家持秀歌選 第二回

天平八年秋の歌

久堅の雨間(あまま)も置かず雲隠り鳴きそ(ゆ)くなる早田(わさだ)雁が音(8-1566)

雲隠り鳴くなる雁の去きて居む秋田の穂立ち繁くし思ほゆ(8-1567)

雨ごもり心(いぶ)せみ出で見れば春日(かすが)の山は色づきにけり(8-1568)

雨晴れて清く照りたる此の月夜又更にして雲なたなびき(8-1569)


巻八、秋雑歌。「大伴家持秋歌四首」と題され、左注には「右四首、天平八年丙子秋九月作」とある。制作年の知られる家持の歌の中で、最も早い時期のもの。公卿補任に記載された年齢を信じれば、天平八年は家持十九歳である。

この四首については、橋本達雄氏の優れた論文がある(『大伴家持作品論攷』所収「秋の歌四首の創造」)。四首をきわめて周到に構成された「独創性をもった連作」とし、「家持の歌における終生の基調ともなった鬱屈した複雑な感情や繊細に揺れ動く心のひだまで表現することに成功したはじめての作」と高い評価を与えている。私は橋本氏の論に全て同調するものではないが、非常にゆきとどいた分析なので、氏の論に助けを借りつつ、とりあえず一首ずつ読んでゆきたい。

久堅之 雨間毛不置 雲隠 鳴曽去奈流 早田鴈之哭
久堅の雨間(あまま)も置かず雲隠り鳴きそ(ゆ)くなる早田(わさだ)雁が音

久堅のは雨に掛かる枕詞。「『久』に家持は長雨を連想させる働きをこめている」(橋本氏前掲書)。
雨間も置かずは「雨の降っている間も休まず」とも、「雨のやむ間隙も置こうとせず(晴れ間を待たず)」とも取れる。どちらにしても、一首の解釈にさほど影響はないと思う。
雲隠り鳴きそ去くなる。「なる」は所謂伝聞の助動詞で、その声が聞える、ということ。姿を見ているのではない。
早田雁が音、カリの音には動詞「刈り」を掛けている。単なる掛詞ではなく、早稲田を刈り取る季節の、という意味を込めている。橋本氏は「『早稲田』は雁の行く先を暗示するために詠みこまれたものなのである」と指摘する。

降り続く秋の雨。垂れ込めた雨雲に隠れるように飛んでゆく雁の声。それが遠ざかってゆくのに耳を澄ませているのである。

ところでこの連作につき、たとえば『新潮日本古典集成』の註は、「雁、穂立、色づく山、清い月という秋の風物の特色をそれぞれ一首の中に据え、これに伴う情趣を気象の推移のもとに纏めた連作である」としているが、雁を単なる季節の「情趣」を喚起する「秋の風物」と考えてよいだろうか。同じ巻八の少し前に配された歌であるが、

   巫部麻蘇娘子鴈歌一首
誰れ聞きつこゆ鳴き渡る雁が音のつま呼ぶ声の(とも)しくもあるか(1562)

  大伴家持和歌一首
聞きつやと妹が問はせる雁が音はまことも遠く雲隠るなり(1563)

鳥の声を「つま呼ぶ声」と聞きなすのは万葉集の通例で、雁もまた例外ではない。また当時、漢文学の教養から雁を家族友人恋人などに消息を伝える使に譬える例も多かった。雲に隠れて去ってゆく雁を思いやる詠み手は、ただ秋の情趣にひたっているわけではない。同時に遥かな人を思いやっているのである。それが如何なる相手か、詠み手の心情がいかなるものか、までは、この一首目のみでは判然としない。ただ、早稲田を刈る季節は神聖な忌みの時節であり、「早田雁が音」との言い方に、わずかに暗示されているのみである。

さて、二首目。

雲隠 鳴奈流鴈乃 去而将居 秋田之穂立 繁之所念
雲隠り鳴くなる雁の去きて居む秋田の穂立ち繁くし思ほゆ

「雲隠り鳴くなる雁の去きて」は前歌の第四句「雲隠り鳴きそ去(ゆ)くなる」を承けていること、言うまでもない。このような句の重複は、連作の構成法としてはむしろ未熟な感じを与えるところである。当然家持に最初から連作の意図はなく、一首目で言い残したことを引き継いで歌ううち、さらに連想が働いて、次々に歌が出来た、といった成立の事情を推察させる。

ゆきてゐむ。雁が羽をやすめる(または餌を求める)ために向かってゆく先を思いやっている。そこが秋田の穂立ちである。
繁くし思ほゆ。「繁き思ひ」「思ひ繁し」などは、これも橋本氏がすでに指摘するところだが、相聞によく使われた表現である。そのため、上四句「秋田の穂立ち」までを序詞と見、歌の心は「繁くし思ほゆ」だけであるとする説が少なくなかった。
確かに、

ま葛延ふ夏野の繁くかく恋ひばまこと我が命常ならめやも(10-1985)

のように、草木の繁茂する景を序(心の暗喩)として、恋心を詠むといった発想法は万葉の相聞歌の通例であった。家持の二首目を独立した歌として見れば、やはり上四句は序詞のように受け止められてしまっても仕方ない気がする。
四首の密接な連関性を重視する橋本氏は、上四句を単なる序と見る説に反対し、「この歌は『秋田の穂立』といってきたので穂立の縁で『繁く』と続けたのであり、これが掛詞となり『思ほゆ』と結んだ」とする。納得すべき説と思う。しかし橋本氏がこれを三首目の「心いぶせみ」を前提とする表現として、「『繁くし思ほゆ』と歌いつつ、三首目の『いぶせき』物思いの内容を暗示し、引き継いでいる手法」と評価するのはどうか。たしかに結果としては「引き継いでいる」が、意図的な「手法」だろうか。それほど周到な用意のもとに歌い継がれているのだろうか。
思うに、景(この場合想像上の景だが)を叙しているつもりが、「繁く」という語が出て来たので、上四句は古歌風の比喩表現に近くなってしまい、いきおい最後は相聞風に歌がまとまってしまった、ということではなかったか。結果、叙景が直叙なのか暗喩なのか、曖昧な解釈の余地を与える、落ち着きの悪い歌になってしまった。景が心象風景になり損ねてしまった、とも言える。
家持はおそらくそのことに自覚的だったと思う。それゆえにこそ、彼はさらに三首目・四首目を詠み継いで、叙景と心が分裂したような二首目に決着をつけなければならなかった。

雨隠 情欝悒 出見者 春日山者 色付二家利
雨ごもり心(いぶ)せみ出で見れば春日(かすが)の山は色づきにけり

雨ごもりとは、雨を忌んで家に籠もっていること。古橋信孝氏が指摘したとおり(『雨夜の逢引』など)、雨の夜は忌み籠りのため恋人に逢うことは憚られた。心いぶせみという心情もまた「すべて恋に基づいている」(橋本氏前掲書)。
恋人に逢えないゆえの憂鬱を紛らそうと外に出て見ると、春日山は紅葉していた。それは、雨雲に閉じられた空のように陰鬱な詠み手の心情を、さやかに開放したにちがいない。
橋本氏はこの歌を巻十の類想歌(私はむしろ家持の歌の異伝ではないかと思うが)、

物思ふと隠らひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり

と比較し、「両者の違いはどこにあるかといえば、家持の歌は『いぶせみ』によって陰鬱な雨に降りこめられて恋愛上の欲求不満にさいなまれ、ふさぎこんでいる微妙な心の陰影まで表現し得ているのに対し、『物思ふと』の歌の上二句は、まことにありふれた表現であって、心の細やかさや深さを伝えていないのが注意されるのである」と分析し、「万葉和歌史上においても、比類のない複雑な心境を一首にとどめ得た最初の作」と評価している。
その通りと思うが、私の評価の重点は、やや異なる。家持連作の二首目は、喩法の古い型を、意図せずにひきずってしまった。それを三首目は断ち切って、喩的表現とは無縁なところで、心理と心象の十全な表現を遂げている。自然物を手探りするように詠むことから心の表現に辿り着いた旧来の歌の型を、家持の作は鮮やかに逆転している、とも言える。すなわち、
 景(喩)→心 から、
 心→景 への転換である。
「いぶせさ」を抱えた心が発見した春日山の紅葉は、語らずともそのまま詠み手の新鮮な感動を伝える。景の直叙が、そのまま心象風景となるのである。橋本氏のいう「微妙な心の陰影」の表現は、上句の心理描写と、下句の叙景の響き合いによってこそ実現されている、と言うべきだ。家持がこの歌を作ることで得たものは、その意味でこそきわめて大きかったと思われる。

結びの四首目は、やや時間を置いて、夜空を詠む。

雨〓而 清照有 此月夜 又更而 雲勿田菜引
(〓は日偏に「齊」)
雨晴れて清く照りたる此の月夜又更にして雲なたなびき

春日山の紅葉によって憂鬱を晴らした心は、雨上がりの月によってさらに清められる。第四句又更にしてとの言い方が、この月夜を哀惜する心をよく伝えている。又更に橋本氏の論攷から借りれば、「この『マタサラニシテ』の小刻みな声調に、さきに述べた微妙に揺れ動く心理的な不安の情が、じつにみごとに形象化されているといってよい」。
口語に移すまでもないと思うが、一首を私なりに訳してみれば、「夜になりようやく雨が上がった。澄んだ月の光が夜空を照らしている。雲よ、また棚引いて月を隠したりしないでくれ」。雲が棚引けば、詠み手の心は再び恋の鬱情に曇らされるからである。


秋の風景を叙しながら、この連作には作者の明確な視点があり、行動(空を見上げる、家を出る、程度のものだが)があり、時間の推移にともなって変化する心の微細な動きがある。ことに三首目・四首目によって、家持は孤独や憂鬱の情を透徹した心象風景として描く方法の端緒をつかんだと思われる。何より、そうした方法的模索が窺えるところに、私はこの連作の面白さも意義も感じるのである。それは家持後年の傑作につながる作歌法であった。


最終更新日:平成16年4月3日

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