清原元輔きよはらのもとすけ 908〜990 千人万首

 42 ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは

 ちきりきな かたみにそてを しほりつつ すゑのまつやま なみこさしとは

【私解】約束しましたね。互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、末の松山を決して波が越さないように、行末までも心変わりすることは絶対あるまいと。

【語釈】◇ちぎりきな 「ちぎり」は夫婦の約束を交わすこと。「き」はいわゆる過去回想の助動詞「し」の連体形、「な」は相手に確認を求める心をあらわす助詞。◇かたみに 互いに。◇末の松山 古今集巻二十に「みちのくうた」として「君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなん」があることから陸奥国の名所歌枕とされている。もとは「海岸の丘の松林の末」を意味する普通名詞と考えることも可能であろう。比定地としては多賀城付近とする説などがある。◇浪こさじとは 末の松山を波の越すことがないように、心の変わることはあるまいと。初句「契りきな」に返して言う。

【ゆかりの地】末の松山 古今集東歌の「みちのくうた」(【本歌】参照)により陸奥国の歌枕であることは確実視されるが、詳しい場所は不明。江戸時代、伊達藩で歌枕の名所を整備した際には、今の多賀城市八幡の宝国寺裏の丘山に定められたという。

【出典】後拾遺集巻十四(恋四)「心かはりて侍りける女に、人にかはりて 清原元輔」
【主な他出文献】「元輔集」、「惟規集」、「俊成三十六人歌合」「古来風躰抄」「時代不同歌合」「定家八代抄」「近代秀歌(自筆本)」「詠歌大概」「八代集秀逸」
【本歌】読人不知「古今集」
君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなん

【作者・配列】清原元輔36深養父の孫。父は下野守顕忠とも下総守春光ともいう。母は従五位上筑前守高向利生の娘という。62清少納言の父。
 天暦五年(951)正月、河内権少掾に任ぜられ、少監物・中監物・大蔵少丞・民部少丞・同大丞などを歴任し、安和二年(969)九月、従五位下に叙せられる。その後河内権守・周防守など地方官を経て、天元三年(980)三月、従五位上に昇進。寛和二年(986)正月、肥後守となったが、永祚二年(990)六月、任地にて死去した。八十三歳。
 天暦五年十月、源順・大中臣能宣らと共に梨壺の和歌所の寄人に召され、万葉集の訓読と後撰集の編集に携わる。村上天皇代から多くの歌合に出詠し、小野宮家をはじめ権門の屏風歌や賀歌を多作した。源順・中務・能宣・藤原実方ら多くの歌人との交流が窺える。家集『元輔集』がある。拾遺集初出。勅撰入集百八首。三十六歌仙の一人。
 百人秀歌では45番目にあり、次の源重之「風をいたみ…」と番いになって、「越さじ」と詠まれた波が岩に砕け散ってしまう。
【他の代表歌】
 天の川あふぎの風に霧はれて空すみわたるかささぎの橋(拾遺集)
 高砂の松にすむ鶴冬くればをのへの霜やおきまさるらむ(〃)

【覚書】

【主な派生歌】
思ひ出でよ末の松山すゑまでも波こさじとは契らざりきや(藤原定家)
ちぎりきなさてやはたのむ末の松まつにいく夜の波はこえつつ(藤原雅経)
代々かけて波こさじとは契るともいさや心の末の松山(二条為氏「新後撰」)
ちぎりきな有明の空をかたみにて月見むことにおもひでよとは(飛鳥井雅有)
たちわかれけぶりの末もあふことはかたみに袖をしほがまの浦(木下長嘯子)



最終更新日:平成16年5月18日

やまとうた 百人一首目次 注釈目次 つぎの歌人

thanks!