20 わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしてもあはむとぞ思ふ
わひぬれは いまはたおなし なにはなる みをつくしても あはむとそおもふ
【私解】もうやりきれない。こうなった以上、どうなろうと同じこと。難波の澪標(みおつくし)ではないが、我が命が尽きようと、あなたに逢って思いを遂げようと決心しているよ。
【語釈】◇わびぬれば つらくて、もう遣りきれなくなったので。「わび」は「困惑する」「つらいあまり歎く」などの意。◇今はたおなじ もはや、逢っても逢わなくても(噂が立ってしまった以上)同じこと。◇難波なる 「みをつくし」に枕詞風に掛かる。◇みをつくしても 命が尽きようと。「みをつくし」(澪標)を掛ける。
【出典】後撰集巻十三(恋五)「事いできてのちに、京極御息所につかはしける もとよしのみこ」、拾遺集巻十二(恋二)「題しらず もとよしのみこ」
【主な他出文献】「古今和歌六帖」、「元良親王集」、「古来風躰抄」、「時代不同歌合」、「定家八代抄」、「近代秀歌(自筆本)」、「詠歌大概」、「八代集秀逸」、「別本八代集秀逸」(後鳥羽院撰)、「定家十体」(幽玄様)
【作者・配列】
作者は陽成院の第一皇子。父帝の譲位七年後に生れる。醍醐天皇の皇女修子内親王、宇多天皇の皇女誨子内親王、神祇伯藤原邦隆の女子を娶る。薨去した時、三品兵部卿。『尊卑分脉』には「五十四歳頓死」とある。
『大和物語』に「故兵部卿の宮」として風流好色の逸話を残す。『今昔物語』巻第二十四には、「極(いみじ)き好色にてありければ、世にある女の美麗なりと聞こゆるは、会ひたるにも未だ会はざるにも、常に文を遣るを以て業としける」とある。ことに宇多法皇の寵妃であった藤原褒子との熱愛は世に喧伝された。百人一首の歌も褒子に贈った恋歌である。
親王の残した歌を歌物語風に編輯した『元良親王集』がある(撰者・成立年不詳)。勅撰入集歌は二十首と決して多くはないが、定家は親王の作を「詠歌大概」「八代集秀逸」に各二首ずつ採るなど、高く評価していたことが窺われる。なお面白いことに後鳥羽院は「時代不同歌合」で定家と元良親王を合せている。
百人一首・百人秀歌ともに20番目に位置し、同じ難波に寄せた恋歌である19伊勢と対になっている。
【他の代表歌】
逢ふことは遠山ずりの狩衣きてはかひなき音をのみぞなく(後撰)
【覚書】
【主な派生歌】
ながれてもあふせは絶えじ住江の身をつくしてもくちはててなん(中宮上総)
難波江の葦のかりねの一よゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき(皇嘉門院別当「千載」)
難波なる身をつくしてもかひぞなきみじかき蘆の一夜ばかりは(藤原定家「続後拾遺」)
身をつくしいざ身にかへて沈みみむおなじ難波の浦の浪かぜ(藤原定家)
せきわびぬいまはたおなじ名とり川あらはれはてぬせぜの埋木(〃)
難波人いかなるえにかくちはてむあふことなみにみをつくしつつ(藤原良経)
さてもなほいかなるえにて難波なるみをつくしてもよにしづむらん(藤原雅経)
わびぬればいまはたおなじ山ざくらさそふ風をや花もまつらん(平親清五女)
難波潟かへらぬ波に年くれて今はたおなじ春ぞまたるる(鷹司冬平「新千載」)
難波江のみをつくしてもつかへきぬふかき心のしるしあらはせ(二条教頼)
わびぬればみてもかひなき思ひねに今はたおなじ夢ぞまたるる(祝部行直「新後拾遺」)
あれはてし難波の里の春風にいまはたおなじ梅がかぞする(慶雲「新続古今」)