43 逢ひみてののちの心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
あひみての のちのこころに くらふれは むかしはものを おもはさりけり
【私解】逢瀬を遂げた後の、この切ない気持に比べれば、まだ逢うことのなかった昔は、物思いなど無きに等しかったのだなあ。
【語釈】◇逢ひみてののちの心 逢って情交を遂げた後の心。◇昔 逢う以前。
【補記】百人一首の古写本・古注・カルタは第四句を普通「昔は物を」とし、「定家八代抄(書陵部蔵本)」も「物を」であるが、「百人秀歌」や定家本拾遺集、南部家蔵伝定家筆小倉色紙は「物も」とあり、定家が「を」「も」どちらを良しとしていたか、俄には決定し難い。
【出典】拾遺集巻十二(恋二)「題しらず 権中納言敦忠」
【主な他出文献】「敦忠集」、「古今和歌六帖」、「三十人選」、「三十六人撰」、「深窓秘抄」、「定家八代抄」、
【参考歌】源宗于「後撰集」
あづまぢの小夜の中山なかなかに逢ひ見てのちぞわびしかりける
【作者・配列】
作者は左大臣時平の三男。母は在原棟梁の娘であるから、業平の血を引くことになる。延喜二十一年(921)、従五位下に叙せられて昇殿を許され、侍従・左兵衛佐・右衛門佐・左近権少将などを歴任し、承平四年(934)、蔵人頭に任ぜられる。さらに左近中将を経て、天慶二年(939)八月、参議に就任。同五年三月、従三位権中納言に至る。前途洋々であったが、翌年の天慶六年三月七日、三十八歳の若さで薨じた。その夭折を、世の人々は24菅原道真の怨霊のしわざと噂したという。枇杷中納言、本院中納言と号す。
風流を好んだ敦忠は、比叡山麓の西坂本に数寄を凝らした山荘を構え、伊勢・中務を招いて歌を詠ませるなどした(拾遺集)。色好みとしても名高く、39右近や西四条斎宮雅子内親王との恋は歌物語に説話化されている。後撰集初出、勅撰入集は三十首。三十六歌仙の一人。
百人一首では43番目。百人秀歌では40番目に置かれ、39番の右近との合せになる。『大和物語』によれば右近の「わすらるる…」は敦忠に贈られた歌とも見え、かつての恋人同士の組合せと見れば面白い。
【他の代表歌】
物思ふとすぐる月日もしらぬまに今年はけふにはてぬとかきく(後撰集)
今日そゑにくれざらめやはと思へどもたへぬは人の心なりけり(〃)
【覚書】
【主な派生歌】
あひみてののちこそ恋はまさりけれつれなき人をいまはうらみじ(永源「後拾遺」)
あだなりし人の心にくらぶれば花もときはのものとこそみれ(藤原忠通「金葉」)
あひみてのあしたの恋にくらぶれば待ちし月日は何ならぬかな(祐子内親王家紀伊)
思ひ出づるその慰めもありなまし逢ひ見て後のつらさ思へば(藤原季経「千載」)
うたたねの夢に逢ひ見て後よりは人もたのめぬ暮ぞ待たるる(源慶 〃)
逢ひ見てののちの心を先づ知ればつれなしとだにえこそ恨みね(藤原定家)
思ひいづる後の心にくらぶ山よそなる花の色はいろかは(〃)
恨み慕ふ人いかなれやそれはなほ逢ひ見て後の憂へなるらん(京極為兼「玉葉」)
今までに昔は物をとばかりもうらみぬ身をば恨みやはせぬ(後水尾院)
いかにせん昔はものをとばかりの歎きしらるるけさのおもひを(後西院)
うつそみのよのはかなさにくらぶれば桜は猶もひさしかりけり(鵜殿余野子)
あいみてののちの心の夕まぐれ君だけがいる風景である(俵万智)