参議 篁 さんぎ たかむら 小野篁 802〜852 千人万首

 11 わたの原八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよあまのつり舟

 わたのはら やそしまかけて こきいてぬと ひとにはつけよ あまのつりふね

【私解】大海原を、数知れぬ島々の方へ向けて漕ぎ出して行ったと、都の人には告げてくれ、海人の釣舟よ。

【語釈】◇わたの原 「わた」は海の古称。◇八十島かけて 「八十」は数が多いことのたとえ。「かけて」は目標に加える意。島々をいくつも辿って遥かな目的地へ向かうことを言っている。◇人にはつげよ 京にいる人には告げてくれ。釣舟に向かって呼び掛けている。「心なき釣舟に人にはつげよといへる心、尤感ふかし」(幽斎抄)。「はかなき釣舟にいへるぞ、かへりて歌の心なりける」(香川景樹)。◇あまのつり舟 「あま」は、海辺に住み、海産物によって生計を立てていた人々。

【ゆかりの地】小野篁配流地(隠岐郡海士町豊田)。隠岐諸島で三番目に大きな島、中ノ島の東北端。篁は承和五年(838)末、遠流(おんる)に処され、二年後赦免されるまでこの地に置かれた。

【出典】古今集巻九(羇旅)「隠岐の国に流されける時に、舟にのりて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける 小野たかむらの朝臣」
【主な他出文献】「新撰和歌」、「金玉集」、「深窓秘抄」、「和漢朗詠集」、「古来風躰抄」「時代不同歌合」「定家八代抄」、「別本八代集秀逸」(家隆・定家撰)

【作者・配列】小野篁作者は淳和・仁明・文徳三代に仕えた官人。遍昭・業平ら六歌仙より一世代前の人である。わが国最初の勅撰漢詩集『凌雲集』の撰者である岑守(みねもり)を父に持つ。学問にすぐれ、文章生・東宮学士などを経て、仁明天皇代、遣唐副使に任命された。ところが、大使藤原常嗣の理不尽な要求に反発し、病と称して進発せず、しかも大宰府で嵯峨上皇を諷する詩を作ったため、上皇の怒りに触れて隠岐に流された。「わたの原…」の歌もその時の作である。のち、帰京を許され、参議に至る。古今集に六首採られている。『経国集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』などに漢詩文を残す。『野相公集』五巻があったというが散佚した。
 百人一首では11番目で、孫とする伝承もある9小町より後になる。百人秀歌では7番目に置かれ、8番の猿丸大夫と合わされる。「一見意外な合せであるが、片や配所へ向けて漕ぎ出る人を、片や深山へ帰ってゆく小牡鹿を、見送る哀切を以てしたのであろう」(安東次男)。別れと紅葉の合せは次の行平「立ち別れ…」・業平「ちはやぶる…」の組にも反復されている。
【他の代表歌】
 思ひきや鄙のわかれにおとろへて海人のなはたきいさりせむとは(古今集)
 しかりとて背かれなくに事しあればまづ嘆かれぬあなう世の中(古今集)

【覚書】

【主な派生歌】
こぎいでぬと人につぐべきたよりだに八十島遠きあまのつり舟(藤原家隆)
月かげにむしあけの瀬戸をこぎ出づれば八十島かけておくる鹿の音(後鳥羽院)
わたの原をちの霞の春の色に八十島かけてかへるかりがね(〃)
わたつ海の浪の花をば染めかねて八十島とほく雲ぞ時雨るる(〃)
和田の原八十島かけてしるべせよ遥にかよふ沖の釣舟(藤原秀能「新拾遺」)
わたの原吹くればさゆる汐風に八十島かけて千鳥なく也(源通方「続古今」)
わたの原八十島かけてすむ月にあくがれ出づる秋の舟人(藤原行房「続後拾遺」)
天の原八十島かけて照る月のみちたる汐に夜舟こぐなり(洞院公泰「風雅」)



更新日:平成14年5月18日
最終更新日:平成18年5月20日

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