山辺赤人 やまのべのあかひと 生没年未詳 略伝 千人万首

 4 田子の浦にうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ

 たこのうらに うちいててみれは しろたへの ふしのたかねに ゆきはふりつつ
 Tago-no-ura ni, utidete mireba, sirotae no, Huzi no takane ni, yuki wa huritutu(訓令式)

【私解】田子の浦に出て眺望がひらけると、真っ白な富士の高嶺に、雪は降り積もっていた。

【語釈】◇田子の浦 駿河国の歌枕。『続日本紀』に「廬原郡多胡浦」とあるのと同一地と思われ、現在の庵原(いはら)郡蒲原町あたりに比定されている。富士市南部の田子の浦とは別。◇うち出てみれば 「うち」は接頭語で、さして意味はない。◇白妙の 真っ白な。万葉集の原文は「眞白衣」であり、現在は「ましろにぞ(そ)」の訓が確定しているが、平安時代の学者・歌人等はそのように訓むすべを知らず、「しろたへの」と訓むのが普通だった。◇雪は降りつつ 「つつ」は反復継続を示す助詞なので、雪が降り積もり、さらにまた降り積もり、という状態を続けている意になるが、遠望する山に雪の降るさまが見えるわけもない。和歌では「つつ」を末尾に置いて断定を避け、何となく余情を含ませるという用法がごく普通に見られ、この歌の場合も「雪は降り積もっている」程度の意に取っておけばよいのだろう。

富士山 古くは「ふじのね」「ふじの山」「ふじのたかね」などと称され、「ふじのみたけ」とも呼ばれた。万葉集ではその偉容が畏敬の念を以て謳われたが、平安時代になると、もっぱら「恋の山」として歌枕化する。当時たびたび噴火を繰り返していた富士の煙を、燃える恋心のシンボルに利用したのである。叙景風の歌がしばしば詠まれるようになるのは平安末期からで、赤人のこの歌の評価の高まりと軌を一にしているようだ。

【出典】新古今集巻六(冬)「だいしらず 赤人」
【原歌】万葉集巻三「山部宿祢赤人望不盡山歌一首 并短歌」の反歌
田兒之浦從 打出而見者 眞白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
(田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける)

【なぜこの人】山辺赤人作者は奈良朝前期の人。聖武天皇の時代、行幸に従駕して各地で土地讃めの歌を作り、のち3柿本人麻呂と並び立つ歌人として尊ばれた。藤原公任撰の三十六歌仙にも入っている。百人一首への撰入は当然と言うべき大歌人である。
なお、氏名(うじな)は「山部」が正しいが、平安時代以降は「山邊(山辺)」と書かれることが多かった。おそらく桓武天皇の諱「山部」を避けたためであろう。

【なぜこの一首】この歌は、例えば古事記の応神天皇作と伝わる「千葉の 葛野(かづの)を見れば 百千(ももち)(だ)る 家庭(やには)も見ゆ 国の秀(ほ)も見ゆ」のような、王が領国を眺望する儀礼的な「国見歌」に淵源を持つ詠みぶりである。天皇に代わり、富士という我が国第一の霊峰を遠望し、その神々しさ・清麗さを讃美することで、大君の支配する国土全体を誉め讃えた歌と言えよう。それゆえにこそ堂々たる格調を持ち、和歌史を貫く叙景歌の典型たり得たのだった。天皇に始まり天皇に終る百人一首において、選ばれるべくして選ばれた一首と言えよう。
赤人の代表作ということでは、藤原公任が『三十六人集』『金玉集』『和漢朗詠集』に採った「和歌の浦に潮みちくれば潟をなみ葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る」もあるが、こちらは文永二年(1265)奏覧の『続古今集』において初めて勅撰集に採られたので、そもそも百人一首に選ばれる資格を有していなかったのである。

【排列】第四番歌。百人秀歌でも順番は変わらず、上代の二大歌聖として3柿本人麻呂と合わされている。人麻呂歌の夜の闇に対し、雪の白さを歌い、1天智2持統の二首と同様、明暗の対比を意識したか。また、この歌の第三句「白妙の」は持統御製と共通し、結句「雪は降りつつ」は15光孝天皇御製と共通する。あたかも前後の天皇の歌と交響するかのようだ。



更新日:平成14年5月21日
最終更新日:平成19年1月12日

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