やまとうた雑記



大伴旅人 ―おおとものたびと―

1.詩人の誕生 の続きです。

2. 筑紫歌壇

平城京朱雀門
平城京朱雀門 原寸大模型

 青丹よし寧楽ならの都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

 天平の都、平城京の繁栄ぶりを謳った、あまりにも有名な小野おののおゆの歌ですが、実は奈良から遠く離れた大宰府で詠まれた作であることは、あまり知られていないかも知れません。
 神亀五年(728)春、大宰少弐しょうにに遷任された小野老は、桜の咲き匂う都を後にし、筑紫へ下りました。時の大宰帥だざいのそちは大伴旅人。彼は老の着任を祝い、おそらく大宰府の公邸で宴を催したものと思われます。すでに春は暮れ、藤の咲く初夏が近づいていました。
 旅人は宴席で老に都の様子を尋ねたことでしょう。老の答えは想像に難くありません。前年閏九月、聖武天皇の夫人安宿媛あすかべひめに初めての男子が生まれ、十一月、朝堂で盛大な祝宴が開かれました。ここで皇子の立太子が公けにされます。待ちに待った皇太子の誕生に、都は沸き返り、明くる年の春はまさに「咲く花の薫ふが如く」という有様だったでしょう。
 旅人は奈良の都や、行幸に従駕して訪れた吉野に想いを馳せ、懐かしさに耐えきれぬように、次々に歌を詠み上げました。

 我が命も常にあらぬか昔見しきさの小川を行きて見むため
 我がゆきは久にはあらじいめわだ瀬とは成らずて淵にありこそ


象の小川
象の小川

 この宴には、僧形の男が(少なくとも)一人交じっていました。筑紫観世音寺別当、沙弥満誓です。主人も参席者も望郷の情に浸る中、沙弥は砕けた調子の歌を詠んで、場を和ませます。

 しらぬひ筑紫の綿は身に付けて未だは着ねど暖けく見ゆ

 艶笑が湧き起こり、座は再び華やいだ雰囲気に包まれたことでしょう。ところが、宴も酣の頃、今度はひとりの老官吏が席を立つと、歌で以て辞去を申し出たのです。

 憶良らは今はまからむ子泣くらむの母もを待つらむそ

 筑前守山上憶良でした。すでに七十歳に近かった憶良に、本当に幼い子供がいたかどうかは怪しいところですが、ともあれ宴の座にあった人々は、彼の思いもかけぬ辞去の言葉に目を丸くし、すぐにまた盛んな笑い声を上げたことでしょう。
 憶良は、主人の望郷の念にも、筑紫の女を暖かい綿に譬えた沙弥の艶笑にも距離を置いて、「我が家に帰れば我が家の現実が―女房と子供が―待ってるじゃないか」と言い放ったわけです。「この私めには、追憶や浮気に耽ったりしておる余裕などありませぬよ」と。
 一連の宴歌は憶良のこの作で閉じており、祝宴はなごやかな雰囲気の内に、間もなく散会に至ったものと思われます。
 この宴は、いわゆる筑紫歌壇の旗揚げとも言うべき、モニュメンタルな宴となりました。

 前章から時間が少し前後してしまいましたが、旅人の妻が大宰府で亡くなったのは、小野老の着任を祝う宴が催されて暫く後のことであったと思われます。皮肉とユーモアを交え、追懐の情に浸る旅人の歌を否定してみせた憶良は、今度は渾身の力を籠めて上司の亡き妻を悼み、謹んで挽歌を捧げました。「日本挽歌」と名づけられた長短歌です。反歌のうち最後の二首を引用しましょう。

 妹が見しあふちの花は散りぬべし我が泣く涙いまだなくに
 大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯おきその風に霧立ち渡る


大野山
大野山

 自らを、妻を亡くした夫の立場に置いて詠んだ、虚構の作です。そこに盛られた感情があまりに真に迫っているため、憶良の実体験を詠んだものと永らく誤解されてきました。
 憶良が旅人に贈ったのは、お悔やみや同情の言葉でもなければ、親身な激励の言葉でもありませんでした。「いよよますます悲しかりけり」としか言えなかった旅人の痛みを、彼はそのまま自らの痛みとし、身を切るような悲しみの歌としました。そこには、上司と下僚と言った関係を越え、老境に至った士大夫(ますらを)同士の連帯と共感がありました。旅人はこの挽歌を捧げられて、どれほど慰めと力を得たことでしょうか。
 旅人と憶良、二人の老詩人による詩的交友録とも呼べる万葉集巻五は、前節に見た「報凶問歌」とこの「日本挽歌」を劈頭とします。みずみずしい抒情に私的感懐を盛り、また或る時は仙界の空想に遊ぶ旅人に対し、憶良は儒仏の教養を披露しつつ、現世への執着と人生苦を歌いました。一見対照的な両者の歌風ですが、その底には同時代を生きる者の魂の交流があり、敬意の交換があり、ひそかな影響と反発がありました。

憶良歌碑
山上憶良歌碑 福岡県太宰府市

 さて、当時東海の小国に過ぎなかった日本が、積極的に遣唐使を派遣するなどして、唐の文物を輸入することに躍起となっていたことは言うまでもありません(大宰府はその窓口とも言うべき機関でもありました)。こうして律令制や都城制が日本に移植され、平城京において、わが国なりの完成の域に達しようとしていました。その最大の領導者であった藤原不比等が、和歌を一首も残していないことは(漢詩は『懐風藻』に載っています)、文武朝から元明朝頃の官僚層の文芸意識をよく象徴しています。しかし聖武朝の筑紫歌壇は、こうした前代の傾向にひっそりと反旗を掲げ、出発しました。
 彼らは、漢詩の代りに和歌を以てしました。日本語による文芸作品――和歌(やまとうた)――によって士大夫の志や風雅を述べようとした、筑紫歌壇の試みは、実にわが国文芸史上空前のものでした。

 しかし彼らの歌を語る前に、天平の政界を揺るがした大事件について触れておかなければなりません。巻五の旅人の歌には、妻の死と共に、この事件が大きな影を落としていると言わざるを得ないからです。それは言うまでもなく、「長屋王の変」と呼ばれる事件でした。(つづく)



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関連ページ:大伴旅人略伝大伴旅人の歌(やまとうた)・大宰府(家持アルバム)

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©水垣 久 最終更新日:平成11-12-15