「家持歌日記」を読む 第一部6

六、年月未詳

万葉末四巻の著しい特色をなすのは、作歌の臨場性とでも呼ぶべきものであろう。日録風に記載されてゆく歌々は、題詞や左注によってその創作環境・作歌動機がかなり詳細に判明し得るため、しばしば、歌が生成される現場に立ち会っているかのような感興を味わわせてくれる。詞華集としての性格が濃く、せいぜい簡単な題詞と作者名くらいしか記されていない他巻の歌の成立事情を推し量るためにも、「家持歌日記」は恰好のヒントを提供してくれるだろう。大浜厳比古がいみじくも指摘したように、「この末尾四巻は、機能的に見れば、十六巻をよむための手引書であり解説書であるということになるのである」(『万葉幻視考』)。むろん、それは「家持歌日記」のほんの一面に過ぎないのであるが。

ところで、この四巻にも、家持とは直接関係のない、いわゆる伝誦歌・伝承歌が少なからず含まれている。何かの機会に人伝に聞いた歌や、宴席などで披露された古歌といったものである。そうした歌には、「随聞時記載茲(聞きし時のまにまにここに記載す)」のごとき註が付けられている。一見、備忘のためにちょっと書き付けておいた、といった書きぶりである。なかには、万葉歌が如何にして作られ、伝わり、記録されるに至ったか、そのルートを詳しく明示している例もあり、いわば歌の伝承の臨場性をまざまざと伝えている。

書持と霍公鳥(ほととぎす)をめぐって贈答した歌に継いで記載されている次の伝承歌は、作歌事情も作者名も明記されているが、制作年月は不明、というものである。

霍公鳥を(しの)ふ歌一首 田口朝臣馬長がよめる

ほととぎす今し来鳴かば万代に語り継ぐべく念ほゆるかも

右は伝へて云く、一時(あるとき)交遊(ともどち)集宴(うたげ)せり。此の日は此処に霍公鳥喧かず。仍りて件の歌を作り、以て思慕の意を()ぶるといへり。但し其の宴の所と年月とは詳審(つばひらか)にすることを得ず

何ということもない歌であるが、左注に記されたエピソードと併せ読むと、ほのぼのとした可笑しみが漂ってくるのを感じる。おそらく霍公鳥の声を聞くのを楽しみに集宴したに違いない「交遊」たちの落胆と、その場を繕おうとする田口朝臣馬長(伝不詳)の意図的に大仰な歌いぶりが面白く想像されるのである(私には、馬長(うまをさ)という名前から、なんとなくその人の顔立ちまで想像されてしまうのだが)。

もう一首、伝聞した歌が続く。

山部宿祢明人の春鴬を詠める歌一首

あしひきの山谷こえて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声 

右は、年月所処、詳審にすることを得ず。但し聞きし時の(まにま)に茲に記載(しる)せり

明人はもちろん赤人のことである。天平前期を代表する歌人で、神亀元年、すなわち聖武天皇即位の年に宮廷歌人として登場し、紀伊・吉野・難波・播磨国印南野などへの行幸に従駕して、そのつど土地や離宮を誉め讃える歌を詠んだ。制作年の知られる最後の歌は天平八年の吉野行幸での作であり、翌九年に大流行を見た疫病に命を奪われたかとも言われているが、あるいはその後も生き延びて何処かに隠棲し、ひそかに歌を詠み続けていたのかも知れない、と考えるのは楽しい。幼時から「山柿之門」として仰いだ歌仙の、未知の作を見出した家持の喜びが思いやられる。知りうる限りの作歌生活を通じ、家持の歌には表面上赤人の影響をほとんど見出すことが出来ないのであるが、その清澄な詩心は次第に彼の内深く浸透してゆき、やがて紛れもない「歌泉」となって、彼の詩の内奥から湧き出てくることになるだろう。

家持がどのような経路でこの二首を知ったかは書かれていない。排列からすると、天平十三年四月から十六年四月までの間に(すなわち恭仁京時代である)誰かから伝え聞いたことになる。いずれも鳥を主題とし、その鳴き声を待望する歌である点共通している。続く十六年四月の家持の連作も霍公鳥を主要なテーマとしているので、これら伝誦歌二首は「機能的に見れば」ふたつの霍公鳥連作を結ぶ、間奏曲ふうの役割を果たしているとも言える。

末四巻の「日記」性――いち人物の個人的な手記としての特質――は、時に挿入されるこれら伝誦歌によって、一層強められる結果となっている。歌が記録され、積み重ねられる歌稿が一巻の書物へと生成されてゆく、その現場性を体験することによって。

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©水垣 久 更新日:平成10-10-29
最終更新日:平成19-6-3