天平十六年三月十一日、難波宮において石上・榎井両氏が大楯・槍を中門・外門に樹てた。難波遷都を正式に宣言する行為であった。翌月の四月、家持が平城旧京の自宅に籠っていたことは、前節に見たとおりである。もし彼が安積親王専属の内舎人であり、かつ喪葬令にある「凡そ服紀は(中略)本主の為に、一年」という規定が内舎人にも適用されたとしたら、翌天平十七年二月まで服喪していたことになろう。もっとも、家持は十七年正月七日に紫香楽宮(しがらきのみや)大安殿で従五位下を授かっている。服紀は短縮される例が多かったので、おそらく十六年中には官職に復帰したものと思われる。
この間、聖武天皇は紫香楽宮で大仏造立の準備を進めておられたが、四月十三日、不吉な前兆のように紫香楽宮西北の山に火災が起こり、城下の男女数千人が駆り出されて山林の伐採と鎮火にあたっている。
一方難波では、この年の夏、元正太上天皇が橘諸兄と共に堀江に遊宴を催されている。これは天平二十年に諸兄によって越中に派遣された田辺福麻呂が家持に伝誦した歌によって知られることである。巻十八巻頭近く、「太上皇の難波宮に御在しし時の歌」として、左大臣と上皇が歌を詠みあったものである。左注には「江を泝(さかのぼ)りて遊宴せし日」に作ったとあるが、福麻呂の作と思われる歌に「夏の夜は道たづたづし」の句があり(四〇六二番歌)、夏の遊宴と知られるのである。種々の事情から考えて、この宴が催されたのは天平十六年夏以外考えられない。この時家持は平城旧京に留まっていたため、福麻呂から聞かされるまでこれらの歌の存在を知らなかったのである。
同じく福麻呂によって伝誦された歌によって、同年晩秋から冬にかけて、太上天皇と左大臣が再び宴に遊ばれていることが判る。御製・河内女王・粟田女王の三首が見られる(巻十八 四〇五八〜四〇六〇番歌)。
橘のとをの橘八つ代にも我れは忘れじこの橘を
橘の下照る庭に殿建てて酒みづきいます我が大君かも
月待ちて家には行かむ我が插せる赤ら橘影に見えつつ
左注には「左大臣橘卿の宅に在して肆宴きこしめしし御歌」とある。橘の実があかく照り、月の出が遅い頃と言えば旧暦十月下旬であろうか。いずれも橘を讃める歌であり、この頃上皇が諸兄に篤い信頼をお寄せになっていたことを示している。仏教の聖地の造営に奔走される紫香楽の天皇に対し、難波に留まった上皇と諸兄が、同じ頃立て続けに風雅な宴を開催し、和歌を競作されていることは、当時の大和歌(やまとうた)が置かれていた状況を考える上で、非常に示唆に富む。無論それは、万葉集の編纂を考える上でも重要なヒントを提供することになるはずだ(これらの歌について詳しくは後述する)。
家持はいずれの宴にも参席を得なかった。なお平城に留まっていたか、あるいは紫香楽の天皇のもとに供奉していたか、どちらかであろう。
この頃紫香楽では、甲賀寺の大仏像の体骨柱が完成に至っていた。十一月十三日、天皇おん自ら縄を引かれると、「時に種々の楽共に」起こったという。

甲賀寺跡 滋賀県甲賀郡信楽町黄瀬
紫香楽は雲居川(今の大戸川)とその支流の流域に沿って開けた狭小な盆地で、周囲は深い山林に取り巻かれている。数年前の初夏、私が初めて訪れたとき、空気の乾燥した高原ふうの気候を肌に感じた。低湿地の少なくない奈良とは明らかに異なる風土である。付近の森林は、今でこそ赤松の二次林に大半を占められているものの、その昔はさぞや深山幽邃の気を湛えていたに違いないと思われた。盧舎那仏造営には相応しい浄地と見なされたことだろう。
また、近江国が少なからぬ鉄穴を有したことは史書からも確認できるが、雲居川を遡って淡海の間近(滋賀県草津市野路)には野路小野山遺跡と称される製鉄遺跡があり、紫香楽宮造営の頃と時代が一致するという(『天平の都 紫香楽』)。鑿や手斧、釘など、宮都や大仏の造営に要する厖大な鉄製品は、ここで製造されたものと推測されている。
紫香楽での大仏造営は、決して行き当たりばったりに為されたのではなく、極めて綿密な調査と計画のもとに構想されたものだったのである。紫香楽宮遷都にしても、天皇ご自身の強いご意向と深謀遠慮に拠ったものであること間違いなく、進言者や「裏で糸を引いた者」などにつき憶測を巡らすには及ばない。
ところで万葉巻六の末尾には、諸兄のお抱え歌人であった田辺福麻呂による遷都関連の歌が纏められているのであるが、その中に紫香楽を詠んだ歌は含まれていない。紫香楽離宮の造営は天平十四年、その後天平十七年正月にこの地への遷都がなされるまで、幾度もの行幸が繰り返されたにも拘わらず、万葉全巻を通して紫香楽は一度として万葉歌人たちの口にのぼらないのである。これらの事実は、幾つかのことを推測させる。一つ確かなのは、少なくとも諸兄や家持が紫香楽を快く思っていなかったということ。そしてもう一つ、より重要なのは、聖武天皇が、行幸先では慣例のはずの離宮賛歌を臣下に求められなかったことである。常に大王の宮廷に直結することで生命を吹き込まれてきた和歌の歴史(額田王―人麻呂―赤人)は、その玉の緒を断ち切られようとしていた。
前節天平十六年四月の連作で、家持が宮廷の風雅の復活に望みを託していたのを見た。しかし、聖武天皇が追い求めたのは仏教的な理念に支配された法都であった。そこで大和歌が求められることは無かったのである。
天平十七年という空白の一年を挟んで、以後の万葉集は、家持周辺の個人的な記録に収斂されてゆく。万葉歌がこの時期を一つの区切りとして深い断絶に至っているという事実は、上記のような大和歌の伝統を襲った根深い危機を、あからさまに表明していると私は考える。
甲賀寺に大仏造立が着手された翌日、元正上皇は難波宮を出発され、三日後の十一月十七日、紫香楽宮に到着された。天皇と太上天皇の別行動はここにようやく解消されたのである。
十二月八日には、紫香楽で金鍾寺と朱雀路に灯火一万坏が灯された。翌年正月の遷都を控え、地鎮が執り行われたものである。
明けて天平十七年正月一日、紫香楽宮への遷都が宣言された。「乍(たちま)ちに新京に遷り、山を伐り地を開きて、以て宮室を造る」。宮はまだ造営途中で、宮室を帳で繞らし、大伴牛養と佐伯常人が大楯と鉾を樹てた。
七日には大安殿で元日節会が催され、恒例の叙位が臣下に下された。恭仁京に続いて紫香楽宮造営にも功があったと思われる民部卿藤原仲麻呂は二階昇進して正四位上にのぼり、大伴家持は従兄の大伴古麻呂と共に従五位下に昇叙された。これが『続日本紀』に家持の名の現れる最初である。
二十一日、行基を大僧正とする詔が発され、僧正玄ム(げんぼう)を飛び越えて法界の最高位に就いた。行基はこのとき既に七十八歳、余命は五年に過ぎないが、この年には難波に五つの院を建立し、また同地に橋・堀・船津などを造ったことが霊異記に見え、なお活発な布教と社会事業を展開していたことが知られる。
ところがこの年夏に至ると、紫香楽宮周辺で山火事が頻発するようになる。四月一日、「市の西の山」で火災があったのを始め、三日には「甲賀寺の東の山」で、八日には南接する伊賀国の真木山で火事が起こる。火は三四日消えず、延焼は数百余町に及んだという。真木山付近は後の東大寺領玉滝杣の中心地であり、宮や大仏造営のために利用されていた杣山だろうと思われる。十一日には「宮城の東の山」に火があり、連日滅えず。「都下の男女、競ひ往きて川に臨みて物を埋む。天皇、駕を
一連の火災を紫香楽遷都に不満を持つ一部官人らによる放火と見る説もあるが、続紀五月乙丑(八日)条に「四月より雨ふらず」とあり、七月に至っても「使を遣はして雨を
四月十五日には、塩焼王が召還され入京している。王は、元明朝から聖武朝にかけて重鎮として朝廷を支えた新田部親王の長子であるが、天平十四年八月の紫香楽宮造営・行幸の際、御前次第司を務め、その二カ月程のち突然女孺らと共に下獄・流罪に処されている。今回は紫香楽宮での打ち続く災異に伴って帰京を許されており、どうも偶然の符号とは思えない。なお王の室は聖武第三皇女不破内親王である。安積親王亡き後、有力な次期皇太子候補と目されたはずの塩焼王が、この時期になって帰京を許されたことの持つ意味は軽くあるまい。
しかし災異は収まるどころか、四月末には美濃国を震源とする大地震が起こった。続紀甲寅(きのえとら。四月二十七日)条を引く。
是の日、通夜 、地震 ふる。三日三夜なり。美濃国の櫓・館・正倉、仏寺の堂塔、百姓 の廬舎 、触れる処に崩 ゑ壊 たれぬ。
五月に入っても、余震が新京を揺るがし続けた。二日、太政官は諸司の官人等を召し、「何れの処を以て京とすべきか」問うと、皆口を揃えて「平城に都すべし」と答えた。その後も地震は止まず、日照りも重なってさらに人心は動揺した。五日、天皇は恭仁京へ還御。翌日、車駕が泉橋に至ったとき、民衆は遥かに天皇を望み見て、道の左側から拝謁し、ともに万歳(ばんせい)を叫んだ。このような危機に至ってなお、聖武天皇のご威光が損なわれることはなかったのである。
七日には還都のため平城京を掃除(はらいきよめ)した。丁卯十日には再び地震が起こり、恭仁京の人々は争って平城へ移った。
丁卯 、地震 ふる。大般若経を平城宮に読ましむ。是の日、恭仁京の市人、奈良に徙 る。暁夜 も争ひ行き、相接ぎて絶ゆること无 し。戊辰 、幣帛を諸の陵に奉る。是の時に、甲賀宮空しくして人无し。盗賊充ち丁卯斥 ちて、火も亦丁卯滅 えず。仍て諸司と衛門の衛士らとを遣して、官物を収めしむ。是の日、平城に行幸したまひ、中宮院を御在所とす。(中略)是の月、地震 ふること、常に異なり。往往丁卯圻 き裂けて水泉湧き出づ。
都の終末の光景をこれほど簡潔鮮烈に描き尽くした文は、日本文学に他例を知らない。この前後の続紀の文章は保田與重郎によって「日本文學史上出色の文」と評されたものであるが、装飾を排した史伝体の明晰なスタイルがいやが上にも切迫感を高め、次第に追い詰められてゆく朝廷と、混乱する民衆の相をまざまざと脳裡に浮かばせる。
十一日の記事には「平城に行幸」とあるが、実質的にはこの時平城還都がなされたのである。恭仁・難波遷都を主導した左大臣橘諸兄の威信は大きく傷ついた。紫香楽宮での大仏造営は挫折し、以後は藤原氏の影響力の濃い土地である三笠山麓にその事業を移すこととなる。
六月十四日には宮門の大楯が樹てられ、平城遷都が正式に表明された。五年にわたる彷徨の末、都は畢竟奈良の旧京に帰着したのである。

平城宮跡 奈良県奈良市佐紀町
しかし平城への還都も天意を鎮めることは出来なかったのであろうか、秋に入っても旱と地震の記事が続く。八月二十八日には、一年半ぶりの難波宮行幸がおこなわれているが、翌日再び地震があり、月が替わって九月二日にも地震。四日には知太政官事の鈴鹿王が薨じている。長屋王の異母弟である。九月十五日には以後三年間、一切の宍(生獣)の殺生を禁断する詔が発される。難波滞在中の聖武天皇が御病に倒れたのである。十九日、平城・恭仁の留守官に勅して宮中警護を固くし、孫王達を召して難波宮に参集させると共に、平城宮の駅鈴・内外印が難波に収められた。
その後天皇のご容態は持ち直したらしく、九月二十六日には平城宮に還御されている。この頃災異もようやく収まったが、十一月二日、ながく天皇・皇后の寵愛を集めていた玄ム(げんぼう)僧正が突如筑紫観世音寺に左遷された。「沙門の行稍(やや)く乖(そむ)く。時の人これを悪(にく)む」と続紀にあるとおり、官人・民衆の憎悪を背に負っての放逐であった。法師は翌年筑紫で死去するが、藤原広嗣の怨霊に取り殺されたのだと人々は頻りに噂したという。
繰り返すと、万葉集には天平十七年に作られたと明記された歌は一首もない。この年を境に、万葉集は家持の独り舞台とも言うべき新たな段階に入る。「家持歌日記」が実質的にその記録を始めるは、このような危難の時代をようやく乗り越えた後のことであった。
*
ここで改めて「家持歌日記」冒頭三十二首、本稿で言うと第一節から第七節までの歌を振り返ってみたい。
一、天平二年、大宰府から平城へ還る_従(けんじゅう)たちの歌
二、天平十年、平城での七夕歌
三、天平十二年、梅花宴への追和歌(書持)
四、天平十三年、恭仁新都賛歌(境部老麻呂)
五、天平十三年、平城の書持と霍公鳥の歌を贈答
六、年月不詳 田口馬長・山部赤人伝承歌
七、天平十六年、安積皇子薨後、平城の故宅での作
大宰府―奈良―恭仁―奈良と移ろった、家持の青年期に至る半生を、これによってほぼ概観することが出来よう。そこにはまた、梅花宴・恭仁遷都・安積親王薨去といった、彼の人生の節目をなしたに違いない大切な事件が取り扱われ、或いはまた暗示されている。
これが偶然に過ぎないのか、或いは編者の意図に基づくものかどうかは、問われなくてもよい問題だと私は考える。何故なら文芸作品(広く言って芸術作品)とは、常に作者の意図を超えて実現されるなにものかであるからだ。現に作品がこのように実現されている――その事実から文学は考察を始めればよいのである。
だから私は、前節まで見てきた巻十七冒頭三十二首を「家持歌日記」の「序章」と呼びたい。
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