千人万首番外
三好吉房の子。母は豊臣秀吉の姉、瑞龍院日秀。秀吉の甥。
はじめ宮部継潤に養われ、のち三好康長の養子となる。天正十一年(1583)秀吉の命により滝川一益を伊勢に攻め、ついで賤ヶ岳の戦に従軍。同十二年、小牧・長久手の戦で総大将を務めるが、徳川家康に惨敗し、秀吉から厳しい叱責を受けた。翌年、紀伊の根来衆攻略、四国征伐に功をあげ、羽柴姓を名乗ることを許され、近江国八幡城主四十三万石を与えられた。同十五年、九州征伐で島津氏を破る。同十八年、小田原征伐に参加。さらに同年、陸奥の九戸氏を討つ。同十九年(1591)、秀吉の長男鶴松が夭折したため、秀吉の養子となり、関白の地位を継いだ。しかし文禄二年(1593)、秀吉に実子秀頼が誕生し、以後秀吉に疎んじられるようになる。この頃から町人を辻斬りする、試し切りと称して囚人を斬殺する、殺生禁断の比叡山で狩を行い、鶴を食うなど悪行を恣にしたと伝わり、殺生関白と称されたという。同四年、謀反の噂から高野山に放逐され、剃髪するが、同年七月、切腹の上斬首された。享年二十八。その首は三条河原に晒され、秀次の子弟・妻妾ら三十余名も同所で公開処刑に付された。
書や能、茶などの文雅に耽溺したが、高野山に無理強いして空海の「風信帖」を切り取らせるなど、この方面でも悪名高い所業が伝わる。
見るがうちに
【補記】川田順『戦国時代和歌集』より。文禄三年(1594)二月二十九日、秀吉主催の吉野山花見歌会での作。
月花を心のままに見つくしぬなにか浮き世に思ひ残さむ
【補記】辞世の歌と伝わる。
更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日