折節の記



―あじさいを詠んだ和歌―

 『千五百番歌合』から藤原俊成の作を拾っていたら、あじさいの歌に目をひかれました。
夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり
 あじさいの歌は万葉集に二首ありますが、平安時代にはほとんど見えなくなります。古今から新古今までの八代集に、あじさいを詠んだ歌は一首も採られていません。梅雨の季節に欠かせない風物詩と思える紫陽花が、古典和歌ではこれほど不人気なのも、不思議な気がします。
 万葉集に見えるのは、次の二首です。
言問はぬ木すらあぢさゐ諸弟(もろと)らが練りのむらとにあざむかれけり(家持)
あぢさゐの八重咲くごとく弥(や)つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ(諸兄)
 家持の歌では、あじさいが人を欺く不実なものの譬えに使われています。色が変わりやすく、しかも実を結ばない花なので、こう言うのでしょう。いっぽう諸兄の歌では、八重咲き(厚咲き)のあじさいをめでたい花として取り上げています。当時のあじさいは、現在見られるような大手鞠でなく、花(実は萼ですが)の数が少ない日本原産のガクアジサイであろうと言われていますが、貴族の庭園などには厚咲きのものが植えられていたことがわかります。それなりに古来賞美されてきたようですね。

あじさい 具満タン

 王朝文化華やかなりし頃になると、あじさいは忘れ去られたようなかっこうですが、十世紀後半頃に編集された『古今和歌六帖』に、かろうじて一首みつけることができます。
茜さす昼はこちたしあぢさゐの花のよひらに逢ひ見てしがな(作者不明)
 「こちたし」は言痛しとも書き、噂がうるさくて嫌だ、といった意味です。「あぢさゐの花のよひら」は、要するに「よひ(宵)」を言いたいために使っています。「昼は人目が多いから、宵に逢いたいものだ」というだけの内容ですが、あじさいの花の陰でのひっそりとした逢瀬、というようなイメージも浮びます。
 「よひら」は、四枚ずつ咲くあじさいの花びらを言います。先日読んだ、平安後期の源俊頼『散木奇歌集』にも同じ言葉遣いがありました。
あぢさゐの花のよひらにもる月を影もさながら折る身ともがな(俊頼)
 この「影」は、水面に映った月光でしょう。あじさいの繁みを洩れた月の光が、池の面に四ひらの花のように映じている。その影をさながら折り取ることができたら、という願望、というより幻想をよんでいます。歌の主題はあくまでも月の光で、あじさいのイメージは引き立て役みたいなものです。
 最初にあげた俊成の歌は、俊頼のこの作に影響を受けていることが明らかです。
夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり
 「夏もなほ心はつきぬ」は、古今集の名歌「木の間よりもりくる月の影みれば心づくしの秋は来にけり」を背景にしています。「心づくし」は何も秋だけではない、夏だって、アハレを催すあまり心魂尽きてしまった。あじさいの四ひらの花に置いた露に、澄んだ月の光が宿っているのを見ていたら…。
 「花の露に宿った月の光」は当時ありふれた趣向で、俊成の歌としては特に秀歌というほどではありません。ただ、あじさいを用いたのは珍しく、薄い藍色の花と月光の取り合わせは、夏の夜に玲瓏とした涼味を与えています。
 このように平安末期頃になると、にわかにあじさいは好んでよまれるようになります。さほど歌の数は多くありませんが、俊成の息子である定家の作に、次のような美事な歌があらわれます。
あぢさゐの下葉にすだく蛍をば四ひらの数の添ふかとぞ見る
 これは安東次男氏が指摘するとおり(『藤原定家』)、黄昏時の情景と見たい気がします。あじさいの花は夕闇に隠れる。それと入れ替わるように、蛍が乱舞を始め、あじさいの下葉に集まる。「下葉」という目の付け所が絶妙だと思うのですが、そこはあたりでいちばん暗いところです。そこに蛍が群れをつくり、光を発する。そのさまを、四ひらの花の数が増えたかのように見ているのです。
 「上下の目のつかい様を操作して、逢魔が刻をうまく詠んでいる」これも安東氏のみごとな解説です。上の方の葉には花が群がり咲いていた。それが見えなくなったあと、今度は下葉にまぼろしの花が咲いた…。
 月との取り合わせを、定家は明滅する蛍の光に置き換えて、あじさいの花の夢幻性をいっそう引き出すことに成功したように思われます。
 しかし、定家の作も、あじさいより蛍を主としてよんだ歌と言うべきでしょう。ここでもこの花は引き立て役に甘んじている、と言わなければなりません。

 品種改良を加えたいまの紫陽花は、雨を引き立て役にして、梅雨の季節の主役となった観がありますね。私たちは、色のうつろいやすさを不実となじるかわりに、雨にうたれて色を濃くするその姿に、どこか儚い健気さを感じて、憂鬱な季節を慰めてもらっているような気がします。(平成十二年六月十四日)

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