訓読万葉集 巻11 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による―



巻第十一(とをまりひとまきにあたるまき)


古今相聞往来歌類上


相聞(したしみうた) * 旋頭歌〔十七首。十二首、人麿集。五首、古歌集。

2351 新室(にひむろ)の壁草刈りにいましたまはね草のごと寄り合ふ処女(をとめ)は君がまにまに

2352 新室を踏み鎮む子が手玉(たたま)鳴らすも玉のごと照らせる君を内へと申せ

2353 泊瀬の斎槻(ゆつき)がもとに()が隠せる妻あかねさし照れる月夜(つくよ)に人見てむかも

2354 ますらをの思ひたけびて*隠せるその妻天地(あめつち)に通り照るともあらはれめやも

2355 息の緒に*()()ふ妹は早も死ねやも生けりとも(あれ)に寄るべしと人の言はなくに

2356 高麗錦紐の片方(かたへ)(とこ)に落ちにける明日の夜し()なむと言はば取り置きて待たむ

2357 朝戸出の君が足結(あゆひ)を濡らす露原早く起きて出でつつ(あれ)も裳の裾濡れな

2358 何せむに命をもとな長く欲りせむ生けりとも()()ふ妹にやすく逢はなくに

2359 息の緒に(あれ)は思へど人目多みこそ吹く風にあらばしばしば逢ふべきものを

2360 人の親の処女児(をとめこ)据ゑて守山辺(もるやまへ)から朝な()な通ひし君が来ねば悲しも

2361 天なる一つ棚橋何か(さや)らむ*若草の妻がりと言はば足結し立たむ*

2362 山背の久世(くせ)若子(わくご)が欲しと言ふ()をあふさわに()を欲しと言ふ山背の久世

右ノ十二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。

2363 岡の崎()みたる道を人な通ひそありつつも君が来まさむ避道(よきみち)にせむ

2364 玉垂(たまたれ)小簾(をす)(すけき)に入り通ひ()ねたらちねの母が問はさば風と申さむ

2365 うち日さす宮道に逢ひし人妻ゆゑに玉の緒の思ひ乱れて()る夜しそ多き

2366 真澄鏡(まそかがみ)見しがと思ふ妹に逢はめかも玉の緒の絶えたる恋の繁きこの頃

2367 海原の道に乗れれや()が恋ひ居りて大船のゆたにあるらむ人の子ゆゑに

右ノ五首ハ、古歌集ノ中ニ出ヅ。


(ただ)心緒(おもひ)を述ぶ〔百四十九首。四十七首、人麿集。百二首、人麿集外。

2368 たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことはいまだせなくに

2369 人の()味寐(うまい)は寝ずてはしきやし君が目すらを欲りて嘆くも

2370 恋ひしなば恋ひも死ねとや玉ほこの道行き人に言も告げなき

2371 心には千たび思へど人に言はず()が恋ふ妹を見むよしもがも

2372 かくばかり恋ひむものそと知らませば遠く見つべくありけるものを

2373 いつはしも恋ひぬ時とはあらねども夕かたまけて恋ふはすべなし

2374 かくのみし恋ひし渡れば玉きはる命も知らず年は経につつ

2375 (あれ)ゆ後生まれむ人は()がごとく恋する道に逢ひこすなゆめ

2376 ますらをの現心(うつしこころ)(あれ)はなし夜昼といはず恋ひし渡れば

2377 何せむに命継ぎけむ我妹子に恋ひざる先にも死なましものを

2378 よしゑやし来まさぬ君を何せむにいとはず(あれ)は恋ひつつ居らむ

2379 見渡しの近き渡りを(たもとほ)り今や来ますと恋ひつつそ居る

2380 はしきやし誰が()ふれかも玉ほこの道見忘れて君が来まさぬ

2381 君が目の見まく欲しけみこの二夜千年(ちとせ)のごとも()が恋ふるかも

2382 うち日さす宮道を人は満ち行けど()()ふ君はただ一人のみ

2383 世の中は常かくのみと思へども半手不忘*なほ恋ひにけり

2384 我が背子は(さき)くいますと度まねく*(あれ)に告げつつ*人も来ぬかも

2385 あら玉の年は経れども*()が恋ふる跡なき恋のやまぬあやしも

2386 (いはほ)すら行き通るべきますらをも恋ちふことは後悔いにけり

2387 日暮れなば人知りぬべみ今日の日の千年のごとくありこせぬかも

2388 立ちて居てたどきも知らず思へども妹に告げねば間使も来ず

2389 ぬば玉のこの夜な明けそ赤らびく朝行く君を待てば苦しも

2390 恋するに死にするものにあらませば我が身は千たび死にかへらまし

2391 ぬば玉の*昨日の夕へ見しものを今日の(あした)に恋ふべきものか

2392 なかなかに見ざりしよりは相見ては恋しき心いよよ思ほゆ

2393 玉ほこの道行かずしてあらませばねもころかかる恋には逢はじ

2394 朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに

2395 行けど行けど逢はぬ妹ゆゑ久かたの天の露霜に濡れにけるかも

2396 たまさかに我が見し人をいかならむよしをもちてかまた一目見む

2397 しましくも見ねば恋しき我妹子を日に日に来れば言の繁けく

2398 玉きはる世まで定めて恃めたる君によりてし言の繁けく

2399 赤らびく肌も触れずて寝たれども()しき心を*()()はなくに

2400 いで如何にねもころごろに*利心(とごころ)の失するまで()ふ恋ふらくのゆゑ

2401 恋ひ死なば恋ひも死ねとや我妹子が我家(わぎへ)の門を過ぎて行くらむ

2402 妹があたり遠くし見ればあやしくも(あれ)はそ恋ふる逢ふよしを無み

2403 山背の久世の川原に*みそぎして(いは)ふ命は妹がためこそ

2404 思ひ寄り見寄りしものを何すとか*一日へだつて忘ると思はむ

2405 垣ほなす人は言へども高麗錦(こまにしき)紐解き開けし君ならなくに

2406 高麗錦紐解き開けて夕へだに知らざる命恋ひつつあらむ

2407 百積(ももつみ)船漕ぎ入るる*八占(やうら)さし母は問ふともその名は()らじ

2408 眉根掻き鼻()紐解け待てりやもいつかも見むと思ひし我君(わぎみ)

2409 君に恋ひうらぶれ居れば怪しくも*()が下紐の結ふ手たゆしも*

2410 あら玉の年は果つれど敷妙の袖交へし子を忘れて思へや

2411 白妙の袖をはつはつ見しからにかかる恋をも(あれ)はするかも

2412 我妹子に恋ひすべなかり夢に見むと(あれ)は思へどい寝らえなくに

2413 故もなく()が下紐そ今解くる*人にな知らせ直に逢ふまで

2414 恋ふること心遣りかね出で行けば山も川をも知らず来にけり

右ノ四十七首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。

2517 たらちねの母に(さは)らばいたづらに(いまし)(あれ)も事成るべしや

2518 我妹子が(あれ)を送ると白妙の袖()づまでに泣きし思ほゆ

2519 奥山の真木の板戸を押し開きしゑや出で来ね後は如何にせむ

2520 苅薦(かりこも)の一重を敷きてさ()れども君とし()れば寒けくもなし

2521 かきつはた丹頬(にづら)ふ君をいささめに思ひ出でつつ嘆きつるかも

2522 恨みむと思ひなづみて*ありしかば(よそ)のみぞ見し心は()へど

2523 さ丹頬ふ色には出でじ少なくも心のうちに()()はなくに

2524 我が背子に(ただ)に逢はばこそ名は立ため言の通ふに何かそこゆゑ

2525 ねもころに片思(かたもひ)すれかこの頃の()が心どの生けるともなき

2526 待つらむに至らば妹が嬉しみと笑まむ姿を行きて早見む

2527 (たれ)そこの我が屋戸に来呼ぶたらちねの母に(ころ)ばえ物()(あれ)

2528 さ寝ぬ夜は千夜もありとも我が背子が思ひ悔ゆべき心は持たじ

2529 家人は道もしみみに通へども()が待つ妹が使来ぬかも

2530 あら玉の寸戸(きへ)竹垣(たかかき)網目よも妹し見えなば(あれ)恋ひめやも

2531 我が背子がその名のらじと玉きはる命は捨てつ忘れたまふな

2532 おほかたは誰が見むとかもぬば玉の()が黒髪をぬらして居らむ*

2533 面忘れいかなる人のするものそ(あれ)はしかねつ継ぎてし()へば

2534 相思はぬ人のゆゑにかあら玉の年の緒長く()が恋ひ居らむ

2535 おほかたの(わざ)とは()はじ我ゆゑに人に言痛(こちた)く言はれしものを

2536 息の緒に妹をし()へば年月の行くらむ(わき)も思ほえぬかも

2537 たらちねの母に知らえず()が持たる心はよしゑ君がまにまに

2538 独り()と薦朽ちめやも綾莚緒になるまでに君をし待たむ

2539 相見ては千年やいぬるいなをかも(あれ)やしか()ふ君待ちかてに

2540 振分けの髪を短み春草を髪にたくらむ妹をしぞ思ふ

2541 徘徊(たもとほ)りゆきみの里に妹を置きて心空なり土は踏めども

2542 若草の新手枕(にひたまくら)をまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに

2543 ()が恋ひしことも語らひ慰めむ君が使を待ちやかねてむ

2544 うつつには逢ふよしもなし夢にだに間なく見え君恋に死ぬべし

2545 誰そ彼と問はば答へむすべをなみ君が使を帰しつるかも

2546 思はぬに至らば妹が嬉しみと笑まむ眉引(まよびき)思ほゆるかも

2547 かくばかり恋ひむものそと思はねば妹が手本(たもと)をまかぬ夜もありき

2548 かくだにも(あれ)は恋ひなむ玉ほこの君が使を待ちやかねてむ

2549 妹に恋ひ()が泣く涙敷妙の枕通りて*袖さへ濡れぬ

2550 立ちて思ひ居てもそ思ふ紅の赤裳裾引き去にし姿を

2551 思ふにし余りにしかばすべをなみ出でてそ行きしその門を見に

2552 心には千重しくしくに思へども使を遣らむすべの知らなく

2553 夢のみに見るすらここだ恋ふる()はうつつに見てばましていかにあらむ

2554 相見ては面隠さるるものからに継ぎて見まくの欲しき君かも

2555 朝戸遣(あさとやり)を早くな開けそうまさはふ()づらし君が*今宵来ませり

2556 玉垂の小簾(をす)垂簾(たれす)引きあげて*()()さずとも君は通はせ

2557 たらちねの母に申さば君も(あれ)も逢ふとはなしに年そ経ぬべき

2558 (うつく)しと思へりけらしな忘れと結びし紐の解くらく()へば

2559 昨日見て今日こそ隔て我妹子がここだく継ぎて見まくし欲しも

2560 人もなき古りにし里にある人をめぐくや君が恋に死なせむ

2561 人言の繁き()()りて逢へりともはた()が上に*言の繁けむ

2562 里人の言寄せ妻を荒垣の(よそ)にや()が見む憎からなくに

2563 人目守る君がまにまに(あれ)さへに早く起きつつ裳の裾濡れぬ

2564 ぬば玉の妹が黒髪今宵もか()が無き床に()らして()らむ

2565 花ぐはし葦垣越しにただ一目相見し子ゆゑ千たび嘆きつ

2566 色に出でて恋ひば人見て知りぬべみ心のうちの(こも)り妻はも

2567 相見ては恋慰むと人は言へど見て後にもそ*恋まさりける

2568 おほろかに(あれ)し思はばかくばかり難き御門を罷り出めやも

2569 思ふらむその人なれやぬば玉の夜ごとに君が夢にし見ゆる

2570 かくのみに恋ひば死ぬべみたらちねの母にも告げつ止まず通はせ

2571 大夫(ますらを)は友の騒きに慰むる心もあらむ(あれ)そ苦しき

2572 偽りも似つきてそするいつよりか見ぬ人恋ふに人の死にする

2573 心さへ(まつ)れる君に何しかも*言はずて言ひしと()がぬすまはむ

2574 面忘れだにもえせむやと()握りて打てど(さや)らず恋の(やつこ)

2575 めづらしき君見むとこそ*左手の弓取る方の眉根(まよね)掻きつれ

2576 人間(ひとま)()り葦垣越しに我妹子を相見しからに言そ沙汰(さだ)多き

2577 今だにも目な(とも)しめそ相見ずて恋ひむ年月久しけまくに

2578 朝寝髪(あれ)は梳らじ(うつく)しき君が手枕()りてしものを

2579 早ゆきていつしか君を相見むと思ひし心今ぞ凪ぎぬる

2580 面形(おもかた)忘れてあらば*あぢきなく男じものや恋ひつつ居らむ

2581 言に言へば耳にたやすし少なくも心のうちに()()はなくに

2582 あぢきなく何の狂言(たはこと)今更に童言(わらはこと)する老人(おいひと)にして

2583 相見ずて*幾ばく久もあらなくに年月のごと思ほゆるかも

2584 ますらをと思へる(あれ)をかくばかり恋せしむるはからくそありける*

2585 かくしつつ()が待つ(しるし)あらぬかも世の人皆の常ならなくに

2586 人言を繁みと君に玉づさの使も遣らず忘ると()ふな

2587 大原の古りにし里に妹を置きて(あれ)い寝かねつ夢に見えこそ

2588 夕されば君来まさむと待ちし夜のなごりそ今もい寝かてにする

2589 相思はず君はあるらしぬば玉の夢にも見えずうけひて()れど

2590 岩根踏み夜道は行かじと思へれど妹によりては忍びかねつも

2591 人言の繁き間守ると逢はずあらばつひにや子らが面忘れなむ

2592 恋死なむ後は何せむ我が命の生けらむ日こそ見まく欲りすれ

2593 敷妙の枕動きてい寝らえず物()ふ今宵早も明けぬかも

2594 行かぬ()を来むとか夜も門()さずあはれ我妹子待ちつつあらむ

2595 夢にだに何かも見えぬ見ゆれども(あれ)かも惑ふ恋の繁きに

2596 慰むる心はなしにかくのみし恋ひやわたらむ月に日に()

2597 いかにして忘れむものそ我妹子に恋は益されど忘らえなくに

2598 遠くあれど君にそ恋ふる玉ほこの里人皆に(あれ)恋ひめやも

2599 験なき恋をもするか夕されば人の手まきて寝なむ子ゆゑに

2600 百代しも千代しも生きてあらめやも()()ふ妹を置きて嘆かむ

2601 うつつにも夢にも(あれ)は思はずき()りたる君にここに逢はむとは

2602 黒髪の白髪までと結びてし心一つを今解かめやも

2603 心をし君に(まつ)ると思へればよしこの頃は恋ひつつをあらむ

2604 思ひ出でて音には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ

2605 玉ほこの道行きぶりに思はぬに妹を相見て恋ふる頃かも

2606 人目多み常かくのみし(さもら)はばいづれの時か()が恋ひざらむ

2607 敷妙の衣手()れて()を待つとあるらむ子らは面影に見ゆ

2608 妹が袖別れし日より白妙の衣片敷き恋ひつつそ()

2609 白妙の袖はまよひぬ我妹子が家のあたりをやまず振りしに

2610 ぬば玉の()が黒髪を引き()らし乱れて(あれ)*恋ひ渡るかも

2611 今更に君が手枕まき寝めや()が紐の緒の解けつつもとな

2612 白妙の(そて)触れてより*我が背子に()が恋ふらくは止む時もなし

2613 夕卜(ゆふけ)にも(うら)にも告れる今宵だに来まさぬ君をいつとか待たむ

2614 眉根(まよね)掻き下いふかしみ思へるに古へ人を相見つるかも

或ル(マキ)ノ歌ニ曰ク、

    眉根掻き誰をか見むと思ひつつ日長く恋ひし妹に逢へるかも

一書ノ歌ニ曰ク、

    眉根掻き下いふかしみ思へりし妹が姿を今日見つるかも

2615 敷妙の手枕まきて*妹と(あれ)()る夜はなくて年そ経にける

2616 奥山の真木の板戸を音速み妹があたりの霜の()に寝ぬ

2617 あしひきの山桜戸を開き置きて()が待つ君を誰か留むる

2618 月夜(つくよ)よみ妹に逢はむと直道(ただち)から(あれ)は来つれど夜そ更けにける


物に寄せて思ひを()ぶ〔二百八十二首。 九十三首、人麿集。百八十九首、人麿集外。

2415 処女(をとめ)らを袖布留(ふる)山の瑞垣(みづかき)の久しき時ゆ思ひ()()

2416 ちはやぶる神に祈れる*命をば(たれ)がためにか長く欲りする

2417 石上(いそのかみ)布留(ふる)神杉(かむすぎ)神さびて恋をも(あれ)は更にするかも

2418 いかならむ名負へる神に手向(たむけ)けせば()()ふ妹を夢にだに見む

2419 天地(あめつち)といふ名の絶えてあらばこそ(いまし)(あれ)と逢ふことやまめ

2420 月見れば国は(おや)じそ山(へな)(うつく)し妹は隔りたるかも

2421 参道(まゐりぢ)*岩踏む山の無くもがも()が待つ君が馬つまづくに

2422 岩根踏み(へな)れる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひ渡るかも

2423 道の(しり)深津島山しましくも君が目見ねば苦しかりけり

2424 紐鏡能登香(のとか)の山は誰ゆゑそ君来ませるに紐開けず寝む

2425 山科の木幡(こはた)の山を馬はあれど徒歩(かち)()が来し()を思ひかね

2426 遠山に霞たなびきいや遠に妹が目見ねば(あれ)恋ひにけり

2427 この川の*瀬々に敷く波しくしくに妹が心に乗りにけるかも

2428 ちはや人宇治の渡の速き瀬に逢はずありとも後は()が妻

2429 はしきやし逢はぬ子ゆゑにいたづらにこの川の*瀬に裳の裾濡れぬ

2430 この川に*水泡(みなわ)さかまき行く水の事かへさずそ思ひ染めてし

2431 鴨川の後瀬静けし後は逢はむ妹には(あれ)は今ならずとも

2432 言に出でて言はば忌々(ゆゆ)しみ山川のたぎつ心を()かへたりけり

2433 水の()に数書くごとき我が命妹に逢はむと(うけ)ひつるかも

2434 荒磯(ありそ)越えほかゆく波の外心(ほかごころ)(あれ)は思はじ恋ひて死ぬとも

2435 淡海(あふみ)()沖つ白波知らねども妹がりといへば(ただ)に越え来ぬ*

2436 大船の香取の海にいかり下ろし如何なる人か物()はざらむ

2437 沖つ藻を隠さふ波の五百重波(いほへなみ)千重しくしくに恋ひ渡るかも

2438 人言の繁けき我妹*綱手引く海ゆまさりて深くしぞ()

2439 淡海の海沖つ島山奥まけて()()ふ妹が言の繁けく

2440 淡海の海沖榜ぐ船にいかり下ろし隠れて君が言待つ(あれ)

2441 隠沼(こもりぬ)の下よ恋ふればすべをなみ妹が名()りつ忌むべきものを

2442 大地(おほつち)も取らば尽きめど世の中に尽き得ぬものは恋にしありけり

2443 隠津(こもりづ)の沢泉なる岩根をも通してぞ()()が恋ふらくは

2444 白真弓石辺(いそへ)の山の常磐なる命なれやも恋ひつつ居らむ

2445 淡海の海(しづ)く白玉知らずして恋ひつるよりは今ぞまされる

2446 白玉を巻きてぞ持たる今よりは()が玉にせむ知れる時だに

2447 白玉を手に巻きしより忘れじと思ふ心はいつか変はらむ*

2448 白玉のあひだ空けつつ()ける緒もくくり寄すれば後あふものを

2449 香具山に雲居たなびきおほほしく相見し子らを後恋ひむかも

2450 雲間よりさ渡る月のおほほしく相見し子らを見むよしもがも

2451 天雲の寄り合ひ遠み逢はずとも(あだ)し手枕(あれ)まかめやも

2452 雲だにもしるくし立たば心遣り見つつし居らむ直に逢ふまでに

2453 春柳葛木山に立つ雲の立ちても居ても妹をしそ()

2454 春日山雲居隠りて遠けども家は思はず君をしそ()

2455 ()がゆゑに言はれし妹は高山の嶺の朝霧過ぎにけむかも

2456 ぬば玉の黒髪山の山菅に小雨降りしきしくしく思ほゆ

2457 大野らに小雨降りしく()のもとに時々寄り()()が思ふ人

2458 朝霜の()なば消ぬべく思ひつつ待つにこの夜を*明かしつるかも

2459 我が背子が浜吹く風の*いや早に早事なさば*いや逢はざらむ

2460 遠妹(とほづま)の振り放け見つつ偲ふらむこの月の(おも)に雲な棚引き

2461 山の端に照り()る月の*はつはつに妹をぞ見つる後恋ひむかも*

2462 我妹子し(あれ)を思はば真澄鏡照り()る月の影に見え来ね

2463 久かたの天照る月の隠ろひぬ何になそへて妹を偲はむ

2464 三日月のさやにも見えず雲隠り見まくぞ欲しきうたてこの頃

2465 我が背子に()が恋ひ居れば我が屋戸の草さへ思ひうらがれにけり

2466 浅茅原小野に(しめ)結ひ空言(むなこと)をいかなりと言ひて君をし待たむ

2467 道の辺の草深百合の(ゆり)にちふ妹が命を(あれ)知らめやも

2468 湖葦(みなとあし)に交じれる草のしり草の人皆知りぬ()が下思ひ

2469 山ぢさの白露繁みうらぶるる心を深み()が恋やまず

2470 湊に根延ふ小菅のねもころに*君に恋ひつつありかてぬかも

2471 山背の泉の小菅おしなみに妹を心に()()はなくに

2472 味酒(うまさけ)*三室の山の巌菅(いはほすげ)ねもころ(あれ)片思(かたもひ)ぞする

2473 菅の根のねもころ君が結びてし()が紐の緒を解く人はあらじ

2474 山菅の乱れ恋のみせしめつつ逢はぬ妹かも年は経につつ

2475 我が屋戸の軒のしだ草生ひたれど恋忘れ草見れどいまだ生ひず

2476 打つ田にも(ひえ)はあまたに有りといへど選えし(あれ)ぞ夜一人()

2477 あしひきの山の山菅*ねもころに*君し結ばば逢はざらめやも

2478 秋柏(あきかしは)潤和川辺の*小竹(しぬ)()の人に(しぬ)へば君に()へなく

2479 さね(かづら)後は逢はむと(いめ)のみに(うけ)ひわたりて年は経につつ

2480 道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ()が恋ふる妻

2481 大野らにたづきも知らず標結ひてありぞかねつる()が恋ふらくは

2482 水底(みなそこ)に生ふる玉藻の打ち靡き心を寄せて恋ふるこの頃

2483 敷妙の衣手()れて玉藻なす靡きか()らむ()を待ちかてに

2484 君来ずは形見にせよと()と二人植ゑし松の木君を待ち出ね*

2485 袖振るが見ゆべき限り(あれ)はあれどその松が枝に(かく)りたるらむ

2486 茅渟(ちぬ)の海の浜辺の小松根深めて()が恋ひ渡る人の子ゆゑに

或ル本ノ歌ニ曰ク、

    茅渟の海の潮干の小松ねもころに恋ひや渡らむ人の子ゆゑに

2487 平山の*小松が(うれ)のうれむぞは()()ふ妹に逢はず止みなむ

2488 磯の()の立てるむろの木ねもころに如何で深めて思ひそめけむ

2489 橘の本に(あれ)立ち下枝(しづえ)取り成りぬや君と問ひし子らはも

2490 天雲に羽打ちつけて飛ぶ(たづ)のたづたづしかも君しまさねば

2491 妹に恋ひい寝ぬ朝明(あさけ)鴛鴦(をしどり)こよ飛び渡る*妹が使か

2492 思ふにし余りにしかば鳰鳥(にほどり)の足濡れ()しを人見けむかも

2493 高山の嶺行く鹿(しし)の友を多み袖振らず来ぬ忘ると()ふな

2494 大船に真楫しじ貫き榜ぐ間だにねもころ恋ひし年にあらばいかに

2495 たらちねの母が()()繭隠(まよごも)(こも)れる妹を見むよしもがも

2496 貴人(うまひと)額髪(ぬかかみ)結へる染木綿(しめゆふ)の染みにし心(あれ)忘れめや

2497 隼人(はやひと)の名に負ふ夜声(よこゑ)いちしろく()が名は告りつ妻と恃ませ

2498 剣大刀(つるぎたち)諸刃の利きに足踏みて死ににも死なむ君によりてば

2499 我妹子に恋ひし渡れば剣大刀名の惜しけくも思ひかねつも

2500 朝づく日向かふ黄楊櫛(つげくし)古りぬれど何しか君が見るに飽かざらむ

2501 里遠み恋ひうらぶれぬ真澄鏡床の辺去らず夢に見えこそ

2502 真澄鏡手に取り持ちて朝な()な見れども君は飽くことも無し

2503 夕されば床の辺去らぬ黄楊枕何しか(なれ)が主待ちがたき

2504 解き衣の恋ひ乱れつつ浮草の浮きても(あれ)*恋ひ渡るかも

2505 梓弓引きてゆるさずあらませばかかる恋には逢はざらましを

2506 言霊(ことたま)八十(やそ)(ちまた)夕占(ゆふけ)問ふ(うら)まさに()れ妹に逢はむよし

2507 玉ほこの道行き(うら)に占なへば妹に逢はむと(あれ)に告りてき

右ノ九十三首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。

2619 朝影に我が身はなりぬ韓衣(からころも)裾のあはずて久しくなれば

2620 解き衣の思ひ乱れて恋ふれどもなそ汝がゆゑと問ふ人もなし

2621 摺り衣()りと夢見つうつつには誰しの人の言か繁けむ

2622 志賀(しか)の海人の塩焼き衣()れぬれど恋ちふものは忘れかねつも

2623 紅の八しほの衣朝な()()るとはすれどいや()づらしも

2624 紅の深染(こそめ)の衣色深く染みにしかばか忘れかねつる

2625 逢はなくに夕占を問ふと(ぬさ)に置くに我が衣手はまたそ継ぐべき

2626 古衣(ふるころも)打棄(うつ)てし人は秋風の立ち来る時に物()ふものそ

2627 羽根蘰(はねかづら)今する妹がうら若み笑みみ怒りみ付けし紐解く

2628 古の倭文機(しつはた)帯を結び垂れ誰ちふ人も君には益さじ

一書ノ歌ニ曰ク、

    古の狭織(さおり)の帯を結び垂れ誰しの人も君には益さじ

2629 逢はずとも(あれ)は恨みじこの枕(あれ)と思ひてまきてさ寝ませ

2630 結へる紐解きし日遠み敷妙の我が木枕(こまくら)は苔生しにけり

2631 ぬば玉の黒髪敷きて長き夜を手枕の()に妹待つらむか

2632 真澄鏡(ただ)にし妹を相見ずは()が恋やまじ年は経ぬとも

2633 真澄鏡手に取り持ちて朝な朝な見む時さへや恋の繁けむ

2634 里遠み恋ひ侘びにけり真澄鏡面影去らず夢に見えこそ

右ノ一首ハ、上ニ柿本朝臣人麿ノ歌集ノ中ニ見エタリ。但シ句々相換レルヲ以テ、茲ニ載セタリ。

2635 剣大刀身に佩き添ふる大夫(ますらを)や恋ちふものを(しぬ)ひかねてむ

2636 剣大刀諸刃の上に行き触れて()せかも死なむ恋ひつつあらずは

2637 (しはぶか)*鼻をそ()つる剣大刀身に添ふ妹が思ひけらしも

2638 梓弓(すゑ)原野(はらぬ)鳥狩(とがり)する君が弓弦(ゆづら)の絶えむと()へや

2639 葛城の襲津彦(そづひこ)真弓荒木にも頼めや君が()が名のりけむ

2640 梓弓引きみ(ゆる)べみ来ずは来ず()()そをなど来ずは来ばそを

2641 時守の打ち()す鼓()み見れば時にはなりぬ逢はなくもあやし

2642 燈火の影にかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ

2643 玉ほこの道行き疲れ稲莚(いなむしろ)しきても君を見むよしもがも

2644 小墾田(をはりた)坂田の橋の*崩れなば桁より行かむな恋ひそ我妹

2645 宮材(みやき)引く泉の(そま)に立つ民の憩ふ時なく恋ひ渡るかも

2646 住吉(すみのえ)津守(つもり)網引(あびき)(うけ)の緒の浮かれか行かむ恋ひつつあらずは

2647 横雲の*空よ引き越し遠みこそ目言()るらめ絶ゆと隔つや

2648 かにかくに物は思はず飛騨人の打つ墨縄のただ一道(ひとみち)

2649 あしひきの山田()(をぢ)が置く蚊火(かひ)の下焦れのみ()が恋ひ居らく

2650 殺板(そぎた)もち葺ける板目の合はざらば如何にせむとか()が寝そめけむ

2651 難波人葦火焚く屋の()してあれどおのが妻こそ常()づらしき

2652 妹が髪上竹葉野(かみたかはぬ)の放ち駒(あら)びにけらし逢はなく()へば

2653 馬の()(とど)ともすれば松陰に出でてぞ見つるけだし君かと

2654 君に恋ひい寝ぬ朝明に誰が乗れる馬の足音(あのと)(あれ)に聞かする

2655 紅の裾引く道を中に置きて(あれ)や通はむ君や来まさむ

2656 天飛ぶや軽の社の斎槻(いはひつき)幾代まであらむ(こも)り妻そも

2657 神奈備に神籬(ひもろき)立てて(いは)へども人の心はまもりあへぬもの

2658 天雲の八重雲隠り鳴神の音のみにやも聞きわたりなむ

2659 争へば神も憎ますよしゑやしよそふる君が憎からなくに

2660 夜並べて君を来ませと千早ぶる神の社を()まぬ日はなし

2661 (たま)ちはふ神も(あれ)をば打棄(うつ)てこそしゑや命の惜しけくもなし

2662 我妹子にまたも逢はむと千早ぶる神の社を祈まぬ日はなし

2663 千早ぶる神の斎籬(いがき)も越えぬべし今は我が名の惜しけくもなし

2664 夕月夜(あかとき)闇の朝影に我が身はなりぬ汝を思ひかねて*

2665 月しあれば明くらむ(わき)も知らずして寝て()が来しを人見けむかも

2666 妹が目の見まく欲しけく夕闇の木の葉隠れる月待つごとし

2667 真袖もち床打ち払ひ君待つと居りし間に月かたぶきぬ

2668 二上に隠ろふ月の惜しけども妹が手本を離るるこの頃

2669 我が背子が振り放け見つつ嘆くらむ清き月夜に雲な棚引き

2670 真澄鏡清き月夜のゆつりなば思ひはやまじ恋こそ益さめ

2671 この夜らの有明の月夜ありつつも君をおきては待つ人もなし

2672 この山の嶺に近しと()が見つる月の空なる恋もするかも

2673 ぬば玉の夜渡る月のゆつりなば更にや妹に()が恋ひ居らむ

2674 朽網山(くたみやま)夕居る雲の立ちていなば*(あれ)は恋ひむな君が目を欲り

2675 君が()る三笠の山に居る雲の立てば継がるる恋もするかも

2676 久かたの天飛ぶ雲になりてしか君を相見む落つる日なしに

2677 佐保の内よ下風(あらし)吹ければ*立ち還り*せむすべ知らに嘆く夜そ多き

2678 はしきやし吹かぬ風ゆゑ玉くしげ開きてさ寝し(あれ)そ悔しき

2679 窓越しに月おし照りてあしひきのあらし吹く夜は君をしそ()

2680 川千鳥棲む沢の()に立つ霧のいちしろけむな相言ひそめてば

2681 我が背子が使を待つと笠も着ず出でつつそ見し雨の降らくに

2682 韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひそ暮らしし雨の降る日を

2683 彼方(をちかた)赤土(はにふ)の小屋に小雨降り(とこ)さへ濡れぬ身に添へ我妹

2684 笠無みと人には言ひて雨障(あまつつ)み留まりし君が姿し思ほゆ

2685 妹が門行き過ぎかねつ久かたの雨も降らぬかそを由にせむ

2686 夕占問ふ我が袖に置く白露を君に見せむと取れば()につつ

2687 桜麻(さくらあさ)苧原(をふ)の下草露しあれば明かしていませ母は知るとも

2688 待ちかねて内には入らじ白妙の我が衣手に露は置きぬとも

2689 朝露の()やすき我が身老いぬともまた変若(をち)かへり君をし待たむ

2690 白妙の我が衣手に露は置けど妹には逢はずたゆたひにして

2691 かにかくに物は思はじ朝露の我が身ひとつは君がまにまに

2692 夕凝(ゆふこり)の霜置きにけり朝戸出に跡踏みつけて*人に知らゆな

2693 かくばかり恋ひつつあらずは朝に日に妹が踏むらむ土ならましを

2694 あしひきの山鳥の尾の一峯(ひとを)越え一目見し子に恋ふべきものか

2695 我妹子に逢ふよしをなみ駿河なる富士の高嶺の燃えつつかあらむ

2696 荒熊の住むちふ山のしはせ山責めて問ふとも汝が名は告らじ

2697 妹が名も()が名も立てば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつわたれ

或ル本ノ歌ニ曰ク、

    君が名も我が名も立てば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつも居れ

2698 行きて見て来れば恋ひしき朝香潟山越しに置きてい寝かてぬかも

2699 安太人(あだひと)(やな)打ち渡す瀬を速み心は()へど直に逢はぬかも

2700 玉かぎる岩垣淵の(しぬ)ひには恋ひて死ぬとも*汝が名は告らじ

2701 明日香川明日も渡らむ石橋(いはばし)の遠き心は思ほえぬかも

2702 飛鳥川水行きまさりいや日()に恋のまさらばありかてましも

2703 真薦(まこも)刈る大野川原の水隠(みごも)りに恋ひ来し妹が紐解く(あれ)

2704 あしひきの山下(とよ)み行く水の時ともなくも恋ひ渡るかも

2705 はしきやし逢はぬ君ゆゑいたづらにこの川の瀬に玉裳濡らしつ

2706 泊瀬川速み早瀬を(むす)び上げて飽かずや妹と問ひし君はも

2707 青山の岩垣沼の水隠りに恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ

2708 しなが鳥猪名山響み*行く水の名のみ寄せてし(こも)り妻はも

2709 我妹子に()が恋ふらくは水ならばしがらみ越えて行くべくそ()

2710 犬上の鳥籠(とこ)の山なる不知哉川(いさやがは)いさとを聞こせ我が名のらすな

2711 奥山の木の葉隠りて行く水の音に聞きしよ常忘らえず

2712 言()くは中は淀ませ水無川(みなしがは)絶ゆちふことをありこすなゆめ

2713 明日香川ゆく瀬を速み早見むと*待つらむ妹をこの日暮らしつ

2714 もののふの八十(やそ)宇治川の速き瀬に立ち得ぬ恋も(あれ)はするかも

2715 神奈備の折り()む隈の*岩淵に(こも)りてのみや()が恋ひ居らむ

2716 高山よ出で来る水の岩に()()れてそ思ふ妹に逢はぬ夜は

2717 朝東風(あさこち)井堤(ゐて)越す波のさやかにも*逢はぬ子ゆゑに*(たぎ)もとどろに

2718 高山の岩もとたぎち行く水の音には立てじ恋ひて死ぬとも

2719 隠沼(こもりぬ)の下に恋ふれば飽き足らず人に語りつ忌むべきものを

2720 水鳥の鴨の棲む池の下樋(したひ)無みいふせき君を今日見つるかも

2721 玉藻刈る井堤のしがらみ薄みかも恋の淀める()が心かも

2722 我妹子が笠の借手の和射見野(わざみぬ)(あれ)は入りぬと妹に告げこそ

2723 あまたあらぬ名をしも惜しみ埋れ木の下よそ恋ふる行方知らずて

2724 秋風の千江の浦()木糞(こつみ)なす心は寄りぬ後は知らねど

2725 白真砂(しらまなご)御津の黄土(はにふ)の色に出でて言はなくのみそ()が恋ふらくは

2726 風吹かぬ浦に波立ち無き名をも(あれ)は負へるか逢ふとはなしに

2727 酢蛾島(すがしま)の夏身の浦に寄する波間も置きて()()はなくに

2728 淡海の海沖つ島山奥まへて()()ふ妹が言の繁けく

2729 霰降り遠つ大浦に寄する波よしゑ寄すとも*憎からなくに

2730 紀の海の名高の浦に寄する波音高きかも逢はぬ子ゆゑに

2731 牛窓の波の潮騒島とよみ寄せてし君に逢はずかもあらむ

2732 沖つ波辺波(へなみ)の来寄る佐太(さだ)の浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも

2733 白波の来寄する島の荒磯にもあらましものを恋ひつつあらずは

2734 潮満てば水泡に浮かぶ真砂(まなご)にも(あれ)は生けるか恋ひは死なずて

2735 住吉の岸の浦()にしく波のしばしば妹を見むよしもがも

2736 風をいたみいたぶる波のあひだ無く()()ふ君は相()ふらむか

2737 大伴の御津の白波あひだ無く()が恋ふらくを人の知らなく

2738 大船のたゆたふ海にいかり下ろし如何にせばかも()が恋やまむ

2739 みさご居る沖の荒磯に寄する波ゆくへも知らず()が恋ふらくは

2740 大船の()にも(とも)にも寄する波寄すとも(あれ)は君がまにまに

2741 大海に立つらむ波は間あらむ君に恋ふらく止む時もなし

2742 志賀の海人の(けぶり)焼き立てて焼く塩のからき恋をも(あれ)はするかも

右ノ一首ハ、或ヒト云ク、石川君子朝臣ガヨメル。

2743 なかなかに君に恋ひずは比良の浦の海人ならましを玉藻刈りつつ

或ル本ノ歌ニ曰ク、

    なかなかに君に恋ひずは田児の浦の海人ならましを玉藻刈る刈る

2744 (すずき)獲る海人の灯火よそにだに見ぬ人ゆゑに恋ふるこの頃

2745 湊入りの葦分け小舟(をぶね)(さは)り多み()()ふ君に逢はぬ頃かも

2746 庭清み沖へ榜ぎ()る海人舟の楫取る間なき恋をするかも

2747 あぢかまの塩津をさして榜ぐ船の名は()りてしを逢はざらめやも

2748 大舟に葦荷刈り積みしみみにも妹が心に乗りにけるかも

2749 駅路(はゆまぢ)に引舟渡し(ただ)乗りに妹が心に乗りにけるかも

2750 我妹子に逢はず久しも甘美物(うましもの)安倍橘の苔生すまでに

2751 あぢの住む須佐(すさ)の入江の荒磯松()を待つ子らはただ一人のみ

2752 我妹子を聞き都賀野辺(つがぬへ)のしなひ合歓木(ねぶ)()は忍ひ得ず間無くし思へば

2753 波の間よ見ゆる小島の浜久木久しくなりぬ君に逢はずして

2754 秋柏(あきかしは)閏八川辺の*小竹(しぬ)()の偲ひて()れば夢に見えけり

2755 浅茅原仮標(かりしめ)指して空言(むなこと)も寄せてし君が言をし待たむ

2756 月草の仮なる命なる人をいかに知りてか後も逢はむちふ

2757 大王(おほきみ)の御笠に縫へる有馬菅ありつつ見れど言無し我妹

2758 菅の根のねもころ妹に恋ふるにし大夫心(ますらをこころ)*思ほえぬかも

2759 我が屋戸の穂蓼(ほたで)古幹(ふるから)摘み(おほ)し実になるまでに君をし待たむ

2760 あしひきの山沢ゑぐを摘みに行かむ日だにも逢はむ母は責むとも

2761 奥山の岩本菅の根深くも思ほゆるかも()()ふ妻は

2762 葦垣の中の和草(にこぐさ)にこよかに(あれ)と笑まして人に知らゆな

2763 紅の浅葉の野らに刈る(かや)の束の間も()を忘らすな

2764 妹がため命残せり刈薦の思ひ乱れて死ぬべきものを

2765 我妹子に恋つつあらずは刈薦の思ひ乱れて死ぬべきものを

2766 三島江の入江の薦を刈りにこそ(あれ)をば君は思ひたりけれ

2767 あしひきの山橘の色に出て()は恋ひなむを人目忌ますな*

2768 葦(たづ)の騒く入江の白菅の知られむためと言痛(こちた)かるかも

2769 我が背子に()が恋ふらくは夏草の刈り()くれども生ひしくごとし

2770 道の辺の五柴原(いつしばはら)のいつもいつも人の許さむ言をし待たむ

2771 我妹子が袖を頼みて真野の浦の小菅の笠を着ずて来にけり

2772 真野の浦の*小菅を笠に縫はずして人の遠名を立つべきものか

2773 刺竹(さすだけ)の葉(ごも)りてあれ我が背子が吾許(あがり)()せずは(あれ)恋ひめやも

2774 神奈備の浅篠原のしみみにも()()ふ君が*声のしるけく

2775 山高み谷辺に()へる玉葛絶ゆる時なく見むよしもがも

2776 道の辺の草を冬野に踏み枯らし(あれ)立ち待つと妹に告げこそ

2777 畳薦へだて編む数通はさば道の柴草生ひざらましを

2778 水底に生ふる玉藻の生ひ出でずよしこの頃はかくて通はむ

2779 海原の沖つ縄海苔(なはのり)打ち靡き心もしぬに思ほゆるかも

2780 紫の名高の浦の靡き藻の心は妹に寄りにしものを

2781 (わた)の底(おき)を深めて生ふる藻のもはら今こそ恋はすべなき

2782 さ寝かねば誰とも寝めど沖つ藻の靡きし妹が言待つ(あれ)

2783 我妹子が如何にとも()を思はねばふふめる花の穂に咲きぬべし

2784 (こも)りには恋ひて死ぬともみ苑生(そのふ)韓藍(からゐ)の花の色に出でめやも

2785 咲く花は過ぐ時あれど()が恋ふる心のうちは止む時もなし

2786 山吹のにほへる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ

2787 天地の寄り合ひの極み玉の緒の絶えじと思ふ妹があたり見つ

2788 息の緒に思ふは苦し玉の緒の絶えて乱れな知らば知るとも

2789 玉の緒の絶えたる恋の乱れには死なまくのみそまたも逢はずして

2790 玉の緒のくくり寄せつつ末つひに行きは別れず(おや)じ緒にあらむ

2791 片糸もち()きたる玉の緒を弱み乱れやしなむ人の知るべく

2792 玉の緒の現心(うつしこころ)や年月の行きかはるまで妹に逢はざらむ

2793 玉の緒の間も置かず見まく欲り()()ふ妹は家遠くありて

2794 隠津(こもりづ)の沢泉なる岩根ゆも通してそ思ふ君に逢はまくは

2795 紀の国の飽等(あくら)の浜の忘れ貝(あれ)は忘れじ年は経ぬとも

2796 水(くく)る玉に交じれる磯貝の片恋のみに年は経につつ

2797 住吉(すみのえ)の浜に寄るちふうつせ貝実なき言もち(あれ)恋ひめやも

2798 伊勢の海人の朝な夕なに(かづ)くちふ(あはび)の貝の片思(かたもひ)にして

2799 人言を繁みと君を鶉鳴く人の古家(ふるへ)に語らひて遣りつ

2800 (あかとき)(かけ)は鳴くなりよしゑやし独り()る夜は明けば明けぬとも

2801 大海の荒磯の洲鳥朝な()な見まく欲しきを見えぬ君かも

2802 思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を

或ル本ノ歌ニ曰ク、

    あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長き永夜を一人かも寝む

2803 里中(さとぬち)に鳴くなる(かけ)の呼び立てていたくは泣かぬ(こも)り妻はも

2804 高山にたかべさ渡り高々に()が待つ君を待ち出なむかも

2805 伊勢の海ゆ鳴き来る(たづ)音驚(おとどろ)も君が聞こえば(あれ)恋ひめやも

2806 我妹子に恋ふれにかあらむ沖に棲む鴨の浮寝の安けくもなし

2807 明けぬべく千鳥しば鳴く敷妙の*君が手枕いまだ飽かなくに


問答(とひこたへのうた)〔二十九首。九首、人麿集。二十首、人麿集外。

2508 皇祖(すめろき)の神の御門を畏みとさもらふ時に逢へる君かも

2509 真澄鏡見とも言はめや玉かぎる岩垣淵の(こも)りたる妻

二首(ふたうた)

2510 赤駒の足掻(あがき)速けば雲居にも(かく)り行かむそ袖振れ我妹

2511 隠国(こもりく)豊泊瀬道(とよはつせぢ)は常滑のかしこき道そ()が心ゆめ*

右二首。*

2512 味酒(うまさけ)三諸(みもろ)の山に立つ月の見が欲し君が馬の足音(あと)そする

右二首。*

2513 雷神(なるかみ)(とよ)みて*さし曇り雨も降れやも君を留めむ

2514 雷神の光動みて*降らずとも(あれ)は留まらむ妹し留めば

右二首。

2515 敷妙の枕(うご)きて()もい寝ず思ふ人には後逢ふものを

2516 敷妙の枕に人は言問へやその枕には苔生しにたり

右二首。
以前ノ九首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。

2808 眉根(まよね)掻き鼻()紐解け待てりやもいつかも見むと恋ひ()(あれ)

右、上ニ柿本朝臣人麿ノ歌集ノ中ニ見エタリ。但シ問答ノ故ヲ以テ、(ココ)ニ累載ス。

2809 今日しあれば()し鼻()*(まよ)かゆみ思ひしことは君にしありけり

右二首。

2810 音のみを聞きてや恋ひむ真澄鏡(ただ)に相見て*恋ひまくも多く

2811 この言を聞かむとならし真澄鏡照れる月夜も闇のみに見つ

右二首。

2812 我妹子に恋ひてすべなみ白妙の袖返ししは(いめ)に見えきや

2813 我が背子が袖返す夜の夢ならしまことも君に逢へりしごとし

右二首。

2814 ()が恋は慰めかねつま()長く夢に見えずて年の経ぬれば

2815 ま日長く夢にも見えず絶えぬとも我が片恋は止む時もあらじ

右二首。

2816 うらぶれて物な思ひそ天雲のたゆたふ心()()はなくに

2817 うらぶれて物は思はじ水無瀬川ありても水は行くちふものを

右二首。

2818 かきつはた佐紀沼(さきぬ)の菅を笠に縫ひ着む日を待つに年そ経にける

2819 押し照る難波菅笠(すがかさ)置き古し後は誰着む笠ならなくに

右二首。

2820 かくだにも妹を待ちなむさ夜更けて出で来し月のかたぶくまでに

2821 ()の間より移ろふ月の影を惜しみ立ち(もとほ)るにさ夜更けにけり

右二首。

2822 栲領布(たくひれ)の白浜波の寄りもあへず荒ぶる妹に恋ひつつそ居る

2823 かへらまに君こそ(あれ)に栲領巾の白浜波の寄る時もなき

右二首。

2824 思ふ人来むと知りせば八重(むぐら)覆へる庭に玉敷かましを

2825 玉敷ける家も何せむ八重葎覆へる小屋(をや)も妹と居りてば

右二首。

2826 かくしつつあり慰めて玉の緒の絶えて別ればすべなかるべし

2827 紅の花にしあらば衣手に染め付け持ちて行くべく思ほゆ

右二首。


譬喩(たとへうた)〔十三首。人麿集外。

2828 紅の深染(こそめ)の衣を下に着ば人の見らくににほひ出でむかも

2829 衣しも(さは)にあらなむ取り替へて着せばや君が(おも)忘れたらむ

右の二首(ふたうた)は、衣に寄せて思ひを(たと)ふ。

2830 梓弓弓束巻き替へ中見判*さらに引くとも君がまにまに

右の一首(ひとうた)は、弓に寄せて思ひを喩ふ。

2831 みさごゐる洲に居る舟の夕潮を待つらむよりは(あれ)こそ益さめ

右の一首は、船に寄せて思ひを喩ふ。

2832 山川に(うへ)伏せ置きて*()りあへず年の八年(やとせ)()(ぬす)まひし

右の一首は、魚に寄せて思ひを喩ふ。

2833 葦鴨のすだく池水(はふ)るとも儲溝(まけみぞ)()(あれ)越えめやも

右の一首は、水に寄せて思ひを喩ふ。

2834 大和の室生(むろふ)の毛桃本繁く言ひてしものをならずはやまじ

右の一首は、(このみ)に寄せて思ひを喩ふ。

2835 ま葛延ふ小野の浅茅を心よも人引かめやも(あれ)無けなくに

2836 三島菅いまだ苗なり時待たば着ずやなりなむ三島菅笠

2837 み吉野の水隈(みぐま)が菅を編まなくに刈りのみ刈りて乱りなむとや

2838 川上に洗ふ若菜の流れ来て妹があたりの瀬にこそ寄らめ

右の四首(ようた)は、草に寄せて思ひを喩ふ。

2839 かくしてや猶や成りなむ*大荒木の浮田の社の(しめ)ならなくに

右の一首は、標に寄せて思ひを喩ふ。

2840 いくばくも降らぬ雨ゆゑ我が背子が御名のここだく(たぎ)もとどろに

右の一首は、滝に寄せて思ひを喩ふ。


更新日:平成12-08-15
最終更新日:平成20-02-08
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