間人皇女(孝徳皇后)・大海人皇子、夫人の法提郎媛(蘇我馬子の女)との間に古人大兄皇子をもうける。
推古三十六年(628)三月、推古天皇が崩じ、山背大兄皇子と共に後事を託される。翌年一月、蘇我蝦夷の後援により即位。舒明二年(630)、宝皇女(のちの斉明天皇)を后に立てる。同年八月、犬上三田耜・恵日らを唐に派遣(第一次遣唐使)。十月、飛鳥岡本宮に遷都。舒明十一年(639)七月、百済川の辺(高市郡)に大宮・大寺を造営する(百済大寺)。同年十二月、伊予の湯行幸。翌年四月、伊予より還御し、厩坂宮に移る。同年十月、南淵請安・高向玄理らが唐から帰国すると、重用し、官制などを整備させる。同月、百済宮に移り、翌年の舒明十三年十月、崩御(四十九歳)。桜井市の押坂陵に葬られる。和風諡号は息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇。高市天皇・崗本天皇とも呼ばれる。

万葉集に二首の歌を残す(1-2,8-1511)。但し8-1511の歌の作者は斉明天皇(後崗本天皇)の可能性もある。

天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌

大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ (あめ)の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は (けぶり)立ち立つ 海原(うなはら)は (かまめ)立ち立つ (うま)し国ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和(やまと)の国は(万1-2)

【通釈】ここ大和には、山がたくさん寄り集まっているが、とりよろふ(語義未詳)天の香具山、その山の頂に登り立って領土を見渡せば、人の住む広々とした平野には、靄が立ちこめている。広々とした海では、あちこちで鴎が飛び立つ。豊かなよい国だよ、蜻蛉島すなわち、日本の国は。

【語釈】◇とりよろふ 未詳。《とりわけすぐれている》《拠り所とする》など諸説ある。◇天の香具山 奈良県橿原市。大和三山の一つ。天から降ってきた山であるとの伝承があり(伊予国風土記逸文)、それゆえ《天の》が付いたらしい。◇国見 高所から国を見渡すこと。もともと、支配者が春などにおこなう儀礼の一つであったらしい。◇煙 水蒸気、陽炎、人家の炊煙など。◇海原(うなはら) 奈良盆地は洪積世末期から沖積世にかけて、海湾→海水湖→淡水湖→盆地と変化した。舒明天皇の頃(西暦七世紀)、大和郡山あたりまではまだ湿地帯であったので、これを海原と言った(樋口清之説)。埴安の池など、天の香具山周辺の池を言ったという説もある。◇蜻蛉島(あきつしま) 「やまと」の枕詞。

天の香具山

【補記】「高市岡本宮御宇天皇代」との時代標記があり、舒明天皇御製であることが確実。

【他出】歌枕名寄、雲玉集

【主な派生歌】
うちいでて国見をすれば大和路やさとも村山いくへともなし(正徹)
冬の来て降りみ降らずみ大和にはむら山ありて行く時雨かな(正広)
打出でて国見をすれば山霞うらなみなぎて春は来にけり(細川幽斎)
飛火もり見かもとがめむ蚊遣火のけむり立ちたつ遠かたの里(田安宗武)
高見山ことにし有りけりのぼりたちかへり見すれど国見えなくに(本居宣長)
倭には村山あれどたふときは畝火耳なし天の香具やま(大橋長広)

崗本天皇の御製歌一首

夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず()ねにけらしも(万8-1511)

【通釈】夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かないぞ。もう寝てしまったらしいなあ。

【語釈】◇小倉の山 不詳。奈良県桜井市あたりの山かと言う。平安期以後の歌枕小倉山(京都市右京区)とは別。雄略御製とする巻九巻頭歌では原文「小椋山」。◇寝(い)ねにけらしも 原文は「寐宿家良思母」。「寐(い)」は睡眠を意味する名詞。これに下二段動詞「寝」をつけたのが「いね」である。

【補記】「崗本天皇」は飛鳥の崗本宮に即位した天皇を意味し、舒明天皇(高市崗本天皇)・斉明天皇(後崗本天皇)いずれかを指す。万葉集巻九に小異歌が載り、題詞は「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」すなわち雄略天皇の作とし、第三句「臥鹿之(ふすしかは)」とある。

【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、古来風躰抄、雲葉集、続古今集、夫木和歌抄

【参考歌】雄略天皇「万葉集」巻九
夕されば小椋の山に臥す鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも

【主な派生歌】
夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿のこゑの内にや秋は暮るらむ(*紀貫之[古今])
鹿のねは近くすれども山田守おどろかさぬはいねにけらしも(藤原行家)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月15日