多賀城

多賀城南門跡
多賀城跡 政庁南門跡より正殿跡を望む

延暦元年(西暦782年)6月17日、参議春宮大夫の地位にあった家持は陸奥按察使(むつあぜち)・鎮守将軍を兼任しました。六十五歳という高齢であることから、現地赴任はなかったと見る説もありますが、『続日本紀』の家持没伝には、

以本官出為陸奥按察使 居無幾拝中納言
意訳:本官(参議春宮大夫)はもとのまま、(京を)出て陸奥按察使となった。(陸奥に)居ること幾許も無く、中納言を拝命した。

とあり、陸奥に赴任したことは明らかです。

光仁天皇が即位した数年後から、続紀には蝦夷(えみし)による襲撃や反乱の記事が続出するようになります(対蝦夷政策史略年表参照)。対蝦夷戦争の端緒となったのは、宝亀5年(774)7月、蝦夷が桃生(もものふ)城を襲撃した事件でした。この時討伐の功を挙げたのは、陸奥按察使・鎮守将軍大伴駿河麻呂です。以後、陸奥は38年間にわたって継続的な戦争状態にあった旨、弘仁2年(811)の文屋綿麻呂の奏上文には記されています(『日本後紀』同年閏12月己亥条)。

しかし、駿河麻呂の鎮守将軍任命は桃生城侵攻事件の前年のことであり、具体的な被害の報告より先に蝦夷討伐の命が下っている(宝亀5年7月庚申条)のは、不自然な気がしてなりません。蝦夷が桃生城へ侵入したのは、征討命令がなされた直後のことでした。この時期頻発する騒動・反乱は、むしろ朝廷側が仕掛けた積極的な制圧政策に起因するものに違いなく、追い詰められた蝦夷による必死の反抗であったろうと推察されるのです。

家持が将軍に任命される2年前の宝亀11年3月には、最も大規模な蝦夷反乱事件である伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)の乱が伊治城に勃発し、鎮守将軍紀広純が殺害されました。以後、律令国家対蝦夷の全面戦争といった様相を呈します。

古代東北城柵図
古代東北城柵図(破線は現在の県境)

呰麻呂の乱は、同年9月に任命された征東大使藤原小黒麻呂らによって一応の鎮圧を見たようですが、翌天応元年6月の小黒麻呂の報告によれば「賊衆4千余人、斬れる首級は70余人。遺衆なお多し」といった風であり、一触即発の状態が続いていたことが窺われます。

この年即位した桓武天皇は、父帝の蝦夷征服政策を継承し、より綿密なプランに基づく戦争準備を進めます。家持の按察使鎮守将軍任命は、このような時機になされたものでした。

当時の陸奥鎮守府は多賀城(たがのき)にありました。この城は、聖武天皇が即位された神亀元年(724)、名将大野東人によって設置されたものです(多賀城碑文)。

多賀城碑 多賀城碑覆屋
多賀城碑と覆屋

(き)と言っても、軍事基地というイメージからは遠く、中心をなすのは築地塀に囲まれた壮麗な官舎であり、むしろ国庁に近い施設でした。その建物は伊治呰麻呂の乱で一度焼き払われてしまったのですが、家持が赴任した頃までには再建工事が急ピッチで進んでいたことでしょう。陸奥に入った家持は、まず多賀城を目指したと考えてよいと思います。

多賀城政庁模型
政庁推定復元模型(8世紀後半)

家持が将軍だった期間、現地からの戦果の報告は一切見えず、実際の戦闘はほとんど無かったようです。戦争は小康状態にあり、来るべき征夷に向けての準備を進める段階に当たったためでしょう。おそらく家持は多賀城政庁にあって征戦の計画を練り、その態勢を整えるべく指揮をふるっていたものと推測されます。翌延暦2年(783)6月、朝廷は坂東8国に命じて、郡司の子弟らに対する軍事訓練を課しました。

多賀城正殿跡
多賀城正殿跡

将軍任命からほぼ1年後の延暦2年7月、家持は陸奥にあって中納言を拝命しました。同年3月右大臣藤原田麻呂が薨去したのに伴い、大納言藤原是公が右大臣に、中納言藤原継縄が大納言に昇進し、空白となった中納言の地位が家持に回ってきたのです。

この時家持が帰京したかどうか、続紀には記載が無く、確かなところは判りません。しかし翌延暦3年(784)2月にはさらに持節征東将軍に任命され、文字通り征夷戦争の最高司令官となっています。

多賀城略図
多賀城概略図

この頃平城京では、遷都に向けて急激な動きが見られるようになります。延暦3年5月には、この年中納言に昇進した藤原小黒麻呂・種継らが遷都予定地視察のため乙訓郡長岡村に派遣されました。11月、桓武天皇は長岡宮に遷幸し、そのまま滞留して、実質的に長岡京遷都を成し遂げられました。新しい皇統の継承者として、旧体制からの脱却を目指されたものと考えられます。遷都を建議し強力に指導したのは、中納言藤原種継(式家宇合の孫、清成の子)でした。

古代宮都図
古代の宮都 (藤原・恭仁・紫香楽の京域は未確定)

種継による強権的な遷都推進は、大伴氏の青年貴族を中心に激しい反発を惹き起こしました。聖武天皇を理想の聖王と仰ぐ家持にとっても、聖武御代に絶縁するかのごとき形での遷都は受け入れ難いものだったでしょう。彼にすれば、種継の急速な台頭は聖武朝における仲麻呂の記憶に直結したに違いなく、それは繰り返してはならぬ苦い歴史でした。

しかもこの反発・対立には皇位継承問題が絡みつき、事態を複雑にしていました。当時の皇太子は桓武天皇の弟君早良親王でしたが、幼くして出家した親王は永く東大寺や大安寺に住み、宝亀2年には大仏殿副柱を構立するなど、南都仏教と太いパイプで繋がれていました。一方種継は、天皇の第一皇子であり藤原式家の血を引く安殿親王(種継にとっては従妹の子にあたる)を皇太子に立てる画策を進めていたらしく、遷都推進派と反対派の対立は、そのまま安殿親王派と早良親王派の対立に置き換えられる要素を持っていました。大伴氏の中心人物であり春宮大夫として早良皇太子に近かった家持は、否応なくこの対立の渦中に立たされることになったのです。

皇室・式家系図
皇室・式家系図 数字は天皇の代数

かかる困難な局面のうちに家持は終末の日々を送り、征東将軍に任じられた翌年、延暦4年の仲秋が終わろうとする8月28日、六十八歳でその波乱に富んだ生涯を閉じました。

家持の死没地についても、明確なところは判りません。ただ『公卿補任』延暦4年条に見える家持の略伝には、死の際の肩書を「中納言従三位兼行春宮大夫・陸奥按察使・鎮守府将軍」とし、最後に「在陸奥」と書き添えています。これからすると、将軍として陸奥にあり、そのまま任地において死去したと考えるべきなのかも知れません。

多賀城正殿跡
多賀城正殿跡と正面敷石広場

ところが、家持の葬儀がまだ終わらない翌9月23日の夜、長岡京の造営工事を検分していた種継が賊に射られ翌日死去するという事件が起こり、その主謀者として左少弁大伴継人・春宮少進佐伯高成らが捕縛されました。彼らは事件の首魁に家持の名を挙げたため、家持は生前に遡って除名処分の罰を受け、息子永主らは連座して隠岐に流されるという非運に遇いました。おそらく家持の遺骨は、埋葬されぬまま遺族の手によって流刑地に運ばれたことでしょう。

継人らは斬刑に処され、関与を証言された早良親王は乙訓(おとくに)寺に幽閉されました。親王はこれに抗議して自ら食を絶ち、淡路に移配される船中で絶命したと記録されています。

種継暗殺事件の連座者は、のち大同元年(806)に至って罪を免じられ、家持も従三位に復位されました。桓武天皇はこれを遺詔として崩御されます。この時すでに都は平安京に移っていました。

家持が実際暗殺事件に関与していたのかどうか、これまた資料が少なすぎて判断は非常に難しく思われます。もし彼が晩年陸奥に駐留を続けたとしたら、謀議に加わることはあり得ず、当然冤罪であったことになるでしょう。しかし、とすると継人らの証言は荒唐無稽な虚言であったことになり、事件の顛末を時人に納得させ得たかどうか、疑わしい気になります。

結局家持は最後まで我々に謎をかけて死んでしまいました。もちろん、彼が遺した万葉集という巨大な謎に比べれば、それらは些細な謎に過ぎないのかも知れませんが。

多賀城築地
多賀城築地跡

関連サイト:持節征東将軍の死没地(大伴家持論1) 家持長岡京死亡説を展開
      陸奥国府国府物語

作図参考:『大宰府と多賀城』(岩波書店「古代日本を発掘する 4」)・『続日本紀 二』(岩波新日本古典文学大系)



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