万葉雑記


―万葉集に関するメモ(1)―


 万葉集とは何か、ということを、自分なりに整理してみたい。とりあえず、思いつき、順不同、メモとして。

 定義 成立 名義 主題

 万葉集とは何か。「万葉集は、わが国最古の歌集である」。これは間違いだ。まず、万葉集より古く成立した歌集があることは、万葉集自体に記されている。「柿本朝臣人麿集」「類聚歌林(るいじゅかりん)」「古歌集」と呼ばれる歌集から、万葉集は引用を行なっているのである。

 では、これならいいか。「万葉集は、現存する、わが国最古の歌集である」。国語辞書の万葉集の項を見ても、大抵このように書いてあるはずだ。それでいいのだろうと思うが、一〇〇パーセント信頼できる定義でもないことは言っておきたい。たとえば、山上憶良が編集したという「類聚歌林」は鎌倉時代までは伝存していて、宇治の平等院などに宝蔵されていたらしい。今もどこかの蔵で「現存」している可能性がないとは言えない。…というのは穿ちすぎとしても、「現存する、最古の歌集」という言い方は、やはり安心できない。現在見られるような二十巻本の万葉集は、古今集よりも後に成立したものだ、という説があるのだから。それはいま、研究者たちの間で真剣に議論されている問題である。
 また、万葉集を「歌集」と呼ぶのにも問題がある。漢詩、日記、書簡、ばかりか漢文で書かれた掌編小説のようなもの(大伴旅人の「梧桐日本琴一面」)まで含まれているのだから。誰かが言ったように、万葉集とは「上代日本文学全集」に近いものなのだ。
 とりあえず、ここではこんなふうに万葉集を定義してみたい。「万葉集は、成立した時期も編集の方法も異なる、上代の幾つかの歌集・歌文集の複合体である」。


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 万葉集はどのようにして出来たか。これについてはまだ定説と呼べるものがない。これまでの研究によって、「ほぼ確からしい」と言えそうなことを箇条書きにしてみよう。

 二番目は、まだ安心できない。たとえば巻十四の東歌は、平安時代に在原業平が集めたのだ、という説などもある。「少なからぬ巻について、大伴家持が収集・編纂に何らかの役目を果たした」。この点については、ほとんどの研究者が肯定していると思う。
 三番目も、異論はある。しかし、光仁朝に万葉集が現在のような形に整備された、という説は、ほとんど成り立ちようがなくなっていると思う(この点は、後述)。


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 万葉集の名義。

 これは、仙覚(鎌倉時代の学僧)の「よろづのことのは」説でよい、と断言してかまわないと思う。

代々の撰集に和歌の字あり、此集になき事は、萬葉と云、即チ和歌なればなり(仙覚抄)。

 たとえば古今集は正しくは「古今和歌集」であるが、万葉集は「万葉和歌集」とは言わない。これは万葉の葉の字に「ことのは=和歌」の意味がこめられている証拠である、というわけだ。もっとも、「ことのは」を和歌に限る必要はない。日常生活で普通に使われる言葉とは異なる「言語表現」一般を「ことのは」といったので、漢詩などももちろん含まれるのである。
 その後、江戸初期の国学者契冲は漢籍から博引旁証し、「葉」が「世」の意味で使われている例をあげて、「此集萬世(よろづよ)までも傳はりねと祝て名付たるか」と仙覚に異説を唱えた(必ずしも「こちらが正しい!」と主張したわけではないのだが)。近代に至って契冲説が有力視されるようになったが、これは悪しき実証主義というものだ。常識的に考えて、「万代まで伝われとの集」などという馬鹿げた名付け方はありえない。これでは何を「集」めた書物なのか、判らないではないか。物語集だって画集だって譜集だって集である。
 …と、私は「万葉=万代」説にひそかに違和を感じていたのであるが、昨年出版された岩波新古典大系の「萬葉集 一」の巻頭文を読んで、溜飲の下がる思いがした。大谷雅夫氏がこの問題について非常にすっきりした解説をしてくれていたのである。氏は言う、

「何何(なになに)集」という書名は、「何何」を集める書物という意味である。「何何」とは、その書物の内容を、直接に、または間接に示す言葉である。「何何」のような、あるいは「何何」となるような「集」という書名は、星の数ほどもある「何何集」の中に、おそらく一例も見いだし得ないであろう。
(中略)「万葉集」という書名は、思うに、四千五百あまりの歌を繁茂する木の葉に譬えて、よろずの葉を集めるという意味であった。仙覚の「ヨロヅノコトノハノ義也」という古説が、肯綮を得ていたのである。

 ここでも、葉を歌に限る必要はない、ということを付け加えておきたい。万葉集には、漢詩もあれば日記文もあり、エッセイや小説のような散文も含まれる。
 なお、同書で大谷氏も指摘しているが、万葉集は本来「萬葉集」と書くのが正しい。「万」はあくまでも「萬」の俗字である。


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 万葉集の主題、あるいは編纂意図ということが言えるか。先に定義したとおり、万葉集とは「成立した時期も編集の方法も異なる、上代の幾つかの歌集・歌文集の複合体である」。したがって、統一した主題や意図を探ることは、そもそも不可能であろう。しかし、上代の歌々がこのような形に糾合されて残り、たとえはるか後世であれ二十巻という形に整備されたこと。そのうちに、一貫した文化意志のようなものをみとめることは不可能ではあるまい。
 ここではまず、万葉集を、上代日本人の「不安」と「現世謳歌」という、否定的・肯定的、相反する二つの精神の表現として考えてみたい。

 万葉集の精神は、白鳳時代に初心があることは疑えない。そして、万葉集の終焉は、天平時代の終焉とほぼ重なる。万葉集という一つの文化意志は、白鳳に芽生え、天平に結実した、と言うことができる。
 天平とはいかなる時代か。それは決して「天平らかなる」時代ではなかった。『続日本紀』は打ち続く災異と政争の記事に満ちている。天智・天武という偉大なカリスマ天皇の後で、天皇の権威に対する懐疑が誰よりも天皇自身によって強く意識された時代が天平時代だった。そこに玄ムや道鏡のつけ込む隙があった。しかし聖武天皇の偉大さは、僧侶たちの霊能力に見切りをつけて、一個の絶対神的なものを求め、それを東大寺盧舎那仏として実現させたことだった。晩年の聖武はもはや超自然的な力を頼まなかったし、彼岸を追い求めもしなかった。あるがままの現世が、そのまま楽土であること、仏国土であることを祈ったのである。帝の思いを、光明皇后も娘の孝謙天皇も、決して理解はしていなかった。おそらく行基など少数の信仰者たちと、万葉の初期編纂者たちが、誰よりも帝の祈りを理解していた。万葉集の精神は聖武の思想と決して無縁ではなかった。万葉が総体として謳い上げている現世謳歌は、聖武天皇の祈りの一つの実現なのである。
 古今集序文が万葉集について言った「君も人も、身をあはせたり」という言葉を、私はそのように理解する。


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