十六年四月五日、独り平城の故宅に居りて作る歌六首
橘のにほへる香かも
霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも
橘のにほへる苑に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを
青丹よし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに
鶉鳴く古しと人はおもへれど花橘のにほふこの屋戸
右の六首の歌は、天平十六年四月五日、独り平城の故郷の旧宅に居りてよめり。大伴宿禰家持が作なり
再び霍公鳥を主とした一連の作が現れる。書持との贈答の後、三年の歳月が経過している。天平十三年夏から十六年夏まで――この三年間は、おそらく家持の生涯を決定づけたとさえ言える事件を含んでいる。歌を詳しく見る前に、しばらく『続日本紀』に拠って時代の推移を辿り直してみたい。
天平十三年から十四年にかけて、新しい都の造営はほぼ順調に進んでいたようだ。十三年七月には元正上皇が新京に移られ、同じ月、鹿背山の東に架橋工事が始められた。この工事には、行基率いる優婆塞ら七百余人が参加している。その後、平城京から東西二市が移され、左右京が設定されて、都としての機構がようやく整い始めた。十月、鹿背山の東の橋は早くも完成に至り、翌月、新京の名が大養徳(やまと)恭仁大宮と正式に決定したのである。
年が明けて天平十四年二月、恭仁宮から東北へ伸びる道の造成が開始された。近江国甲賀郡に離宮を建設するためである。夏に入ると、畿内各地で洪水の被害があり、大和国高市郡の越智山陵(皇極陵)が崩壊するという事件が起きた。この年はほかにも六月の飯雨(形・味、飯の如き異物という)、七月の日蝕(食分九)と、災異が重なったが、八月初旬までには大宮の垣が完成し、同じ頃東北道も開通したらしく、二十七日には初めての紫香楽宮行幸を見る。宮の所在地は、現在の滋賀県甲賀郡信楽町である。

古代宮都の変遷
年末にも同地への行幸がなされ、天皇は紫香楽で正月を越されることとなる。明けて天平十五年一月二日、恭仁京に還御。
以後も紫香楽との往還は繰り返された。四月三日、三度目の紫香楽宮行幸。同じ月、新羅使が来朝するが、調を土毛(くにつもの)と改称したことを咎め、入京を許さず故国に放還している。日新関係はきわめて険悪化し、この後、天平勝宝四年まで九年間、新羅使の来朝は途絶えることになる。のみならず、前年の凶兆に続き、この年三月から降雨が途絶え、五月三日には畿内の諸神社に奉幣して雨乞いの祭が行われている。
内憂外患、このような危機的状況にあって、五月五日、続紀には注目すべき記事が現れる。この日恭仁京の内裏で宴が催され、百官を前に皇太子阿倍内親王が五節を舞われたというのである。
この舞は天武天皇創始と伝えられ、後世の『袋草紙』には「天人の歌」として「乙女子が 乙女さびすも からたまを 乙女さびすも そのからたまを」を載せ、「清見原天皇琴を弾じ給ふの時、神女降りて舞ふ歌なりと云々」と注記する。『源平盛衰記』にも、吉野川行幸の際、天皇が琴を弾くと「神女」が空から降って来て「清見原の庭にて廻雪の袖を翻し」舞い踊ったのに由来するとしている。また『年中行事秘抄』にも同様の記事が見え、「高唐神女」の如き「雲気」が彷彿として曲に応じて舞い、天皇にだけそれがお見えになった。袖を五回挙げるので五節の名がついた、とある。五という数字は陰陽五行説に基づき、五行の調和的運行を司る北斗の徳を称え、その加護を祈る舞であった。この舞を捧げられた元正太上天皇は、詔で五節の舞を「国の宝」と呼び、「君臣祖子の理」を教えるものと称賛されている。
妙齢の女性皇太子が五色の袖をひるがえして舞う。その御姿を、家持も仰ぎ見たはずである。因みに、『公卿補任』記載の年齢によれば、家持は阿倍内親王と同じ年の生れであり、この年二十六歳。
同日、群臣への大規模な叙位叙任が行われ、橘諸兄は従一位左大臣、藤原豊成は従三位中納言、仲麻呂は従四位上参議に昇った。
しかしながら、舞の効験が現れた徴候は見られない。それどころか、六月二十六日、山背国司より宇治川の水が涸れたとの報告があり、七月にかけて山崩れや地震などの災異が相次いだ。
七月には四度目の紫香楽宮行幸。この時天皇は四カ月に渡って離宮に留連される。大仏造立の詔発布とその寺地を開くことを目的とする行幸であったが、左大臣諸兄は留守官として恭仁に留まり、家持もまたこの行幸に従駕することはなかった。というのも、八月十六日に家持は巻六所収の恭仁京賛歌「今造る久迩の都は山河の清けき見ればうべ知らすらし」を詠んでおり、またこの年の秋、安積親王が左少弁藤原八束の家に催した宴に出席して歌を残しているからである(巻六、一〇四〇番歌)。
十月十五日、聖武天皇は紫香楽宮において大仏造立の詔を発され、十九日、大仏造立のため紫香楽宮に寺地が開かれた。

甲賀寺金堂跡 滋賀県甲賀郡信楽町黄瀬
十一月二日、天皇は恭仁宮に還御。十二月二十六日には恭仁京の大極殿が完成したが、紫香楽宮建設のため、新京の造作は停止に追い込まれた。宮都が迷走を始めるのは、実質的にはこの時からである。
明けて天平十六年一月十一日、「活道(いくぢ)の岡の一株の松の下に」市原王・家持らが宴を張り、歌を残している(巻六)。
同じ月十一日に、活道の岡に登り、一株の松の下に集ひて宴する歌二首
一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも
右の一首は、市原王のよめる
たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ
右の一首は、大伴宿禰家持がよめる
題詞に殊更「活道の岡」と固有名を用いているのは、これが安積親王を暗示する地名だからとしか考えようがない。所在地はいまだ確定されていないようだが、巻三の家持の安積皇子挽歌に「皇子の尊のありがよひ見しし活道の路」とあり、すなわち安積皇子が「活道の路」を常に通われていた旨見える。挽歌表現の常套として、活道が皇子の御所の所在地だったことは明らかである。
安積親王は聖武天皇の第二皇子。ただし第一皇子たる基親王は幼くして夭折したため、当時ただ一人の皇子であり、いずれ皇太子に就くべき方であった。この年、十七歳にあたる。母君は県犬養夫人であり、藤原氏の母の血を受けていないことが立太子への唯一の障害となっていた。藤原不比等が後世に(直接的には聖武天皇に対し)投げかけた呪縛の一つである。阿倍内親王が異例の女性皇太子として立ったのも、その「聖なる血」を受け継いでいたからであった。
市原王の歌を見よう。
一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清きは年深みかも
「一本松よ、あなたはどれほどの時代を経て来たのであろう。梢をわたって吹く風の音がこれほど清らかなのは、あなたが遥か遠い昔から齢を重ねて来たからなのであろう」。
「一つ松」は古来、人に擬えて歌に詠まれることが多い(「一つ松 人にありせば 大刀佩けましを 衣著せましを…」古事記、倭建命)。活道の岡に生える老松の誉め歌は、その土地の主(ぬし)である皇子の長命への予祝にほかならず、この歌に他の解釈はあり得ない(その点、次の家持作も同様である)。なおこの作は、すでに多く指摘されている通り、川島皇子が紀伊行幸の際有間皇子を偲んだ歌「白波の浜松が枝の手向くさ幾代までにか年の経ぬらむ」(巻一)に因んだものである。
作者の市原王は、万葉に安貴王の子とある。曾祖父は志貴皇子・川島皇子の両説があるが、いずれにしても天智天皇の系譜を引く王孫である。初め写経舎人として出仕し、聖武天皇・光明皇后の信頼篤く、天平十八年頃から金光明寺造物所(後の造東大寺司)の長官的地位にあった(大日本古文書)。長期にわたり大仏造営の最高監督官を務めた人物である。家持とはほぼ同年代と思われ、たびたび私的な宴で同席しており、親友同士であったことは間違いない。万葉収録歌は決して多くはないが、佳作で占められ、上の歌を見ても尋常の詩才でないことが知られよう。
これに唱和したのが次の家持の歌である。
たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ
「命の長さは知らぬ、ただこうして松の枝を結ぶ我らの心は、遠く永く続かんことを願う」。
「松が
家持の歌に払い難くかぶさる暗い影は、やはり安積親王の健康上の不安を暗示しているように私には思われる。
再び『続紀』に戻ろう。天平十六年閏一月一日――活道の岡で家持たちが宴を張った翌月のことである――聖武天皇は朝堂に官人を召集し、恭仁・難波の何れを都とすべきかお問いになった。前年末、新京の建設が中止されたため、副都難波宮へ遷都すべしとの意見が台頭していたものであろう。投票の結果、僅差で恭仁京を望む意見が上回った。過半数の官人は、大きな負担を伴う再度の遷都を嫌ったのである。とはいえ、当時多数決原則など存在しない。結論は留保されたまま、難波行幸が敢行された。
閏一月十一日、鈴鹿王と藤原仲麻呂を恭仁京留守官とし、車駕は難波へ旅立った。家持が従駕したことは間違いない。同日中に桜井頓宮(大阪府三島郡島本町の桜井駅付近か)に至るが、この時安積皇子が「脚病」を発し、恭仁京に還るという事件が起こる。続紀には次のように記されている。
是の日、安積親王、脚病に縁りて桜井頓宮より還る。丁丑(引用者注:十三日)、薨しぬ。時に年十七。従四位下大市王・紀飯麻呂らを遣して葬事を監護せしむ。親王は天皇の皇子なり。母は夫人県犬養宿禰広刀自、従五位下
唐 が女 なり。
これが安積皇子急逝を伝える全記事である。
「脚病」は『和名抄』に脚気の別称とされている。現代の医学に言う脚気と同じもので、なかでも心臓脚気と呼ばれる症状は、心臓肥大により脈拍が増大し、運動量が増加してもそれに対応できず、脚気衝心(心不全)と呼ばれる状態から急死に至ることもあるという。続紀の文を素直に読めば、この病が死因だったと考えるしかない。
藤原仲麻呂やその妻袁比良による暗殺説・毒殺説なども流布しているが、家持に視点を置く私の立場からすれば、到底肯定できない説である。もしこの時家持が仲麻呂に嫌疑を抱いたとしたら、その後の家持の行動が全く理解できなくなるからである。この点については、後節で触れたいと思う。
この後、続紀は半月ほど記事を欠く。月が替わって二月一日、聖武天皇は少納言茨田王を恭仁宮に派遣し、駅鈴・内外印を取らせ、また諸司・朝集使を難波宮に召集された。暗殺説に絡んで親王薨後の変事を警戒したためと見る説があるが、それにしてはタイミングが遅すぎる。おそらく、この頃までに天皇が難波宮遷都を決意された結果の挙に過ぎまい。
その二日後、すなわち二月三日、家持は安積皇子の挽歌をなしている(巻三)。家持の生涯を考える上で見逃せない重要な歌群なので、全文を引用する。
十六年甲申春二月、安積皇子の
薨 し時、内舎人大伴宿禰家持の作る歌かけまくもあやに
恐 し 言はまくもゆゆしきかも
我が大君皇子 の尊 万代に食 したまはまし
大日本 久迩の都は 打ち靡く春さりぬれば
山辺には花咲きををり 河瀬には年魚子 さ走り
いや日けに栄ゆる時に逆言 の狂言 とかも
白たへに舎人よそひて和束山 御輿 立たして
久かたの天 知らしぬれ こいまろびひづち泣けども
せむすべもなし反歌
我が大君
天 知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束そま山
あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬる如き我が大君かも右の三首は、二月三日によめる歌
長歌の第二行「我が大君皇子の尊(みこと) 万代に食(を)したまはまし」は、いずれ皇子が即位して国を支配されるはずであったことを言う。これを願望表現に過ぎないとみる考え方もあり得ようが、阿倍内親王という皇太子が現に居られた状況で、「皇位継承者としての安積の立場が、決して口外を憚るようなものではなかった」(瀧浪貞子『最後の女帝 孝謙天皇』)ことを示している。家持は安積皇子の立太子と将来の即位を確信していたのであり、その確信には現実的な根拠があったと考えるべきである。
皇子の薨去を、散り急ぐ全山の桜に譬えた反歌第二首は、哀惜の情を雄壮とさえ言える響きのうちに詠い上げ、親王挽歌の白眉と言えよう。
なおこの時、内舎人だった家持は難波にいたはずで、恭仁京での葬儀には参列し得なかったとする説(北山茂夫『大伴家持』など)があるが、これは誤解に満ちた憶説というものだろう。職員令で内舎人の職掌を規定した条に「供奉雑使」とあるように、そもそも内舎人は様々な使いのため各地に派遣されることの多い官職であって、常に天皇のお側に付き随っていたわけではない。また続紀養老三年十月辛丑条には、舎人親王と新田部親王に内舎人を各二名給付する記事がある。内舎人のなかには親王専属の者もいたのである。天平十五年秋から冬にかけての紫香楽行幸において、家持が皇子と共に恭仁に留まっていること(前述)から見ても、家持が安積皇子お付きの内舎人であった可能性は極めて高いのである。
皇后光明子腹の基親王に続いて皇子を失った聖武天皇の御悲しみは察し奉るに余りある。直系の男子に皇位を嗣がせる望みは、この時ほぼ絶たれたのである。二月二十四日、天皇は五度目の紫香楽宮行幸に出発し、翌年五月まで留連される。この頃から天皇の大仏造立にかけるご執念はいっそう甚だしいものとなる。

安積皇子の和束墓 京都府相楽郡和束町
一方、元正太上天皇と左大臣諸兄は難波に留まり、二十六日、諸兄は難波宮を皇都とする勅を伝えた。恭仁京は遷都四年目にして放棄されたのである。もっとも、新旧の都の間は自由な往来が許されたので、この時点で恭仁が完全な廃都になったというわけではない。諸兄にしてみれば、難波で財政を建て直し、いずれは恭仁再遷都を思い描いていたのではないかと推測される。
もし家持が安積親王専属の内舎人であったとしたら、この間彼は恭仁で本主の喪に服していたはずである。三月二十四日、家持は再び皇子の挽歌を詠う。
かけまくもあやに
恐 し 吾が大君皇子 の尊
もののふの八十 供の男 を 召し集へ率 もひたまひ
朝狩に鹿猪 踏み起こし 夕狩に鶉雉 踏み立て
大御馬 の口抑へ駐め 御心をめし明らめし
活道 山木立の繁 に 咲く花も移ろひにけり
世の中はかくのみならし大夫 の心振り起こし
剣太刀 腰に取り佩 き 梓弓靫 取り負ひて
天地 といや遠長に 万代にかくしもがもと
憑 めりし皇子の御門 の五月蝿 なす騒く舎人は
白たへにころも取り着て 常なりし笑まひ振るまひ
いや日けにかはらふ見れば 悲しきろかも反歌
はしきかも皇子の尊のあり通ひ
見 しし活道の路は荒れにけり
大伴の名に負ふ靫 帯びて万代に恃みし心いづくか寄せむ右の三首は、三月二十四日によめる歌
痛惜の念は一向に癒えないものの、皇子に従って狩猟をした時の回想を描いたり、現世無常への諦観が現れていたりする点、薨後三か月近くが経過したことから来る、悲しみの沈着が感じられる。日に日に変わり果ててゆく舎人たちの表情を描いて哀切極まりなく、長歌としてはこの方が優れている。
反歌では第二首に注目したい。靫は矢を入れる筒型の容器で、肩から紐に提げて携行したものである。これが「大伴の名に負ふ」というのは、景行紀に日本武尊の蝦夷征伐に従った大伴武日が、日高見国での蝦夷征討の後、甲斐国の酒折宮で靫負(ゆげひ)部を賜ったとの記事があり、このような伝承を背景にしていると思われる。宮廷守護を務めとする武門の家大伴が、最も誇りとした語り伝えの一つであった。
結句「いづくか寄せむ」は、何処に寄せたらよいのか、と逐語的に口語訳したら歌の心が失われる。将来大伴の心を寄せるべき主君を見失ってしまった惑乱を詠っているからである。家持が「大伴の心」を歌に詠んだのは、実はこの挽歌が初めであった。
一連の挽歌については前代歌人の挽歌の模倣影響が数々指摘され、習作の域を出ないとの評も多かったが、近年の家持復権の趨勢の中で、その知的な構成力を中心に評価の見直しが行われているようだ。しかし、そうした家持の「人工の努力」が、すでに戦前の保田與重郎によって称揚されたものであることは忘れられている。のみならず保田は、安積親王挽歌に「萬葉集そのものの成立する精神」の現れを見出していたのである。
家持は人工の努力によつて、神につながるものを己の中に知り、つひにそこにたどりついた詩人である。頼みし心いづくか寄せむといふ慟哭を、大大伴一族の使命と誇りに結びつけたところに、この何よりも自然な發見の中に、萬葉集後期精神が成立する契機が生れ、同時にそれは萬葉集そのものの成立する精神となつたのである(『萬葉集の精神 その成立と大伴家持』)。
桶谷秀昭氏の指摘を待つまでもなく(『浪曼的滑走』)、保田のこの著作は戦後万葉学者によって「意識的、無意識的」に黙殺され、葬り去られた。「萬葉集そのものの成立する精神」を問うことを忌避し続けた戦後の万葉学は、保田の批評意識を禁忌とし、封印し、或いは忘れたふりをすることによって成り立っている。
私は親王挽歌に「萬葉集そのものの成立する精神」が萌芽していると見る保田の説に基本的に賛同するが、本稿では詳論する準備がまだ整わない。この点については、ずっと後の節で触れることになるだろう。
皇子の弔いが一段落着いたのち、家持は恭仁から平城旧京に向かった。ここでようやく我々は「家持歌日記」に戻り着くことが出来た。

佐保の里 奈良市川上町
十六年四月五日、独り平城の故宅に居りて作る歌六首
親王挽歌からわずか一旬の後である。四月五日という日付は、端午の節日である点も注意しなければならない。この年は閏一月があったから、ひと月早く節句が来たのである。「平城の故宅」が佐保の大伴邸を指すことは言うまでもない。「独り」は「居り」でなく「作る」に懸かっており、宴などで詠まれたものでない、独詠歌であることを示している。とはいえ、歌を読めば作者の孤独感がひしひしと伝わり、故宅に独居していたごとき感を受けざるを得ないのも事実である。
一首目から順に見てゆこう。
橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ
「にほふ」を嗅覚的に用いた最初期の例である。「香かも」のカモは疑問・詠嘆の助辞と言われるものであるが、句や文の尾に付けられるのが通例で、こうした用いられ方はめずらしい。古義は「可聞(かも)の辞は、尾ノ句の終にうつして心得べし」と言う。しかし、「橘の花から染み出した香気は、ああ」といった風に、嘆息を挿んでいるようにも受け取られる。そして「夜の雨」は、詠い手自身の流す涙を暗示しているように思われてならない。
「うつろふ」は花が色褪せたり散ったりすることによく使われるが、この場合橘の花の香りが次第に消え失せてゆく様をあらわす。「らむ」は、眼前に見ていない事態についての推量に用いられる辞であるから、これは詠み手が現にいる「故宅」の庭の状景を詠んでいるのではない。おそらくは恭仁京のさまを幻想しているのである。家持は恭仁京から弟に宛てた歌に、「霍公鳥木の間たちくき鳴かぬ日はなし」と詠んだ。
私はこんな情景を想い浮かべる。家持は夜、佐保の自宅の縁などにいて、暗い庭を眺めている。ほのかに橘の花の香りがする。耳を澄ませるが、霍公鳥の声は聞こえない。代わりに、やがて雨の降り出す音が聞こえる。奈良で降る雨は、一山隔てた恭仁の地にも降り注いでいるに違いない。山が近い久迩の里では、いまも盛んに霍公鳥が鳴いているはずだ。彼は、いまや打ち捨てられた恭仁旧京で過ごした日々を思う。しかし雨は橘の花の香をかき消してゆく。「久迩の里でも、こうして花の香りは失せてゆくのか。そして雨の中、霍公鳥は慕わしいその香りを求めて、鳴きながら彷徨っているのであろうか」。
先に指摘したとおり、霍公鳥はさまよえる霊魂にほかならない。
霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも
「なつかし」とは、魂がそこへ絶えず惹かれてゆく様をいう。実際には霍公鳥の声を聞いていないが、魂はその声のもとへ帰りたがっているのだ。「網をさす」は、網で捕えることを言うのでなく、庭に網を張り巡らして霍公鳥を囲い込むことを言う。橘の花が散った後も、霍公鳥の声をずっと聞き続けていたい……。
橘のにほへる苑に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを
「苑」は佐保邸のでなく、他家の苑である。そこで「霍公鳥鳴く」と告げた「人」は、佐保大伴家で家持の身近にいた誰かである。結句「まし」はいわゆる反実仮想の辞。もし我が家にも霍公鳥が鳴きに来たのだったら、網を張ったものだのに。ここでも現実には霍公鳥は不在なのであり、家持はその喪失感にあらかじめ打ちひしがれている。
青丹よし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに
「もと霍公鳥」は、万葉巻十の「本つ人霍公鳥をや愛(め)づらしみ今や汝が来る恋ひつつ居れば」との関連が指摘されている。「本人とは昔の妻をも云ひなき人をも云ふ、此は郭公の聲を昔より聞馴て云なり、鳥けだ物草木までも人とは讀習なり」と代匠記にある。ジュール・ミシュレはその博物誌で鳥を「魂であり、人である」と言ったが、万葉びとにとってもまさにその通りであった。「平城の都は昔と変わり、荒れ寂びてしまったけれど、昔なじみの霍公鳥が鳴かないわけはないのに」。ここでも家持は霍公鳥を必死に呼び求めているのである。
鶉鳴く古しと人はおもへれど花橘のにほふこの屋戸
この歌で初めて霍公鳥の名は消えるが、かえってそのイメージは現前している。「人はこの都を荒れ寂びたと思うだろう、しかし我が家の庭には橘の花が咲き薫っている。だから霍公鳥は必ずこの庭を訪れるはずだ……」。年々歳々、花は咲き鳥は来鳴く。「網をさす」必要など無かったのだ。ここに至って、ようやく家持は霍公鳥の再訪に確信を抱く。言い換えれば、人事のうつろいやすさに対する、季節の、花鳥の永遠回帰性に辿り着いたのである。それは風雅の道を見出したということであり、家持はこの心を二年後の越中にまで携えてゆくことになる。
一転、彼の歌にはある晴れやかさが訪れる。
「きそひ」が「競ひ」でなく「服(き)装(よそ)ひ」であることを指摘したのは本居宣長であった。これに対し橘千蔭は「服襲ひ」すなわち重ね着する意とした(略解)。杜若の花を摺り付けた衣を羽織ってする「狩」とは、初夏に鹿の若角をとる薬狩を指しているらしい。推古紀十九年五月五日条には「薬猟於菟田野」と見え、すでに端午の節句の恒例行事となっていたことが窺える。天智朝における額田王の「紫野」の歌にしても、薬狩の際に詠まれたものと推測されている。大宝以後になると、宮廷内での騎射・走馬といった儀式的な行事に変化していったようであるが、家持の詠うのは、野を疾駆する古来の薬狩を想い浮かべるのが相応しい。
季節が永遠に回帰するように、万代永劫の宮廷において、風雅な行事は年々繰り返される。このとき都は難波にあったが、家持は難波新京をまだ見ていない。彼は新しい都での宮廷行事に想いを馳せ、不在の霍公鳥を嘆く涙の雨から、辛うじて心を晴らすことを得たのである。
最後に付け加えると、一連の歌に詠まれた「橘」には、左大臣諸兄の暗喩を読み取ることが出来る。諸兄はこの時難波におり、前述したように難波遷都の勅を伝読したのは彼であった。聖武天皇不在の新京において、薬狩などの行事を主導するのも当然諸兄であったはずだし、稀代の風流士(みやびお)であった左大臣は、そのような雅びな年中行事の伝統を尊重する気風に染まっていたはずである。数年来打ち続いた天変地異や宮都の変転、さらに大仏造営などの大事業の為に途絶えがちであったと思われる伝統的な宮廷行事の復活を、家持が左大臣に期待したとしても不思議ではあるまい。家持は諸兄から難波に呼び出される日を心待ちにしたに違いない。
そう読むと、いま見た歌群には、もう一つの政治的な文脈が浮かび上がってくるだろう。そもそも万葉という書は、純粋なアンソロジーと言える巻七から巻十四を除き、歴史的あるいは政治的文脈を抜きにして読まれることを前提としていない。梅原猛氏は万葉巻一・二を古代国家成立期の歴史を描いた「いわば一つの叙事詩、壮大なる叙事詩」と呼んだが(『水底の歌』)、聖武朝の歴史歌巻とも言うべき巻六や、一面その続編としての性格を持つ末四巻――家持歌日記――もまた、全体として或る叙事的な性格を有していることは疑いがない。先に見たとおり、題詞に「活道岡」と固有名を記すことによって安積親王を暗示していた(巻六)のも、万葉の叙事的性格を証す一例にほかならないのである。
しかし、都の変転はいまだ落着に至らなかった。
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