訓読万葉集 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による― -------------------------------------------------------- .巻第一(ひとまきにあたるまき) 雑歌(くさぐさのうた) 泊瀬(はつせ)の朝倉の宮に天(あめ)の下しろしめしし天皇(すめらみこと)の代(みよ) 天皇のみよみませる御製歌(おほみうた) 0001 籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち    この丘に 菜摘ます子 家告(の)らせ 名のらさね    そらみつ 大和の国は おしなべて 吾(あれ)こそ居れ    しきなべて 吾(あれ)こそ座(ま)せ 吾(あ)をこそ 夫(せ)とは告らめ    家をも名をも 高市の崗本の宮に天の下しろしめしし天皇の代 天皇の香具山に登りまして望国(くにみ)したまへる時にみよみませる御製歌(おほみうた) 0002 大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山    登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(けぶり)立ち立つ    海原は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は 天皇の宇智の野(ぬ)に遊猟(みかり)したまへる時、中皇命(なかちひめみこ)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして献らせたまふ歌 0003 やすみしし 我が大王(おほきみ)の 朝(あした)には 取り撫でたまひ    夕へには い倚(よ)り立たしし み執(と)らしの 梓の弓の    鳴弭(なりはず)の 音すなり 朝猟(あさがり)に 今立たすらし    夕猟(ゆふがり)に 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 鳴弭の音すなり 反(かへ)し歌 0004 玉きはる宇智の大野に馬並(な)めて朝踏ますらむその草深野 讃岐国安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)せる時、軍王(いくさのおほきみ)の山を見てよみたまへる歌 0005 霞立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける 別(わ)きも知らず    むらきもの 心を痛み 鵺子鳥(ぬえことり) うら嘆(な)げ居(を)れば    玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大王の    行幸(いでまし)の 山越しの風の 独り居(を)る 吾(あ)が衣手(ころもて)に    朝宵に 還らひぬれば 大夫(ますらを)と 思へる我(あれ)も    草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに    綱の浦の 海人処女(あまをとめ)らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる    吾(あ)が下情(したごころ) 反し歌 0006 山越しの風を時じみ寝(ぬ)る夜おちず家なる妹(いも)を懸けて偲(しぬ)ひつ      右、日本書紀ヲ検(カムガ)フルニ、讃岐国ニ幸スコト無シ。亦      軍王ハ詳(ツマビ)ラカナラズ。但シ山上憶良大夫ガ類聚歌林ニ      曰ク、紀ニ曰ク、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、      伊豫ノ温湯ノ宮ニ幸セリト云ヘリ。一書ニ云ク、是ノ時      宮ノ前ニ二ノ樹木在リ。此ノ二ノ樹ニ斑鳩(イカルガ)比米(シメ)二ノ鳥、      大ニ集マレリ。時ニ勅(ミコトノリ)シテ多ク稲穂ヲ掛ケテ之ヲ養      ヒタマフ。乃チ作メル歌ト云ヘリ。若疑(ケダシ)此便ヨリ幸セルカ。 明日香の川原の宮に天の下しろしめしし天皇の代 額田王の歌 0007 秋の野のみ草苅り葺き宿れりし宇治の宮処(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思ほゆ      右、山上憶良大夫ガ類聚歌林ヲ検(カムガ)フルニ曰ク、書ニ      曰ク、戊申ノ年比良ノ宮ニ幸ス大御歌ナリ。但シ紀      ニ曰ク、五年春正月己卯ノ朔ノ辛巳、天皇、紀ノ温      湯ヨリ至リマス。三月戊寅ノ朔、天皇吉野ノ宮ニ幸      シテ肆宴ス。庚辰、天皇近江ノ平浦ニ幸ス。 後の崗本の宮に天の下しろしめしし天皇の代 額田王の歌 0008 熟田津(にきたづ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎてな      右、山上憶良大夫ガ類聚歌林ヲ検フルニ曰ク、飛鳥ノ岡本宮      ニ御宇シシ天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳ノ朔ノ壬午、      天皇太后、伊豫ノ湯ノ宮ニ幸ス。後ノ岡本宮ニ馭宇シシ天皇      七年辛酉ノ春正月丁酉ノ朔ノ壬寅、御船西ニ征キテ、始メテ      海路ニ就ク。庚戌、御船伊豫ノ熟田津ノ石湯行宮ニ泊ツ。天      皇、昔日ヨリ猶存レル物ヲ御覧シ、当時忽チ感愛ノ情ヲ起シ      タマヒキ。所以因(ソヱニ)歌詠ヲ製マシテ為ニ哀傷シミタマフ。即チ      此ノ歌ハ天皇ノ御製ナリ。但額田王ノ歌ハ、別(コト)ニ四首有リ。 紀の温泉(ゆ)に幸せる時、額田王のよみたまへる歌 0009 三諸(みもろ)の山見つつゆけ我が背子がい立たしけむ厳橿(いつかし)が本 中皇命の紀の温泉に徃(いま)せる時の御歌 0010 君が代も我が代も知らむ磐代(いはしろ)の岡の草根をいざ結びてな 0011 我が背子は仮廬作らす草(かや)無くば小松が下(もと)の草(かや)を苅らさね 0012 吾(あ)が欲りし子島(こしま)は見しを底深き阿胡根(あこね)の浦の玉ぞ拾(ひり)はぬ      右、山上憶良大夫ガ類聚歌林ヲ検(カムガ)フルニ曰ク、天皇ノ      御製歌ト云ヘリ。 中大兄(なかちおほえ)の三山(みつやま)の御歌 0013 香具山は 畝傍(うねび)を善(え)しと 耳成(みみなし)と 相争ひき    神代より かくなるらし 古昔(いにしへ)も しかなれこそ    現身(うつせみ)も 嬬(つま)を 争ふらしき 反し歌 0014 香具山と耳成山と戦(あ)ひし時立ちて見に来(こ)し印南(いなみ)国原 0015 綿津見の豊旗雲に入日さし今宵の月夜(つくよ)きよく照りこそ      右ノ一首ノ歌、今案(カムガ)フルニ反歌ニ似ズ。但シ旧本      此ノ歌ヲ以テ反歌ニ載セタリ。故レ今猶此ノ次ニ載      ス。亦紀ニ曰ク、天豊財重日足姫天皇ノ先ノ四年乙      巳、天皇ヲ立テテ皇太子ト為ス。 近江の大津の宮に天の下しろしめしし天皇の代 天皇の内大臣(うちのおほまへつきみ)藤原朝臣に詔(みことのり)して、春山の万花(はな)の艶(いろ)、秋山の千葉(もみち)の彩(にほひ)を競憐(あらそ)はしめたまふ時、額田王の歌を以(もち)て判(ことは)りたまへるその歌 0016 冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ    咲かざりし 花も咲けれど 山を茂(し)み 入りても聴かず    草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては    黄葉(もみ)つをば 取りてそ偲(しぬ)ふ 青きをば 置きてそ嘆く    そこし怜(たぬ)し 秋山吾(あれ)は 額田王の近江国に下りたまへる時よみたまへる歌 0017 味酒(うまさけ) 三輪の山 青丹(あをに)よし 奈良の山の    山の際(ま)ゆ い隠るまて 道の隈(くま) い積もるまてに    つばらかに 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)かむ山を    心なく 雲の 隠さふべしや 反し歌 0018 三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなむ隠さふべしや      右ノ二首ノ歌、山上憶良大夫ガ類聚歌林ニ曰ク、近江国      ニ都ヲ遷ス時、三輪山ヲ御覧シテ御歌ヨミマセリ。      日本書紀ニ曰ク、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、近江ニ都      ヲ遷ス。 井戸王(ゐとのおほきみ)の即ち和(こた)へたまへる歌 0019 綜麻形(へそがた)の林の岬(さき)のさ野榛(ぬはり)の衣に付くなす目につく我が夫(せ)      右ノ一首ノ歌、今按フニ和スル歌ニ似ズ。但シ旧本此ノ      次ニ載セタリ。故レ以テ猶載ス。 天皇の蒲生野(かまふぬ)に遊猟(みかり)したまへる時、額田王のよみたまへる歌 0020 茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる 皇太子(ひつぎのみこ)の答へたまへる御歌 明日香宮ニ御宇シシ天皇 0021 紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾(あれ)恋ひめやも      紀ニ曰ク、天皇七年丁卯夏五月五日、蒲生野ニ縦猟シ      タマフ。時ニ大皇弟諸王内臣及ビ群臣皆悉ク従ヘリ。 明日香の清御原(きよみはら)の宮に天の下しろしめしし天皇の代 十市皇女(とほちのひめみこ)の伊勢の神宮(おほみがみのみや)に参赴(まゐで)たまへる時、波多の横山の巌(いはほ)を見て、吹黄刀自(ふきのとじ)がよめる歌 0022 河の上(へ)のゆつ磐群に草むさず常にもがもな常処女(とこをとめ)にて      吹黄刀自ハ詳ラカナラズ。但シ紀ニ曰ク、天皇四年      乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閇皇女、伊勢      神宮ニ参赴タマヘリ。 麻續王(をみのおほきみ)の伊勢国伊良虞(いらご)の島に流(はなた)へたまひし時、時(よ)の人の哀傷(かなし)みよめる歌 0023 打麻(うつそ)を麻續の王海人なれや伊良虞が島の玉藻苅ります 麻續王のこの歌を聞かして感傷(かなし)み和へたまへる歌 0024 うつせみの命を惜しみ波に湿(ひ)で伊良虞の島の玉藻苅り食(は)む      右、日本紀ヲ案フルニ曰ク、天皇四年乙亥夏四月戊戌      ノ朔乙卯、三品麻續王、罪有リテ因幡ニ流サレタマフ。      一子ハ伊豆ノ島ニ流サレタマフ。一子ハ血鹿ノ島ニ流      サレタマフ。是ニ伊勢国伊良虞ノ島ニ配スト云フハ、      若疑後ノ人歌辞ニ縁リテ誤記セルカ。 天皇のみよみませる御製歌(おほみうた) 0025 み吉野の 耳我(みかね)の嶺(たけ)に 時なくそ 雪は降りける    間無くそ 雨は降りける その雪の 時なきがごと    その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を      或ル本(マキ)ノ歌、  0026 み吉野の 耳我の山に 時じくそ 雪は降るちふ     間なくそ 雨は降るちふ その雪の 時じくがごと     その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を      右、句々相換レリ。此ニ因テ重テ載タリ。 天皇の吉野の宮に幸せる時にみよみませる御製歌(おほみうた) 0027 淑き人の良しと吉く見て好しと言ひし芳野吉く見よ良き人よく見      紀ニ曰ク、八年己卯五月庚辰朔甲申、吉野宮ニ幸ス。 藤原の宮に天の下しろしめしし天皇の代 天皇のみよみませる御製歌(おほみうた) 0028 春過ぎて夏来るらし白布(しろたへ)の衣乾したり天の香具山 近江の荒れたる都を過(ゆ)く時、柿本朝臣人麿がよめる歌 0029 玉たすき 畝傍(うねび)の山の 橿原の ひしりの御代よ    生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに    天の下 知ろしめししを そらみつ 大和を置きて    青丹よし 奈良山越えて いかさまに 思ほしけめか    天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあらねど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の    楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知ろしめしけむ    天皇(すめろぎ)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども    大殿は ここと言へども 霞立つ 春日か霧(き)れる    夏草か 繁くなりぬる ももしきの 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲しも 反し歌 0030 楽浪の志賀の辛崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人(ひと)の船待ちかねつ 0031 楽浪の志賀の大曲(おほわだ)淀むとも昔の人にまたも逢はめやも 高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が近江の堵(みやこ)の旧(あ)れたるを感傷しみよめる歌 0032 古の人に我あれや楽浪の古き都を見れば悲しき 0033 楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる都見れば悲しも 紀伊国に幸せる時、川島皇子のよみませる歌(みうた) 或ルヒト云ク、山上臣憶良ガ作 0034 白波の浜松が枝の手向(たむけ)ぐさ幾代まてにか年の経ぬらむ      日本紀ニ曰ク、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇紀伊国ニ幸ス。 勢(せ)の山を越えたまふ時、阿閇皇女(あべのひめみこ)のよみませる御歌 0035 これやこの大和にしては我(あ)が恋ふる紀路にありちふ名に負ふ勢の山 吉野の宮に幸せる時、柿本朝臣人麿がよめる歌 0036 やすみしし 我が大王の きこしをす 天の下に    国はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内(かふち)と    御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に    宮柱 太敷き座(ま)せば ももしきの 大宮人は    船並(な)めて 朝川渡り 舟競(ふなきほ)ひ 夕川渡る    この川の 絶ゆることなく この山の いや高からし    落ち激(たぎ)つ 滝の宮処(みやこ)は 見れど飽かぬかも 反し歌 0037 見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還り見む 0038 やすみしし 我が大王 神(かむ)ながら 神さびせすと    吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知り座(ま)して    登り立ち 国見をすれば 畳(たた)な著(づ)く 青垣山    山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と    春へは 花かざし持ち 秋立てば もみち葉かざし    ゆふ川の 神も 大御食(おほみけ)に 仕へ奉(まつ)ると    上(かみ)つ瀬に 鵜川を立て 下(しも)つ瀬に 小網(さで)さし渡し    山川も 依りて仕ふる 神の御代かも 反し歌 0039 山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも      右、日本紀ニ曰ク、三年己丑正月、天皇吉野宮ニ幸ス。      八月、吉野宮ニ幸ス。四年庚寅二月、吉野宮ニ幸ス。      五月、吉野宮ニ幸ス。五年辛卯正月、吉野宮ニ幸ス。      四月、吉野宮ニ幸セリトイヘリ。何月ノ従駕ニテ作ル      歌ナルコトヲ詳ラカニ知ラズ。 伊勢国に幸せる時の歌 0040 嗚呼児(あご)の浦に船(ふな)乗りすらむ乙女らが珠裳の裾に潮満つらむか 0041 釵(くしろ)纏(ま)く答志(たふし)の崎に今もかも大宮人の玉藻苅るらむ 0042 潮騒に伊良虞の島辺(へ)榜ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻(しまみ)を      右の三首(みうた)は、柿本朝臣人麿が京(みやこ)に留りてよめる。 0043 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の隠(なばり)の山を今日か越ゆらむ      右の一首(ひとうた)は、當麻真人麻呂(たぎまのまひとまろ)が妻(め)。 0044 吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも      右の一首は、石上(いそのかみ)の大臣(おほまへつきみ)の従駕(おほみとも)つかへまつりてよめる。      右、日本紀ニ曰ク、朱鳥六年壬辰春三月丙寅ノ朔戊辰、      浄広肆廣瀬王等ヲ以テ、留守官ト為ス。是ニ中納言三輪      朝臣高市麻呂、其ノ冠位(カガフリ)ヲ脱キテ、朝ニササゲテ、重ネ      テ諌メテ曰ク、農作(ナリハヒ)ノ前、車駕以テ動スベカラズ。辛未、      天皇諌ニ従ハズシテ、遂ニ伊勢ニ幸シタマフ。五月乙丑      朔庚午、阿胡行宮ニ御ス。 輕皇子の安騎(あき)の野に宿りませる時、柿本朝臣人麿がよめる歌 0045 やすみしし 我が大王 高ひかる 日の皇子    神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて    隠国(こもりく)の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を    石(いは)が根 楚樹(しもと)押しなべ 坂鳥の 朝越えまして    玉蜻(かぎろひ)の 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に    旗すすき しぬに押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ほして 短歌(みじかうた) 0046 安騎の野に宿れる旅人(たびと)うち靡き寝(い)も寝(ぬ)らめやもいにしへ思ふに 0047 ま草苅る荒野にはあれど黄葉(もみちば)の過ぎにし君が形見とそ来し 0048 東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ 0049 日並(ひなみ)の皇子の命の馬並めて御狩立たしし時は来向ふ 藤原の宮営(つく)りに役(た)てる民のよめる歌 0050 やすみしし 我が大王 高ひかる 日の皇子    荒布(あらたへ)の 藤原が上に 食(を)す国を 見(め)したまはむと    都宮(おほみや)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなべに    天地(あめつち)も 依りてあれこそ 石走る 淡海(あふみ)の国の    衣手の 田上(たなかみ)山の 真木さく 檜(ひ)のつまてを    物部(もののふ)の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ    そを取ると 騒く御民(みたみ)も 家忘れ 身もたな知らに    鴨じもの 水に浮き居て 吾(あ)が作る 日の御門に    知らぬ国 依り巨勢道(こせぢ)より 我が国は 常世にならむ    図(ふみ)負へる 神(あや)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に    持ち越せる 真木のつまてを 百(もも)足らず 筏に作り    泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながらならし      右、日本紀ニ曰ク、朱鳥七年癸巳秋八月、藤原ノ宮地ニ      幸ス。八年甲午春正月、藤原宮ニ幸ス。冬十二月庚戌ノ      朔乙卯、藤原宮ニ遷リ居ス。 明日香の宮より藤原の宮に遷り居(ま)しし後、志貴皇子のよみませる御歌 0051 媛女(をとめ)の袖吹き反す明日香風都を遠みいたづらに吹く 藤原の宮の御井の歌 0052 やすみしし 我ご大王 高ひかる 日の皇子    荒布の 藤井が原に 大御門(おほみかど) 始めたまひて    埴安(はにやす)の 堤の上に あり立たし 見(め)したまへば    大和の 青香具山は 日の経(たて)の 大御門に    青山と 茂(し)みさび立てり 畝傍の この瑞山(みづやま)は    日の緯(よこ)の 大御門に 瑞山と 山さびいます    耳成の 青菅山(あをすがやま)は 背面(そとも)の 大御門に    よろしなべ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は    影面(かげとも)の 大御門よ 雲居にそ 遠くありける    高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御影の    水こそは 常磐(ときは)に有らめ 御井のま清水 短歌 0053 藤原の大宮仕へ顕(あ)れ斎(つ)くや処女が共は羨(とも)しきろかも      右の歌、作者(よみひと)未詳(しらず)。 太上天皇(おほきすめらみこと)の難波の宮に幸せる時の歌 0066 大伴の高師の浜の松が根を枕(ま)きて寝(ぬ)る夜は家し偲はゆ      右の一首は、置始東人(おきそめのあづまひと)。 0067 旅にして物恋(こほ)しきに家語(いへごと)も聞こえざりせば恋ひて死なまし      右の一首は、高安大島。 0068 大伴の御津の浜なる忘れ貝家なる妹を忘れて思へや      右の一首は、身人部王(むとべのおほきみ)。 0069 草枕旅行く君と知らませば岸の黄土(はにふ)に匂はさましを      右の一首は、清江娘子(すみのえのをとめ)が、長皇子に      進(たてまつ)れる歌。姓氏ハ詳カナラズ。 大宝(だいはう)元年(はじめのとし)辛丑(かのとうし)、太上天皇の吉野の宮に幸せる時の歌 0070 大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象(きさ)の中山呼びそ越ゆなる      右の一首は、高市連黒人。 0054 巨勢山の列列(つらつら)椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を      右の一首は、坂門人足(さかどのひとたり)。      或ル本ノ歌、  0056 河上の列列椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は      右の一首は、春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)。 三野連が唐(もろこし)に入(つか)はさるる時、春日蔵首老がよめる歌 0062 大船(おほぶね)の対馬の渡り海中(わたなか)に幣(ぬさ)取り向けて早帰り来ね 山上臣憶良(やまのへのおみおくら)が、大唐(もろこし)に在りし時、本郷(くに)憶(しぬ)ひてよめる歌 0063 いざ子ども早日本辺(やまとへ)に大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ 太上天皇の紀伊国に幸せる時、調首淡海(つきのおびとあふみ)がよめる歌 0055 麻裳(あさも)よし紀人羨しも真土山行き来と見らむ紀人羨しも 二年(ふたとせといふとし)壬寅(みづのえとら)、太上天皇の参河国に幸せる時の歌 0057 引馬野(ひくまぬ)ににほふ榛原入り乱り衣にほはせ旅のしるしに      右の一首は、長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)。 0058 いづくにか船泊てすらむ安禮(あれ)の崎榜ぎ廻(た)み行きし棚無小舟(たななしをぶね)      右の一首は、高市連黒人。 0059 流らふる雪吹く風の寒き夜に我が夫(せ)の君はひとりか寝(ぬ)らむ      右の一首は、譽謝女王(よさのおほきみ)。 0060 宵に逢ひて朝(あした)面無み隠(なばり)にか日(け)長き妹が廬りせりけむ      右の一首は、長皇子(ながのみこ)。 0061 大夫(ますらを)が幸矢(さつや)手(だ)挟み立ち向ひ射る圓方(まとかた)は見るに清(さや)けし      右の一首は、舎人娘子(とねりのいらつめ)が従駕(おほみとも)つかへまつりてよめる。 慶雲(きやううむ)三年(みとせといふとし)丙午(ひのえうま)、難波の宮に幸せる時の歌 0064 葦辺(あしへ)ゆく鴨の羽交(はがひ)に霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ      右の一首は、志貴皇子。 0065 霰打ち安良禮(あられ)松原住吉(すみのえ)の弟日娘(おとひをとめ)と見れど飽かぬかも      右の一首は、長皇子。 大行天皇(さきのすめらみこと)の難波の宮に幸せる時の歌 0071 大和恋ひ眠(い)の寝(ね)らえぬに心なくこの渚(す)の崎に鶴(たづ)鳴くべしや      右の一首は、忍坂部乙麻呂(おさかべのおとまろ)。 0072 玉藻刈る沖へは榜がじ敷布(しきたへ)の枕の辺(ほとり)忘れかねつも      右の一首は、式部卿(のりのつかさのかみ)藤原宇合。 0073 我妹子を早見浜風大和なる吾(あ)を松の樹に吹かざるなゆめ      右の一首は、長皇子。 大行天皇の吉野の宮に幸せる時の歌 0074 み吉野の山の荒風(あらし)の寒けくにはたや今宵も我(あ)が独り寝む      右の一首は、或るひとの云はく、天皇のみよみませる      御製歌(おほみうた)。 0075 宇治間山(うぢまやま)朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに      右の一首は、長屋王。 寧樂(なら)の宮に天の下知ろしめしし天皇の代 和銅元年(はじめのとし)戊申(つちのえさる)、天皇のみよみませる御製歌(おほみうた) 0076 大夫(ますらを)の鞆(とも)の音すなり物部(もののふ)の大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも 御名部皇女(みなべのひめみこ)の和(こた)へ奉れる御歌 0077 吾が大王ものな思ほし皇神(すめかみ)の嗣ぎて賜へる君なけなくに 三年庚戌(かのえいぬ)春三月(やよひ)藤原の宮より寧樂の宮に遷りませる時、長屋の原に御輿(みこし)停(とど)めて古郷(ふるさと)を廻望(かへりみ)したまひてよみませる歌(みうた) 一書ニ云ク、飛鳥宮ヨリ藤原宮ニ遷リマセル時、太上天皇御製ミマセリ 0078 飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ 藤原の京より寧樂の宮に遷りませる時の歌 0079 天皇(おほきみ)の 御命(みこと)畏(かしこ)み 和(にき)びにし 家を置き    隠国(こもりく)の 泊瀬の川に 船浮けて 吾(あ)が行く河の    川隈(くま)の 八十隈(やそくま)おちず 万(よろづ)たび かへり見しつつ    玉ほこの 道行き暮らし 青丹よし 奈良の都の    佐保川に い行き至りて 我(あ)が寝たる 衣の上よ    朝月夜(づくよ) さやかに見れば 栲(たへ)の穂に 夜の霜降り    磐床と 川の氷(ひ)凝(こほ)り 冷(さ)ゆる夜を 息(やす)むことなく    通ひつつ 作れる家に 千代まてに 座(い)まさむ君と 吾(あれ)も通はむ 反し歌 0080 青丹よし寧樂の家には万代に吾(あれ)も通はむ忘ると思(も)ふな      右の歌は、作主(よみひと)未詳(しらず)。 五年(いつとせといふとし)壬子(みづのえね)夏四月(うづき)、長田王(ながたのおほきみ)を伊勢の斎宮(いつきのみや)に遣はさるる時、山辺の御井にてよめる歌 0081 山辺(やまへ)の御井を見がてり神風(かむかぜ)の伊勢処女(をとめ)ども相見つるかも 0082 うらさぶる心さまねし久かたの天のしぐれの流らふ見れば 0083 海(わた)の底沖つ白波立田山いつか越えなむ妹があたり見む      右ノ二首ハ、今案(カムガ)フルニ御井ノ所ノ作ニ似ズ。若疑(ケダシ)      当時誦セル古歌カ。 長皇子と、志貴皇子と、佐紀の宮にて倶宴(うたげ)したまふときの歌 0084 秋さらば今も見るごと妻恋に鹿(か)鳴かむ山そ高野原の上      右の一首は、長皇子。 -------------------------------------------------------- .巻第二(ふたまきにあたるまき) 相聞(したしみうた) 難波(なには)の高津の宮に天(あめ)の下知ろしめしし天皇(すめらみこと)の代(みよ) 〔磐姫〕皇后(おほきさき)の天皇を思(しぬ)ばしてよみませる御歌四首(よつ) 0085 君が旅行(ゆき)日(け)長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ      右ノ一首ノ歌ハ、山上憶良臣ガ類聚歌林ニ載セタリ。      古事記ニ曰ク、輕太子、輕大郎女ニ奸(タハ)ケヌ。故(カレ)其ノ      太子、伊豫ノ湯ニ流サル。此ノ時衣通王、恋慕ニ堪      ヘズシテ追ヒ徃ク時ノ歌ニ曰ク、  0090 君がゆき日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ      此ニ山多豆ト云ヘルハ、今ノ造木(ミヤツコギ)也。右ノ一首ノ      歌ハ、古事記ト類聚歌林ト、説ク所同ジカラズ。      歌主モ亦異レリ。因(カ)レ日本紀ヲ検(カムガ)フルニ曰ク、      難波高津宮ニ御宇(アメノシタシロシメ)シシ大鷦鷯(オホサザキ)天皇、廿二年      春正月、天皇皇后ニ語リタマヒテ曰ク、八田皇女      ヲ納(メシイ)レテ、妃ト為サム。時ニ皇后聴シタマハズ。      爰ニ天皇歌(ミウタ)ヨミシテ、以テ皇后ニ乞ハシタマフ、      云々。三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后、紀伊国ニ      遊行(イデマ)シテ、熊野岬ニ到リ、其処ノ御綱葉ヲ取リテ      還リタマフ。是ニ天皇、皇后ノ在サヌコトヲ伺ヒ      テ、八田皇女ヲ娶リテ、宮ノ中ニ納レタマフ。時      ニ皇后、難波ノ濟(ワタリ)ニ到リ、天皇ノ八田皇女ヲ合(メ)      シツト聞カシタマヒテ、大ニコレヲ恨ミタマフ、      云々。亦曰ク、遠ツ飛鳥宮ニ御宇シシ雄朝嬬稚子      宿禰天皇、二十三年春三月甲午朔庚子、木梨輕皇      子ヲ太子ト為ス。容姿佳麗(カホキラキラシ)。見ル者自ラ感(メ)ヅ。      同母妹(イロモ)輕太娘皇女モ亦艶妙ナリ、云々。遂ニ竊ニ      通(タハ)ケヌ。乃チ悒懐少シ息(ヤ)ム。廿四年夏六月、御羮(オモノ)      ノ汁凝(コ)リテ以テ氷ヲ作ス。天皇異(アヤ)シミタマフ。其      ノ所由(ユヱ)ヲ卜(ウラ)シメタマフニ、卜者曰(マウ)サク、内ノ乱      有ラム、盖シ親親相姦カ、云々。仍チ大娘皇女ヲ      伊豫ニ移ストイヘルハ、今案ルニ、二代二時此歌      ヲ見ズ。 0086 かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根し枕(ま)きて死なましものを 0087 在りつつも君をば待たむ打靡く吾(あ)が黒髪に霜の置くまでに      或ル本(マキ)ノ歌ニ曰ク  0089 居明かして君をば待たむぬば玉の吾(あ)が黒髪に霜は降るとも      右ノ一首ハ、古歌集ノ中ニ出デタリ。 0088 秋の田の穂の上(へ)に霧らふ朝霞(あさかすみ)いづへの方に我(あ)が恋やまむ 近江の大津の宮に天の下知ろしめしし天皇の代 天皇の鏡女王(かがみのおほきみ)に賜へる御歌(おほみうた)一首(ひとつ) 0091 妹があたり継ぎても見むに大和なる大島の嶺(ね)に家居(を)らましを 鏡女王の和(こた)へ奉(まつ)れる歌一首 0092 秋山の樹(こ)の下隠(がく)り行く水の吾(あ)こそ勝(まさ)らめ思ほさむよは 内大臣(うちのおほまへつきみ)藤原の卿(まへつきみ)の、鏡女王を娉(つまど)ひたまふ時、鏡女王の内大臣に贈りたまへる歌一首 0093 玉くしげ帰るを否み明けてゆかば君が名はあれど吾(あ)が名し惜しも 内大臣藤原の卿の、鏡女王に報贈(こたへ)たまへる歌一首 0094 玉くしげ三室(みむろ)の山のさな葛(かづら)さ寝ずは遂に有りかてましも 内大臣藤原の卿の釆女(うねべ)安見児(やすみこ)を娶(え)たる時よみたまへる歌一首 0095 吾(あ)はもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり 久米禅師(くめのぜむし)が石川郎女(いしかはのいらつめ)を娉(つまど)ふ時の歌五首(いつつ) 0096 美薦(みこも)苅る信濃(しなぬ)の真弓吾(あ)が引かば貴人(うまひと)さびて否と言はむかも 禅師 0097 美薦苅る信濃の真弓引かずして弦(を)著(は)くる行事(わざ)を知ると言はなくに 郎女 0098 梓弓引かばまにまに寄らめども後の心を知りかてぬかも 郎女 0099 梓弓弓弦(つらを)取り佩(は)け引く人は後の心を知る人ぞ引く 禅師 0100 東人(あづまひと)の荷前(のさき)の箱の荷(に)の緒にも妹が心に乗りにけるかも 禅師 大伴宿禰(おほとものすくね)の巨勢郎女(こせのいらつめ)を娉ふ時の歌一首 0101 玉葛(たまかづら)実ならぬ木には千早ぶる神そ著(つ)くちふ成らぬ木ごとに 巨勢郎女が報贈(こた)ふる歌一首 0102 玉葛花のみ咲きて成らざるは誰(た)が恋ならも吾(あ)は恋ひ思(も)ふを 明日香の清御原(きよみはら)の宮に天の下知ろしめしし天皇の代 天皇の藤原夫人(ふじはらのきさき)に賜へる御歌(おほみうた)一首 0103 我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後 藤原夫人の和へ奉れる歌一首 0104 我が岡のおかみに乞ひて降らしめし雪の砕けしそこに散りけむ 藤原の宮に天の下知ろしめしし天皇の代 大津皇子の、伊勢の神宮(かみのみや)に竊(しぬ)ひ下(くだ)りて上来(のぼ)ります時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)のよみませる御歌二首(ふたつ) 0105 我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁(あかとき)露に吾(あ)が立ち濡れし 0106 二人ゆけど行き過ぎがたき秋山をいかでか君が独り越えなむ 大津皇子の、石川郎女に贈りたまへる御歌一首 0107 足引の山のしづくに妹待つと吾(あ)が立ち濡れぬ山のしづくに 石川郎女が和へ奉れる歌一首 0108 吾(あ)を待つと君が濡れけむ足引の山のしづくにならましものを 大津皇子、石川女郎(いしかはのいらつめ)に竊(しぬ)ひ婚(あ)ひたまへる時、津守連通(つもりのむらじとほる)が其の事を占(うら)ひ露はせれば、皇子のよみませる御歌一首 0109 大船(おほぶね)の津守が占(うら)に告(の)らむとは兼ねてを知りて我が二人寝し 日並皇子(ひなみのみこ)の尊(みこと)の石川女郎に贈り賜へる御歌一首 女郎、字(アザナ)ヲ大名児ト曰フ 0110 大名児を彼方(をちかた)野辺(ぬへ)に苅る草(かや)の束(つか)のあひだも吾(あれ)忘れめや 吉野(よしぬ)の宮に幸(いでま)せる時、弓削皇子(ゆげのみこ)の額田王に贈りたまへる御歌一首 0111 古(いにしへ)に恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の御井の上より鳴き渡りゆく 額田王の和(こた)へ奉れる歌一首 0112 古に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾(あ)が恋ふるごと 吉野より蘿(こけ)生(む)せる松が枝(え)を折取(を)りて遣(おく)りたまへる時、額田王の奉入(たてまつ)れる歌一首 0113 み吉野の山松が枝は愛(は)しきかも君が御言を持ちて通はく 但馬皇女(たぢまのひめみこ)の、高市皇子の宮に在(いま)せる時、穂積皇子を思(しぬ)ひてよみませる御歌一首 0114 秋の田の穂向きの寄れる片依りに君に寄りなな言痛(こちた)かりとも 穂積皇子に勅(のりこ)ちて、近江の志賀の山寺に遣はさるる時、但馬皇女のよみませる御歌一首 0115 遺(おく)れ居て恋ひつつあらずは追ひ及(し)かむ道の隈廻(くまみ)に標(しめ)結へ我が兄(せ) 但馬皇女の、高市皇子の宮に在せる時、穂積皇子に竊(しぬ)び接(あ)ひたまひし事既形(あらは)れて後によみませる御歌一首 0116 人言(ひとごと)を繁み言痛み生ける世に未だ渡らぬ朝川渡る 舎人皇子(とねりのみこ)の舎人娘子(とねりのいらつめ)に賜へる御歌一首 0117 大夫(ますらを)や片恋せむと嘆けども醜(しこ)の益荒雄(ますらを)なほ恋ひにけり 舎人娘子が和へ奉れる歌一首 0118 嘆きつつ大夫(ますらをのこ)の恋ふれこそ吾(あ)が髪結(もとゆひ)の漬(ひ)ぢて濡れけれ 弓削皇子(ゆげのみこ)の紀皇女(きのひめみこ)を思(しぬ)ひてよみませる御歌四首(よつ) 0119 吉野川行く瀬の早み暫(しま)しくも淀むことなく有りこせぬかも 0120 吾妹子(わぎもこ)に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花ならましを 0121 夕さらば潮満ち来なむ住吉(すみのえ)の浅香の浦に玉藻苅りてな 0122 大船の泊(は)つる泊りのたゆたひに物思(も)ひ痩せぬ他人(ひと)の子故に 三方沙弥(みかたのさみ)が、園臣生羽(そののおみいくは)の女(め)に娶(あ)ひて、幾だもあらねば、臥病(やみふ)せるときの作歌(うた)三首 0123 束(た)けば滑(ぬ)れ束かねば長き妹が髪このごろ見ぬに掻上(かか)げつらむか 三方沙弥 0124 人皆は今は長みと束けと言へど君が見し髪乱りたりとも 娘子 0125 橘の蔭踏む路の八衢(やちまた)に物をそ思ふ妹に逢はずて 三方沙弥 石川女郎が、大伴宿禰田主(おほとものすくねたぬし)に贈れる歌一首 0126 遊士(みやびを)と吾(あれ)は聞けるを宿貸さず吾(あれ)を帰せりおその風流士(みやびを)      大伴田主ハ、字仲郎(ナカチコ)ト曰リ。容姿佳艶、風流秀絶。      見ル人聞ク者、歎息(ナゲ)カズトイフコト靡(ナ)シ。時ニ石川      女郎(イラツメ)トイフモノアリ。自ラ雙栖ノ感ヒヲ成シ、恒ニ      独守ノ難キヲ悲シム。意(ココロ)ハ書寄セムト欲ヘドモ、      未ダ良キ信(タヨリ)ニ逢ハズ。爰ニ方便ヲ作シテ、賎シキ      嫗ニ似セ、己レ堝子(ナベ)ヲ提ゲテ、寝(ネヤ)ノ側ニ到ル。      哽音跼足、戸ヲ叩キ諮(トブラ)ヒテ曰ク、東ノ隣ノ貧シキ      女(メ)、火ヲ取ラムト来タルト。是ニ仲郎、暗キ裏(ウチ)ニ冒      隠ノ形ヲ識ラズ、慮外ニ拘接(マジハリ)ノ計ニ堪ヘズ。念ヒニ      任セテ火ヲ取リ、跡ニ就キテ帰リ去ヌ。明ケテ後、      女郎既ニ自ラ媒チセシコトノ愧ヅベキヲ恥ヂ、復タ      心契(チギリ)ノ果タサザルヲ恨ム。因テ斯ノ歌ヲ作ミ、以テ      贈リテ諺戯(タハブ)レリ。 大伴宿禰田主が報贈(こた)ふる歌一首 0127 遊士に吾(あれ)はありけり宿貸さず帰せし吾(あれ)そ風流士にある 石川女郎がまた大伴宿禰田主に贈れる歌一首 0128 吾(あ)が聞きし耳によく似つ葦の末(うれ)の足痛(あなや)む我が背自愛(つとめ)給(た)ぶべし      右、中郎ノ足ノ疾(ケ)ニ依リ、此ノ歌ヲ贈リテ問訊(トブラ)ヘリ。 大津皇子の宮の侍(まかたち)石川女郎が大伴宿禰宿奈麻呂(すくなまろ)に贈れる歌一首 0129 古りにし嫗(おみな)にしてやかくばかり恋に沈まむ手童(たわらは)のごと 長皇子の皇弟(いろどのみこ)に与(おく)りたまへる御歌一首 0130 丹生(にふ)の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛(こひた)む吾弟(あおと)いで通ひ来ね 柿本朝臣人麿が石見国(いはみのくに)より妻(め)に別れ上来(まゐのぼ)る時の歌二首、また短歌(みじかうた) 0131 石見の海(み) 角(つぬ)の浦廻(うらみ)を    浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ    よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも    鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して    渡津(わたづ)の 荒礒(ありそ)の上に か青なる 玉藻沖つ藻    朝羽振(はふ)る 風こそ来寄せ 夕羽振(はふ)る 波こそ来寄せ    波の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を    露霜(つゆしも)の 置きてし来れば    この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど    いや遠に 里は離(さか)りぬ いや高に 山も越え来(き)ぬ    夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲(しぬ)ふらむ 妹が門見む 靡けこの山 反し歌二首 0132 石見のや高角(たかつぬ)山の木(こ)の間より我(あ)が振る袖を妹見つらむか      或ル本ノ反シ歌  0134 石見なる高角山の木の間よも吾(あ)が袖振るを妹見けむかも 0133 小竹(ささ)が葉はみ山もさやに乱れども吾(あれ)は妹思ふ別れ来(き)ぬれば      或ル本ノ歌一首、マタ短歌  0138 石見の海(み) 角(つぬ)の浦みを     浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ     よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも     勇魚(いさな)取り 海辺を指して     柔田津(にきたづ)の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻     明け来れば 波こそ来寄せ 夕されば 風こそ来寄せ     波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 靡き吾(あ)が寝し     敷布(しきたへ)の 妹が手本(たもと)を 露霜の 置きてし来れば     この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど     いや遠に 里離り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ     はしきやし 吾(あ)が妻の子が 夏草の 思ひ萎えて     嘆くらむ 角の里見む 靡けこの山      反し歌  0139 石見の海(み)竹綱(たかつぬ)山の木の間より吾(あ)が振る袖を妹見つらむか      右、歌体同ジト雖モ、句々相替レリ。因テ此ニ重ネ載ス。 0135 つぬさはふ 石見の海の 言(こと)さへく 辛(から)の崎なる    海石(いくり)にそ 深海松(ふかみる)生ふる 荒礒にそ 玉藻は生ふる    玉藻なす 靡き寝し子を 深海松の 深めて思(も)へど    さ寝し夜は 幾だもあらず 延(は)ふ蔦の 別れし来れば    肝向かふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど    大舟の 渡の山の もみち葉の 散りの乱(みだ)りに    妹が袖 さやにも見えず 妻隠(つまごも)る 屋上(やかみ)の山の    雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠ろひ来つつ    天伝(あまつた)ふ 入日さしぬれ 大夫と 思へる吾(あれ)も    敷布の 衣の袖は 通りて濡れぬ 反し歌二首 0136 青駒(あをこま)が足掻(あがき)を速み雲居にそ妹があたりを過ぎて来にける 0137 秋山に散らふ黄葉(もみちば)暫(しま)しくはな散り乱(みだ)りそ妹があたり見む 柿本朝臣人麿が妻(め)依羅娘子(よさみのいらつめ)が、人麿と相別(わか)るる歌一首 0140 な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか吾(あ)が恋ひざらむ 挽歌(かなしみうた) 後の崗本の宮に天の下知ろしめしし天皇(すめらみこと)の代(みよ) 有間皇子の自傷(かなし)みまして松が枝を結びたまへる御歌二首 0141 磐代の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む 0142 家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る 長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が、結び松を見て哀咽(かなし)みよめる歌二首 0143 磐代の岸の松が枝結びけむ人は還りてまた見けむかも      柿本朝臣人麿ノ歌集ニ云ク、大宝元年辛丑、紀伊国      ニ幸セル時、結ビ松ヲ見テ作レル歌一首  0146 後見むと君が結べる磐代の小松が末(うれ)をまた見けむかも 0144 磐代の野中に立てる結び松心も解けず古(いにしへ)思ほゆ 山上臣憶良が追ひて和(なぞら)ふる歌一首 0145 鳥翔(つばさ)成す有りがよひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ 近江の大津の宮に天の下知ろしめしし天皇の代 天皇の聖躬不豫(おほみやまひ)せす時、大后(おほきさき)の奉れる御歌一首 0147 天の原振り放け見れば大王(おほきみ)の御寿(みいのち)は長く天足(あまた)らしたり     一書ニ曰ク、近江天皇ノ聖体不豫ニシテ、御病     急(ニハカ)ナル時、大后ノ奉献レル御歌一首ナリト。 天皇の崩御(かむあがりま)せる時、〔倭〕大后のよみませる御歌二首 0148 青旗の木旗(こはた)の上を通ふとは目には見ゆれど直(ただ)に逢はぬかも 0149 人はよし思ひ止(や)むとも玉蘰(たまかづら)影に見えつつ忘らえぬかも 天皇の崩(かむあがりま)せる時、婦人(をみな)がよめる歌一首 姓氏ハ詳ラカナラズ 0150 うつせみし 神に勝(た)へねば 離(さか)り居て 朝嘆く君    放(はな)れ居て 吾(あ)が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて    衣ならば 脱く時もなく 吾(あ)が恋ひむ 君そ昨夜(きそ)の夜(よ) 夢(いめ)に見えつる 天皇の大殯(おほあらき)の時の歌四首 0151 かからむと予(かね)て知りせば大御船泊てし泊に標(しめ)結はましを 額田王 0152 やすみしし我ご大王の大御船待ちか恋ふらむ志賀の辛崎 舎人吉年 大后の御歌一首 0153 鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海を    沖放(さ)けて 榜ぎ来る船 辺(へ)付きて 榜ぎ来る船    沖つ櫂 いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ    若草の 夫(つま)の命(みこと)の 思ふ鳥立つ 石川夫人(いしかはのおほとじ)が歌一首 0154 楽浪(ささなみ)の大山守は誰が為か山に標結ふ君も在(ま)さなくに 山科の御陵(みささぎ)より退散(あが)れる時、額田王のよみたまへる歌一首 0155 やすみしし 我ご大王の 畏きや 御陵(みはか)仕ふる    山科の 鏡の山に 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと    昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや    ももしきの 大宮人は 去(ゆ)き別れなむ 明日香の清御原の宮に天の下知ろしめしし天皇の代 十市皇女の薨(すぎま)せる時、高市皇子尊のよみませる御歌三首 0156 三諸(みもろ)の神の神杉(かむすぎ)かくのみにありとし見つつ寝(いね)ぬ夜ぞ多き 0157 神山(かみやま)の山辺(やまへ)真麻木綿(まそゆふ)短か木綿かくのみ故に長くと思ひき 0158 山吹の立ち茂みたる山清水汲みに行かめど道の知らなく 天皇の崩(かむあがりま)せる時、大后のよみませる御歌一首 0159 やすみしし 我が大王の 夕されば 見(め)したまふらし    明け来れば 問ひたまふらし 神岳(かみをか)の 山の黄葉(もみち)を    今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見(め)したまはまし    その山を 振り放(さ)け見つつ 夕されば あやに悲しみ    明け来れば うらさび暮らし 荒布(あらたへ)の 衣の袖は 乾(ひ)る時もなし      一書ニ曰ク、天皇ノ崩(カムアガリマ)セル時、太上天皇ノ御製(ミヨ)ミマセル歌(オホミウタ)二首  0160 燃ゆる火も取りて包みて袋には入(い)ると言はずや面智男雲  0161 北山にたなびく雲の青雲の星離(さか)り行き月も離(さか)りて      天皇ノ崩シシ後、八年九月九日御斎会(ヲガミ)奉為(ツカヘマツ)レル夜、      夢裏(イメ)ニ習(ヨ)ミ賜ヘル御歌一首  0162 明日香の 清御原の宮に 天の下 知ろしめしし     やすみしし 我が大王 高光る 日の皇子     いかさまに 思ほしめせか 神風(かむかぜ)の 伊勢の国は     沖つ藻も 靡(なび)かふ波に 潮気のみ 香れる国に     味凝(うまごり) あやにともしき 高光る 日の御子 藤原の宮に天の下知ろしめしし天皇の代 大津皇子の薨(すぎま)しし後、大来皇女(おほくのひめみこ)の伊勢の斎宮(いつきのみや)より上京(のぼ)りたまへる時、よみませる御歌二首 0163 神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君も在(ま)さなくに 0164 見まく欲り吾(あ)がする君も在(ま)さなくに何しか来けむ馬疲るるに 大津皇子の屍(みかばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたがみやま)に移し葬(はふ)りまつれる時、大来皇女の哀傷(かなし)みてよみませる御歌二首 0165 うつそみの人なる吾(あれ)や明日よりは二上山を我が兄(せ)と吾(あ)が見む 0166 磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手(た)折らめど見すべき君が在(ま)すと言はなくに 日並皇子(ひなみのみこ)の尊(みこと)の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌(みじかうた) 0167 天地(あめつち)の 初めの時し 久かたの 天河原(あまのがはら)に    八百万(やほよろづ) 千万(ちよろづ)神の 神集(かむつど)ひ 集ひ座(いま)して    神分(かむあが)ち 分(あが)ちし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命(みこと)    天(あめ)をば 知ろしめすと 葦原の 瑞穂の国を    天地の 寄り合ひの極み 知ろしめす 神の命と    天雲(あまくも)の 八重掻き別(わ)けて 神下(かむくだ)り 座(いま)せまつりし    高光る 日の皇子は 飛鳥(あすか)の 清御(きよみ)の宮に    神(かむ)ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と    天の原 石門(いはと)を開き 神上(かむのぼ)り 上り座(いま)しぬ    我が王(おほきみ) 皇子の命の 天(あめ)の下 知ろしめしせば    春花の 貴からむと 望月の 満(たた)はしけむと    天の下 四方(よも)の人の 大船(おほぶね)の 思ひ頼みて    天(あま)つ水 仰(あふ)ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか    由縁(つれ)もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座(いま)し    御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさず    日月(ひつき)の 数多(まね)くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも 反し歌二首 0168 久かたの天(あめ)見るごとく仰(あふ)ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも 0169 あかねさす日は照らせれどぬば玉の夜渡る月の隠らく惜しも      或ル本、件ノ歌ヲ以テ後ノ皇子ノ尊ノ殯宮ノ時ノ      反歌ト為ス。 皇子の尊の宮の舎人等が慟傷(かなし)みてよめる歌二十三首(はたちまりみつ) 0171 高光る我が日の皇子の万代(よろづよ)に国知らさまし島の宮はも 0172 島の宮勾(まがり)の池の放鳥(はなちとり)荒びな行きそ君座(ま)さずとも      或ル本(マキ)ノ歌一首  0170 島の宮勾の池の放鳥人目に恋ひて池に潜(かづ)かず 0173 高光る我が日の皇子のいましせば島の御門は荒れざらましを 0174 外(よそ)に見し真弓の岡も君座(ま)せば常(とこ)つ御門と侍宿(とのゐ)するかも 0175 夢(いめ)にだに見ざりしものを欝悒(おほほ)しく宮出もするかさ檜隈廻(ひのくまみ)を 0176 天地と共に終へむと思ひつつ仕へ奉(まつ)りし心違(たが)ひぬ 0177 朝日照る佐太(さだ)の岡辺(おかへ)に群れ居つつ吾等(あ)が泣く涙やむ時もなし 0178 御立たしし島を見る時にはたづみ流るる涙止めぞかねつる 0179 橘の島の宮には飽かねかも佐太の岡辺に侍宿しに往く 0180 御立たしし島をも家と栖む鳥も荒びな行きそ年替るまで 0181 御立たしし島の荒礒を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも 0182 鳥座(とくら)立て飼ひし雁の子巣立(た)ちなば真弓の岡に飛び還り来ね 0183 我が御門千代常磐(とことは)に栄えむと思ひてありし吾(あれ)し悲しも 0184 東(ひむかし)の滝(たぎ)の御門(みかど)に侍(さもら)へど昨日も今日も召すことも無し 0185 水伝(つた)ふ礒の浦廻の石躑躅(いそつつじ)茂(も)く咲く道をまたも見むかも 0186 一日(ひとひ)には千たび参りし東(ひむかし)の滝の御門を入りかてぬかも 0187 所由(つれ)もなき佐太の岡辺に君居(ま)せば島の御階(みはし)に誰(たれ)か住まはむ 0188 あかねさす日の入りぬれば御立たしし島に下(お)り居て嘆きつるかも 0189 朝日照る島の御門に欝悒(おほほ)しく人音(ひとと)もせねば真心(まうら)悲しも 0190 真木柱(まきばしら)太き心はありしかどこの吾(あ)が心鎮めかねつも 0191 けころもを春冬かたまけて幸(いでま)しし宇陀(うだ)の大野は思ほえむかも 0192 朝日照る佐太の岡辺に鳴く鳥の夜鳴きかへらふこの年ごろを 0193 奴(やたこ)らが夜昼と云はず行く路を吾(あれ)はことごと宮道(みやぢ)にぞする      右、日本紀ニ曰ク、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨セリ。 河島皇子の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿が泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)に献れる歌一首、また短歌 0194 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上(かみ)つ瀬に 生ふる玉藻は    下(しも)つ瀬に 流れ触(ふ)らふ 玉藻なす か寄りかく寄り    靡かひし 夫(つま)の命(みこと)の たたなづく 柔膚(にきはだ)すらを    剣刀(つるぎたち) 身に添へ寝ねば ぬば玉の 夜床(よとこ)も荒るらむ    そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ほして    玉垂(たまたれ)の 越智(をち)の大野の 朝露に 玉藻はひづち    夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君故 反し歌一首 0195 敷布(しきたへ)の袖交へし君玉垂の越智野に過ぎぬまたも逢はめやも      右、日本紀ニ云ク、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、      浄大参皇子川嶋薨セリ。 高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌 0199 かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き    明日香の 真神の原に 久かたの 天(あま)つ御門(みかど)を    畏くも 定めたまひて 神(かむ)さぶと 磐隠(いはがく)ります    やすみしし 我が王(おほきみ)の きこしめす 背面(そとも)の国の    真木立つ 不破山越えて 高麗剣(こまつるぎ) 和射見(わざみ)が原の    行宮(かりみや)に 天降(あも)り座(いま)して 天の下 治めたまひ    食(を)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の    御軍士(みいくさ)を 召したまひて 千磐(ちは)破る 人を和(やは)せと    奉(まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(ま)きたまへば    大御身(おほみみ)に 大刀取り帯ばし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし    御軍士を 率(あども)ひたまひ 整ふる 鼓(つつみ)の音は    雷(いかつち)の 声と聞くまで 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も    敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに    差上(ささ)げたる 幡(はた)の靡きは 冬こもり 春さり来れば    野ごとに つきてある火の 風の共(むた) 靡くがごとく    取り持たる 弓弭(ゆはず)の騒き み雪降る 冬の林に    旋風(つむし)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐(かしこ)く    引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱りて来(きた)れ    奉(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜(つゆしも)の 消(け)なば消ぬべく    去(ゆ)く鳥の 争ふはしに 度會(わたらひ)の 斎(いは)ひの宮ゆ    神風に 息吹(いぶき)惑はし 天雲(あまくも)を 日の目も見せず    常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を    神ながら 太敷き座(いま)す やすみしし 我が大王の    天の下 奏(まを)したまへば 万代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと    木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を    神宮(かむみや)に 装ひ奉(まつ)りて 遣はしし 御門の人も    白布(しろたへ)の 麻衣(あさころも)着て 埴安(はにやす)の 御門の原に    あかねさす 日のことごと 獣(しし)じもの い匍ひ伏しつつ    ぬば玉の 夕へになれば 大殿(おほとの)を 振り放け見つつ    鶉なす い匍ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど 侍ひかねて    春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに    憶(おも)ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済(くだら)の原ゆ    神葬(かむはふ)り 葬り行(いま)して あさもよし 城上の宮を    常宮(とこみや)と 定め奉(まつ)りて 神ながら 鎮まり座(ま)しぬ    しかれども 我が大王の 万代と 思ほしめして    作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思(も)へや    天(あめ)のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども 短歌二首 0200 久かたの天知らしぬる君故に日月も知らに恋ひわたるかも 0201 埴安の池の堤の隠沼(こもりぬ)の行方を知らに舎人は惑(まど)ふ      或ル書ノ反歌一首  0202 哭澤(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祈(の)まめども我が王(おほきみ)は高日知らしぬ      右ノ一首ハ、類聚歌林ニ曰ク、檜隈女王、泣澤ノ神社      ヲ怨メル歌ナリ。日本紀ニ案ルニ曰ク、〔持統天皇〕      十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後ノ皇子尊薨セリ。 弓削皇子の薨(すぎま)せる時、置始東人(おきそめのあづまひと)がよめる歌一首、また短歌 0204 やすみしし 我が王(おほきみ) 高光る 日の皇子    久かたの 天(あま)つ宮に 神ながら 神と座(いま)せば    そこをしも あやに畏み 昼はも 日のことごと    夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 臥し居嘆けど 飽き足らぬかも 反し歌一首 0205 王(おほきみ)は神にしませば天雲(あまくも)の五百重(いほへ)が下に隠りたまひぬ 〔又短歌一首〕 0206 楽浪(ささなみ)の志賀さざれ波しくしくに常にと君が思ほえたりける 明日香皇女の城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌 0196 飛ぶ鳥の 明日香の川の    上つ瀬に 石橋(いはばし)渡し 下つ瀬に 打橋渡す    石橋に 生(お)ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生(は)ふる    打橋に 生(お)ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生(は)ゆる    なにしかも 我が王(おほきみ)の 立たせば 玉藻のごと    臥(こ)やせば 川藻のごとく 靡かひし 宜(よろ)しき君が    朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや    うつそみと 思ひし時に    春へは 花折り挿頭(かざ)し 秋立てば 黄葉(もみちば)挿頭し    敷布の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かに    望月(もちつき)の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々    出でまして 遊びたまひし 御食(みけ)向ふ 城上の宮を    常宮(とこみや)と 定めたまひて あぢさはふ 目言(めこと)も絶えぬ    そこをしも あやに悲しみ ぬえ鳥(とり)の 片恋しつつ    朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて    夕星(ゆふづつ)の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば    慰むる 心もあらず そこ故に 為(せ)むすべ知らに    音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く    思(しぬ)ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代までに    はしきやし 我が王(おほきみ)の 形見にここを 短歌二首 0197 明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば流るる水ものどにかあらまし 0198 明日香川明日さへ見むと思へやも我が王の御名忘れせぬ 柿本朝臣人麿が、妻(め)の死(みまか)りし後、泣血哀慟(かなしみ)よめる歌二首、また短歌 0207 天(あま)飛ぶや 輕(かる)の路は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば    ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み    数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと    大船の 思ひ頼みて 玉蜻(かぎろひ)の 磐垣淵(いはかきふち)の    隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに    渡る日の 暮れゆくがごと 照る月の 雲隠(がく)るごと    沖つ藻の 靡きし妹は もみち葉の 過ぎて去(い)にしと    玉梓(たまづさ)の 使の言へば 梓弓 音のみ聞きて    言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば    吾(あ)が恋ふる 千重の一重も 慰むる 心もありやと    我妹子が 止まず出で見し 輕の市に 吾(あ)が立ち聞けば    玉たすき 畝傍(うねび)の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず    玉ほこの 道行く人も 一人だに 似てし行かねば    すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる 短歌二首 0208 秋山の黄葉(もみち)を茂み惑はせる妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも 0209 もちみ葉の散りぬるなべに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ 0210 うつせみと 思ひし時に たづさへて 吾(あ)が二人見し    走出(わしりで)の 堤に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝(え)の    春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど    頼めりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背きしえねば    蜻火(かぎろひ)の 燃ゆる荒野に 白布(しろたへ)の 天領巾(あまひれ)隠(かく)り    鳥じもの 朝発(た)ち行(いま)して 入日なす 隠りにしかば    我妹子が 形見に置ける 若き児の 乞ひ泣くごとに    取り与ふ 物しなければ 男(をとこ)じもの 脇ばさみ持ち    我妹子と 二人吾(あ)が寝し 枕付く 妻屋のうちに    昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし    嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ    大鳥(おほとり)の 羽易(はかひ)の山に 吾(あ)が恋ふる 妹はいますと    人の言へば 岩根さくみて なづみ来(こ)し よけくもぞなき    うつせみと 思ひし妹が 玉蜻(かぎろひ)の 髣髴(ほのか)にだにも 見えぬ思へば 短歌二首 0211 去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせれど相見し妹はいや年離(さか)る 0212 衾道(ふすまぢ)を引手(ひきて)の山に妹を置きて山道を往けば生けるともなし      或ル本(マキ)ノ歌ニ曰ク  0213 うつそみと 思ひし時に 手たづさひ 吾(あ)が二人見し     出立(いでたち)の 百枝(ももえ)槻の木 こちごちに 枝させるごと     春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど     恃(たの)めりし 妹にはあれど 世の中を 背きしえねば     かぎろひの 燃ゆる荒野に 白布の 天領巾隠り     鳥じもの 朝発ちい行きて 入日なす 隠りにしかば     我妹子が 形見に置ける 緑児(みどりこ)の 乞ひ泣くごとに     取り委(まか)す 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち     吾妹子と 二人吾(あ)が寝し 枕付く 妻屋のうちに     昼は うらさび暮らし 夜は 息づき明かし     嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ     大鳥の 羽易(はかひ)の山に 汝(な)が恋ふる 妹はいますと     人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき     うつそみと 思ひし妹が 灰而座者      短歌  0214 去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年離る  0215 衾道を引手の山に妹を置きて山路(やまぢ)思ふに生けるともなし 0216 家に来て妻屋を見れば玉床(たまとこ)の外(と)に向かひけり妹が木枕(こまくら) 志賀津釆女(しがつのうねべ)が死(みまか)れる時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌 0217 秋山の したべる妹 なよ竹の 嫋(とを)依る子らは    いかさまに 思ひ居(ま)せか 栲縄(たくなは)の 長き命を    露こそは 朝(あした)に置きて 夕へは 消(け)ぬといへ    霧こそは 夕へに立ちて 朝(あした)は 失すといへ    梓弓 音聞く吾(あれ)も 髣髴(おほ)に見し こと悔しきを    敷布(しきたへ)の 手(た)枕まきて 剣刀(つるぎたち) 身に添へ寝けむ    若草の その夫(つま)の子は 寂(さぶ)しみか 思ひて寝(ぬ)らむ    悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが    朝露のごと 夕霧のごと 短歌二首 0218 楽浪(ささなみ)の志賀津の子らが罷(まか)りにし川瀬の道を見れば寂(さぶ)しも 0219 左々数(ささなみ)の大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき 讃岐国(さぬきのくに)狭岑島(さみねのしま)にて石中(いそへ)の死人(しにひと)を視て、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌 0220 玉藻よし 讃岐の国は    国柄(くにから)か 見れども飽かぬ 神柄(かみから)か ここだ貴き    天地 日月とともに 満(た)り行かむ 神の御面(みおも)と    云ひ継げる 那珂(なか)の港ゆ 船浮けて 吾(あ)が榜ぎ来れば    時つ風 雲居に吹くに 沖見れば しき波立ち    辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏み    行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど    名ぐはし 狭岑の島の 荒磯廻(ありそみ)に 廬りて見れば    波の音(と)の 繁き浜辺(はまへ)を 敷布の 枕になして    荒床(あらとこ)に 転(ころ)臥す君が 家知らば 行きても告げむ    妻知らば 来も問はましを 玉ほこの 道だに知らず    欝悒(おほほ)しく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは 反し歌二首 0221 妻もあらば摘みて食(た)げまし狭岑山野の上(へ)のうはぎ過ぎにけらずや 0222 沖つ波来寄る荒礒を敷布の枕とまきて寝(な)せる君かも 柿本朝臣人麿が石見国に在りて死(みまか)らむとする時、自傷(かなし)みよめる歌一首 0223 鴨山の磐根し枕(ま)ける吾(あれ)をかも知らにと妹が待ちつつあらむ 柿本朝臣人麿が死(みまか)れる時、妻(め)依羅娘子(よさみのいらつめ)がよめる歌二首 0224 今日今日と吾(あ)が待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも 0225 直(ただ)に逢はば逢ひもかねてむ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ 丹比真人(たぢひのまひと)が柿本朝臣人麿が意(こころ)に擬(なそら)へて報(こた)ふる歌 0226 荒波に寄せ来る玉を枕に置き吾(あれ)ここにありと誰か告げけむ 或る本(まき)の歌に曰く 0227 天ざかる夷(ひな)の荒野(あらぬ)に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし 寧樂(なら)の宮に天の下知ろしめしし天皇の代 和銅元年(はじめのとし)歳次戊申(つちのえさる)、但馬皇女の薨(すぎたま)へる後、穂積皇子の冬日雪落(ゆきのふるひ)御墓を遥望(みさ)けて、悲傷流涕(かなしみ)よみませる御歌一首 0203 降る雪は深(あは)にな降りそ吉隠(よなばり)の猪養(ゐかひ)の岡の塞(せき)為さまくに 四年(よとせといふとし)歳次辛亥(かのとのゐ)、河邊宮人(かはべのみやひと)が姫島の松原にて嬢子(をとめ)の屍(しにかばね)を見て悲嘆(かなし)みよめる歌二首 0228 妹が名は千代に流れむ姫島の小松の末(うれ)に蘿生すまでに 0229 難波潟潮干なありそね沈みにし妹が姿を見まく苦しも 霊亀(りやうき)元年歳次乙卯(きのとのう)秋九月(ながつき)、志貴親王(しきのみこ)の薨(すぎま)せる時、よめる歌一首〔また短歌〕 0230 梓弓 手に取り持ちて 大夫(ますらを)の 幸矢(さつや)手(だ)挟み    立ち向ふ 高圓山(たかまとやま)に 春野焼く 野火(ぬひ)と見るまで    燃ゆる火を いかにと問へば 玉ほこの 道来る人の    泣く涙 霈霖(ひさめ)に降れば 白布の 衣ひづちて    立ち留まり 吾(あれ)に語らく 何しかも もとな言へる    聞けば 哭(ね)のみし泣かゆ 語れば 心そ痛き    天皇(すめろき)の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光そ ここだ照りたる 志貴親王の薨(すぎま)せる後、悲傷(かなし)みよめる〔短〕歌二首 0231 高圓の野辺(ぬへ)の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに 0232 御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに      右ノ歌ハ、笠朝臣金村ノ歌集ニ出デタリ。      或ル本ノ歌ニ曰ク  0233 高圓の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ  0234 御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに -------------------------------------------------------- .巻第三(みまきにあたるまき) 雑歌(くさぐさのうた) 天皇(すめらみこと)の雷岳(いかつちのをか)に御遊(いでま)せる時、柿本朝臣人麻呂がよめる歌一首(ひとつ) 0235 皇(おほきみ)は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかつち)の上(へ)に廬(いほ)りせるかも      右、或ル本(マキ)ニ云ク、忍壁皇子(オサカベノミコ)ニ献レリ。其ノ歌ニ曰ク、     王(おほきみ)は神にしませば雲隠(がく)る雷山に宮敷き座(いま)す 天皇の志斐嫗(しひのおみな)に賜へる御歌(おほみうた)一首 0236 いなと言へど強ふる志斐のが強語(しひかたり)このごろ聞かずて朕(あれ)恋ひにけり 志斐嫗が和(こた)へ奉(まつ)れる歌一首 0237 いなと言へど語れ語れと詔(の)らせこそ志斐いは奏(まを)せ強語と言(の)る 長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が詔(みことのり)を応(うけたまは)りてよめる歌一首 0238 大宮の内まで聞こゆ網引(あびき)すと網子(あこ)調(ととの)ふる海人の呼び声      右一首。 長皇子の猟路野(かりぢぬ)に遊猟(みかり)したまへる時、柿本朝臣人麻呂がよめる歌一首、また短歌(みじかうた) 0239 やすみしし 我が大王(おほきみ) 高光る 我が日の皇子の    馬並(な)めて 御狩立たせる 若薦(わかこも)を 猟路の小野に    獣(しし)こそは い匍ひ拝(をろが)め 鶉こそ い匍ひ廻(もとほ)れ    獣(しし)じもの い匍ひ拝(をろが)み 鶉なす い匍ひ廻(もとほ)り    畏(かしこ)みと 仕へまつりて 久かたの 天(あめ)見るごとく    真澄鏡(まそかがみ) 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大王かも 反し歌一首 0240 ひさかたの天行く月を綱(つな)に刺し我が大王は蓋(きぬかさ)にせり      或ル本ノ反歌一首  0241 皇(おほきみ)は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも 弓削皇子(ゆげのみこ)の吉野(よしぬ)に遊(いでま)せる時の御歌一首 0242 滝(たぎ)の上(へ)の三船の山にゐる雲の常にあらむと我が思(も)はなくに      或ル本ノ歌一首  0244 み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思(も)はなくに      右ノ一首ハ、柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出デタリ。 春日王(かすがのおほきみ)の和へ奉れる歌一首 0243 王(おほきみ)は千歳に座(ま)さむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや 長田王(ながたのおほきみ)の筑紫(つくし)に遣はされ水島を渡りたまふ時の歌二首(ふたつ) 0245 聞きし如まこと貴く奇(くす)しくも神(かむ)さびますかこれの水島 0246 葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ 石川大夫(いしかはのまへつきみ)が和ふる歌一首 0247 沖つ波辺波(へなみ)立つとも我が背子が御船の泊(とまり)波立ためやも 又長田王のよみたまへる歌一首 0248 隼人(はやひと)の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも吾(あれ)は今日見つるかも 柿本朝臣人麻呂が覊旅(たび)の歌八首(やつ) 0249 御津の崎波を恐(かしこ)み隠江(こもりえ)の船寄せかねつ野島(ぬしま)の崎に 0250 玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎ夏草の野島の崎に舟近づきぬ 0251 淡路の野島の崎の浜風に妹が結べる紐吹き返す 0252 荒布(あらたへ)の藤江の浦に鱸(すずき)釣る海人とか見らむ旅行く吾(あれ)を 0253 稲日野(いなびぬ)も行き過ぎかてに思へれば心恋(こほ)しき加古の島見ゆ 0254 燭火(ともしび)の明石大門(おほと)に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず 0255 天ざかる夷(ひな)の長道(ながち)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ 0256 飼飯(けひ)の海の庭よくあらし苅薦の乱れ出づ見ゆ海人の釣船      一本ニ云ク、     武庫(むこ)の海の船にはあらし漁(いざり)する海人の釣船波の上(へ)ゆ見ゆ 鴨君足人(かものきみたりひと)が香具山の歌一首、また短歌 0257 天降(あも)りつく 天(あめ)の香具山 霞立つ 春に至れば    松風に 池波立ちて 桜花 木晩(このくれ)茂み    沖辺には 鴨妻呼ばひ 辺つ方(へ)に あぢ群(むら)騒き    ももしきの 大宮人の 退(まか)り出て 遊ぶ船には    楫棹(かぢさを)も なくて寂(さぶ)しも 榜ぐ人なしに 反し歌二首 0258 人榜がず有らくも著(しる)し潜(かづ)きする鴛鴦(をし)と沈鳧(たかべ)と船の上(へ)に棲む 0259 いつの間も神さびけるか香具山の桙杉の本に苔むすまでに      或ル本ノ歌ニ云ク  0260 天降りつく 神の香具山 打ち靡く 春さり来れば     桜花 木晩茂み 松風に 池波立ち     辺つ方は あぢ群騒き 沖辺は 鴨妻呼ばひ     ももしきの 大宮人の 退り出て 榜ぎにし船は     棹楫(さをかぢ)も なくて寂しも 榜がむと思(も)へど 柿本朝臣人麻呂が新田部皇子(にひたべのみこ)に献れる歌一首、また短歌 0261 やすみしし 我が大王 高光る 日の皇子    敷き座(ま)す 大殿の上(へ)に 久方の 天伝(あまづた)ひ来る    雪じもの 往き通ひつつ いや重(しき)座(いま)せ 反し歌一首 0262 矢釣(やつり)山木立も見えず降り乱る雪に騒きて参らくよしも 刑部垂麿(おさかべのたりまろ)が近江国より上来(まゐのぼ)る時よめる歌一首 0263 吾(あ)が馬(ま)いたく打ちてな行きそ日(け)並べて見ても我が行く志賀にあらなくに 柿本朝臣人麻呂が近江国より上来る時、宇治河(うぢかは)の辺(ほとり)に至りてよめる歌一首 0264 物部(もののふ)の八十(やそ)宇治川の網代木(あじろき)にいさよふ波の行方知らずも 長忌寸奥麻呂が歌一首 0265 苦しくも降り来る雨か神(かみ)の崎狭野の渡りに家もあらなくに 柿本朝臣人麻呂が歌一首 0266 淡海(あふみ)の海(み)夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしぬに古(いにしへ)思ほゆ 志貴皇子の御歌一首 0267 むささびは木末(こぬれ)求むと足引の山の猟師(さつを)に逢ひにけるかも 長屋王の故郷(ふるさと)の歌一首 0268 我が背子が古家(ふるへ)の里の明日香には千鳥鳴くなり君待ちかねて 阿倍女郎(あべのいらつめ)が屋部坂(やべさか)の歌一首 0269 忍(しぬ)ひなば我が袖もちて隠さむを焼けつつかあらむ着ずて坐(ま)しけり 高市連黒人が覊旅(たび)の歌八首 0270 旅にして物恋(こほ)しきに山下の朱(あけ)の赭土船(そほぶね)沖に榜ぐ見ゆ 0271 作良(さくら)田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る 0272 四極(しはつ)山打ち越え見れば笠縫(かさぬひ)の島榜ぎ隠る棚無小舟(たななしをぶね) 0273 磯の崎榜ぎ廻(た)み行けば近江の海(み)八十の水門(みなと)に鶴さはに鳴く 0274 我が船は比良(ひら)の湊に榜ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜更けにけり 0275 いづくに吾(あ)は宿らなむ高島の勝野の原にこの日暮れなば 0276 妹も我(あれ)も一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる      一本、黒人ガ妻ノ答フル歌ニ云ク、     三河なる二見の道ゆ別れなば我が背も吾(あれ)も独りかも行かむ 0277 早来ても見てましものを山背(やましろ)の高槻の村散りにけるかも 石川女郎(いしかはのいらつめ)が歌一首 0278 志賀(しか)の海女は昆布(め)苅り塩焼き暇(いとま)無み髪梳(くしげ)の小櫛(をくし)取りも見なくに 高市連黒人が歌二首 0279 我妹子(わぎもこ)に猪名野(ゐなぬ)は見せつ名次(なすぎ)山角(つぬ)の松原いつか示さむ 0280 いざ子ども大和へ早く白菅(しらすげ)の真野(まぬ)の榛原(はりはら)手折(たを)りて行かむ 黒人が妻(め)の答ふる歌一首 0281 白菅の真野の榛原往くさ来(く)さ君こそ見らめ真野の榛原 春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)が歌一首 0282 つぬさはふ磐余(いはれ)も過ぎず泊瀬山いつかも越えむ夜は更けにつつ 高市連黒人が歌一首 0283 住吉(すみのえ)の得名津(えなつ)に立ちて見渡せば武庫の泊ゆ出づる船人(ふなひと) 春日蔵首老が歌一首 0284 焼津辺(やきづへ)に吾(あ)が行きしかば駿河なる阿倍の市道(いちぢ)に逢ひし子らはも 丹比真人笠麻呂が、紀伊国に往き、勢(せ)の山を超ゆる時よめる歌一首 0285 栲領巾(たくひれ)の懸けまく欲しき妹の名をこの勢の山に懸けばいかにあらむ 春日蔵首老が即ち和ふる歌一首 0286 よろしなべ吾(あ)が背の君が負ひ来にしこの勢の山を妹とは呼ばじ 志賀(しが)に幸(いでま)せる時、石上(いそのかみ)の卿(まへつきみ)のよみたまへる歌一首 0287 ここにして家やも何処(いづく)白雲の棚引く山を越えて来にけり 穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)が歌一首 0288 我が命のま幸(さき)くあらば亦も見む志賀の大津に寄する白波 間人宿禰大浦(はしひとのすくねおほうら)が初月(みかつき)の歌二首 0289 天の原振り放け見れば白(しら)真弓張りて懸けたり夜道は行かむ 0290 倉椅(くらはし)の山を高みか夜隠(よこもり)に出で来る月の光乏(とも)しき 小田事主(をだのことぬし)が勢の山の歌一首 0291 真木の葉のしなふ勢の山偲はずて吾(あ)が越え行けば木の葉知りけむ 録兄麻呂(ろくのえまろ)が歌四首(よつ) 0292 久方の天(あま)の探女(さぐめ)が岩船の泊てし高津は浅(あ)せにけるかも 0293 潮干(しほひ)の御津の海女の藁袋(くぐつ)持ち玉藻苅るらむいざ行きて見む 0294 風をいたみ沖つ白波高からし海人の釣船浜に帰りぬ 0295 住吉(すみのえ)の岸の松原遠つ神我が王(おほきみ)の幸行処(いでましところ) 田口益人大夫(たくちのますひとのまへつきみ)が上野(かみつけぬ)の国司(くにのみこともち)に任(ま)けらるる時、駿河国浄見埼(きよみのさき)に至りてよめる歌二首 0296 廬原(いほはら)の清見が崎の三穂の浦のゆたけき見つつ物思(も)ひもなし 0297 昼見れど飽かぬ田子の浦大王の命(みこと)畏み夜見つるかも 辨基(べむき)が歌一首 0298 真土山夕越え行きて廬前(いほさき)の角太川原(すみだがはら)に独りかも寝む 大納言(おほきものまをすつかさ)大伴の卿(まへつきみ)の歌一首 0299 奥山の菅(すが)の葉凌(しぬ)ぎ降る雪の消(け)なば惜しけむ雨な降りそね 長屋王の馬を寧樂(なら)山に駐(とど)めてよみたまへる歌二首 0300 佐保過ぎて寧樂の手向(たむけ)に置く幣(ぬさ)は妹を目離(か)れず相見しめとそ 0301 岩が根の凝重(こごし)く山を越えかねて哭(ね)には泣くとも色に出でめやも 中納言(なかのものまをすつかさ)安倍廣庭(あべのひろには)の卿の歌一首 0302 子らが家道やや間遠(まとほ)きをぬば玉の夜渡る月に競(きほ)ひあへむかも 柿本朝臣人麻呂が筑紫国に下れる時、海路(うみつぢ)にてよめる歌二首 0303 名ぐはしき印南(いなみ)の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は 0304 大王の遠の朝廷(みかど)とあり通(かよ)ふ島門(しまと)を見れば神代し思ほゆ 高市連黒人の近江の旧き都の歌一首 0305 かく故に見じと言ふものを楽浪(ささなみ)の旧き都を見せつつもとな 伊勢国に幸(いでま)せる時、安貴王(あきのおほきみ)のよみたまへる歌一首 0306 伊勢の海の沖つ白波花にもが包みて妹が家苞(いへづと)にせむ 博通法師(はくつうほうし)が紀伊国に往きて三穂の石室(いはや)を見てよめる歌三首 0307 はた薄(すすき)久米の若子(わくご)が座(いま)しけむ三穂の石室は荒れにけるかも 0308 常磐なす石室は今も在りけれど住みける人そ常なかりける 0309 石室戸(いはやと)に立てる松の樹汝(な)を見れば昔の人を相見るごとし 門部王(かどべのおほきみ)の東(ひむがし)の市の樹を詠みたまへる作歌(うた)一首 0310 東の市の植木の木垂(こだ)るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり 按作村主益人(くらつくりのすくりますひと)が豊前国(とよくにのみちのくち)より京(みやこ)に上(まゐのぼ)る時よめる歌一首 0311 梓弓引き豊国の鏡山見ず久ならば恋(こほ)しけむかも 式部卿(のりのつかさのかみ)藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)の卿に、難波の堵(みやこ)を改め造らしめたまへる時よめる歌一首 0312 昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都と都びにけり 土理宣令(とりのせむりやう)が歌一首 0313 み吉野の滝(たぎ)の白波知らねども語りし継げば古思ほゆ 波多朝臣少足(はたのあそみをたり)が歌一首 0314 小波(さざれなみ)礒越道(いそこせぢ)なる能登瀬川音の清(さや)けさ激(たぎ)つ瀬ごとに 暮春之月(やよひばかり)、芳野の離宮(とつみや)に幸せる時、中納言大伴の卿の勅(みことのり)を奉(うけたまは)りてよみたまへる歌一首、また短歌 奏上ヲ逕(ヘ)ザル歌 0315 み吉野の 吉野の宮は 山柄(やまから)し 貴くあらし    川柄(かはから)し 清けくあらし 天地と 長く久しく    万代に 変らずあらむ 行幸(いでまし)の宮 反し歌 0316 昔見し象(きさ)の小川を今見ればいよよ清けく成りにけるかも 山部宿禰赤人が不盡山(ふじのやま)を望(み)てよめる歌一首、また短歌 0317 天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き    駿河なる 富士の高嶺(たかね)を 天の原 振り放け見れば    渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず    白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける    語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は 反し歌 0318 田子(たこ)の浦ゆ打ち出(で)て見れば真白くそ不盡の高嶺に雪は降りける 不盡山を詠める歌一首、また短歌 0319 なまよみの 甲斐の国 打ち寄する 駿河の国と    此方此方(こちごち)の 国のみ中ゆ 出で立てる 不盡の高嶺は    天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 翔(と)びも上(のぼ)らず    燃ゆる火を 雪もち滅(け)ち 降る雪を 火もち消ちつつ    言ひもかね 名付けも知らに 霊(くす)しくも 座(いま)す神かも    石花海(せのうみ)と 名付けてあるも その山の 堤(つつ)める海ぞ    不盡川と 人の渡るも その山の 水の溢(たぎ)ちぞ    日の本の 大和の国の 鎮めとも 座す神かも    宝とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高嶺は 見れど飽かぬかも 反し歌 0320 不盡の嶺に降り置ける雪は六月(みなつき)の十五日(もち)に消(け)ぬればその夜降りけり 0321 富士の嶺を高み畏み天雲もい行きはばかり棚引くものを      右ノ一首ハ、高橋連蟲麻呂ノ歌集ノ中ニ出タリ。      類ヲ以テ此ニ載ス。 山部宿禰赤人が伊豫温泉(いよのゆ)に至(ゆ)きてよめる歌一首、また短歌 0322 皇神祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 敷き座(ま)す 国のことごと    湯はしも 多(さは)にあれども 島山の 宣しき国と    凝々(こご)しかも 伊豫の高嶺の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして    歌思ひ 辞(こと)思はしし み湯の上(へ)の 木群(こむら)を見れば    臣木(おみのき)も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず    遠き代に 神さびゆかむ 行幸処(いでましところ) 反し歌 0323 ももしきの大宮人の熟田津(にきたづ)に船(ふな)乗りしけむ年の知らなく 神岳(かみをか)に登りて山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌 0324 三諸(みもろ)の 神名備山(かむなびやま)に    五百枝(いほえ)さし 繁(しじ)に生ひたる 栂(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに    玉葛(たまかづら) 絶ゆることなく ありつつも 止まず通はむ    明日香の 旧き都は 山高み 川透白(とほしろ)し    春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川し清けし    朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづは騒ぐ    見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ 古思へば 反し歌 0325 明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに 門部王の難波に在(いま)して、漁父(あま)の燭光(いざりひ)を見てよみたまへる歌一首 0326 見渡せば明石の浦に燭す火の穂にぞ出でぬる妹に恋ふらく 或る娘子(をとめ)等、乾鰒(ほしあはび)を包めるを、通觀僧(つぐわむほうし)に贈りて、戯(たは)れに咒願(かしり)を請ふ時、通觀がよめる歌一首 0327 海(わたつみ)の沖に持ち行きて放つとも如何(うれむ)ぞこれが蘇りなむ 太宰少弐(おほみこともちのすなきすけ)小野老朝臣(をぬのおゆのあそみ)が歌一首 0328 青丹よし寧樂の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり 防人司佑(さきもりのつかさのまつりごとひと)大伴四綱(よつな)が歌二首 0329 やすみしし我が王(おほきみ)の敷き座(ま)せる国の中なる都し思ほゆ 0330 藤波の花は盛りに成りにけり平城(なら)の都を思ほすや君 帥(かみ)大伴の卿の歌五首 0331 吾(あ)が盛りまた変若(を)ちめやも殆(ほとほと)に寧樂の都を見ずかなりなむ 0332 我が命も常にあらぬか昔見し象(きさ)の小川を行きて見むため 0333 浅茅原つばらつばらに物思(も)へば故りにし郷(さと)し思ほゆるかも 0334 萱草(わすれぐさ)我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れぬがため 0335 我が行(ゆき)は久にはあらじ夢(いめ)の曲(わだ)瀬とは成らずて淵にありこそ 沙弥満誓(さみのまむぜい)が綿を詠める歌一首 0336 しらぬひ筑紫の綿は身に付けて未だは着ねど暖けく見ゆ 山上臣憶良(やまのへのおみおくら)が宴より罷(まか)るときの歌一首 0337 憶良らは今は罷らむ子泣くらむ其(そ)も彼(そ)の母も吾(あ)を待つらむそ 太宰帥(おほみこともちのかみ)大伴の卿の酒を讃めたまふ歌十三首(とをまりみつ) 0338 験(しるし)なき物を思(も)はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあらし 0339 酒の名を聖(ひじり)と負ほせし古の大き聖の言の宣しさ 0340 古の七の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせし物は酒にしあらし 0341 賢しみと物言はむよは酒飲みて酔哭(ゑひなき)するし勝りたるらし 0342 言はむすべ為むすべ知らに極りて貴き物は酒にしあらし 0343 中々に人とあらずは酒壷(さかつぼ)に成りてしかも酒に染みなむ 0344 あな醜(みにく)賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む 0345 価(あたひ)なき宝といふとも一坏の濁れる酒に豈(あに)勝らめや 0346 夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るに豈及(し)かめやも 0347 世間(よのなか)の遊びの道に洽(あまね)きは酔哭するにありぬべからし 0348 今代(このよ)にし楽(たぬ)しくあらば来生(こむよ)には虫に鳥にも吾(あれ)は成りなむ 0349 生まるれば遂にも死ぬるものにあれば今生(このよ)なる間は楽しくを有らな 0350 黙然(もだ)居りて賢しらするは酒飲みて酔泣するになほ及かずけり 沙弥満誓が歌一首 0351 世間(よのなか)を何に譬へむ朝開き榜ぎにし船の跡なきごとし 若湯座王(わかゆゑのおほきみ)の歌一首 0352 葦辺(あしへ)には鶴(たづ)が哭(ね)鳴きて湊風寒く吹くらむ津乎(つを)の崎はも 釋通觀(ほうしつぐわむ)が歌一首 0353 み吉野の高城(たかき)の山に白雲は行きはばかりて棚引けり見ゆ 日置少老(へきのをおゆ)が歌一首 0354 繩(なは)の浦に塩焼く煙(けぶり)夕されば行き過ぎかねて山に棚引く 生石村主真人(おふしのすくりまひと)が歌一首 0355 大汝(おほなむぢ)少彦名(すくなびこな)の座(いま)しけむ志都(しつ)の石室(いはや)は幾代経ぬらむ 上古麻呂(かみのふるまろ)が歌一首 0356 今日もかも明日香の川の夕さらずかはづ鳴く瀬の清(さや)けかるらむ 山部宿禰赤人が歌六首 0357 繩の浦ゆ背向(そがひ)に見ゆる沖つ島榜ぎ廻(た)む舟は釣しすらしも 0358 武庫の浦を榜ぎ廻む小舟(をぶね)粟島を背向に見つつ羨(とも)しき小舟 0359 阿倍の島鵜の住む磯に寄する波間なくこのごろ大和し思ほゆ 0360 潮干なば玉藻苅り籠め家の妹(も)が浜苞(はまつと)乞はば何を示さむ 0361 秋風の寒き朝開(あさけ)を狭野(さぬ)の岡越ゆらむ君に衣貸さましを 0362 雎鳩(みさご)居る磯廻(いそみ)に生ふる名乗藻(なのりそ)の名は告(の)らしてよ親は知るとも      或ル本ノ歌ニ曰ク  0363 雎鳩居る荒磯に生ふる名乗藻のよし名は告らせ親は知るとも 笠朝臣金村が鹽津(しほつ)山にてよめる歌二首 0364 大夫(ますらを)の弓末(ゆすゑ)振り起こし射つる矢を後見む人は語り継ぐがね 0365 鹽津山打ち越え行けば我(あ)が乗れる馬ぞ躓く家恋ふらしも 角鹿津(つぬがのつ)にて船に乗れる時、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌(みじかうた) 0366 越の海の 角鹿の浜ゆ 大舟に 真楫(まかぢ)貫(ぬ)き下ろし    勇魚(いさな)取り 海路(うみぢ)に出でて 喘(あべ)きつつ 我が榜ぎ行けば    大夫(ますらを)の 手結(たゆひ)が浦に 海未通女(あまをとめ) 塩焼く炎(けぶり)    草枕 旅にしあれば 独りして 見る験(しるし)無み    海神(わたつみ)の 手に巻かしたる 玉たすき 懸けて偲ひつ 大和島根を 反し歌 0367 越の海の手結の浦を旅にして見れば羨(とも)しみ大和偲ひつ 石上大夫(いそのかみのまへつきみ)が歌一首 0368 大船に真楫(まかぢ)繁(しじ)貫き大王の命畏み磯廻するかも 和ふる歌一首 0369 物部(もののふ)の臣(おみ)の壮士(をとこ)は大王の任(まけ)の随(まにま)に聞くといふものぞ      右、作者審カナラズ。但シ笠朝臣金村ノ歌集ノ中      ニ出デタリ。 安倍廣庭の卿の歌一首 0370 小雨降りとの曇(ぐも)る夜を濡れ湿(ひ)づと恋ひつつ居りき君待ちがてり 出雲守(いづものかみ)門部王(かどべのおほきみ)の京(みやこ)を思(しぬ)ひたまふ歌一首 0371 飫宇(おう)の海の河原の千鳥汝(な)が鳴けば我が佐保川(さほかは)の思ほゆらくに 山部宿禰赤人が春日野(かすがぬ)に登りてよめる歌一首、また短歌 0372 春日(はるひ)を 春日(かすが)の山の 高座(たかくら)の 御笠の山に    朝さらず 雲居たなびき 容鳥(かほとり)の 間なく屡(しば)鳴く    雲居なす 心いさよひ その鳥の 片恋のみに    昼はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと    立ちて居て 思ひぞ吾(あ)がする 逢はぬ子故に 反し歌 0373 高座の三笠の山に鳴く鳥の止めば継がるる恋もするかも 石上乙麻呂朝臣(いそのかみのおとまろのあそみ)の歌一首 0374 雨降らば着なむと思(も)へる笠の山人にな着しめ濡れは漬(ひ)づとも 湯原王(ゆはらのおほきみ)の芳野にてよみたまへる歌一首 0375 吉野なる夏実(なつみ)の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山影にして 湯原王の宴の席(とき)の歌二首 0376 蜻蛉羽(あきづは)の袖振る妹を玉くしげ奥に思ふを見たまへ我君(わぎみ) 0377 青山の嶺の白雲朝に日(け)に常に見れどもめづらし我君(わぎみ) 山部宿禰赤人が、贈(おひてたまへる)太政大臣(おほきまつりごとのおほまへつきみ)の藤原の家の山池(いけ)を詠める歌一首 0378 昔看(み)し旧き堤は年深み池の渚に水草(みくさ)生ひにけり 大伴坂上郎女(おほとものさかのへのいらつめ)が祭神(かみまつり)の歌一首、また短歌 0379 久かたの 天の原より 生(あ)れ来(こ)し 神の命    奥山の 賢木(さかき)の枝に 白紙(しらが)付く 木綿(ゆふ)取り付けて    斎瓮(いはひへ)を 斎ひ掘り据ゑ 竹玉(たかたま)を 繁(しじ)に貫(ぬ)き垂り    獣(しし)じもの 膝折り伏せ 手弱女(たわやめ)の 襲(おすひ)取り懸け    かくだにも 吾(あれ)は祈(こ)ひなむ 君に逢はぬかも 反し歌 0380 木綿畳(ゆふたたみ)手に取り持ちてかくだにも吾(あれ)は祈ひなむ君に逢はぬかも      右ノ歌ハ、天平五年冬十一月ヲ以テ、大伴ノ氏ノ神      ニ供ヘ祭ル時、聊カ此歌ヲ作ル。故レ祭神歌ト曰フ。 筑紫娘子(つくしをとめ)が行旅(たびゆきひと)に贈れる歌一首 娘子、字ヲ兒島ト曰フ 0381 家思(も)ふと心進むな風伺(かぜまもり)好くして行(いま)せ荒きその路 筑波岳(つくはね)に登りて、丹比真人国人(たぢひのまひとくにひと)がよめる歌一首、また短歌 0382 鶏が鳴く 東(あづま)の国に 高山は 多(さは)にあれども    双神(ふたかみ)の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と    神代より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑波の山を    冬こもり 時じく時と 見ずて行かば まして恋(こひ)しみ    雪消(ゆきけ)する 山道すらを なづみぞ吾(あ)が来(こ)し 反し歌 0383 筑波嶺を外(よそ)のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ来(け)るかも 山部宿禰赤人が歌一首 0384 我が屋戸に韓藍(からゐ)蒔き生(お)ほし枯れぬれど懲りずて亦も蒔かむとそ思(も)ふ 仙柘枝(ひじりのつみのえ)の歌三首 0385 霰降り吉志美(きしみ)が岳(たけ)を険(さが)しみと草取りかねて妹が手を取る      右ノ一首ハ、或ルヒト云ク、吉野ノ人味稲(ウマシネ)      ノ柘枝仙媛ニ与フル歌ナリ。 0386 この夕へ柘(つみ)のさ枝の流れ来(こ)ば梁(やな)は打たずて取らずかもあらむ      右一首。 0387 古に梁打つ人の無かりせばここにもあらまし柘の枝はも      右ノ一首ハ、若宮年魚麻呂(ワカミヤノアユマロ)ガ作。 羇旅(たび)の歌一首、また短歌 0388 海神(わたつみ)は 霊(あや)しきものか 淡路島 中に立て置きて    白波を 伊豫に回(もと)ほし 居待月(ゐまちつき) 明石の門ゆは    夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干(ひ)しむ    潮騒の 波を恐み 淡路島 磯隠(いそがく)り居て    いつしかも この夜の明けむ と侍(さもら)ふに 眠(い)の寝かてねば    滝(たぎ)の上(へ)の 浅野の雉(きぎし) 明けぬとし 立ち動(とよ)むらし    いざ子ども あべて榜ぎ出む 庭も静けし 反し歌 0389 島伝ひ敏馬(みぬめ)の崎を榜ぎ廻(た)めば大和恋(こほ)しく鶴多(さは)に鳴く      右ノ歌ハ、若宮年魚麻呂之ヲ誦メリ。但シ作者ヲ      審ラカニセズ。 譬喩歌(たとへうた) 紀皇女(きのひめみこ)の御歌一首 0390 輕の池の浦廻(うらみ)廻(もとほ)る鴨すらも玉藻の上に独り寝なくに 筑紫観世音寺造りの別当(かみ)沙弥満誓が歌一首 0391 鳥総(とぶさ)立て足柄山に船木(ふなき)伐り木に伐り去(ゆ)きつあたら船木を 太宰大監(おほみこともちのおほきまつりごとひと)大伴宿禰百代が梅の歌一首 0392 ぬば玉のその夜の梅を手(た)忘れて折らず来にけり思ひしものを 満誓沙弥(まむぜいさみ)が月の歌一首 0393 見えずとも誰(たれ)恋ひざらめ山の端にいさよふ月を外(よそ)に見てしか 金明軍(こむのみやうぐむ)が歌一首 0394 標(しめ)結ひて我が定めてし住吉(すみのえ)の浜の小松は後も我が松 笠郎女(かさのいらつめ)が大伴宿禰家持(おほとものすくねやかもち)に贈れる歌三首 0395 託馬野(つくまぬ)に生ふる紫草(むらさき)衣(ころも)染(し)め未だ着ずして色に出でにけり 0396 陸奥(みちのく)の真野(まぬ)の草原(かやはら)遠けども面影にして見ゆちふものを 0397 奥山の磐本菅(いはもとすげ)を根深めて結びし心忘れかねつも 藤原朝臣八束(やつか)が梅の歌二首 0398 妹が家(へ)に咲きたる梅の何時も何時も成りなむ時に事は定めむ 0399 妹が家(へ)に咲きたる花の梅の花実にし成りなばかもかくもせむ 大伴宿禰駿河麻呂(するがまろ)が梅の歌一首 0400 梅の花咲きて散りぬと人は言へど我が標結ひし枝ならめやも 大伴坂上郎女が、親族(うがら)と宴する日、吟(うた)へる歌一首 0401 山守(やまもり)のありける知らにその山に標結ひ立てて結(ゆひ)の恥しつ 大伴宿禰駿河麻呂が即ち和ふる歌一首 0402 山守は蓋(けだ)しありとも我妹子(わぎもこ)が結ひけむ標を人解かめやも 大伴宿禰家持が同じ坂上(さかのへ)の家の大嬢(おほいらつめ)に贈れる歌一首 0403 朝に日(け)に見まく欲しけきその玉を如何にしてかも手ゆ離(か)れざらむ 娘子(をとめ)が佐伯宿禰赤麿に報(こた)ふる贈歌(うた)一首 0404 ちはやぶる神の社(やしろ)し無かりせば春日の野辺に粟蒔かましを 佐伯宿禰赤麿がまた贈れる歌一首 0405 春日野に粟蒔けりせば鹿(しし)待ちに継ぎて行かましを社し有りとも 娘子がまた報ふる歌一首 0406 吾(あ)は祭る神にはあらず大夫(ますらを)に憑きたる神ぞよく祭るべき 大伴宿禰駿河麻呂が同じ坂上の家の二嬢(おといらつめ)を娉(つまど)ふ歌一首 0407 春霞(はるかすみ)春日の里の殖小水葱(うゑこなぎ)苗なりと言ひし枝(え)はさしにけむ 大伴宿禰家持が同じ坂上の家の大嬢に贈れる歌一首 0408 石竹(なでしこ)がその花にもが朝旦(あさなさな)手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ 大伴宿禰駿河麻呂が同じ坂上の家の二嬢(おといらつめ)に贈れる歌一首 0409 一日には千重波敷きに思へどもなぞその玉の手に巻き難き 大伴坂上郎女が橘の歌一首 0410 橘を屋戸に植ゑ生(お)ほせ立ちて居て後に悔ゆとも験(しるし)あらめやも 大伴宿禰駿河麻呂が和ふる歌一首 0411 我妹子が屋戸の橘いと近く植ゑてし故に成らずは止まじ 市原王(いちはらのおほきみ)の歌一首 0412 頂(いなだき)に著統(きす)める玉は二つ無しかにもかくにも君がまにまに 某(それ)の歌二首 0436 人言(ひとごと)の繁きこの頃玉ならば手に巻き持ちて恋ひざらましを 0437 妹も吾(あれ)も清御(きよみ)の川の川岸の妹が悔ゆべき心は持たじ 大網公人主(おほあみのきみひとぬし)が宴に吟(うた)へる歌一首 0413 須磨の海人の塩焼衣(しほやききぬ)の藤衣(ふぢころも)間遠くしあれば未だ着馴れず 大伴宿禰家持が歌一首 0414 足引の岩根こごしみ菅(すが)の根を引かば難(かた)みと標のみそ結ふ 挽歌(かなしみうた) 上宮聖徳皇子(うへのみやのしやうとこのみこ)の竹原井(たかはらゐ)に出遊(いでま)せる時、龍田山に死(みまか)れる人を見(みそなは)して悲傷(かなし)みよみませる御歌一首 0415 家にあらば妹が手纏(ま)かむ草枕旅に臥(こ)やせるこの旅人(たびと)あはれ 大津皇子の被死(つみな)はえたまへる時、磐余(いはれ)の池の陂(つつみ)にて流涕(かなし)みよみませる御歌一首 0416 つぬさはふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ      右、藤原宮、朱鳥元年冬十月。 河内王(かはちのおほきみ)を豊前国(とよくにのみちのくち)鏡山に葬(はふ)れる時、手持女王(たもちのおほきみ)のよみたまへる歌三首 0417 王(おほきみ)の親魄(むつたま)あへや豊国の鏡の山を宮と定むる 0418 豊国の鏡の山の石戸(いはと)闔(た)て隠(こも)りにけらし待てど来まさぬ 0419 石戸破(わ)る手力(たぢから)もがも手弱(たわや)き女(め)にしあればすべの知らなく 石田王(いはたのおほきみ)の卒(う)せたまへる時、丹生王(にふのおほきみ)のよみたまへる歌一首、また短歌 0420 なゆ竹の 嫋(とを)寄る皇子 さ丹頬(にづら)ふ 我が大王(おほきみ)は    隠国(こもりく)の 初瀬の山に 神さびて 斎(いつ)き坐(いま)すと    玉づさの 人ぞ言ひつる 妖言(およづれ)か 吾(あ)が聞きつる    狂言(たはこと)か 吾(あ)が聞きつるも 天地に 悔しきことの    世間(よのなか)の 悔しきことは 天雲の そくへの極み    天地の 至れるまでに 杖つきも つかずも行きて    夕占(ゆふけ)問ひ 石卜(いしうら)以ちて 我が屋戸に 御室(みもろ)を建てて    枕辺に 斎瓮(いはひへ)を据ゑ 竹玉(たかたま)を 無間(しじ)に貫(ぬ)き垂り    木綿(ゆふ)たすき 肘(かひな)に懸けて 天(あめ)なる ささらの小野の    斎(いは)ひ菅(すげ) 手に取り持ちて 久かたの 天(あま)の川原に    出で立ちて 禊(みそ)ぎてましを 高山の 巌(いはほ)の上に 座(いま)せつるかも 反し歌 0421 逆言(およづれ)の狂言(たはこと)とかも高山の巌の上に君が臥やせる 0422 石上(いそのかみ)布留(ふる)の山なる杉群(すぎむら)の思ひ過ぐべき君にあらなくに 同じ〔石田王卒之〕時、山前王(やまくまのおほきみ)の哀傷(かなし)みよみたまへる歌一首 0423 つぬさはふ 磐余の道を 朝さらず 行きけむ人の    思ひつつ 通ひけまくは 霍公鳥(ほととぎす) 来鳴く五月(さつき)は    菖蒲(あやめぐさ) 花橘を 玉に貫き 蘰(かづら)にせむと    九月(ながつき)の しぐれの時は 黄葉(もみちば)を 折り挿頭(かざ)さむと    延(は)ふ葛(くず)の いや遠長く 万代に 絶えじと思ひて    通ひけむ 君を明日よは 外(よそ)にかも見む      或ル本ノ反歌二首  0424 隠国(こもりく)の泊瀬娘子(はつせをとめ)が手に巻ける玉は乱れてありと言はずやも  0425 川風の寒き長谷(はつせ)を嘆きつつ君が歩くに似る人も逢へや 柿本朝臣人麻呂が香具山にて屍(みまかれるひと)を見て悲慟(かなし)みよめる歌一首 0426 草枕旅の宿りに誰が夫(つま)か国忘れたる家待たなくに 田口廣麿が死(みまか)れる時、刑部垂麻呂(おさかべのたりまろ)がよめる歌一首 0427 百足らず八十(やそ)の隈坂(くまぢ)に手向(たむけ)せば過ぎにし人にけだし逢はむかも 土形娘子(ひぢかたのをとめ)を泊瀬山に火葬(やきはふ)れる時、柿本朝臣人麻呂がよめる歌一首 0428 隠国の泊瀬の山の山際(やまのま)にいさよふ雲は妹にかもあらむ 溺れ死ねる出雲娘子(いづもをとめ)を吉野に火葬(やきはふ)れる時、柿本朝臣人麿がよめる歌二首 0429 山際(やまのま)ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく 0430 八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ 勝鹿(かつしか)の真間娘子(ままをとめ)が墓を過(とほ)れる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌 0431 古に ありけむ人の 倭文幡(しつはた)の 帯解き交へて    臥屋(ふせや)建て 妻問(つまどひ)しけむ 勝鹿の 真間の手兒名(てこな)が    奥津城(おくつき)を こことは聞けど 真木の葉や 茂みたるらむ    松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我は 忘らえなくに 反し歌 0432 我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手兒名が奥津城ところ 0433 勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ 和銅四年(よとせといふとし)辛亥(かのとゐ)、三穂の浦を過ぐる時、姓名がよめる歌二首 0434 風早(かざはや)の美保の浦廻の白躑躅(しらつつじ)見れども寂(さぶ)し亡き人思へば 0435 みつみつし久米の若子(わかご)がい触(ふ)りけむ磯の草根の枯れまく惜しも 神亀(じむき)五年(いつとせといふとし)戊辰(つちのえたつ)、太宰帥大伴の卿の故人(すぎにしひと)を思恋(しぬ)ひたまふ歌三首 0438 愛(うつく)しき人の纏(ま)きてし敷布(しきたへ)の吾(あ)が手枕を纏く人あらめや      右ノ一首ハ、別去テ数旬ヲ経テ作メル歌。 0439 帰るべき時は来にけり都にて誰が手本(たもと)をか吾(あ)が枕かむ 0440 都なる荒れたる家に独り寝ば旅にまさりて苦しかるべし      右ノ二首ハ、京ニ向フ時ニ臨近キテ作メル歌。 〔神亀〕六年(むとせといふとし)己巳(つちのとみ)、左大臣(ひだりのおほまへつきみ)長屋王の死(つみなへ)賜へる後、倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)のよみたまへる歌一首 0441 大皇(おほきみ)の命畏み大殯(おほあらき)の時にはあらねど雲隠り座(ま)す 膳部王(かしはでべのおほきみ)を悲傷(かなし)める歌一首 0442 世間(よのなか)は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち欠けしける      右ノ一首ハ、作者(ヨミヒト)未詳(シラズ)。 天平(てむひやう)元年(はじめのとし)己巳(つちのとみ)、攝津国(つのくに)の班田(あがちだ)の史生(ふみひと)丈部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)が自経死(わなき)し時、判官(まつりごとひと)大伴宿禰三中(みなか)がよめる歌一首、また短歌 0443 天雲の 向伏(むかふ)す国の 武士(ますらを)と 言はえし人は    皇祖(すめろき)の 神の御門に 外重(とのへ)に 立ち侍(さもら)ひ    内重(うちのへ)に 仕へ奉(まつ)り 玉葛 いや遠長く    祖(おや)の名も 継ぎ行くものと 母父(おもちち)に 妻に子どもに    語らひて 立ちにし日より 足根(たらちね)の 母の命(みこと)は    斎瓮(いはひへ)を 前に据ゑ置きて 一手(ひとて)には 木綿(ゆふ)取り持ち    一手には 和細布(にきたへ)奉(まつ)り 平けく ま幸(さき)くませと    天地の 神に祈(こ)ひ祷(の)み 如何にあらむ 年月日にか    躑躅花(つつじばな) にほへる君が にほ鳥の なづさひ来むと    立ちて居て 待ちけむ人は 王(おほきみ)の 命畏み    押し照る 難波の国に あら玉の 年経るまでに    白布(しろたへ)の 衣袖(ころもて)干さず 朝宵に ありつる君は    いかさまに 思ひませか うつせみの 惜しきこの世を    露霜の 置きて去(い)にけむ 時ならずして 反し歌 0444 昨日こそ君は在りしか思はぬに浜松の上(へ)の雲に棚引く 0445 いつしかと待つらむ妹に玉づさの言だに告げず去(い)にし君かも 〔天平〕二年(ふたとせといふとし)庚午(かのえうま)冬十二月(しはす)太宰帥大伴の卿の京(みやこ)に向きて上道(みちだち)する時によみたまへる歌五首 0446 我妹子が見し鞆之浦(とものうら)の天木香樹(むろのき)は常世にあれど見し人ぞなき 0447 鞆之浦の磯の杜松(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえめやも 0448 磯の上(へ)に根延(は)ふ室の木見し人をいかなりと問はば語り告げむか      右ノ三首ハ、鞆浦ヲ過ル日ニ作メル歌。 0449 妹と来(こ)し敏馬の崎を帰るさに独りし見れば涙ぐましも 0450 行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも      右ノ二首ハ、敏馬埼ヲ過ル日ニ作メル歌。 故郷(もと)の家に還入(かへ)りて即ちよみたまへる歌三首 0451 人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり 0452 妹として二人作りし吾(あ)が山斎(しま)は木高(こだか)く繁くなりにけるかも 0453 我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽(む)せつつ涙し流る 〔天平〕三年(みとせといふとし)辛未(かのとひつじ)秋七月(ふみつき)、大納言大伴の卿の薨(うせたま)へる時の歌六首(むつ) 0454 愛(は)しきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も吾(あ)を召さましを 0455 かくのみにありけるものを萩が花咲きてありやと問ひし君はも 0456 君に恋ひ甚(いた)もすべ無み葦鶴(あしたづ)の哭のみし泣かゆ朝宵にして 0457 遠長く仕へむものと思へりし君し座(ま)さねば心神(こころど)もなし 0458 若き子の匍(は)ひ徘徊(たもとほ)り朝夕に哭のみそ吾(あ)が泣く君なしにして      右の五首(いつうた)は、資人(つかひびと)金明軍が犬馬の慕心に勝(た)へず、      感緒(かなしみ)を中(の)べてよめる歌 0459 見れど飽かず座(いま)しし君がもみち葉の移りい去(ゆ)けば悲しくもあるか      右の一首(ひとうた)は、内礼正(うちのゐやのかみ)縣犬養宿禰人上(あがたのいぬかひのすくねひとかみ)      に勅(のりご)ちて、卿の病を検護せしむ。而して医薬      験無く、逝く水留まらず。これに因りて悲慟(かなし)み      て即ち此歌をよめり。 七年(ななとせといふとし)乙亥(きのとのゐ)、大伴坂上郎女が尼の理願(りぐわむ)の死去(みまか)れるを悲嘆(かなし)み、よめる歌一首、また短歌 0460 栲綱(たくつぬ)の 新羅(しらき)の国ゆ 人言(ひとごと)を 良しと聞かして    問ひ放(さ)くる 親族(うがら)兄弟(はらがら) 無き国に 渡り来まして    大皇(おほきみ)の 敷き座(ま)す国に うち日さす 都しみみに    里家は 多(さは)にあれども いかさまに 思ひけめかも    連れもなき 佐保の山辺に 泣く子なす 慕ひ来まして    敷布(しきたへ)の 家をも造り あら玉の 年の緒長く    住まひつつ いまししものを 生まるれば 死ぬちふことに    免(のが)ろえぬ ものにしあれば 恃めりし 人のことごと    草枕 旅なる間(ほと)に 佐保川を 朝川渡り    春日野を 背向(そがひ)に見つつ 足引の 山辺をさして    晩闇(くらやみ)と 隠りましぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに    徘徊(たもとほ)り ただ独りして 白布(しろたへ)の 衣袖(ころもて)干さず    嘆きつつ 吾(あ)が泣く涙 有間山 雲居棚引き 雨に降りきや 反し歌 0461 留めえぬ命にしあれば敷布の家ゆは出でて雲隠(がく)りにき      右、新羅ノ国ノ尼、名ヲ理願ト曰フ。遠ク王徳ヲ感      ジテ聖朝ニ帰化ス。時ニ大納言大将軍大伴卿ノ家ニ      寄住シ、既ニ数紀ヲ経タリ。惟ニ天平七年乙亥ヲ以      テ、忽ニ運病ニ沈ミテ、既ニ泉界ニ趣ク。是ニ大家      石川命婦、餌薬ノ事ニ依リテ有間温泉ニ往キテ、此      ノ喪ニ会ハズ。但郎女独リ留リテ屍柩ヲ葬送スルコ      ト既ニ訖リヌ。仍チ此ノ歌ヲ作ミテ温泉ニ贈入(オク)ル。 十一年(ととせまりひととせといふとし)己卯(つちのとう)夏六月(みなつき)、大伴宿禰家持が亡(みまか)れる妾(め)を悲傷(かなし)みよめる歌一首 0462 今よりは秋風寒く吹きなむを如何でか独り長き夜を寝む 弟(おと)大伴宿禰書持(ふみもち)が即ち和ふる歌一首 0463 長き夜を独りや寝むと君が言へば過ぎにし人の思ほゆらくに 又家持が砌(みぎり)の上(へ)の瞿麦(なでしこ)の花を見てよめる歌一首 0464 秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑし屋戸の石竹(なでしこ)咲きにけるかも 月移(かは)りて後、秋風を悲嘆(かなし)みて家持がよめる歌一首 0465 うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒く偲ひつるかも 又家持がよめる歌一首、また短歌 0466 我が屋戸に 花ぞ咲きたる そを見れど 心もゆかず    愛(は)しきやし 妹がありせば 御鴨(みかも)なす 二人並び居    手折りても 見せましものを うつせみの 借れる身なれば    露霜の 消(け)ぬるがごとく 足引の 山道をさして    入日なす 隠りにしかば そこ思(も)ふに 胸こそ痛め    言ひもかね 名づけも知らに 跡も無き 世間(よのなか)なれば 為むすべもなし 反し歌 0467 時はしもいつもあらむを心痛くい去(ゆ)く我妹(わぎも)か若き子置きて 0468 出で行かす道知らませば予め妹を留めむ塞(せき)も置かましを 0469 妹が見し屋戸に花咲く時は経ぬ吾(あ)が泣く涙いまだ干なくに 悲緒(かなしみ)息(や)まずてまたよめる歌五首 0470 かくのみにありけるものを妹も吾(あれ)も千歳のごとく恃みたりけり 0471 家離(ざか)りいます我妹を留みかね山隠(がく)りつれ心神(こころど)もなし 0472 世間し常かくのみとかつ知れど痛き心は忍(しぬ)ひかねつも 0473 佐保山に棚引く霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし 0474 昔こそ外(よそ)にも見しか我妹子が奥津城と思(も)へば愛(は)しき佐保山 十六年(ととせまりむとせといふとし)甲申(きのえさる)春二月(きさらき)、安積皇子(あさかのみこ)の薨(すぎたま)へる時、内舎人(うちとねり)大伴宿禰家持がよめる歌六首 0475 かけまくも あやに畏し 言はまくも ゆゆしきかも    我が王(おほきみ) 御子の命(みこと) 万代に 食(を)したまはまし    大日本(おほやまと) 久迩(くに)の都は 打ち靡く 春さりぬれば    山辺には 花咲きををり 川瀬には 鮎子さ走(ばし)り    いや日異(ひけ)に 栄ゆる時に 逆言(およづれ)の 狂言(たはこと)とかも    白布(しろたへ)に 舎人装ひて 和束(わづか)山 御輿(みこし)立たして    久かたの 天知らしぬれ 臥(こ)い転(まろ)び 沾(ひづ)ち泣けども 為むすべもなし 反し歌 0476 我が王(おほきみ)天知らさむと思はねば凡(おほ)にぞ見ける和束杣山(わづかそまやま) 0477 足引の山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が王かも      右ノ三首ハ、二月三日ニ作メル歌。 0478 かけまくも あやに畏し 我が王 皇子の命    物部(もののふ)の 八十伴男(やそとものを)を 召し集へ 率(あども)ひたまひ    朝猟(あさがり)に 鹿猪(しし)踏み起こし 夕猟(ゆふがり)に 鶉雉(とり)踏み立て    大御馬(おほみま)の 口抑へとめ 御心を 見(め)し明らめし    活道(いくぢ)山 木立の繁(しじ)に 咲く花も うつろひにけり    世間(よのなか)は かくのみならし 大夫(ますらを)の 心振り起こし    剣刀(つるぎたち) 腰に取り佩き 梓弓 靫(ゆき)取り負ひて    天地と いや遠長に 万代に かくしもがもと    恃めりし 皇子の御門の 五月蝿(さばへ)なす 騒く舎人は    白栲(しろたへ)に 衣取り着て 常なりし 咲(ゑま)ひ振舞ひ    いや日異に 変らふ見れば 悲しきろかも 反し歌 0479 愛(は)しきかも皇子の命のあり通(がよ)ひ見(め)しし活道の道は荒れにけり 0480 大伴の名に負ふ靫(ゆき)帯びて万代に憑(たの)みし心いづくか寄せむ      右ノ三首ハ、三月二十四日ニ作メル歌。 死(う)せたる妻(め)を悲傷(かなし)み高橋朝臣がよめる歌一首、また短歌 0481 白布(しろたへ)の 袖さし交へて 靡き寝し 我が黒髪の    ま白髪に 変らむ極み 新世(あらたよ)に 共にあらむと    玉の緒の 絶えじい妹と 結びてし 言は果たさず    思へりし 心は遂げず 白布の 手本を別れ    和(にき)びにし 家ゆも出でて 緑児(みどりこ)の 泣くをも置きて    朝霧(あさきり)の 髣髴(おほ)になりつつ 山背(やましろ)の 相楽(さがらか)山の    山際(やまのま)ゆ 往き過ぎぬれば 言はむすべ 為むすべ知らに    我妹子と さ寝し妻屋に 朝庭に 出で立ち偲ひ    夕べには 入り居嘆かひ 脇はさむ 子の泣くごとに    男じもの 負ひみ抱(うだ)きみ 朝鳥の 啼(ね)のみ泣きつつ    恋ふれども 験(しるし)を無みと 言問はぬ ものにはあれど    我妹子が 入りにし山を 縁(よすか)とぞ思ふ 反し歌 0482 うつせみの世のことなれば外(よそ)に見し山をや今は縁(よすか)と思はむ 0483 朝鳥の啼のみし泣かむ我妹子に今また更に逢ふよしを無み      右ノ三首ハ、七月廿日、高橋朝臣ガ作メル歌。 -------------------------------------------------------- .巻第四(よまきにあたるまき) 相聞(したしみうた) 難波天皇(なにはのすめらみこと)の妹(みいも)の、山跡(やまと)に在(いま)す皇兄(すめらみことのいろせのみこと)に奉上(たてまつ)れる御歌一首(ひとつ) 0484 一日こそ人をも待ちし長き日(け)をかくのみ待てば有りかてなくも 岳本天皇(をかもとのすめらみこと)のみよみませる御製歌(おほみうた)一首、また短歌(みじかうた) 0485 神代より 生(あ)れ継ぎ来れば 人さはに 国には満ちて    あぢ群(むら)の 騒きはゆけど 吾(あ)が恋ふる 君にしあらねば    昼は 日の暮るるまで 夜(よる)は 夜(よ)の明くる極み    思ひつつ 寝(いね)かてにのみ 明かしつらくも 長きこの夜を 反し歌 0486 山の端にあぢ群騒き行くなれど吾(あれ)は寂(さぶ)しゑ君にしあらねば 0487 近江路の鳥籠(とこ)の山なる不知哉川(いさやがは)日(け)のこの頃は恋ひつつもあらむ 額田王(ぬかたのおほきみ)の近江天皇を思(しぬ)ひまつりてよみたまへる歌一首 0488 君待つと吾(あ)が恋ひ居れば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く 鏡女王のよみたまへる歌一首 0489 風をだに恋ふるは羨(とも)し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ 吹黄刀自(ふきのとじ)が歌二首 0490 真野(まぬ)の浦の淀の継橋心ゆも思へや妹が夢(いめ)にし見ゆる 0491 河上のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも 田部忌寸櫟子(たべのいみきいちひこ)が太宰(おほみこともちのつかさ)に任(ま)けらるる時の歌四首 0492 衣手に取りとどこほり泣く子にも益れる吾(あれ)を置きて如何にせむ 舎人千年 0493 置きてゆかば妹恋ひむかも敷細(しきたへ)の黒髪敷きて長きこの夜を 田部忌寸櫟子 0494 吾妹子(わぎもこ)を相知らしめし人をこそ恋の増されば恨めしみ思(も)へ 0495 朝日影にほへる山に照る月の飽かざる君を山越しに置きて 柿本朝臣人麻呂が歌四首 0496 み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思(も)へど直(ただ)に逢はぬかも 0497 古にありけむ人も吾(あ)がごとか妹に恋ひつつ寝(いね)かてにけむ 0498 今のみのわざにはあらず古の人ぞ益りて哭(ね)にさへ泣きし 0499 百重にも来及(し)かぬかもと思へかも君が使の見れど飽かざらむ 碁檀越(ごのだむをち)が伊勢国に往く時、留まれる妻(め)がよめる歌一首 0500 神風(かむかぜ)の伊勢の浜荻折り伏せて旅寝や為らむ荒き浜辺に 柿本朝臣人麻呂が歌三首 0501 処女(をとめ)らが袖布留(ふる)山の瑞垣(みづかき)の久しき時ゆ思ひき我は 0502 夏野ゆく牡鹿(をしか)の角(つぬ)の束の間も妹が心を忘れて思(も)へや 0503 織衣(ありきぬ)のさゐさゐしづみ家の妹(も)に物言はず来(き)にて思ひかねつも 柿本朝臣人麻呂が妻(め)の歌一首 0504 君が家(へ)に吾(あ)が住坂の家道をも吾(あれ)は忘らじ命死なずは 安倍女郎(あべのいらつめ)が歌二首 0505 今更に何をか思はむ打ち靡き心は君に寄りにしものを 0506 我が背子は物な思ひそ事しあらば火にも水にも吾(あれ)無けなくに 駿河采女(するがのうねべ)が歌一首 0507 敷細(しきたへ)の枕ゆ漏(くく)る涙にそ浮寝をしける恋の繁きに 三方沙弥(みかたのさみ)が歌一首 0508 衣手の別(わ)かる今宵ゆ妹も吾(あれ)も甚(いた)く恋ひむな逢ふよしを無み 丹比真人笠麻呂が筑紫国に下る時よめる歌一首、また短歌 0509 臣女(おみのめ)の 櫛笥(くしげ)に斎(いつ)く 鏡なす 御津の浜辺に    さ丹頬(にづら)ふ 紐解き放けず 吾妹子(わぎもこ)に 恋ひつつ居れば    明け暮れの 朝霧隠(がく)り 鳴く鶴(たづ)の 哭(ね)のみし泣かゆ    吾(あ)が恋ふる 千重の一重も 慰むる 心も有れやと    家のあたり 吾(あ)が立ち見れば 青旗の 葛城(かつらき)山に    棚引ける 白雲隠り 天ざかる 夷(ひな)の国辺に    直(ただ)向ふ 淡路を過ぎ 粟島を 背向(そがひ)に見つつ    朝凪に 水手(かこ)の声呼び 夕凪に 楫の音(と)しつつ    波の上(へ)を い行きさぐくみ 岩の間を い行き廻(もとほ)り    稲日都麻(いなびつま) 浦廻を過ぎて 鳥じもの なづさひ行けば    家の島 荒磯の上に 打ち靡き 繁(しじ)に生ひたる    名告藻(なのりそ)の などかも妹に 告(の)らず来にけむ 反し歌 0510 白妙の袖解き交へて帰り来む月日を数(よ)みて往きて来(こ)ましを 伊勢国に幸(いでま)せる時、當麻麻呂(たぎまのまろ)の大夫(まへつきみ)が妻(め)のよめる歌一首 0511 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ 草嬢(うかれめ)が歌一首 0512 秋の田の穂田(ほた)の刈りばかか寄り合はばそこもか人の吾(あ)を言成さむ 志貴皇子の御歌一首 0513 大原のこのいつ柴のいつしかと吾(あ)が思(も)ふ妹に今宵逢へかも 阿倍女郎が歌一首 0514 我が背子が着(け)せる衣の針目落ちず入りにけらしな我が心さへ 中臣朝臣東人(あづまひと)が阿倍女郎に贈れる歌一首 0515 独り寝て絶えにし紐を忌々(ゆゆ)しみと為むすべ知らに哭のみしぞ泣く 阿倍女郎が答ふる歌一首 0516 吾(あ)が持たる三筋(みつあひ)に搓れる糸もちて付けてましもの今ぞ悔しき 大納言(おほきものまをしのつかさ)大将軍(おほきいくさのきみ)兼(かけたる)大伴の卿(まへつきみ)の歌一首 0517 神樹(かむき)にも手は触るちふをうつたへに人妻といへば触れぬものかも 石川郎女が歌一首 0518 春日野の山辺の道を随身(よそり)無く通ひし君が見えぬ頃かも 大伴女郎が歌一首 0519 雨障(あまつつ)み常せす君は久かたの昨夜(きそ)の雨に懲りにけむかも 後の人の追ひて和(なぞら)ふる歌一首 0520 久かたの雨も降らぬか雨つつみ君に副(たぐ)ひてこの日暮らさむ 藤原宇合(うまかひ)の大夫が遷任(め)されて京(みやこ)に上る時、常陸娘子(ひたちをとめ)が贈れる歌一首 0521 庭に立ち麻を刈り干し重慕(しきしぬ)ふ東女(あづまをみな)を忘れたまふな 京職大夫(みさとつかさのかみ)藤原の大夫(まへつきみ)が大伴坂上郎女(おほとものさかのへのいらつめ)に賜(おく)れる歌三首 0522 娘子らが玉匣(たまくしげ)なる玉櫛(たまくし)の魂消(け)むも妹に逢はずあれば 0523 よく渡る人は年にもありちふをいつの程そも吾(あ)が恋ひにける 0524 蒸衾(むしぶすま)柔(なこや)が下に臥せれども妹とし寝ねば肌し寒しも 大伴坂上郎女が和(こた)ふる歌四首 0525 佐保川の小石(さざれ)踏み渡りぬば玉の黒馬(くろま)の来(く)夜(よ)は年にもあらぬか 0526 千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし吾(あ)が恋ふらくは 0527 来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを 0528 千鳥鳴く佐保の川門(かはと)の瀬を広み打橋渡す汝(な)が来と思へば      右郎女ハ、佐保大納言卿ノ女ナリ。初メ一品(ヒトツノシナ)      穂積皇子ニ嫁ギ、寵被ルコト儔(タグヒ)無シ。皇子薨(スギマ)      シシ後、藤原麻呂大夫郎女ヲ娉(ツマド)フ。郎女坂上      ノ里ニ家ス。仍レ族氏(ウヂ)ヲ坂上郎女ト号(イ)フナリ。 また大伴坂上郎女が歌一首 0529 佐保川の岸の高処(つかさ)の柴な刈りそね在りつつも春し来たらば立ち隠るがね 天皇の海上女王(うなかみのおほきみ)に賜へる御歌(おほみうた)一首 0530 赤駒の越ゆる馬柵(うませ)の標(しめ)結ひし妹が心は疑ひも無し      右、今案フルニ、此ノ歌擬古ノ作ナリ。但往当      便ヲ以テ斯ノ歌ヲ賜ヘルカ。 海上女王の和(こた)へ奉る歌一首 0531 梓弓爪(つま)ひく夜音(よと)の遠音(とほと)にも君が御言を聞かくしよしも 大伴宿奈麻呂宿禰(おほとものすくなまろのすくね)が歌二首 0532 打日さす宮に行く子をま悲しみ留むは苦し遣るはすべなし 0533 難波潟潮干のなごり飽くまでに人の見む子を吾(あれ)し羨(とも)しも 安貴王(あきのおほきみ)の歌一首、また短歌 0534 遠妻の ここに在らねば 玉ほこの 道をた遠み    思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からぬものを    み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも    明日往きて 妹に言問ひ 吾(あ)が為に 妹も事無く    妹が為 吾(あれ)も事無く 今も見しごと 副(たぐ)ひてもがも 反し歌 0535 敷細(しきたへ)の手枕まかず間置きて年そ経にける逢はなく思(も)へば      右、安貴王、因幡八上釆女ヲ娶リ、係念極テ甚シク、      愛情尤モ盛ナリ。時ニ勅シテ不敬ノ罪ニ断ジ、本郷ニ      退却(シリゾ)ク。是ニ王意悼怛、聊カ此歌ヲ作メリト。 門部王の恋の歌一首 0536 飫宇(おう)の海の潮干の潟の片思(かたもひ)に思ひやゆかむ道の長手を      右、門部王、出雲守ニ任(マケ)ラル時、部内(クヌチ)ノ娘子ヲ娶ル。      未ダ幾時モ有ラズ、既ニ往来絶ユ。累月ノ後、更ニ      愛心ヲ起コス。仍レ此歌ヲ作ミテ娘子ニ贈致(オク)レリ。 高田女王の今城王(いまきのおほきみ)に贈りたまへる歌六首(むつ) 0537 言清く甚(いと)もな言ひそ一日だに君いし無くば忍(しぬ)ひ堪(あ)へぬもの 0538 人言(ひとごと)を繁み言痛(こちた)み逢はざりき心あるごとな思ひ我が背子 0539 我が背子し遂げむと言はば人言は繁くありとも出でて逢はましを 0540 我が背子にまたは逢はじかと思へばか今朝の別れのすべなかりつる 0541 現世(このよ)には人言繁し来生(こむよ)にも逢はむ我が背子今ならずとも 0542 常やまず通ひし君が使ひ来ず今は逢はじと動揺(たゆた)ひぬらし 神亀(じむき)元年(はじめのとし)甲子(きのえね)冬十月(かみなつき)、紀伊国に幸(いでま)せる時、従駕(みとも)の人に贈らむ為、娘子に誂(あつら)へらえて笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌 0543 天皇(おほきみ)の 行幸(いでまし)のまに 物部(もののふ)の 八十伴男(やそとものを)と    出でゆきし 愛(うつく)し夫(つま)は 天(あま)飛ぶや 軽の路より    玉たすき 畝火を見つつ あさもよし 紀路に入り立ち    真土山 越ゆらむ君は 黄葉(もみちば)の 散り飛ぶ見つつ    親しけく 吾(あ)をば思はず 草枕 旅をよろしと    思ひつつ 君はあらむと あそそには かつは知れども    しかすがに 黙(もだ)も得あらねば 我が背子が 行きのまにまに    追はむとは 千たび思へど 手弱女(たわやめ)の 吾(あ)が身にしあれば    道守(みちもり)の 問はむ答を 言ひ遣らむ すべを知らにと 立ちてつまづく 反し歌 0544 後れ居て恋ひつつあらずば紀の国の妹背の山にあらましものを 0545 我が背子が跡踏み求め追ひゆかば紀の関守い留めなむかも 二年(ふたとせといふとし)乙丑(きのとのうし)春三月(やよひ)、三香原(みかのはら)の離宮(とつみや)に幸せる時、娘子を得て、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌 0546 三香の原 旅の宿りに 玉ほこの 道の行き逢ひに    天雲の 外(よそ)のみ見つつ 言問はむ 縁(よし)の無ければ    心のみ 咽せつつあるに 天地の 神事依せて    敷細(しきたへ)の 衣手(ころもて)交(か)へて 己妻(おのつま)と 恃める今宵    秋の夜の 百夜(ももよ)の長さ ありこせぬかも 反し歌 0547 天雲の外に見しより我妹子に心も身さへ寄りにしものを 0548 この夜らの早く明けなばすべを無み秋の百夜を願ひつるかも 五年(いつとせといふとし)戊辰(つちのえたつ)、太宰(おほきみこともち)の少弐(すなきすけ)石川足人(たりひと)の朝臣が遷任(みやこにめ)さるるとき、筑前国(つくしのみちのくちのくに)蘆城(あしき)の駅家(はゆまや)に餞(うまのはなむけ)する歌三首 0549 天地の神も助けよ草枕旅ゆく君が家に至るまで 0550 大船の思ひ頼みし君が去(い)なば吾(あれ)は恋ひむな直(ただ)に逢ふまでに 0551 大和道の島の浦廻に寄する波間(あひだ)も無けむ吾(あ)が恋ひまくは      右の三首(みうた)は、作者未詳(よみひとしらず)。 大伴宿禰三依(みより)が歌一首 0552 我が君はわけをば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜二つゆくらむ 丹生女王(にふのおほきみ)の太宰帥(おほきみこともちのかみ)大伴の卿(まへつきみ)に贈りたまへる歌二首 0553 天雲の遠隔(そくへ)の極み遠けども心し行けば恋ふるものかも 0554 古りにし人の賜(たば)せる吉備の酒病めばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ 太宰帥大伴の卿の大弐(おほきすけ)丹比縣守(たぢひのあがたもり)の卿の民部卿(たみのつかさのかみ)に遷任(め)さるるに歌一首 0555 君がため醸(か)みし待酒(まちさけ)安の野に独りや飲まむ友無しにして 賀茂女王(かものおほきみ)の大伴宿禰三依に贈りたまへる歌一首 0556 筑紫船いまだも来ねば予め荒ぶる君を見むが悲しさ 土師宿禰水道(はにしのすくねみみち)が筑紫より京に上る海路(うみつぢ)にてよめる歌二首 0557 大船を榜ぎの進みに岩に触(ふ)り覆(かへ)らば覆れ妹に因りてば 0558 ちはやぶる神の社(やしろ)に吾(あ)が懸けし幣(ぬさ)は賜(たば)らむ妹に逢はなくに 太宰の大監(おほきまつりごとひと)大伴宿禰百代が恋の歌四首 0559 事もなく生(あ)れ来(こ)しものを老次(おいなみ)にかかる恋にも吾(あれ)は逢へるかも 0560 恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ妹を見まく欲りすれ 0561 思はぬを思ふと言はば大野なる三笠の杜の神し知らさむ 0562 暇(いとま)無く人の眉根(まよね)を徒(いたづら)に掻かしめつつも逢はぬ妹かも 大伴坂上郎女が歌二首 0563 黒髪に白髪(しろかみ)交り老ゆまでにかかる恋には未だ逢はなくに 0564 山菅の実ならぬことを我に寄せ言はれし君は誰(たれ)とか寝(ぬ)らむ 賀茂女王の歌一首 0565 大伴の見つとは言はじ茜さし照れる月夜(つくよ)に直に逢へりとも 太宰の大監大伴宿禰百代等が駅使(はゆまつかひ)に贈れる歌二首 0566 草枕旅ゆく君を愛(うつく)しみ副(たぐ)ひてぞ来し志賀(しか)の浜辺を      右の一首(ひとうた)は、大監大伴宿禰百代。 0567 周防(すはう)なる磐國山を越えむ日は手向(たむけ)よくせよ荒きその道      右の一首は、少典(すなきふみひと)山口忌寸若麻呂。      以前天平二年庚午夏六月、帥大伴卿、忽ニ瘡ヲ      脚ニ生シ、枕席ニ疾苦ス。此ニ因テ駅ヲ馳セテ      上奏シ、庶弟稲公、姪胡麻呂ニ遺言ヲ語ラムコ      トヲ望請フ。右兵庫助大伴宿禰稲公、治部少丞      大伴宿禰胡麻呂ノ両人ニ勅シテ、駅ヲ給ヒ発遣      シ、卿ノ病ヲ看シム。数旬ヲ逕テ幸ニ平復ヲ得。      時ニ稲公等病既ニ療タルヲ以テ、府ヲ発チ京ニ      上ル。是ニ大監大伴宿禰百代、少典山口忌寸若      麻呂、及ビ卿ノ男家持等、駅使ヲ相送ル。共ニ      夷守ノ駅家ニ到リ、聊カ飲シテ別ヲ悲シム。乃      チ此歌ヲ作メリ。 太宰帥大伴の卿の大納言(おほきものまをしのつかさ)に任(め)され、京に入らむとする時、府官人(つかさひと)等、卿を筑前国蘆城駅家に餞する歌四首 0568 み崎廻(み)の荒磯(ありそ)に寄する五百重(いほへ)波立ちても居ても我が思(も)へる君      右の一首は、筑前の掾(まつりごとひと)門部連(かどべのむらじ)石足(いそたり)。 0569 宮人の衣染むとふ紫の心に染みて思ほゆるかも 0570 大和方(へ)に君が発つ日の近づけば野に立つ鹿も動(どよ)みてぞ鳴く      右の二首は、大典(おほきふみひと)麻田連陽春(あさだのむらじやす)。 0571 月夜よし川音(かはと)清けしいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ      右の一首は、防人佑(さきもりのまつりごとひと)大伴四綱(よつな)。 太宰帥大伴の卿の京に上りたまへる後、沙弥満誓(さみのまむぜい)が卿に贈れる歌二首 0572 真澄鏡(まそかがみ)見飽かぬ君に後れてや朝(あした)夕べに寂(さ)びつつ居らむ 0573 ぬば玉の黒髪変り白けても痛き恋には逢ふ時ありけり 大納言大伴の卿の和(こた)へたまへる歌二首 0574 ここに在りて筑紫やいづく白雲の棚引く山の方にしあるらし 0575 草香江の入江にあさる葦鶴(あしたづ)のあなたづたづし友無しにして 太宰帥大伴の卿の京に上りたまひし後、筑後守(つくしのみちのしりのかみ)葛井連大成(ふぢゐのむらじおほなり)が悲嘆(なげ)きてよめる歌一首 0576 今よりは城(き)の山道は寂(さぶ)しけむ吾(あ)が通はむと思ひしものを 大納言大伴の卿の、新しき袍(うへのきぬ)を攝津大夫(つすぶるかみ)高安王に贈りたまへる歌一首 0577 我が衣人にな着せそ網引(あびき)する難波壮士(なにはをとこ)の手には触れれど 大伴宿禰三依が悲別(わかれ)の歌一首 0578 天地と共に久しく住まはむと思ひてありし家の庭はも 金明軍(こむのみやうぐむ)が大伴宿禰家持に与(たてまつ)れる歌二首 0579 見まつりて未だ時だに変らねば年月のごと思ほゆる君 0580 足引の山に生ひたる菅(すが)の根のねもごろ見まく欲しき君かも 大伴坂上(おほとものさかのへ)の家の大娘(おほいらつめ)が大伴宿禰家持に報(こた)へ贈れる歌四首 0581 生きてあらば見まくも知らに何しかも死なむよ妹と夢に見えつる 0582 丈夫(ますらを)もかく恋ひけるを幼婦(たわやめ)の恋ふる心に比(たぐ)へらめやも 0583 月草の移ろひやすく思へかも吾(あ)が思(も)ふ人の言も告げ来ぬ 0584 春日山朝立つ雲の居ぬ日なく見まくの欲しき君にもあるかも 大伴坂上郎女が歌一首 0585 出でて去(い)なむ時しはあらむを殊更に妻恋しつつ立ちて去ぬべしや 大伴宿禰稲公が田村大嬢に贈れる歌一首 0586 相見ずは恋ひざらましを妹を見てもとなかくのみ恋ひは如何にせむ      右、一云(あるはいふ)、姉坂上郎女がよめる。 笠女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌廿四首(はたちまりよつ) 0587 我が形見見つつ偲はせ荒玉の年の緒長く我も偲はむ 0588 白鳥の飛羽(とば)山松の待ちつつぞ吾(あ)が恋ひ渡るこの月ごろを 0589 衣手を折り廻(た)む里にある吾(あれ)を知らずぞ人は待てど来ずける 0590 あら玉の年の経ぬれば今しはとゆめよ我が背子我が名告(の)らすな 0591 我が思ひを人に知らせや玉くしげ開きあけつと夢(いめ)にし見ゆる 0592 闇の夜に鳴くなる鶴(たづ)の外(よそ)のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに 0593 君に恋ひ甚(いた)もすべ無み奈良山の小松がもとに立ち嘆くかも 0594 我が屋戸の夕蔭草(ゆふかげくさ)の白露の消(け)ぬがにもとな思ほゆるかも 0595 我が命の全(また)けむ限り忘れめやいや日に異(け)には思ひ増すとも 0596 八百日(やほか)往く浜の真砂(まなご)も吾(あ)が恋にあに勝らじか沖つ島守 0597 うつせみの人目を繁み石橋(いはばし)の間近き君に恋ひ渡るかも 0598 恋にもぞ人は死にする水無瀬川(みなせがは)下ゆ我痩す月に日に異(け)に 0599 朝霧の鬱(おほ)に相見し人故に命死ぬべく恋ひ渡るかも 0600 伊勢の海の磯もとどろに寄する波畏き人に恋ひ渡るかも 0601 心ゆも吾(あ)は思(も)はざりき山河も隔たらなくにかく恋ひむとは 0602 夕されば物思(も)ひ増さる見し人の言問ふ姿面影にして 0603 思ふにし死にするものにあらませば千たびぞ我は死に還らまし 0604 剣太刀(つるぎたち)身に取り添ふと夢に見つ何の徴(しるし)そも君に逢はむため 0605 天地の神し理(ことわり)無くばこそ我が思(も)ふ君に逢はず死にせめ 0606 我も思ふ人もな忘れ多奈和丹浦吹く風のやむ時無かれ 0607 人皆を寝よとの鐘は打つなれど君をし思(も)へば眠(い)ねがてぬかも 0608 相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後(しりへ)に額(ぬか)づく如し 0609 心ゆも我(あ)は思(も)はざりき又更に我が故郷に還り来むとは 0610 近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかてましも      右の二首は、相別(わか)れて後また来贈(おく)れるなり。 大伴宿禰家持が和ふる歌二首 0611 今更に妹に逢はめやと思へかもここだ我が胸欝悒(おほほ)しからむ 0612 中々に黙(もだ)もあらましを何すとか相見始(そ)めけむ遂げざらなくに 山口女王の大伴宿禰家持に贈りたまへる歌五首 0613 物思(も)ふと人に見えじと生強(なましひ)に常に思へど有りそかねつる 0614 相思はぬ人をやもとな白妙の袖漬(ひ)づまでに哭のみし泣かも 0615 我が背子は相思(も)はずとも敷細(しきたへ)の君が枕は夢に見えこそ 0616 剣太刀名の惜しけくも吾(あれ)はなし君に逢はずて年の経ぬれば 0617 葦辺より満ち来る潮のいや増しに思へか君が忘れかねつる 大神郎女(おほみわのいらつめ)が大伴宿禰家持に贈れる歌一首 0618 さ夜中に友呼ぶ千鳥物思(も)ふと侘び居る時に鳴きつつもとな 大伴坂上郎女が怨恨(うらみ)の歌一首、また短歌 0619 押し照る 難波の菅の ねもころに 君が聞こして    年深く 長くし言へば 真澄鏡 磨(と)ぎし心を    縦(ゆる)してし その日の極み 波の共(むた) 靡く玉藻の    かにかくに 心は持たず 大船の 頼める時に    ちはやぶる 神や離(さ)けけむ うつせみの 人か障(さ)ふらむ    通はしし 君も来まさず 玉づさの 使も見えず    なりぬれば 甚(いた)もすべ無み ぬば玉の 夜はすがらに    赤ら引く 日も暮るるまで 嘆けども 験(しるし)を無み    思へども たつきを知らに 幼婦(たわやめ)と 言はくも著(しる)く    小童(たわらは)の 哭のみ泣きつつ 徘徊(たもとほ)り 君が使を 待ちやかねてむ 反し歌 0620 初めより長く言ひつつ恃めずはかかる思ひに逢はましものか 西海道(にしのうみつぢ)の節度使(せどし)の判官(まつりごとひと)佐伯宿禰東人(あづまひと)の妻(め)が夫(せ)の君に贈れる歌一首 0621 間無く恋ふれにかあらむ草枕旅なる君が夢にし見ゆる 佐伯宿禰東人が和ふる歌一首 0622 草枕旅に久しく成りぬれば汝(な)をこそ思へな恋ひそ我妹(わぎも) 池邊王(いけべのおほきみ)の宴に誦(うた)ひたまへる歌一首 0623 松の葉に月は移(ゆつ)りぬ黄葉(もみちば)の過ぎしや君が逢はぬ夜多み 天皇(すめらみこと)の酒人女王(さかひとのおほきみ)を思(しぬ)はしてみよみませる御製歌(おほみうた)一首 0624 道に逢ひて笑まししからに降る雪の消(け)なば消ぬがに恋ひ思(も)ふ我妹 高安王の、裹(つつ)める鮒を娘子に贈りたまへる歌一首 0625 沖辺ゆき辺にゆき今や妹がため我が漁(すなど)れる藻臥(もふし)束鮒(つかふな) 八代女王(やしろのおほきみ)の天皇に献らせる歌一首 0626 君により言の繁きを故郷の明日香の川に禊ぎしにゆく 佐伯宿禰赤麻呂が娘子に贈れる歌一首 0630 初花の散るべきものを人言の繁きによりて澱む頃かも 娘子が佐伯宿禰赤麻呂に報贈(こた)ふる歌一首 0627 我が手本(たもと)まかむと思(も)はむ大夫(ますらを)は恋水(なみだ)に沈み白髪生ひにけり 佐伯宿禰赤麻呂が和ふる歌一首 0628 白髪生ふることは思はじ恋水(なみだ)をばかにもかくにも求めて行かむ 大伴四綱が宴席(うたげ)の歌一首 0629 何すとか使の来たる君をこそかにもかくにも待ち難(か)てにすれ 湯原王の娘子に贈りたまへる歌二首 0631 愛想(うはへ)なき物かも人は然(しか)ばかり遠き家路を帰せし思へば 0632 目には見て手には取らえぬ月内(つきぬち)の楓(かつら)のごとき妹をいかにせむ 娘子が報贈(こた)ふる歌二首 0633 いかばかり思ひけめかも敷細(しきたへ)の枕片去る夢に見え来し 0634 家にして見れど飽かぬを草枕旅にも夫(つま)のあるが羨(とも)しさ 湯原王のまた贈(たま)へる歌二首 0635 草枕旅には妻は率(ゐ)たらめど櫛笥(くしげ)の内の珠とこそ思へ 0636 我が衣形見に奉(まつ)る敷細の枕離(か)らさず巻きてさ寝ませ 娘子がまた報贈ふる歌一首 0637 我が背子が形見の衣嬬問(つまどひ)に我が身は離(さ)けじ言問はずとも 湯原王のまた贈へる歌一首 0638 ただ一夜隔てしからに荒玉の月か経ぬると思ほゆるかも 娘子がまた報贈ふる歌一首 0639 我が背子がかく恋ふれこそぬば玉の夢に見えつつ寐ねらえずけれ 湯原王のまた贈へる歌一首 0640 愛(は)しけやし間近き里を雲居にや恋ひつつ居らむ月も経なくに 娘子がまた報贈ふる和歌(うた)一首 0641 絶ゆと言はば侘しみせむと焼大刀(やきたち)の諂(へつか)ふことは辛(から)しや吾君(わぎみ) 湯原王の歌一首 0642 吾妹子(わぎもこ)に恋ひて乱れば反転(くるべき)に懸けて寄さむと吾(あ)が恋ひそめし 紀郎女が怨恨(うらみ)の歌三首 0643 世間(よのなか)の女(め)にしあらば直(ただ)渡り痛背(あなし)の川を渡りかねめや 0644 今は吾(あ)は侘びそしにける生(いき)の緒に思ひし君を縦(ゆる)さく思(も)へば 0645 白妙の袖別るべき日を近み心に咽び哭のみし泣かゆ 大伴宿禰駿河麻呂が歌一首 0646 丈夫の思ひ侘びつつ遍多(たびまね)く嘆く嘆きを負はぬものかも 大伴坂上郎女が歌一首 0647 心には忘るる日無く思へども人の言こそ繁き君にあれ 大伴宿禰駿河麻呂が歌一首 0648 相見ずて日(け)長くなりぬこの頃はいかに幸(さき)くや欝悒(いふ)かし我妹 大伴坂上郎女が歌一首 0649 延(は)ふ葛の絶えぬ使の澱めれば事しもあるごと思ひつるかも      右、坂上郎女ハ、佐保大納言卿ノ女ナリ。      駿河麻呂ハ、此ノ高市大卿ノ孫ナリ。両卿      ハ兄弟ノ家、女孫姑姪ノ族ナリ。是ヲ以テ      歌ヲ題シ送リ答ヘ、起居ヲ相問フ。 大伴宿禰三依が離(わか)れてまた相(あ)へるを歓ぶ歌一首 0650 我妹子は常世の国に住みけらし昔見しより変若(をち)ましにけり 大伴坂上郎女が歌二首 0651 久かたの天の露霜置きにけり家なる人も待ち恋ひぬらむ 0652 玉主(たまもり)に珠は授けて且々(かつがつ)も枕と我はいざ二人寝む 大伴宿禰駿河麻呂が歌三首 0653 心には忘れぬものを偶々も見ぬ日さまねく月ぞ経にける 0654 相見ては月も経なくに恋ふと言はば虚言(をそろ)と吾(あれ)を思ほさむかも 0655 思はぬを思ふと言はば天地の神も知らさむ邑礼左変 大伴坂上郎女が歌六首 0656 吾(あれ)のみぞ君には恋ふる我が背子が恋ふとふことは言のなぐさぞ 0657 思はじと言ひてしものを唐棣(はねず)色の移ろひやすき我が心かも 0658 思へども験もなしと知るものを如何でここだく吾(あ)が恋ひ渡る 0659 予め人言繁しかくしあらばしゑや我が背子奥も如何にあらめ 0660 汝(な)をと吾(あ)を人そ離(さ)くなるいで吾君(わぎみ)人の中言聞きこすなゆめ 0661 恋ひ恋ひて逢へる時だに愛(うるは)しき言尽してよ長しと思(も)はば 市原王の歌一首 0662 網児(あご)の山五百重(いほへ)隠せる佐堤(さて)の崎小網(さで)延(は)へし子が夢にし見ゆる 安都宿禰年足(あとのすくねとしたり)が歌一首 0663 佐保渡り我家(わぎへ)の上に鳴く鳥の声なつかしき愛(は)しき妻の子 大伴宿禰像見(かたみ)が歌一首 0664 石上(いそのかみ)降るとも雨に障(つつ)まめや妹に逢はむと言ひてしものを 安倍朝臣蟲麻呂が歌一首 0665 向ひ居て見れども飽かぬ我妹子に立ち別れゆかむたづき知らずも 大伴坂上郎女が歌二首 0666 相見ずて幾許(いくばく)久もあらなくにここだく吾(あれ)は恋ひつつもあるか 0667 恋ひ恋ひて逢ひたるものを月しあれば夜は隠(こも)るらむ暫(しま)しはあり待て      右、大伴坂上郎女ガ母石川内命婦ト、安倍朝臣      蟲滿ガ母安曇外命婦トハ、同居ノ姉妹、同気ノ      親(ハラカラ)ナリ。此ニ縁テ郎女ト蟲滿ト、相見ルコト      踈カラズ、相談ラフコト既ニ密ナリ。聊カ戯歌      ヲ作ミテ以テ問答ヲ為ス。 厚見王の歌一首 0668 朝に日に色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに 春日王の歌一首 0669 足引の山橘の色に出でて語らば継ぎて逢ふこともあらむ 娘子が湯原王に贈れる歌一首 0670 月読(つくよみ)の光に来ませ足引の山を隔てて遠からなくに 湯原王の和へたまへる歌一首 0671 月読の光は清く照らせれど惑へる心堪へじとぞ思(も)ふ 安倍朝臣蟲麻呂が歌一首 0672 しづたまき数にもあらぬ我が身もち如何でここだく吾(あ)が恋ひ渡る 大伴坂上郎女が歌二首 0673 真澄鏡(まそかがみ)磨(と)ぎし心を縦(ゆる)してば後に言ふとも験あらめやも 0674 真玉つく彼此(をちこち)兼ねて言ひは言へど逢ひて後こそ悔はありといへ 中臣女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌五首 0675 をみなへし佐紀沢に生ふる花かつみ嘗ても知らぬ恋もするかも 0676 海(わた)の底奥(おき)を深めて我が思(も)へる君には逢はむ年は経ぬとも 0677 春日山朝居る雲の鬱(おほほ)しく知らぬ人にも恋ふるものかも 0678 直(ただ)に逢ひて見てばのみこそ玉きはる命に向ふ吾(あ)が恋やまめ 0679 いなと言はば強ひめや我が背菅の根の思ひ乱れて恋ひつつもあらむ 大伴宿禰家持が交遊(とも)と久しく別るる歌三首 0680 けだしくも人の中言聞かせかもここだく待てど君が来まさぬ 0681 中々に絶ゆとし言はばかくばかり生(いき)の緒にして吾(あ)が恋ひめやも 0682 思ふらむ人にあらなくにねもごろに心尽して恋ふる我かも 大伴坂上郎女が歌七首 0683 物言ひの畏き国ぞ紅の色にな出でそ思ひ死ぬとも 0684 今は吾(あ)は死なむよ我が背生けりとも我に依るべしと言ふと言はなくに 0685 人言を繁みや君を二鞘の家を隔てて恋ひつつ居らむ 0686 この頃は千歳や行きも過ぎにしと我やしか思(も)ふ見まく欲りかも 0687 うるはしと吾(あ)が思(も)ふ心速川の塞(せき)は塞(せ)くとも猶や崩(く)えなむ 0688 青山を横ぎる雲のいちしろく我と笑まして人に知らゆな 0689 海山も隔たらなくに何しかも目言をだにもここだ乏しき 大伴宿禰三依が悲別(わかれ)の歌一首 0690 照らす日を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人無しに 大伴宿禰家持が娘子に贈れる歌二首 0691 ももしきの大宮人は多けども心に乗りて思ほゆる妹 0692 愛想(うはへ)無き妹にもあるかもかく許り人の心を尽せる思(も)へば 大伴宿禰千室(ちむろ)が歌一首 0693 かくのみに恋ひやわたらむ秋津野に棚引く雲の過ぐとはなしに 廣河女王の歌二首 0694 恋草を力車に七車積みて恋ふらく我が心から 0695 恋は今はあらじと吾(あれ)は思へるをいづくの恋ぞつかみかかれる 石川朝臣廣成が歌一首 0696 家人に恋過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば 大伴宿禰像見が歌三首 0697 吾(あ)が聞きに懸けてな言ひそ刈薦(かりこも)の乱れて思ふ君が直香(ただか)ぞ 0698 春日野に朝居る雲のしくしくに吾(あ)は恋ひ増さる月に日に異(け)に 0699 一瀬には千たび障(さや)らひ逝く水の後にも逢はむ今ならずとも 大伴宿禰家持が娘子の門に到りてよめる歌一首 0700 かくしてや猶や罷らむ近からぬ道の間をなづみ参(まゐ)来て 河内百枝娘子(かふちのももえをとめ)が大伴宿禰家持に贈れる歌二首 0701 はつはつに人を相見て如何にあらむいづれの日にかまた外(よそ)に見む 0702 ぬば玉のその夜の月夜今日までに吾(あれ)は忘れず間無くし思(も)へば 巫部麻蘇娘子(かむこべのまそをとめ)が歌二首 0703 我が背子を相見しその日今日までに我が衣手は乾(ひ)る時もなし 0704 栲縄(たくなは)の長き命を欲しけくは絶えずて人を見まく欲りこそ 大伴宿禰家持が童女(をとめ)に贈れる歌一首 0705 葉根蘰(はねかづら)今せす妹を夢に見て心の内に恋ひ渡るかも 童女が来報(こた)ふる歌一首 0706 葉根蘰今せる妹は無きものをいづれの妹ぞここだ恋ひたる 粟田娘子(あはたのをとめ)が大伴宿禰家持に贈れる歌二首 0707 思ひ遣るすべの知らねば片椀(かたもひ)の底にぞ吾(あれ)は恋ひ成りにける 0708 またも逢はむよしもあらぬか白妙の我が衣手に斎(いは)ひ留めむ 豊前国(とよくにのみちのくち)の娘子大宅女(おほやけめ)が歌一首 0709 夕闇は道たづたづし月待ちて行(い)ませ我が背子その間にも見む 安都扉娘子(あとのとびらのをとめ)が歌一首 0710 み空行く月の光にただ一目相見し人の夢にし見ゆる 丹波大女娘子(たにはのおほめをとめ)が歌三首 0711 鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉散りて浮かべる心吾(あ)が思(も)はなくに 0712 味酒(うまさけ)を三輪の祝(はふり)が斎(いは)ふ杉手触りし罪か君に逢ひ難き 0713 垣穂なす人言聞きて我が背子が心たゆたひ逢はぬこの頃 大伴宿禰家持が娘子に贈れる歌七首 0714 心には思ひ渡れどよしをなみ外のみにして嘆きぞ吾(あ)がする 0715 千鳥鳴く佐保の川門(かはと)の清き瀬を馬うち渡しいつか通はむ 0716 夜昼といふ別(わき)知らに吾(あ)が恋ふる心はけだし夢に見えきや 0717 つれもなくあるらむ人を片思(かたもひ)に吾(あれ)は思へば惑(めぐ)しくもあるか 0718 思はぬに妹が笑まひを夢に見て心の内に燃えつつぞ居る 0719 丈夫と思へる吾(あれ)をかくばかりみつれにみつれ片思をせむ 0720 むら肝の心砕けてかくばかり吾(あ)が恋ふらくを知らずかあるらむ 天皇(すめらみこと)に献れる歌一首 0721 足引の山にし居れば風流(みさを)無み我がせるわざを咎め給ふな 大伴宿禰家持が歌一首 0722 かくばかり恋ひつつあらずば石木(いはき)にも成らましものを物思(も)はずして 大伴坂上郎女が跡見(とみ)の庄(たどころ)より、宅に留まれる女子(むすめ)の大嬢(おほいらつめ)に贈れる歌一首、また短歌 0723 常世にと 吾(あ)が行かなくに 小金門(をかなと)に 物悲しらに    思へりし 我が子の刀自を ぬば玉の 夜昼といはず    思ふにし 我が身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ    かくばかり もとなし恋ひば 古里に この月ごろも 有りかてましを 反し歌 0724 朝髪の思ひ乱れてかくばかり汝姉(なね)が恋ふれそ夢に見えける 天皇に献れる歌二首 0725 にほ鳥の潜く池水心あらば君に吾(あ)が恋ふる心示さね 0726 外(よそ)に居て恋ひつつあらずば君が家(へ)の池に住むとふ鴨にあらましを 大伴宿禰家持が坂上の家の大嬢に贈れる歌二首 離リ絶エタルコト数年、復会ヒテ相聞往来ス。 0727 忘れ草吾(あ)が下紐に付けたれど醜(しこ)の醜草言にしありけり 0728 人も無き国もあらぬか我妹子と携さひ行きて副(たぐ)ひて居らむ 大伴坂上大嬢が大伴宿禰家持に贈れる歌三首 0729 玉ならば手にも巻かむをうつせみの世の人なれば手に巻き難し 0730 逢はむ夜はいつもあらむを何すとかその宵逢ひて言の繁きも 0731 吾(あ)が名はも千名(ちな)の五百名(いほな)に立ちぬとも君が名立てば惜しみこそ泣け また大伴宿禰家持が和ふる歌三首 0732 今しはし名の惜しけくも吾(あれ)はなし妹によりてば千たび立つとも 0733 空蝉の世やも二(ふた)ゆく何すとか妹に逢はずて吾(あ)が独り寝む 0734 吾(あ)が思ひかくてあらずば玉にもが真も妹が手に巻かれなむ 同(おや)じ坂上大嬢が家持に贈れる歌一首 0735 春日山霞たな引き心ぐく照れる月夜に独りかも寝む また家持が坂上大嬢に和ふる歌一首 0736 月夜には門に出で立ち夕占(ゆふけ)問ひ足占(あうら)をぞせし行かまくを欲(ほ)り 同じ大嬢が家持に贈れる歌二首 0737 かにかくに人は言ふとも若狭道の後瀬(のちせ)の山の後も逢はむ君 0738 世の中の苦しきものにありけらく恋に堪へずて死ぬべき思(も)へば また家持が坂上大嬢に和ふる歌二首 0739 後瀬山後も逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日までも生けれ 0740 言のみを後も逢はむとねもころに吾(あれ)を頼めて逢はぬ妹かも また大伴宿禰家持が坂上大嬢に贈れる歌十五首(とをあまりいつつ) 0741 夢の逢ひは苦しかりけり覚(おどろ)きて掻き探れども手にも触れねば 0742 一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべく吾(あ)が身はなりぬ 0743 吾(あ)が恋は千引(ちびき)の石(いは)を七ばかり首に懸けむも神のまにまに 0744 夕さらば屋戸開け設(ま)けて吾(あれ)待たむ夢に相見に来むといふ人を 0745 朝宵に見む時さへや我妹子が見とも見ぬごとなほ恋しけむ 0746 生ける世に吾(あ)はいまだ見ず言絶えてかくおもしろく縫へる袋は 0747 我妹子が形見の衣下に着て直に逢ふまでは吾(あれ)脱かめやも 0748 恋ひ死なむそこも同(おや)じぞ何せむに人目人言辞痛(こちた)み吾(あ)がせむ 0749 夢にだに見えばこそあれかくばかり見えずてあるは恋ひて死ねとか 0750 思ひ絶え侘びにしものを中々に如何で苦しく相見そめけむ 0751 相見ては幾日(いくか)も経ぬを幾許(ここだ)くも狂ひに狂ひ思ほゆるかも 0752 かくばかり面影にのみ思ほえば如何にかもせむ人目繁くて 0753 相見てば暫(しま)しく恋はなぎむかと思へどいよよ恋ひ増さりけり 0754 夜のほどろ吾(あ)が出(で)て来れば我妹子が思へりしくし面影に見ゆ 0755 夜のほどろ出でつつ来らく度多(たびまね)くなれば吾(あ)が胸断ち焼くごとし 大伴の田村の家の大嬢が妹坂上大嬢に贈れる歌四首 0756 外(よそ)に居て恋ふれば苦し我妹子を継ぎて相見む事計(ことはかり)せよ 0757 遠からば侘びてもあらむ里近くありと聞きつつ見ぬがすべ無さ 0758 白雲の棚引く山の高々に吾(あ)が思(も)ふ妹を見むよしもがも 0759 如何にあらむ時にか妹を葎生(むぐらふ)の穢(いや)しき屋戸に入り座(いま)せなむ      右、田村大嬢ト坂上大嬢ト、并ニ右大弁大伴      宿奈麻呂卿ノ女ナリ。卿田村ノ里ニ居レバ、      田村大嬢ト号曰ク。但シ妹坂上大嬢ハ、母坂      上ノ里ニ居ル、仍テ坂上大嬢ト曰フ。時ニ姉      妹、諮問(トブラ)ヒテ歌ヲ以テ贈答ス。 大伴坂上郎女が竹田の庄(たどころ)より女子(むすめ)の大嬢に贈れる歌二首 0760 打ち渡す竹田の原に鳴く鶴(たづ)の間なく時なし吾(あ)が恋ふらくは 0761 早川の瀬に居る鳥の縁(よし)を無み思ひてありし吾(あ)が子はも鳴呼(あはれ) 紀女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌二首 女郎、名ヲ小鹿(ヲシカ)ト曰フ 0762 神さぶと否(いな)にはあらずはたやはたかくして後に寂(さぶ)しけむかも 0763 玉の緒を沫緒(あわを)に搓りて結べれば在りて後にも逢はざらめやも 大伴宿禰家持が和ふる歌一首 0764 百年(ももとせ)に老舌(おいした)出でてよよむとも吾(あれ)は厭はじ恋は増すとも 久迩(くに)の京(みやこ)に在りて、寧樂の宅(いへ)に留まれる坂上大嬢を思(しぬ)ひて、大伴宿禰家持がよめる歌一首 0765 一重山隔(へな)れるものを月夜よみ門に出で立ち妹か待つらむ 藤原郎女がこの歌を聞き、即和(こた)ふる歌一首 0766 路遠み来じとは知れるものからに然(しか)ぞ待つらむ君が目を欲り 大伴宿禰家持がまた大嬢に贈れる歌二首 0767 都路を遠みか妹がこの頃は祈(うけ)ひて寝(ぬ)れど夢に見え来ぬ 0768 今知らす久迩の都に妹に逢はず久しくなりぬ行きて早見な 大伴宿禰家持が紀女郎に報贈(こた)ふる歌一首 0769 久かたの雨の降る日を唯独り山辺に居れば鬱(いふせ)かりけり 大伴宿禰家持が久迩の京より坂上大嬢に贈れる歌五首 0770 人目多み逢はなくのみそ心さへ妹を忘れて吾(あ)が思(も)はなくに 0771 偽りも似つきてそする顕(うつ)しくもまこと我妹子吾(あれ)に恋ひめや 0772 夢にだに見えむと吾(あれ)は祈(うけ)へども相思(も)はざればうべ見えざらむ 0773 言問はぬ木すらあじさゐ諸茅(もろち)らが練のむらとにあざむかえけり 0774 百千遍(ももちたび)恋ふと言ふとも諸茅らが練の詞(ことば)し吾(あれ)は頼まじ 大伴宿禰家持が紀女郎に贈れる歌一首 0775 鶉鳴く古りにし里ゆ思へども何そも妹に逢ふよしも無き 紀女郎が家持に報贈ふる歌一首 0776 言出(ことで)しは誰が言なるか小山田の苗代水の中淀にして 大伴宿禰家持がまた紀女郎に贈れる歌五首 0777 我妹子が屋戸の籬(まがき)を見に行かばけだし門より帰しなむかも 0778 うつたへに籬の姿見まく欲り行かむと言へや君を見にこそ 0779 板葺(いたふき)の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ち参り来む 0780 黒木取り草も刈りつつ仕へめど勤(いそ)しき汝(わけ)と誉めむともあらじ 0781 ぬば玉の昨夜(きそ)は帰しつ今宵さへ吾(あれ)を帰すな路の長手を 紀女郎が裹物(つと)を友に贈れる歌一首 女郎、名ヲ小鹿ト曰フ 0782 風高く辺(へ)には吹けれど妹がため袖さへ濡れて刈れる玉藻そ 大伴宿禰家持が娘子に贈れる歌三首 0783 一昨年の先つ年より今年まで恋ふれどなそも妹に逢ひ難き 0784 現(うつつ)には更にも得言はじ夢にだに妹が手本を巻き寝(ぬ)とし見ば 0785 我が屋戸の草の上(へ)白く置く露の命も惜しからず妹に逢はざれば 大伴宿禰家持が藤原朝臣久須麻呂に報贈(おく)れる歌三首 0786 春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも 0787 夢のごと思ほゆるかも愛(は)しきやし君が使の数多(まね)く通へば 0788 うら若み花咲き難き梅を植ゑて人の言しげみ思ひそ吾(あ)がする また家持が藤原朝臣久須麻呂に贈れる歌二首 0789 心ぐく思ほゆるかも春霞たな引く時に言の通へば 0790 春風の音にし出なば在りさりて今ならずとも君がまにまに 藤原朝臣久須麻呂が来報(こた)ふる歌二首 0791 奥山の岩蔭に生ふる菅の根のねもごろ我も相思(も)はざれや 0792 春雨を待つとにしあらし我が屋戸の若木の梅もいまだ含(ふふ)めり -------------------------------------------------------- .巻第五(いつまきにあたるまき) 雑歌(くさぐさのうた) 太宰帥(おほみこともちのかみ)大伴の卿(まへつきみ)の凶問に報へたまふ歌一首(ひとつ)、また序 禍故重畳(かさな)り、凶問累(しき)りに集まる。永(ひたぶる)に心を崩す悲しみを懐き、独り腸を断つ泣(なみだ)を流す。但両君の大助に依りて傾命纔(わづか)に継ぐのみ。筆言を尽さず。古今歎く所なり。 0793 世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり      神亀(じむき)五年(いつとせといふとし)六月(みなつき)の二十三日(はつかまりみかのひ)。 筑前守(つくしのみちのくちのかみ)山上臣憶良(やまのへのおみおくら)が亡(みまか)れる妻(め)を悲傷(かな)しめる詩(からうた)一首、また序 盖し聞く、四生の起滅は、夢に方(あた)りて皆空なり。三界の漂流は、環の息まざるに喩ふ。所以に維摩大士は方丈に在りて、疾に染む患(うれひ)を懐くこと有り。釋迦能仁は双林に坐し、泥(ない)オンの苦を免るること無しと。故に知る、二聖至極すら、力負の尋(つ)ぎて至るを払ふこと能はず。三千世界、誰か能く黒闇の捜り来たるを逃れむ。二鼠(にそ)競ひ走りて、目を度(わた)る鳥旦(あした)に飛び、四蛇争ひ侵して、隙を過ぐる駒夕に走る。嗟乎(ああ)痛きかな。紅顏三従と共に長逝し、素質四徳と与(とも)に永滅す。何そ図らむ、偕老要期に違ひ、独飛半路に生ぜむとは。蘭室の屏風徒らに張り、断腸の哀しみ弥よ痛し。枕頭の明鏡空しく懸かり、染ヰンの涙逾よ落つ。泉門一掩すれば、再見に由無し。嗚呼哀しきかな。    愛河の波浪已く先づ滅び    苦海の煩悩また結ぶこと無し    従来此の穢土を厭離す    本願生を彼の浄刹に託せむ 日本挽歌(かなしみのやまとうた)一首、また短歌(みじかうた) 0794 大王(おほきみ)の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫(つくし)の国に    泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず    年月も 幾だもあらねば 心ゆも 思はぬ間に    打ち靡き 臥(こ)やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに    岩木をも 問ひ放け知らず 家ならば 形はあらむを    恨めしき 妹の命の 吾(あれ)をばも いかにせよとか    にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離(ざか)りいます 反し歌 0795 家に行きて如何にか吾(あ)がせむ枕付く妻屋寂(さぶ)しく思ほゆべしも 0796 愛(は)しきよしかくのみからに慕ひ来(こ)し妹が心のすべもすべ無さ 0797 悔しかもかく知らませば青丹よし国内(くぬち)ことごと見せましものを 0798 妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干(ひ)なくに 0799 大野山(おほぬやま)霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る      神亀五年七月(ふみつき)の二十一日(はつかまりひとひ)、筑前国(つくしのみちのくちのくに)の守(かみ)      山上憶良上(たてまつ)る。 惑へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌一首、また序 或る人、父母敬はずして、侍養を忘れ、妻子を顧みざること脱履よりも軽し。自ら異俗先生(せむじやう)と称る。意気青雲の上に揚がると雖も、身体は猶塵俗の中に在り。未だ修行得道の聖を験(し)らず。蓋し是山沢に亡命する民なり。所以(かれ)三綱を指示(しめ)して、更に五教を開く。遣るに歌を以て、其の惑ひを反さしむ。その歌に曰く、 0800 父母を 見れば貴し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し    遁ろえぬ 兄弟(はらから)親族(うがら) 遁ろえぬ 老いみ幼(いとけ)み    朋友(ともかき)の 言問ひ交はす 世の中は かくぞことわり    もち鳥の かからはしもよ 早川の ゆくへ知らねば    穿沓(うけぐつ)を 脱き棄(つ)るごとく  踏み脱きて 行くちふ人は    石木(いはき)より 成りてし人か 汝(な)が名告(の)らさね    天(あめ)へ行かば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大王(おほきみ)います    この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み    蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極み 聞こし食(を)す 国のまほらぞ    かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 反し歌 0801 久かたの天道(あまぢ)は遠し黙々(なほなほ)に家に帰りて業(なり)を為まさに 子等を思(しぬ)ふ歌一首、また序 釋迦如来金口(こんく)正に説きたまへらく、等しく衆生を思ふこと、羅ゴ羅の如しとのたまへり。又説きたまへらく、愛は子に過ぐること無しとのたまへり。至極の大聖すら、子を愛(うつく)しむ心有り。況乎(まして)世間の蒼生(あをひとぐさ)、誰か子を愛まざる。 0802 瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ    いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて    安眠(やすい)し寝(な)さぬ 反し歌 0803 銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも 世間(よのなか)の住(とどま)り難きを哀しめる歌一首、また序 集め易く排し難し、八大辛苦。遂げ難く尽し易し、百年の賞楽。古人の歎きし所、今また及ぶ。所以因(かれ)一章の歌を作みて、以て二毛の歎きを撥(のぞ)く。其の歌に曰く、 0804 世間(よのなか)の すべなきものは 年月は 流るるごとし    取り続き 追ひ来るものは 百種(ももくさ)に 迫め寄り来たる    娘子(をとめ)らが 娘子さびすと 唐玉を 手本に巻かし    白妙の 袖振り交はし 紅の 赤裳裾引き    よち子らと 手携はりて 遊びけむ 時の盛りを    留みかね 過ぐしやりつれ 蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に    いつの間か 霜の降りけむ 丹(に)の秀(ほ)なす 面(おもて)の上に    いづくゆか 皺か来たりし ますらをの 男さびすと    剣太刀 腰に取り佩き さつ弓を 手(た)握り持ちて    赤駒に 倭文鞍(しつくら)うち置き 這ひ乗りて 遊び歩きし    世間や 常にありける 娘子らが 閉鳴(さな)す板戸を    押し開き い辿り寄りて 真玉手の 玉手さし交へ    さ寝し夜の いくだもあらねば 手束杖(たつかづえ) 腰に束(たが)ねて    か行けば 人に厭はえ かく行けば 人に憎まえ    老よし男は かくのみならし 玉きはる 命惜しけど 為むすべもなし 反し歌 0805 常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも      神亀五年七月の二十一日、嘉摩(かま)の郡にて撰定(えら)ぶ。      筑前国守山上憶良。 太宰帥大伴の卿の相聞歌(したしみうた)二首 〔脱文〕 歌詞両首 太宰帥大伴卿 0806 龍の馬(ま)も今も得てしか青丹よし奈良の都に行きて来むため 0807 うつつには逢ふよしも無しぬば玉の夜の夢(いめ)にを継ぎて見えこそ      大伴淡等(たびと)謹状。 官氏報ふる歌二首 伏して来書を辱(かたじけな)くす。具(つぶさ)に芳旨を承る。忽ち漢を隔つる恋を成し、復た梁を抱く意を傷む。唯羨(とも)しくは、去留恙無く、遂に雲を披(ひら)かむことを待つのみ。 答ふる歌二首 0808 龍の馬を吾(あれ)は求めむ青丹よし奈良の都に来む人の為(たに) 0809 直に逢はずあらくも多し敷細(しきたへ)の枕去らずて夢にし見えむ      姓名謹状。 帥(かみ)大伴の卿の梧桐(きり)の日本琴(やまとこと)を中衛大将(なかのまもりのつかさのかみ)藤原の卿に贈りたまへる歌二首 梧桐の日本琴一面(ひとつ) 對馬ノ結石山ノ孫枝ナリ 此の琴、夢に娘子に化(な)りて曰けらく、「余(われ)根を遥島の崇巒(すうれむ)に託(よ)せ、幹(から)を九陽(くやう)の休光に晞(さら)す。長く烟霞を帯びて、山川の阿(くま)に逍遥す。遠く風波を望みて、雁木の間に出入りす。唯百年の後、空しく溝壑(こうがく)に朽ちなむことを恐れき。偶(たまた)ま長匠に遭ひて、散りて小琴と為りき。質麁(あら)く音少きを顧みず、恒に君子(うまひと)の左琴とならむことを希ふ」といひて、即ち歌ひけらく、 0810 いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上(へ)吾(あ)が枕かむ 僕(われ)その詩詠(うた)に報(こた)へけらく、 0811 言問はぬ木にはありとも美(うるは)しき君が手(た)馴れの琴にしあるべし 琴の娘子が答曰(い)へらく、「敬みて徳音を奉(うけたま)はる。幸甚幸甚」といへり。片時にして覚めたり。即ち夢の言に感(かま)け、慨然として黙止(もだ)り得ず。故(かれ)公使(おほやけつかひ)に附けて、聊か進御(たてまつ)るのみ。 謹状不具      天平(てんびやう)元年十月の七日、使に附けて進上(たてまつ)る。      謹みて中衛高明閤下に通(たてまつ)る 謹空。 中衛大将藤原の卿の報へたまふ歌一首 跪きて芳音を承はる。嘉懽交(こもごも)深し。乃ち龍門の恩復た蓬身の上に厚きことを知りぬ。恋望殊念、常心に百倍す。謹みて白雲の什に和へて、野鄙の歌を奏(たてまつ)る。房前謹状。 0812 言問はぬ木にもありとも我が背子が手馴れの御琴地(つち)に置かめやも      十一月八日、還る使大監(おほきまつりごとひと)に附けて、      謹みて尊門記室に通(たてまつ)る。 山上臣憶良が鎮懐石を詠める歌一首、また短歌 筑前国怡土郡(いとのこほり))深江村(ふかえのむら)子負原(こふのはら)、海に臨(そ)ひたる丘の上に二の石有り。大きなるは長さ一尺(ひとさかまり)二寸(ふたき)六分(むきだ)、囲(うだ)き一尺八寸(やき)六分、重さ十八斤(とをまりむはかり)五両(いつころ)。小さきは長さ一尺一寸、囲き一尺八寸、重さ十六斤十両。並皆(みな)楕円にして状鶏の子の如し。其の美好(うるはし)きこと、勝(あ)へて論ふベからず。所謂径尺璧これなり 或は云く、此の二の石は肥前国彼杵郡平敷の石にして、占に当りて取ると。深江の駅家を去ること二十許里(はたさとばかり)、近く路頭在り。公私の往来、馬より下りて跪拝(をろが)まざるは莫し。古老相伝へて曰く、往者(いにしへ)息長足日女(おきながたらしひめ)の命、新羅の国を征討(ことむけ)たまひし時、茲の両の石を用(もち)て御袖の中に挿著(さしはさ)みたまひて、以て鎮懐と為したまふと 実はこれ御裳の中なり。所以(かれ)行人(みちゆきひと)此の石を敬拝すといへり。乃ち歌よみすらく、 0813 かけまくは あやに畏し 足日女(たらしひめ) 神の命    韓国(からくに)を 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと    い取らして 斎(いは)ひたまひし 真玉なす 二つの石を    世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐがねと    海(わた)の底 沖つ深江の 海上(うなかみ)の 子負の原に    御手づから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます    奇御魂(くしみたま) 今の現(をつつ)に 貴きろかも 0814 天地のともに久しく言ひ継げとこの奇御魂敷かしけらしも      右ノ事伝ヘ言フハ、那珂郡伊知郷蓑島ノ人、      建部牛麻呂(タテベノウシマロ)ナリ。 太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首(みそぢまりふたつ)、また序 天平二年(ふたとせといふとし)正月(むつき)の十三日(とをかまりみかのひ)、帥(かみ)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(つど)ひて、宴会を申(の)ぶ。時に初春の令月、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後の香を薫らす。加以(しかのみにあらず)曙は嶺に雲を移し、松は羅(うすきぬ)を掛けて盖(きぬかさ)を傾け、夕岫(せきしふ)に霧を結び、鳥はうすものに封(こも)りて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。是に天を盖にし地を坐(しきゐ)にして、膝を促して觴(さかづき)を飛ばし、言を一室の裏(うち)に忘れ、衿を煙霞の外に開き、淡然として自放に、快然として自ら足れり。若し翰苑にあらずは、何を以てか情(こころ)をのベむ。請ひて落梅の篇を紀(しる)さむと。古今それ何ぞ異ならむ。園梅を賦し、聊か短詠(みじかうた)を成(よ)むベし。 0815 正月立ち春の来らばかくしこそ梅を折りつつ楽しき終へめ 大弐(おほきすけ)紀卿 0816 梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家(へ)の園にありこせぬかも 少弐(すなきすけ)小野大夫 0817 梅の花咲きたる園の青柳は縵(かづら)にすべく成りにけらずや 少弐粟田大夫 0818 春さればまづ咲く屋戸の梅の花独り見つつや春日暮らさむ 筑前守山上大夫 0819 世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にも成らましものを 豊後守(とよくにのみちのしりのかみ)大伴大夫 0820 梅の花今盛りなり思ふどち挿頭(かざし)にしてな今盛りなり 筑後守(つくしのみちのしりのかみ)葛井大夫 0821 青柳梅との花を折り挿頭(かざ)し飲みての後は散りぬともよし 某官笠氏沙弥 0822 我が園に梅の花散る久かたの天より雪の流れ来るかも 主人(あるじ) 0823 梅の花散らくはいづくしかすがにこの城(き)の山に雪は降りつつ 大監大伴氏百代 0824 梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林に鴬鳴くも 少監(すなきまつりごとひと)阿氏奥島 0825 梅の花咲きたる園の青柳を縵にしつつ遊び暮らさな 少監土氏百村 0826 打ち靡く春の柳と我が屋戸の梅の花とをいかにか分かむ 大典(おほきふみひと)史氏大原 0827 春されば木末(こぬれ)隠(がく)りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝(しづえ)に 少典(すなきふみひと)山氏若麻呂 0828 人ごとに折り挿頭しつつ遊べどもいやめづらしき梅の花かも 大判事(おほきことわるつかさ)舟氏麻呂 0829 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべく成りにてあらずや 薬師(くすりし)張氏福子(さきこ) 0830 万代に年は来経(きふ)とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし 筑前介佐氏子首(こびと) 0831 春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜寐(よい)も寝なくに 壹岐守(いきのかみ)板氏安麻呂 0832 梅の花折りて挿頭せる諸人は今日の間は楽しくあるべし 神司(かむつかさ)荒氏稲布(いなふ) 0833 年のはに春の来らばかくしこそ梅を挿頭して楽しく飲まめ 大令(おほきふみひと)史野氏宿奈麻呂 0834 梅の花今盛りなり百鳥の声の恋(こほ)しき春来たるらし 少令(すなきふみひと)史田氏肥人(うまひと) 0835 春さらば逢はむと思(も)ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも 薬師高氏義通 0836 梅の花手折り挿頭して遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり 陰陽師(うらのし)磯氏法麻呂 0837 春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家(へ)の園に梅が花咲く 算師(かぞへのし)志氏大道 0838 梅の花散り乱(まが)ひたる岡びには鴬鳴くも春かたまけて 大隅目(おほすみのふみひと)榎氏鉢麻呂(もひまろ) 0839 春の野(の)に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る 筑前目田氏眞人 0840 春柳かづらに折りし梅の花誰か浮かべし酒坏の上(へ)に 壹岐目村氏彼方(をちかた) 0841 鴬の音聞くなべに梅の花我ぎ家の園に咲きて知る見ゆ 對馬目高氏老 0842 我が屋戸の梅の下枝に遊びつつ鴬鳴くも散らまく惜しみ 薩摩目高氏海人 0843 梅の花折り挿頭しつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ 土師氏御通 0844 妹が家(へ)に雪かも降ると見るまでにここだも乱(まが)ふ梅の花かも 小野氏国堅 0845 鴬の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子が為 筑前拯(まつりごとひと)門氏石足 0846 霞立つ長き春日を挿頭せれどいやなつかしき梅の花かも 小野氏淡理 員外(かずよりほか)故郷(くに)思(しぬ)ふ歌両首(ふたつ) 0847 我が盛りいたく降(くだ)ちぬ雲に飛ぶ薬食(は)むともまた変若(をち)めやも 0848 雲に飛ぶ薬食むよは都見ばいやしき吾(あ)が身また変若ぬべし 後に追ひて和(よ)める梅(うめのはな)の歌四首 0849 残りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消(け)ぬとも 0850 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも 0851 我が屋戸に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも 0852 梅の花夢に語らく風流(みやび)たる花と吾(あれ)思(も)ふ酒に浮かべこそ 松浦河(まつらがは)に遊びて贈り答ふる歌八首、また序 余(われ)暫く松浦県(まつらがた)に往きて逍遥し、玉島の潭に臨みて遊覧するに、忽ち魚釣る女子等に値(あ)へり。花容双び無く、光儀匹ひ無し。柳葉を眉中に開き、桃花を頬上に発(ひら)く。意気雲を凌ぎ、風流世に絶えたり。僕(われ)問ひけらく、「誰が郷誰が家の児等ぞ。若疑(けだし)神仙ならむか」。娘(をとめ)等皆咲みて答へけらく、「児等は漁夫の舎(いへ)の児、草菴の微(いや)しき者、郷も無く家も無し。なぞも称(な)を云(の)るに足らむ。唯性水に便り、復た心に山を楽しぶ。或は洛浦に臨みて、徒に王魚を羨(とも)しみ、乍(あるい)は巫峡に臥して空しく烟霞を望む。今邂逅(わくらば)に貴客(うまひと)に相遇(あ)ひ、感応に勝へず、輙ち款曲を陳ぶ。今より後、豈に偕老ならざるべけむや」。下官(おのれ)対ひて曰く、「唯々(をを)、敬みて芳命を奉(うけたま)はりき」。時に日は山西に落ち、驪馬(りば)去なむとす。遂に懐抱を申(の)べ、因て詠みて贈れる歌に曰く、 0853 漁りする海人の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人(うまひと)の子と 答ふる詩(うた)に曰く、 0854 玉島のこの川上に家はあれど君を恥(やさ)しみ顕はさずありき 蓬客等(をのれ)また贈れる歌三首 0855 松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ 0856 松浦なる玉島川に鮎釣ると立たせる子らが家道知らずも 0857 遠つ人松浦の川に若鮎(わかゆ)釣る妹が手本を我こそ巻かめ 娘等(をとめら)また報ふる歌三首 0858 若鮎釣る松浦の川の川波の並にし思(も)はば我恋ひめやも 0859 春されば我家(わぎへ)の里の川門(かはど)には鮎子さ走る君待ちがてに 0860 松浦川七瀬の淀は淀むとも我は淀まず君をし待たむ 後れたる人の追ひて和(よ)める詩(うた)三首 都帥老 0861 松浦川川の瀬早み紅の裳の裾濡れて鮎か釣るらむ 0862 人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてや我は恋ひつつ居らむ 0863 松浦川玉島の浦に若鮎釣る妹らを見らむ人の羨(とも)しさ 吉田連宜(よしだのむらじよろし)が答ふる歌四首 宜(よろし)啓(まを)す。伏して四月の六日の賜書を奉(うけたまは)り、跪きて封函を開き、芳藻を拝読するに、心神の開朗たること、泰初が月を懐(うだ)きしに似たり。鄙懐の除こること、樂廣が天を披(ひら)きしが若し。至若(しかのみにあらず)、辺域に羇旅し、古旧を懐ひて志を傷ましむ。年矢停まらず、平生を憶ひて涙を落(なが)す。但達人は排に安みし、君子は悶り無し。伏して冀(こひねがは)くは、朝に雉(きぎし)を懐(なつ)くる化を宣べ、暮に亀を放つ術を存(たも)ち、張趙を百代に架し、松喬を千齢に追はむのみ。兼ねて垂示を奉はる、梅苑の芳席、群英藻をのべ、松浦の玉潭、仙媛の贈答、杏壇各言の作に類(たぐ)へ、衡皐税駕の篇に疑(なぞら)ふ。耽読吟諷し、感謝歓怡す。宜(よろし)主を恋(しぬ)ふ誠、誠に犬馬に逾ゆ。徳を仰ぐ心、心葵(きつ)カクに同じ。而るに碧海地を分ち、白雲天を隔て、徒に傾延を積む。何(なぞ)も労緒を慰めむ。孟秋膺節、伏して願はくは万祐日新たむことを。今相撲部領使(すまひことりつかひ)に因りて、謹みて片紙を付く。宜謹みて啓す。不次。 諸人の梅の花の歌に和(なぞら)へ奉(まつ)る一首(ひとうた) 0864 後れ居て長恋せずは御苑生(みそのふ)の梅の花にも成らましものを 松浦仙媛(まつらをとめ)の歌に和ふる一首 0865 君を待つ松浦の浦の娘子らは常世の国の海人娘子かも 君を思ふこと未だ尽きずてまた題(しる)せる二首(うたふたつ) 0866 はろばろに思ほゆるかも白雲の千重に隔てる筑紫の国は 0867 君が行(ゆき)日(け)長くなりぬ奈良道なる山斎(しま)の木立も神さびにけり      天平二年(ふたとせといふとし)七月の十日(とをかのひ)。 山上臣憶良が松浦の歌三首(みつ) 憶良誠惶頓首謹啓す。憶良聞く、方岳の諸侯、都督の刺使、並(みな)典法に依りて部下を巡行し、其の風俗を察(み)る。意内端多く、口外出し難し。謹みて三首の鄙歌を以て、五蔵の欝結を写さむとす。其の歌に曰く、 0868 松浦県(がた)佐用姫(さよひめ)の子が領巾(ひれ)振りし山の名のみや聞きつつ居らむ 0869 足姫(たらしひめ)神の命の魚(な)釣らすとみ立たしせりし石を誰見き 0870 百日(ももか)しも行かぬ松浦道今日行きて明日は来(き)なむを何か障(さや)れる      天平二年七月の十一日、筑前国司山上憶良謹みて上(たてまつ)る。 領巾麾(ひれふり)の嶺(ね)を詠める歌一首 大伴佐提比古(さでひこ)の良子(いらつこ)、特(ひとり)朝命(おほみこと)を被(かが)ふり、藩国(みやつこくに)に奉使(ま)けらる。艤棹(ふなよそひ)して帰(ゆ)き、稍蒼波を赴(あつ)む。その妾(め)松浦佐用嬪面(さよひめ)、此の別れの易きを嗟(なげ)き、彼(そ)の会ひの難きを嘆く。即ち高山の嶺に登りて遥かに離(さか)り去(ゆ)く船を望む。悵然として腸を断ち、黯然として魂(たま)を銷(け)つ。遂に領巾を脱きて麾(ふ)る。傍者流涕(かなし)まざるはなかりき。因(かれ)此の山を領巾麾の嶺と曰(なづ)くといへり。乃ち作歌(うたよみ)すらく、 0871 遠つ人松浦佐用姫夫恋(つまこひ)に領巾振りしより負へる山の名 後の人が追ひて和(なぞら)ふる歌一首 0872 山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上(へ)に領巾を振りけむ 最(いと)後の人が追ひて和ふる歌一首 0873 万代に語り継げとしこの岳(たけ)に領巾振りけらし松浦佐用姫 最最(いといと)後の人が追ひて和ふる歌二首 0874 海原(うなはら)の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫 0875 ゆく船を振り留みかね如何ばかり恋(こほ)しくありけむ松浦佐用姫 書殿(ふみとの)に餞酒(うまのはなむけ)せる日の倭歌(やまとうた)四首 0876 天(あま)飛ぶや鳥にもがもや都まで送り申して飛び帰るもの 0877 人皆のうらぶれ居るに立田山御馬(みま)近づかば忘らしなむか 0878 言ひつつも後こそ知らめ暫(しま)しくも寂(さぶ)しけめやも君いまさずして 0879 万代にいまし給ひて天の下奏(まを)し給はね朝廷(みかど)去らずて 敢へて私懐(おもひ)を布(の)ぶる歌三首 0880 天ざかる夷(ひな)に五年(いつとせ)住まひつつ都の風俗(てぶり)忘らえにけり 0881 かくのみや息づき居らむあら玉の来経(きへ)ゆく年の限り知らずて 0882 吾(あ)が主の御霊(みたま)賜ひて春さらば奈良の都に召上(めさ)げ賜はね      天平二年十二月(しはす)の六日(むかのひ)、筑前国司山上憶良、      謹みて上(たてまつ)る。 三島王の後に追ひて和(なぞら)へたまへる松浦佐用嬪面の歌一首 0883 音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山 大典(おほきふみひと)麻田連陽春(あさたのむらじやす)が大伴君熊凝(くまこり)に為(かは)りて志を述ぶる歌二首 0884 国遠き道の長手をおほほしく恋(こ)ふや過ぎなむ言問(ことどひ)もなく 0885 朝露の消(け)やすき吾(あ)が身他国(ひとくに)に過ぎかてぬかも親の目を欲り 筑前の国司守(みこともちのかみ)山上憶良が、熊凝に為(かは)りて其の志を述ぶる歌に敬みて和(なぞら)ふるうた六首、また序 大伴君熊凝は、肥後国(ひのみちのしりのくに)益城郡(ましきのこほり)の人なり。年十八歳(とをまりやつ)。天平三年(みとせといふとし)六月(みなつき)の十七日(とをかまりなぬかのひ)を以て、相撲使(すまひのつかひ)某の国の司(みこともち)官位姓名の従人(ともびと)と為り、京都(みやこ)に参向(まゐのぼ)る。天為るかも不幸、路に在りて疾を獲、即ち安藝国佐伯郡(さいきのこほり)高庭(たかには)の駅家(うまや)にて、身故(みまか)りぬ。臨終(まか)らむとする時、長歎息(なげ)きて曰く、「伝へ聞く、仮合の身滅び易く、泡沫の命駐め難し。所以に千聖已く去り、百賢留まらず。况乎(まして)凡愚の微しき者、何ぞも能く逃れ避らむ。但我が老親、並(みな)菴室に在りて、我を侍つこと日を過ぐし、自ら心を傷む恨み有らむ。我を望むこと時を違へり。必ず明を喪ふ泣(なみだ)を致さむ。哀しき哉我が父、痛き哉我が母。一身死に向かふ途を患(うれ)へず、唯二親在生の苦を悲しむ。今日長く別れ、何れの世かも観ることを得む」。乃ち歌六首(むつ)を作(よ)みて死(みまか)りぬ。其の歌に曰く、 0886 打日さす 宮へ上ると たらちしの 母が手離れ    常知らぬ 国の奥処(おくか)を 百重山 越えて過ぎゆき    いつしかも 都を見むと 思ひつつ 語らひ居れど    おのが身し 労(いた)はしければ 玉ほこの 道の隈廻(くまみ)に    草手折り 柴取り敷きて 床じもの うち臥(こ)い伏して    思ひつつ 嘆き伏せらく 国にあらば 父とり見まし    家にあらば 母とり見まし 世間(よのなか)は かくのみならし    犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ 0887 たらちしの母が目見ずておほほしくいづち向きてか吾(あ)が別るらむ 0888 常知らぬ道の長手を暗々(くれくれ)といかにか行かむ糧(かりて)は無しに 0889 家にありて母が取り見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも 0890 出でてゆきし日を数へつつ今日今日と吾(あ)を待たすらむ父母らはも 0891 一世には二遍(ふたたび)見えぬ父母を置きてや長く吾(あ)が別れなむ 貧窮問答の歌一首、また短歌 0892 風雑(まじ)り 雨降る夜(よ)の 雨雑り 雪降る夜は    すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ    糟湯酒(かすゆさけ) うち啜(すす)ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに    しかとあらぬ 髭掻き撫でて 吾(あれ)をおきて 人はあらじと    誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさふすま) 引き被(かがふ)り    布肩衣(ぬのかたきぬ) ありのことごと 着襲(そ)へども 寒き夜すらを    我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ    妻子(めこ)どもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝(な)が世は渡る    天地は 広しといへど 吾(あ)が為は 狭(さ)くやなりぬる    日月は 明(あか)しといへど 吾(あ)が為は 照りやたまはぬ    人皆か 吾(あ)のみやしかる わくらばに 人とはあるを    人並に 吾(あれ)も作るを 綿も無き 布肩衣の    海松(みる)のごと 乱(わわ)け垂(さが)れる かかふのみ 肩に打ち掛け    伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて    父母は 枕の方に 妻子どもは 足(あと)の方に    囲み居て 憂へ吟(さまよ)ひ 竈には 火気(けぶり)吹き立てず    甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて    ぬえ鳥の のどよび居るに いとのきて 短き物を    端切ると 云へるが如く 笞杖(しもと)執る 里長(さとをさ)が声は    寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道 0893 世間を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば 0900 富人の家の子どもの着る身なみ腐(くた)し捨つらむ絹綿らはも 0901 荒布(あらたへ)の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべを無み      山上憶良頓首謹みて上る。 好去好来の歌一首、また短歌 0894 神代より 言ひ伝て来(け)らく そらみつ 倭(やまと)の国は    皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことたま)の 幸(さき)はふ国と    語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと    目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども    高光る 日の朝廷(みかど) 神ながら 愛での盛りに    天の下 奏(まを)したまひし 家の子と 選びたまひて    大御言 反云、大命(オホミコト) 戴き持ちて 唐(もろこし)の 遠き境に    遣はされ 罷りいませ 海原の 辺(へ)にも沖にも    神づまり 領(うしは)きいます 諸々の 大御神たち    船の舳に 反云、フナノヘニ 導きまをし 天地の 大御神たち    倭の 大国御魂(みたま) 久かたの 天(あま)のみ空ゆ    天翔(あまかけ)り 見渡したまひ 事終り 帰らむ日には    又更に 大御神たち 船の舳に 御手うち掛けて    墨縄を 延(は)へたるごとく 阿庭可遠志 値嘉(ちか)の崎より    大伴の 御津の浜びに 直(ただ)泊(は)てに 御船は泊てむ    障(つつ)みなく 幸くいまして 早帰りませ 反し歌 0895 大伴の御津の松原かき掃きて我立ち待たむ早帰りませ 0896 難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ      天平五年三月の一日 良宅対面、献ルハ三日ナリ。山上憶良 謹みて上る。      大唐大使(もろこしにつかはすつかひのかみ)の卿の記室。 沈痾自哀文 山上憶良作 竊(ひそ)かに以(おもひみ)るに、朝夕山野に佃食する者すら、猶災害無くして世を度ることを得 謂ふは、常に弓箭を執りて六斎を避けず、値ふところの禽獣、大小を論はず、孕めるとまた孕まざると、並皆(みな)殺し食らふ。此を以て業と為す者をいへり。昼夜河海に釣漁する者すら、尚慶福有りて俗を経ることを全くす 謂ふは、漁夫潜女各勤むるところ有り。男は手に竹竿を把りて、能く波浪の上に釣り、女は腰に鑿と籠を帯び、潜きて深潭の底に採る者をいへり。况乎(まして)我胎生より今日に至るまで、自ら修善の志有り、曽て作悪の心無し 謂ふは、諸悪莫作、諸善奉行の教へを聞くことをいへり。所以に三宝を礼拝し、日として勤まざるは無く 毎日誦経、発露、懺悔せり、百神を敬重し、夜として欠けたること鮮(な)し 謂ふは、天地諸神等を敬拝するをいへり。嗟乎(ああ)恥(やさ)しきかも、我何(いか)なる罪を犯してか此の重疾に遭へる 謂ふは、未だ過去に造りし罪か、若しは是現前に犯せる過なるかを知らず、罪過を犯すこと無くは、何ぞ此の病を獲むやといへり。初めて痾ひに沈みしより已来(このかた)、年月稍多し 謂ふは、十余年を経たるをいへり。是の時年七十有四、鬢髪斑白にして、筋力汪羸(わうるい)。但に年老いるのみにあらず、復た斯の病を加へたり。諺に曰く、「痛き瘡は塩を灌ぎ、短き材は端を截る」といふは、此の謂なり。四支動かず、百節皆疼み、身体太だ重きこと、猶鈞石を負へるがごとし 二十四銖を一両と為し、十六両を一斤を為し、卅斤を一鈞と為し、四鈞を一石と為す、合せて一百廿斤なり。布を懸けて立たむとすれば、翼折れたる鳥の如く、杖に倚りて歩まむとすれば、跛足(あしなへ)の驢(うさぎうま)に比(たぐ)ふ。吾、身已く俗を穿ち、心も亦塵に累(つな)がるるを以て、禍の伏す所、祟の隠るる所を知らむと欲ひ、亀卜の門、巫祝の室に、徃きて問はずといふこと無し。若しは実なれ、若しは妄(いつはり)なれ、其の教ふる所に隋ひ、幣帛を奉り、祈祷せずといふこと無し。然れども弥よ苦を増す有り、曽て減差(い)ゆること無し。吾聞く、前代に多く良医有りて、蒼生の病患を救療す。楡柎、扁鵲、華他、秦の和、緩、葛稚川、陶隠居、張仲景等のごときに至りては、皆是世に在りし良医にして、除愈せずといふこと無しと 扁鵲、姓は秦、字は越人、勃海郡の人なり。胸を割きて心腸を採りて之を置き、投(い)るるに神薬を以てすれば、即ち寤めて平の如し。華他、字は元化、沛国のセフの人なり。若し病結積(むすぼ)れ沈重(おも)れる者有らば、内に在る者は腸を刳きて病を取る。縫ひ復して膏を摩れば、四五日にして差(い)ゆ。件の医(くすし)を追ひ望むとも、敢へて及ぶ所にあらじ。若し聖医神薬に逢はば、仰ぎ願はくは五蔵を割刳(さ)きて百病を抄採(さぐ)り、尋ねて膏盲の奥処(あうしよ)に達(いた)り 盲は鬲なり。心の下を膏とす。之を改むること可(よ)からず。之に達れども及ばず、薬至らず、二竪の逃れ匿りたるを顕さむと欲(す) 謂ふは、晉の景公疾み、秦の医(くすし)緩視て還りしは、鬼の為に殺さると謂ふべしといへり。命根既く尽き、其の天年を終りてすら、なほ哀しと為す 聖人賢者一切含霊、誰か此の道を免れむ。何ぞ况んや、生録未だ半ばならずして、鬼に枉殺せられ、顏色壮年にして、病に横困せらる者をや。世に在るの大患、孰れか此より甚だしからむ 志恠記に云く、「廣平の前の大守、北海の徐玄方の女、年十八歳にして死ぬ。其の霊、馮馬子に謂ひて曰く、『我が生録を案ふるに、寿(よはひ)八十余歳なるべし。今妖鬼の為に枉殺されて、已に四年を経たり』と。此に馮馬子に遇ひて、乃ち更活(よみがへ)ることを得たり」といふは是なり。内教に云く、「瞻浮州の人は寿百二十歳なり」と。謹みて此の数を案ふるに、必(うたがた)も此を過ぐること得ずといふに非ず。故に寿延経に云はく、「比丘有り、名を難逹と曰ふ。命終の時に臨み、仏に詣でて寿を請ひ、則ち十八年を延べたり」といふ。但善を為す者のみ、天地と相畢(を)はる。其の寿夭は、業報の招く所にして、其の脩短に隋ひて半ばと為る。未だ斯の算に盈たずしてすみやかに死去す。故に未だ半ばならずと曰ふ。任徴君曰く、「病は口より入る。故に君子は其の飲食を節(つつし)む」と。斯に由りて言はば、人の疾病に遇ふは必も妖鬼にあらず。それ医方諸家の広説、飲食禁忌の厚訓、知ること易く行ふこと難き鈍情の、三つは目に盈ち耳に満つこと由来久し。抱朴子に曰く、「人は但其の当(まさ)に死なむ日を知らず、故に憂へざるのみ。若し誠に、羽カク期を延ぶること得べき者を知らば、必ず之を為さむ」と。此を以て観れば、乃ち知りぬ、我が病は盖しこれ飲食の招く所にして、自ら治むること能はぬものか。帛公略説に曰く、「伏して思ひ自ら励むに、斯の長生を以てす。生は貪るべし、死は畏(おそ)るべし」と。天地の大徳を生と曰ふ。故に死人は生鼠に及かず。王侯為りと雖も、一日気を絶たば、金を積むこと山の如くありとも、誰か富と為(せ)む。威勢海の如くありとも、誰か貴しと為む。遊仙窟に曰く、「九泉下の人、一銭にだに直(あたひ)せず」と。孔子の曰く、「天に受けて、変易すべからぬものは形なり、命に受けて請益すべからぬものは寿(いのち)なり」と 鬼谷先生の相人書に見ゆ。故に生の極りて貴く、命の至りて重きことを知る。言はむと欲へば言窮まる。何を以てか言はむ。慮(おもひはか)らむと欲へば慮(おもひはか)り絶ゆ、何に由(よ)りてか慮らむ。惟以(おもひ)みれば、人賢愚と無く、世古今と無く、咸(ことごと)く悉(みな)嗟歎(なげ)く。歳月競ひ流れ、昼夜息(いこ)はず 曾子曰く、「往きて反らぬものは年なり」と。宣尼の川に臨む歎きも亦是なり。老疾相催し、朝夕侵し動(さは)ぐ。一代の歓楽、未だ席前に尽きずして 魏文の時賢を惜しむ詩に曰く、「未だ西花の夜を尽さず、劇(たちまち)に北芒の塵となる」と。千年の愁苦、更に坐後を継ぐ 古詩に云く、「人生百に満たず、何ぞ千年の憂を懐かむ」。若夫(それ)群生品類、皆尽くること有る身を以て、並(とも)に窮り無き命を求めずといふこと莫し。所以に道人方士の自ら丹経を負ひ、名山に入りて合薬する者は、性を養ひ神を怡(よろこ)び、以て長生を求む。抱朴子に曰く、「神農云く、『百病愈えずは、安(いかに)ぞ長生を得む』」と。帛公又曰く、「生は好き物なり。死は悪しき物なり」と。若し不幸にして長生を得ずは、猶生涯病患無き者を以て福大と為さむか。今吾病を為し悩を見、臥坐を得ず。東に向かひ西に向かひ、為す所知ること莫し。福無きこと至りて甚しき、すべて我に集まる。人願へば天従ふ。如し実有らば、仰ぎ願はくは、頓(たちまち)に此の病を除き、頼(さきはひ)に平の如くあるを得む。鼠を以て喩とす、豈に愧ぢざらむや 已に上に見ゆ。 俗道仮合即離、去り易く留まり難きを悲歎する詩一首、また序 竊に以(おもひみ)るに、釋慈の示教 釋氏慈氏を謂へり、先に三帰 仏法僧に帰依するを謂へり、五戒 謂ふは、一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪婬、四に不妄語、五に不飲酒をいへりを開きて遍く法界を化(おもむ)け、周孔の垂訓は、前に三綱 謂ふは、君臣・父子・夫婦をいへり、五教謂ふは、父義・母慈・兄友・弟順・子孝をいへりを張りて、斉しく邦国を済(すく)ふ。故に知る、引導は二ありと雖も、悟を得たるは惟一なりと。但以(おもひみ)れば世に恒質無し、所以に陵谷更に変る。人に定期無し、所以に寿夭同じからず。撃目の間、百齢已に尽き、申臂(しんぴ)の頃(けい)、千代(せんだい)亦空し。旦には席上の主となり、夕には泉下の客となる。白馬走り来るとも、黄泉(くわうせん)は何にか及ばむ。隴上の青松、空しく信釼を懸け、野中の白楊、但悲風に吹かる。是に知る、世俗本より隠遁の室無く、原野唯長夜の台(うてな)のみ有り。先聖已に去り、後賢留まらず。如し贖ひて免るべきこと有らば、古人誰か価金無からむ。未だ独り存(ながら)へて遂に世の終を見る者を聞かず、所以に維摩大士は玉体を方丈に疾み、釋迦能仁は金容を双樹に掩へり。内教に曰く、「黒闇の後に来らむを欲せずは、徳天の先に至るに入ること莫かれ」と 徳天は生なり。黒闇は死なり。故に知る、生必ず死有り、死若し欲(ねが)はざらむは、生まれぬには如かず。况乎(まして)縦ひ始終の恒数を覚るとも、何にぞ存亡の大期を慮(おもひはか)らむ。    俗道の変化は撃目の如く    人事の経紀は申臂の如し    空しく浮雲と大虚を行き    心力共に尽きて寄る所無し 老身重病年を経て辛苦(くる)しみ、また児等を思ふ歌五首 長一首、短四首 0897 玉きはる 現(うち)の限りは 平らけく 安くもあらむを    事もなく 喪なくもあらむを 世間(よのなか)の 憂けく辛けく    いとのきて 痛き瘡(きず)には 辛塩を 灌ぐちふごとく    ますますも 重き馬荷に 表荷(うはに)打つと いふことのごと    老いにてある 吾(あ)が身の上に 病をら 加へてしあれば    昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息づき明かし    年長く 病みしわたれば 月重ね 憂へさまよひ    ことことは 死ななと思(も)へど 五月蝿(さばへ)なす 騒く子どもを    棄(うつ)てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ    かにかくに 思ひ煩ひ 音のみし泣かゆ 反し歌 0898 慰むる心は無しに雲隠れ鳴きゆく鳥の音のみし泣かゆ 0899 すべもなく苦しくあれば出で走り去(い)ななと思(も)へど子等に障(さや)りぬ 0902 水沫(みなわ)なす脆き命も栲縄(たくなは)の千尋にもがと願ひ暮らしつ 0903 しづたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも 去ル神亀二年ニ作メリ。但類ヲ以テノ故ニ更ニ茲ニ載ス      天平五年六月の丙申(ひのえさる)の朔(つきたち)三日(みかのひ)戊戌(つちのえいぬ)作めり。 男子(をのこ)名は古日(ふるひ)を恋ふる歌三首 長一首、短二首 0904 世の人の 貴み願ふ 七種(くさ)の 宝も吾(あれ)は    何せむに 願ひ欲(ほり)せむ 我が中の 生れ出でたる    白玉の 我が子古日は 明星(あかぼし)の 明くる朝(あした)は    敷細(しきたへ)の 床の辺去らず 立てれども 居れども共に    掻き撫でて 言問ひ戯(たは)れ 夕星(ゆふづつ)の 夕べになれば    いざ寝よと 手を携はり 父母も うへはな離(さか)り    三枝(さきくさ)の 中にを寝むと 愛(うるは)しく しが語らへば    いつしかも 人と成り出でて 悪しけくも 吉けくも見むと    大船の 思ひ頼むに 思はぬに 横様(よこしま)風の    にはかにも 覆ひ来たれば 為むすべの たどきを知らに    白妙の たすきを掛け 真澄鏡 手に取り持ちて    天つ神 仰(あふ)ぎ祈(こ)ひ祷(の)み 国つ神 伏して額づき    かからずも かかりもよしゑ 天地の 神のまにまと    立ちあざり 我が祈ひ祷めど しましくも 吉けくはなしに    漸々(やうやう)に かたちつくほり 朝な朝(さ)な 言ふことやみ    玉きはる 命絶えぬれ 立ち躍り 足すり叫び    伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持たる 吾(あ)が子飛ばしつ 世間の道 反し歌 0905 若ければ道行き知らじ賄(まひ)はせむ下方(したへ)の使負ひて通らせ 0906 布施置きて吾(あれ)は祈ひ祷む欺かず直(ただ)に率(ゐ)行きて天道知らしめ -------------------------------------------------------- .巻第六(むまきにあたるまき) 雑歌(くさぐさのうた) 養老(やうらう)七年(ななとせといふとし)癸亥(みづのとゐ)夏五月(さつき)、芳野の離宮(とつみや)に幸(いでま)せる時、笠朝臣金村がよめる歌一首(ひとつ)、また短歌(みじかうた) 0907 滝(たぎ)の上(へ)の 三船の山に 水枝(みづえ)さし 繁(しじ)に生ひたる    樛(つが)の木の いや継ぎ継ぎに 万代に かくし知らさむ    み吉野の 秋津(あきづ)の宮は 神柄(かみから)か 貴かるらむ    国柄か 見が欲しからむ 山川を 淳(あつ)み清(さや)けみ    大宮と 諾(うべ)し神代ゆ 定めけらしも 反(かへ)し歌二首 0908 毎年(としのは)にかくも見てしかみ吉野の清き河内(かふち)の激(たぎ)つ白波 0909 山高み白木綿花(しらゆふはな)に落ち激つ滝(たぎ)の河内は見れど飽かぬかも 或ル本ノ反シ歌ニ曰ク、  0910 神柄か見が欲しからむみ吉野の滝の河内は見れど飽かぬかも  0911 み吉野の秋津の川の万代に絶ゆることなくまた還り見む  0912 泊瀬女(はつせめ)の造る木綿花み吉野の滝の水沫(みなわ)に咲きにけらずや 車持朝臣千年(くらもちのあそみちとせ)がよめる歌一首、また短歌 0913 味凝(うまこり) あやに羨(とも)しき 鳴神の 音のみ聞きし    み吉野の 真木立つ山ゆ 見降(くだ)せば 川の瀬ごとに    明け来れば 朝霧立ち 夕されば かはづ鳴くなり    紐解かぬ 旅にしあれば 吾(あ)のみして 清き川原を 見らくし惜しも 反し歌一首 0914 滝(たぎ)の上(へ)の三船の山は見つれども思ひ忘るる時も日も無し 或ル本ノ反シ歌ニ曰ク、  0915 千鳥泣くみ吉野川の川音(かはと)なす止む時なしに思ほゆる君  0916 茜さす日並べなくに吾(あ)が恋は吉野の川の霧に立ちつつ      右、年月審(ツマビラ)カナラズ。但歌類ヲ以テ此ノ次      ニ載ス。或ル本ニ云ク、養老七年五月、芳野      離宮ニ幸セル時ニ作ム。 神亀(じむき)元年(はじめのとし)甲子(きのえね)冬十月(かみなつき)五日(いつかのひ)、紀伊国に幸せる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌 0917 やすみしし 我ご大王(おほきみ)の 外津宮(とつみや)と 仕へ奉(まつ)れる    雑賀野(さひかぬ)ゆ 背向(そがひ)に見ゆる 沖つ島 清き渚に    風吹けば 白波騒き 潮干(ひ)れば 玉藻刈りつつ    神代より しかぞ貴き 玉津(たまづ)島山 反し歌二首 0918 沖つ島荒磯(ありそ)の玉藻潮干満ちてい隠(かく)ろひなば思ほえむかも 0919 若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る      右、年月記サズ。但称ハク玉津島ニ従駕セリキト。      因リテ今行幸ノ年月ヲ検注シ、以テ載ス。 二年(ふたとせといふとし)乙丑(きのとのうし)夏五月(さつき)、芳野の離宮に幸せる時、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌 0920 あしひきの み山も清(さや)に 落ち激(たぎ)つ 吉野の川の    川の瀬の 浄きを見れば 上辺(かみへ)には 千鳥しば鳴き    下辺(しもへ)には かはづ妻呼ぶ 百敷の 大宮人も    をちこちに 繁(しじ)にしあれば 見るごとに あやにともしみ    玉葛(たまかづら) 絶ゆることなく 万代(よろづよ)に かくしもがもと    天地(あめつち)の 神をぞ祈る 畏かれども 反し歌二首 0921 万代に見とも飽かめやみ吉野の滝(たぎ)つ河内の大宮所 0922 人皆の命も吾(あれ)もみ吉野の滝の常磐の常ならぬかも 山部宿禰赤人がよめる歌二首、また短歌 0923 やすみしし 我ご大王(おほきみ)の 高知らす 吉野の宮は    たたなづく 青垣隠(ごも)り 川並の 清き河内(かふち)そ    春へは 花咲き撓(をを)り 秋されば 霧立ち渡る    その山の いや益々に この川の 絶ゆること無く    百敷の 大宮人は 常に通はむ 反し歌二首 0924 み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒く鳥の声かも 0925 ぬば玉の夜の更けぬれば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く 0926 やすみしし 我ご大王は み吉野の 秋津の小野の    野の上(へ)には 跡見(とみ)据ゑ置きて み山には 射目(いめ)立て渡し    朝狩に 獣(しし)踏み起し 夕狩に 鳥踏み立て    馬並(な)めて 御狩そ立たす 春の茂野に 反し歌一首 0927 あしひきの山にも野にも御狩人さつ矢手(だ)挟み騒ぎたり見ゆ      右、先後ヲ審ラカニセズ。但便ヲ以テノ故ニ此次ニ載ス。 冬十月(かみなづき)、難波の宮に幸せる時、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌 0928 押し照る 難波の国は 葦垣の 古りにし里と    人皆の 思ひ安みて 連れもなく ありし間に    続麻(うみを)なす 長柄(ながら)の宮に 真木柱 太高敷きて    食(を)す国を 治めたまへば 沖つ鳥 味經(あぢふ)の原に    物部(もののふ)の 八十伴雄(やそとものを)は 廬りして 都と成れり 旅にはあれども 反し歌二首 0929 荒野らに里はあれども大王の敷き坐(ま)す時は都と成りぬ 0930 海未通女(あまをとめ)棚無小舟榜ぎ出(づ)らし旅の宿りに楫の音(と)聞こゆ 車持朝臣千年がよめる歌一首、また短歌 0931 鯨魚(いさな)取り 浜辺を清み 打ち靡き 生ふる玉藻に    朝凪に 千重(ちへ)波寄り 夕凪に 五百重(いほへ)波寄る    沖つ波 いや益々に 辺(へ)つ波の いやしくしくに    月に日(け)に 日々に見がほし 今のみに 飽き足らめやも    白波の い咲き廻(もと)へる 住吉(すみのえ)の浜 反し歌一首 0932 白波の千重に来寄する住吉の岸の黄土生(はにふ)ににほひて行かな 山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌 0933 天地の 遠きが如く 日月(ひつき)の 長きが如く    押し照る 難波の宮に 我ご大王 国知らすらし    御食(みけ)つ国 日々の御調(みつき)と 淡路の 野島の海人の    海(わた)の底 沖つ海石(いくり)に 鮑玉(あはびたま) 多(さは)に潜(かづ)き出    船並(な)めて 仕へ奉(まつ)るか 貴し見れば 反し歌一首 0934 朝凪に楫の音(と)聞こゆ御食つ国野島の海人の船にしあるらし 三年(みとせといふとし)丙寅(ひのえとら)秋九月(ながつき)十五日(とをかまりいつかのひ)、播磨国印南野(いなみぬ)に幸(いでま)せる時、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌 0935 名寸隅(なきすみ)の 船瀬(ふなせ)ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に    朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ    海未通女(あまをとめ) ありとは聞けど 見に行かむ 由のなければ    大夫(ますらを)の 心は無しに 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて    徘徊(たもとほ)り 吾(あれ)はそ恋ふる 船楫(ふねかぢ)を無み 反し歌二首 0936 玉藻刈る海未通女ども見に行かむ船楫もがも波高くとも 0937 往き還り見とも飽かめや名寸隅の船瀬の浜に頻る白波 山部宿禰赤人がよめる歌一首 、また短歌 0938 やすみしし 我が大王の 神ながら 高知らせる    印南野の 大海(おほうみ)の原の 荒栲(あらたへ)の 藤江の浦に    鮪(しび)釣ると 海人船騒ぎ 塩焼くと 人そ多(さは)なる    浦を吉(よ)み 諾(うべ)も釣はす 浜を吉み 諾も塩焼く    あり通ひ 見(め)さくも著(しる)し 清き白浜 反し歌三首 0939 沖つ波辺波静けみ漁(いざ)りすと藤江の浦に船そ騒げる 0940 印南野の浅茅押しなべさ寝(ぬ)る夜の日(け)長くしあれば家し偲はゆ 0941 明石潟潮干の道を明日よりは下笑ましけむ家近づけば 辛荷(からに)の島を過ぐる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌 0942 あぢさはふ 妹が目離(か)れて 敷細(しきたへ)の 枕も巻かず    桜皮(かには)巻き 作れる舟に 真楫(かぢ)貫(ぬ)き 吾(あ)が榜ぎ来れば    淡路の 野島も過ぎ 印南嬬(いなみつま) 辛荷の島の    島の際(ま)ゆ 我家(わぎへ)を見れば 青山の そことも見えず    白雲も 千重になり来ぬ 榜ぎ廻(たむ)る 浦のことごと    行き隠る 島の崎々 隈(くま)も置かず 思ひそ吾(あ)が来る 旅の日(け)長み 反し歌三首 0943 玉藻刈る辛荷の島に島回(み)する鵜にしもあれや家思(も)はざらむ 0944 島隠り吾(あ)が榜ぎ来れば羨(とも)しかも大和へ上る真熊野の船 0945 風吹けば波か立たむと伺候(さもらひ)に都太(つた)の細江に浦隠り居り 敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時、山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌 0946 御食(みけ)向ふ 淡路の島に 直(ただ)向ふ 敏馬の浦の    沖辺には 深海松(ふかみる)摘み 浦廻には 名告藻(なのりそ)苅り    深海松の 見まく欲しけど 名告藻の 己が名惜しみ    間使も 遣らずて吾(あれ)は 生けるともなし 反し歌一首 0947 須磨の海人の塩焼き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ      右ノ作歌、年月詳ラカナラズ。但類ヲ以テノ故ニ      此ノ次ニ載ス。 四年(よとせといふとし)丁卯(ひのとのう)春正月(むつき)、諸王(おほきみたち)諸臣子等(おみたち)に勅(みことのり)して、授刀寮に散禁(はなちいまし)めたまへる時によめる歌一首、また短歌 0948 真葛(まくず)延(は)ふ 春日の山は 打ち靡く 春さりゆくと    山の辺(へ)に 霞たな引き 高圓(たかまと)に 鴬鳴きぬ    物部(もののふ)の 八十伴男(やそとものを)は 雁が音の 来継ぎこの頃    かく継ぎて 常にありせば 友並(な)めて 遊ばむものを    馬並めて 行かまし里を 待ちがてに 吾(あ)がせし春を    かけまくも あやに畏し 言はまくも 忌々(ゆゆ)しからむと    あらかじめ かねて知りせば 千鳥鳴く その佐保川に    石(いそ)に生ふる 菅の根採りて 偲(しぬ)ふ草 祓ひてましを    行く水に 禊(みそ)ぎてましを 大王の 命畏み    百敷の 大宮人の 玉ほこの 道にも出でず 恋ふるこの頃 反し歌一首 0949 梅柳過ぐらく惜しみ佐保の内に遊びし事を宮もとどろに      右、神亀四年正月、数王子マタ諸臣子等、春日野ニ      集ヒ、打毬ノ楽ヲ作ス。其ノ日、忽チニ天陰リ、雨      フリ雷(カミ)ナリ電(イナビカリ)ス。此ノ時宮中ニ侍従マタ侍衛無      シ。勅シテ刑罰ニ行ヒ、皆授刀寮ニ散禁シテ、妄リ      ニ道路ニ出ヅルコトヲ得ザラシメタマフ。時ニ悒憤      シテ、即チ斯ノ歌ヲ作ム。作者ハ詳ラカナラズ。 五年(いつとせといふとし)戊辰(つちのえたつ)、難波の宮に幸せる時よめる歌四首 0950 大王の境ひたまふと山守(やまもり)据ゑ守(も)るちふ山に入らずはやまじ 0951 見渡せば近きものから石(いそ)隠り燿(かがよ)ふ玉を取らずはやまじ 0952 韓衣(からころも)着奈良の里の君松に玉をし付けむ好(よ)き人もがも 0953 さ牡鹿の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君にはた逢はざらむ      右、笠朝臣金村ガ歌ノ中ニ出ヅ。或ハ云ク、車持      朝臣千年作ムト。 膳王(かしはでのおほきみ)の歌一首 0954 朝(あした)には海辺に漁(あさ)りし夕されば大和へ越ゆる雁し羨しも      右ノ作歌ノ年ハ審ラカナラズ。但歌類ヲ以テ便チ      此ノ次ニ載ス。 太宰少弐(おほみこともちのすなきすけ)石川朝臣足人(たりひと)が歌一首 0955 刺竹(さすだけ)の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君 帥(かみ)大伴卿(おほとものまへつきみ)が和(こた)ふる歌一首 0956 やすみしし我が大王の食す国は大和もここも同(おや)じとそ思(も)ふ 冬十一月(しもつき)、太宰の官人(つかさひと)等、香椎の廟を拝(をろが)み奉り、訖(を)へて退帰(まか)れる時、馬を香椎の浦に駐(とど)めて、各(おのもおのも)懐(おもひ)を述べてよめる歌 帥(かみ)大伴の卿(まへつきみ)の歌一首 0957 いざ子ども香椎の潟に白妙の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ 大弐(おほきすけ)小野老朝臣が歌一首 0958 時つ風吹くべくなりぬ香椎潟潮干の浦に玉藻刈りてな 豊前守(とよくにのみちのくちのかみ)宇努首男人(うぬのおびとをひと)が歌一首 0959 往き還り常に吾(あ)が見し香椎潟明日ゆ後には見む縁(よし)もなし 帥大伴の卿の芳野の離宮(とつみや)を遥思(しぬ)ひてよみたまへる歌一首 0960 隼人(はやひと)の瀬戸の巌(いはほ)も鮎走る吉野の滝になほしかずけり 帥大伴の卿の、次田(すきた)の温泉(ゆ)に宿りて、鶴(たづ)が喧(ね)を聞きてよみたまへる歌一首 0961 湯の原に鳴く葦鶴は吾(あ)が如く妹に恋ふれや時わかず鳴く 天平(てむひやう)二年庚午(かのえうま)、勅(みことのり)して駿馬(ときうま)を擢(えら)ぶ使大伴道足(みちたり)宿禰を遣はせる時の歌一首 0962 奥山の岩に苔むし畏くも問ひ賜ふかも思ひあへなくに      右、勅使(みかどつかひ)大伴道足宿禰を帥の家に饗(あへ)す。此の日      衆諸を会集へ、駅使(はゆまづかひ)葛井連廣成を相誘ひ、歌詞      を作むべしと言ふ。登時(すなはち)廣成声に応へて、此の歌      を吟(うた)へりき。 冬十一月(しもつき)、大伴坂上郎女が帥の家より上道(みちだち)して、筑前国宗形郡名兒山を超ゆる時よめる歌一首 0963 大汝(おほなむぢ) 少彦名(すくなびこな)の 神こそは 名付けそめけめ    名のみを 名兒山と負ひて 吾(あ)が恋の 千重の一重も 慰めなくに 同(おや)じ坂上郎女が京(みやこ)に向(のぼ)る海路(うみつぢ)にて浜の貝を見てよめる歌一首 0964 我が背子に恋ふれば苦し暇(いとま)あらば拾ひて行かむ恋忘れ貝 冬十二月(しはす)、太宰帥(おほみこともちのかみ)大伴の卿の京に上りたまふ時、娘子(をとめ)がよめる歌二首 0965 凡(おほ)ならばかもかもせむを畏みと振りたき袖を忍(しぬ)ひてあるかも 0966 大和道は雲隠れたりしかれども吾(あ)が振る袖を無礼(なめ)しと思(も)ふな      右、太宰帥大伴の卿の大納言に兼任(め)され、京に向(のぼ)らむ      として上道(みちだち)したまふ。此の日水城に馬駐め、府家を顧      み望む。時に卿を送る府吏(つかさひと)の中に遊行女婦(うかれめ)あり。其の      字(な)を兒島(こしま)と曰ふ。是に娘子、此の別れ易きを傷み、彼の      会ひ難きを嘆き、涕を拭ひて自ら袖を振る歌を吟(うた)ふ。 大納言(おほきものまをすつかさ)大伴の卿の和へたまへる歌二首 0967 大和道の吉備の兒島を過ぎて行かば筑紫の子島思ほえむかも 0968 大夫(ますらを)と思へる吾(あれ)や水茎(みづくき)の水城(みづき)の上に涙拭(のご)はむ 三年辛未(かのとひつじ)、大納言大伴の卿の、寧樂の家に在りて故郷(ふるさと)を思(しぬ)ひてよみたまへる歌二首 0969 暫(しま)しくも行きて見てしか神名備(かむなび)の淵は浅(あせ)にて瀬にか成るらむ 0970 群玉の栗栖(くるす)の小野の萩が花散らむ時にし行きて手向けむ 四年壬申(みづのえさる)、藤原宇合の卿の西海道(にしのうみつぢ)の節度使に遣はさるる時、高橋連蟲麻呂がよめる歌一首、また短歌 0971 白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に    打ち越えて 旅行く君は 五百重山 い行きさくみ    賊(あた)守る 筑紫に至り 山の極(そき) 野の極見(め)せと    伴の部(べ)を 班(あが)ち遣はし 山彦の 答へむ極み    蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極み 国形を 見(め)したまひて    冬籠り 春さりゆかば 飛ぶ鳥の 早還り来ね    龍田道の 岡辺の道に 紅躑躅(につつじ)の にほはむ時の    桜花 咲きなむ時に 山釿(たづ)の 迎へ参ゐ出む 君が来まさば 反し歌一首 0972 千万(ちよろづ)の軍(いくさ)なりとも言挙げせず討(と)りて来(き)ぬべき男(をとこ)とぞ思(も)ふ 天皇(すめらみこと)の節度使の卿等(まへつきみたち)に酒(おほみき)賜へる御歌(おほみうた)一首、また短歌 0973 食(を)す国の 遠の朝廷(みかど)に 汝(いまし)らし かく罷りなば    平けく 吾(あれ)は遊ばむ 手抱(てうだ)きて 吾(あれ)はいまさむ    天皇(すめら)朕(わ)が 珍(うづ)の御手もち 掻き撫でそ 労(ね)ぎたまふ    打ち撫でそ 労ぎたまふ 還り来む日 相飲まむ酒(き)そ この豊御酒(とよみき)は 反し歌一首 0974 大夫(ますらを)の行くちふ道そおほろかに思ひて行くな大夫の伴      右ノ御歌ハ、或ハ云ク、太上天皇ノ御製ナリト。 中納言(なかのものまをすつかさ)安倍廣庭の卿の歌一首 0975 かくしつつ在らくを好(よ)みぞ玉きはる短き命を長く欲りする 五年癸酉(みづのととり)、草香山を超ゆる時、神社忌寸老麿(かみこそのいみきおゆまろ)がよめる歌二首 0976 難波潟潮干の名残よく見てむ家なる妹が待ち問はむため 0977 直越(ただこえ)のこの道にして押し照るや難波の海と名付けけらしも 山上臣憶良が沈痾(やみこやれ)る時の歌一首 0978 士(をとこ)やも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして      右ノ一首ハ、山上憶良臣ガ沈痾ル時、藤原朝臣八束、      河邊朝臣東人ヲシテ、疾メル状ヲ問ハシム。是ニ憶良      臣、報フル語已ニ畢リ、須ク有リテ涕ヲ拭ヒ、悲シミ      嘆キテ此ノ歌ヲ口吟(ウタ)ヒキ。 大伴坂上郎女が、姪(をひ)家持が佐保より西の宅(いへ)に還帰(かへ)るときに与(おく)れる歌一首 0979 我が背子が着(け)る衣薄し佐保風はいたくな吹きそ家に至るまで 安倍朝臣蟲麻呂が月の歌一首 0980 雨隠り三笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜は降(くだ)ちつつ 大伴坂上郎女が月の歌三首 0981 獵高(かりたか)の高圓山を高みかも出で来む月の遅く照るらむ 0982 ぬば玉の夜霧の立ちておほほしく照れる月夜の見れば悲しさ 0983 山の端の細愛壮士(ささらえをとこ)天の原門(と)渡る光見らくしよしも 豊前国(とよくにのみちのくち)の娘子が月の歌一首 娘子字ヲ大宅ト曰フ。姓氏詳ラカナラズ。 0984 雲隠り行方を無みと吾(あ)が恋ふる月をや君が見まく欲りする 湯原王の月の歌二首 0985 天(あめ)にます月読壮士(つくよみをとこ)幣(まひ)はせむ今宵の長さ五百夜(いほよ)継ぎこそ 0986 愛(は)しきやし間近き里の君来むと言ふ徴(しるし)にかも月の照りたる 藤原八束朝臣が月の歌一首 0987 待ちがてに吾(あ)がする月は妹が着(け)る三笠の山に隠(こも)りたりけり 市原王の宴に父安貴王を祷(ほ)きませる歌一首 0988 春草は後は散り易し巌なす常盤にいませ貴き吾君(あきみ) 湯原王の打酒(さかほかひ)の歌一首 0989 焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿(ほ)く豊御酒(とよみき)に吾(あれ)酔ひにけり 紀朝臣鹿人(かひと)が跡見(とみ)の茂岡(しげをか)の松の樹の歌一首 0990 茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の樹の歳の知らなく 同じ鹿人が泊瀬河の辺(ほとり)に至りてよめる歌一首 0991 石走(いはばし)り激(たぎ)ち流るる泊瀬川絶ゆること無くまたも来て見む 大伴坂上郎女が元興寺の里を詠める歌一首 0992 古郷の飛鳥はあれど青丹よし奈良の明日香を見らくしよしも 同じ坂上郎女が初月(みかつき)の歌一首 0993 月立ちてただ三日月の眉根(まよね)掻き日(け)長く恋ひし君に逢へるかも 大伴宿禰家持が初月の歌一首 0994 振り放(さ)けて三日月見れば一目見し人の眉引(まよびき)思ほゆるかも 大伴坂上郎女が親族(うがら)と宴せる歌一首 0995 かくしつつ遊び飲みこそ草木すら春は咲きつつ秋は散りぬる 六年(むとせといふとし)甲戌(きのえいぬ)、海犬養宿禰(あまのいぬかひのすくね)岡麿が詔(みことのり)を応(うけたまは)りてよめる歌一首 0996 御民吾(あれ)生ける験(しるし)あり天地の栄ゆる時に遭へらく思へば 春三月(やよひ)、難波の宮に幸せる時の歌六首 0997 住吉(すみのえ)の粉浜(こばま)の蜆開けも見ず隠(こも)りのみやも恋ひ渡りなむ      右の一首(ひとうた)は、作者(よみひと)未詳(しらず)。 0998 眉(まよ)のごと雲居に見ゆる阿波の山懸けて榜ぐ舟泊(とまり)知らずも      右の一首は、船王(ふねのおほきみ)のよみたまへる。 0999 茅渟廻(ちぬみ)より雨そ降り来る四極(しはつ)の海人綱手干したり濡れあへむかも      右の一首は、住吉の浜に遊覧(あそ)びて、宮に還りたまへる時      の道にて、守部王(もりべのおほきみ)の詔を応(うけたまは)りてよみたまへる歌。 1000 児らがあらば二人聞かむを沖つ洲に鳴くなる鶴(たづ)の暁の声      右の一首は、守部王のよみたまへる。 1001 大夫(ますらを)は御狩に立たし娘子(をとめ)らは赤裳裾引く清き浜びを      右の一首は、山部宿禰赤人がよめる。 1002 馬の歩み抑へ留めよ住吉の岸の黄土(はにふ)ににほひて行かむ      右の一首は、安倍朝臣豊継がよめる。 筑後守(つくしのみちのしりのかみ)外従五位(とのひろきいつつのくらゐ)下(しもつしな)葛井連大成が海人の釣船を遥見(みさ)けてよめる歌一首 1003 海女をとめ玉求むらし沖つ波恐(かしこ)き海に船出せり見ゆ 按作村主益人(くらつくりのすくりますひと)が歌一首 1004 思ほえず来ませる君を佐保川のかはづ聞かせず帰しつるかも      右、内匠大属按作村主益人、聊カ飲饌ヲ設ケ、以テ長官      佐為王ヲ饗ス。未ダ日斜(クタ)ツニ及バズシテ王既ク還帰(カヘ)ル。      時ニ益人、厭(ア)カズシテ帰ルコトヲ怜惜(ヲシ)ミテ、仍チ此ノ歌      ヲ作ム。 八年(やとせといふとし)丙子(ひのえね)夏六月(みなつき)、芳野の離宮(とつみや)に幸(いでま)せる時、山部宿禰赤人が詔を応(うけたまは)りてよめる歌一首、また短歌 1005 やすみしし 我が大王の 見(め)したまふ 吉野の宮は    山高(だか)み 雲そ棚引く 川速み 瀬の音(と)そ清き    神さびて 見れば貴く よろしなへ 見れば清(さや)けし    この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ    百敷の 大宮所 止む時もあらめ 反し歌一首 1006 神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川を吉(よ)み 市原王の独り子を悲しみたまへる歌一首 1007 言問はぬ木すら妹(いも)と兄(せ)ありちふをただ独り子にあるが苦しさ 忌部首黒麿(いみべのおびとくろまろ)が友の来ること遅きを恨むる歌一首 1008 山の端にいさよふ月の出でむかと吾(あ)が待つ君が夜は降ちつつ 冬十一月(しもつき)、左大弁(ひだりのおほきおほともひ)葛城王(かづらきのおほきみ)等(たち)に、橘の氏(うぢ)を賜姓(たま)へる時、みよみませる御製歌(おほみうた)一首 1009 橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の木      右、冬十一月九日、従三位葛城王、従四位上佐為王等、      皇族ノ高名ヲ辞シ、外家ノ橘姓ヲ賜フコト已ニ訖リヌ。      時ニ太上天皇、皇后、共ニ皇后宮ニ在シテ、肆宴ヲ為シ、      即チ橘ヲ賀(ホ)ク歌ヲ御製シ、マタ御酒ヲ宿禰等ニ賜フ。      或ハ云ク、此ノ歌一首、太上天皇ノ御歌ナリ。但シ天皇      皇后ノ御歌ハ各一首有リ。其ノ歌遺落シテ探リ求ムルコ      トヲ得ズ。今案内ヲ検フルニ、八年十一月九日、葛城王      等橘宿禰ノ姓ヲ願ヒ表ヲ上ル。十七日ヲ以テ表ニ依リ乞      ヒ橘宿禰ヲ賜フト。 橘宿禰奈良麿が詔を応りてよめる歌一首 1010 奥山の真木の葉しのぎ降る雪の降りは増すとも地(つち)に落ちめやも 冬十二月(しはす)の十二日(とをまりふつかのひ)、歌舞所(うたまひどころ)の諸王臣子等(おほきみまへつきみたち)、葛井連廣成が家に集ひて宴せる歌二首 比来古舞盛ニ興リテ、古歳漸(ヤヤ)ク晩(ク)レヌ。理、共ニ古情ヲ尽シテ、同ニ此ノ歌ヲ唄フベシ。故ニ此ノ趣ニ擬ヘテ、輙(スナハ)チ古曲二節ヲ献ル。風流意気ノ士、儻(モ)シ此ノ集ノ中ニ在ラバ、発念ヲ争ヒ、心々ニ古体ニ和ヘヨ。 1011 我が屋戸の梅咲きたりと告げ遣らば来(こ)ちふに似たり散りぬともよし 1012 春されば撓(をを)りに撓り鴬の鳴く吾(あ)が山斎(しま)そ止まず通はせ 九年(ここのとせといふとし)丁丑(ひのとうし)春正月(むつき)、橘少卿(たちばなのおとまへつきみ)、また諸大夫等(まへつきみたち)の、弾正尹(ただすつかさのかみ)門部王の家に集ひて宴せる歌二首 1013 あらかじめ君来まさむと知らませば門に屋戸にも玉敷かましを      右の一首は、主人(あろじ)門部王 後、大原真人氏ヲ賜姓フ。 1014 一昨日(をとつひ)も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも      右の一首は、橘宿禰文成(あやなり) 少卿ノ子ナリ。 榎井王の後に追ひて和へたまへる歌一首 1015 玉敷きて待たえしよりはたけそかに来たる今宵し楽しく思ほゆ 春二月(きさらき)、諸大夫等、左少弁(ひだりのすなきおほともひ)巨勢宿奈麻呂朝臣の家に集ひて宴せる歌一首 1016 海原の遠き渡りを遊士(みやびを)の遊ぶを見むとなづさひそ来し      右ノ一首ハ、白紙ニ書キテ屋ノ壁ニ懸ケ著ケタリ。      題シテ云ク、蓬莱ノ仙媛ノ作メル。謾ニ風流秀才ノ      士ノ為ナリ。斯凡客ノ望ミ見ル所ニアラズカト。 夏四月(うつき)、大伴坂上郎女が賀茂の神社(かみのやしろ)を拝(をろが)み奉る時、相坂山を超え、近江の海を望見(みさ)けて、晩頭(ゆふへ)に還り来たるときよめる歌一首 1017 木綿畳(ゆふたたみ)手向(たむけ)の山を今日越えていづれの野辺に廬りせむ吾等(あれ) 十年(ととせといふとし)戊寅(つちのえとら)、元興寺(ぐわむこうじ)の僧(ほうし)が自ら嘆く歌一首 1018 白珠は人に知らえず知らずともよし知らずとも吾(あれ)し知れらば知らずともよし      右ノ一首ハ、或ハ云ク、元興寺ノ僧、独リ覚リテ智多ケレドモ、      顕聞スルトコロ有ラズ、衆諸狎侮(アナヅ)リキ。此ニ因リテ僧此ノ歌ヲ      作(ヨ)ミ、自ラ身ノ才ヲ嘆ク。 石上乙麿(いそのかみのおとまろ)の卿(まへつきみ)の、土佐の国に配(はなた)えし時の歌三首、また短歌 1019 石上(いそのかみ) 布留(ふる)の尊(みこと)は 手弱女(たわやめ)の 惑(さど)ひによりて    馬じもの 縄取り付け 獣(しし)じもの 弓矢囲(かく)みて    大王(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 天ざかる 夷辺(ひなへ)に罷(まか)る    古衣(ふるころも) 真土の山ゆ 帰り来ぬかも 1020 大王の 命畏み さし並の 国に出でます    はしきやし 我が背の君を (1021)かけまくも 忌々(ゆゆ)し畏し 住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとかみ)    船の舳(へ)に うしはきたまひ 着きたまはむ 島の崎々    依りたまはむ 磯の崎々 荒き波 風に遇はせず    障(つつ)みなく み病あらず 速(すむや)けく 帰したまはね もとの国辺に      右の二首は、石上の卿の妻(め)がよめる。 1022 父君に 吾(あれ)は愛子(まなご)ぞ 母刀自(おもとじ)に 吾(あれ)は愛子ぞ    参上(まゐのぼ)り 八十氏人(やそうぢひと)の 手向する 畏(かしこ)の坂に    幣(ぬさ)奉(まつ)り 吾(あれ)はぞ退(まか)る 遠き土佐道を 反し歌一首 1023 大崎の神の小浜(をはま)は狭けども百船人(ももふなひと)も過ぐと言はなくに      右の二首は、石上の卿のよめる。 秋八月(はつき)二十日(はつかのひ)、右大臣(みぎのおほまへつきみ)橘の家に宴せる歌四首 1024 長門なる沖つ借島奥まへて吾(あ)が思(も)ふ君は千年にもがも      右の一歌は、長門守巨曽倍對馬(こそべのつしま)朝臣。 1025 奥まへて吾(あれ)を思へる我が背子は千年五百年(いほとせ)ありこせぬかも      右の一歌は、右大臣の和へたまへる歌。 1026 百敷の大宮人は今日もかも暇を無みと里に出でざらむ      右の一首は、右大臣の伝へ云(の)りたまはく、      故(もと)の豊島采女(てしまのうねべ)が歌。 1027 橘の本に道踏み八衢(やちまた)に物をそ思ふ人に知らえず      右の一歌は、右大弁(みぎのおほきおほともひ)高橋安麿の卿語りけらく、      故の豊島采女がよめるなり。      但シ或ル本ニ云ク、三方沙彌、妻ノ苑臣ヲ恋ヒテ作メル歌ナリト。      然ラバ則チ、豊島采女、当時当所ニ此ノ歌ヲ口吟(ウタ)ヘルカ。 十一年(ととせまりひととせといふとし)己卯(つちのとう)、天皇(すめらみこと)高圓の野に遊猟(みかり)したまへる時、小さき獣(けだもの)堵里(さと)の中(うち)に泄(い)で走る。是に勇士(ますらを)に適値(あ)ひて生きながら獲(え)らえぬ。即ち此の獣を御在所(みもと)に献上るとき副ふる歌一首 獣ノ名ハ俗ニ牟射佐妣(ムササビ)ト曰フ 1028 大夫(ますらを)の高圓山に迫めたれば里に下(お)り来(け)るむささびそこれ      右の一歌は、大伴坂上郎女がよめる。但シ奏ヲ      逕ズシテ小獣死シ斃レヌ。此ニ因リテ献歌停ム。 十二年(ととせまりふたとせといふとし)庚辰(かのえたつ)冬十月(かみなつき)、太宰少弐(おほみこともちのすなきすけ)藤原朝臣廣嗣が反謀(みかどかたぶ)けむとして軍(いくさ)を発(おこ)せるに、伊勢国に幸(いでま)せる時、河口の行宮(かりみや)にて内舎人(うちとねり)大伴宿禰家持がよめる歌一首 1029 河口(かはくち)の野辺に廬りて夜の歴(ふ)れば妹が手本し思ほゆるかも 天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)一首 1030 妹に恋ひ吾(あ)が松原よ見渡せば潮干の潟に鶴(たづ)鳴き渡る 丹比屋主真人(たぢひのいへぬしのまひと)が歌一首 1031 後れにし人を思(しぬ)はく四泥(しで)の崎木綿取り垂(し)でて往かむとそ思(も)ふ 独り行宮に残(おくれゐ)て大伴宿禰家持がよめる歌二首 1032 天皇(おほきみ)の行幸(いでまし)のまに我妹子(わぎもこ)が手枕巻かず月そ経にける 1033 御食(みけ)つ国志摩の海人(あま)ならし真熊野の小船(をぶね)に乗りて沖へ榜ぐ見ゆ 美濃国多藝(たぎ)の行宮にて、大伴宿禰東人がよめる歌一首 1034 古(いにしへ)よ人の言ひ来(け)る老人の変若(を)つちふ水そ名に負ふ滝の瀬 大伴宿禰家持がよめる歌一首 1035 田跡川(たどかは)の滝(たぎ)を清みか古ゆ宮仕へけむ多藝の野の上(へ)に 不破の行宮にて、大伴宿禰家持がよめる歌一首 1036 関なくば帰りにだにも打ち行きて妹が手枕巻きて寝ましを 十五年(ととせまりいつとせといふとし)癸未(みづのとひつじ)秋八月(はつき)の十六日(とをかまりむかのひ)、内舎人大伴宿禰家持が久邇(くに)の京を讃へてよめる歌一首 1037 今造る久邇の都は山河の清(さや)けき見ればうべ知らすらし 高丘河内連(たかをかのかふちのむらじ)が歌二首 1038 故郷は遠くもあらず一重山越ゆるがからに思ひぞ吾(あ)がせし 1039 我が背子と二人し居れば山高み里には月は照らずともよし 安積親王の左少弁(ひだりのすなきおほともひ)藤原八束朝臣が家に宴したまふ日、内舎人大伴宿禰家持がよめる歌一首 1040 久かたの雨は降りしけ思ふ子が屋戸に今夜は明かしてゆかむ 十六年(ととせまりむとせといふとし)甲申(きのえさる)、春正月(むつき)の五日(いつかのひ)、諸卿大夫(まへつきみたち)安倍蟲麻呂朝臣が家に集ひて宴せる歌一首 1041 我が屋戸の君松の木に降る雪の行きには行かじ待ちにし待たむ 同じ月十一日(とをかまりひとひ)、活道(いくぢ)の岡に登り、一株松(ひとつまつ)の下(もと)に集ひて飲(うたげ)せる歌二首 1042 一つ松幾代か経ぬる吹く風の声の清(す)めるは年深みかも      右の一首は、市原王のよみたまへる。 1043 玉きはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとそ思(も)ふ      右の一首は、大伴宿禰家持がよめる。 寧樂(なら)の京(みやこ)の荒墟(あれたる)を傷惜(をし)みてよめる歌三首 作者不審 1044 紅に深く染みにし心かも奈良の都に年の経ぬべき 1045 世の中を常無きものと今ぞ知る奈良の都のうつろふ見れば 1046 石綱(いはつな)のまた変若(を)ちかへり青丹よし奈良の都をまた見なむかも 寧樂の京の故郷(あれたる)を悲しみよめる歌一首、また短歌 1047 やすみしし 我が大王(おほきみ)の 高敷かす 大和の国は    皇祖(すめろき)の 神の御代より 敷きませる 国にしあれば    生(あ)れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天の下 知ろしめさむと    八百万(やほよろづ) 千年を兼ねて 定めけむ 奈良の都は    陽炎(かぎろひ)の 春にしなれば 春日山 御笠の野辺に    桜花 木の暗(くれ)隠り 貌鳥は 間なくしば鳴く    露霜の 秋さり来れば 射鉤(いかひ)山 飛火(とぶひ)が岳(たけ)に    萩の枝(え)を しがらみ散らし さ牡鹿は 妻呼び響(とよ)め    山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし    物部(もののふ)の 八十伴の男の うちはへて 里並みしけば    天地の 寄り合ひの極み 万代に 栄えゆかむと    思ひにし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を    新代(あらたよ)の 事にしあれば 大王の 引きのまにまに    春花の うつろひ変り 群鳥の 朝立ち行けば    刺竹(さすだけ)の 大宮人の 踏み平し 通ひし道は    馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも 反し歌二首 1048 建ち替り古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり 1049 馴(な)つきにし奈良の都の荒れゆけば出で立つごとに嘆きし増さる 久邇(くに)の新京(にひみやこ)を讃ふる歌二首、また短歌 1050 現(あき)つ神 我が大王の 天の下 八島の内に    国はしも 多くあれども 里はしも さはにあれども    山並の よろしき国と 川並の 立ち合ふ里と    山背の 鹿背(かせ)山の際(ま)に 宮柱 太敷きまつり    高知らす 布當(ふたぎ)の宮は 川近み 瀬の音(と)ぞ清き    山近み 鳥が音(ね)響(とよ)む 秋されば 山もとどろに    さ牡鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺も繁(しじ)に    巌には 花咲き撓(をを)り あなおもしろ 布當の原    いと貴(たふと) 大宮所 諾(うべ)しこそ 我が大王は    君のまに 聞かしたまひて 刺竹の 大宮ここと 定めけらしも 反し歌二首 1051 三香(みか)の原布當の野辺を清みこそ大宮所定めけらしも 1052 山高く川の瀬清し百代まで神(かむ)しみゆかむ大宮所 1053 吾が大王 神の命の 高知らす 布當の宮は    百木盛る 山は木高(こだか)し 落ちたぎつ 瀬の音(と)も清し    鴬の 来鳴く春へは 巌には 山下光り    錦なす 花咲き撓(をを)り さ牡鹿の 妻呼ぶ秋は    天霧(あまぎら)ふ 時雨をいたみ さ丹頬(にづら)ふ 黄葉(もみち)散りつつ    八千年(やちとせ)に 生(あ)れ付かしつつ 天の下 知ろしめさむと    百代にも 変るべからぬ 大宮所 反し歌五首 1054 泉川行く瀬の水の絶えばこそ大宮所移ろひ行かめ 1055 布當山山並見れば百代にも変るべからぬ大宮所 1056 娘子らが続麻(うみを)懸くちふ鹿背の山時しゆければ都となりぬ 1057 鹿背の山木立を繁み朝さらず来鳴き響もす鴬の声 1058 狛山に鳴く霍公鳥(ほととぎす)泉川渡りを遠みここに通はず 春日(はるのころ)、三香原(みかのはら)の都の荒墟(あれたる)を悲傷(かな)しみよめる歌一首、また短歌 1059 三香の原 久邇の都は 山高み 川の瀬清み    在りよしと 人は言へども 住みよしと 吾(あれ)は思へど    古りにし 里にしあれば 国見れど 人も通はず    里見れば 家も荒れたり 愛(は)しけやし かくありけるか    三諸(みもろ)つく 鹿背山の際に 咲く花の 色めづらしく    百鳥の 声なつかしき ありが欲し 住みよき里の 荒るらく惜しも 反し歌二首 1060 三香の原久邇の都は荒れにけり大宮人のうつろひぬれば 1061 咲く花の色は変らず百敷の大宮人ぞたち変りける 難波の宮にてよめる歌一首、また短歌 1062 やすみしし 我が大王の あり通ふ 難波の宮は    鯨魚(いさな)取り 海片付きて 玉拾(ひり)ふ 浜辺を近み    朝羽振る 波の音(と)騒き 夕凪に 楫の音聞こゆ    暁の 寝覚に聞けば 海近み 潮干の共(むた)    浦洲には 千鳥妻呼び 葦辺には 鶴(たづ)が音響む    見る人の 語りにすれば 聞く人の 見まく欲りする    御食(みけ)向ふ 味経(あぢふ)の宮は 見れど飽かぬかも 反し歌二首 1063 あり通ふ難波の宮は海近み海人娘子らが乗れる船見ゆ 1064 潮干れば葦辺に騒く白鶴(あしたづ)の妻呼ぶ声は宮もとどろに 敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時よめる歌一首、また短歌 1065 八千桙(やちほこ)の 神の御代より 百船(ももふね)の 泊つる泊と    八島国 百船人(ももふなひと)の 定めてし 敏馬の浦は    朝風に 浦波騒き 夕波に 玉藻は来寄る    白沙(しらまなご) 清き浜辺は 往き還り 見れども飽かず    諾しこそ 見る人毎に 語り継ぎ 偲(しぬ)ひけらしき    百代経て 偲はえゆかむ 清き白浜 反し歌二首 1066 真澄鏡敏馬の浦は百船の過ぎて行くべき浜ならなくに 1067 浜清み浦うるはしみ神代より千船の泊つる大和太(おほわだ)の浜      右ノ二十一首ハ、田邊福麻呂ガ歌集ノ中ニ出ヅ。 -------------------------------------------------------- .巻第七(ななまきにあたるまき) 雑歌(くさぐさのうた) 天(あめ)を詠める 1068 天の海に雲の波立ち月の船星の林に榜ぎ隠る見ゆ      右ノ一首(ヒトウタ)ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 月を詠める 1069 常はかつて思はぬものをこの月の過ぎ隠れまく惜しき宵かも 1070 大夫(ますらを)の弓末(ゆずゑ)振り起し狩高の野辺さへ清く照る月夜(つくよ)かも 1071 山の端にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞ降(くだ)ちける 1072 明日の夜(よひ)照らむ月夜は片寄りに今宵に寄りて夜長からなむ 1073 玉垂(たまたれ)の小簾(をす)の間通し独り居て見る験(しるし)無き夕月夜かも 1074 春日山おして照らせるこの月は妹が庭にも清(さや)けかるらし 1075 海原の道遠みかも月読(つくよみ)の光少き夜は更(くだ)ちつつ 1076 百敷の大宮人の退(まか)り出て遊ぶ今夜の月の清(さや)けさ 1077 ぬば玉の夜渡る月を留めむに西の山辺に関もあらぬかも 1078 この月のここに来たれば今とかも妹が出で立ち待ちつつあらむ 1079 真澄鏡(まそかがみ)照るべき月を白妙の雲か隠せる天つ霧かも 1080 久かたの天(あま)照る月は神代にか出でかへるらむ年は経につつ 1081 ぬば玉の夜渡る月をおもしろみ吾(あ)が居る袖に露ぞ置きにける 1082 水底の玉さへ清く見つべくも照る月夜(つくよ)かも夜の更けぬれば 1083 霜曇りすとにかあらむ久かたの夜渡る月の見えなく思(も)へば 1084 山の端にいさよふ月をいつとかも吾(あ)が待ち居らむ夜は更けにつつ 1085 妹があたり吾(あ)が袖振らむ木の間より出で来る月に雲な棚引き 1086 靫(ゆき)懸くる伴の男(を)広き大伴に国栄えむと月は照るらし 雲を詠める 1087 穴師川(あなしかは)川波立ちぬ巻向(まきむく)の弓月が岳に雲居立つらし 1088 あしひきの山河(やまがは)の瀬の鳴るなべに弓月が岳に雲立ち渡る      右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 1089 大海に島もあらなくに海原(うなはら)のたゆたふ波に立てる白雲      右ノ一首ハ、伊勢ニ従駕シテ作メル。 雨を詠める 1090 我妹子(わぎもこ)が赤裳の裾の湿(ひづ)つらむ今日の小雨に吾(あれ)さへ濡れな 1091 融(とほ)るべく雨はな降りそ我妹子が形見の衣吾(あれ)下に着(け)り 山を詠める 1092 鳴神の音のみ聞きし巻向の桧原(ひはら)の山を今日見つるかも 1093 三諸(みもろ)のその山並に子らが手を巻向山は続(つぎ)のよろしも 1094 吾(あ)が衣色に染(し)めなむ味酒(うまさけ)三室の山は黄葉(もみち)しにけり      右ノ三首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 1095 三諸つく三輪山見れば隠国(こもりく)の泊瀬の桧原思ほゆるかも 1096 古のことは知らぬを吾(あれ)見ても久しくなりぬ天(あめ)の香具山 1097 我が背子をいで巨勢山と人は言へど君も来まさず山の名にあらし 1098 紀道(きぢ)にこそ妹山ありといへ玉くしげ二上山も妹こそありけれ 岳(をか)を詠める 1099 片岡のこの向つ峯(を)に椎蒔かば今年の夏の蔭になみむか 河を詠める 1100 巻向の穴師の川ゆ行く水の絶ゆること無くまたかへり見む 1101 ぬば玉の夜さり来れば巻向の川音(かはと)高しも嵐かも疾(と)き      右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 1102 大王の御笠の山の帯にせる細谷川の音の清(さや)けさ 1103 今しきは見めやと思(も)ひしみ吉野の大川淀を今日見つるかも 1104 馬並(な)めてみ吉野川を見まく欲り打ち越え来てぞ滝に遊びつる 1105 音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田(むつだ)の淀を今日見つるかも 1106 かはづ鳴く清き川原を今日見てばいつか越し来て見つつ偲はむ 1107 泊瀬川白木綿花(しらゆふはな)に落ちたぎつ瀬を清(さや)けみと見に来し吾(あれ)を 1108 泊瀬川流るる水脈(みを)の瀬を早み井堤(ゐて)越す波の音の清けく 1109 さひのくま桧隈川(ひのくまがは)の瀬を速み君が手取らば言(こと)寄せむかも 1110 ゆ種蒔く荒木の小田を求めむと足結(あゆひ)は濡れぬこの川の瀬に 1111 古もかく聞きつつや偲ひけむこの布留川(ふるかは)の清き瀬の音(と)を 1112 葉根蘰(はねかづら)今する妹をうら若みいざ率川(いざがは)の音の清けさ 1113 この小川霧たなびけり落ち激(たぎ)つ走井(はしゐ)の上に言挙げせねども 1114 吾(あ)が紐を妹が手もちて結八川(ゆふやがは)また還り見む万代までに 1115 妹が紐結八河内(ゆふやかふち)を古の人さへ見つつここを偲ひき 露を詠める 1116 ぬば玉の吾(あ)が黒髪に降りなづむ天の露霜取れば消(け)につつ 花を詠める 1117 島廻(み)すと磯に見し花風吹きて波は寄すとも採らずばやまじ 葉を詠める 1118 古にありけむ人も吾(あ)がごとか三輪の桧原(ひはら)に挿頭(かざし)折りけむ 1119 ゆく川の過ぎにし人の手折(たを)らねばうらぶれ立てり三輪の桧原は      右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 蘿(こけ)を詠める 1120 み吉野の青根が岳の蘿むしろ誰(たれ)か織りけむ経緯(たてぬき)無しに 草を詠める 1121 妹がりと吾(あ)がゆく道の篠芒(しぬすすき)吾(あれ)し通はば靡け篠原 鳥を詠める 1122 山の際(ま)に渡る秋沙(あきさ)の行きて居(ゐ)むその川の瀬に波立つなゆめ 1123 佐保川の清き川原に鳴く千鳥かはづと二つ忘れかねつも 1124 佐保川にさ躍る千鳥夜降(ぐた)ちて汝(な)が声聞けば寝(い)ねかてなくに 故郷(ふるさと)を思(しぬ)ふ 1125 清き瀬に千鳥妻呼び山の際(ま)に霞立つらむ甘南備(かむなび)の里 1126 年月もいまだ経なくに明日香川瀬々(せせ)ゆ渡しし石橋(いはばし)もなし 井を詠める 1127 落ちたぎつ走井(はしゐ)の水の清くあれば度(わた)らふ吾(あれ)は行きかてぬかも 1128 馬酔木(あしび)なす栄えし君が掘りし井の石井(いはゐ)の水は飲めど飽かぬかも 和琴(やまとこと)を詠める 1129 琴取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋(したひ)に妻や隠(こも)れる 芳野にてよめる 1130 神さぶる岩根こごしきみ吉野の水分山(みくまりやま)を見れば愛(かな)しも 1131 人皆の恋ふるみ吉野今日見ればうべも恋ひけり山川清み 1132 夢(いめ)の和太(わだ)言(こと)にしありけり現(うつつ)にも見て来しものを思ひし思(も)へば 1133 皇祖神(すめろき)の神の宮人野老葛(ところづら)いや常(とこ)しくに吾(あれ)かへり見む 1134 吉野川石(いは)と柏と常磐なす吾(あれ)は通はむ万代までに 山背にてよめる 1135 宇治川は淀瀬無からし網代人(あじろひと)舟呼ばふ声をちこち聞こゆ 1136 宇治川に生ふる菅藻を川速み採らず来にけり苞(つと)にせましを 1137 宇治人の譬ひの網代君しあらば今は寄らまし木積(こつ)ならずとも 1138 宇治川を船渡せをと呼ばへども聞こえざるらし楫の音(と)もせず 1139 ちはや人宇治川波を清みかも旅行く人の立ちかてにする 摂津(つのくに)にてよめる 1140 しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿は無くして 1141 武庫川(むこかは)の水脈を速みと赤駒の足掻くたぎちに濡れにけるかも 1142 命を幸(さき)くあらむと石走る垂水の水を結びて飲みつ 1143 さ夜更けて堀江榜ぐなる松浦船(まつらぶね)楫の音(と)高し水脈速みかも 1144 悔しくも満ちぬる潮か住吉(すみのえ)の岸の浦廻よ行かましものを 1145 妹がため貝を拾(ひり)ふと茅渟(ちぬ)の海に濡れにし袖は干せど乾かず 1146 めづらしき人を我家(わぎへ)に住吉の岸の埴生(はにふ)を見むよしもがも 1147 暇(いとま)あらば拾ひに行かむ住吉の岸に寄るちふ恋忘れ貝 1148 馬並(な)めて今日吾(あ)が見つる住吉の岸の埴生を万代に見む 1149 住吉に往きにし道に昨日見し恋忘れ貝言にしありけり 1150 住吉の岸に家もが沖に辺に寄する白波見つつ偲はむ 1151 大伴の御津の浜辺を打ちさらし寄せ来る波のゆくへ知らずも 1152 楫の音(と)ぞほのかにすなる海未通女(あまをとめ)沖つ藻刈りに舟出すらしも 1153 住吉の名児の浜辺に馬並めて玉拾ひしく常忘らえず 1154 雨は降り刈廬は作るいつの間に吾児(あご)の潮干に玉は拾はむ 1155 名児の海の朝明(あさけ)のなごり今日もかも磯の浦廻に乱れてあらむ 1156 住吉の遠里(をり)の小野(をぬ)の真榛(まはり)もち摺れる衣の盛り過ぎぬる 1157 時つ風吹かまく知らに吾児の海の朝明の潮に玉藻刈りてな 1158 住吉の沖つ白波風吹けば来寄する浜を見れば清しも 1159 住吉の岸の松が根打ちさらし寄せ来る波の音の清しも 1160 難波潟潮干に立ちて見渡せば淡路の島に鶴(たづ)渡る見ゆ 覊旅(たび)にてよめる 1161 家離(ざか)り旅にしあれば秋風の寒き夕へに雁鳴き渡る 1162 圓方(まとがた)の港の洲鳥波立てば妻呼びたてて辺に近づくも 1163 年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし知多の浦に朝榜ぐ舟も沖に寄る見ゆ 1164 潮干れば共に潟に出(で)鳴く鶴(たづ)の声遠ざかれ磯廻すらしも 1165 夕凪にあさりする鶴(たづ)潮満てば沖波高み己妻(おのづま)呼ぶも 1166 古にありけむ人の求めつつ衣に摺りけむ真野の榛原 1167 あさりすと磯に吾(あ)が見し名告藻(なのりそ)をいづれの島の海人か刈るらむ 1168 今日もかも沖つ玉藻は白波の八重折るが上に乱れてあらむ 1169 近江の海(み)港八十(やそ)あり何処(いづく)にか君が舟泊て草結びけむ 1170 楽浪(ささなみ)の連庫山(なみくらやま)に雲ゐれば雨そ降るちふ帰り来(こ)我が背 1171 大御船(おほみふね)泊ててさもらふ高島の三尾の勝野(かちぬ)の渚し思ほゆ 1172 何処にか舟(ふな)乗りしけむ高島の香取の浦ゆ榜ぎ出来し船 1173 飛騨人の真木流すちふ丹生(にふ)の川言は通へど船ぞ通はぬ 1174 霰降り鹿島の崎を波高み過ぎてや行かむ恋しきものを 1175 足柄の箱根飛び越え行く鶴(たづ)の羨(とも)しき見れば大和し思ほゆ 1176 夏麻引(なつそび)く海上潟(うなかみがた)の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず 1177 若狭なる三方の海の浜清みい往き返らひ見れど飽かぬかも 1178 印南野は行き過ぎぬらし天伝(あまづた)ふ日笠の浦に波立てり見ゆ 1179 家にして吾(あれ)は恋ひむな印南野の浅茅が上に照りし月夜を 1180 荒磯(ありそ)越す波を畏み淡路島見ずや過ぎなむここだ近きを 1181 朝霞止まず棚引く龍田山船出せむ日は吾(あれ)恋ひむかも 1182 海人小舟帆かも張れると見るまでに鞆之浦廻(とものうらみ)に波立てり見ゆ 1183 ま幸(さき)くてまた還り見む大夫(ますらを)の手に巻き持たる鞆之浦廻を 1184 鳥じもの海に浮き居て沖つ波騒くを聞けばあまた悲しも 1185 朝凪に真楫榜ぎ出て見つつ来し御津の松原波越しに見ゆ 1186 あさりする海未通女(あまをとめ)らが袖通り濡れにし衣干せど乾かず 1187 網引する海人とや見らむ飽浦(あくのうら)の清き荒磯を見に来し吾(あれ)を      右ノ一首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 1188 山越えて遠津の浜の磯躑躅還り来むまでふふみてあり待て 1189 大海に嵐な吹きそしなが鳥猪名の湊に舟泊つるまで 1190 舟泊てて杙(かし)振り立てて廬りせな子潟(こがた)の浜辺過ぎかてぬかも 1191 妹が門入り泉川の瀬を速み吾(あ)が馬(うま)つまづく家思(も)ふらしも 1192 白たへににほふ真土の山川に吾(あ)が馬なづむ家恋ふらしも 1193 勢(せ)の山に直(ただ)に向へる妹の山事許せやも打橋渡す 1194 紀の国の雑賀(さひか)の浦に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ 1195 麻衣(あさころも)着(け)ればなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹(わぎも)      右ノ七首ハ、藤原卿作メリ。年月審ラカナラズ。 1196 苞(つと)もがと乞はば取らせむ貝拾(ひり)ふ吾(あれ)を濡らすな沖つ白波 1197 手に取るがからに忘ると海人の言ひし恋忘れ貝言にしありけり 1198 あさりすと磯に棲む鶴(たづ)明けゆけば浜風寒み己妻(おのつま)呼ぶも 1199 藻刈舟(もかりぶね)沖榜ぎ来らし妹が島形見の浦に鶴(たづ)翔る見ゆ 1200 我が舟は沖よな離(さか)り迎ひ舟片待ちがてり浦ゆ榜ぎ逢はむ 1201 大海の水底響(とよ)み立つ波の寄せむと思(も)へる磯のさやけさ 1202 荒磯ゆもまして思へや玉之浦離(さか)る小島の夢にし見ゆる 1203 磯の上(へ)に爪木折り焚き汝(な)が為と吾(あ)が潜(かづ)き来し沖つ白玉 1204 浜清み磯に吾(あ)が居れば見む人は海人とか見らむ釣もせなくに 1205 沖つ楫やうやうな榜ぎ見まく欲り吾(あ)がする里の隠らく惜しも 1206 沖つ波辺つ藻巻き持ち寄せ来とも君にまされる玉寄せめやも 1207 粟島に榜ぎ渡らむと思へども明石の門波(となみ)いまだ騒けり 1208 妹に恋ひ吾(あ)が越えゆけば勢の山の妹に恋ひずてあるが羨しさ 1209 人ならば母の愛子(まなご)そ麻裳(あさも)よし紀の川の辺の妹と背の山 1210 我妹子に吾(あ)が恋ひゆけば羨しくも並びをるかも妹と背の山 1211 妹があたり今ぞ吾(あ)が行く目のみだに吾(あれ)に見せこそ言問はずとも 1212 阿提(あて)過ぎて糸鹿(いとか)の山の桜花散らずあらなむ還り来むまで 1213 名草山(なぐさやま)言にしありけり吾(あ)が恋ふる千重の一重も慰めなくに 1214 安太(あた)へ行く推手(をすて)の山の真木の葉も久しく見ねば蘿むしにけり 1215 玉津島(たまづしま)よく見ていませ青丹よし奈良なる人の待ち問はばいかに 1216 潮満たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が門(と)渡る海未通女ども 1217 玉津島見てしよけくも吾(あれ)はなし都に行きて恋ひまく思(も)へば 1218 黒牛の海(み)紅にほふ百敷の大宮人し漁りすらしも 1219 若の浦に白波立ちて沖つ風寒き夕へは大和し思ほゆ 1220 妹が為玉を拾ふと紀の国の由良の岬にこの日暮らしつ 1221 吾(あ)が舟の楫をばな引き大和より恋ひ来(こ)し心いまだ飽かなくに 1222 玉津島見れども飽かずいかにして包み持ちゆかむ見ぬ人の為 1223 海(わた)の底沖榜ぐ舟を辺に寄せむ風も吹かぬか波立てずして 1224 大葉山(おほはやま)霞たなびき小夜更けて吾(あ)が船泊てむ泊知らずも 1225 さ夜更けて夜中の方におほほしく呼びし舟人泊てにけむかも 1226 神(かみ)の崎荒磯も見えず波立ちぬいづくゆ行かむ避道(よきぢ)は無しに 1227 磯に立ち沖辺を見れば海藻刈舟(めかりぶね)海人榜ぎ出(づ)らし鴨翔る見ゆ 1228 風早(かざはや)の三穂の浦廻を榜ぐ船の舟人騒く波立つらしも 1229 吾(あ)が舟は明石の浦に榜ぎ泊てむ沖へな離(さか)りさ夜更けにけり 1230 ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも吾(あ)をば忘れじ志加(しか)の皇神(すめかみ) 1231 天霧(あまぎら)ひ日方(ひかた)吹くらし水茎(みづくき)の崗の湊に波立ち渡る 1232 大海の波は畏し然れども神を斎(いは)ひて船出せばいかに 1233 未通女(をとめ)らが織る機(はた)の上(へ)を真櫛もち掻上(かか)げ栲島(たくしま)波の間ゆ見ゆ 1234 潮速み磯廻に居れば漁りする海人とや見らむ旅ゆく我を 1235 波高し如何に楫取水鳥の浮寝やすべき猶や榜ぐべき 1236 夢のみに継ぎて見えつつ高島の磯越す波のしくしく思ほゆ 1237 静けくも岸には波は寄せけるかこの家通し聞きつつ居れば 1238 高島の安曇(あど)河波は騒けども吾(あれ)は家思(も)ふ廬り悲しみ 1239 大海の磯もと揺すり立つ波の寄せむと思(も)へる浜の清(さや)けく 1240 玉くしげ見諸戸山(みもろとやま)を行きしかば面白くして古思ほゆ 1241 ぬば玉の黒髪山を朝越えて山下露に濡れにけるかも 1242 あしひきの山ゆき暮らし宿借らば妹立ち待ちて宿貸さむかも 1243 見渡せば近き里廻を廻(たもとほ)り今そ吾(あ)が来し領巾(ひれ)振りし野に 1244 未通女らが放(はなり)の髪を由布の山雲な棚引き家のあたり見む 1245 志加の海人の釣船の綱耐へかてに心に思(も)ひて出でて来にけり 1246 志加の海人の塩焼く煙(けぶり)風をいたみ立ちは上らず山に棚引く      右ノ件ノ歌ハ、古集ノ中ニ出ヅ。 1247 大穴牟遅(おほなむぢ)少御神(すくなみかみ)の作らしし妹背の山は見らくしよしも 1248 我妹子と見つつ偲はむ沖つ藻の花咲きたらば吾(あれ)に告げこそ 1249 君がため浮沼(うきぬ)の池の菱摘むと吾(あ)が染衣(しめころも)濡れにけるかも 1250 妹がため菅の実採りに行きし吾(あれ)山道に惑ひこの日暮らしつ      右ノ四首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 1417 名児の海を朝榜ぎ来れば海中(わたなか)に鹿子(かこ)ぞ呼ぶなるあはれその水夫(かこ) 問ひ答へのうた 1251 佐保川に鳴くなる千鳥何しかも川原を偲(しぬ)ひいや川上る 1252 人こそは凡(おほ)にも言はめ吾(あ)がここだ偲ふ川原を標(しめ)結ふなゆめ      右の二首(ふたうた)は、鳥を詠める。 1253 楽浪の志賀津の海人は吾(あれ)無しに潜(かづ)きはなせそ波立たずとも 1254 大船に楫しもあらなむ君無しに潜きせめやも波立たずとも      右の二首は、白水郎(あま)を詠める。 時に臨(つ)けてよめる 1255 月草に衣ぞ染(そ)める君がため斑の衣摺らむと思(も)ひて 1256 春霞井の上(へ)よ直(ただ)に道はあれど君に逢はむと廻(たもとほ)り来(く)も 1257 道の辺(べ)の草深百合(くさふかゆり)の花笑みに笑まししからに妻と言ふべしや 1258 黙(もだ)あらじと言のなぐさに言ふことを聞き知れらくは苛(から)くそありける 1259 佐伯山卯の花持ちし愛(かな)しきが手をし取りてば花は散るとも 1260 時じくに斑の衣着欲しきか島の榛原時にあらねども 1261 山守の里へ通ひし山道ぞ茂くなりける忘れけらしも 1262 あしひきの山椿咲く八峯(やつを)越え鹿(しし)待つ君が斎(いは)ひ妻かも 1263 暁(あかつき)と夜烏鳴けどこの岡の木末(こぬれ)の上はいまだ静けし 1264 西の市にただ独り出て目並べず買へりし絹の商(あき)じこりかも 1265 今年行く新(にひ)防人が麻衣肩のまよひは誰か取り見む 1266 大舟を荒海(あるみ)に榜ぎ出八船たけ吾(あ)が見し子らが目(まみ)は著(しる)しも 所に就けて思ひを発(の)ぶ 1267 百敷の大宮人の踏みし跡ところ沖つ波来寄らざりせば失せざらましを 旋頭歌      右ノ十七首ハ、古歌集ニ出ヅ。 1268 子らが手を巻向山(まきむくやま)は常にあれど過ぎにし人に行き巻かめやも 1269 巻向の山辺響(とよ)みて行く水の水沫(みなわ)の如し世の人吾等(われ)は      右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 物に寄せて思ひを発(の)ぶ 旋頭歌 1272 大刀の後(しり)鞘に入野(いりぬ)に葛引く我妹(わぎも)真袖もち着せてむとかも夏葛引くも 1273 住吉(すみのえ)の波豆麻(なみづま)君が馬乗衣(うまのりごろも)さにづらふ漢女(をとめ)を座(ま)せて縫へる衣ぞ 1274 住吉の出見(いでみ)の浜の浜菜刈らさね未通女(をとめ)ども赤裳の裾湿(ひ)ぢゆかまくも見む 1275 住吉の小田を刈らす子奴(やつこ)かも無き奴あれど妹がみためと秋の田刈るも 1276 池の辺(べ)の小槻(をつき)がもとの小竹(しぬ)な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ 1277 天なる姫菅原の草な刈りそね蜷(みな)の腸(わた)か黒き髪に芥し付くも 1278 夏蔭の寝屋の下に衣(きぬ)裁つ我妹うら設(ま)けて吾(あ)がため裁たばいや広(ひろ)に裁て 1279 梓弓引津の辺(べ)なる名告藻(なのりそ)の花摘むまでに逢はざらめやも名告藻の花 1280 打日さす宮道(みやぢ)を行くに吾(あ)が裳(も)は破(や)れぬ玉の緒の思ひ乱れて家にあらましを 1281 君がため手力(たぢから)疲れ織りたる衣(きぬ)を春さらばいかなる色に摺りてばよけむ 1282 梯立(はしたて)の倉梯山に立てる白雲見まく欲り吾(あ)がするなへに立てる白雲 1283 梯立の倉梯川の石(いは)の橋はも男盛(をさかり)に吾(あ)が渡せりし石の橋はも 1284 梯立の倉梯川の川の静菅(しづすげ)吾(あ)が刈りて笠にも編まず川の静菅 1285 春日(はるひ)すら田に立ち疲る君は悲しも若草の妻なき君が田に立ち疲る 1286 山背(やましろ)の久世の社(やしろ)の草な手折りそ己(し)が時と立ち栄ゆとも草な手折りそ 1287 青みづら依網(よさみ)の原に人も逢はぬかも石(いは)走る淡海県(あふみあがた)の物語せむ 1288 水門(みなと)の葦の末葉(うらは)を誰か手折りし我が背子が袖振る見むと吾(あれ)ぞ手折りし 1289 垣越ゆる犬呼び越せて鳥猟(とがり)する君青山の茂き山辺馬休め君 1290 海(わた)の底沖つ玉藻の名告藻の花妹と吾(あれ)ここにありと名告藻(なのりそ)の花 1291 この岡に草刈る小子(こども)しかな刈りそねありつつも君が来まさむ御馬草(みまくさ)にせむ 1292 江林(えはやし)にやどる猪鹿(しし)やも求むるによき白たへの袖巻き上げて猪鹿待つ我が背 1293 霰降り遠江(とほつあふみ)の吾跡川楊(あどがはやなぎ)刈れれどもまたも生ふちふ吾跡川楊 1294 朝月日(あさづくひ)向ひの山に月立てり見ゆ遠妻を持たらむ人し見つつ偲はむ      右ノ二十三首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 1295 春日(かすが)なる三笠の山に月の船出づ遊士(みやびを)の飲む酒杯に影に見えつつ      右ノ一首ハ、古歌集ニ出ヅ。 行路(みちゆきぶりのうた) 1271 遠くありて雲居に見ゆる妹が家(へ)に早く至らむ歩め黒駒      右ノ一首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 譬喩歌(たとへうた) 衣(ころも)に寄す 1296 今作る斑の衣目につきて吾(あれ)は思ほゆいまだ着ねども 1297 紅に衣染(し)めまく欲しけども着てにほはばや人の知るべき 1298 かにかくに人は言ふとも織り継がむ吾(あ)が機物(はたもの)の白麻衣(しろあさごろも)      右ノ三首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 1311 橡(つるはみ)の衣は人の事なしと言ひし時より着欲しく思ほゆ 1312 おほよそに吾(あれ)し思はば下に着てなれにし衣(きぬ)を取りて着めやも 1313 紅の深染(こそめ)の衣下に着て上に取り着ば言(こと)なさむかも 1314 橡の解洗衣(ときあらひきぬ)のあやしくも異(け)に着欲しけきこの夕へかも 1315 橘の島にし居れば川遠み曝さず縫ひし吾(あ)が下衣 糸に寄す 1316 河内女(かふちめ)の手染の糸を繰り返し片糸にあれど絶えむと思(も)へや 日本琴(やまとこと)に寄す 1328 膝に伏す玉の小琴(をこと)の事無くば甚だここだ吾(あれ)恋ひめやも 弓に寄す 1329 陸奥(みちのく)の安太多良(あだたら)真弓弦(つら)はけて引かばか人の吾(あ)を言なさむ 1330 南淵(みなふち)の細川山に立つ檀(まゆみ)弓束(ゆつか)巻くまで人に知らえじ 玉に寄す 1299 あぢ群のむれよる海に船浮けて白玉採ると人に知らゆな 1300 をちこちの磯の中なる白玉を人に知らえず見むよしもがも 1301 海神(わたつみ)の手に巻き持たる玉故に磯の浦廻に潜(かづ)きするかも 1302 海神の持たる白玉見まく欲り千たびそ告げし潜きする海人 1303 潜きする海人は告ぐれど海神の心し得ねば見えむとも云はず      右ノ五首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 1317 海(わた)の底沈(しづ)く白玉風吹きて海は荒るとも取らずばやまじ 1318 底清み沈ける玉を見まく欲り千たびぞ告げし潜きする海人 1319 大海の水底(みなそこ)照らし沈く玉斎(いは)ひて採らむ風な吹きそね 1320 水底に沈く白玉誰ゆゑに心尽して吾(あ)が思(も)はなくに 1321 世間(よのなか)は常かくのみか結びてし白玉の緒の絶ゆらく思(も)へば 1322 伊勢の海の海人の島津(しまつ)が鮑玉(あはびたま)採りて後もか恋の繁けむ 1323 海の底沖つ白玉よしを無み常かくのみや恋ひ渡りなむ 1324 葦の根のねもころ思(も)ひて結びてし玉の緒といはば人解かめやも 1325 白玉を手には巻かずに箱のみに置けりし人ぞ玉溺らする 1326 照左豆我手に巻き古す玉もがもその緒は替へて吾(あ)が玉にせむ 1327 秋風は継ぎてな吹きそ海(わた)の底沖なる玉を手に巻くまでに 山に寄す 1331 磐畳(いはたた)む畏き山と知りつつも吾(あれ)は恋ふるかなそらへなくに 1332 岩が根のこごしく山に入りそめて山なつかしみ出でかてぬかも 1333 佐保山をおほに見しかど今見れば山なつかしも風吹くなゆめ 1334 奥山の岩に苔生し畏けど思ふ心を如何にかもせむ 1335 思ひかていたもすべなみ玉たすき畝傍の山に吾(あれ)標(しめ)結ひつ 木に寄す 1304 天雲の棚引く山の隠(こも)りたる我が下心木の葉知りけむ 1305 見れど飽かぬ人国山の木の葉をし下の心になつかしみ思(も)ふ      右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 1354 白菅の真野の榛原(はりはら)心よも思はぬ君が衣に摺りつ 1355 真木柱作る杣人(そまひと)いささめに仮廬の為と作りけめやも 1356 向つ峰(を)に立てる桃の木生(な)りぬやと人ぞ囁(ささ)めきし汝(な)が心ゆめ 1357 たらちねの母がその業(な)る桑子すら願へば衣に着るちふものを 1358 はしきやし我家(わぎへ)の毛桃本繁く花のみ咲きて生(な)らざらめやも 1359 向つ峰の若桂の木下枝(しづえ)取り花待つい間に嘆きつるかも 草に寄す 1336 冬こもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも吾(あ)が心焼く 1337 葛城(かづらき)の高間の草野(かやぬ)早領(し)りて標(しめ)指さましを今し悔しも 1338 我が屋戸に生ふるつちはり心よも思はぬ人の衣に摺らゆな 1339 月草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ 1340 紫の糸をぞ吾(あ)が搓(よ)るあしひきの山橘を貫(ぬ)かむと思(も)ひて 1341 真玉つく越智の菅原(すがはら)吾(あれ)刈らず人の刈らまく惜しき菅原 1342 山高み夕日隠りぬ浅茅原のち見むために標結はましを 1343 言痛(こちた)くばかもかもせむを磐代の野辺の下草吾(あれ)し刈りてば 1344 真鳥棲む雲梯(うなて)の杜の菅の実を衣にかき付け着せむ子もがも 1345 常知らぬ人国山の秋津野のかきつはたをし夢(いめ)に見しかも 1346 をみなへし佐紀沢(さきさは)の辺(べ)の真葛原いつかも繰りて吾(あ)が衣(きぬ)に着む 1347 君に似る草と見しより吾(あ)が標めし野の上(へ)の浅茅人な刈りそね 1348 三島江の玉江の薦(こも)を標めしより己がとぞ思(も)ふ未だ刈らねど 1349 かくしてや黙止(なほ)や老いなむみ雪降る大荒木野の小竹(しぬ)にあらなくに 1350 近江のや八橋(やばせ)の小竹を矢はがずてまことあり得むや恋(こほ)しきものを 1351 月草に衣は摺らむ朝露に濡れての後はうつろひぬとも 1352 我が心ゆたにたゆたに浮蓴(うきぬなは)辺にも沖にも寄りかてましを 花に寄す 1306 この山の黄葉(もみち)の下に咲く花を吾(あれ)はつはつに見つつ恋ふるも      右ノ一首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 1360 息の緒に思へる吾(あれ)を山ぢさの花にか君がうつろひぬらむ 1361 住吉の浅沢小野のかきつはた衣に摺り付け着む日知らずも 1362 秋さらば移しもせむと吾(あ)が蒔きし韓藍(からゐ)の花を誰か摘みけむ 1363 春日野に咲きたる萩は片枝はいまだふふめり言な絶えそね 1364 見まく欲り恋ひつつ待ちし秋萩は花のみ咲きて生(な)らずかもあらむ 1365 我妹子が屋戸の秋萩花よりは実に成りてこそ恋まさりけれ 稲に寄す 1353 石上(いそのかみ)布留(ふる)の早稲田(わさだ)を秀でずとも縄(しめ)だに延(は)へよ守(も)りつつをらむ 鳥に寄す 1366 明日香川七瀬の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ 獣(けだもの)に寄す 1367 三国山木末(こぬれ)に住まふむささびの鳥待つがごと吾(あれ)待ち痩せむ 雲に寄す 1368 岩倉の小野よ秋津に立ち渡る雲にしもあれや時をし待たむ 雷(いかつち)に寄す 1369 天雲に近く光りて鳴る神の見れば畏(かしこ)し見ねば悲しも 雨に寄す 1370 ここだくも降らぬ雨ゆゑ庭たづみ甚(いた)くな行きそ人の知るべく 1371 久かたの雨には着ぬをあやしくも我が衣手は干(ひ)る時なきか 月に寄す 1372 み空行く月読壮士(つくよみをとこ)夕さらず目には見れども寄るよしも無し 1373 春日山山高からし石上(いそのかみ)菅根見むに月待ちがたし 1374 闇の夜は苦しきものをいつしかと我が待つ月も早も照らぬか 1375 朝霜の消(け)やすき命誰がために千年もがもと吾(あ)が思(も)はなくに      右ノ一首ハ、譬喩歌ノ類ニアラズ。但シ闇ノ夜ノ歌人ノ、所心      ノ故ニ並ニ此ノ歌ヲ作ム。コレニ因リテ此ノ歌、此ノ次ニ載ス。 赤土(はに)に寄す 1376 大和の宇陀の真赤土(まはに)のさ丹(に)付かばそこもか人の吾(あ)を言(こと)なさむ 神に寄す 1403 御幣(みぬさ)取り神の祝(はふり)が斎(いは)ふ杉原薪伐りほとほとしくに手斧取らえぬ 旋頭歌 1377 木綿懸けて祭(いは)ふ三諸の神さびて斎(い)むにはあらず人目多みこそ 1378 木綿懸けて斎ふこの社(もり)越えぬべく思ほゆるかも恋の繁きに 川に寄す 1307 この川よ船は行くべくありといへど渡り瀬ごとに守(も)る人あるを      右ノ一首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 1379 絶えずゆく明日香の川の淀めらば故しもあるごと人の見まくに 1380 明日香川瀬々(せせ)に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに 1381 広瀬川袖漬(つ)くばかり浅きをや心深めて吾(あ)は思へらむ 1382 泊瀬川流るる水沫(みを)の絶えばこそ吾(あ)が思(も)ふ心遂げじと思はめ 1383 嘆きせば人知りぬべみ山川(やまがは)のたぎつ心を塞(せ)かへたるかも 1384 水隠(みこも)りに息づきあまり早川の瀬には立つとも人に言はめやも 埋木(うもれき)に寄す 1385 真鉋(まかな)持ち弓削(ゆげ)の川原の埋木のあらはるまじき事とあらなくに 海に寄す 1308 大海は水門(みなと)を候(まも)る事しあらばいづへよ君が吾(あ)を率(ゐ)隠れむ 1309 風吹きて海は荒るとも明日と言はば久しかるべし君がまにまに 1310 雲隠る小島の神の畏けば目は隔つれど心隔つや      右ノ三首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 1386 大船に真楫しじ貫(ぬ)き榜ぎ出にし沖は深けむ潮は干ぬとも 1387 伏超(ふしこえ)よ行かましものを目守(まも)らふにうち濡らさえぬ波数(よ)まずして 1388 石隠(いそがく)り岸の浦廻に寄する波辺に来寄らばか言の繁けむ 1389 磯の浦に来寄る白波返りつつ過ぎかてなくば岸にたゆたへ 1390 近江の海(み)波畏みと風まもり年はや経なむ榜ぐとはなしに 1391 朝凪に来寄る白波見まく欲り吾(あれ)はすれども風こそ寄せね 浦沙(まなご)に寄す 1392 紫の名高の浦の真砂土(まなごつち)袖のみ触りて寝ずかなりなむ 1393 豊国の企玖(きく)の浜辺の真砂土真直(まなほ)にしあらば如何で嘆かむ 藻に寄す 1394 潮満てば入りぬる磯の草なれや見らく少く恋ふらくの多き 1395 沖つ波寄する荒磯の名告藻(なのりそ)の心のうちに靡きあひにけり 1396 紫の名高の浦の名告藻の磯に靡かむ時待つ吾(あれ)を 1397 荒磯越す波は畏ししかすがに海の玉藻の憎くはあらぬを 船に寄す 1398 楽浪(ささなみ)の志賀津の浦の船乗りに乗りにし心常忘らえず 1399 百伝ふ八十(やそ)の島廻を榜ぐ船に乗りにし心忘れかねつも 1400 島伝ふ足速(あはや)の小舟(をぶね)風まもり年はや経なむ逢ふとはなしに 1401 水霧(みなぎ)らふ沖つ小島に風をいたみ船寄せかねつ心は思(も)へど 1402 こと離(さ)かば沖よ離かなむ湊より辺(へ)付かふ時に離くべきものか 挽歌(かなしみうた) 1404 鏡なす吾(あ)が見し君を阿婆(あば)の野の花橘の玉に拾(ひり)ひつ 1405 秋津野を人の懸くれば朝撒きし君が思ほえて嘆きはやまず 1406 秋津野に朝居る雲の失せぬれば昨日も今日も亡き人思ほゆ 1407 隠国(こもりく)の泊瀬の山に霞立ち棚引く雲は妹にかもあらむ 1408 狂言(たはこと)か妖言(およづれこと)や隠国の泊瀬の山に廬せりちふ 1270 隠国の泊瀬の山に照る月は満ち欠けしけり人の常無き 1409 秋山の黄葉(もみち)あはれみうらぶれて入りにし妹は待てど来まさず 1410 世の中はまこと二代(ふたよ)はゆかざらし過ぎにし妹に逢はなく思へば 1411 幸(さき)はひのいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が声を聞く 1412 我が背子をいづく行かめとさき竹の背向(そがひ)に寝しく今し悔しも 1413 庭つ鳥鶏(かけ)の垂り尾の乱り尾の長き心も思ほえぬかも 1414 薦枕(こもまくら)相枕(ま)きし子もあらばこそ夜の更くらくも吾(あ)が惜しみせめ 1415 玉づさの妹は玉かもあしひきの清き山辺に撒けば散りぬる      或ル本ノ歌ニ曰ク、  1416 玉づさの妹は花かもあしひきのこの山蔭に撒けば失せぬる -------------------------------------------------------- .巻第八(やまきにあたるまき) 春の雑歌(くさぐさのうた) 志貴皇子の懽(よろこ)びの御歌(みうた)一首(ひとつ) 1418 石激(いはばし)る垂水の上のさ蕨の萌え出(づ)る春になりにけるかも 鏡女王(かがみのおほきみ)の歌一首 1419 神奈備(かんなび)の石瀬(いはせ)の杜の呼子鳥いたくな鳴きそ吾(あ)が恋まさる 駿河釆女(するがのうねべ)が歌一首 1420 沫雪(あわゆき)かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何の花そも 尾張連(をはりのむらじ)が歌二首(ふたつ) 1421 春山の岬(さき)の撓(たを)りに春菜摘む妹が白紐見らくしよしも 1422 打ち靡く春来たるらし山の際(ま)の遠き木末(こぬれ)の咲きゆく見れば 中納言(なかのものまをすつかさ)阿倍廣庭の卿(まへつきみ)の歌一首 1423 去年(こぞ)の春いこじて植ゑし我が屋戸の若木の梅は花咲きにけり 山部宿禰赤人が歌四首(よつ) 1424 春の野にすみれ摘みにと来し吾(あれ)ぞ野をなつかしみ一夜寝にける 1425 あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも 1426 我が背子に見せむと思(も)ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば 1427 明日よりは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日も今日も雪は降りつつ 草香山(くさかやま)の歌一首 1428 押し照る 難波を過ぎて 打ち靡く 草香の山を    夕暮に 吾(あ)が越え来れば 山も狭(せ)に 咲ける馬酔木(あしび)の    悪(あ)しからぬ 君をいつしか 行きて早見む      右の一首(ひとうた)は、作者(よみひと)微(いや)しきに依りて名字(な)を顕さず。 桜の花の歌一首、また短歌(みじかうた) 1429 娘子(をとめ)らが 挿頭(かざし)のために 遊士(みやびを)の 蘰(かづら)のためと    敷きませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の 匂ひはもあなに 反し歌 1430 去年(こぞ)の春逢へりし君に恋ひにてき桜の花は迎へけらしも      右の二首は、若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)誦(うた)へりき。 山部宿禰赤人が歌一首 1431 百済野(くだらぬ)の萩の古枝に春待つと来居し鴬鳴きにけむかも 大伴坂上郎女が柳の歌二首 1432 我が背子が見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも 1433 打ち上ぐる佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも 大伴宿禰三依(みより)が梅の歌一首 1434 霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日の里に梅の花見つ 厚見王(あつみのおほきみ)の歌一首 1435 かはづ鳴く神奈備川に影見えて今や咲くらむ山吹の花 大伴宿禰村上が梅の歌二首 1436 含(ふふ)めりと言ひし梅が枝今朝降りし沫雪にあひて咲きぬらむかも 1437 霞立つ春日の里の梅の花あらしの風に散りこすなゆめ 大伴宿禰駿河麻呂(するがまろ)が歌一首 1438 霞立つ春日の里の梅の花花に問はむと吾(あ)が思(も)はなくに 中臣朝臣武良自(むらじ)が歌一首 1439 時は今は春になりぬとみ雪降る遠山の辺(へ)に霞たなびく 河邊朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)が歌一首 1440 春雨のしくしく降るに高圓(たかまと)の山の桜はいかにかあるらむ 大伴宿禰家持が鴬の歌一首 1441 打ち霧(き)らし雪は降りつつしかすがに吾宅(わぎへ)の苑に鴬鳴くも 大蔵少輔(おほくらのすなきすけ)丹比屋主真人(たぢひのやぬしのまひと)が歌一首 1442 難波辺(なにはへ)に人の行ければ後れ居て春菜摘む子を見るが悲しさ 丹比真人乙麻呂(おとまろ)が歌一首 1443 霞立つ野の上(へ)の方に行きしかば鴬鳴きつ春になるらし 高田女王の歌一首 1444 山吹の咲きたる野辺のつほすみれこの春の雨に盛りなりけり 大伴坂上郎女が歌一首 1445 風交り雪は降るとも実にならぬ吾宅(わぎへ)の梅を花に散らすな 大伴宿禰家持が春雉(きぎし)の歌一首 1446 春の野にあさる雉の妻恋に己(おの)があたりを人に知れつつ 大伴坂上郎女が歌一首 1447 世の常に聞けば苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ      右ノ一首、天平四年三月一日、佐保ノ宅ニテ作(ヨ)メリ。 春の相聞(したしみうた) 大伴宿禰家持が坂上(さかのへ)の家の大嬢(おほいらつめ)に贈れる歌一首 1448 我が屋戸に蒔きし撫子いつしかも花に咲きなむなそへつつ見む 大伴田村家(おほとものたむらのいへ)の大嬢が妹(いも)坂上大嬢(さかのへのおほいらつめ)に与(おく)れる歌一首 1449 茅花(ちばな)抜く浅茅が原のつほすみれ今盛りなり吾(あ)が恋ふらくは 大伴宿禰家持が坂上郎女に贈れる歌一首 1450 心ぐきものにぞありける春霞たなびく時に恋の繁きは 笠女郎が大伴家持に贈れる歌一首 1451 水鳥の鴨の羽色の春山のおほつかなくも思ほゆるかも 紀女郎が歌一首 1452 闇ならばうべも来まさじ梅の花咲ける月夜(つくよ)に出でまさじとや 天平(てむひやう)五年(いつとせといふとし)癸酉(みづのととり)春閏三月(のちのやよひ)、笠朝臣金村が入唐使(もろこしにつかはすつかひ)に贈れる歌一首、また短歌 1453 玉たすき 懸けぬ時なく 息の緒に 我が思(も)ふ君は    うつせみの 世の人なれば 大王(おほきみ)の 命(みこと)畏み    夕されば 鶴(たづ)が妻呼ぶ 難波潟 御津の崎より    大船に 真楫(まかぢ)繁(しじ)貫(ぬ)き 白波の 高き荒海(あるみ)を    島伝ひ い別れ行かば 留まれる 吾(あれ)は幣(ぬさ)取り    斎(いは)ひつつ 君をば待たむ 早帰りませ 反し歌 1454 波の上(へ)よ見ゆる児島(こしま)の雲隠りあな息づかし相別れなば 1455 玉きはる命に向ひ恋ひむよは君が御船の楫柄(かぢつか)にもが 藤原朝臣廣嗣が桜の花を娘子に贈れる歌一首 1456 この花の一節(ひとよ)のうちに百種(ももくさ)の言ぞ隠(こも)れるおほろかにすな 娘子が和ふる歌一首 1457 この花の一節のうちは百種の言持ちかねて折らえけらずや 厚見王の久米女郎に贈れる歌一首 1458 屋戸にある桜の花は今もかも松風疾(いた)み土に散るらむ 久米女郎が報へまつれる歌一首 1459 世の中も常にしあらねば屋戸にある桜の花の散れる頃かも 紀女郎が合歓木花(ねぶのはな)と茅花(ちばな)とを折り攀(よ)ぢて、大伴宿禰家持に贈れる歌二首 1460 戯奴 変(カヘ)リテ云ク、ワケ がため吾(あ)が手もすまに春の野に抜ける茅花ぞ食(め)して肥えませ 1461 昼は咲き夜は恋ひ寝(ぬ)る合歓木(ねぶ)の花吾(あれ)のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ 大伴家持が贈和(こた)ふる歌二首 1462 吾(あ)が君に戯奴は恋ふらし賜(たば)りたる茅花を食(は)めどいや痩せに痩す 1463 我妹子が形見の合歓木は花のみに咲きてけだしく実にならじかも 大伴家持が坂上大嬢に贈れる歌一首 1464 春霞たなびく山の隔(へな)れれば妹に逢はずて月ぞ経にける      右、久邇京ヨリ寧樂ノ宅ニ贈レリ。 夏の雑歌(くさぐさのうた) 藤原夫人(ふぢはらのおほとじ)の歌一首 1465 霍公鳥(ほととぎす)いたくな鳴きそ汝(な)が声を五月(さつき)の玉にあへ貫(ぬ)くまでに 志貴皇子の御歌一首 1466 神奈備の石瀬の杜の霍公鳥毛無(ならし)の岡にいつか来鳴かむ 弓削皇子の御歌一首 1467 霍公鳥無かる国にも行きてしかその鳴く声を聞けば苦しも 小治田(をはりだ)の廣瀬王の霍公鳥の歌一首 1468 霍公鳥声聞く小野の秋風に萩咲きぬれや声の乏しき 沙弥が霍公鳥の歌一首 1469 あしひきの山霍公鳥汝が鳴けば家なる妹し常に思ほゆ 刀理宣令(とりのせむりやう)が歌一首 1470 もののふの石瀬の杜の霍公鳥今も鳴かぬか山の常蔭(とかげ)に 山部宿禰赤人が歌一首 1471 恋しけば形見にせむと我が屋戸に植ゑし藤波今咲きにけり 式部大輔(のりのつかさのおほきすけ)石上堅魚(いそのかみのかつを)の朝臣が歌一首 1472 霍公鳥来鳴き響(とよ)もす卯の花の共(むた)やなりしと問はましものを      右、神亀五年戊辰、太宰帥大伴卿ノ妻大伴郎女、      病ニ遇ヒテ長逝ス。時ニ勅使式部大輔石上朝臣      堅魚ヲ太宰府イ遣シテ、弔喪ト賜物トセシム。      其ノ事既ニ畢リテ、駅使ト府ノ諸卿大夫等ト、      共ニ記夷城ニ登リテ望遊セシ日、乃チ此ノ歌ヲ      作メリ。 太宰帥(おほみこともちのかみ)大伴卿(おほとものまへつきみ)の和へたまへる歌一首 1473 橘の花散る里の霍公鳥片恋しつつ鳴く日しぞ多き 大伴坂上郎女が筑紫の大城山(おほきのやま)を思(しぬ)ふ歌一首 1474 今もかも大城の山に霍公鳥鳴き響むらむ吾(あれ)無けれども 大伴坂上郎女が霍公鳥の歌一首 1475 何しかもここだく恋ふる霍公鳥鳴く声聞けば恋こそまされ 小治田朝臣廣耳(ひろみみ)が歌一首 1476 独り居て物思(も)ふ宵に霍公鳥こよ鳴き渡る心しあるらし 大伴家持が霍公鳥の歌一首 1477 卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥佐保の山辺に来鳴き響もす 大伴家持が橘の歌一首 1478 我が屋戸の花橘のいつしかも玉に貫くべくその実なりなむ 大伴家持が晩蝉(ひぐらし)の歌一首 1479 籠りのみ居れば鬱(いふ)せみ慰むと出で立ち聞けば来鳴く日晩(ひぐらし) 大伴書持(ふみもち)が歌二首 1480 我が屋戸に月おし照れり霍公鳥心ある今宵来鳴き響もせ 1481 我が屋戸の花橘に霍公鳥今こそ鳴かめ友に逢へる時 大伴清繩(きよなは)が歌一首 1482 皆人の待ちし卯の花散りぬとも鳴く霍公鳥吾(あれ)忘れめや 庵君諸立(いほりのきみもろたち)が歌一首 1483 我が背子が屋戸の橘花をよみ鳴く霍公鳥見にぞ吾(あ)が来し 大伴坂上郎女が歌一首 1484 霍公鳥いたくな鳴きそ独り居て寝(い)の寝らえぬに聞けば苦しも 大伴家持が唐棣花(はねず)の歌一首 1485 夏まけて咲きたるはねず久かたの雨うち降らば移ろひなむか 大伴家持が霍公鳥の晩喧(おそき)を恨む歌二首 1486 我が屋戸の花橘を霍公鳥来鳴かず土に散らしなむとか 1487 霍公鳥思はずありき木晩(このくれ)のかくなるまでに何か来鳴かぬ 大伴家持が霍公鳥を懽(よころ)ぶ歌一首 1488 いづくには鳴きもしにけむ霍公鳥我家(わぎへ)の里に今日のみぞ鳴く 大伴家持が橘の花を惜しむ歌一首 1489 我が屋戸の花橘は散り過ぎて玉に貫くべく実になりにけり 大伴家持が霍公鳥の歌一首 1490 霍公鳥待てど来鳴かず菖蒲草玉に貫く日をいまだ遠みか 大伴家持が、雨のふる日霍公鳥の喧くを聞きてよめる歌一首 1491 卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間(あまま)も置かずこよ鳴き渡る 橘の歌一首 遊行女婦(うかれめ) 1492 君が家(へ)の花橘は生(な)りにけり花なる時に逢はましものを 大伴村上が橘の歌一首 1493 我が屋戸の花橘を霍公鳥来鳴き響めて土に散らしつ 大伴家持が霍公鳥の歌二首 1494 夏山の木末(こぬれ)の繁(しじ)に霍公鳥鳴き響むなる声の遥けさ 1495 あしひきの木(こ)の間立ち潜(く)く霍公鳥かく聞きそめて後恋ひむかも 大伴家持が石竹花(なでしこ)の歌一首 1496 我が屋戸の撫子の花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも 筑波山に登らざりしを惜しむ歌一首 1497 筑波嶺(つくばね)に吾(あ)が行けりせば霍公鳥山びこ響め鳴かましやそれ      右ノ一首ハ、高橋連蟲麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。 夏の相聞(したしみうた) 大伴坂上郎女が歌一首 1498 暇(いとま)無み来まさぬ君に霍公鳥吾(あ)がかく恋ふと行きて告げこそ 大伴四繩(よつなは)が宴に吟(うた)へる歌一首 1499 こと繁み君は来まさず霍公鳥汝(なれ)だに来鳴け朝戸開かむ 大伴坂上郎女が歌一首 1500 夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものを 小治田朝臣廣耳が歌一首 1501 霍公鳥鳴く峯(を)の上の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ 大伴坂上郎女が歌一首 1502 五月山花橘を君がため玉にこそ貫(ぬ)け散らまく惜しみ 紀朝臣豊河が歌一首 1503 我妹子が家の垣内(かきつ)のさ百合花ゆりと言へれば否(いな)ちふに似つ 高安の歌一首 1504 暇無み五月をすらに我妹子が花橘を見ずか過ぎなむ 大神女郎(おほみわのいらつめ)が大伴家持に贈れる歌一首 1505 霍公鳥鳴きしすなはち君が家(へ)に行けと追ひしは至りけむかも 大伴田村大嬢(おほとものたむらのおほいらつめ)が妹坂上大嬢に与(おく)れる歌一首 1506 故郷の奈良思(ならし)の岡の霍公鳥言告げ遣りし如何に告げきや 大伴家持が、橘花(たちばな)を攀ぢて坂上大嬢に贈れる歌一首、また短歌 1507 いつしかと 待つ我が屋戸に 百枝さし 生ふる橘    玉に貫く 五月を近み あえぬがに 花咲きにけり    朝に日(け)に 出で見るごとに 息の緒に 吾(あ)が思(も)ふ妹に    真澄鏡(まそかがみ) 清き月夜に ただ一目 見せむまでには    散りこすな ゆめと言ひつつ ここだくも 吾(あ)が守(も)るものを    うれたきや 醜(しこ)霍公鳥 暁の うら悲しきに    追へど追へど なほし来鳴きて いたづらに 土に散らせば    すべをなみ 攀ぢて手折りつ 見ませ我妹子(わぎもこ) 反し歌 1508 望降(もちくだ)ち清き月夜に我妹子に見せむと思(も)ひし屋戸の橘 1509 妹が見て後も鳴かなむ霍公鳥花橘を土に散らしつ 大伴家持が紀女郎に贈れる歌一首 1510 撫子は咲きて散りぬと人は言へど吾(あ)が標めし野の花にあらめやも 秋の雑歌(くさぐさのうた) 崗本天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)一首 1511 夕されば小倉の山に鳴く鹿の今夜は鳴かずい寝(ね)にけらしも 大津皇子の御歌一首 1512 経(たて)も無く緯(ぬき)も定めず未通女(をとめ)らが織れる黄葉(もみち)に霜な降りそね 穂積皇子の御歌二首 1513 今朝の朝明(あさけ)雁が音(ね)聞きつ春日山もみちにけらし吾(あ)が心痛し 1514 秋萩は咲きぬべからし我が屋戸の浅茅が花の散りぬる見れば 但馬皇女の御歌一首 一書ニ云ク、子部王ノ作 1515 こと繁き里に住まずば今朝鳴きし雁に副(たぐ)ひて行かましものを 山部王の秋葉(もみち)を惜しみたまへる歌一首 1516 秋山ににほふ木の葉のうつりなばさらにや秋を見まく欲りせむ 長屋王の歌一首 1517 味酒(うまさけ)三輪の祝(いはひ)の山照らす秋の黄葉(もみちば)散らまく惜しも 山上臣憶良が七夕(なぬかのよ)の歌十二首(とをまりふたつ) 1518 天の川相向き立ちて吾(あ)が恋ひし君来ますなり紐解き設(ま)けな      右、養老八年七月七日、令ニ応ヘテ作メリ。 1519 久かたの天の川瀬に船浮けて今夜か君が我許(あがり)来まさむ      右、神亀元年七月七日ノ夜、左大臣ノ宅ニテ作メリ。 1520 牽牛(ひこほし)は 織女(たなばたつめ)と 天地(あめつち)の 別れし時ゆ    いなむしろ 川に向き立ち 思ふそら 安からなくに    嘆くそら 安からなくに 青波に 望みは絶えぬ    白雲に 涙は尽きぬ かくのみや 息づき居らむ    かくのみや 恋ひつつあらむ さ丹(に)塗りの 小舟(をぶね)もがも    玉巻きの 真櫂もがも 朝凪に い掻き渡り    夕潮に い榜ぎ渡り 久かたの 天の川原に    天飛ぶや 領巾(ひれ)片敷き 真玉手の 玉手さし交(か)へ    あまたたび いも寝てしかも 秋にあらずとも 反し歌 1521 風雲(かぜくも)は二つの岸に通へども吾(あ)が遠妻の言ぞ通はぬ 1522 礫(たぶて)にも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき      右、天平元年七月七日ノ夜、憶良、天ノ河ヲ      仰ギ観テ作メリ。一ニ云ク、帥ノ家ノ作。 1523 秋風の吹きにし日よりいつしかと吾(あ)が待ち恋ひし君ぞ来ませる 1524 天の川いと川波は立たねども侍従(さもら)ひ難し近きこの瀬を 1525 袖振らば見も交(かは)しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば 1526 玉蜻(かぎろひ)のほのかに見えて別れなばもとなや恋ひむ逢ふ時までは      右、天平二年七月八日ノ夜、帥ノ家ニ集会フ。 1527 牽牛(ひこほし)の妻迎へ船榜ぎ出(づ)らし天の川原に霧の立てるは 1528 霞立つ天の川原に君待つとい通ふ程(ほと)に裳の裾濡れぬ 1529 天の川浮津の波音(なみと)騒くなり吾(あ)が待つ君し舟出すらしも 太宰(おほみこともち)の諸卿大夫(まへつきみたち)、また官人等(つかさびとたち)が、筑前国(つくしのみちのくちのくに)蘆城(あしき)の駅家(うまや)に宴する歌二首 1530 をみなへし秋萩交じる蘆城の野今日を始めて万代に見む 1531 玉くしげ蘆城の川を今日見てば万代までに忘らえめやも      右の二首は、作者(よみひと)未詳(しらず)。 笠朝臣金村が伊香山(いかごやま)にてよめる歌二首 1532 草枕旅ゆく人も行き触ればにほひぬべくも咲ける萩かも 1533 伊香山野辺に咲きたる萩見れば君が家なる尾花(をばな)し思ほゆ 石川朝臣老夫(をきな)が歌一首 1534 をみなへし秋萩折らな玉ほこの道行き苞(つと)と乞はむ子のため 藤原宇合の卿の歌一首 1535 我が背子をいつぞ今かと待つなへに面(おも)やは見えむ秋の風吹く 縁達帥(えむたちし)が歌一首 1536 宵に逢ひて朝(あした)面なみ名張野の萩は散りにき黄葉(もみち)はや継げ 山上臣憶良が秋野の花を詠める歌二首 1537 秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種(くさ)の花 其一 1538 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花 其二 天皇(すめらみこと)のみよみませる御製歌二首 1539 秋の田の穂田を雁が音暗けくに夜のほどろにも鳴き渡るかも 1540 今朝の朝明雁が音寒く聞きしなべ野辺の浅茅ぞ色づきにける 太宰帥(おほみこともちのかみ)大伴卿の歌二首 1541 吾(あ)が岡にさ牡鹿来鳴く先萩(さきはぎ)の花妻問ひに来鳴くさ牡鹿 1542 吾(あ)が岡の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも 三原王の歌一首 1543 秋の露は移しなりけり水鳥の青葉の山の色づく見れば 湯原王の七夕(なぬかのよ)の歌二首 1544 牽牛(ひこほし)の思ひますらむ心よも見る吾(あれ)苦し夜の更けゆけば 1545 織女(たなばた)の袖纏(ま)く宵の暁(あかとき)は川瀬の鶴(たづ)は鳴かずともよし 市原王の七夕の歌一首 1546 妹がりと吾(あ)が行く道の川なれば足結(あゆひ)正(なだ)すと夜ぞ更けにける 藤原朝臣八束(やつか)が歌一首 1547 さ牡鹿の萩に貫(ぬ)き置ける露の白玉あふさわに誰の人かも手に巻かむちふ 大伴坂上郎女が晩(おくて)の萩の歌一首 1548 咲く花もうつろふは厭(う)し奥手なる長き心になほしかずけり 典鑄正(いものしのかみ)紀朝臣鹿人(かひと)が、衛門大尉(ゆけひのおほきまつりごとひと)大伴宿禰稲公(いなきみ)が跡見(とみ)の庄(たどころ)に至りてよめる歌一首 1549 射目(いめ)立てて跡見の岡辺の撫子の花ふさ手折り吾(あれ)は持ち去(い)なむ奈良人のため 湯原王が鳴鹿(しか)の歌一首 1550 秋萩の散りの乱(まが)ひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遥けさ 市原王の歌一首 1551 時待ちてしぐれの雨の降りしくに朝香の山の黄葉(もみ)たひぬらむ 湯原王の蟋蟀(こほろぎ)の歌一首 1552 夕月夜(ゆふづくよ)心もしぬに白露の置くこの庭に蟋蟀鳴くも 衛門大尉大伴宿禰稲公が歌一首 1553 しぐれの雨間無くし降れば御笠山木末(こぬれ)あまねく色づきにけり 大伴家持が和(こた)ふる歌一首 1554 大王の御笠の山の黄葉(もみちば)は今日の時雨に散りか過ぎなむ 安貴王(あきのおほきみ)の歌一首 1555 秋立ちて幾日(いくか)もあらねばこの寝ぬる朝明の風は手本寒しも 忌部首黒麻呂(いみべのおびとくろまろ)が歌一首 1556 秋田刈る借廬(かりほ)もいまだ壊(こぼ)たねば雁が音寒し霜も置きぬがに 故郷の豊浦寺(とよらのてら)の尼が私房(いへ)に宴する歌三首 1557 明日香川ゆき廻(た)む岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ      右の一首は、丹比真人國人。 1558 鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも 1559 秋萩は盛り過ぐるをいたづらに挿頭(かざし)に挿さず帰りなむとや      右の二首は、沙弥尼等(さみにども)。 大伴坂上郎女が跡見(とみ)の田庄(たどころ)にてよめる歌二首 1560 妹が目を跡見の崎なる秋萩はこの月ごろは散りこすなゆめ 1561 吉隠(よなばり)の猪養(ゐかひ)の山に伏す鹿の妻呼ぶ声を聞くがともしさ 巫部麻蘇娘子(かむこべのまそをとめ)が雁の歌一首 1562 たれ聞きつこよ鳴き渡る雁が音の妻呼ぶ声のともしきまでに 大伴家持が和ふる歌一首 1563 聞きつやと妹が問はせる雁が音はまことも遠く雲隠るなり 日置長枝娘子(へきのながえのをとめ)が歌一首 1564 秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも吾(あ)は思ほゆるかも 大伴家持が和ふる歌一首 1565 我が屋戸の一むら萩を思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも 大伴家持が秋の歌四首(よつ) 1566 久かたの雨間(あまま)も置かず雲隠り鳴きぞゆくなる早稲田(わさだ)雁が音 1567 雲隠り鳴くなる雁の行きて居む秋田の穂立繁くし思ほゆ 1568 雨ごもり心いふせみ出で見れば春日の山は色づきにけり 1569 雨晴れて清く照りたるこの月夜また更にして雲なたなびき      右ノ四首ハ、天平八年丙子秋九月ニ作メリ。 藤原朝臣八束が歌二首 1570 ここにありて春日やいづく雨障(あまつつ)み出でて行かねば恋ひつつぞ居る 1571 春日野に時雨降る見ゆ明日よりは黄葉かざさむ高圓の山 大伴家持が白露の歌一首 1572 我が屋戸の尾花が上の白露を消(け)たずて玉に貫(ぬ)くものにもが 大伴村上が歌一首 1573 秋の雨に濡れつつ居れば賤(いや)しけど我妹(わぎも)が屋戸し思ほゆるかも 右大臣(みぎのおほまへつきみ)橘の家にて宴する歌七首 1574 雲の上(へ)に鳴くなる雁の遠けども君に逢はむと廻(たもとほ)り来つ 1575 雲の上に鳴きつる雁の寒きなべ萩の下葉はもみちつるかも      右二首(ふたうた)。 1576 この岡に小鹿踏み起し窺(うか)狙ひかもかもすらく君故にこそ      右の一首(ひとうた)は、長門守巨曽倍朝臣津島。 1577 秋の野の尾花が末(うれ)を押しなべて来しくもしるく逢へる君かも 1578 今朝鳴きてゆきし雁が音寒みかもこの野の浅茅色づきにける      右の二首は、阿倍朝臣蟲麻呂。 1579 朝戸開けて物思(も)ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな 1580 さ牡鹿の来立ち鳴く野の秋萩は露霜負ひて散りにしものを      右の二首は、文忌寸馬養(あやのいみきうまかひ)。      天平十年戊寅秋八月二十日。 橘朝臣奈良麻呂が宴するときの歌十一首(とをまりひとつ) 1581 手折らずて散らば惜しみと吾(あ)が思(も)ひし秋の黄葉(もみち)を挿頭(かざ)しつるかも 1582 めづらしき人に見せむともみち葉を手折りそ吾(あ)が来し雨の降らくに      右の二首は、橘朝臣奈良麻呂。 1583 もみち葉を散らす時雨に濡れて来て君が黄葉(もみち)をかざしつるかも      右の一首は、久米女王。 1584 めづらしと吾(あ)が思(も)ふ君は秋山の初もみち葉に似てこそありけれ      右の一首は、長忌寸娘(ながのいみきがむすめ)。 1585 奈良山の嶺のもみち葉取れば散る時雨の雨し間無く降るらし      右の一首は、内舎人(うちとねり)縣犬養宿禰吉男。 1586 もみち葉を散らまく惜しみ手折り来て今宵かざしつ何か思はむ      右の一首は、縣犬養宿禰持男。 1587 あしひきの山のもみち葉今夜もか浮かびゆくらむ山川の瀬に      右の一首は、大伴宿禰書持。 1588 奈良山をにほふもみち葉手折り来て今夜かざしつ散らば散るとも      右の一首は、三手代人名(みてしろのひとな)。 1589 露霜にあへる黄葉(もみち)を手折り来て妹と挿頭しつ後は散るとも      右の一首は、秦許遍麻呂(はたのこべまろ)。 1590 十月(かみなつき)時雨にあへるもみち葉の吹かば散りなむ風のまにまに      右の一首は、大伴宿禰池主。 1591 もみち葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか      右の一首は、内舎人大伴宿禰家持。      以前冬十月十七日、右大臣橘卿ノ旧宅ニ集ヒテ宴飲ス。 大伴坂上郎女が竹田の庄にてよめる歌二首 1592 黙(もだ)あらず五百代(いほしろ)小田を刈り乱り田廬(たぶせ)に居れば都し思ほゆ 1593 隠国(こもりく)の泊瀬の山は色づきぬ時雨の雨は降りにけらしも      右、天平十一年己卯秋九月ニ作メリ。 仏の前にて唱ふ歌一首 1594 時雨の雨間無くな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも      右、冬十月(かみなつき)、皇后宮(きさきのみや)の維摩講(ゆゐまかう)に、終日(ひねもす)大唐(もろこし)高麗(こま)      等の種種(くさぐさ)の音楽(うたまひ)を供養(つかへまつ)り、すなはち此の歌詞(うた)を      唄ふ。琴弾きは市原王、忍坂王(おさかのおほきみ)後、大原真人赤麻呂      ヲ賜姓フ。歌子(うたひと)は田口朝臣家守(やかもり)、河邊朝臣東人(あづまひと)、      置始連長谷(おきそめのむらじはつせ)等十数人(とたりまりのひと)なり。 大伴宿禰像見(かたみ)が歌一首 1595 秋萩の枝もとををに降る露の消なば消ぬとも色に出でめやも 大伴宿禰家持が娘子の門に到りてよめる歌一首 1596 妹が家(へ)の門田を見むとうち出で来し心もしるく照る月夜かも 大伴宿禰家持が秋の歌三首 1597 秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露置けり 1598 さ牡鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露 1599 さ牡鹿の胸(むな)分けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる      右、天平十五年癸未秋八月、物色ヲ見テ作メリ。 内舎人石川朝臣廣成が歌二首 1600 妻恋に鹿(か)鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく 1601 めづらしき君が家なる幡薄(はたすすき)穂に出(づ)る秋の過ぐらく惜しも 大伴宿禰家持が鹿鳴(しか)の歌二首 1602 山びこの相響(とよ)むまで妻恋に鹿鳴く山辺に独りのみして 1603 このごろの朝明に聞けばあしひきの山を響もしさ牡鹿鳴くも      右ノ二首、天平十五年癸未八月十六日ニ作メリ。 大原真人今城(おほはらのまひといまき)が寧樂の故郷を傷惜(を)しむ歌一首 1604 秋されば春日の山の黄葉見る奈良の都の荒るらく惜しも 大伴宿禰家持が歌一首 1605 高圓の野辺の秋萩このごろの暁(あかとき)露に咲きにけむかも 秋の相聞(したしみうた) 額田王の近江天皇を思(しぬ)ひてよみたまへる歌一首 1606 君待つと吾(あ)が恋ひをれば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く 鏡女王のよみたまへる歌一首 1607 風をだに恋ふるは羨(とも)し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ 弓削皇子の御歌一首 1608 秋萩の上に置きたる白露の消(け)かもしなまし恋ひつつあらずは 丹比真人が歌一首 1609 宇陀の野の秋萩しぬぎ鳴く鹿も妻に恋ふらく吾(あれ)には益さじ 丹生女王(にふのおほきみ)の太宰帥大伴卿に贈りたまへる歌一首 1610 高圓の秋野の上の撫子の花うら若み人の挿頭しし撫子の花 笠縫女王(かさぬひのおほきみ)の歌一首 1611 あしひきの山下響み鳴く鹿の声ともしかも吾(あ)が心夫(つま) 石川賀係女郎(かけのいらつめ)が歌一首 1612 神(かむ)さぶと否(いな)にはあらず秋草の結びし紐を解くは悲しも 賀茂女王の歌一首 1613 秋の野を朝ゆく鹿の跡もなく思ひし君に逢へる今宵か      右ノ歌、或ハ云ク椋橋部女王、或ハ云ク笠縫女王ノ作。 遠江守櫻井王の天皇に奉らせる歌一首 1614 九月(ながつき)のその初雁の使にも思ふ心は聞こえ来ぬかも 天皇の報和(こた)へませる御歌(おほみうた)一首 1615 大の浦のその長浜に寄する波ゆたけく君を思ふこのごろ 笠女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌一首 1616 朝ごとに見る我が屋戸の撫子が花にも君はありこせぬかも 山口女王の大伴宿禰家持に贈りたまへる歌一首 1617 秋萩に置きたる露の風吹きて落つる涙は留みかねつも 湯原王の娘子に贈りたまへる歌一首 1618 玉にぬき消たず賜(たば)らむ秋萩の末(うれ)わわら葉に置ける白露 大伴家持が、姑(をば)坂上郎女の竹田の庄に至りてよめる歌一首 1619 玉ほこの道は遠けど愛(は)しきやし妹を相見に出でてぞ吾(あ)が来し 大伴坂上郎女が和ふる歌一首 1620 あら玉の月立つまでに来まさねば夢(いめ)にし見つつ思ひぞ吾(あ)がせし      右ノ二首、天平十一年己卯秋八月ニ作メリ。 巫部麻蘇娘子が歌一首 1621 我が屋戸の萩が花咲けり見に来ませいま二日ばかりあらば散りなむ 大伴田村大嬢が妹坂上大嬢(さかのへのおほいらつめ)に与(おく)れる歌二首 1622 我が屋戸の秋の萩咲く夕影に今も見てしか妹が姿を 1623 我が屋戸ににほふ楓(かへるで)見るごとに妹を懸けつつ恋ひぬ日はなし 坂上大娘が秋稲蘰(いなかづら)を大伴宿禰家持に贈れる歌一首 1624 吾(あ)が蒔ける早稲田(わさだ)の穂立作りたる蘰そ見つつ偲はせ我が背 大伴宿禰家持が報贈(こた)ふる歌一首 1625 我妹子が業(なり)と作れる秋の田の早稲穂(わさほ)の蘰見れど飽かぬかも また著ならせる衣を脱きて家持に贈れるに報ふる歌一首 1626 秋風の寒きこのごろ下に着む妹が形見とかつも偲はむ      右ノ三首、天平十一年己卯秋九月ニ徃来ス。 大伴宿禰家持が、非時(ときじく)の藤の花、また芽子(はぎ)の黄葉(もみち)の二物(ふたくさ)を攀(を)りて、坂上大嬢に贈れる歌二首 1627 我が屋戸の時じく藤のめづらしく今も見てしか妹が笑まひを 1628 我が屋戸の萩の下葉は秋風もいまだ吹かねばかくぞ黄葉(もみ)てる      右ノ二首、天平十二年庚辰夏六月ニ徃来ス。 大伴宿禰家持が坂上大嬢に贈れる歌一首、また短歌 1629 ねもころに 物を思へば 言はむすべ 為むすべもなし    妹と吾(あ)が 手携さはりて 朝(あした)には 庭に出で立ち    夕へには 床うち払ひ 白妙の 袖さし交(か)へて    さ寝し夜や 常にありける あしひきの 山鳥こそは    峰(を)向かひに 妻問すといへ うつせみの 人なる我(あれ)や    何すとか 一日一夜(ひとひひとよ)も 離(さか)り居て 嘆き恋ふらむ    ここ思(も)へば 胸こそ痛き そこ故に 心なぐやと    高圓の 山にも野にも うち行きて 遊び歩けど    花のみし にほひてあれば 見るごとに まして偲はゆ    いかにして 忘れむものぞ 恋ちふものを 反し歌 1630 高圓の野辺の容花(かほばな)面影に見えつつ妹は忘れかねつも 大伴宿禰家持が安倍女郎に贈れる歌一首 1631 今造る久迩(くに)の都に秋の夜の長きに独り寝(ぬ)るが苦しさ 大伴宿禰家持が久迩の京より寧樂の宅に留まれる坂上大娘に贈れる歌一首 1632 あしひきの山辺に居りて秋風の日に異(け)に吹けば妹をしぞ思(も)ふ 或者(あるひと)、尼に贈れる歌二首 1633 手もすまに植ゑし萩にやかへりては見れども飽かず心尽さむ 1634 衣手に水渋(みしぶ)付くまで植ゑし田を引板(ひきた)吾(あ)が延(は)へ守れる苦し 尼が頭句(もとのつがひことば)をよみ、また大伴宿禰家持が尼に誂(あつら)へて末句(すゑのつがひことば)を続ぎて和ふる歌一首 1635 佐保川の水を塞き上げて植ゑし田を 尼作ム 刈る早飯(わさいひ)は独りなむべし 家持続グ 冬の雑歌(くさぐさのうた) 舎人娘子(とねりのいらつめ)が雪の歌一首 1636 大口の真神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに 太上天皇(おほきすめらみこと)のみよみませる御製歌(おほみうた)一首 1637 幡すすき尾花逆(さか)葺き黒木もち造れる屋戸は万代までに 天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)一首 1638 青丹よし奈良の山なる黒木もち造れる屋戸は座(ま)せど飽かぬかも      右聞クナラク、左大臣長屋王ノ佐保ノ宅ニ御在シテ      肆宴キコシメシテ、御製セリ。 太宰帥大伴卿の、冬の日雪を見て京(みやこ)を憶(しぬ)ひたまふ歌一首 1639 沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも 太宰帥大伴卿の梅の歌一首 1640 吾(あ)が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも 角朝臣廣辨(ひろべ)が雪のうちの梅の歌一首 1641 沫雪に降らえて咲ける梅の花君がり遣らばよそへてむかも 安倍朝臣奥道(おきみち)が雪の歌一首 1642 たな霧(ぎ)らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬが代(しろ)にそへてだに見む 若桜部朝臣君足が雪の歌一首 1643 天霧(あまぎら)し雪も降らぬかいちしろくこのいつ柴に降らまくを見む 三野連石守(いそもり)が梅の歌一首 1644 引き攀(よ)ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入(こき)れつ染(し)まば染むとも 巨勢朝臣宿奈麻呂が雪の歌一首 1645 我が屋戸の冬木の上に降る雪を梅の花かとうち見つるかも 小治田朝臣東麻呂が雪の歌一首 1646 ぬば玉の今夜の雪にいざ濡れな明けむ朝(あした)に消(け)なば惜しけむ 忌部首黒麻呂が雪の歌一首 1647 梅の花枝にか散ると見るまでに風に乱れて雪ぞ降り来る 紀少鹿女郎(きのをしかのいらつめ)が梅の歌一首 1648 十二月(しはす)には沫雪降ると知らねかも梅の花咲く含(ふふ)めらずして 大伴宿禰家持が雪のうちの梅の歌一首 1649 今日降りし雪に競(きほ)ひて我が屋戸の冬木の梅は花咲きにけり 西の池の辺(ほとり)に御在(いま)して肆宴(とよのあかり)きこしめす歌一首 1650 池の辺(べ)の松の末葉(うらば)に降る雪は五百重(いほへ)降りしけ明日さへも見む      右の一首は、作者(よみひと)未詳(しらず)。但シ堅子(ワラワ)阿倍朝臣蟲麻呂伝誦セリ。 大伴坂上郎女が歌一首 1651 沫雪のこのごろ継ぎてかく降らば梅の初花散りか過ぎなむ 池田廣津娘子(いけだのひろきづのをとめ)が梅の歌一首 1652 梅の花折りも折らずも見つれども今夜の花になほしかずけり 縣犬養娘子(あがたのいぬかひのいらつめ)が、梅に依(よ)せて思ひを発(の)ぶる歌一首 1653 今のごと心を常に思へらばまづ咲く花の土に落ちめやも 大伴坂上郎女が雪の歌一首 1654 松蔭の浅茅の上の白雪を消たずて置かむ由(よし)はかもなき 冬の相聞(したしみうた) 三国真人人足(ひとたり)が歌一首 1655 高山の菅の葉しのぎ降る雪の消ぬとか言はも恋の繁けく 大伴坂上郎女が歌一首 1656 酒杯に梅の花浮かべ思ふどち飲みて後には散りぬともよし 姓名和ふる歌一首 1657 官(つかさ)にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ      右、酒ハ官禁制シテ称ク、京中ノ閭里、集宴スルコト      ヲ得ズ。但シ親親一二飲楽スルハ聴許スト。此ニ縁リ、      和フル人此ノ発句ヲ作メリ。 藤原皇后(ふぢはらのおほきさき)の天皇に奉れる御歌一首 1658 我が背子と二人見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しからまし 池田廣津娘子が歌一首 1659 真木の上に降り置ける雪のしくしくも思ほゆるかもさ夜問へ我が背 大伴宿禰駿河麻呂が歌一首 1660 梅の花散らす冬風(あらし)の音のみに聞きし我妹(わぎも)を見らくしよしも 紀少鹿女郎が歌一首 1661 久かたの月夜を清み梅の花心に開(さ)きて吾(あ)が思(も)へる君 大伴田村大娘が妹坂上大娘に与(おく)れる歌一首 1662 沫雪の消ぬべきものを今までに永らへ経(ふ)るは妹に逢はむとぞ 大伴宿禰家持が歌一首 1663 沫雪の庭に降り敷き寒き夜を手枕(たまくら)まかず独りかも寝む -------------------------------------------------------- .巻第九(ここのまきにあたるまき) 雑歌(くさぐさのうた) 泊瀬の朝倉の宮に天(あめ)の下しろしめしし天皇(すめらみこと)のみよみませる御製歌(おほみうた)一首(ひとつ) 1664 夕されば小椋(をくら)の山に臥す鹿の今宵は鳴かずい寝にけらしも 崗本の宮に天の下しろしめしし天皇の、紀伊国(きのくに)に幸(いでま)せる時の歌二首(ふたつ) 1665 妹がため吾(あ)が玉拾(ひり)ふ沖辺なる玉寄せ持ち来(こ)沖つ白波 1666 朝霧に濡れにし衣干さずして独りや君が山道(やまぢ)越ゆらむ      右ノ二首(フタウタ)、作者(ヨミヒト)未詳(シラズ)。 大宝(だいはう)の元年(はじめのとし)辛丑(かのとうし)冬十月(かみなづき)、太上天皇(おほきすめらみこと)、大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊国に幸ませる時の歌十三首(とをまりみつ) 1667 妹がため吾(あ)が玉求む沖辺なる白玉寄せ来(こ)沖つ白波      右ノ一首(ヒトウタ)、既ニ上ニ見ルコト畢ハリヌ。但歌辞      少シク換リ、年代相違ヘリ。因テ以テ累ネ戴ス。 1668 白崎は幸(さき)くあり待て大船に真梶繁貫(しじぬ)きまたかへり見む 1669 南部(みなべ)の浦潮な満ちそね鹿島(かじま)なる釣する海人(あま)を見て帰り来む 1670 朝開(びら)き榜ぎ出て吾(あれ)は由良の崎釣する海人を見て帰り来む 1671 由良の崎潮干にけらし白神(しらかみ)の磯の浦廻(うらみ)を喘(あべ)て榜ぎ響(とよ)む 1672 黒牛潟(くろうしがた)潮干の浦を紅の玉裳(たまも)裾引き行くは誰が妻 1673 風早(かざはや)の浜の白波いたづらにここに寄せ来も見る人無しに      右ノ一首、山上臣憶良ノ類聚歌林ニ曰ク、      長忌寸意吉麻呂、詔ニ応ヘテ此歌ヲ作メリト。 1674 我が背子が使来むかと出立(いでたち)のこの松原を今日か過ぎなむ 1675 藤白の御坂を越ゆと白たへの我が衣手は濡れにけるかも 1676 勢(せ)の山に黄葉(もみち)散り敷く神岳の山の黄葉は今日か散るらむ 1677 大和には聞こえもゆくか大家野(おほやぬ)の小竹葉(ささば)刈り敷き廬せりとは 1678 紀の国の昔弓雄(さつを)の響矢(かぶら)もち鹿(か)取り靡けし坂の上(へ)にそある 1679 紀の国にやまず通はむ都麻(つま)の杜妻寄し来(こ)せね妻と言ひながら      右ノ一首、或ヒト云ク、坂上忌寸人長ガ作。 後れたる人の歌二首 1680 麻裳(あさも)よし紀へ行く君が真土山越ゆらむ今日そ雨な降りそね 1681 後れ居て吾(あ)が恋ひ居れば白雲の棚引く山を今日か越ゆらむ 忍壁皇子に献れる歌一首 仙人ノ形ヲ詠ム 1682 とこしへに夏冬ゆけや裘(かはころも)扇放たぬ山に住む人 舎人皇子に献れる歌二首 1683 妹が手を取りて引き攀ぢ打ち手(た)折り君が挿すべき花咲けるかも 1684 春山は散り過ぎぬれども三輪山はいまだ含(ふふ)めり君待ちかてに 泉河の辺(ほとり)にて間人宿禰(はしひとのすくね)がよめる歌二首 1685 川の瀬の激(たぎ)つを見れば玉藻かも散り乱れたるこの川門(かはど)かも 1686 彦星の挿頭(かざし)の玉の妻恋に乱れにけらしこの川の瀬に 鷺坂(さぎさか)にてよめる歌一首 1687 白鳥の鷺坂山の松影に宿りてゆかな夜も更けゆくを 名木河(なきがは)にてよめる歌二首 1688 あぶり干す人もあれやも濡れ衣(きぬ)を家には遣らな旅のしるしに 1689 荒磯辺(ありそへ)につきて榜がさね都人浜を過ぐれば恋(こほ)しくあるなり 高島にてよめる歌二首 1690 高島の阿渡(あど)川波は騒げども我は家思(も)ふ宿り悲しみ 1691 旅なれば夜中をさして照る月の高島山に隠らく惜しも 紀伊国にてよめる歌二首 1692 吾(あ)が恋ふる妹は逢はさず玉つ浦に衣片敷き独りかも寝む 1693 玉くしげ明けまく惜しきあたら夜を衣手離(か)れて独りかも寝む 鷺坂にてよめる歌一首 1694 細領巾(ほそひれ)の鷺坂山の白つつじ吾(あれ)ににほはね妹に示さむ 泉河にてよめる歌一首 1695 妹が門入り泉川の常滑にみ雪残れりいまだ冬かも 名木河にてよめる歌三首 1696 衣手の名木の川辺を春雨に吾(あれ)立ち濡ると家思(も)ふらむか 1697 家人の使なるらし春雨の避(よ)くれど吾(あれ)を濡らす思へば 1698 あぶり干す人もあれやも家人の春雨すらを間使(まつかひ)にする 宇治河にてよめる歌二首 1699 巨椋(おほくら)の入江響(とよ)むなり射目人(いめひと)の伏見が田居に雁渡るらし 1700 秋風の山吹の瀬の響むなべ天雲翔り雁渡るかも 弓削皇子に献れる歌三首 1701 さ夜中と夜は更けぬらし雁が音の聞こゆる空に月渡る見ゆ 1702 妹があたり衣雁が音夕霧に来鳴きて過ぎぬともしきまでに 1703 雲隠り雁鳴く時に秋山の黄葉(もみち)片待つ時は過ぐれど 舎人皇子に献れる歌二首 1704 打ち手折り多武(たむ)の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒ける 1705 冬こもり春へを恋ひて植ゑし木の実になる時を片待つ吾(あれ)ぞ 舎人皇子の御歌一首 1706 ぬば玉の夜霧ぞ立てる衣手の高屋の上に棚引くまてに 鷺坂にてよめる歌一首 1707 山背(やましろ)の久世(くせ)の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり 泉河の辺にてよめる歌一首 1708 春草を馬咋山(うまくひやま)よ越え来(く)なる雁が使は宿(やどり)過ぐなり 弓削皇子に献れる歌一首 1709 御食(みけ)向ふ南淵山(みなふちやま)の巌(いはほ)には降りしはだれか消え残りたる      右、柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出ヅ。 題闕 1710 我妹子が赤裳湿(ひづ)ちて植ゑし田を刈りて収めむ倉無(くらなし)の浜 1711 百伝(ももづた)ふ八十(やそ)の島廻(しまみ)を榜ぎ来(き)けど粟の小島は見れど飽かぬかも      右ノ二首、或ヒト云ク、柿本朝臣人麻呂ガ作。 筑波山(つくはやま)に登りて月を詠める歌一首 1712 天の原雲なき宵にぬば玉の夜渡る月の入らまく惜しも 芳野の離宮(とつみや)に幸(いでま)せる時の歌二首 1713 滝の上(へ)の三船の山よ秋津辺に来鳴き渡るは誰(たれ)呼子鳥 1714 落ちたぎち流るる水の岩に触(ふ)り淀める淀に月の影見ゆ      右ノ三首、作者未詳。 槐本(ゑにすのもと)が歌一首 1715 楽浪(ささなみ)の比良山風(ひらやまかぜ)の海吹けば釣する海人の袖返る見ゆ 山上(やまのへ)が歌一首 1716 白波の浜松の木の手向ぐさ幾代までにか年は経ぬらむ      右ノ一首、或ヒト云ク、河島皇子ノ御作歌。 春日(かすが)が歌一首 1717 三川(みつがは)の淵瀬もおちず小網(さで)さすに衣手濡れぬ干す子はなしに 高市(たけち)が歌一首 1718 率(あども)ひて榜ぎにし舟は高島の安曇(あど)の水門(みなと)に泊(は)てにけむかも 春日が歌一首 1719 照る月を雲な隠しそ島陰に吾(あ)が船泊てむ泊知らずも      右ノ一首、或ル本ニ云ク、小辯ガ作ナリト。或ハ      姓氏ヲ記シ、名字ヲ記スコト無ク、或ハ名号ヲ称(イ)      ヒテ姓氏ヲ称ハズ。然レドモ古記ニ依リテ、便チ      次ヲ以テ載ス。凡ソ此ノ如キ類ハ、下皆焉(コレ)ニ効(ナラ)ヘ。 元仁が歌三首 1720 馬並(な)めてうち群れ越え来今日見つる吉野の川をいつかへり見む 1721 苦しくも暮れぬる日かも吉野川清き川原を見れど飽かなくに 1722 吉野川川波高み滝(たぎ)の裏を見ずかなりなむ恋(こほ)しけまくに 絹が歌一首 1723 かはづ鳴く六田(むつた)の川の川柳(かはやぎ)のねもころ見れど飽かぬ君かも 島足(しまたり)が歌一首 1724 見まく欲り来(こ)しくもしるく吉野川音のさやけさ見るにともしき 麻呂が歌一首 1725 古(いにしへ)の賢(さか)しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも      右、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 丹比真人が歌一首 1726 難波潟潮干に出でて玉藻刈る海未通女(あまをとめ)ども汝(な)が名のらさね 某(それ)の娘子(をとめ)が和ふる歌 1727 漁りする海人とを見ませ草枕旅ゆく人に妻とは告らじ 石川の卿(まへつきみ)の歌一首 1728 慰めて今夜は寝なむ明日よりは恋ひかもゆかむこよ別れなば 宇合(うまかひ)の卿の歌三首 1729 暁(あかとき)の夢(いめ)に見えつつ梶島の磯越す波のしきてし思ほゆ 1730 山科の石田(いはた)の小野の柞原(ははそはら)見つつや君が山道越ゆらむ 1731 山科の石田の杜に奉幣(たむけ)せばけだし我妹に直(ただ)に逢はむかも 碁師(ごし)が歌二首 1732 大葉山(おほはやま)霞たなびきさ夜更けて吾(あ)が舟泊てむ泊知らずも 1733 思(しぬ)ひつつ来(く)れど来(き)かねて三尾が崎真長の浦をまたかへり見つ 小辯(すなきおほともひ)が歌一首 1734 高島の安曇の湊を榜ぎ過ぎて塩津菅浦今は榜がなむ 伊保麻呂(いほまろ)が歌一首 1735 吾(あ)が畳三重の川原の磯の裏にかくしもがもと鳴くかはづかも 式部(のりのつかさ)大倭(おほやまと)が芳野にてよめる歌一首 1736 山高み白木綿花(しらゆふはな)に落ちたぎつ夏身の川門(かはど)見れど飽かぬかも 兵部(つはもののつかさ)川原が歌一首 1737 大滝(おほたぎ)を過ぎて夏身にそひ居りて清き川瀬を見るがさやけさ 上総(かみつふさ)の周淮(すゑ)の珠名娘子(たまなをとめ)を詠める歌一首 、また短歌(みじかうた) 1738 尻長鳥(しながとり) 安房(あは)に継ぎたる 梓弓 周淮の珠名は    胸別(むなわけ)の 広けき我妹 腰細の すがる娘子の    その顔の きらきらしきに 花のごと 笑みて立てれば    玉ほこの 道ゆく人は おのが行く 道は行かずて    呼ばなくに 門に至りぬ さし並ぶ 隣の君は    たちまちに 己妻離(か)れて 乞はなくに 鍵さへ奉(まつ)る    人の皆 かく惑へれば うちしなひ 寄りてぞ妹は たはれてありける 反し歌 1739 金門(かなど)にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける 水江(みづのえ)の浦島の子を詠める歌一首、また短歌 1740 春の日の 霞める時に 住吉(すみのえ)の 岸に出で居て    釣舟の たゆたふ見れば 古の ことそ思ほゆる    水江の 浦島の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣りほこり    七日まで 家にも来ずて 海界(うなさか)を 過ぎて榜ぎゆくに    海若(わたつみ)の 神の娘子に たまさかに い榜ぎ向ひ    相かたらひ 言(こと)成りしかば かき結び 常世に至り    海若の 神の宮の 内の重(へ)の 妙なる殿に    たづさはり 二人入り居て 老いもせず 死にもせずして    永世(とこしへ)に ありけるものを 世の中の 愚(かたくな)人の    我妹子に 告(の)りて語らく 暫(しま)しくは 家に帰りて    父母に 事も告らひ 明日のごと 吾(あれ)は来なむと    言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て    今のごと 逢はむとならば この篋(くしげ) 開くなゆめと    そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来たりて    家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて    あやしみと そこに思はく 家よ出て 三年(みとせ)の間(ほど)に    垣もなく 家失せめやも この筥(はこ)を 開きて見てば    もとのごと 家はあらむと  玉篋 少し開くに    白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば    立ち走(わし)り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ    たちまちに 心消(け)失せぬ 若かりし 肌も皺みぬ    黒かりし 髪も白けぬ ゆりゆりは 息さへ絶えて    のち遂に 命死にける 水江の 浦島の子が 家ところ見ゆ 反し歌 1741 常世辺に住むべきものを剣大刀(つるぎたち)しが心から鈍(おそ)やこの君 河内(かふち)の大橋を独りゆく娘子を見てよめる歌一首、また短歌 1742 しな照(で)る 片足羽川(かたあすはがは)の さ丹(に)塗りの 大橋の上(へ)よ    紅の 赤裳裾引き 山藍(やまゐ)もち 摺(す)れる衣(きぬ)着て    ただ独り い渡らす子は 若草の 夫(つま)かあるらむ    橿(かし)の実の 独りか寝(ぬ)らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく 反し歌 1743 大橋の頭(つめ)に家あらばま悲しく独りゆく子に宿貸さましを 武藏(むざし)の小埼(をさき)の沼の鴨を見てよめる歌一首 1744 埼玉(さきたま)の小埼の沼に鴨そ羽霧(はねき)るおのが尾に降り置ける霜を掃ふとならし 那賀の郡の曝井(さらしゐ)の歌一首 1745 三栗(みつくり)の那賀に回(めぐ)れる曝井の絶えず通はむそこに妻もが 手綱(たづな)の浜の歌一首 1746 遠妻しそこにありせば知らずとも手綱の浜の尋ね来なまし 慶雲(きやううむ)三年(みとせといふとし)丙午(ひのえうま)春三月(やよひ)、諸(もろもろ)の卿大夫等(まへつきみたち)、難波に下れる時の歌二首、また短歌 1747 白雲の 龍田の山の 滝(たぎ)の上(へ)の 小椋(をくら)の嶺に    咲きををる 桜の花は 山高(だか)み 風しやまねば    春雨の 継ぎて降れれば 上枝(ほつえ)は 散り過ぎにけり    下枝(しづえ)に 残れる花は しまらくは 散りな乱りそ    草枕 旅ゆく君が 帰り来むまで 反し歌 1748 吾(あ)が行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし 1749 白雲の 龍田の山を 夕暮に うち越えゆけば    滝(たぎ)の上(へ)の 桜の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり    含(ふふ)めるは 咲き継ぎぬべし こちごちの 花の盛りに    見せずとも かにかくに 君のみ行きは 今にしあるべし 反し歌 1750 暇(いとま)あらばなづさひ渡り向つ峯(を)の桜の花も折らましものを 難波に宿りて、明くる日還来(かへ)る時の歌一首、また短歌 1751 島山を い行き廻(もとほ)る 川沿ひの 岡辺の道よ    昨日こそ 吾(あ)が越え来しか 一夜のみ 寝たりしからに    峯(を)の上の 桜の花は 滝の瀬よ たぎちて流る    君が見む その日までには あらしの 風な吹きそと    打ち越えて 名に負へる杜に 風祭(かざまつり)せな 反し歌 1752 い行き逢ひの坂の麓に咲きををる桜の花を見せむ子もがも 検税使(けむぜいし)大伴の卿の筑波山に登りたまへる時の歌一首、また短歌 1753 衣手 常陸の国 二並ぶ 筑波の山を    見まく欲り 君来ませりと 暑けくに 汗かき嘆き    木(こ)の根取り 嘯(うそむ)き登り 峯(を)の上を 君に見すれば    男神(をのかみ)も 許したまひ 女神(めのかみ)も ちはひたまひて    時となく 雲居雨降る 筑波嶺(つくはね)を さやに照らして    いふかりし 国のまほらを つばらかに 示したまへば    嬉しみと 紐の緒解きて 家のごと 解けてそ遊ぶ    打ち靡く 春見ましよは 夏草の 茂くはあれど 今日の楽しさ 反し歌 1754 今日の日にいかで及(し)かめや筑波嶺に昔の人の来けむその日も 霍公鳥(ほととぎす)を詠める歌一首、また短歌 1755 鴬の 卵(かひこ)の中に 霍公鳥 独り生れて    己(し)が父に 似ては鳴かず 己が母に 似ては鳴かず    卯の花の 咲きたる野辺よ 飛び翔り 来鳴き響(とよ)もし    橘の 花を居散らし ひねもすに 鳴けど聞きよし    幣(まひ)はせむ 遠くな行きそ 我が屋戸の 花橘に 住みわたり鳴け 反し歌 1756 かき霧(き)らし雨の降る夜を霍公鳥鳴きてゆくなりあはれその鳥 筑波山に登る歌一首、また短歌 1757 草枕 旅の憂(う)けくを 慰むる こともあれやと    筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付(しづく)の田居に    雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治(にひばり)の 鳥羽(とば)の淡海(あふみ)も    秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば    長き日(け)に 思ひ積み来し 憂けくはやみぬ 反し歌 1758 筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉(もみち)手折らな 筑波嶺に登りてかがひする日(とき)よめる歌一首、また短歌 1759 鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に    率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ かがふかがひに    人妻に 吾(あれ)も交(あ)はむ 吾(あ)が妻に 人も言問へ    この山を うしはく神の 古(いにしへ)よ 禁(いさ)めぬわざぞ    今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな    カガヒハ、東ノ俗語ニ曰ク、カガヒ。 反し歌 1760 男神に雲立ちのぼり時雨ふり濡れ通るとも吾(あれ)帰らめや      右ノ件ノ歌ハ、高橋連蟲麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。 鳴鹿(しか)を詠める歌一首、また短歌 1761 三諸(みもろ)の 神奈備山に たち向ふ 御垣の山に    秋萩の 妻をまかむと 朝月夜 明けまく惜しみ    あしひきの 山彦響め 呼び立て鳴くも 反し歌 1762 明日の宵逢はざらめやもあしひきの山彦響め呼び立て鳴くも      右ノ件ノ歌、或ヒト云ク、柿本朝臣人麻呂ガ作。 沙彌女王(さみのおほきみ)の歌一首 1763 倉橋の山を高みか夜隠(ごも)りに出で来る月の片待ちがたき      右ノ一首、間人宿禰大浦ガ歌ノ中ニ既ニ見エタリ。      但末一句相換リ、亦作歌ノ両主、正指ニ敢ズ。因      テ以テ累ネ載ス。 七夕(なぬかのよ)の歌一首、また短歌 1764 久かたの 天の川原(がはら)に 上つ瀬に 玉橋渡し    下つ瀬に 船浮け据ゑ 雨降りて 風は吹くとも    風吹きて 雨は降るとも 裳濡らさず やまず来ませと 玉橋渡す 反し歌 1765 天の川霧立ち渡る今日今日と吾(あ)が待つ君が船出すらしも      右ノ件ノ歌、或ヒト云ク、中衛大将藤原北卿宅ニテ      作メリト。 相聞(したしみうた) 振田向宿禰(ふるのたむけのすくね)が筑紫国に退(まか)る時の歌一首 1766 我妹子は釧(くしろ)にあらなむ左手の吾(あ)が奥の手に巻きて去(い)なましを 拔氣大首(ぬかけのおほおびと)が筑紫に任(ま)けらるる時、豊前国(とよくにのみちのくち)の娘子紐児(ひものこ)に娶(あ)ひてよめる歌三首 1767 豊国の香春は吾家(わぎへ)紐児にいつがり居れば香春は吾家 1768 石上(いそのかみ)布留(ふる)の早稲田(わさだ)の穂には出でず心のうちに恋ふるこの頃 1769 かくのみし恋ひし渡れば玉きはる命も吾(あれ)は惜しけくもなし 大神(おほみわ)の大夫(まへつきみ)が長門守に任けらるる時、三輪河の辺(ほとり)に集ひて宴する歌二首 1770 三諸(みもろ)の神の帯ばせる泊瀬川水脈(みを)し絶えずは吾(あれ)忘れめや 1771 後(おく)れ居て吾(あれ)はや恋ひむ春霞棚引く山を君し越えなば      右ノ二首、古歌集ノ中ニ出ヅ。 大神の大夫が筑紫国に任けらるる時、阿倍の大夫がよめる歌一首 1772 後れ居て吾(あれ)はや恋ひむ印南野(いなみぬ)の秋萩見つつ去(い)なむ子故に 弓削皇子に献れる歌一首 1773 神奈備の神依せ板にする杉の思ひも過ぎず恋の繁きに 舎人皇子に献れる歌二首 1774 たらちねの母の命の言にあらば年の緒長く頼み過ぎむや 1775 泊瀬川夕渡り来て我妹子が家の金門(かなど)に近づきにけり      右ノ三首、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 石川の大夫が任(つかさ)を遷されて京(みやこ)に上る時、播磨娘子が贈れる歌二首 1776 絶等寸(たゆらき)の山の峰(を)の上(へ)の桜花咲かむ春へは君し偲はむ 1777 君なくはなぞ身装はむ櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をくし)も取らむとも思(も)はず 藤井連(ふぢゐのむらじ)が任を遷されて京に上る時、娘子が贈れる歌一首 1778 明日よりは吾(あれ)は恋ひむな名次山(なすきやま)岩踏み平し君が越えなば 藤井連が和ふる歌一首 1779 命をしま幸(さき)くもがも名次山岩踏み平しまたかへり来む 鹿島郡苅野橋(かるぬのはし)にて、大伴の卿に別るる歌一首、また短歌 1780 ことひ牛の 三宅の浦に さし向ふ 鹿島の崎に    さ丹塗りの 小船(をぶね)を設(ま)け 玉纏(たままき)の 小梶繁貫き    夕潮の 満ちの湛(とど)みに 御船子(みふなこ)を 率(あども)ひ立てて    呼び立てて 御船出でなば 浜も狭(せ)に 後れ並み居て    こいまろび 恋ひかも居らむ 足ずりし 音のみや泣かむ    海上(うなかみ)の その津を指して 君が榜ぎゆかば 反し歌 1781 海つ道(ぢ)の凪ぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや      右ノ二首、高橋連蟲麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。 妻(め)に与(おく)れる歌一首 1782 雪こそは春日(はるひ)消ゆらめ心さへ消え失せたれや言も通はぬ 妻が和ふる歌一首 1783 松返りしひてあれやも三栗(みつぐり)の中すぎて来ず待つといへや子      右ノ二首、柿本朝臣人麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。 入唐使(もろこしにつかはすつかひ)に贈れる歌一首 1784 海神(わたつみ)のいづれの神を祈らばか行方も来方(くへ)も船の早けむ      右ノ一首、渡海ノ年紀、詳ラカナラズ。 神亀五年(いつとせといふとし)戊辰(つちのえたつ)秋八月(はつき)によめる歌一首、また短歌 1785 人となる ことは難(かた)きを わくらばに なれる吾(あ)が身は    死にも生きも 君がまにまと 思ひつつ ありし間に    うつせみの 世の人なれば 大王(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み    天ざかる 夷(ひな)治めにと 朝鳥の 朝立ちしつつ    むら鳥の 群立ち行けば 留まり居て 吾(あれ)は恋ひむな 見ず久ならば 反し歌 1786 み越道の雪降る山を越えむ日は留まれる吾(あれ)を懸けて偲(しぬ)はせ 天平元年(はじめのとし)己巳(つちのとみ)冬十二月(しはす)によめる歌一首、また短歌 1787 うつせみの 世の人なれば 大王の 命畏み    敷島の 大和の国の 石上 布留の里に    紐解かず 丸寝(まろね)をすれば 吾(あ)が着(け)せる 衣はなれぬ    見るごとに 恋はまされど 色に出(い)でば 人知りぬべみ    冬の夜の 明けもかねつつ 寝(い)も寝ずに 吾(あれ)はぞ恋ふる 妹が直香(ただか)に 反し歌 1788 布留の山よ直に見渡す都にぞ寝(い)を寝ず恋ふる遠からなくに 1789 我妹子が結(ゆ)ひてし紐を解かめやも絶えば絶ゆとも直に逢ふまでに      右ノ件ノ五首、笠朝臣金村ノ歌集ニ出ヅ。 天平五年癸酉(みづのととり)遣唐使(もろこしにつかはすつかひ)の船、難波よりいづる時、親母(はは)が子に贈れる歌一首、また短歌 1790 秋萩を 妻問ふ鹿(か)こそ 独り子を 持たりと言へ    鹿子(かこ)じもの 吾(あ)が独り子の 草枕 旅にし行けば    竹玉(たかたま)を 繁(しじ)に貫き垂り 斎瓮(いはひへ)に 木綿(ゆふ)取り垂(し)でて    斎(いは)ひつつ 吾(あ)が思(も)ふ吾子(あご) ま幸くありこそ 反し歌 1791 旅人の宿りせむ野に霜降らば吾(あ)が子羽ぐくめ天(あめ)の鶴群(たづむら) 娘子を思(しぬ)ひてよめる歌一首、また短歌 1792 白玉の 人のその名を なかなかに 言の緒延(は)へず    逢はぬ日の 数多(まね)く過ぐれば 恋ふる日の 重なりゆけば    思ひ遣る たどきを知らに 肝(きも)向ふ 心砕けて    玉たすき 懸けぬ時なく 口やまず 吾(あ)が恋ふる子を    玉釧(たまくしろ) 手に巻き持ちて 真澄鏡(まそかがみ) 直目(ただめ)に見ねば    したひ山 下ゆく水の 上に出でず 吾(あ)が思(も)ふ心 安からぬかも 反し歌 1793 垣ほなす人の横言(よここと)繁みかも逢はぬ日まねく月の経ぬらむ 1794 立ち易(かは)る月重なりて逢はねども実(さね)忘らえず面影にして      右ノ三首、田邊福麻呂ノ歌集ニ出ヅ。 挽歌(かなしみうた) 宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)の宮所の歌一首 1795 妹がりと今木の嶺に茂(し)み立てる嬬(つま)松の木は吉き人見けむ 紀伊国にてよめる歌四首 1796 もみち葉の過ぎにし子らと携はり遊びし磯を見れば悲しも 1797 潮気立つ荒磯(ありそ)にはあれど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し 1798 古に妹と吾(あ)が見しぬば玉の黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも 1799 玉津島磯の浦廻の真砂(まなご)にもにほひて行かな妹が触(ふ)りけむ      右ノ四首、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 足柄の坂を過ぐるとき、死(みまか)れる人を見てよめる歌一首 1800 小垣内(をかきつ)の 麻を引き干し 妹なねが 作り着せけむ    白妙の 紐をも解かず 一重結ふ 帯を三重結ひ    苦しきに 仕へ奉りて 今だにも 国に退(まか)りて    父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は    鶏が鳴く 東(あづま)の国の 畏きや 神の御坂に    和細布(にきたへ)の 衣寒らに ぬば玉の 髪は乱れて    国問へど 国をも告(の)らず 家問へど 家をも言はず    ますらをの 行きの進みに ここに臥やせる 葦屋処女(あしやをとめ)が墓を過ぐる時よめる歌一首、また短歌 1801 古の ますら丁子(をのこ)の 相競(きほ)ひ 妻問しけむ    葦屋(あしのや)の 菟原娘子(うなひをとめ)の 奥城(おくつき)を 吾(あ)が立ち見れば    永き世の 語りにしつつ 後人の 偲ひにせむと    玉ほこの 道の辺近く 岩構へ 造れる塚(はか)を    天雲の そくへの限り この道を 行く人ごとに    行き寄りて い立ち嘆かひ 里人(さどひと)は 哭(ね)にも泣きつつ    語り継ぎ 偲ひ継ぎ来し 娘子らが 奥城所    吾(あれ)さへに 見れば悲しも 古思へば 反し歌 1802 古の信太丁子(しぬだをとこ)の妻問ひし菟原処女の奥城ぞこれ 1803 語り継ぐからにもここだ恋(こほ)しきを直目に見けむ古丁子(いにしへをとこ) 弟(おと)の死去(みまか)れるを哀しみてよめる歌一首、また短歌 1804 父母が 成しのまにまに 箸向ふ 弟の命(みこと)は    朝露の 消(け)やすき命 神の共(むた) 争ひかねて    葦原の 瑞穂の国に 家無みや また帰り来ぬ    遠つ国 黄泉(よみ)の境に 延(は)ふ蔦の おのもおのも    天雲の 別れし行けば 闇夜なす 思ひ惑はひ    射ゆ鹿(しし)の 心を痛み 葦垣の 思ひ乱れて    春鳥の 哭のみ泣きつつ 味(うま)さはふ 夜昼言はず    かぎろひの 心燃えつつ 嘆きぞ吾(あ)がする 反し歌 1805 別れてもまたも逢ふべく思ほえば心乱れて吾(あれ)恋ひめやも 1806 あしひきの荒山中に送り置きて帰らふ見れば心苦しも      右ノ七首、田邊福麻呂ノ歌集ニ出ヅ。 勝鹿(かづしか)の真間娘子(ままをとめ)を詠める歌一首、また短歌 1807 鶏が鳴く 東の国に 古に ありけることと    今までに 絶えず言ひ来る 勝鹿の 真間の手兒名(てこな)が    麻衣(あさきぬ)に 青衿(あをえり)着け 直(ひた)さ麻を 裳には織り着て    髪だにも 掻きは梳らず 履(くつ)をだに はかず歩けど    錦綾(にしきあや)の 中に包(くく)める 斎(いは)ひ子も 妹にしかめや    望月の 足れる面(おも)わに 花のごと 笑みて立てれば    夏虫の 火に入るがごと 水門(みなと)入りに 舟榜ぐごとく    行きかがひ 人の言ふ時 幾許(いくばく)も 生けらじものを    何すとか 身をたな知りて 波の音(と)の 騒く湊の    奥城に 妹が臥(こ)やせる 遠き代に ありけることを    昨日しも 見けむがごとも 思ほゆるかも 反し歌 1808 勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手兒名し思ほゆ 菟原処女(うなひをとめ)が墓を見てよめる歌一首、また短歌 1809 葦屋(あしのや)の 菟原処女の 八年子(やとせこ)の 片生ひの時よ    小放(をはなり)に 髪たくまでに 並び居(を)る 家にも見えず    虚木綿(うつゆふ)の 籠りて座(ま)せば 見てしかと 鬱(いふ)せむ時の    垣ほなす 人の問ふ時 茅渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の    臥屋(ふせや)焚き すすし競ひ 相よばひ しける時に    焼太刀(やきたち)の 手(た)かみ押しねり 白真弓 靫(ゆき)取り負ひて    水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競(きほ)へる時に    我妹子が 母に語らく 倭文手纏(しづたまき) 賤しき吾(あ)が故    ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあらめや    宍薬(ししくしろ) 黄泉に待たむと 隠沼(こもりぬ)の 下延(したば)へ置きて    打ち嘆き 妹がゆければ 茅渟壮士 その夜夢に見    取り続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い    天仰ぎ 叫びおらび 地(つち)に伏し 牙(き)噛み猛(たけ)びて    如(もころ)男に 負けてはあらじと 懸佩(かきはき)の 小太刀取り佩き    ところつら 尋ね行ければ 親族(やがら)どち い行き集ひ    永き代に 標(しるし)にせむと 遠き代に 語り継がむと    処女墓 中に造り置き 壮士墓 此方(こなた)彼方(かなた)に    造り置ける ゆゑよし聞きて 知らねども 新喪(にひも)のごとも 哭泣きつるかも 反し歌 1810 葦屋の菟原処女の奥城を行き来と見れば哭のみし泣かゆ 1811 墓の上の木枝(このえ)靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも      右ノ五首、高橋連蟲麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。 -------------------------------------------------------- .巻第十(とをまきにあたるまき) 春の雑歌(くさぐさのうた) 雑歌 1812 久かたの天の香具山この夕へ霞たなびく春立つらしも 1813 巻向(まきむく)の桧原に立てる春霞おほにし思(も)はばなづみ来めやも 1814 古(いにしへ)の人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし 1815 子らが手を巻向山に春されば木の葉しぬぎて霞たなびく 1816 玉蜻(かぎろひ)の夕さり来れば猟人(さづひと)の弓月が岳に霞たなびく 1817 今朝ゆきて明日は来(こ)むちふ愛(は)しきやし朝妻山に霞たなびく 1818 子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山崖(きし)に霞たなびく      右ノ七首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 鳥を詠める 1888 白雪の降り敷く冬は過ぎにけらしも春霞たなびく野辺(ぬへ)の鴬鳴きぬ 旋頭歌 1819 打ち靡く春立ちぬらし我が門の柳の末(うれ)に鴬鳴きつ 1820 梅の花咲ける岡辺に家居(を)れば乏(とも)しくもあらぬ鴬の声 1821 春霞流るるなべに青柳の枝くひ持ちて鴬鳴くも 1822 我が背子を莫越(なこせ)の山の呼子鳥君呼び返せ夜の更けぬとに 1823 朝戸出に来鳴く貌鳥(かほとり)汝(なれ)だにも君に恋ふれや時終へず鳴く 1824 冬こもり春さり来らしあしひきの山にも野にも鴬鳴くも 1825 むらさきの根延(ば)ふ横野の春野には君を懸けつつ鴬鳴くも 1826 春されば妻を求むと鴬の木末を伝ひ鳴きつつもとな 1827 春日なる羽がひの山よ佐保の内へ鳴き行くなるは誰(たれ)呼子鳥 1828 答へぬにな呼び響(とよ)めそ呼子鳥佐保の山辺を上り下りに 1829 梓弓春山近く家居(を)らし継ぎて聞くらむ鴬の声 1830 打ち靡く春さり来れば小竹(しぬ)の群(め)に尾羽(をは)打ち触りて鴬鳴くも 1831 朝霧にしぬぬに濡れて呼子鳥三船の山よ鳴き渡る見ゆ 雪を詠める 1832 打ち靡く春さり来ればしかすがに天雲霧(きら)ひ雪は降りつつ 1833 梅の花降り覆ふ雪を包み持ち君に見せむと取れば消(け)につつ 1834 梅の花咲き散り過ぎぬしかすがに白雪庭に降りしきりつつ 1835 今さらに雪降らめやも陽炎(かぎろひ)の燃ゆる春へとなりにしものを 1836 風まじり雪は降りつつしかすがに霞たなびき春さりにけり 1837 山の際(ま)に鴬鳴きて打ち靡く春と思へど雪降りしきぬ 1838 峯(を)のうへに降り置ける雪し風の共(むた)ここに散るらし春にはあれども      右ノ一首ハ、筑波山ニテ作(ヨ)メル。 1839 君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪消(ゆきげ)の水に裳の裾濡れぬ 1840 梅が枝に鳴きて移ろふ鴬の羽白妙に沫雪ぞ降る 1841 山高(だか)み降り来る雪を梅の花散りかも来ると思ひつるかも 1842 雪をおきて梅をな恋ひそあしひきの山片つきて家居らす君      右ノ二首ハ、問答。 霞を詠める 1843 昨日こそ年は果てしか春霞春日の山に早立ちにけり 1844 冬過ぎて春来たるらし朝日さす春日の山に霞たなびく 1845 鴬の春になるらし春日山霞たなびく夜目に見れども 柳を詠める 1846 霜枯れし冬の柳は宮人のかづらにすべく萌えにけるかも 1847 浅緑染め懸けたりと見るまでに春の柳は萌えにけるかも 1848 山の際に雪は降りつつしかすがにこの川楊(かはやぎ)は萌えにけるかも 1849 山の際の雪は消ざるを激(たぎ)ちあふ川の柳は萌えにけるかも 1850 朝な朝(さ)な吾(あ)が見る柳鴬の来居て鳴くべく森に早なれ 1851 青柳の糸のくはしさ春風に乱れぬい間に見せむ子もがも 1852 百敷の大宮人のかづらける垂柳(しだりやなぎ)は見れど飽かぬかも 1853 梅の花取り持ち見れば我が屋戸の柳の眉(まよ)し思ほゆるかも 花を詠める 1887 春日なる三笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく 旋頭歌 1854 鴬の木伝(こづた)ふ梅のうつろへば桜の花の時かたまけぬ 1855 桜花時は過ぎねど見る人の恋の盛りと今し散るらむ 1856 吾(あ)が挿せる柳の糸を吹き乱る風にか妹が梅の散るらむ 1857 毎年(としのは)に梅は咲けども空蝉の世の人吾(あれ)し春なかりけり 1858 うつたへに鳥は食(は)まねど縄(しめ)延へて守(も)らまく欲しき梅の花かも 1859 おしなべて高き山辺を白妙ににほはせたるは桜花かも 1860 花咲きて実はならねども長き日(け)に思ほゆるかも山吹の花 1861 能登川の水底さへに照るまでに三笠の山は咲きにけるかも 1862 雪見ればいまだ冬なりしかすがに春霞立ち梅は散りつつ 1863 去年(こぞ)咲きし馬酔木(あしび)今咲くいたづらに土にや散らむ見る人なしに 1864 あしひきの山間(やまかひ)照らす桜花この春雨に散りにけるかも 1865 打ち靡く春さり来らし山の際の遠き木末(こぬれ)の咲きゆく見れば 1866 雉(きぎし)鳴く高圓(たかまと)の辺(べ)に桜花散りて流らふ見む人もがも 1867 阿保山の桜の花は今日もかも散り乱るらむ見る人なしに 1868 かはづ鳴く吉野の川の滝(たぎ)の上(へ)の馬酔木の花は土に置くなゆめ 1869 春雨に争ひかねて我が屋戸の桜の花は咲きそめにけり 1870 春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも 1871 春されば散らまく惜しき桜花しましは咲かず含(ふふ)みてもがも 1872 見渡せば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも 1873 いつしかもこの夜の明けむ鴬の木伝ひ散らす梅の花見む 月を詠める 1874 春霞たなびく今日の夕月夜(ゆふづくよ)清く照るらむ高圓の野に 1875 春されば木隠(こがく)れ多き夕月夜おほつかなしも山陰にして 1876 朝霞春日の暮れば木の間より移ろふ月をいつとか待たむ 雨を詠める 1877 春の雨にありけるものを立ち隠り妹が家道にこの日暮らしつ 河を詠める 1878 今ゆきて聞くものにもが明日香川春雨降りて激(たぎ)つ瀬の音(と)を 煙(けぶり)を詠める 1879 春日野に煙立つ見ゆ娘子(をとめ)らし春野のうはぎ摘みて煮らしも 野の遊び 1880 春日野の浅茅が上に思ふどち遊ぶこの日の忘らえめやも 1881 春霞立つ春日野を往き還り吾(あれ)は相見むいや年のはに 1882 春の野に心やらむと思ふどち来し今日の日は暮れずもあらぬか 1883 百敷の大宮人は暇(いとま)あれや梅を挿頭してここに集(つど)へる 旧(ふ)りぬるを歎く 1884 冬過ぎて春し来たれば年月は改れども人は古りゆく 1885 物皆は新(あらた)しき吉し唯人は古りぬるのみそ宜しかるべし 逢へるを懽(よろこ)ぶ 1886 住吉(すみのえ)の里ゆきしかば春花のいやめづらしき君に逢へるかも 譬喩歌(たとへうた) 1889 我が屋戸の毛桃の下に月夜さし下悩ましもうたてこの頃 春の相聞(したしみうた) 相聞 1890 春日野に鳴く鴬の泣き別れ帰ります間も思ほせ吾(あれ)を 1891 冬こもり春咲く花を手折り持ち千たびの限り恋ひ渡るかも 1892 春山の霧に惑へる鴬も吾(あれ)にまさりて物思はめや 1893 出でて見る向ひの岡に本繁く咲ける毛桃のならずはやまじ 1894 霞立つ永き春日を恋ひ暮らし夜も更けゆきて妹に逢へるかも 1895 春さればまづ三枝(さきくさ)の幸(さき)くあらば後にも逢はむな恋ひそ我妹(わぎも) 1896 春されば垂(しだ)る柳のとををにも妹に心に乗りにけるかも      右ノ七首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 鳥に寄す 1897 春さればもずの草潜(ぐ)き見えずとも吾(あれ)は見やらむ君があたりは 1898 容鳥(かほとり)の間なくしば鳴く春の野の草根の繁き恋もするかも 花に寄す 1899 春されば卯の花くたし吾(あ)が越えし妹が垣間(かきま)は荒れにけるかも 1900 梅の花咲き散る園に吾(あれ)行かむ君が使を片待ちがてり 1901 藤波の咲ける春野に延ふ葛(くず)の下よし恋ひば久しくもあらむ 1902 春の野に霞たなびき咲く花のかくなるまでに逢はぬ君かも 1903 我が背子に吾(あ)が恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今盛りなり 1904 梅の花しだり柳に折りまじへ花に手向けば君に逢はむかも 1905 をみなへし佐紀野に生ふる白つつじ知らぬこともち言はれし我が背 1906 梅の花吾(あれ)は散らさじ青丹よし奈良なる人の来つつ見るがね 1907 ことならばいかで植ゑけむ山吹のやむ時もなく恋ふらく思(も)へば 霜に寄す 1908 春されば水草(みくさ)の上に置く霜の消(け)につつも吾(あれ)は恋ひ渡るかも 霞に寄す 1909 春山に霞たなびきおほほしく妹を相見て後恋ひむかも 1910 春霞立ちにし日より今日までに吾(あ)が恋やまず片思(も)ひにして 1911 さ丹頬(にづら)ふ妹を思ふと霞立つ春日もくれに恋ひ渡るかも 1912 玉きはる我が山の上(へ)に立つ霞立つとも座(う)とも君がまにまに 1913 見渡せば春日の野辺に立つ霞見まくの欲しき君が姿か 1914 恋ひつつも今日は暮らしつ霞立つ明日の春日をいかで暮らさむ 雨に寄す 1915 我妹子(わぎもこ)に恋ひてすべなみ春雨の降るわき知らに出でて来しかも 1916 今さらに吾(あれ)はい行かじ春雨の心を人の知らざらなくに 1917 春雨に衣はいたく通らめや七日(なぬか)し降らば七夜(ななよ)来じとや 1918 梅の花散らす春雨しきて降る旅にや君が廬りせるらむ 草に寄す 1919 国栖(くにす)らが春菜摘むらむ司馬(しま)の野のしばしば君を思ふこの頃 1920 春草の繁き吾(あ)が恋大海の辺による波の千重に積もりぬ 1921 おほほしく君を相見て菅の根の長き春日を恋ひ渡るかも 松に寄す 1922 梅の花咲きて散りなば我妹子を来むか来じかと吾(あ)が松の木ぞ 雲に寄す 1923 白真弓今春山にゆく雲の行きや別れむ恋しきものを 蘰(かづら)を贈る 1924 大夫(ますらを)の伏し居嘆きて作りたる垂柳(しだりやなぎ)そ蘰(かづら)け我妹(わぎも) 別れを悲しむ 1925 朝戸出の君が姿をよく見ずて長き春日を恋ひや暮らさむ 問答(とひこたへのうた) 1926 春山の馬酔木の花の悪しからぬ君にはしゑや寄せぬともよし 1927 石上(いそのかみ)布留(ふる)の神杉(かむすぎ)神さびて吾(あれ)やさらさら恋にあひにける 1928 狭野方(さぬかた)は実にならずとも花のみも咲きて見えこそ恋のなぐさに 1929 狭野方は実になりにしを今更に春雨降りて花咲かめやも 1930 梓弓引津の辺(べ)なる名告藻(なのりそ)が花咲くまでに逢はぬ君かも 1931 川上(かはかみ)のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも 1932 春雨のやまず降る降る吾(あ)が恋ふる人の目すらを相見せなくに 1933 我妹子に恋ひつつ居れば春雨の彼も知るごとやまず降りつつ 1934 相思はぬ妹をやもとな菅の根の長き春日を思ひ暮らさむ       或本(マキ)ノ歌、  1936 相思はずあるらむ子ゆゑ玉の緒の長き春日を思ひ暮らさく 1935 春さればまづ鳴く鳥の鴬の言先立てし君をし待たむ 夏の雑歌(くさぐさのうた) 鳥を詠める 1937 大夫(ますらを)の 出で立ち向ふ 故郷の 神奈備山に    明けくれば 柘(つみ)のさ枝に  夕されば 小松が末(うれ)に    里人の 聞き恋ふるまで 山彦の 相響(とよ)むまで    霍公鳥(ほととぎす) 妻恋(つまこひ)すらし さ夜中に鳴く 反(かへ)し歌 1938 旅にして妻恋すらし霍公鳥神奈備山にさ夜更けて鳴く      右ノ二首ハ、古歌集ノ中ニ出ヅ。 1939 霍公鳥汝(な)が初声は花にもが五月の玉にまじへて貫(ぬ)かむ 1940 朝霞たなびく野辺にあしひきの山霍公鳥いつか来鳴かむ 1941 朝霞八重山越えて呼子鳥呼びや汝が来る屋戸もあらなくに 1942 霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く乙女 1943 月夜よみ鳴く霍公鳥見が欲れば今草取れり見む人もがも 1944 藤波の散らまく惜しみ霍公鳥今城(いまき)の岡を鳴きて越ゆなり 1945 朝霞八重山越えて霍公鳥卯の花辺(はなへ)から鳴きて越ゆなり 1946 木高くはかつて木植ゑじ霍公鳥来鳴き響めて恋まさらしむ 1947 逢ひがたき君に逢へる夜霍公鳥他時(あたしとき)よは今こそ鳴かめ 1948 木の暗(くれ)の暗闇なるに霍公鳥いづくを家と鳴き渡るらむ 1949 霍公鳥今朝の朝明に鳴きつるは君聞きけむか朝宿(あさい)か寝けむ 1950 霍公鳥花橘の枝に居て鳴き響もせば花は散りつつ 1951 うれたきや醜(しこ)霍公鳥今こそは声の嗄るがに来鳴き響まめ 1952 この夜らのおほつかなきに霍公鳥鳴くなる声の音の遥けさ 1953 五月山卯の花月夜霍公鳥聞けども飽かずまた鳴かぬかも 1954 霍公鳥来居も鳴かぬか我が屋戸の花橘の土に散るも見む 1955 霍公鳥いとふ時なし菖蒲草かづらにせむ日こよ鳴き渡れ 1956 大和には鳴きてか来らむ霍公鳥汝が鳴くごとに亡き人思ほゆ 1957 卯の花の散らまく惜しみ霍公鳥野に出山に入(り)来鳴き響もす 1958 橘の林を植ゑむ霍公鳥常に冬まで住みわたるがね 1959 雨晴れし雲にたぐひて霍公鳥春日(かすが)をさしてこよ鳴き渡る 1960 物思(も)ふとい寝ぬ朝明に霍公鳥鳴きてさ渡るすべなきまでに 1961 我が衣(ころも)君に着せよと霍公鳥吾(あれ)を頷き袖に来居つつ 1962 本つ人霍公鳥をやめづらしく今や汝が来る恋ひつつ居れば 1963 かくばかり雨の降らくに霍公鳥卯の花山になほか鳴くらむ 蝉(ひぐらし)を詠める 1964 黙(もだ)もあらむ時も鳴かなむひぐらしの物思(も)ふ時に鳴きつつもとな 榛(はり)を詠める 1965 思ふ子が衣摺らむににほひこそ島の榛原秋立たずとも 花を詠める 1966 風に散る花橘を袖に受けて君がみ為と偲ひつるかも 1967 かぐはしき花橘を玉に貫きおこせむ妹は贏(みつ)れてもあるか 1968 霍公鳥来鳴き響もす橘の花散る庭を見む人や誰 1969 我が屋戸の花橘は散りにけり悔しき時に逢へる君かも 1970 見渡せば向ひの野辺の撫子の散らまく惜しも雨な降りそね 1971 雨間(あまま)明けて国見もせむを故郷の花橘は散りにけむかも 1972 野辺見れば撫子の花咲きにけり吾(あ)が待つ秋は近づくらしも 1973 我妹子に楝(あふち)の花は散り過ぎず今咲けるごとありこせぬかも 1974 春日野の藤は散りにき何をかも御狩の人の折りて挿頭(かざ)さむ 1975 時ならず玉をぞ貫ける卯の花の五月を待たば久しかるべみ 問答 1976 卯の花の咲き散る岡よ霍公鳥鳴きてさ渡る君は聞きつや 1977 聞きつやと君が問はせる霍公鳥しぬぬに濡れてこよ鳴き渡る 譬喩歌 1978 橘の花散る里に通ひなば山霍公鳥響もさむかも 夏の相聞(したしみうた) 鳥に寄す 1979 春さればすがるなす野の霍公鳥ほとほと妹に逢はず来にけり 1980 五月山花橘に霍公鳥隠らふ時に逢へる君かも 1981 霍公鳥来鳴く五月の短夜も独りし寝(ぬ)れば明かしかねつも 蝉(ひぐらし)に寄す 1982 ひぐらしは時と鳴けども物恋ふる手弱女(たわやめ)吾(あれ)は時わかず泣く 草に寄す 1983 人言は夏野の草の繁くとも妹と吾(あれ)とし携はり寝ば 1984 この頃の恋の繁けく夏草の刈り掃へども生ひ重(し)くごとし 1985 真葛延ふ夏野の繁くかく恋ひば実(さね)我が命常ならめやも 1986 吾(あれ)のみやかく恋すらむかきつはた丹頬(につら)ふ妹はいかにかあらむ 花に寄す 1987 片縒(かたより)に糸をぞ吾(あ)が縒る我が背子が花橘を貫かむと思(も)ひて 1988 鴬の通ふ垣根の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ 1989 卯の花の咲くとはなしにある人に恋ひやわたらむ片思(かたもひ)にして 1990 吾(あれ)こそは憎くもあらめ我が屋戸の花橘を見には来じとや 1991 霍公鳥来鳴き響もす岡辺なる藤波見には君は来じとや 1992 隠(こも)りのみ恋ふれば苦し撫子の花に咲き出よ朝な朝(さ)な見む 1993 よそのみに見つつを恋ひむ紅の末摘花(うれつむはな)の色に出でずとも 露に寄す 1994 夏草の露分け衣着(け)せなくに吾(あ)が衣手(ころもて)の干(ひ)る時もなき 日に寄す 1995 六月(みなつき)の土さへ裂けて照る日にも吾(あ)が袖干めや君に逢はずして 秋の雑歌(くさぐさのうた) 七夕(なぬかのよ) 1996 天の川水底さへにひかる舟泊てし舟人妹と見えきや 1997 久かたの天の川原(がはら)にぬえ鳥のうら歎(な)げましつ乏(とも)しきまでに 1998 吾(あ)が恋を嬬(つま)は知れるを行く舟の過ぎて来(く)べしや言も告げなく 1999 赤らびく敷妙(しきたへ)の子をしば見れば人妻ゆゑに吾(あれ)恋ひぬべし 2000 天の川安の渡りに船浮けて吾(あ)が立ち待つと妹に告げこそ 2001 大空(おほそら)よ通ふ吾(あれ)すら汝(な)がゆゑに天の川道(がはぢ)をなづみてぞ来し 2002 八千戈(やちほこ)の神の御代より乏し妻人知りにけり継ぎてし思(も)へば 2003 吾(あ)が恋ふる丹穂(にのほ)の面(おもわ)今宵もか天の川原に石枕(いそまくら)まかむ 2004 己が夫(つま)ともしむ子らは泊てむ津の荒磯(ありそ)巻きて寝(ぬ)君待ちかてに 2005 天地(あめつち)と別れし時よ己が妻しかぞ手にある秋待つ吾(あれ)は 2006 彦星は嘆かす妻に言だにも告げにぞ来つる見れば苦しみ 2007 久かたの天(あま)つしるしと水無川(みなしがは)隔てて置きし神代し恨めし 2008 ぬば玉の夜霧隠(こも)りて遠くとも妹が伝言(つてごと)早く告げこそ 2009 汝が恋ふる妹の命(みこと)は飽くまでに袖振る見えつ雲隠るまで 2010 夕星(ゆふづつ)の通ふ天道(あまぢ)をいつまでか仰ぎて待たむ月人壮士(つきひとをとこ) 2011 天の川い向ひ立ちて恋ひむよは言だに告げむ妻寄すまでは 2012 白玉の五百(いほ)つ集ひを解きも見ず吾(あ)は在りかたぬ逢はむ日待つに 2013 天の川水陰草(みこもりくさ)の秋風に靡かふ見れば時来たるらし 2014 吾(あ)が待ちし秋萩咲きぬ今だにもにほひに行かな彼方人(をちかたひと)に 2015 我が背子にうら恋ひ居れば天の川夜船榜ぎ響む楫の音(と)聞こゆ 2016 ま日(け)長く恋ふる心よ秋風に妹が音聞こゆ紐解きまけな 2017 恋ひしくは日長きものを今だにも乏しむべしや逢ふべき夜だに 2018 天の川去年の渡りで移ろへば川瀬を踏むに夜ぞ更けにける 2019 古よあげてし服(はた)を顧みず天の川津(かはづ)に年ぞ経にける 2020 天の川夜船を榜ぎて明けぬとも逢はむと思(も)ふ夜袖交(か)へずあらめや 2021 遠妻と手枕交はし寝たる夜は鶏が音(ね)な鳴き明けば明くとも 2022 相見まく飽き足らねどもいなのめの明けゆきにけり舟出せむ妹 2023 さ寝そめていくだもあらねば白妙の帯乞ふべしや恋も尽きねば 2024 万代にたづさはり居て相見とも思ひ過ぐべき恋ならなくに 2025 万代に照るべき月も雲隠り苦しきものぞ逢はむと思へど 2026 白雲の五百重(いほへ)隠(かく)りて遠けども宵さらず見む妹があたりは 2027 吾(あ)が為と織女(たなばたつめ)のその屋戸に織れる白布(しろたへ)縫ひてけむかも 2028 君に逢はず久しき時よ織る服(はた)の白妙衣垢付くまでに 2029 天の川楫の音(と)聞こゆ彦星(ひこほし)と織女(たなばたつめ)と今宵逢ふらしも 2030 秋されば川霧立てる天の川川に向き居て恋ふる夜ぞ多き 2031 よしゑやし直(ただ)ならずともぬえ鳥のうら嘆(な)げ居ると告げむ子もがも 2032 一年(ひととせ)に七日の夜のみ逢ふ人の恋も尽きねばさ夜ぞ明けにける 2033 天の川安の川原に定まりて神の競(つど)ひは禁(い)む時無きを 此歌一首、庚辰ノ年ニ作メル。      右ノ三十八首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 2034 織女(たなばた)の五百機(いほはた)立てて織る布の和布(にきたへ)衣誰か取り見む 2035 年にありて今か巻くらむぬば玉の夜霧隠(がく)りに遠妻の手を 2036 吾(あ)が待ちし秋は来たりぬ妹と吾(あれ)何事あれそ紐解かざらむ 2037 年の恋今宵尽して明日よりは常のごとくや吾(あ)が恋ひ居らむ 2038 逢はなくは日長きものを天の川隔ててまたや吾(あ)が恋ひ居らむ 2039 恋しけく日長きものを逢ふべかる宵だに君が来まさざるらむ 2040 彦星と織女(たなばたつめ)と今宵逢ふ天の川門に波立つなゆめ 2041 秋風の吹き漂はす白雲は織女の天つ領巾(ひれ)かも 2042 しばしばも相見ぬ君を天の川舟出早せよ夜の更けぬあひだ 2043 秋風の清(さや)けき夕へ天の川舟榜ぎ渡る月人壮士(つきひとをとこ) 2044 天の川霧立ちわたり彦星の楫の音聞こゆ夜の更けゆけば 2045 君が舟今榜ぎ来らし天の川霧立ち渡るこの川の瀬に 2046 秋風に川波立ちぬしましくは八十(やそ)の舟津にみ舟留めよ 2047 天の川川音(かはと)さやけし彦星の速榜ぐ舟の波のさわきか 2048 天の川川門(かはと)に立ちて吾(あ)が恋ひし君来ますなり紐解き待たむ 2049 天の川川門に居りて年月を恋ひ来(こ)し君に今宵会へるかも 2050 明日よりは吾(あ)が玉床を打ち払ひ君とい寝ずて独りかも寝む 2051 天の原さしてや射ると白真弓引きて隠せる月人壮士 2052 この夕へ降りくる雨は彦星の早榜ぐ舟の櫂の散りかも 2053 天の川八十瀬霧(きら)へり彦星の時待つ船は今し榜ぐらし 2054 風吹きて川波立ちぬ引船に渡りも来ませ夜の更けぬ間に 2055 天の川遠き渡りは無けれども君が舟出は年にこそ待て 2056 天の川打橋渡せ妹が家道やまず通はむ時待たずとも 2057 月重ね吾(あ)が思(も)ふ妹に会へる夜は今し七夜を継ぎこせぬかも 2058 年に装ふ吾(あ)が舟榜がむ天の川風は吹くとも波立つなゆめ 2059 天の川波は立つとも吾(あ)が舟はいざ榜ぎ出でむ夜の更けぬ間に 2060 ただ今宵逢ひたる子らに言問(こととひ)もいまだせずしてさ夜ぞ明けにける 2061 天の川白波高し吾(あ)が恋ふる君が舟出は今しすらしも 2062 機物(はたもの)のふみ木持ちゆきて天の川打橋渡す君が来むため 2063 天の川霧立ちのぼる織女(たなばた)の雲の衣の翻(かへ)る袖かも 2064 古に織りてし服(はた)をこの夕へ衣(ころも)に縫ひて君待つ吾(あれ)を 2065 足玉(あしたま)も手玉(たたま)もゆらに織る絹布(はた)を君が御衣(みけし)に縫ひあへむかも 2066 月日択(え)り逢ひてしあれば別れまく惜しかる君は明日さへもがも 2067 天の川渡り瀬深み船浮けて榜ぎ来る君が楫の音(と)聞こゆ 2068 天の原振りさけ見れば天の川霧立ち渡る君は来(き)ぬらし 2069 天の川渡り瀬ごとに幣(ぬさ)まつる心は君を幸(さき)く来ませと 2070 久かたの天の川津に舟浮けて君待つ夜らは明けずもあらぬか 2071 天の川足濡れ渡り君が手もいまだまかねば夜の更けぬらく 2072 渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音せぬ 2073 ま日長く川に向き立ちありし袖こよひ巻かれむと思ふがよさ 2074 天の川渡り瀬ごとに思ひつつ来しくもしるし逢へらく思へば 2075 人さへや見継がずあらむ彦星の妻呼ぶ舟の近づきゆくを 2076 天の川瀬を早みかもぬば玉の夜は更けにつつ逢はぬ彦星 2077 渡り守舟はや渡せ一年にふたたび通ふ君ならなくに 2078 玉葛(たまかづら)絶えぬものからさ寝(ぬ)らくは年の渡りにただ一夜のみ 2079 恋ふる日は日長きものを今宵だに乏しむべしや逢ふべきものを 2080 織女(たなばた)の今宵逢ひなば常のごと明日を隔てて年は長けむ 2081 天の川棚橋渡せ織女のい渡らさむに棚橋渡せ 2082 天の川川門八十(やそ)ありいづくにか君がみ舟を吾(あ)が待ち居らむ 2083 秋風の吹きにし日より天の川河瀬に出立(でた)ち待つと告げこそ 2084 天の川去年(こぞ)の渡り瀬絶えにけり君が来まさむ道の知らなく 2085 天の川瀬々に白波高けども直(ただ)渡り来(き)ぬ待たば苦しみ 2086 彦星の妻呼ぶ舟の引綱の絶えむと君を吾(あ)が思(も)はなくに 2087 渡り守舟出して来む今宵のみ相見て後は逢はじものかも 2088 吾(あ)が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て 2089 天地の 初めの時よ 天の川 い向ひ居りて    一年に ふたたび逢はぬ 妻恋に 物思ふ人    天の川 安の川原の あり通ふ 年の渡りに    大船の 艫(とも)にも舳(へ)にも 船装(ふなよそ)ひ 真楫しじ貫き    旗すすき 末葉(うらば)もそよに 秋風の 吹きくる宵に    天の川 白波しぬぎ 落ちたぎつ 早瀬渡りて    若草の 妻を巻かむと 大船の 思ひ頼みて    榜ぎ来らむ その夫(つま)の子が あら玉の 年の緒長く    思ひ来し 恋尽すらむ 七月(ふみつき)の 七日の宵は 吾(あれ)も悲しも 反し歌 2090 高麗錦(こまにしき)紐解きかはし天人(あめひと)の妻問ふ宵ぞ吾(あれ)も偲(しぬ)はむ 2091 彦星の川瀬を渡るさ小舟の得行きて泊てむ川津し思ほゆ 2092 天地と 別れし時よ 久かたの 天つしるしと    定めてし 天の川原に あら玉の 月を重ねて    妹に逢ふ 時さもらふと 立ち待つに 吾(あ)が衣手に    秋風の 吹きしかへれば 立ちて居る たどきを知らに    むら肝の 心いさよひ 解き衣の 思ひ乱れて    いつしかと 吾(あ)が待つ今宵 この川の ゆく瀬の長く ありこせぬかも 反し歌 2093 妹に逢ふ時片待つと久かたの天の川原に月ぞ経にける 花を詠める 2094 さ牡鹿の心相思ふ秋萩のしぐれの降るに散らくし惜しも 2095 夕されば野辺の秋萩うら若み露に枯れつつ秋待ち難し      右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 2096 真葛原靡く秋風吹くごとに阿太(あだ)の大野の萩が花散る 2097 雁がねの来鳴かむ日まで見つつあらむこの萩原に雨な降りそね 2098 奥山に棲むちふ鹿の宵さらず妻問ふ萩の散らまく惜しも 2099 白露の置かまく惜しみ秋萩を折りのみ折らむ置きや枯らさむ 2100 秋田刈る借廬(かりほ)の宿りにほふまで咲ける秋萩見れど飽かぬかも 2101 吾(あ)が衣摺(す)れるにはあらず高圓(たかまと)の野辺行きしかば萩の摺れるそ 2102 この夕へ秋風吹きぬ白露に争ふ萩の明日咲かむ見む 2103 秋風は涼しくなりぬ馬並(な)めていざ野に行かな萩が花見に 2104 朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ 2105 春されば霞隠(がく)りて見えざりし秋萩咲けり折りて挿頭さむ 2106 沙額田(さぬかた)の野辺の秋萩時しあれば今盛りなり折りて挿頭さむ 2107 ことさらに衣は摺らじをみなへし佐紀野の萩ににほひて居らむ 2108 秋風は速く吹き来ぬ萩が花散らまく惜しみ競ひ立ち見む 2109 我が屋戸の萩の末(うれ)長し秋風の吹きなむ時に咲かむと思ひて 2110 人皆は萩を秋と言ふよし吾(あれ)は尾花が末を秋とは言はむ 2111 玉づさの君が使の手折りけるこの秋萩は見れど飽かぬかも 2112 我が屋戸に咲ける秋萩常しあらば吾(あ)が待つ人に見せましものを 2113 手もすまに植ゑしもしるく出で見れば屋戸の早萩(わさはぎ)咲きにけるかも 2114 我が屋戸に植ゑ生(お)ほしたる秋萩を誰か標(しめ)さす吾(あれ)に知らえず 2115 手に取れば袖さへにほふをみなへしこの白露に散らまく惜しも 2116 白露に争ひかねて咲ける萩散らば惜しけむ雨な降りそね 2117 乙女らに行相(ゆきあひ)の早稲(わせ)を刈る時になりにけらしも萩が花咲く 2118 朝霧の棚引く小野の萩が花今か散るらむいまだ飽かなくに 2119 恋しくは形見にせよと我が背子が植ゑし秋萩花咲きにけり 2120 秋萩に恋尽くさじと思へどもしゑや惜(あたら)しまた逢はめやも 2121 秋風は日に異(け)に吹きぬ高圓の野辺の秋萩散らまく惜しも 2122 大夫の心は無しに秋萩の恋にのみやもなづみてありなむ 2123 吾(あ)が待ちし秋は来たりぬ然れども萩が花そもいまだ咲かずける 2124 見まく欲り吾(あ)が待ち恋ひし秋萩は枝もしみみに花咲きにけり 2125 春日野の萩し散りなば朝東風(あさごち)の風にたぐひてここに散り来(こ)ね 2126 秋萩は雁に逢はじと言へればか声を聞きては花に散りぬる 2127 秋さらば妹に見せむと植ゑし萩露霜負ひて散りにけるかも 雁を詠める 2128 秋風に大和へ越ゆる雁がねはいや遠ざかる雲隠りつつ 2129 明闇(あけぐれ)の朝霧隠り鳴きて行く雁は吾(あ)が恋ふ妹に告げこそ 2130 我が屋戸に鳴きし雁がね雲のうへに今宵鳴くなり国へかも行く 2131 さ牡鹿の妻問ふ時に月をよみ雁が音(ね)聞こゆ今し来らしも 2132 天雲のよそに雁が音聞きしよりはだれ霜降り寒しこの夜は 2133 秋の田の吾(あ)が刈りばかの過ぎぬれば雁が音聞こゆ冬かたまけて 2134 葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなべに雁鳴き渡る 2135 押し照る難波堀江の葦辺には雁寝たるらし霜の降らくに 2136 秋風に山飛び越ゆる雁がねの声遠ざかる雲隠るらし 2137 朝(つと)にゆく雁の鳴く音(ね)は我がごとく物思へかも声の悲しき 2138 鶴(たづ)が音の今朝鳴くなべに雁が音はいづくさしてか雲隠るらむ 2139 ぬば玉の夜渡る雁はおほほしく幾夜を経てか己が名を告(の)る 2140 あら玉の年の経ゆけば率(あども)ふと夜渡る吾(あれ)を問ふ人や誰 鹿鳴(しか)を詠める 2141 この頃の秋の朝明(あさけ)に霧隠り妻呼ぶ鹿の声のさやけさ 2142 さ牡鹿の妻ととのふと鳴く声の至らむ極み靡け萩原 2143 君に恋ひうらぶれ居れば敷(しき)の野の秋萩しぬぎさ牡鹿鳴くも 2144 雁は来ぬ萩は散りぬとさ牡鹿の鳴くなる声もうらぶれにけり 2145 秋萩の恋も尽きねばさ牡鹿の声い継ぎい継ぎ恋こそまされ 2146 山近く家や居るべきさ牡鹿の声を聞きつつい寝かてぬかも 2147 山の辺(べ)にい行く猟夫(さつを)は多かれど山にも野にもさ牡鹿鳴くも 2148 あしひきの山より来(き)せばさ牡鹿の妻呼ぶ声を聞かましものを 2149 山辺(やまへ)には猟夫のねらひ恐(かしこ)けど牡鹿鳴くなり妻の目を欲(ほ)り 2150 秋萩の散りぬるを見ていふかしみ妻恋すらしさ牡鹿鳴くも 2151 山遠き京(みさと)にしあればさ牡鹿の妻呼ぶ声は乏しくもあるか 2152 秋萩の散りて過ぎなばさ牡鹿は侘び鳴きせむな見ねば乏しみ 2153 秋萩の咲きたる野辺はさ牡鹿ぞ露を分けつつ妻問しける 2154 など鹿の侘び鳴きすなるけだしくも秋野の萩や繁く散るらむ 2155 秋萩の咲きたる野辺にさ牡鹿は散らまく惜しみ鳴きぬるものを 2156 あしひきの山の常蔭(とかげ)に鳴く鹿の声聞かすやも山田守(も)らす子 蝉(ひぐらし)を詠める 2157 夕影に来鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽かぬ声かも 蟋(こほろぎ)を詠める 2158 秋風の寒く吹くなべ我が屋戸の浅茅が本に蟋蟀鳴くも 2159 蔭草の生ひたる屋戸の夕影に鳴く蟋蟀は聞けど飽かぬかも 2160 庭草にむら雨降りて蟋蟀の鳴く声聞けば秋づきにけり 蝦(かはづ)を詠める 2161 み吉野の磯もとさらず鳴くかはづうべも鳴きけり川をさやけみ 2162 神奈備の山下響み行く水にかはづ鳴くなり秋と言はむとや 2163 草枕旅に物思(も)ひ吾(あ)が聞けば夕かたまけて鳴くかはづかも 2164 瀬を早み落ちたぎちたる白波にかはづ鳴くなり朝宵ごとに 2165 上つ瀬にかはづ妻呼ぶ夕されば衣手寒み妻枕(ま)かむとか 鳥を詠める 2166 妹が手を取石(とろし)の池の波の間よ鳥が音異(け)に鳴く秋過ぎぬらし 2167 秋の野の尾花が末に鳴く百舌の声聞くらむか片待つ我妹 露を詠める 2168 秋萩に置ける白露朝な朝(さ)な玉とぞ見ゆる置ける白露 2169 夕立の雨降るごとに春日野の尾花が上の白露思ほゆ 2170 秋萩の枝もとををに露霜置き寒くも時はなりにけるかも 2171 白露と秋の萩とは恋ひ乱り別(わ)くことかたき吾(あ)が心かも 2172 我が屋戸の尾花押しなべ置く露に手(た)触れ我妹子散らまくも見む 2173 白露を取らば消(け)ぬべしいざ子ども露に競(きほ)ひて萩の遊びせむ 2174 秋田刈る借廬(かりほ)を作り吾(あ)が居れば衣手寒く露ぞ置きにける 2175 この頃の秋風寒し萩が花散らす白露置きにけらしも 2176 秋田刈る衣手(そて)湿(ひぢ)ぬなり白露は置く穂田なしと告げに来ぬらし 山を詠める 2177 春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも 黄葉(もみち)を詠める 2178 妻籠る矢野の神山露霜ににほひそめたり散らまく惜しも 2179 朝露ににほひそめたる秋山に時雨な降りそありわたるがね      右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 2180 九月(ながつき)のしぐれの雨に濡れとほり春日の山は色づきにけり 2181 雁が音の寒き朝明の露ならし春日の山をもみたすものは 2182 このごろの暁露(あかときつゆ)に我が屋戸の萩の下葉は色づきにけり 2183 雁がねは今は来鳴きぬ吾(あ)が待ちし黄葉早継げ待たば苦しも 2184 秋山をゆめ人懸くな忘れにしそのもみち葉の思ほゆらくに 2185 大坂を吾(あ)が越え来れば二上にもみち葉流る時雨降りつつ 2186 秋されば置く白露に我が門の浅茅が末葉(うらば)色づきにけり 2187 妹が袖巻向山の朝露ににほふ黄葉の散らまく惜しも 2188 もみち葉のにほひは繁し然れども妻梨の木を手折り挿頭さむ 2189 露霜の寒き夕への秋風にもみちにけりも妻梨の木は 2190 我が門の浅茅色づく吉隠(よなばり)の浪柴(なみしば)の野の黄葉散るらし 2191 雁が音を聞きつるなべに高圓の野の上(へ)の草ぞ色づきにける 2192 我が背子が白妙衣ゆき触ればにほひぬべくも黄変(もみ)つ山かも 2193 秋風の日に異(け)に吹けば水茎の岡の木の葉も色づきにけり 2194 雁がねの来鳴きしなべに韓衣(からころも)龍田の山はもみちそめたり 2195 雁がねの声聞くなべに明日よりは春日の山はもみちそめなむ 2196 しぐれの雨間なくし降れば真木の葉も争ひかねて色づきにけり 2197 いちしろく時雨の雨は降らなくに大城(おほき)の山は色づきにけり 2198 風吹けば黄葉散りつつすくなくも君松原の清からなくに 2199 物思(も)ふと隠ろひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり 2200 九月の白露負ひてあしひきの山のもみちむ見まくしもよけむ 2201 妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越え来れば黄葉散りつつ 2202 黄葉する時になるらし月内(つきぬち)の桂の枝の色づく見れば 2203 朝に異に霜は置くらし高圓の野山づかさの色づく見れば 2204 秋風の日に異に吹けば露しげみ萩が下葉は色づきにけり 2205 秋萩の下葉もみちぬ荒玉の月の経ぬれば風をいたみかも 2206 真澄鏡(まそかがみ)南淵山(みなふちやま)は今日もかも白露置きて黄葉散るらむ 2207 我が屋戸の浅茅色づく吉隠の夏身の上に時雨降るらし 2208 雁がねの寒く鳴きしよ水茎の岡の葛葉は色づきにけり 2209 秋萩の下葉の黄葉花に継ぎ時過ぎゆかば後恋ひむかも 2210 明日香川もみち葉ながる葛城の山の木の葉は今し散るらし 2211 妹が紐解くと結ぶと龍田山今こそ黄葉はじめたりけれ 2212 雁がねの鳴きにし日より春日なる三笠の山は色づきにけり 2213 この頃の暁露に我が屋戸の秋の萩原色づきにけり 2214 夕されば雁が越えゆく龍田山しぐれに競ひ色づきにけり 2215 さ夜更けて時雨な降りそ秋萩の本葉の黄葉散らまく惜しも 2216 故郷の初もみち葉を手折り持ちて今日そ吾(あ)が来し見ぬ人のため 2217 君が家のもみち葉早く散りにしは時雨の雨に濡れにけらしも 2218 一年にふたたび行かぬ秋山を心に飽かず過ぐしつるかも 水田(こなた)を詠める 2219 あしひきの山田作る子秀(ひ)でずとも縄(しめ)だに延へよ守(も)ると知るがね 2220 さ牡鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田(わさだ)は刈らじ霜は降るとも 2221 我が門に禁(も)る田を見れば佐保の内の秋萩すすき思ほゆるかも 河を詠める 2222 夕さらずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音(と)を聞かくしよしも 月を詠める 2223 天の海に月の船浮け桂楫懸けて榜ぐ見ゆ月人壮士 2224 この夜らはさ夜更けぬらし雁が音の聞こゆる空よ月立ち渡る 2225 我が背子が挿頭の萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし 2226 心なき秋の月夜の物思(も)ふと寝(い)の寝らえぬに照りつつもとな 2227 思はぬにしぐれの雨は降りたれど天雲晴れて月夜(つくよ)さやけし 2228 萩が花咲きのををりを見よとかも月夜の清き恋まさらくに 2229 白露を玉になしたる九月(ながつき)の有明の月夜見れど飽かぬかも 風を詠める 2230 恋ひつつも稲葉かき分け家居れば乏しくもあらず秋の夕風 2231 萩の花咲きたる野辺にひぐらしの鳴くなるなべに秋の風吹く 2232 秋山の木の葉もいまだもみちねば今朝吹く風は霜も置きぬべく 芳(たけ)を詠める 2233 高圓のこの峰も狭(せ)に笠立てて満ち盛りなる秋の香のよさ 雨を詠める 2234 一日には千重しくしくに吾(あ)が恋ふる妹があたりに時雨降る見ゆ      右ノ一首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 2235 秋田刈る旅の廬(いほり)に時雨ふり吾(あ)が袖濡れぬ干す人なしに 2236 玉たすき懸けぬ時なき吾(あ)が恋を時雨し降らば濡れつつも行かむ 2237 もみち葉を散らす時雨の降るなべに衾(ふすま)も寒し独りし寝(ぬ)れば 霜を詠める 2238 天(あま)飛ぶや雁の翼の覆ひ羽のいづく漏りてか霜の降りけむ 秋の相聞(したしみうた) 相聞 2239 秋山のしたびが下に鳴く鳥の声だに聞かば何か嘆かむ 2240 誰(た)そ彼と吾(あれ)をな問ひそ九月の露に濡れつつ君待つ吾(あれ)を 2241 秋の夜の霧立ちわたりおほほしく夢(いめ)にぞ見つる妹が姿を 2242 秋の野の尾花が末(うれ)の打ち靡き心は妹に寄りにけるかも 2243 秋山に霜降り覆ひ木の葉散り年は行くとも吾(あれ)忘れめや      右ノ五首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 水田(こなた)に寄す 2244 住吉の岸を田に墾り蒔きし稲秀(ひ)でて刈るまで逢はぬ君かも 2245 太刀の後(しり)玉纒く田居にいつまでか妹を相見ず家恋ひ居らむ 2246 秋の田の穂の上(へ)に置ける白露の消ぬべく吾(あれ)は思ほゆるかも 2247 秋の田の穂向きの寄れる片寄りに吾(あれ)は物思(も)ふつれなきものを 2248 秋田刈る借廬を作り廬らしてあるらむ君を見むよしもがも 2249 鶴(たづ)が音の聞こゆる田居に廬りして我旅なりと妹に告げこそ 2250 春霞たなびく田居に廬りして秋田刈るまで思はしむらく 2251 橘を守部の里の門田早稲刈る時過ぎぬ来じとすらしも 露に寄す 2252 秋萩の咲き散る野辺の夕露に濡れつつ来ませ夜は更けぬとも 2253 色付(づ)かふ秋の露霜な降りそね妹が手本をまかぬ今宵は 2254 秋萩の上に置きたる白露の消(け)かもしなまし恋ひつつあらずは 2255 我が屋戸の秋萩の上(へ)に置く露のいちしろくしも吾(あれ)恋ひめやも 2256 秋の穂をしぬに押しなべ置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは 2257 露霜に衣手濡れて今だにも妹がり行かな夜は更けぬとも 2258 秋萩の枝もとををに置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは 2259 秋萩の上に白露置くごとに見つつぞ偲ふ君が姿を 風に寄す 2260 我妹子は衣(きぬ)にあらなむ秋風の寒きこの頃下に着ましを 2261 泊瀬風かく吹く夜半をいつまでか衣(ころも)片敷き吾(あ)が独り寝む 雨に寄す 2262 秋萩を散らす長雨(ながめ)の降る頃は独り起き居て恋ふる夜ぞ多き 2263 九月のしぐれの雨の山霧(やまきり)のいふせき吾(あ)が胸誰を見ばやまむ 蟋蟀に寄す 2310 蟋蟀の吾(あ)が床の辺に鳴きつつもとな起き居つつ君に恋ふるにい寝かてなくに 旋頭歌 2264 蟋蟀の待ち歓べる秋の夜を寝(ぬ)る験(しるし)なし枕と吾(あれ)は 蝦(かはづ)に寄す 2265 朝霞飼屋(かひや)が下に鳴くかはづ声だに聞かば吾(あれ)恋ひめやも 雁に寄す 2266 出でて去(い)なば天飛ぶ雁の泣きぬべみ今日今日と言ふに年ぞ経にける 鹿に寄す 2267 さ牡鹿の朝伏す小野の草若み隠ろひかねて人に知らゆな 2268 さ牡鹿の小野の草伏(くさふし)いちしろく吾(あ)が問はなくに人の知れらく 鶴(たづ)に寄す 2269 この夜らの暁くだち鳴く鶴(たづ)の思ひは過ぎず恋こそまされ 草に寄す 2311 旗すすき穂には咲き出ぬ恋を吾(あ)がする玉蜻(かぎろひ)のただ一目のみ見し人ゆゑに 旋頭歌 2270 道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何か思はむ 花に寄す 2271 草深み蟋蟀すだき鳴く屋戸の萩見に君はいつか来まさむ 2272 秋づけば水草(みくさ)の花のあえぬがに思へど知らじ直(ただ)に逢はざれば 2273 何すとか君をいとはむ秋萩のその初花の嬉しきものを 2274 輾轉(こいまろ)び恋ひは死ぬともいちしろく色には出でじ朝顔の花 2275 言に出でて云はば忌々(ゆゆ)しみ朝顔の穂には咲き出ぬ恋をするかも 2276 雁がねの初声聞きて咲き出たる屋戸の秋萩見に来(こ)我が背子 2277 さ牡鹿の入野(いりぬ)のすすき初尾花いつしか妹が衣手(そて)枕かむ 2278 恋ふる日の日(け)長くしあればみ苑生(そのふ)の韓藍(からゐ)の花の色に出にけり 2279 我が里に今咲く花のをみなへし堪(あ)へぬ心になほ恋ひにけり 2280 萩が花咲けるを見れば君に逢はずまことも久になりにけるかも 2281 朝露に咲きすさびたる月草の日たくるなべに消ぬべく思ほゆ 2282 長き夜を君に恋ひつつ生けらずは咲きて散りにし花ならましを 2283 我妹子に逢坂山の旗すすき穂には咲き出ず恋ひ渡るかも 2284 いささめに今も見が欲し秋萩のしなひてあらむ妹が姿を 2285 秋萩の花野のすすき穂には出でず吾(あ)が恋ひ渡る隠(こも)り妻はも 2286 我が屋戸に咲きし秋萩散り過ぎて実になるまでに君に逢はぬかも 2287 我が屋戸の萩咲きにけり散らぬ間に早来て見ませ奈良の里人 2288 石橋(いはばし)の間々に生ひたる貌花の花にしありけり有りつつ見れば 2289 藤原の古りにし里の秋萩は咲きて散りにき君待ちかねて 2290 秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども寂(さぶ)し君にしあらねば 2291 朝(あした)咲き夕へは消(け)ぬる月草の消ぬべき恋も吾(あれ)はするかも 2292 秋津野(あきづぬ)の尾花刈り添へ秋萩の花を葺かさね君が借廬に 2293 咲きぬとも知らずしあらば黙(もだ)もあらむこの秋萩を見せつつもとな 山に寄す 2294 秋されば雁飛び越ゆる龍田山立ちても居ても君をしぞ思(も)ふ 黄葉に寄す 2295 我が屋戸の葛葉(くずば)日に異に色づきぬ来まさぬ君は何心ぞも 2296 あしひきの山さな葛(かづら)もみつまで妹に逢はずや吾(あ)が恋ひ居らむ 2297 もみち葉の過ぎかてぬ子を人妻と見つつやあらむ恋しきものを 月に寄す 2298 君に恋ひ萎(しな)えうらぶれ吾(あ)が居れば秋風吹きて月かたぶきぬ 2299 秋の夜の月かも君は雲隠りしましも見ねばここだ恋しき 2300 九月の有明の月夜ありつつも君が来まさば吾(あれ)恋ひめやも 夜に寄す 2301 よしゑやし恋ひじとすれど秋風の寒く吹く夜は君をしぞ思(も)ふ 2302 里人(さどひと)しあな心無しと思ふらむ秋の長夜を寒くしあれば 2303 秋の夜を長しと言へど積もりにし恋を尽せば短かりけり 衣に寄す 2304 秋つ葉(は)ににほへる衣吾(あれ)は着じ君に奉(まつ)らば夜も着むがね 問答(とひこたへのうた) 2305 旅にすら紐解くものを言繁み丸寝(まろね)吾(あ)がする長きこの夜を 2306 しぐれ降る暁月夜(あかときつくよ)紐解かず恋ふらむ君と居らましものを 2307 もみち葉に置く白露の色にはも出でじと思(も)ふに言の繁けく 2308 雨降れば激(たぎ)つ山川岩に触り君が砕かむ心は持たじ 譬喩歌(たとへうた) 2309 祝部(はふり)らが斎(いは)ふ社のもみち葉も標縄(しめなは)越えて散るちふものを 冬の雑歌(くさぐさのうた) 雑歌 2312 我が袖に霰たばしる巻き隠し消(け)たずてあらむ妹が見むため 2313 あしひきの山かも高き巻向の崖の小松にみ雪降りけり 2314 巻向の桧原もいまだ雲居ねば小松が末(うれ)ゆ沫雪流る 2315 あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿(しらかし)の枝もとををに雪の降れれば      右ノ四首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。但シ      件ノ一首、或ル本ニ云ク、三方沙弥ガ作ナリト。 雪を詠める 2316 奈良山の嶺すら霧(きら)ふうべしこそ籬(まがき)が下の雪は消(け)ずけれ 2317 こと降らば袖さへ濡れて通るべく降りなむ雪の空に消につつ 2318 夜を寒み朝門(あさと)を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり 2319 夕されば衣手寒く高圓(たかまと)の山の木ごとに雪ぞ降りける 2320 我が袖に降りつる雪も流れゆきて妹が手本にい行き触れぬか 2321 沫雪は今日はな降りそ白妙の衣手干さむ人もあらなくに 2322 はなはだも降らぬ雪ゆゑここだくも天(あま)のみ空は曇らひにつつ 2323 我が背子を今か今かと出で見れば沫雪降れり庭もほどろに 2324 あしひきの山に白きは我が屋戸に昨日の夕へ降りし雪かも 花を詠める 2325 誰が園の梅の花そも久かたの清き月夜にここだ散りくる 2326 梅の花まづ咲く枝を手折りてば苞(つと)と名付けてよそへてむかも 2327 誰が園の梅にかありけむここだくも咲きにけるかも見が欲るまでに 2328 来て見べき人もあらなくに我家(わぎへ)なる梅の初花散りぬともよし 2329 雪寒み咲きには咲かず梅の花よしこの頃はさてもあるがね 露を詠める 2330 妹がため末枝(ほつえ)の梅を手折るとは下枝(しづえ)の露に濡れにけるかも 黄葉を詠める 2331 八田(やた)の野の浅茅色づく有乳山(あらちやま)峰の沫雪寒く降るらし 月を詠める 2332 さ夜更けば出で来む月を高山の峰の白雲隠すらむかも 冬の相聞(したしみうた) 相聞 2333 降る雪の空に消ぬべく恋ふれども逢ふよしもなく月ぞ経にける 2334 沫雪は千重に降りしけ恋ひしくの日(け)長き吾(あれ)は見つつ偲はむ      右ノ二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 露に寄す 2335 咲き出たる梅の下枝に置く露の消ぬべく妹に恋ふるこの頃 霜に寄す 2336 はなはだも夜更けてな行き道の辺のゆ笹がうへに霜の降る夜を 雪に寄す 2337 笹が葉にはだれ降り覆ひ消なばかも忘れむと言へばまして思ほゆ 2338 霰降りいたく風吹き寒き夜や波多野に今宵吾(あ)が独り寝む 2339 吉隠(よなばり)の野木に降り覆ふ白雪のいちしろくしも恋ひむ吾(あれ)かも 2340 一目見し人に恋ふらく天霧(あまぎら)し降りくる雪の消ぬべく思ほゆ 2341 思ひ出づる時はすべなみ豊国の由布山雪の消ぬべく思ほゆ 2342 夢(いめ)のごと君を相見て天霧し降りくる雪の消ぬべく思ほゆ 2343 我が背子が言うつくしみ出でてゆかば裳引(もひき)著(しる)けむ雪な降りそね 2344 梅の花それとも見えず降る雪のいちしろけむな間使(まつかひ)遣らば 2345 天霧ひ降り来る雪の消なめども君に逢はむと永らへわたる 2346 窺(うか)ねらふ跡見山(とみやま)雪のいちしろく恋ひは妹が名人知らむかも 2347 海人小船(あまをぶね)泊瀬の山に降る雪の日(け)長く恋ひし君が音(おと)ぞする 2348 和射見(わざみ)の峰ゆき過ぎて降る雪の重(し)きて思ふと申せその子に 花に寄す 2349 我が屋戸に咲きたる梅を月夜よみ宵々見せむ君をこそ待て 夜に寄す 2350 あしひきの山下(あらし)の風は吹かねども君なき宵はかねて寒しも -------------------------------------------------------- .巻第十一(とをまりひとまきにあたるまき) 古今相聞往来歌類上 相聞(したしみうた) 旋頭歌〔十七首。十二首、人麿集。五首、古歌集。〕 2351 新室(にひむろ)の壁草刈りにいましたまはね草のごと寄り合ふ処女(をとめ)は君がまにまに 2352 新室を踏み鎮む子が手玉(たたま)鳴らすも玉のごと照らせる君を内へと申せ 2353 泊瀬の斎槻(ゆつき)がもとに吾(あ)が隠せる妻あかねさし照れる月夜(つくよ)に人見てむかも 2354 ますらをの思ひたけびて隠せるその妻天地(あめつち)に通り照るともあらはれめやも 2355 息の緒に吾(あ)が思(も)ふ妹は早も死ねやも生けりとも吾(あれ)に寄るべしと人の言はなくに 2356 高麗錦紐の片方(かたへ)ぞ床(とこ)に落ちにける明日の夜し来(き)なむと言はば取り置きて待たむ 2357 朝戸出の君が足結(あゆひ)を濡らす露原早く起きて出でつつ吾(あれ)も裳の裾濡れな 2358 何せむに命をもとな長く欲りせむ生けりとも吾(あ)が思(も)ふ妹にやすく逢はなくに 2359 息の緒に吾(あれ)は思へど人目多みこそ吹く風にあらばしばしば逢ふべきものを 2360 人の親の処女児(をとめこ)据ゑて守山辺(もるやまへ)から朝な朝(さ)な通ひし君が来ねば悲しも 2361 天なる一つ棚橋何か障(さや)らむ若草の妻がりと言はば足結し立たむ 2362 山背の久世(くせ)の若子(わくご)が欲しと言ふ吾(あ)をあふさわに吾(あ)を欲しと言ふ山背の久世      右ノ十二首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 2363 岡の崎廻(た)みたる道を人な通ひそありつつも君が来まさむ避道(よきみち)にせむ 2364 玉垂(たまたれ)の小簾(をす)の隙(すけき)に入り通ひ来(こ)ねたらちねの母が問はさば風と申さむ 2365 うち日さす宮道に逢ひし人妻ゆゑに玉の緒の思ひ乱れて寝(ぬ)る夜しそ多き 2366 真澄鏡(まそかがみ)見しがと思ふ妹に逢はめかも玉の緒の絶えたる恋の繁きこの頃 2367 海原の道に乗れれや吾(あ)が恋ひ居りて大船のゆたにあるらむ人の子ゆゑに      右ノ五首ハ、古歌集ノ中ニ出ヅ。 正(ただ)に心緒(おもひ)を述ぶ〔百四十九首。四十七首、人麿集。百二首、人麿集外。〕 2368 たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことはいまだせなくに 2369 人の寝(ぬ)る味寐(うまい)は寝ずてはしきやし君が目すらを欲りて嘆くも 2370 恋ひしなば恋ひも死ねとや玉ほこの道行き人に言も告げなき 2371 心には千たび思へど人に言はず吾(あ)が恋ふ妹を見むよしもがも 2372 かくばかり恋ひむものそと知らませば遠く見つべくありけるものを 2373 いつはしも恋ひぬ時とはあらねども夕かたまけて恋ふはすべなし 2374 かくのみし恋ひし渡れば玉きはる命も知らず年は経につつ 2375 吾(あれ)ゆ後生まれむ人は吾(あ)がごとく恋する道に逢ひこすなゆめ 2376 ますらをの現心(うつしこころ)も吾(あれ)はなし夜昼といはず恋ひし渡れば 2377 何せむに命継ぎけむ我妹子に恋ひざる先にも死なましものを 2378 よしゑやし来まさぬ君を何せむにいとはず吾(あれ)は恋ひつつ居らむ 2379 見渡しの近き渡りを廻(たもとほ)り今や来ますと恋ひつつそ居る 2380 はしきやし誰が障(さ)ふれかも玉ほこの道見忘れて君が来まさぬ 2381 君が目の見まく欲しけみこの二夜千年(ちとせ)のごとも吾(あ)が恋ふるかも 2382 うち日さす宮道を人は満ち行けど吾(あ)が思(も)ふ君はただ一人のみ 2383 世の中は常かくのみと思へども半手不忘なほ恋ひにけり 2384 我が背子は幸(さき)くいますと度まねく吾(あれ)に告げつつ人も来ぬかも 2385 あら玉の年は経れども吾(あ)が恋ふる跡なき恋のやまぬあやしも 2386 巌(いはほ)すら行き通るべきますらをも恋ちふことは後悔いにけり 2387 日暮れなば人知りぬべみ今日の日の千年のごとくありこせぬかも 2388 立ちて居てたどきも知らず思へども妹に告げねば間使も来ず 2389 ぬば玉のこの夜な明けそ赤らびく朝行く君を待てば苦しも 2390 恋するに死にするものにあらませば我が身は千たび死にかへらまし 2391 ぬば玉の昨日の夕へ見しものを今日の朝(あした)に恋ふべきものか 2392 なかなかに見ざりしよりは相見ては恋しき心いよよ思ほゆ 2393 玉ほこの道行かずしてあらませばねもころかかる恋には逢はじ 2394 朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに 2395 行けど行けど逢はぬ妹ゆゑ久かたの天の露霜に濡れにけるかも 2396 たまさかに我が見し人をいかならむよしをもちてかまた一目見む 2397 しましくも見ねば恋しき我妹子を日に日に来れば言の繁けく 2398 玉きはる世まで定めて恃めたる君によりてし言の繁けく 2399 赤らびく肌も触れずて寝たれども異(け)しき心を吾(あ)が思(も)はなくに 2400 いで如何にねもころごろに利心(とごころ)の失するまで思(も)ふ恋ふらくのゆゑ 2401 恋ひ死なば恋ひも死ねとや我妹子が我家(わぎへ)の門を過ぎて行くらむ 2402 妹があたり遠くし見ればあやしくも吾(あれ)はそ恋ふる逢ふよしを無み 2403 山背の久世の川原にみそぎして斎(いは)ふ命は妹がためこそ 2404 思ひ寄り見寄りしものを何すとか一日へだつて忘ると思はむ 2405 垣ほなす人は言へども高麗錦(こまにしき)紐解き開けし君ならなくに 2406 高麗錦紐解き開けて夕へだに知らざる命恋ひつつあらむ 2407 百積(ももつみ)の船漕ぎ入るる八占(やうら)さし母は問ふともその名は告(の)らじ 2408 眉根掻き鼻鳴(ひ)紐解け待てりやもいつかも見むと思ひし我君(わぎみ) 2409 君に恋ひうらぶれ居れば怪しくも吾(あ)が下紐の結ふ手たゆしも 2410 あら玉の年は果つれど敷妙の袖交へし子を忘れて思へや 2411 白妙の袖をはつはつ見しからにかかる恋をも吾(あれ)はするかも 2412 我妹子に恋ひすべなかり夢に見むと吾(あれ)は思へどい寝らえなくに 2413 故もなく吾(あ)が下紐そ今解くる人にな知らせ直に逢ふまで 2414 恋ふること心遣りかね出で行けば山も川をも知らず来にけり      右ノ四十七首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 2517 たらちねの母に障(さは)らばいたづらに汝(いまし)も吾(あれ)も事成るべしや 2518 我妹子が吾(あれ)を送ると白妙の袖漬(ひ)づまでに泣きし思ほゆ 2519 奥山の真木の板戸を押し開きしゑや出で来ね後は如何にせむ 2520 苅薦(かりこも)の一重を敷きてさ寝(ぬ)れども君とし寝(ぬ)れば寒けくもなし 2521 かきつはた丹頬(にづら)ふ君をいささめに思ひ出でつつ嘆きつるかも 2522 恨みむと思ひなづみてありしかば外(よそ)のみぞ見し心は思(も)へど 2523 さ丹頬ふ色には出でじ少なくも心のうちに吾(あ)が思(も)はなくに 2524 我が背子に直(ただ)に逢はばこそ名は立ため言の通ふに何かそこゆゑ 2525 ねもころに片思(かたもひ)すれかこの頃の吾(あ)が心どの生けるともなき 2526 待つらむに至らば妹が嬉しみと笑まむ姿を行きて早見む 2527 誰(たれ)そこの我が屋戸に来呼ぶたらちねの母に嘖(ころ)ばえ物思(も)ふ吾(あれ)を 2528 さ寝ぬ夜は千夜もありとも我が背子が思ひ悔ゆべき心は持たじ 2529 家人は道もしみみに通へども吾(あ)が待つ妹が使来ぬかも 2530 あら玉の寸戸(きへ)が竹垣(たかかき)網目よも妹し見えなば吾(あれ)恋ひめやも 2531 我が背子がその名のらじと玉きはる命は捨てつ忘れたまふな 2532 おほかたは誰が見むとかもぬば玉の吾(あ)が黒髪をぬらして居らむ 2533 面忘れいかなる人のするものそ吾(あれ)はしかねつ継ぎてし思(も)へば 2534 相思はぬ人のゆゑにかあら玉の年の緒長く吾(あ)が恋ひ居らむ 2535 おほかたの行(わざ)とは思(も)はじ我ゆゑに人に言痛(こちた)く言はれしものを 2536 息の緒に妹をし思(も)へば年月の行くらむ別(わき)も思ほえぬかも 2537 たらちねの母に知らえず吾(あ)が持たる心はよしゑ君がまにまに 2538 独り寝(ぬ)と薦朽ちめやも綾莚緒になるまでに君をし待たむ 2539 相見ては千年やいぬるいなをかも吾(あれ)やしか思(も)ふ君待ちかてに 2540 振分けの髪を短み春草を髪にたくらむ妹をしぞ思ふ 2541 徘徊(たもとほ)りゆきみの里に妹を置きて心空なり土は踏めども 2542 若草の新手枕(にひたまくら)をまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに 2543 吾(あ)が恋ひしことも語らひ慰めむ君が使を待ちやかねてむ 2544 うつつには逢ふよしもなし夢にだに間なく見え君恋に死ぬべし 2545 誰そ彼と問はば答へむすべをなみ君が使を帰しつるかも 2546 思はぬに至らば妹が嬉しみと笑まむ眉引(まよびき)思ほゆるかも 2547 かくばかり恋ひむものそと思はねば妹が手本(たもと)をまかぬ夜もありき 2548 かくだにも吾(あれ)は恋ひなむ玉ほこの君が使を待ちやかねてむ 2549 妹に恋ひ吾(あ)が泣く涙敷妙の枕通りて袖さへ濡れぬ 2550 立ちて思ひ居てもそ思ふ紅の赤裳裾引き去にし姿を 2551 思ふにし余りにしかばすべをなみ出でてそ行きしその門を見に 2552 心には千重しくしくに思へども使を遣らむすべの知らなく 2553 夢のみに見るすらここだ恋ふる吾(あ)はうつつに見てばましていかにあらむ 2554 相見ては面隠さるるものからに継ぎて見まくの欲しき君かも 2555 朝戸遣(あさとやり)を早くな開けそうまさはふ愛(め)づらし君が今宵来ませり 2556 玉垂の小簾(をす)の垂簾(たれす)を引きあげて寝(い)は寝(な)さずとも君は通はせ 2557 たらちねの母に申さば君も吾(あれ)も逢ふとはなしに年そ経ぬべき 2558 愛(うつく)しと思へりけらしな忘れと結びし紐の解くらく思(も)へば 2559 昨日見て今日こそ隔て我妹子がここだく継ぎて見まくし欲しも 2560 人もなき古りにし里にある人をめぐくや君が恋に死なせむ 2561 人言の繁き間(ま)守(も)りて逢へりともはた吾(あ)が上に言の繁けむ 2562 里人の言寄せ妻を荒垣の外(よそ)にや吾(あ)が見む憎からなくに 2563 人目守る君がまにまに吾(あれ)さへに早く起きつつ裳の裾濡れぬ 2564 ぬば玉の妹が黒髪今宵もか吾(あ)が無き床に靡(ぬ)らして寝(ぬ)らむ 2565 花ぐはし葦垣越しにただ一目相見し子ゆゑ千たび嘆きつ 2566 色に出でて恋ひば人見て知りぬべみ心のうちの隠(こも)り妻はも 2567 相見ては恋慰むと人は言へど見て後にもそ恋まさりける 2568 おほろかに吾(あれ)し思はばかくばかり難き御門を罷り出めやも 2569 思ふらむその人なれやぬば玉の夜ごとに君が夢にし見ゆる 2570 かくのみに恋ひば死ぬべみたらちねの母にも告げつ止まず通はせ 2571 大夫(ますらを)は友の騒きに慰むる心もあらむ吾(あれ)そ苦しき 2572 偽りも似つきてそするいつよりか見ぬ人恋ふに人の死にする 2573 心さへ奉(まつ)れる君に何しかも言はずて言ひしと吾(あ)がぬすまはむ 2574 面忘れだにもえせむやと手(た)握りて打てど障(さや)らず恋の奴(やつこ)は 2575 めづらしき君見むとこそ左手の弓取る方の眉根(まよね)掻きつれ 2576 人間(ひとま)守(も)り葦垣越しに我妹子を相見しからに言そ沙汰(さだ)多き 2577 今だにも目な乏(とも)しめそ相見ずて恋ひむ年月久しけまくに 2578 朝寝髪吾(あれ)は梳らじ愛(うつく)しき君が手枕触(ふ)りてしものを 2579 早ゆきていつしか君を相見むと思ひし心今ぞ凪ぎぬる 2580 面形(おもかた)の忘れてあらばあぢきなく男じものや恋ひつつ居らむ 2581 言に言へば耳にたやすし少なくも心のうちに吾(あ)が思(も)はなくに 2582 あぢきなく何の狂言(たはこと)今更に童言(わらはこと)する老人(おいひと)にして 2583 相見ずて幾ばく久もあらなくに年月のごと思ほゆるかも 2584 ますらをと思へる吾(あれ)をかくばかり恋せしむるはからくそありける 2585 かくしつつ吾(あ)が待つ験(しるし)あらぬかも世の人皆の常ならなくに 2586 人言を繁みと君に玉づさの使も遣らず忘ると思(も)ふな 2587 大原の古りにし里に妹を置きて吾(あれ)い寝かねつ夢に見えこそ 2588 夕されば君来まさむと待ちし夜のなごりそ今もい寝かてにする 2589 相思はず君はあるらしぬば玉の夢にも見えずうけひて寝(ぬ)れど 2590 岩根踏み夜道は行かじと思へれど妹によりては忍びかねつも 2591 人言の繁き間守ると逢はずあらばつひにや子らが面忘れなむ 2592 恋死なむ後は何せむ我が命の生けらむ日こそ見まく欲りすれ 2593 敷妙の枕動きてい寝らえず物思(も)ふ今宵早も明けぬかも 2594 行かぬ吾(あ)を来むとか夜も門閉(さ)さずあはれ我妹子待ちつつあらむ 2595 夢にだに何かも見えぬ見ゆれども吾(あれ)かも惑ふ恋の繁きに 2596 慰むる心はなしにかくのみし恋ひやわたらむ月に日に異(け)に 2597 いかにして忘れむものそ我妹子に恋は益されど忘らえなくに 2598 遠くあれど君にそ恋ふる玉ほこの里人皆に吾(あれ)恋ひめやも 2599 験なき恋をもするか夕されば人の手まきて寝なむ子ゆゑに 2600 百代しも千代しも生きてあらめやも吾(あ)が思(も)ふ妹を置きて嘆かむ 2601 うつつにも夢にも吾(あれ)は思はずき旧(ふ)りたる君にここに逢はむとは 2602 黒髪の白髪までと結びてし心一つを今解かめやも 2603 心をし君に奉(まつ)ると思へればよしこの頃は恋ひつつをあらむ 2604 思ひ出でて音には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ 2605 玉ほこの道行きぶりに思はぬに妹を相見て恋ふる頃かも 2606 人目多み常かくのみし伺(さもら)はばいづれの時か吾(あ)が恋ひざらむ 2607 敷妙の衣手離(か)れて吾(あ)を待つとあるらむ子らは面影に見ゆ 2608 妹が袖別れし日より白妙の衣片敷き恋ひつつそ寝(ぬ)る 2609 白妙の袖はまよひぬ我妹子が家のあたりをやまず振りしに 2610 ぬば玉の吾(あ)が黒髪を引き靡(ぬ)らし乱れて吾(あれ)は恋ひ渡るかも 2611 今更に君が手枕まき寝めや吾(あ)が紐の緒の解けつつもとな 2612 白妙の袖(そて)触れてより我が背子に吾(あ)が恋ふらくは止む時もなし 2613 夕卜(ゆふけ)にも占(うら)にも告れる今宵だに来まさぬ君をいつとか待たむ 2614 眉根(まよね)掻き下いふかしみ思へるに古へ人を相見つるかも      或ル本(マキ)ノ歌ニ曰ク、     眉根掻き誰をか見むと思ひつつ日長く恋ひし妹に逢へるかも      一書ノ歌ニ曰ク、     眉根掻き下いふかしみ思へりし妹が姿を今日見つるかも 2615 敷妙の手枕まきて妹と吾(あれ)寝(ぬ)る夜はなくて年そ経にける 2616 奥山の真木の板戸を音速み妹があたりの霜の上(へ)に寝ぬ 2617 あしひきの山桜戸を開き置きて吾(あ)が待つ君を誰か留むる 2618 月夜(つくよ)よみ妹に逢はむと直道(ただち)から吾(あれ)は来つれど夜そ更けにける 物に寄せて思ひを陳(の)ぶ〔二百八十二首。 九十三首、人麿集。百八十九首、人麿集外。〕 2415 処女(をとめ)らを袖布留(ふる)山の瑞垣(みづかき)の久しき時ゆ思ひ来(こ)し吾(あ)は 2416 ちはやぶる神に祈れる命をば誰(たれ)がためにか長く欲りする 2417 石上(いそのかみ)布留(ふる)の神杉(かむすぎ)神さびて恋をも吾(あれ)は更にするかも 2418 いかならむ名負へる神に手向(たむけ)けせば吾(あ)が思(も)ふ妹を夢にだに見む 2419 天地(あめつち)といふ名の絶えてあらばこそ汝(いまし)と吾(あれ)と逢ふことやまめ 2420 月見れば国は同(おや)じそ山隔(へな)り愛(うつく)し妹は隔りたるかも 2421 参道(まゐりぢ)は岩踏む山の無くもがも吾(あ)が待つ君が馬つまづくに 2422 岩根踏み隔(へな)れる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひ渡るかも 2423 道の後(しり)深津島山しましくも君が目見ねば苦しかりけり 2424 紐鏡能登香(のとか)の山は誰ゆゑそ君来ませるに紐開けず寝む 2425 山科の木幡(こはた)の山を馬はあれど徒歩(かち)ゆ吾(あ)が来し汝(な)を思ひかね 2426 遠山に霞たなびきいや遠に妹が目見ねば吾(あれ)恋ひにけり 2427 この川の瀬々に敷く波しくしくに妹が心に乗りにけるかも 2428 ちはや人宇治の渡の速き瀬に逢はずありとも後は吾(あ)が妻 2429 はしきやし逢はぬ子ゆゑにいたづらにこの川の瀬に裳の裾濡れぬ 2430 この川に水泡(みなわ)さかまき行く水の事かへさずそ思ひ染めてし 2431 鴨川の後瀬静けし後は逢はむ妹には吾(あれ)は今ならずとも 2432 言に出でて言はば忌々(ゆゆ)しみ山川のたぎつ心を塞(せ)かへたりけり 2433 水の上(へ)に数書くごとき我が命妹に逢はむと祈(うけ)ひつるかも 2434 荒磯(ありそ)越えほかゆく波の外心(ほかごころ)吾(あれ)は思はじ恋ひて死ぬとも 2435 淡海(あふみ)の海(み)沖つ白波知らねども妹がりといへば直(ただ)に越え来ぬ 2436 大船の香取の海にいかり下ろし如何なる人か物思(も)はざらむ 2437 沖つ藻を隠さふ波の五百重波(いほへなみ)千重しくしくに恋ひ渡るかも 2438 人言の繁けき我妹綱手引く海ゆまさりて深くしぞ思(も)ふ 2439 淡海の海沖つ島山奥まけて吾(あ)が思(も)ふ妹が言の繁けく 2440 淡海の海沖榜ぐ船にいかり下ろし隠れて君が言待つ吾(あれ)ぞ 2441 隠沼(こもりぬ)の下よ恋ふればすべをなみ妹が名告(の)りつ忌むべきものを 2442 大地(おほつち)も取らば尽きめど世の中に尽き得ぬものは恋にしありけり 2443 隠津(こもりづ)の沢泉なる岩根をも通してぞ思(も)ふ吾(あ)が恋ふらくは 2444 白真弓石辺(いそへ)の山の常磐なる命なれやも恋ひつつ居らむ 2445 淡海の海沈(しづ)く白玉知らずして恋ひつるよりは今ぞまされる 2446 白玉を巻きてぞ持たる今よりは吾(あ)が玉にせむ知れる時だに 2447 白玉を手に巻きしより忘れじと思ふ心はいつか変はらむ 2448 白玉のあひだ空けつつ貫(ぬ)ける緒もくくり寄すれば後あふものを 2449 香具山に雲居たなびきおほほしく相見し子らを後恋ひむかも 2450 雲間よりさ渡る月のおほほしく相見し子らを見むよしもがも 2451 天雲の寄り合ひ遠み逢はずとも異(あだ)し手枕吾(あれ)まかめやも 2452 雲だにもしるくし立たば心遣り見つつし居らむ直に逢ふまでに 2453 春柳葛木山に立つ雲の立ちても居ても妹をしそ思(も)ふ 2454 春日山雲居隠りて遠けども家は思はず君をしそ思(も)ふ 2455 吾(あ)がゆゑに言はれし妹は高山の嶺の朝霧過ぎにけむかも 2456 ぬば玉の黒髪山の山菅に小雨降りしきしくしく思ほゆ 2457 大野らに小雨降りしく木(こ)のもとに時々寄り来(こ)吾(あ)が思ふ人 2458 朝霜の消(け)なば消ぬべく思ひつつ待つにこの夜を明かしつるかも 2459 我が背子が浜吹く風のいや早に早事なさばいや逢はざらむ 2460 遠妹(とほづま)の振り放け見つつ偲ふらむこの月の面(おも)に雲な棚引き 2461 山の端に照り出(づ)る月のはつはつに妹をぞ見つる後恋ひむかも 2462 我妹子し吾(あれ)を思はば真澄鏡照り出(づ)る月の影に見え来ね 2463 久かたの天照る月の隠ろひぬ何になそへて妹を偲はむ 2464 三日月のさやにも見えず雲隠り見まくぞ欲しきうたてこの頃 2465 我が背子に吾(あ)が恋ひ居れば我が屋戸の草さへ思ひうらがれにけり 2466 浅茅原小野に標(しめ)結ひ空言(むなこと)をいかなりと言ひて君をし待たむ 2467 道の辺の草深百合の後(ゆり)にちふ妹が命を吾(あれ)知らめやも 2468 湖葦(みなとあし)に交じれる草のしり草の人皆知りぬ吾(あ)が下思ひ 2469 山ぢさの白露繁みうらぶるる心を深み吾(あ)が恋やまず 2470 湊に根延ふ小菅のねもころに君に恋ひつつありかてぬかも 2471 山背の泉の小菅おしなみに妹を心に吾(あ)が思(も)はなくに 2472 味酒(うまさけ)の三室の山の巌菅(いはほすげ)ねもころ吾(あれ)は片思(かたもひ)ぞする 2473 菅の根のねもころ君が結びてし吾(あ)が紐の緒を解く人はあらじ 2474 山菅の乱れ恋のみせしめつつ逢はぬ妹かも年は経につつ 2475 我が屋戸の軒のしだ草生ひたれど恋忘れ草見れどいまだ生ひず 2476 打つ田にも稗(ひえ)はあまたに有りといへど選えし吾(あれ)ぞ夜一人寝(ぬ)る 2477 あしひきの山の山菅ねもころに君し結ばば逢はざらめやも 2478 秋柏(あきかしは)潤和川辺の小竹(しぬ)の群(め)の人に忍(しぬ)へば君に堪(た)へなく 2479 さね葛(かづら)後は逢はむと夢(いめ)のみに誓(うけ)ひわたりて年は経につつ 2480 道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ吾(あ)が恋ふる妻 2481 大野らにたづきも知らず標結ひてありぞかねつる吾(あ)が恋ふらくは 2482 水底(みなそこ)に生ふる玉藻の打ち靡き心を寄せて恋ふるこの頃 2483 敷妙の衣手離(か)れて玉藻なす靡きか寝(ぬ)らむ我(わ)を待ちかてに 2484 君来ずは形見にせよと吾(あ)と二人植ゑし松の木君を待ち出ね 2485 袖振るが見ゆべき限り吾(あれ)はあれどその松が枝に隠(かく)りたるらむ 2486 茅渟(ちぬ)の海の浜辺の小松根深めて吾(あ)が恋ひ渡る人の子ゆゑに      或ル本ノ歌ニ曰ク、     茅渟の海の潮干の小松ねもころに恋ひや渡らむ人の子ゆゑに 2487 平山の小松が末(うれ)のうれむぞは吾(あ)が思(も)ふ妹に逢はず止みなむ 2488 磯の上(へ)の立てるむろの木ねもころに如何で深めて思ひそめけむ 2489 橘の本に吾(あれ)立ち下枝(しづえ)取り成りぬや君と問ひし子らはも 2490 天雲に羽打ちつけて飛ぶ鶴(たづ)のたづたづしかも君しまさねば 2491 妹に恋ひい寝ぬ朝明(あさけ)に鴛鴦(をしどり)のこよ飛び渡る妹が使か 2492 思ふにし余りにしかば鳰鳥(にほどり)の足濡れ来(こ)しを人見けむかも 2493 高山の嶺行く鹿猪(しし)の友を多み袖振らず来ぬ忘ると思(も)ふな 2494 大船に真楫しじ貫き榜ぐ間だにねもころ恋ひし年にあらばいかに 2495 たらちねの母が養(か)ふ蚕(こ)の繭隠(まよごも)り隠(こも)れる妹を見むよしもがも 2496 貴人(うまひと)の額髪(ぬかかみ)結へる染木綿(しめゆふ)の染みにし心吾(あれ)忘れめや 2497 隼人(はやひと)の名に負ふ夜声(よこゑ)いちしろく吾(あ)が名は告りつ妻と恃ませ 2498 剣大刀(つるぎたち)諸刃の利きに足踏みて死ににも死なむ君によりてば 2499 我妹子に恋ひし渡れば剣大刀名の惜しけくも思ひかねつも 2500 朝づく日向かふ黄楊櫛(つげくし)古りぬれど何しか君が見るに飽かざらむ 2501 里遠み恋ひうらぶれぬ真澄鏡床の辺去らず夢に見えこそ 2502 真澄鏡手に取り持ちて朝な朝(さ)な見れども君は飽くことも無し 2503 夕されば床の辺去らぬ黄楊枕何しか汝(なれ)が主待ちがたき 2504 解き衣の恋ひ乱れつつ浮草の浮きても吾(あれ)は恋ひ渡るかも 2505 梓弓引きてゆるさずあらませばかかる恋には逢はざらましを 2506 言霊(ことたま)を八十(やそ)の衢(ちまた)に夕占(ゆふけ)問ふ占(うら)まさに告(の)れ妹に逢はむよし 2507 玉ほこの道行き占(うら)に占なへば妹に逢はむと吾(あれ)に告りてき      右ノ九十三首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 2619 朝影に我が身はなりぬ韓衣(からころも)裾のあはずて久しくなれば 2620 解き衣の思ひ乱れて恋ふれどもなそ汝がゆゑと問ふ人もなし 2621 摺り衣着(け)りと夢見つうつつには誰しの人の言か繁けむ 2622 志賀(しか)の海人の塩焼き衣狎(な)れぬれど恋ちふものは忘れかねつも 2623 紅の八しほの衣朝な朝(さ)な狎(な)るとはすれどいや愛(め)づらしも 2624 紅の深染(こそめ)の衣色深く染みにしかばか忘れかねつる 2625 逢はなくに夕占を問ふと幣(ぬさ)に置くに我が衣手はまたそ継ぐべき 2626 古衣(ふるころも)打棄(うつ)てし人は秋風の立ち来る時に物思(も)ふものそ 2627 羽根蘰(はねかづら)今する妹がうら若み笑みみ怒りみ付けし紐解く 2628 古の倭文機(しつはた)帯を結び垂れ誰ちふ人も君には益さじ      一書ノ歌ニ曰ク、     古の狭織(さおり)の帯を結び垂れ誰しの人も君には益さじ 2629 逢はずとも吾(あれ)は恨みじこの枕吾(あれ)と思ひてまきてさ寝ませ 2630 結へる紐解きし日遠み敷妙の我が木枕(こまくら)は苔生しにけり 2631 ぬば玉の黒髪敷きて長き夜を手枕の上(へ)に妹待つらむか 2632 真澄鏡直(ただ)にし妹を相見ずは吾(あ)が恋やまじ年は経ぬとも 2633 真澄鏡手に取り持ちて朝な朝な見む時さへや恋の繁けむ 2634 里遠み恋ひ侘びにけり真澄鏡面影去らず夢に見えこそ      右ノ一首ハ、上ニ柿本朝臣人麿ノ歌集ノ中ニ見エタリ。      但シ句々相換レルヲ以テ、茲ニ載セタリ。 2635 剣大刀身に佩き添ふる大夫(ますらを)や恋ちふものを忍(しぬ)ひかねてむ 2636 剣大刀諸刃の上に行き触れて殺(し)せかも死なむ恋ひつつあらずは 2637 咽(しはぶか)ひ鼻をそ嚔(ひ)つる剣大刀身に添ふ妹が思ひけらしも 2638 梓弓陶(すゑ)の原野(はらぬ)に鳥狩(とがり)する君が弓弦(ゆづら)の絶えむと思(も)へや 2639 葛城の襲津彦(そづひこ)真弓荒木にも頼めや君が吾(あ)が名のりけむ 2640 梓弓引きみ弛(ゆる)べみ来ずは来ず来(こ)ば来(こ)そをなど来ずは来ばそを 2641 時守の打ち鳴(な)す鼓数(よ)み見れば時にはなりぬ逢はなくもあやし 2642 燈火の影にかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ 2643 玉ほこの道行き疲れ稲莚(いなむしろ)しきても君を見むよしもがも 2644 小墾田(をはりた)の坂田の橋の崩れなば桁より行かむな恋ひそ我妹 2645 宮材(みやき)引く泉の杣(そま)に立つ民の憩ふ時なく恋ひ渡るかも 2646 住吉(すみのえ)の津守(つもり)網引(あびき)の浮(うけ)の緒の浮かれか行かむ恋ひつつあらずは 2647 横雲の空よ引き越し遠みこそ目言離(か)るらめ絶ゆと隔つや 2648 かにかくに物は思はず飛騨人の打つ墨縄のただ一道(ひとみち)に 2649 あしひきの山田守(も)る翁(をぢ)が置く蚊火(かひ)の下焦れのみ吾(あ)が恋ひ居らく 2650 殺板(そぎた)もち葺ける板目の合はざらば如何にせむとか吾(あ)が寝そめけむ 2651 難波人葦火焚く屋の煤(す)してあれどおのが妻こそ常愛(め)づらしき 2652 妹が髪上竹葉野(かみたかはぬ)の放ち駒荒(あら)びにけらし逢はなく思(も)へば 2653 馬の音(と)の轟(とど)ともすれば松陰に出でてぞ見つるけだし君かと 2654 君に恋ひい寝ぬ朝明に誰が乗れる馬の足音(あのと)そ吾(あれ)に聞かする 2655 紅の裾引く道を中に置きて吾(あれ)や通はむ君や来まさむ 2656 天飛ぶや軽の社の斎槻(いはひつき)幾代まであらむ隠(こも)り妻そも 2657 神奈備に神籬(ひもろき)立てて斎(いは)へども人の心はまもりあへぬもの 2658 天雲の八重雲隠り鳴神の音のみにやも聞きわたりなむ 2659 争へば神も憎ますよしゑやしよそふる君が憎からなくに 2660 夜並べて君を来ませと千早ぶる神の社を祈(の)まぬ日はなし 2661 霊(たま)ちはふ神も吾(あれ)をば打棄(うつ)てこそしゑや命の惜しけくもなし 2662 我妹子にまたも逢はむと千早ぶる神の社を祈まぬ日はなし 2663 千早ぶる神の斎籬(いがき)も越えぬべし今は我が名の惜しけくもなし 2664 夕月夜暁(あかとき)闇の朝影に我が身はなりぬ汝を思ひかねて 2665 月しあれば明くらむ別(わき)も知らずして寝て吾(あ)が来しを人見けむかも 2666 妹が目の見まく欲しけく夕闇の木の葉隠れる月待つごとし 2667 真袖もち床打ち払ひ君待つと居りし間に月かたぶきぬ 2668 二上に隠ろふ月の惜しけども妹が手本を離るるこの頃 2669 我が背子が振り放け見つつ嘆くらむ清き月夜に雲な棚引き 2670 真澄鏡清き月夜のゆつりなば思ひはやまじ恋こそ益さめ 2671 この夜らの有明の月夜ありつつも君をおきては待つ人もなし 2672 この山の嶺に近しと吾(あ)が見つる月の空なる恋もするかも 2673 ぬば玉の夜渡る月のゆつりなば更にや妹に吾(あ)が恋ひ居らむ 2674 朽網山(くたみやま)夕居る雲の立ちていなば吾(あれ)は恋ひむな君が目を欲り 2675 君が着(け)る三笠の山に居る雲の立てば継がるる恋もするかも 2676 久かたの天飛ぶ雲になりてしか君を相見む落つる日なしに 2677 佐保の内よ下風(あらし)吹ければ立ち還りせむすべ知らに嘆く夜そ多き 2678 はしきやし吹かぬ風ゆゑ玉くしげ開きてさ寝し吾(あれ)そ悔しき 2679 窓越しに月おし照りてあしひきのあらし吹く夜は君をしそ思(も)ふ 2680 川千鳥棲む沢の上(へ)に立つ霧のいちしろけむな相言ひそめてば 2681 我が背子が使を待つと笠も着ず出でつつそ見し雨の降らくに 2682 韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひそ暮らしし雨の降る日を 2683 彼方(をちかた)の赤土(はにふ)の小屋に小雨降り床(とこ)さへ濡れぬ身に添へ我妹 2684 笠無みと人には言ひて雨障(あまつつ)み留まりし君が姿し思ほゆ 2685 妹が門行き過ぎかねつ久かたの雨も降らぬかそを由にせむ 2686 夕占問ふ我が袖に置く白露を君に見せむと取れば消(け)につつ 2687 桜麻(さくらあさ)の苧原(をふ)の下草露しあれば明かしていませ母は知るとも 2688 待ちかねて内には入らじ白妙の我が衣手に露は置きぬとも 2689 朝露の消(け)やすき我が身老いぬともまた変若(をち)かへり君をし待たむ 2690 白妙の我が衣手に露は置けど妹には逢はずたゆたひにして 2691 かにかくに物は思はじ朝露の我が身ひとつは君がまにまに 2692 夕凝(ゆふこり)の霜置きにけり朝戸出に跡踏みつけて人に知らゆな 2693 かくばかり恋ひつつあらずは朝に日に妹が踏むらむ土ならましを 2694 あしひきの山鳥の尾の一峯(ひとを)越え一目見し子に恋ふべきものか 2695 我妹子に逢ふよしをなみ駿河なる富士の高嶺の燃えつつかあらむ 2696 荒熊の住むちふ山のしはせ山責めて問ふとも汝が名は告らじ 2697 妹が名も吾(あ)が名も立てば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつわたれ      或ル本ノ歌ニ曰ク、     君が名も我が名も立てば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつも居れ 2698 行きて見て来れば恋ひしき朝香潟山越しに置きてい寝かてぬかも 2699 安太人(あだひと)の梁(やな)打ち渡す瀬を速み心は思(も)へど直に逢はぬかも 2700 玉かぎる岩垣淵の隠(しぬ)ひには恋ひて死ぬとも汝が名は告らじ 2701 明日香川明日も渡らむ石橋(いはばし)の遠き心は思ほえぬかも 2702 飛鳥川水行きまさりいや日異(け)に恋のまさらばありかてましも 2703 真薦(まこも)刈る大野川原の水隠(みごも)りに恋ひ来し妹が紐解く吾(あれ)は 2704 あしひきの山下響(とよ)み行く水の時ともなくも恋ひ渡るかも 2705 はしきやし逢はぬ君ゆゑいたづらにこの川の瀬に玉裳濡らしつ 2706 泊瀬川速み早瀬を掬(むす)び上げて飽かずや妹と問ひし君はも 2707 青山の岩垣沼の水隠りに恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ 2708 しなが鳥猪名山響み行く水の名のみ寄せてし隠(こも)り妻はも 2709 我妹子に吾(あ)が恋ふらくは水ならばしがらみ越えて行くべくそ思(も)ふ 2710 犬上の鳥籠(とこ)の山なる不知哉川(いさやがは)いさとを聞こせ我が名のらすな 2711 奥山の木の葉隠りて行く水の音に聞きしよ常忘らえず 2712 言急(と)くは中は淀ませ水無川(みなしがは)絶ゆちふことをありこすなゆめ 2713 明日香川ゆく瀬を速み早見むと待つらむ妹をこの日暮らしつ 2714 もののふの八十(やそ)宇治川の速き瀬に立ち得ぬ恋も吾(あれ)はするかも 2715 神奈備の折り廻(た)む隈の岩淵に隠(こも)りてのみや吾(あ)が恋ひ居らむ 2716 高山よ出で来る水の岩に触(ふ)り破(わ)れてそ思ふ妹に逢はぬ夜は 2717 朝東風(あさこち)に井堤(ゐて)越す波のさやかにも逢はぬ子ゆゑに滝(たぎ)もとどろに 2718 高山の岩もとたぎち行く水の音には立てじ恋ひて死ぬとも 2719 隠沼(こもりぬ)の下に恋ふれば飽き足らず人に語りつ忌むべきものを 2720 水鳥の鴨の棲む池の下樋(したひ)無みいふせき君を今日見つるかも 2721 玉藻刈る井堤のしがらみ薄みかも恋の淀める吾(あ)が心かも 2722 我妹子が笠の借手の和射見野(わざみぬ)に吾(あれ)は入りぬと妹に告げこそ 2723 あまたあらぬ名をしも惜しみ埋れ木の下よそ恋ふる行方知らずて 2724 秋風の千江の浦廻(み)の木糞(こつみ)なす心は寄りぬ後は知らねど 2725 白真砂(しらまなご)御津の黄土(はにふ)の色に出でて言はなくのみそ吾(あ)が恋ふらくは 2726 風吹かぬ浦に波立ち無き名をも吾(あれ)は負へるか逢ふとはなしに 2727 酢蛾島(すがしま)の夏身の浦に寄する波間も置きて吾(あ)が思(も)はなくに 2728 淡海の海沖つ島山奥まへて吾(あ)が思(も)ふ妹が言の繁けく 2729 霰降り遠つ大浦に寄する波よしゑ寄すとも憎からなくに 2730 紀の海の名高の浦に寄する波音高きかも逢はぬ子ゆゑに 2731 牛窓の波の潮騒島とよみ寄せてし君に逢はずかもあらむ 2732 沖つ波辺波(へなみ)の来寄る佐太(さだ)の浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも 2733 白波の来寄する島の荒磯にもあらましものを恋ひつつあらずは 2734 潮満てば水泡に浮かぶ真砂(まなご)にも吾(あれ)は生けるか恋ひは死なずて 2735 住吉の岸の浦廻(み)にしく波のしばしば妹を見むよしもがも 2736 風をいたみいたぶる波のあひだ無く吾(あ)が思(も)ふ君は相思(も)ふらむか 2737 大伴の御津の白波あひだ無く吾(あ)が恋ふらくを人の知らなく 2738 大船のたゆたふ海にいかり下ろし如何にせばかも吾(あ)が恋やまむ 2739 みさご居る沖の荒磯に寄する波ゆくへも知らず吾(あ)が恋ふらくは 2740 大船の舳(へ)にも艫(とも)にも寄する波寄すとも吾(あれ)は君がまにまに 2741 大海に立つらむ波は間あらむ君に恋ふらく止む時もなし 2742 志賀の海人の煙(けぶり)焼き立てて焼く塩のからき恋をも吾(あれ)はするかも      右ノ一首ハ、或ヒト云ク、石川君子朝臣ガヨメル。 2743 なかなかに君に恋ひずは比良の浦の海人ならましを玉藻刈りつつ      或ル本ノ歌ニ曰ク、     なかなかに君に恋ひずは田児の浦の海人ならましを玉藻刈る刈る 2744 鱸(すずき)獲る海人の灯火よそにだに見ぬ人ゆゑに恋ふるこの頃 2745 湊入りの葦分け小舟(をぶね)障(さは)り多み吾(あ)が思(も)ふ君に逢はぬ頃かも 2746 庭清み沖へ榜ぎ出(づ)る海人舟の楫取る間なき恋をするかも 2747 あぢかまの塩津をさして榜ぐ船の名は告(の)りてしを逢はざらめやも 2748 大舟に葦荷刈り積みしみみにも妹が心に乗りにけるかも 2749 駅路(はゆまぢ)に引舟渡し直(ただ)乗りに妹が心に乗りにけるかも 2750 我妹子に逢はず久しも甘美物(うましもの)安倍橘の苔生すまでに 2751 あぢの住む須佐(すさ)の入江の荒磯松吾(あ)を待つ子らはただ一人のみ 2752 我妹子を聞き都賀野辺(つがぬへ)のしなひ合歓木(ねぶ)吾(あ)は忍ひ得ず間無くし思へば 2753 波の間よ見ゆる小島の浜久木久しくなりぬ君に逢はずして 2754 秋柏(あきかしは)閏八川辺の小竹(しぬ)の群(め)の偲ひて寝(ぬ)れば夢に見えけり 2755 浅茅原仮標(かりしめ)指して空言(むなこと)も寄せてし君が言をし待たむ 2756 月草の仮なる命なる人をいかに知りてか後も逢はむちふ 2757 大王(おほきみ)の御笠に縫へる有馬菅ありつつ見れど言無し我妹 2758 菅の根のねもころ妹に恋ふるにし大夫心(ますらをこころ)思ほえぬかも 2759 我が屋戸の穂蓼(ほたで)古幹(ふるから)摘み生(おほ)し実になるまでに君をし待たむ 2760 あしひきの山沢ゑぐを摘みに行かむ日だにも逢はむ母は責むとも 2761 奥山の岩本菅の根深くも思ほゆるかも吾(あ)が思(も)ふ妻は 2762 葦垣の中の和草(にこぐさ)にこよかに吾(あれ)と笑まして人に知らゆな 2763 紅の浅葉の野らに刈る草(かや)の束の間も吾(あ)を忘らすな 2764 妹がため命残せり刈薦の思ひ乱れて死ぬべきものを 2765 我妹子に恋つつあらずは刈薦の思ひ乱れて死ぬべきものを 2766 三島江の入江の薦を刈りにこそ吾(あれ)をば君は思ひたりけれ 2767 あしひきの山橘の色に出て吾(あ)は恋ひなむを人目忌ますな 2768 葦鶴(たづ)の騒く入江の白菅の知られむためと言痛(こちた)かるかも 2769 我が背子に吾(あ)が恋ふらくは夏草の刈り除(そ)くれども生ひしくごとし 2770 道の辺の五柴原(いつしばはら)のいつもいつも人の許さむ言をし待たむ 2771 我妹子が袖を頼みて真野の浦の小菅の笠を着ずて来にけり 2772 真野の浦の小菅を笠に縫はずして人の遠名を立つべきものか 2773 刺竹(さすだけ)の葉隠(ごも)りてあれ我が背子が吾許(あがり)来(き)せずは吾(あれ)恋ひめやも 2774 神奈備の浅篠原のしみみにも吾(あ)が思(も)ふ君が声のしるけく 2775 山高み谷辺に延(は)へる玉葛絶ゆる時なく見むよしもがも 2776 道の辺の草を冬野に踏み枯らし吾(あれ)立ち待つと妹に告げこそ 2777 畳薦へだて編む数通はさば道の柴草生ひざらましを 2778 水底に生ふる玉藻の生ひ出でずよしこの頃はかくて通はむ 2779 海原の沖つ縄海苔(なはのり)打ち靡き心もしぬに思ほゆるかも 2780 紫の名高の浦の靡き藻の心は妹に寄りにしものを 2781 海(わた)の底奥(おき)を深めて生ふる藻のもはら今こそ恋はすべなき 2782 さ寝かねば誰とも寝めど沖つ藻の靡きし妹が言待つ吾(あれ)を 2783 我妹子が如何にとも吾(あ)を思はねばふふめる花の穂に咲きぬべし 2784 隠(こも)りには恋ひて死ぬともみ苑生(そのふ)の韓藍(からゐ)の花の色に出でめやも 2785 咲く花は過ぐ時あれど吾(あ)が恋ふる心のうちは止む時もなし 2786 山吹のにほへる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ 2787 天地の寄り合ひの極み玉の緒の絶えじと思ふ妹があたり見つ 2788 息の緒に思ふは苦し玉の緒の絶えて乱れな知らば知るとも 2789 玉の緒の絶えたる恋の乱れには死なまくのみそまたも逢はずして 2790 玉の緒のくくり寄せつつ末つひに行きは別れず同(おや)じ緒にあらむ 2791 片糸もち貫(ぬ)きたる玉の緒を弱み乱れやしなむ人の知るべく 2792 玉の緒の現心(うつしこころ)や年月の行きかはるまで妹に逢はざらむ 2793 玉の緒の間も置かず見まく欲り吾(あ)が思(も)ふ妹は家遠くありて 2794 隠津(こもりづ)の沢泉なる岩根ゆも通してそ思ふ君に逢はまくは 2795 紀の国の飽等(あくら)の浜の忘れ貝吾(あれ)は忘れじ年は経ぬとも 2796 水潜(くく)る玉に交じれる磯貝の片恋のみに年は経につつ 2797 住吉(すみのえ)の浜に寄るちふうつせ貝実なき言もち吾(あれ)恋ひめやも 2798 伊勢の海人の朝な夕なに潜(かづ)くちふ鮑(あはび)の貝の片思(かたもひ)にして 2799 人言を繁みと君を鶉鳴く人の古家(ふるへ)に語らひて遣りつ 2800 暁(あかとき)と鶏(かけ)は鳴くなりよしゑやし独り寝(ぬ)る夜は明けば明けぬとも 2801 大海の荒磯の洲鳥朝な朝(さ)な見まく欲しきを見えぬ君かも 2802 思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を      或ル本ノ歌ニ曰ク、     あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長き永夜を一人かも寝む 2803 里中(さとぬち)に鳴くなる鶏(かけ)の呼び立てていたくは泣かぬ隠(こも)り妻はも 2804 高山にたかべさ渡り高々に吾(あ)が待つ君を待ち出なむかも 2805 伊勢の海ゆ鳴き来る鶴(たづ)の音驚(おとどろ)も君が聞こえば吾(あれ)恋ひめやも 2806 我妹子に恋ふれにかあらむ沖に棲む鴨の浮寝の安けくもなし 2807 明けぬべく千鳥しば鳴く敷妙の君が手枕いまだ飽かなくに 問答(とひこたへのうた)〔二十九首。九首、人麿集。二十首、人麿集外。〕 2508 皇祖(すめろき)の神の御門を畏みとさもらふ時に逢へる君かも 2509 真澄鏡見とも言はめや玉かぎる岩垣淵の隠(こも)りたる妻      右二首(ふたうた)。 2510 赤駒の足掻(あがき)速けば雲居にも隠(かく)り行かむそ袖振れ我妹 2511 隠国(こもりく)の豊泊瀬道(とよはつせぢ)は常滑のかしこき道そ汝(な)が心ゆめ      右二首。 2512 味酒(うまさけ)の三諸(みもろ)の山に立つ月の見が欲し君が馬の足音(あと)そする      右二首。 2513 雷神(なるかみ)の光動(とよ)みてさし曇り雨も降れやも君を留めむ 2514 雷神の光動みて降らずとも吾(あれ)は留まらむ妹し留めば      右二首。 2515 敷妙の枕動(うご)きて夜(よ)もい寝ず思ふ人には後逢ふものを 2516 敷妙の枕に人は言問へやその枕には苔生しにたり      右二首。      以前ノ九首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 2808 眉根(まよね)掻き鼻嚔(び)紐解け待てりやもいつかも見むと恋ひ来(こ)し吾(あれ)を      右、上ニ柿本朝臣人麿ノ歌集ノ中ニ見エタリ。      但シ問答ノ故ヲ以テ、茲(ココ)ニ累載ス。 2809 今日しあれば鼻嚔(び)し鼻嚔(び)眉(まよ)かゆみ思ひしことは君にしありけり      右二首。 2810 音のみを聞きてや恋ひむ真澄鏡直(ただ)に相見て恋ひまくも多く 2811 この言を聞かむとならし真澄鏡照れる月夜も闇のみに見つ      右二首。 2812 我妹子に恋ひてすべなみ白妙の袖返ししは夢(いめ)に見えきや 2813 我が背子が袖返す夜の夢ならしまことも君に逢へりしごとし      右二首。 2814 吾(あ)が恋は慰めかねつま日(け)長く夢に見えずて年の経ぬれば 2815 ま日長く夢にも見えず絶えぬとも我が片恋は止む時もあらじ      右二首。 2816 うらぶれて物な思ひそ天雲のたゆたふ心吾(あ)が思(も)はなくに 2817 うらぶれて物は思はじ水無瀬川ありても水は行くちふものを      右二首。 2818 かきつはた佐紀沼(さきぬ)の菅を笠に縫ひ着む日を待つに年そ経にける 2819 押し照る難波菅笠(すがかさ)置き古し後は誰着む笠ならなくに      右二首。 2820 かくだにも妹を待ちなむさ夜更けて出で来し月のかたぶくまでに 2821 木(こ)の間より移ろふ月の影を惜しみ立ち廻(もとほ)るにさ夜更けにけり      右二首。 2822 栲領布(たくひれ)の白浜波の寄りもあへず荒ぶる妹に恋ひつつそ居る 2823 かへらまに君こそ吾(あれ)に栲領巾の白浜波の寄る時もなき      右二首。 2824 思ふ人来むと知りせば八重葎(むぐら)覆へる庭に玉敷かましを 2825 玉敷ける家も何せむ八重葎覆へる小屋(をや)も妹と居りてば      右二首。 2826 かくしつつあり慰めて玉の緒の絶えて別ればすべなかるべし 2827 紅の花にしあらば衣手に染め付け持ちて行くべく思ほゆ      右二首。 譬喩(たとへうた)〔十三首。人麿集外。〕 2828 紅の深染(こそめ)の衣を下に着ば人の見らくににほひ出でむかも 2829 衣しも多(さは)にあらなむ取り替へて着せばや君が面(おも)忘れたらむ      右の二首(ふたうた)は、衣に寄せて思ひを喩(たと)ふ。 2830 梓弓弓束巻き替へ中見判さらに引くとも君がまにまに      右の一首(ひとうた)は、弓に寄せて思ひを喩ふ。 2831 みさごゐる洲に居る舟の夕潮を待つらむよりは吾(あれ)こそ益さめ      右の一首は、船に寄せて思ひを喩ふ。 2832 山川に筌(うへ)を伏せ置きて守(も)りあへず年の八年(やとせ)を吾(あ)を竊(ぬす)まひし      右の一首は、魚に寄せて思ひを喩ふ。 2833 葦鴨のすだく池水溢(はふ)るとも儲溝(まけみぞ)の方(へ)に吾(あれ)越えめやも      右の一首は、水に寄せて思ひを喩ふ。 2834 大和の室生(むろふ)の毛桃本繁く言ひてしものをならずはやまじ      右の一首は、菓(このみ)に寄せて思ひを喩ふ。 2835 ま葛延ふ小野の浅茅を心よも人引かめやも吾(あれ)無けなくに 2836 三島菅いまだ苗なり時待たば着ずやなりなむ三島菅笠 2837 み吉野の水隈(みぐま)が菅を編まなくに刈りのみ刈りて乱りなむとや 2838 川上に洗ふ若菜の流れ来て妹があたりの瀬にこそ寄らめ      右の四首(ようた)は、草に寄せて思ひを喩ふ。 2839 かくしてや猶や成りなむ大荒木の浮田の社の標(しめ)ならなくに      右の一首は、標に寄せて思ひを喩ふ。 2840 いくばくも降らぬ雨ゆゑ我が背子が御名のここだく滝(たぎ)もとどろに      右の一首は、滝に寄せて思ひを喩ふ。 -------------------------------------------------------- .巻第十二(とをまりふたまきにあたるまき) 古今相聞往来歌類下 正(ただ)に心緒(おもひ)を述ぶ〔百十一首。十一首、人麿集。百首、人麿集外。〕 2841 我が背子が朝明(あさけ)の姿よく見ずて今日の間を恋ひ暮らすかも 2842 吾(あ)が心息づき思(も)へば新夜(あらたよ)の一夜もおちず夢(いめ)にし見ゆる 2843 愛(うつく)しと吾(あ)が思(も)ふ妹を人皆の行くごと見めや手に纏(ま)かずして 2844 この頃の寝(い)の寝らえぬは敷妙の手枕(たまくら)まきて寝まく欲りこそ 2845 忘るやと物語して心遣り過ぐせど過ぎずなほそ恋しき 2846 夜も寝ず安くもあらず白妙の衣も脱かじ直(ただ)に逢ふまでに 2847 後に逢はむ吾(あ)をな恋ひそと妹は言へど恋ふる間に年は経につつ 2848 直に逢はずあるは諾(うべ)なり夢にだに何しか人の言の繁けむ 2849 ぬば玉の夜の夢にを見え継ぐや袖(そて)乾す日なく吾(あれ)は恋ふるを 2850 うつつには直に逢はなく夢にだに逢ふと見えこそ吾(あ)が恋ふらくに 2944 人言を繁みと妹に逢はずして心のうちに恋ふるこの頃      以上ノ十一首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 2864 我が背子を今か今かと待ち居るに夜の更けぬれば嘆きつるかも 2865 玉くしろ纏(ま)き寝(ぬ)る妹もあらばこそ夜の長けくも嬉しかるべき 2866 人妻に言ふは誰が言狭衣のこの紐解けと言ふは誰が言 2867 かくばかり恋ひむものそと知らませばその夜はゆたにあらましものを 2868 恋ひつつも後に逢はむと思へこそおのが命を長く欲りすれ 2869 今は吾(あ)は死なむよ我妹(わぎも)逢はずして思ひ渡れば安けくもなし 2870 我が背子が来むと語りし夜は過ぎぬしゑや更々しこり来めやも 2871 人言の讒(よこ)すを聞きて玉ほこの道にも逢はず絶えにし我妹 2872 逢はなくも憂しと思へばいや益しに人言繁く聞こえ来るかも 2873 里人も語り継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰が名ならめや 2874 確かなる使を無みと心をそ使に遣りし夢に見えきや 2875 天地に少し至らぬ大夫(ますらを)と思ひし吾(あれ)や雄心(をごころ)も無き 2876 里近く家や居るべきこの吾(あ)が目の人目をしつつ恋の繁けく 2877 何時はしも恋ひずありとはあらねどもうたてこの頃恋の繁きも 2878 ぬば玉のい寝てし宵の物思(も)ひに割れにし胸はやむ時もなし 2879 み空行く名の惜しけくも吾(あれ)はなし逢はぬ日まねく年の経ぬれば 2880 うつつにも今も見てしか夢のみに手本(たもと)まき寝(ぬ)と見れば苦しも 2881 立ちて居てすべのたどきも今は無し妹に逢はずて月の経ぬれば 2882 逢はずして恋ひ渡るとも忘れめやいや日に異(け)には思ひ増すとも 2883 よそ目にも君が姿を見てばこそ命に向ふ吾(あ)が恋やまめ 2884 恋ひつつも今日はあらめど玉くしげ明けむ明日の日いかで暮らさむ 2885 さ夜更けて妹を思ひ出敷妙の枕もそよに嘆きつるかも 2886 人言はまこと言痛(こちた)くなりぬともそこに障(さは)らむ吾(あれ)ならなくに 2887 立ちて居てたどきも知らず吾(あ)が心天つ空なり地は踏めども 2888 世の中の人の言葉と思ほすなまことそ恋ひし逢はぬ日を多み 2889 いで如何に吾(あ)がここだ恋ふる我妹子(わぎもこ)が逢はじと言へることもあらなくに 2890 ぬば玉の夜を長みかも我が背子が夢に夢にし見えかへるらむ 2891 あら玉の年の緒長くかく恋ひばまこと我が命全(また)からめやも 2892 思ひ遣るすべのたどきも吾(あれ)はなし逢はぬ日まねく月の経ぬれば 2893 朝(あした)ゆきて夕へは来ます君ゆゑに忌々(ゆゆ)しくも吾(あ)は嘆きつるかも 2894 聞きしより物を思へば吾(あ)が胸は破(わ)れて砕けて利心(とこころ)もなし 2895 人言を繁み言痛み我妹子に去(い)にし月よりいまだ逢はぬかも 2896 うたがたも言ひつつもあるか吾(あれ)しあれば土には落ちじ空に消(け)ぬとも 2897 いかにあらむ日の時にかも我妹子が裳引(もびき)の姿朝に日(け)に見む 2898 独り居て恋ふれば苦し玉たすき懸けず忘れむ事計(はか)りもが 2899 なかなかに黙(もだ)もあらましをあぢきなく相見そめても吾(あれ)は恋ふるか 2900 我妹子が笑まひ眉引(まよびき)面影にかかりてもとな思ほゆるかも 2901 あかねさす日の暮れぬればすべを無み千たび嘆きて恋ひつつそ居る 2902 我が恋は夜昼わかず百重なす心し思(も)へばいたもすべ無し 2903 いとのきて薄き眉根をいたづらに掻かしめにつつ逢はぬ人かも 2904 恋ひ恋ひて後も逢はむと慰むる心し無くば生きてあらめやも 2905 いくばくも生けらじ命を恋ひつつそ吾(あれ)は息づく人に知らえず 2906 他国(ひとくに)に婚(よば)ひに行きて大刀(たち)が緒もいまだ解かねばさ夜そ明けにける 2907 大夫(ますらを)の聡き心も今は無し恋の奴(やつこ)に吾(あれ)は死ぬべし 2908 常かくし恋ふれば苦ししましくも心休めむ事計りせよ 2909 おほろかに吾(あれ)し思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや 2910 心には千重に百重に思へれど人目を多み妹に逢はぬかも 2911 人目多み目こそ忍(しぬ)ふれ少なくも心のうちに吾(あ)が思(も)はなくに 2912 人の見て言とがめせぬ夢に吾(あれ)今宵至らむ屋戸(やと)閉(さ)すなゆめ 2913 いつまでに生かむ命そ大方は恋ひつつあらずは死なむまされり 2914 愛(うつく)しと吾(あ)が思(も)ふ妹を夢に見て起きて探るに無きが寂(さぶ)しさ 2915 妹と言ふは無礼(なめ)し畏ししかすがに懸けまく欲しき言にあるかも 2916 玉かつま逢はむと言ふは誰(たれ)なるか逢へる時さへ面隠しする 2917 うつつにか妹が来ませる夢にかも吾(あれ)か惑へる恋の繁きに 2918 おほかたは何かも恋ひむ言挙げせず妹に寄り寝む年は近きを 2919 二人して結びし紐を一人して吾(あれ)は解きみじ直に逢ふまでは 2920 死なむ命ここは思はず唯にしも妹に逢はなくことをしそ思(も)ふ 2921 紐の緒の同(おや)じ心にしましくも止む時もなく見なむとそ思(も)ふ 2922 夕さらば君に逢はむと思へこそ日の暮るらくも嬉しかりけれ 2923 直(ただ)今日も君には逢はめど人言を繁み逢はずて恋ひ渡るかも 2924 世の中に恋繁けむと思はねば君が手本をまかぬ夜もありき 2925 緑児(みどりこ)のためこそ乳母(おも)は求むと言へ乳(ち)飲めや君が乳母求むらむ 2926 悔しくも老いにけるかも我が背子が求むる乳母に行かましものを 2927 うらぶれて離(か)れにし袖をまた巻かば過ぎにし恋や乱れ来むかも 2928 おのがじし人死なすらし妹に恋ひ日に異(け)に痩せぬ人に知らえず 2929 宵々に吾(あ)が立ち待つにけだしくも君来まさずば苦しかるべし 2930 生ける世に恋ちふものを相見ねば恋ふるうちにも吾(あれ)そ苦しき 2931 思ひつつをれば苦しもぬば玉の夜になりなば吾(あれ)こそ行かめ 2932 心には燃えて思へどうつせみの人目を繁み妹に逢はぬかも 2933 相思はず君はまさめど片恋に吾(あれ)はそ恋ふる君が姿を 2934 うまさはふ目には飽けどもたづさはり言問はなくも苦しかりけり 2935 あら玉の年の緒長くいつまでか吾(あ)が恋ひ居らむ命知らずて 2936 今は吾(あ)は死なむよ我が背恋すれば一夜一日も安けくもなし 2937 白妙の袖(そて)折り返し恋ふればか妹が姿の夢にし見ゆる 2938 人言を繁み言痛(こちた)み我が背子を目には見れども逢ふよしもなし 2939 恋と言へば薄きことなり然れども吾(あれ)は忘れじ恋ひは死ぬとも 2940 なかなかに死なば安けむ出づる日の入る別(わき)知らぬ吾(あれ)し苦しも 2941 思ひ遣るたどきも吾(あれ)は今はなし妹に逢はずて年の経ぬれば 2942 我が背子に恋ふとにしあらし稚(わか)き子の夜泣きをしつつい寝かてなくは 2943 我が命を長く欲しけく偽りをよくする人を捕ふばかりを 2945 玉づさの君が使を待ちし夜のなごりそ今もい寝ぬ夜の多き 2946 玉ほこの道に行き逢ひて外目(よそめ)にも見れば良き子をいつとか待たむ 2947 思ふにし余りにしかばすべを無み吾(あれ)は言ひてき忌むべきものを    思ふにし余りにしかば門に出でて吾(あ)が臥(こ)い伏すを人見けむかも 2948 明日の日はその門行かむ出でて見よ恋ひたる姿あまた著(しる)けむ 2949 うたて異(け)に心いふせし事計りよくせ我が背子逢へる時だに 2950 我妹子が夜戸出(よとで)の姿見てしより心空なり土は踏めども 2951 海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し結びし紐を解かまく惜しも 2952 我が齢(よはひ)の衰へぬれば白妙の袖の狎れにし君をしそ思(も)ふ 2953 君に恋ひ吾(あ)が泣く涙白妙の袖さへ濡れぬせむすべもなし 2954 今よりは逢はじとすれや白妙の吾(あ)が衣手の干(ひ)る時もなき 2955 夢かと心惑ひぬ月まねく離(か)れにし君が言の通ふは 2956 あら玉の年月かねてぬば玉の夢にそ見ゆる君が姿は 2957 今よりは恋ふとも妹に逢はめやも床の辺(べ)去らず夢に見えこそ 2958 人の見て言咎めせぬ夢にだに止まず見えこそ吾(あ)が恋やまむ 2959 うつつには言絶えにけり夢にだに継ぎて見えこそ直に逢ふまでに 2960 うつせみの現心(うつしこころ)も吾(あれ)はなし妹を相見ずて年の経ぬれば 2961 うつせみの常の言葉と思へども継ぎてし聞けば心惑ひぬ 2962 白妙の袖離(か)れて寝(ぬ)るぬば玉の今宵は早も明けば明けなむ 2963 白妙の手本ゆたけく人の寝(ぬ)る味寐(うまい)は寝ずや恋ひ渡りなむ 物に寄せて思ひを陳(の)ぶ〔百五十首。十三首、人麿集。百三十七首、人麿集外。〕 2851 人見れば表衣(うへ)を結びて人見ねば下紐開けて恋ふる日ぞ多き 2852 人言の繁けき時に我妹子し衣にありせば下に着ましを 2853 真玉つく遠近(をちこち)兼ねて思へれば一重の衣一人着て寝ぬ 2854 白妙の我が紐の緒の絶えぬ間に恋結びせむ逢はむ日までに 2855 新墾(にひばり)の今作る道さやかにも聞きにけるかも妹が上のことを 2856 山背(やましろ)の石田(いはた)の杜に心鈍(おそ)く手向(たむけ)したれや妹に逢ひがたき 2857 菅の根のねもころごろに照る日にも干(ひ)めや吾(あ)が袖妹に逢はずして 2858 妹に恋ひい寝ぬ朝明(あさけ)に吹く風し妹にし触(ふ)らば吾(あ)が共(むた)に触れ 2859 飛鳥川高川避(よ)かし越ゑ来しをまこと今宵を明けずやらめや 2860 八釣川(やつりがは)水底(みなそこ)絶えず行く水の継ぎてそ恋ふるこの年ごろを 2861 磯の上(へ)に生ふる小松の名を惜しみ人に知らえず恋ひ渡るかも      或ル本ノ歌ニ曰ク、     岩の上(へ)に立てる小松の名を惜しみ人には言はず恋ひ渡るかも 2862 山川(やまがは)の水隠(みこもり)に生ふる山菅の止まずも妹が思ほゆるかも 2863 浅葉野(あさはぬ)に立ち神さぶる菅の根のねもころ誰ゆゑ吾(あ)が恋ひなくに      右ノ十三首ハ、柿本朝臣人麿ノ歌集ニ出ヅ。 2964 かくのみにありける君を衣ならば下にも着むと吾(あ)が思(も)へりける 2965 橡(つるはみ)の袷(あはせ)の衣の裏しあらば吾(あれ)強ひめやも君が来まさぬ 2966 紅の薄染衣(あらそめころも)浅らかに相見し人に恋ふる頃かも 2967 年の経ば見つつ偲(しぬ)へと妹が言ひし衣の縫目見れば悲しも 2968 橡の一重衣の裏もなくあるらむ子ゆゑ恋ひ渡るかも 2969 解き衣の思ひ乱れて恋ふれども何のゆゑそと問ふ人もなし 2970 桃染めの浅らの衣浅らかに思ひて妹に逢はむものかも 2971 大王(おほきみ)の塩焼く海人の藤衣馴るとはすれどいやめづらしも 2972 赤絹の純裏(ひつら)の衣長く欲り吾(あ)が思(も)ふ君が見えぬ頃かも 2973 真玉つく彼方此方(をちこち)兼ねて結びつる吾(あ)が下紐の解くる日あらめや 2974 紫の帯の結びも解きもみずもとなや妹に恋ひ渡りなむ 2975 高麗錦(こまにしき)紐の結びも解き放(さ)けず斎(いは)ひて待てど験なきかも 2976 紫の吾(あ)が下紐の色に出でず恋ひかも痩せむ逢ふよしを無み 2977 何ゆゑか思はずあらむ紐の緒の心に入りて恋しきものを 2978 真澄鏡(まそかがみ)見ませ我が背子吾(あ)が形見持たらむ君に逢はざらめやも 2979 真澄鏡直目(ただめ)に君を見てばこそ命に向ふ吾(あ)が恋やまめ 2980 真澄鏡見飽かぬ妹に逢はずして月の経ぬれば生けるともなし 2981 祝部(はふり)らが斎ふ三諸(みもろ)の真澄鏡懸けて偲ひつ逢ふ人ごとに 2982 針はあれど妹がなければ付けめやと吾(あれ)を悩まし絶ゆる紐が緒 2983 高麗剣我が心ゆゑ外(よそ)のみに見つつや君を恋ひ渡りなむ 2984 剣大刀名の惜しけくも吾(あれ)はなしこの頃の間の恋の繁きに 2985 梓弓末はし知らず然れどもまさかは君に寄りにしものを      一本ノ歌ニ曰ク、     梓弓末のたづきは知らねども心は君に寄りにしものを 2986 梓弓引きみ緩(ゆる)べみ思ひみてすでに心は寄りにしものを 2987 梓弓引きて緩さぬ大夫(ますらを)や恋ちふものを忍(しぬ)ひかねてむ 2988 梓弓末の中ごろ淀めりし君には逢ひぬ嘆きはやまむ 2989 今更に何しか思(も)はむ梓弓引きみ緩べみ寄りにしものを 2990 娘子(をとめ)らが績麻(うみを)のたたり打麻(うちそ)懸け倦む時なしに恋ひ渡るかも 2991 たらちねの母が飼ふ蚕(こ)の繭隠(まよごも)りいふせくもあるか妹に逢はずて 2992 玉たすき懸けねば苦し懸けたれば継ぎて見まくの欲しき君かも 2993 紫のまだらの蘰(かづら)花やかに今日見る人に後恋ひむかも 2994 玉かづら懸けぬ時なく恋ふれども如何でか妹に逢ふ時もなき 2995 逢ふよしの出で来むまでは畳薦(たたみこも)重ね編む数夢にし見てむ 2996 白香(しらか)つく木綿(ゆふ)は花もの言こそは何時のまさかも常忘らえね 2997 石上(いそのかみ)布留(ふる)の高橋高々に妹が待つらむ夜そ更けにける 2998 湊入りの葦別小舟(あしわけをぶね)障り多み今来む吾(あれ)を淀むと思(も)ふな      或ル本ノ歌ニ曰ク、     湊入りに葦別小舟障り多み君に逢はずて年そ経にける 2999 水を多み高田(あげ)に種蒔き稗(ひえ)を多み選らえし業(わざ)そ吾(あ)が独り寝(ぬ)る 3000 魂(たま)し合へば相寝しものを小山田の鹿猪田(ししだ)守(も)るごと母し守らすも 3001 春日野に照れる夕日の外のみに君を相見て今そ悔しき 3002 あしひきの山より出づる月待つと人には言ひて妹待つ吾(あれ)を 3003 夕月夜(ゆふづくよ)暁(あかとき)闇のおほほしく見し人ゆゑに恋ひ渡るかも 3004 久かたの天つみ空に照れる日の失せなむ日こそ吾(あ)が恋止まめ 3005 十五日(もち)の夜に出でにし月の高々に君をいませて何をか思はむ 3006 月夜よみ門に出で立ち足占(あうら)して行く時さへや妹に逢はざらむ 3007 ぬば玉の夜渡る月のさやけくはよく見てましを君が姿を 3008 あしひきの山を木高(こたか)み夕月をいつかと君を待つが苦しさ 3009 橡の衣解き洗ひ真土山本つ人には猶しかずけり 3010 佐保川の川波立たず静けくも君にたぐひて明日さへもがも 3011 我妹子に衣春日の宜寸川(よしきがは)よしもあらぬか妹が目を見む 3012 との曇り雨布留(ふる)川のさざれ波間なくも君は思ほゆるかも 3013 我妹子や吾(あ)を忘らすな石上袖布留川の絶えむと思(も)へや 3014 神山(かみやま)の山下響(とよ)み行く水の水脈(みを)の絶えずは後も吾(あ)が妻 3015 神のごと聞こゆる滝(たぎ)の白波の面知る君が見えぬこの頃 3016 山川の滝にまされる恋すとそ人知りにける間なくし思へば 3017 あしひきの山川水の音に出でず人の子ゆゑに恋ひ渡るかも 3018 巨勢(こせ)なる能登瀬の川の後に逢はむ妹には吾(あれ)は今ならずとも 3019 洗ひ衣取替川(とりかひがは)の川淀の淀まむ心思ひかねつも 3020 斑鳩(いかるが)の因可(よるか)の池のよろしくも君が言はねば思ひそ吾(あ)がする 3021 隠沼(こもりぬ)の下よは恋ひむいちしろく人の知るべく嘆きせめやも 3022 行方なみ隠(こも)れる小沼(をぬ)の下思(も)ひに吾(あれ)そ物思(も)ふこの頃のあひだ 3023 隠沼の下よ恋ひ余り白波のいちしろく出でぬ人の知るべく 3024 妹が目を見まく堀江のさざれ波しきて恋ひつつありと告げこそ 3025 石(いは)走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらく吾(あ)が心から 3026 君は来ず吾(あれ)は故なみ立つ波のしばしば侘びしかくて来じとや 3027 淡海(あふみ)の海(み)浜(へた)は人知る沖つ波君をおきては知る人もなし 3028 大海の底を深めて結びてし妹が心は疑ひもなし 3029 佐太(さだ)の浦に寄する白波間なく思ふを如何で妹に逢ひがたき 3030 思ひ出でてすべなき時は天雲の奥処(おくか)も知らに恋ひつつそ居る 3031 天雲のたゆたひやすき心あらば吾(あれ)をな頼め待てば苦しも 3032 君があたり見つつも居らむ生駒山雲なたなびき雨は降るとも 3033 なかなかに如何で知りけむ春山に燃ゆる煙(けぶり)のよそに見ましを 3034 我妹子に恋ひすべなかり胸を熱み朝戸開くれば見ゆる霧かも 3035 暁の朝霧隠(ごも)り帰りしに如何でか恋の色に出でにける 3036 思ひ出づる時はすべなみ佐保山に立つ雨霧の消(け)ぬべく思ほゆ 3037 殺目山(きりめやま)行き交ふ道の朝霞ほのかにだにや妹に逢はざらむ 3038 かく恋ひむものと知りせば夕へ置きて朝(あした)は消ぬる露ならましを 3039 夕へ置きて朝(あした)は消ぬる白露の消ぬべき恋も吾(あれ)はするかも 3040 後つひに妹に逢はむと朝露の命は生けり恋は繁けど 3041 朝な朝(さ)な草の上白く置く露の消なば共にと言ひし君はも 3042 朝日さす春日の小野に置く露の消ぬべき吾(あ)が身惜しけくもなし 3043 露霜の消やすき我が身老いぬともまた変若(をち)かへり君をし待たむ 3044 君待つと庭にし居れば打ち靡く我が黒髪に霜そ置きにける 3045 朝霜の消ぬべくのみや時なしに思ひ渡らむ息の緒にして 3046 ささ波の波越す畔(あぜ)に降る小雨間も置きて吾(あ)が思(も)はなくに 3047 神さびて巌(いはほ)に生ふる松が根の君が心は忘れかねつも 3048 み狩りする猟路(かりぢ)の小野の櫟柴(ならしば)の馴れはまさらず恋こそまされ 3049 桜麻(さくらあさ)の麻生(をふ)の下草早生ひば妹が下紐解けざらましを 3050 春日野に浅茅(あさち)標結(しめゆ)ひ絶えめやと吾(あ)が思(も)ふ人はいや遠長に 3051 あしひきの山菅の根のねもころに吾(あれ)はそ恋ふる君が姿を      或ル本ノ歌ニ曰ク、吾(あ)が思(も)ふ人を見むよしもがも。 3052 かきつはた佐紀沢(さきさは)に生ふる菅の根の絶ゆとや君が見えぬこの頃 3053 あしひきの山菅の根のねもころに止まずし思(も)はば妹に逢はむかも 3054 相思はずあるものをかも菅の根のねもころころに吾(あ)が思(も)へるらむ 3055 山菅のやまずて君を思へかも我が心神(こころと)のこの頃は無き 3056 妹が門行き過ぎかねて草結ぶ風吹き解くなまた還り見む      一ニ云ク、直に逢ふまでに。 3057 浅茅原茅生(ちふ)に足踏み心ぐみ吾(あ)が思(も)ふ子らが家のあたり見つ      一ニ云ク、妹が家のあたり見つ。 3058 うち日さす宮にはあれど月草の現心(うつしこころ)を吾(あ)が思(も)はなくに 3059 百(もも)に千(ち)に人は言へども月草のうつろふ心吾(あれ)持ためやも 3060 忘れ草我が紐に付く時となく思ひ渡れば生けるともなし 3061 暁(あかとき)の目覚まし草とこれをだに見つついまして吾(あれ)と偲はせ 3062 忘れ草垣もしみみに植ゑたれど醜(しこ)の醜草なほ恋ひにけり 3063 浅茅原小野に標結ひ空言(むなこと)も逢はむと聞こせ恋のなぐさに      或ル本ノ歌ニ曰ク、来むと知志君をし待たむ。      又見柿本朝臣人麿歌集、然落句小異耳。 3064 人皆の笠に縫ふちふ有間菅ありて後にも逢はむとそ思(も)ふ 3065 み吉野の秋津の小野に刈る草(かや)の思ひ乱れて寝(ぬ)る夜しそ多き 3066 妹が着(け)る三笠の山の山菅の止まずや恋ひむ命死なずば 3067 谷狭(せば)み峯辺(みねへ)に延(は)へる玉かづら延へてしあらば年に来ずとも      一ニ云ク、石蔦(いはつな)の延へてしあらば。 3068 水茎の岡の葛葉(くずば)を吹き返し面知る子らが見えぬ頃かも 3069 赤駒のい行きはばかる真葛原何の伝言(つてごと)直にし吉(え)けむ 3070 木綿畳(ゆふたたみ)田上山(たなかみやま)のさな葛ありさりてしも今ならずとも 3071 丹波道(たにはぢ)の大江の山の真玉葛(またまづら)絶えむの心吾(あ)が思(も)はなくに 3072 大崎の荒磯の渡(わたり)延ふ葛(くず)の行方もなくや恋ひ渡りなむ 3073 木綿畳田上山のさな葛後も必ず逢はむとそ思(も)ふ      或ル本ノ歌ニ曰ク、絶エムト妹ヲ吾(ア)ガ思ハナクニ。 3074 はねず色のうつろひやすき心あれば年をそ来経(ふ)る言は絶えずて 3075 かくしてそ人の死ぬちふ藤波のただ一目のみ見し人ゆゑに 3076 住吉(すみのえ)の敷津(しきつ)の浦の名告藻(なのりそ)の名は告りてしを逢はなくも怪し 3077 みさご居る荒磯(ありそ)に生ふる名告藻(なのりそ)のよし名は告らせ親は知るとも 3078 波の共(むた)靡く玉藻の片思(も)ひに吾(あ)が思(も)ふ人の言の繁けく 3079 わたつみの沖つ玉藻の靡き寝む早来ませ君待てば苦しも 3080 わたつみの沖に生ひたる縄海苔の名はかつて告らじ恋ひは死ぬとも 3081 玉の緒を片緒に縒(よ)りて緒を弱み乱るる時に恋ひざらめやも 3082 君に逢はず久しくなりぬ玉の緒の長き命の惜しけくもなし 3083 恋ふることまされる今は玉の緒の絶えて乱れて死ぬべく思ほゆ 3084 海人娘子潜(かづ)き採るちふ忘れ貝世にも忘れじ妹が姿は 3085 朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに 3086 なかなかに人とあらずは桑子(くわこ)にも成らましものを玉の緒ばかり 3087 真菅(ますが)よし宗我(そが)の川原に鳴く千鳥間なし我が背子吾(あ)が恋ふらくは 3088 韓衣(からころも)着奈良の山に鳴く鳥の間なく時なし吾(あ)が恋ふらくは 3089 遠つ人猟道(かりぢ)の池に住む鳥の立ちても居ても君をしそ思(も)ふ 3090 葦辺ゆく鴨の羽音の音のみを聞きつつもとな恋ひ渡るかも 3091 鴨すらもおのが妻どちあさりして後るる間(ほと)に恋ふちふものを 3092 白真弓斐太(ひだ)の細江の菅鳥(すがとり)の妹に恋ふれや寝(い)を寝かねつる 3093 小竹(しぬ)の上(へ)に来居て鳴く鳥目を安み人妻ゆゑに吾(あれ)恋ひにけり 3094 物思(も)ふとい寝ず起きたる朝明(あさけ)には侘びて鳴くなり鶏(にはつとり)さへ 3095 朝烏早くな鳴きそ我が背子が朝明の姿見れば悲しも 3096 馬柵(うませ)越しに麦食む駒の罵(の)らゆれど猶し恋ふらく思(しぬ)ひかねつも 3097 さ桧隈(ひのくま)桧隈川に馬とどめ馬に水飼へ吾(あれ)よそに見む 3098 おのれゆゑ罵らえて居れば葦毛馬の面高(おもたか)斑(ぶた)に乗りて来べしや      右ノ一首ハ、平群文屋朝臣益人伝ヘテ云ク、昔聞ク      紀皇女竊カニ高安王ニ嫁(ア)ヒテ責メラレシ時、此ノ歌      ヲ御作レリト。但高安王ハ左降シテ、伊与ノ国守ニ      任(マ)ケラル。 3099 紫草(むらさき)を草と別(わ)く別(わ)く伏す鹿の野は異にして心は同(おや)じ 3100 思はぬを思ふと言はば真鳥住む雲梯(うなて)の杜の神し知らさむ 問答(とひこたへ)の歌〔二十六首。人麿集外。〕 3101 紫は灰さすものそ海石榴市(つばいち)の八十の衢に逢ひし子や誰(たれ) 3102 たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰と知りてか      右二首(ふたうた)。 3103 逢はなくはしかもありなむ玉づさの使をだにも待ちやかねてむ 3104 逢はむとは千たび思へどあり通ふ人目を多み恋つつそ居る      右二首。 3105 人目多み直(ただ)に逢はずてけだしくも吾(あ)が恋ひ死なば誰が名ならむも 3106 相見まく欲しけくあれば君よりも吾(あれ)そまさりていふかしみする      右二首。 3107 うつせみの人目を繁み逢はずして年の経ぬれば生けるともなし 3108 うつせみの人目繁くはぬば玉の夜の夢にを継ぎて見えこそ      右二首。 3109 ねもころに吾(あ)が思(も)ふ妹を人言の繁きによりて淀む頃かも 3110 人言の繁くしあらば君も吾(あれ)も絶えむと言ひて逢ひしものかも      右二首。 3111 すべもなき片恋をすとこの頃に吾(あ)が死ぬべきは夢に見えきや 3112 夢に見て衣を取り着装(よそ)ふ間に妹が使そ先立ちにける      右二首。 3113 ありありて後も逢はむと言のみを堅く言ひつつ逢ふとはなしに 3114 極めて吾(あれ)も逢はむと思へども人の言こそ繁き君なれ      右二首。 3115 息の緒に吾(あ)が息づきし妹すらを人妻なりと聞けば悲しも 3116 我がゆゑにいたくな侘びそ後つひに逢はじと言ひしこともあらなくに      右二首。 3117 門立てて戸も閉(さ)したるをいづくよか妹が入り来て夢に見えつる 3118 門立てて戸は閉したれど盗人(ぬすひと)の穿(ゑ)れる穴より入りて見えしを      右二首。 3119 明日よりは恋ひつつあらむ今宵だに早く初夜(よひ)より紐解け我妹 3120 今更に寝めや我が背子新夜(あらたよ)の一夜もおちず夢に見えこそ      右二首。 3121 我が背子が使を待つと笠も着ず出でつつそ見し雨の降らくに 3122 心なき雨にもあるか人目守(も)り乏(とも)しき妹に今日だに逢はむを      右二首。 3123 ただ独り寝(ぬ)れど寝(ね)かねて白妙の袖を笠に着濡れつつそ来し 3124 雨も降り夜も更けにけり今更に君去(い)なめやも紐解き設(ま)けな      右二首。 3125 久かたの雨の降る日を我が門に蓑笠(にのかさ)着ずて来(け)る人や誰 3126 纏向(まきむく)の痛足(あなし)の山に雲居つつ雨は降れども濡れつつそ来(こ)し      右二首。 羇旅(たび)に思ひを發(の)ぶ〔九十首。四首、人麻呂集。三十四首、悲別歌、人麻呂集外。四十九首、人麻呂集外。十首、問答歌、人麻呂集外。〕 3127 度会(わたらひ)の大川の辺(べ)の若久木我が久ならば妹恋ひむかも 3128 我妹子を夢に見え来(こ)と大和道の渡り瀬ごとに手向そ吾(あ)がする 3129 桜花咲きかも散ると見るまでに誰かもここに見えて散りゆく 3130 豊国の企玖(きく)の浜松心いたく何しか妹に相言ひそめけむ      右ノ四首ハ、柿本朝臣人麿集ニ出ヅ。 3131 月変へて君をば見むと思へかも日も変へずして恋の繁けむ 3132 な行きそと帰りも来(く)やと顧みに行けどゆかれず道の長手を 3133 旅にして妹を思ひ出いちしろく人の知るべく嘆きせむかも 3134 里離(ざか)り遠からなくに草枕旅とし思(も)へばなほ恋ひにけり 3135 近くあれば名のみも聞きて慰めつ今宵よ恋のいやまさりなむ 3136 旅にありて恋ふれば苦しいつしかも都に行きて君が目を見む 3137 遠くあれば姿は見えず常のごと妹が笑まひは面影にして 3138 年も経ず帰り来(き)なめど朝影に待つらむ妹が面影に見ゆ 3139 玉ほこの道に出で立ち別れ来し日より思ふに忘る時なし 3140 はしきやし然る恋にもありしかも君に後れて恋しく思へば 3141 草枕旅の悲しくあるなべに妹を相見て後恋ひむかも 3142 国遠み直には逢はず夢にだに吾(あれ)に見えこそ逢はむ日までに 3143 かく恋ひむものと知りせば我妹子(わぎもこ)に言問はましを今し悔しも 3144 旅の夜の久しくなればさ丹頬(にづら)ふ紐開け放(さ)けず恋ふるこの頃 3145 我妹子し吾(あ)を偲(しぬ)ふらし草枕旅の丸寝(まろね)に下紐解けつ 3146 草枕旅の衣の紐解けつ思ほせるかもこの年頃は 3147 草枕旅の紐解く家の妹(も)し吾(あ)を待ちかねて嘆かすらしも 3148 玉くしろ纏(ま)き寝し妹を月も経ず置きてや越えむこの山の崎 3149 梓弓末は知らねど愛(うつく)しみ君にたぐひて山道(やまち)越え来ぬ 3150 霞立つ長き春日を奥処(おくか)なく知らぬ山道を恋ひつつか来む 3151 よそのみに君を相見て木綿畳手向の山を明日か越え去なむ 3152 玉かつま安倍島山の夕露に旅寝得せめや長きこの夜を 3153 み雪降る越の大山行き過ぎていづれの日にか我が里を見む 3154 いで吾(あ)が駒早く行きこそ真土山待つらむ妹を行きて早見む 3155 悪木山(あしきやま)木末(こぬれ)ことごと明日よりは靡きたりこそ妹があたり見む 3156 鈴鹿川八十瀬(やそせ)渡りて誰がゆゑか夜越えに越えむ妻もあらなくに 3157 我妹子にまたも近江(あふみ)の安の川安寝(やすい)も寝ずに恋ひ渡るかも 3158 旅にありてものをそ思ふ白波の辺にも沖にも寄るとはなしに 3159 湖廻(みなとみ)に満ち来る潮のいや益しに恋はまされど忘らえぬかも 3160 沖つ波辺波(へなみ)の来寄る佐太(さだ)の浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも 3161 在千潟(ありちがた)あり慰めて行かめども家なる妹いいふかしみせむ 3162 みをつくし心尽して思へかも此処にももとな夢にし見ゆる 3163 我妹子に触(ふ)るとはなしに荒磯廻(ありそみ)に我が衣手は濡れにけるかも 3164 室の浦の瀬戸の崎なる鳴島(なるしま)の磯越す波に濡れにけるかも 3165 霍公鳥(ほととぎす)飛幡(とばた)の浦にしく波のしばしば君を見むよしもがも 3166 我妹子を外(よそ)のみや見む越の海の子難(こかた)の海の島ならなくに 3167 波の間よ雲居に見ゆる粟島の逢はぬものゆゑ吾(あ)に寄する子ら 3168 衣手の真若の浦の真砂地(まなごつち)間なく時なし吾(あ)が恋ふらくは 3169 能登の海に釣する海人の漁火(いざりひ)の光りにいませ月待ちがてり 3170 志賀(しか)の海人の釣に燭せる漁火のほのかに妹を見むよしもがも 3171 難波潟榜ぎ出し船のはろばろに別れ来ぬれど忘れかねつも 3172 浦廻榜ぐ熊野舟泊(は)てめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし 3173 松浦舟(まつらぶね)乱(みだ)る堀江の水脈(みを)早み楫取る間なく思ほゆるかも 3174 漁(いざ)りする海人の楫の音(と)ゆくらかに妹が心に乗りにけるかも 3175 和歌の浦に袖さへ濡れて忘れ貝拾(ひり)へど妹は忘らえなくに      或ル本ノ末ノ句云ク、忘れかねつも。 3176 草枕旅にし居れば刈薦(かりこも)の乱れて妹に恋ひぬ日はなし 3177 志賀の海人の磯に刈り干す名告藻(なのりそ)の名は告りてしを如何で逢ひがたき 3178 国遠み思ひな侘びそ風の共(むた)雲の行くなす言は通はむ 3179 留まりにし人を思ふに秋津野に居る白雲の止む時もなし 別れの悲しみの歌 3180 裏もなく去(い)にし君ゆゑ朝な朝(さ)なもとなそ恋ふる逢ふとは無しに 3181 白妙の君が下紐吾(あれ)さへに今日結びてな逢はむ日のため 3182 白妙の袖の別れは惜しけども思ひ乱れて縦(ゆる)しつるかも 3183 京辺(みやこへ)に君は去にしを誰解けか我が紐の緒の結ふ手たゆきも 3184 草枕旅ゆく君を人目多み袖振らずしてあまた悔しも 3185 真澄鏡手に取り持ちて見れど飽かぬ君に後れて生けるともなし 3186 曇り夜のたどきも知らず山越えています君をばいつとか待たむ 3187 たたなづく青垣山の隔(へな)りなばしばしば君を言問はじかも 3188 朝霞たなびく山を越えてゆかば吾(あれ)は恋ひむな逢はむ日までに 3189 あしひきの山は百重に隠すとも妹は忘らじ直に逢ふまでに      一ニ云ク、隠せども君を思(しぬ)はく止む時もなし。 3190 雲居なる海山越えていましなば吾(あれ)は恋ひむな後は逢ひぬとも 3191 よしゑやし恋ひじとすれど木綿間山(ゆふまやま)越えにし君が思ほゆらくに 3192 草蔭の荒藺(あらゐ)の崎の笠島を見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ      一ニ云ク、み坂越ゆらむ。 3193 玉かつま島熊山の夕暮に独りか君が山道越ゆらむ      一ニ云ク、夕霧に長恋しつつい寝かてぬかも。 3194 息の緒に吾(あ)が思(も)ふ君は鶏(とり)が鳴く東(あづま)の坂を今日か越ゆらむ 3195 磐城山(いはきやま)ただ越え来ませ磯崎のこぬみの浜に吾(あれ)立ち待たむ 3196 春日野の浅茅が原に後れ居て時そともなし吾(あ)が恋ふらくは 3197 住吉(すみのえ)の岸に向かへる淡路島あはれと君を言はぬ日はなし 3198 明日よりは印南(いなみ)の川の出でて去なば留まれる吾(あれ)は恋ひつつやあらむ 3199 海(わた)の底沖は恐(かしこ)し磯廻(いそみ)より榜ぎ廻(た)みいませ月は経ぬとも 3200 飼(けひ)の浦に寄する白波しくしくに妹が姿は思ほゆるかも 3201 時つ風吹飯(ふけひ)の浜に出で居つつ贖(あが)ふ命は妹が為こそ 3202 熟田津(にきたづ)に舟乗(ふなのり)せむと聞きしなべ何そも君が見え来ざるらむ 3203 みさご居る洲に居る舟の榜ぎ出なばうら恋ほしけむ後は逢ひぬとも 3204 玉かづら絶えずいまさね山菅の思ひ乱れて恋ひつつ待たむ 3205 後れ居て恋ひつつあらずば田子(たこ)の浦の海人ならましを玉藻刈る刈る 3206 筑紫道(つくしぢ)の荒磯の玉藻刈ればかも君は久しく待つに来まさず 3207 あら玉の年の緒長く照る月の飽かぬ君にや明日別れなむ 3208 久にあらむ君を思ふに久かたの清き月夜も闇夜(やみ)のみに見ゆ 3209 春日なる三笠の山に居る雲を出で見るごとに君をしそ思(も)ふ 3210 あしひきの片山雉(きぎし)立ち行かむ君に後れて顕(うつ)しけめやも 問答(とひこたへ)の歌 3211 玉の緒の現心(うつしこころ)や八十楫(やそか)懸け榜ぎ出む船に後れて居らむ 3212 八十楫懸け島隠りなば我妹子が留(とど)むと振らむ袖見えじかも      右二首。 3213 十月(かみなつき)しぐれの雨に濡れつつや君が行くらむ宿か借るらむ 3214 十月雨間(あまま)も置かず降りにせば誰が里の間に宿か借らまし      右二首。 3215 白妙の袖の別れを難(かた)みして荒津の浜に宿りするかも 3216 草枕旅ゆく君を荒津まで送り来ぬれど飽き足らずこそ      右二首。 3217 荒津の海吾(あ)が幣(ぬさ)まつり斎(いは)ひてむ早帰りませ面変りせず 3218 朝な朝な筑紫の方を出で見つつ哭(ね)のみそ吾(あ)が泣くいたもすべなみ      右二首。 3219 豊国の企玖(きく)の長浜行き暮らし日の暮れぬれば妹をしそ思(も)ふ 3220 豊国の企玖の高浜高々に君待つ夜らはさ夜更けにけり      右二首。 -------------------------------------------------------- .巻第十三(とをまりみまきにあたるまき) 雑歌(くさぐさのうた) 是中長歌十六首 3221 冬こもり 春さり来れば 朝(あした)には 白露置き    夕へには 霞棚引く 泊瀬のや 木末(こぬれ)が下に 鴬鳴くも      右一首(ひとうた)。 3222 三諸(みもろ)は 人の守(も)る山 本辺(もとへ)は 馬酔木(あしび)花咲き    末辺(すゑへ)は 椿花咲く うらぐはし山そ 泣く子守る山      右一首。 3223 天霧(あまぎ)らひ 渡る日隠し 九月(ながつき)の 時雨の降れば    雁がねも 乏(とも)しく来鳴く 神奈備の 清き御田屋(みたや)の    垣つ田の 池の堤の 百(もも)足らず 斎槻(いつき)が枝に    瑞枝(みづえ)さす 秋のもみち葉 まき持たる 小鈴(をすず)もゆらに    手弱女(たわやめ)に 吾(あれ)はあれども 引き攀ぢて 枝もとををに    打ち手折り 吾(あ)は持ちてゆく 君が挿頭(かざし)に 反(かへ)し歌 3224 独りのみ見れば恋しみ神奈備の山のもみち葉手折りけり君      右二首(ふたうた)。 3225 天雲の 影さへ見ゆる 隠国(こもりく)の 泊瀬の川は    浦無みか 船の寄り来(こ)ぬ 磯無みか 海人の釣せぬ    よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 磯はなくとも    沖つ波 競(きほ)ひ漕入(こぎ)り来(こ) 海人の釣船 反し歌 3226 さざれ波たぎちて流る泊瀬川寄るべき磯の無きが寂(さぶ)しさ      右二首。 3227 葦原の 瑞穂の国に 手向(たむけ)すと 天降(あも)りましけむ    五百万(いほよろづ) 千万(ちよろづ)神の 神代より 言ひ継ぎ来たる    神奈備の 三諸の山は 春されば 春霞立ち    秋ゆけば 紅にほふ 神奈備の 三諸の神の    帯にせる 明日香の川の 水脈(みを)速み 生(む)し溜めがたき    岩が根に 苔生すまでに 新夜(あらたよ)の 幸(さき)く通はむ    事計り 夢(いめ)に見せこそ 剣大刀 斎(いは)ひ祭れる 神にしませば 反し歌 3228 神奈備の三諸の山に斎ふ杉思ひ過ぎめや苔生すまでに 3229 斎串(いくし)立て神酒(みわ)据ゑまつる神主(かむぬし)の髻華(うず)の山影見ればともしも      右三首(みうた)。 3230 帛(ぬさ)まつり 奈良より出でて 水蓼(みづたで) 穂積(ほづみ)に至り    鳥網(となみ)張る 坂手を過ぎ 石走(いはばし)る 神奈備山に    朝宮に 仕へ奉りて 吉野へと 入ります見れば 古へ思ほゆ 反し歌 3231 月日はゆき変はれども久に経(ふ)る三諸の山の離宮(とつみや)ところ      右二首。 3232 斧取りて 丹生(にふ)の桧山(ひやま)の 木伐(こ)り来て 筏に作り    真楫(まかぢ)貫(ぬ)き 磯榜ぎ廻(た)みつつ 島伝ひ 見れども飽かず    み吉野の 滝(たぎ)もとどろに 落つる白波 反し歌 3233 み吉野の滝もとどろに落つる白波留(とど)めにし妹に見せまく欲しき白波      右二首。 3234 やすみしし 我ご大王(おほきみ) 高光る 日の御子の    聞こしをす 御食(みけ)つ国 神風の 伊勢の国は    山見れば 高く貴し 川見れば さやけく清し    水門(みなと)なす 海も広し 見渡す 島も高し    そこをしも うらぐはしみか ここをしも まぐはしみかも    かけまくも あやに畏き 山辺(やまへ)の 五十師(いし)の原に    内日さす 大宮仕へ    朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも    春山の 艷(しな)ひ栄えて 秋山の 色なつかしき    百敷の 大宮人は 天地と 日月とともに 万代にもが 反し歌 3235 山辺の五十師の御井はおのづから成れる錦を張れる山かも      右二首。 3236 そらみつ 大和の国 青丹よし 奈良山越えて    山背(やましろ)の 綴喜(つつき)の原 ちはやぶる 宇治の渡(わたり)    滝(たぎ)の屋の 阿後尼(あごね)の原を 千年に 欠くることなく    万代に あり通はむと 山科の 石田(いはた)の森の    皇神(すめかみ)に 幣(ぬさ)取り向けて 吾(あれ)は越え行く 逢坂山を      右一首。 3237 青丹よし 奈良山過ぎて もののふの 宇治川渡り    処女(をとめ)らに 逢坂山に 手向種(たむけぐさ) 幣取り置きて    我妹子(わぎもこ)に 淡海(あふみ)の海の 沖つ波 来寄す浜辺を    くれくれと 独りそ吾(あ)が来し 妹が目を欲り 反し歌 3238 逢坂をうち出て見れば淡海の海(み)白木綿花(しらゆふはな)に波立ち渡る      右三首。 3239 近江の海(み) 泊(とまり)八十(やそ)あり 八十島の 島の崎々    あり立てる 花橘を ほつ枝に 黐(もち)引き懸け    中つ枝に 鵤(いかるが)懸け しづ枝に 比米(しめ)を懸け    己(し)が母を 取らくを知らに 己が父を 取らくを知らに    戯(いそば)ひ居るよ 鵤と比米と      右一首。 3240 大王の 命畏み 見れど飽かぬ 奈良山越えて    真木積む 泉の川の 速き瀬に 棹さし渡り    ちはやぶる 宇治の渡の 滾(たぎ)つ瀬を 見つつ渡りて    近江道の 逢坂山に 手向して 吾(あ)が越え行けば    楽浪(ささなみ)の 志賀の唐崎 幸(さき)くあらば またかへり見む    道の隈(くま) 八十隈(やそくま)ごとに 嘆きつつ 吾(あ)が過ぎ行けば    いや遠に 里離(さか)り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ    剣大刀 鞘ゆ抜き出て 伊香山(いかこやま) いかが吾(あ)がせむ 行方知らずて 反し歌 3241 天地を嘆き乞ひ祈(の)み幸くあらばまた反り見む志賀の唐崎      右二首。 3242 ももづたふ 美濃(みぬ)の国の 高北の 泳(くくり)の宮に    月に日に 行かまし里を ありと聞きて 我が通ひ道(ぢ)の    大吉蘇山(おきそやま) 美濃の山 靡けと 人は踏めども    かく寄れと 人は衝(つ)けども 心なき 山の 大吉蘇山 美濃の山      右一首。 3243 処女らが 麻笥(をけ)に垂れたる 続麻(うみを)なす 長門の浦に    朝凪に 満ち来る潮の 夕凪に 寄せ来る波の    その潮の いやますますに その波の いやしくしくに    我妹子に 恋ひつつ来れば 阿胡(あご)の海の 荒磯(ありそ)の上に    浜菜摘む 海人処女ども うながせる 領布(ひれ)も照るがに    手に巻ける 玉もゆららに 白妙の 袖振る見えつ 相思(も)ふらしも 反し歌 3244 阿胡の海の荒磯の上のさざれ波吾(あ)が恋ふらくはやむ時もなし      右二首。 3245 天橋(あまはし)も 長くもがも 高山も 高くもがも    月読(つくよみ)の 持たる変若水(をちみづ) い取り来て 君に奉りて    変若(をち)得しむもの 反し歌 3246 天照るや日月のごとく吾(あ)が思(も)へる君が日に異(け)に老ゆらく惜しも      右二首。 3247 沼名川(ぬなかは)の 底なる玉 求めて 得し玉かも    拾(ひり)ひて 得し玉かも 惜(あたら)しき 君が 老ゆらく惜(を)しも      右一首。 相聞(したしみうた) 此中長歌二十九首。 3248 磯城島(しきしま)の 大和の国に 人さはに 満ちてあれども    藤波の 思ひまつはり 若草の 思ひつきにし    君が目に 恋ひや明かさむ 長きこの夜を 反し歌 3249 磯城島の大和の国に人二人ありとし思(も)はば何か嘆かむ      右二首。 3250 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は 神柄(かみから)と 言挙げせぬ国    然れども 吾(あ)は言挙げす 天地の 神も甚だ    吾(あ)が思ふ 心知らずや 往影乃 月も経ゆけば    玉かぎる 日も重なりて 思へかも 胸安からず    恋ふれかも 心の痛き 末つひに 君に逢はずば    我が命の 生けらむ極み 恋ひつつも 吾(あれ)は渡らむ    真澄鏡 直目(ただめ)に君を 相見てばこそ 吾(あ)が恋やまめ 反し歌 3251 大舟の思ひ頼める君ゆゑに尽す心は惜しけくもなし 3252 久かたの都を置きて草枕旅ゆく君をいつとか待たむ      柿本朝臣人麿が歌集(うたのふみ)の歌に曰く、 3253 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国    然れども 言挙げぞ吾(あ)がする 言幸く ま幸くませと    障(つつ)みなく 幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと    五百重波(いほへなみ) 千重波しきに 言挙げぞ吾(あ)がする 反し歌 3254 磯城島の大和の国は言霊(ことたま)の佐(たす)くる国ぞ真福(まさき)くありこそ      右五首(いつうた)。 3255 古よ 言ひ継ぎ来(く)らく 恋すれば 安からぬものと    玉の緒の 継ぎては言へど 処女らが 心を知らに    そを知らむ よしの無ければ 夏麻(なつそ)びく 思ひなづみ    刈薦(かりこも)の 心もしぬに 人知れず もとなそ恋ふる 息の緒にして 反し歌 3256 しばしばに思はず人はあらめどもしましくも吾(あ)は忘らえぬかも 3257 直(ただ)に来ずこよ巨勢道(こせぢ)から石橋(いはばし)踏みなづみぞ吾(あ)が来し恋ひてすべなみ      或ル本、此歌一首ヲ以テ、紀ノ国ノ浜ニ寄ルチフ鮑玉      拾(ヒリ)ヒニト言ヒテ行キシ君イツ来マサム、チフ歌ノ反歌      ナリトス。具ニハ下ニ見エタリ。但シ古本ニヨリテ亦      茲ニ累載ス。      右三首。 3258 あら玉の 年は来去りて 玉づさの 使の来ねば    霞立つ 長き春日を 天地に 思ひ足らはし    たらちねの 母の飼ふ蚕(こ)の 繭隠(まよごも)り 息づき渡り    吾(あ)が恋ふる 心のうちを 人に言はむ ものにしあらねば    松が根の 待つこと遠み 天伝ふ 日の暮れぬれば    白妙の 我が衣手も 通りて濡れぬ 反し歌 3259 かくのみし相思(も)はざらば天雲の外(よそ)にそ君はあるべくありける      右二首。 3260 小治田(をはりた)の 年魚道(あゆち)の水を    間無くそ 人は汲むちふ 時じくそ 人は飲むちふ    汲む人の 間無きがごと 飲む人の 時じきがごと    我妹子に 吾(あ)が恋ふらくは やむ時もなし 反し歌 3261 思ひ遣るすべのたづきも今は無し君に逢はずて年の経ぬれば 或る本(まき)の反し歌に曰く 3262 瑞垣(みづかき)の久しき時よ恋すれば吾(あ)が帯緩ぶ朝宵ごとに      右三首。 3263 隠国(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の川の    上つ瀬に 斎杭(いくひ)を打ち 下つ瀬に 真杭を打ち    斎杭には 鏡を懸け 真杭には 真玉を懸け    真玉なす 吾(あ)が思(も)ふ妹も 鏡なす 吾(あ)が思(も)ふ妹も    ありと いはばこそ 国にも 家にも行かめ 誰が故か行かむ      古事記ヲ検ルニ曰ク、件ノ歌ハ、木梨之輕太子、自ラ      死(ミマカ)レル時ニ作メリト。 反し歌 3264 年渡るまてにも人はありちふをいつの間(あひだ)そも吾(あれ)恋ひにける 或る書(ふみ)の反し歌に曰く 3265 世の中を憂(う)しと思ひて家出せる吾(あれ)や何にか還りてならむ      右三首。 3266 春されば 花咲き撓(をを)り 秋づけば 丹の秀(ほ)に黄葉(もみ)つ    味酒(うまさけ)を 神奈備山の 帯にせる 明日香の川の    速き瀬に 生ふる玉藻の 打ち靡き 心は寄りて    朝露の 消(け)なば消ぬべく 恋ふらくも しるくも逢へる    隠(こも)り妻かも 反し歌 3267 明日香川瀬々の玉藻の打ち靡き心は妹に寄りにけるかも      右二首。 3268 三諸(みもろ)の 神奈備山ゆ との曇り 雨は降り来ぬ    天霧(あまぎ)らひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原ゆ    思(しぬ)ひつつ 帰りにし人 家に至りきや 反し歌 3269 帰りにし人を思ふとぬば玉のその夜は吾(あれ)も眠(い)も寝かねてき      右二首。 3270 点(さ)し焼かむ 小屋(をや)の醜屋(しきや)に かき棄(う)てむ 破薦(やれこも)を敷きて    打ち折らむ 醜(しこ)の醜手(しきて)を さし交(か)へて 寝(ぬ)らむ君ゆゑ    あかねさす 昼はしみらに ぬば玉の 夜はすがらに    この床の ひしと鳴るまで 嘆きつるかも 反し歌 3271 我が心焼くも吾(あれ)なり愛(は)しきやし君に恋ふるも我が心から      右二首。 3272 うちはへて 思ひし小野は 遠からぬ その里人(さどひと)の    標結ふと 聞きてし日より 立たまくの たづきも知らず    居らまくの 奥処(おくか)も知らず 親(にき)びにし 吾(あ)が家すらを    草枕 旅寝のごとく 思ふそら 安からぬものを    嘆くそら 過ぐし得ぬものを 天雲の ゆくらゆくらに    葦垣の 思ひ乱れて 乱れ麻(を)の 麻笥(をけ)を無みと    吾(あ)が恋ふる 千重の一重も 人知れず もとなや恋ひむ 息の緒にして 反し歌 3273 二つなき恋をしすれば常の帯を三重結ぶべく我が身はなりぬ      右二首。 3274 白たへの 我が衣手を 折り返し 独りし寝(ぬ)れば    ぬば玉の 黒髪敷きて 人の寝(ぬ)る 味眠(うまい)は寝ずて    大舟の ゆくらゆくらに 思ひつつ 吾(あ)が寝(ぬ)る夜らを    数(よ)みもあへむかも 反し歌 3275 一人寝(ぬ)る夜を数へむと思へども恋の繁きに心神(こころと)もなし      右二首。 3276a あしひきの 山田の道を 敷妙の 愛(うつく)し妻と    物言はず 別れし来れば 早川の 行方も知らず    衣手の 帰るも知らに 馬じもの 立ちてつまづき 3276b 為むすべの たづきを知らに もののふの 八十の心を    天地に 思ひ足らはし 魂(たま)合はば 君来ますやと    吾(あ)が嘆く 八尺(やさか)の嘆き 玉ほこの 道来る人の    立ち止り いかにと問はば 言ひ遣らむ たづきを知らに    さ丹頬(にづら)ふ 君が名言はば 色に出て 人知りぬべみ    あしひきの 山より出づる 月待つと 人には言ひて 君待つ我を 反し歌 3277 眠(い)をも寝ず吾(あ)が思(も)ふ君はいづくへに今宵いませか待てど来まさぬ      右二首。 3278 赤駒の 厩(うまや)立て 黒駒の 厩立てて    そを飼ひ 吾(あ)が行くごとく 思ひ妻 心に乗りて    高山の 峯のたをりに 射目(いめ)立てて 鹿猪(しし)待つごとく    常(とこ)しくに 吾(あ)が待つ君を 犬な吠えそね 反し歌 3279 葦垣の末かき分けて君越ゆと人にな告げそ事はたな知れ      右二首。 3280 我が背子は 待てど来まさず 天の原 振り放け見れば    ぬば玉の 夜も更けにけり さ夜更けて あらしの吹けば    立ち待つに 我が衣手に 降る雪は 凍りわたりぬ    今更に 君来まさめや さな葛 後も逢はむと    慰むる 心を持ちて み袖もち 床打ち払ひ    うつつには 君には逢はじ 夢にだに 逢ふと見えこそ 天の足り夜に 或る本の歌に曰く 3281 我が背子は 待てど来まさず 雁が音も 響(とよ)みて寒し    ぬば玉の 夜も更けにけり さ夜更くと あらしの吹けば    立ち待つに 我が衣手に 置く霜も 氷(ひ)に冴えわたり    降る雪も 凍りわたりぬ 今更に 君来まさめや    さな葛 後も逢はむと 大舟の 思ひ頼めど    うつつには 君には逢はじ 夢にだに 逢ふと見えこそ 天の足り夜に 反し歌 3282 衣手にあらしの吹きて寒き夜を君来まさずは独りかも寝む 3283 今更に恋ふとも君に逢はめやも寝(ぬ)る夜を落ちず夢に見えこそ      右四首。 3284 菅の根の ねもころごろに 吾(あ)が思(も)へる 妹によりてば    言の忌みも 無くありこそと 斎瓮(いはひへ)を 斎ひ掘り据ゑ    竹玉(たかたま)を 間なく貫(ぬ)き垂り 天地の 神をそ吾(あ)が祈(の)む    いたもすべなみ 反し歌 3285 たらちねの母にも告(の)らず包めりし心はよしゑ君がまにまに 或る本の歌に曰く 3286 玉たすき 懸けぬ時なく 吾(あ)が思(も)へる 君によりてば    倭文幣(しづぬさ)を 手に取り持ちて 竹玉を 繁(しじ)に貫き垂り    天地の 神をそ吾(あ)が乞ふ いたもすべなみ 反し歌 3287 天地の神を祈りて吾(あ)が恋ふる君に必ず逢はざらめやも 或る本の歌に曰く 3288 大船の 思ひ頼みて 松が根の いや遠長く    吾(あ)が思(も)へる 君によりてば 言の故も なくありこそと    木綿(ゆふ)たすき 肩に取り懸け 斎瓮(いはひへ)を 斎(いは)ひ掘り据ゑ    天地の 神にそ吾(あ)が祈(の)む いたもすべなみ      右五首。 3289 御佩(みはかし)を 剣の池の 蓮葉(はちすば)に 溜まれる水の    行方無み 吾(あ)がせし時に 逢ふべしと 卜(うら)へる君を    な寝(いね)そと 母聞こせども 我が心 清隅(きよすみ)の池の    池の底 吾(あれ)は忘れじ 直に逢ふまでに 反し歌 3290 いにしへの神の時より逢ひけらし今心にも常忘らえず      右二首。 3291 み吉野の 真木立つ山に 繁(しじ)に生ふる 山菅の根の    ねもころに 吾(あ)が思(も)ふ君は 大皇(おほきみ)の 任(まけ)のまにまに    夷離(ひなざか)る 国治めにと 群鳥(むらとり)の 朝立ちゆけば    後れたる 吾(あれ)か恋ひなむ 旅ならば 君か偲はむ    言はむすべ せむすべ知らに あしひきの 山の木末(こぬれ)に    はふ蔦の 別れのあまた 惜しくもあるかも 反し歌 3292 うつせみの命を長くありこそと留(とま)れる吾(あれ)は斎ひて待たむ      右二首。 3293 み吉野の 御金(みかね)の嶽(たけ)に 間(ま)なくぞ 雨は降るちふ    時じくそ 雪は降るちふ その雨の 間(ま)なきがごと    その雪の 時じきがごと 間(ま)もおちず 吾(あれ)はそ恋ふる    妹が正香(ただか)に 反し歌 3294 み雪降る吉野の嶽に居る雲のよそに見し子に恋ひ渡るかも      右二首。 3295 うちひさつ 三宅の原ゆ 直土(ひたつち)に 足踏みつらね    夏草を 腰になづみ 如何なるや 人の子ゆゑそ    通はすも吾子(あご) うべなうべな 母は知らず    うべなうべな 父は知らず 蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に    真木綿(まゆふ)もち あざさ結ひ垂り 大和の 黄楊(つげ)の小櫛を    抑へ刺す 敷妙の子は それそ吾(あ)が妻 反し歌 3296 父母に知らせぬ子ゆゑ三宅道の夏野の草をなづみ来(け)るかも      右二首。 3297 玉たすき 懸けぬ時なく 吾(あ)が思(も)へる 妹にし逢はねば    あかねさす 昼はしみらに ぬば玉の 夜はすがらに    眠(い)も寝ずに 妹に恋ふるに 生けるすべ無し 反し歌 3298 よしゑやし死なむよ我妹生けりともかくのみこそ吾(あ)が恋ひ渡りなめ      右二首。 3299 見渡しに 妹らは立たし この方に 吾(あれ)は立ちて    思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からなくに    さ丹(に)塗りの 小舟(をぶね)もがも 玉巻きの 小楫(をかぢ)もがも    榜ぎ渡りつつも 語らはましを      或ル本ノ歌ノ頭句ニ云ク、こもりくの 泊瀬の川の      彼方(をちかた)に 妹らは立たし この方に 我は立ちて。      右一首。 3300 押し照る 難波の崎に 引き上る 赤(あけ)のそほ舟    そほ舟に 綱(つな)取り懸け 引こづらひ あり否(な)みすれど    言ひづらひ あり否みすれど あり否み得ずぞ 言はれにし我が身      右一首。 3301 神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 朝凪に 来依る深海松(ふかみる)    夕凪に 来寄る俣海松(またみる) 深海松の 深めし吾(あれ)を    俣海松の また行き帰り 妻と 言はじとかも 思ほせる君      右一首。 3302 紀の国の 牟婁(むろ)の江の辺(べ)に 千年に 障(つつ)むことなく    万代(よろづよ)に かくしもあらむと 大舟の 思ひ頼みて 出立ちの 清き渚に    朝凪に 来依る深海松 夕凪に 来依る縄海苔(なはのり)    深海松の 深めし子らを 縄海苔の 引かば絶ゆとや    里人(さどひと)の 行きの集ひに 泣く子なす 行き取り探り    梓弓 弓腹(ゆはら)振り起し しのき羽を 二つ手挟(たばさ)み    放ちけむ 人し悔しも 恋ふらく思(も)へば      右一首。 3303 里人(さどひと)の 吾(あれ)に告ぐらく 汝(な)が恋ふる 愛(うつく)し夫(つま)は    もみち葉の 散り乱れたる 神奈備の その山辺から    ぬば玉の 黒馬(くろま)に乗りて 川の瀬を 七瀬渡りて    うらぶれて 夫(つま)は逢へりと 人そ告げつる 反し歌 3304 聞かずして黙(もだ)もあらましを何しかも君が正香(ただか)を人の告げつる      右二首。 問答(とひこたへのうた) 3305 物思(も)はず 道行きなむも 春山を 振り放け見れば    躑躅花 にほひ処女(をとめ) 桜花  栄え処女    汝(な)をそも 吾(あ)に寄すちふ 吾(あ)をそも 汝に寄すちふ    荒山も 人し寄すれば 寄そるとぞいふ 汝が心ゆめ 反し歌 3306 如何にして恋やむものぞ天地の神を祈れど吾(あ)は思ひ益す 3307 しかれこそ 年の八年(やとせ)を 切る髪の 我が肩を過ぎ    橘の ほつ枝を過ぎて この川の 下にも長く 汝が心待て 反し歌 3308 天地の神をも吾(あれ)は祈りてき恋ちふものはかつて止まずけり 柿本朝臣人麿が集(うたのふみ)の歌に云く 3309 物思(も)はず 道行きなむも 春山を 振り放け見れば    躑躅花(つつじはな) にほえ処女(をとめ) 桜花 栄え処女    汝(な)をぞも 吾(あ)に寄すちふ 吾(あ)をぞも 汝に寄すちふ    汝は如何に思(も)ふや 思へこそ 年の八年(やとせ)を    切る髪の 吾(あ)が肩を過ぎ 橘の ほつ枝を過ぐり    この川の 下にも長く 汝が心待て      右五首。 3310 隠国(こもりく)の 泊瀬の国に さよばひに 吾(あ)が来れば    たな曇り 雪は降り来ぬ さ曇り 雨は降り来ぬ    野つ鳥 雉(きぎし)は響(とよ)む 家つ鳥 鶏(かけ)も鳴く    さ夜は明け この夜は明けぬ 入りて吾(あ)が寝む この戸開かせ 反し歌 3311 隠国の泊瀬小国(をくに)に妻しあれば石は踏めども猶し来にける 3312 隠国の 泊瀬小国 よばひせす 吾が背の君よ    奥床に 母は寝たり 外床(ととこ)に 父は寝たり    起き立たば 母知りぬべし 出で行かば 父知りぬべし    ぬば玉の 夜は明けゆきぬ ここだくも 思はぬごとく 隠(しぬ)ふ妻かも 反し歌 3313 川の瀬の石踏み渡りぬば玉の黒馬(くろま)の来(く)夜は常にあらぬかも      右四首。 3314 つぎねふ 山背道(やましろぢ)を 人夫(づま)の 馬より行くに    己夫(おのづま)の 徒歩(かち)より行けば 見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ    そこ思(も)ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と    吾(あ)が持たる まそみ鏡に 蜻蛉領巾(あきづひれ) 負ひ並め持ちて    馬買へ我が背 反し歌 3315 泉川渡り瀬深み我が背子が旅行き衣(ごろも)裳(も)濡らさむかも 或る本(まき)の反し歌に曰く 3316 真澄鏡持てれど吾(あれ)は験(しるし)無し君が徒歩よりなづみ行く見れば 3317 馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも吾(あ)は二人行かむ      右四首。 3318 紀の国の 浜に寄るちふ 鮑玉(あはびたま) 拾(ひり)はむと言ひて    妹の山 背の山越えて 行きし君 いつ来まさむと    玉ほこの 道に出で立ち 夕卜(ゆふうら)を 吾(あ)が問ひしかば    夕卜の 吾(あれ)に告(の)らく 我妹子や 汝(な)が待つ君は    沖つ波 来依す白玉 辺つ波の 寄する白玉    求むとそ 君が来まさぬ 拾(ひり)ふとそ 君は来まさぬ    久ならば いま七日(なぬか)ばかり 早からば いま二日ばかり    あらむとそ 君は聞こしし な恋ひそ我妹 反し歌 3319 杖衝き衝かずも吾(あれ)は行かめども君が来まさむ道の知らなく 3320 直(ただ)に行かずこゆ巨勢道(こせぢ)から石瀬踏み求めそ吾(あ)が来し恋ひてすべなみ 3321 さ夜更けて今は明けぬと戸ひらきて紀へ行く君をいつとか待たむ 3322 門に居(を)る娘子(をとめ)は内に至るともいたくし恋ひば今帰り来む      右五首。 譬喩歌(たとへうた) 3323 しなたつ 筑摩(つくま)狭額田(さぬかた) 息長(おきなが)の 越智の小菅    編まなくに い刈り持ち来(き) 敷かなくに い刈り持ち来て    置きて 吾(あれ)を偲はむ 息長の 越智の小菅      右一首。 挽歌(かなしみうた) 3324 かけまくも あやに畏(かしこ)し 藤原の 都しみみに    人はしも 満ちてあれども 君はしも 多くいませど    往き易(かは)る 年の緒長く 仕へ来し 君の御門を    天のごと 仰ぎて見つつ 畏けど 思ひ頼みて    いつしかも 我が大王の 天の下 しろしいまして    望月の 満(たたは)しけむと 吾(あ)が思(も)へる 皇子の尊は    春されば 植槻(うゑつき)が上の 遠つ人 松の下道(したぢ)ゆ    登らして 国見遊ばし 九月(ながつき)の しぐれの秋は    大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負ひて 靡ける萩を    玉たすき 懸けて偲はし み雪降る 冬の朝(あした)は    刺し柳 根張り梓を 大御手に 取らし賜ひて    遊ばしし 我が大王を 煙(けぶり)立つ 春の日暮らし    真澄鏡(まそかがみ) 見れど飽かねば 万代に かくしもがもと    大船の 頼める時に 吾(あ)が涙 目かも惑はす    大殿を 振り放け見れば 白たへに 飾りまつりて    内日さす 宮の舎人は 栲(たへ)の秀(ほ)の 麻衣(あさきぬ)着(け)るは    夢かも 現前(うつつ)かもと 曇り夜の 惑へるほとに    麻裳よし 城上(きのへ)の道ゆ つぬさはふ 磐余(いはれ)を見つつ    神葬(かむはふ)り 葬りまつれば 行く道の たづきを知らに    思へども 験(しるし)を無み 嘆けども 奥処(おくか)を無み    御袖もち 触(ふ)りてし松を 言問はぬ 木にはあれども    あら玉の 立つ月ごとに 天の原 振り放け見つつ    玉たすき 懸けて偲はな 畏かれども 反し歌 3325 つぬさはふ磐余の山に白たへに懸かれる雲は大君ろかも      右二首。 3326 磯城島の 大和の国に 如何さまに 思ほしめせか    連れもなき 城上(きのへ)の宮に 大殿を 仕へ奉りて    殿隠(とのごも)り 隠(こも)りいませば 朝(あした)には 召して遣はし    夕へには 召して遣はし 遣はしし 舎人の子らは    行く鳥の 群れて侍(さもら)ひ あり待てど 召し賜はねば    剣大刀 磨ぎし心を 天雲に 思ひ散(はふ)らし    臥(こ)いまろび ひづち哭けども 飽き足らぬかも      右一首。 3327 百小竹(ももしぬ)の 三野(みぬ)の王(おほきみ) 西の厩 立てて飼ふ駒    東(ひむかし)の厩 立てて飼ふ駒 草こそは 取りて飼ひなめ    水こそは 汲みて飼ひなめ 何しかも 葦毛の馬の 嘶(いば)え立ちつる 反し歌 3328 衣手を葦毛の馬の嘶(いば)ゆ声心あれかも常ゆ異(け)に鳴く      右二首。 3329a 白雲の 棚引く国の 青雲の 向伏(むかぶ)す国の    天雲の 下なる人は 吾(あ)のみかも 君に恋ふらむ    吾(あれ)のみし 君に恋ふれば 3329b 天地に 満ち足らはして 恋ふれかも 胸の病める    思へかも 心の痛き 吾(あ)が恋ぞ 日に異(け)にまさる    いつはしも 恋ひぬ時とは あらねども この九月を    我が背子が 偲ひにせよと 千代にも 偲ひ渡れと    万代に 語り継がへと 始めてし この九月の    過ぎまくを いたもすべなみ あら玉の 月の変れば    せむすべの たどきを知らに 岩が根の こごしき道の    岩床の 根延(は)へる門に 朝(あした)には 出で居て嘆き    夕へには 入り居恋ひつつ 3329c ぬば玉の 黒髪敷きて 人の寝(ぬ)る 味寝(うまい)は寝ずに    大船の ゆくらゆくらに 思ひつつ 吾(あ)が寝(ぬ)る夜らは    数(よ)みもあへぬかも      右一首。 3330 隠国の 泊瀬の川の 上つ瀬に 鵜を八つ潜(かづ)け    下つ瀬に 鵜を八つ潜け 上つ瀬の 鮎を食はしめ    下つ瀬の 鮎を食はしめ 麗(くは)し妹に 副(たぐ)ひてましを    投ぐるさの 遠ざかり居て 思ふそら 安からなくに    嘆くそら 安からなくに 衣こそは それ破(や)れぬれば    縫ひつつも またも合ふといへ 玉こそは 緒の絶えぬれば    縛(くく)りつつ またも合ふといへ またも 逢はぬものは 妹にしありけり 3331 隠国の 泊瀬の山 青陸田(あをはた)の 忍坂(をさか)の山は    走出(わしりで)の 宜しき山の 出立ちの 妙(くは)しき山ぞ    惜(あたら)しき 山の 荒れまく惜しも 3332 高山と 海とこそは 山ながら かくも現(うつ)しく    海ながら しかも直(ただ)ならめ 人は 花ものそ うつせみの世人      右三首。 3333 大王の 命畏み 蜻蛉島 大和を過ぎて    大伴の 御津の浜辺ゆ 大舟に 真梶しじ貫(ぬ)き    朝凪に 水手(かこ)の声喚び 夕凪に 梶の音(と)しつつ    行きし君 いつ来まさむと 幣(ぬさ)置きて 斎(いは)ひ渡るに    狂言(たはこと)や 人の言ひつる 我が心 筑紫の山の    もみち葉の 散り過ぎにしと 君が正香(ただか)を 反し歌 3334 狂言や人の言ひつる玉の緒の長くと君は言ひてしものを      右二首。 3335 玉ほこの 道行く人は あしひきの 山行き野行き    直(ただ)渡り 川行き渡り 鯨魚(いさな)取り 海道に出でて    畏きや 神の渡は 吹く風も 和(のど)には吹かず    立つ波も  疎(おほ)には立たず 敷波の 立ち塞(さ)ふ道を    誰が心 いとほしとかも 直渡りけむ 3336 鳥が音も 聞こえぬ海に 高山を 隔てになして    沖つ藻を 枕になして 蜻蛉羽(あきづは)の 衣だに着ずに    鯨魚取り 海の浜辺に 心(うら)もなく 寝(いね)たる人は    母父(おもちち)に 愛子(まなご)にかあらむ 若草の 妻かあるらむ    思ほしき 言伝てむやと 家問へば 家をも告らず    名を問へど 名だにも告らず 泣く子なす 言だに問はず    思へども 悲しきものは 世の中にあり 反し歌 3337 母父も妻も子どもも高々に来むと待つらむ人の悲しさ 3338 あしひきの山道は行かむ風吹けば波の立ち塞ふ海道は行かじ 或る本の歌 備中国(きびのみちのなかのくに)神島の浜にて調使首(つきのおみ)が屍(しかばね)を見てよめる歌一首(ひとつ)、また短歌(みじかうた) 3339 玉ほこの 道に出で立ち あしひきの 野行き山行き    直(ただ)渉り 川行き渡り 鯨魚取り 海道に出でて    吹く風も おほには吹かず 立つ波も のどには立たず    恐(かしこ)きや 神の渡の 敷波の 寄する浜辺に    高山を 隔てに置きて 浦沙(うらす)を 枕に巻きて    うらもなく 臥やせる君は 母父の 愛子にもあらむ    若草の 妻もあらむと 家問へど 家道も言はず    名を問へど 名だにも告らず 誰が言を いとほしみかも    敷波の 恐き海を 直渉りけむ 反し歌 3340 母父も妻も子どもも高々に来むと待つらむ人の悲しさ 3341 家人の待つらむものを連れもなき荒磯を枕(ま)きて伏せる君かも 3342 浦沙(うらす)に臥(こ)やせる君を今日今日と来むと待つらむ妻し悲しも 3343 浦波の来寄する浜に連れもなく臥(こ)やせる君が家道知らずも      右九首(ここのうた)。 3344 この月は 君来まさむと 大舟の 思ひ頼みて    いつしかと 吾(あ)が待ち居れば もみち葉の 過ぎて行きぬと    玉づさの 使の言へば 蛍なす ほのかに聞きて    天地を 乞ひ祈(の)み嘆き 立ちて居て 行方も知らに    朝霧の 思ひ惑ひて 杖足らず 八尺(やさか)の嘆き    嘆けども 験(しるし)を無みと いづくにか 君がまさむと    天雲の 行きのまにまに 射ゆ鹿猪(しし)の 行きも死なむと    思へども 道の知らねば 独り居て 君に恋ふるに 哭(ね)のみし泣かゆ 反し歌 3345 葦辺行く雁の翼を見るごとに君が帯ばしし投矢(なぐや)し思ほゆ      右二首。但シ或ヒト云ク、此ノ短歌ハ防人ノ妻ガ作メル也。然レバ長歌モ亦      此ノ同作ナリト知ルベシ。 3346 見さくれば 雲居に見ゆる 愛(うるは)しき 十羽(とは)の松原    童(わらは)ども いざわ出で見む こと避(さ)かば 国に離(さ)かなむ    こと避(さ)かば 家に離(さ)かなむ 天地の 神し恨めし    草枕 この旅の日(け)に 妻離(さ)くべしや 反し歌 3347 草枕この旅の日(け)に妻離(さか)り家道思ふに生かむすべ無し      或ル本ノ歌ニ曰ク、旅の日(け)にして。      右二首。 -------------------------------------------------------- .巻第十四(とをまりよまきにあたるまき) 東歌(あづまうた) 雑歌(くさぐさのうた) 3348 夏麻(なつそ)びく海上潟(うなかみがた)の沖つ洲に船は留めむさ夜更けにけり      右の一首(ひとうた)は、上総(かみつふさ)の国の歌。 3349 葛飾(かづしか)の真間の浦廻(うらみ)を榜ぐ船の船人騒く波立つらしも      右の一首は、下総(しもつふさ)の国の歌。 3350 筑波嶺(つくはね)の新桑繭(にひぐはまよ)の衣はあれど君が御衣(みけし)しあやに着欲しも      或ル本ノ歌ニ曰ク、たらちねの。又云ク、あまた着欲しも。 3351 筑波嶺に雪かも降らる否諾(いなを)かも愛(かな)しき子ろが布(にぬ)干さるかも      右の二首(ふたうた)は、常陸の国の歌。 3352 信濃(しなぬ)なる菅(すが)の荒野(あらの)にほととぎす鳴く声聞けば時過ぎにけり      右の一首は、信濃の国の歌。 相聞(したしみうた) 3353 あら玉の伎倍(きへ)の林に汝(な)を立てて行きかつましも寝(い)を先立たね 3354 伎倍人の斑衾(まだらぶすま)に綿さはだ入りなましもの妹が小床(をどこ)に      右の二首は、遠江(とほつあふみ)の国の歌。 3355 天の原富士の柴山木(こ)の暗(くれ)の時ゆつりなば逢はずかもあらむ 3356 富士の嶺(ね)のいや遠長き山道をも妹がりとへば気(け)に吟(よ)ばず来ぬ 3357 霞居る富士の山びに我が来なばいづち向きてか妹が歎かむ 3358 さ寝(ぬ)らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと      或ル本ノ歌ニ曰ク、     ま愛(かな)しみ寝(ぬ)らくしまらくさならくは伊豆の高嶺の鳴沢なすよ      一本ノ歌ニ曰ク、     逢へらくは玉の緒しけや恋ふらくは富士の高嶺に降る雪なすも 3359 駿河の海磯辺(おしへ)に生ふる浜つづら汝(いまし)を頼み母にたがひぬ 一ニ云ク、親にたがひぬ。      右の五首(いつうた)は、駿河の国の歌。 3360 伊豆の海に立つ白波のありつつも継ぎなむものを乱れ始(し)めめや      或ル本ノ歌ニ曰ク、白雲の絶えつつも継がむと思へや乱れそめけむ。      右の一首は、伊豆の国の歌。 3361 足柄の彼面此面(をてもこのも)にさす罠のか鳴る間静み子ろ吾(あれ)紐解く 3362 相模嶺(さがむね)の小峯見過(そ)ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾(あ)を音(ね)し泣くな      或ル本ノ歌ニ曰ク、     武藏嶺(むざしね)の小峰見隠し忘れ行く君が名懸けて吾(あ)を音し泣くる 3363 我が背子を大和へ遣りて待つ慕(した)す足柄山の杉の木の間か 3364 足柄(あしがら)の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを逢はなくもあやし      或ル本ノ歌ノ末ノ句ニ曰ク、延ふ葛(くず)の引かり寄り来ね下なほなほに。 3365 鎌倉の見越の崎の石崩(いはくえ)の君が悔ゆべき心は持たじ 3366 ま愛(かな)しみさ寝に我(わ)は行く鎌倉の美奈の瀬川よ潮満つなむか 3367 百(もも)づ島足柄小舟歩き多み目こそ離(か)るらめ心は思(も)へど 3368 足柄(あしがり)の土肥(とひ)の河内に出づる湯の世にもたよらに子ろが言はなくに 3369 あしがりの麻萬(まま)の子菅(こすげ)の菅枕(すがまくら)あぜか纏(ま)かさむ子ろせ手枕(たまくら) 3370 あしがりの箱根の嶺(ね)ろのにこ草の花妻なれや紐解かず寝む 3371 足柄(あしがら)の御坂かしこみ曇り夜の吾(あ)が下延(ば)へを言出(こちで)つるかも 3372 相模道(さがむぢ)の餘綾(よろき)の浜の真砂(まなご)なす子らは愛(かな)しく思はるるかも      右の十二首(とをまりふたうた)は、相模の国の歌。 3373 多摩川に曝す手作りさらさらに何そこの子のここだ愛(かな)しき 3374 武藏野(むざしぬ)に占(うら)へ肩焼き真実(まさて)にも告(の)らぬ君が名占に出にけり 3375 武藏野の小岫(をぐき)が雉(きぎし)立ち別れ去にし宵より夫(せ)ろに逢はなふよ 3376 恋しけば袖(そて)も振らむを武藏野のうけらが花の色に出(づ)なゆめ      或ル本ノ歌ニ曰ク、     いかにして恋ひばか妹に武藏野のうけらが花の色に出ずあらむ 3377 武藏野の草葉もろ向きかもかくも君がまにまに吾(あ)は寄りにしを 3378 入間道(いりまぢ)の大家(おほや)が原のいはゐづら引かばぬるぬる我(わ)にな絶えそね 3379 我が背子をあどかも言はむ武藏野のうけらが花の時なきものを 3380 埼玉(さきたま)の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね 3381 夏麻びく菟原(うなひ)をさして飛ぶ鳥の至らむとそよ吾(あ)が下延へし      右の九首(ここのうた)は、武藏の国の歌。 3382 馬来田(うまぐた)の嶺ろの笹葉の露霜の濡れて我(わ)来なば汝(な)は恋ふばそも 3383 馬来田の嶺ろに隠り居かくだにも国の遠かば汝が目欲りせむ      右の二首は、上総(かみつふさ)の国の歌。 3384 葛飾(かづしか)の真間の手兒名(てこな)をまことかも我に寄すとふ真間の手兒名を 3385 葛飾の真間の手兒名がありしかば真間の磯辺(おすひ)に波もとどろに 3386 にほ鳥の葛飾早稲(わせ)を饗(にへ)すともその愛(かな)しきを外(と)に立てめやも 3387 足(あ)の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ      右の四首(ようた)は、下総(しもつふさ)の国の歌。 3388 筑波嶺(つくはね)の嶺ろに霞居過ぎかてに息づく君を率(ゐ)寝て往(や)らさね 3389 妹が門いや遠そきぬ筑波山隠れぬほとに袖は振りてな 3390 筑波嶺にかか鳴く鷲の音(ね)のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに 3391 筑波嶺に背向(そがひ)に見ゆる葦穂山悪しかる咎(とが)もさね見えなくに 3392 筑波嶺の岩もとどろに落つる水世にもたゆらに我が思はなくに 3393 筑波嶺の彼面此面(をてもこのも)に守部(もりべ)据ゑ母は守(も)れども魂(たま)そ逢ひにける 3394 さ衣(ごろも)の小筑波嶺(をづくはね)ろの山の崎忘らえ来(こ)ばこそ汝(な)を懸けなはめ 3395 小筑波(をづくは)の嶺ろに月(つく)立し逢ひし夜は多(さはだ)なりぬをまた寝てむかも 3396 小筑波の茂き木の間よ立つ鳥の目ゆか汝を見むさ寝ざらなくに 3397 常陸なる浪逆(なさか)の海の玉藻こそ引けば絶えすれあどか絶えせむ      右の十首(とうた)は、常陸の国の歌。 3398 人皆の言は絶ゆとも埴科(はにしな)の石井の手児が言な絶えそね 3399 信濃道(しなぬぢ)は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に足踏ましなむ沓はけ我が背 3400 信濃なる千曲(ちぐま)の川の細石(さざれし)も君し踏みてば玉と拾はむ 3401 中麻奈(なかまな)に浮きをる船の榜ぎ出なば逢ふこと難し今日にしあらずは      右の四首は、信濃の国の歌。 3402 日の暮(ぐれ)に碓氷(うすひ)の山を越ゆる日は夫汝(せな)のが袖もさやに振らしつ 3403 吾(あ)が恋はまさかも悲し草枕多胡(たこ)の入野の奥も悲しも 3404 上毛野(かみつけぬ)安蘇の真麻屯(まそむら)かき抱(むだ)き寝(ぬ)れど飽かぬをあどか吾(あ)がせむ 3405 上毛野小野(をど)の多杼里(たどり)が川路にも子らは逢はなも独りのみして      或ル本ノ歌ニ曰ク、     上毛野小野(をぬ)の多杼里が川路にも夫汝は逢はなも見る人なしに 3406 上毛野佐野の茎立(くくたち)折りはやし吾(あれ)は待たむゑことし来ずとも 3407 上毛野真桑(まぐは)島門(しまど)に朝日さし眩(まきら)はしもな在りつつ見れば 3408 新田山(にひたやま)嶺にはつかなな我(わ)に寄そり間(はし)なる子らしあやに愛(かな)しも 3409 伊香保ろに天雲い継ぎ鹿沼(かぬま)づく人とおたはふいざ寝しめとら 3410 伊香保ろの傍(そひ)の榛原ねもころに奥をな兼ねそまさかし良かば 3411 多胡の嶺に寄せ綱延へて寄すれどもあに来(く)や沈石(しづし)その顔よきに 3412 上毛野久路保(くろほ)の嶺ろの葛葉がた愛(かな)しけ子らにいや離(ざか)り来も 3413 利根川の川瀬も知らず直(ただ)渡り波に逢ふのす逢へる君かも 3414 伊香保ろの八尺(やさか)の堰塞(ゐて)に立つ虹(ぬじ)の顕(あら)はろまてもさ寝をさ寝てば 3415 上毛野伊香保の沼に植ゑ小水葱(こなぎ)かく恋ひむとや種求めけむ 3416 上毛野可保夜(かほや)が沼のいはゐつら引かば靡(ぬ)れつつ吾(あ)をな絶えそね 3417 上毛野伊奈良の沼の大藺草(おほゐぐさ)よそに見しよは今こそまされ 柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出ヅ。 3418 上毛野佐野田の苗の群苗(むらなへ)にことは定めつ今は如何にせも 3419 伊香保夫(せ)よ奈可中次下思ひどろくまこそしつと忘れせなふも 3420 上毛野佐野の舟橋取り離し親は放(さ)くれど我(わ)は離(さか)るがへ 3421 伊香保嶺に雷(かみ)な鳴りそね我が上(へ)には故は無けども子らによりてそ 3422 伊香保風吹く日吹かぬ日ありと言へど吾(あ)が恋のみし時なかりけり 3423 上毛野伊香保の嶺ろに降ろ雪(よき)の行き過ぎかてぬ妹が家のあたり      右の二十二首(はたちまりふたうた)は、上野(かみつけぬ)の国の歌。 3424 下毛野(しもつけぬ)三鴨の山の子楢(こなら)のす目妙(まぐは)し子ろは誰が笥(け)か持たむ 3425 下毛野安蘇(あそ)の川原よ石踏まず空ゆと来(き)ぬよ汝(な)が心告(の)れ      右の二首は、下野(しもつけぬ)の国の歌。 3426 会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲(しぬ)ひにせむと紐結ばさね 3427 筑紫なるにほふ子ゆゑに陸奥(みちのく)の片依(かとり)処女(をとめ)の結ひし紐解く 3428 安太多良(あだたら)の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)のありつつも吾(あれ)は至らむ寝処(ねど)な去りそね      右の三首は、陸奥の国の歌。 譬喩歌(たとへうた) 3429 遠江(とほつあふみ)引佐細江(いなさほそえ)のみをつくし吾(あれ)を頼めて浅(あ)さましものを      右の一首は、遠江の国の歌。 3430 志太(しだ)の浦を朝榜ぐ船はよしなしに榜ぐらめかもよ寄し来ざるらめ      右の一首は、駿河の国の歌。 3431 足柄(あしがり)の安伎奈(あきな)の山に引こ船(ぶね)の後(しり)引かしもよここば来難(こがた)に 3432 足柄のわをかけ山の穀(かづ)の木の我(わ)を拐(かづ)さねもかづさかずとも 3433 薪伐(こ)る鎌倉山の木垂(こだ)る木をまつと汝が言はば恋ひつつやあらむ      右の三首は、相模の国の歌。 3434 上毛野安蘇山黒葛(つづら)野を広み延(は)ひにしものをあぜか絶えせむ 3435 伊香保ろの傍(そひ)の榛原(はりはら)我が衣(きぬ)に着(つ)き宜(よら)しもよ絹布(たへ)と思へば 3436 しらとほる小新田山(をにひたやま)の守(も)る山のうら枯れせなな常葉(とこは)にもがも      右の三首は、上野の国の歌。 3437 陸奥の安太多良(あだたら)真弓弾(はじ)き置きて撥(せ)らしめきなば弦(つら)著(は)かめかも      右の一首は、陸奥の国の歌。 雑歌(くさぐさのうた) 3438 都武賀野(つむがぬ)に鈴が音(おと)聞こゆ上志太(かむしだ)の殿の仲子(なかち)し鳥猟(とがり)すらしも      或ル本ノ歌ニ曰ク、美都我野(みつがぬ)に。又曰ク、若子(わくご)し。 3439 鈴が音(ね)の早馬駅(はゆまうまや)の堤井の水を賜へな妹が直手(ただて)よ 3440 この川に朝菜洗ふ子汝(なれ)も吾(あれ)も同輩児(よち)をそ持てるいで子賜(こたば)りに 一ニ云ク、汝(まし)も吾(あれ)も。 3441 ま遠くの雲居に見ゆる妹が家(へ)にいつか至らむ歩め吾(あ)が駒      柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ曰ク、遠くして。又曰ク、歩め黒駒。 3442 東道(あづまぢ)の田子の呼坂(よびさか)越えかねて山にか寝むも宿りは無しに 3443 うらもなく我が行く道に青柳の張りて立てれば物思(も)ひ出(で)つも 3444 伎波都久(きはつく)の岡の茎韮(くくみら)我摘めど籠(こ)にも満たなふ夫汝(せな)と摘まさね 3445 湊のや葦が中なる玉小菅刈り来(こ)我が背子床(とこ)の隔(へだ)しに 3446 妹なろが使ふ川津のささら荻葦と一如(ひとごと)語り宜(よら)しも 3447 草陰の安努野(あぬな)行かむと墾(は)りし道安努は行かずて荒草(あらくさ)だちぬ 3448 花散らふこの向つ峰(を)の小名(をな)の峰(を)のひじにつくまて君が代もがも 3449 白妙の衣の袖を真久良我(まくらが)よ海人榜ぎ来(く)見ゆ波立つなゆめ 3450 乎久佐男(をくさを)と乎具佐好男(をぐさずけを)と潮舟の並べて見れば乎具佐勝ちめり 3451 左奈都良(さなつら)の岡に粟蒔き愛(かな)しきが駒は揚(た)ぐとも我(わ)はそとも追(は)じ 3452 おもしろき野をばな焼きそ古草に新草まじり生ひは生ふるがに 3453 風の音(と)の遠き我妹(わぎも)が着せし衣袂の行(くだり)まよひ来にけり 3454 庭にたつ麻布小衾(あさてこぶすま)今宵だに夫(つま)寄しこせね麻布小衾 相聞(したしみうた) 3455 恋しけば来ませ我が背子垣内柳(かきつやぎ)末(うれ)摘み刈らし我立ち待たむ 3456 うつせみの八十言(やそこと)のへは繁くとも争ひかねて吾(あ)を言成すな 3457 うち日さす宮の我が夫(せ)は大和女(やまとめ)の膝枕(ま)くごとに吾(あ)を忘らすな 3458 汝兄(なせ)の子や鳥の岡道(おかぢ)し中手折(だを)れ吾(あ)を音(ね)し泣くよ息(いく)づくまてに 3459 稲舂けば皹(かか)る吾(あ)が手を今宵もか殿の若子(わくご)が取りて嘆かむ 3460 誰(たれ)そこの屋の戸押そぶる新嘗(にふなみ)に我が夫(せ)を遣りて斎(いは)ふこの戸を 3461 あぜと言へか実(さね)に逢はなくに真日暮れて宵なは来(こ)なに明けぬ時(しだ)来る 3462 あしひきの山澤人(やまさはびと)の人多(さは)に愛(まな)と言ふ子があやに愛(かな)しさ 3463 ま遠くの野にも逢はなむ心なく里のみ中に逢へる夫汝(せな)かも 3464 人言の繁きによりて真小薦(まをごも)の同(おや)じ枕は我(わ)は纏(ま)かじやも 3465 高麗錦紐解き放けて寝(ぬ)るが上(へ)にあどせろとかもあやに愛(かな)しき 3466 ま憐(かな)しみ寝(ぬ)れば言に出(づ)さ寝なへば心の緒ろに乗りてかなしも 3467 奥山の真木の板戸(いたと)をとどとして我が開かむに入り来て寝(な)さね 3468 山鳥の尾ろのはつ尾に鏡懸け唱ふべみこそ汝(な)に寄そりけめ 3469 夕占(ゆふけ)にも今宵と告(の)らろ我が夫汝(せな)はあぜそも今宵依(よし)ろ来まさぬ 3470 相見ては千年やいぬる否をかも吾(あれ)やしか思(も)ふ君待ちがてに 柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出ヅ。 3471 しまらくは寝つつもあらむを夢(いめ)のみにもとな見えつつ吾(あ)を音(ね)し泣くる 3472 人妻とあぜかそを言はむ然らばか隣の衣を借りて着なはも 3473 佐野山に打つや斧音(をのと)の遠かども寝もとか子ろが面に見えつる 3474 植竹の本さへ響(とよ)み出でて去(い)なばいづし向きてか妹が嘆かむ 3475 恋ひつつも居らむとすれど木綿間山(ゆふまやま)隠れし君を思ひかねつも 3476 うべ子汝(な)は我(わ)ぬに恋ふなも立と月(つく)の流(ぬが)なへ行けば恋(こふ)しかるなも      或ル本ノ末ノ句ニ曰ク、ぬがなへ行けど我ぬ行がのへば 3477 東道の田子の呼坂越えて去なば吾(あれ)は恋ひむな後は逢ひぬとも 3478 遠しとふ故奈(こな)の白嶺(しらね)に逢ほ時(しだ)も逢はのへ時(しだ)も汝にこそ寄され 3479 安可見山(あかみやま)草根刈り除(そ)け逢はすが上(へ)争ふ妹しあやに愛(かな)しも 3480 大王(おほきみ)の命(みこと)かしこみ愛(かな)し妹が手枕離れ徭役(よだ)ち来(き)ぬかも 3481 あり衣のさゑさゑしづみ家の妹に物言はず来にて思ひ苦(ぐる)しも 柿本朝臣人麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。上ニ見エタルコト已ニ記セリ。 3482 韓衣(からころも)裾の打交(うちかへ)逢はねども異(け)しき心を吾(あ)が思(も)はなくに      或ル本ノ歌ニ曰ク、     韓衣裾の打交(うちかひ)逢はなへば寝なへのからに言痛(ことた)かりつも 3483 昼解けば解けなへ紐の我が夫汝(せな)に相依るとかも夜解けやする 3484 麻苧(あさを)らを麻笥(をけ)に多(ふすさ)に績(う)まずとも明日来(き)せざめやいざせ小床に 3485 剣大刀(つるぎたち)身に添ふ妹を取り見がね音をそ泣きつる手児(てこ)にあらなくに 3486 愛(かな)し妹を弓束(ゆづか)並(な)べ向(ま)き如己男(もころを)のこととし言はばいや勝たましに 3487 梓弓末にたままきかくすすそ寝なな成りにし奥を兼ぬ兼ぬ 3488 大楚(おふしもと)この本山の真吝(ましは)にも告らぬ妹が名兆(かた)に出でむかも 3489 梓弓欲良(よら)の山辺の繁(しが)かくに妹ろを立ててさ寝処(ねど)払ふも 3490 梓弓末は寄り寝むまさかこそ人目を多み汝を間(はし)に置けれ 柿本朝臣人麻呂ノ歌集ノ中ニ出ヅ。 3491 柳こそ伐(き)れば生えすれ世の人の恋に死なむを如何にせよとそ 3492 小山田の池の堤にさす柳成りも成らずも汝と二人はも 3493 遅速(おそはや)も汝をこそ待ため向つ峰(を)の椎の小枝(こやで)の逢ひは違(たけ)はじ      或ル本ノ歌ニ曰ク、     遅速も君をし待たむ向つ峰の椎のさ枝の時は過ぐとも 3494 兒持山(こもちやま)若鶏冠木(わかかへるで)の黄葉(もみ)つまて寝もと我(わ)は思(も)ふ汝はあどか思(も)ふ 3495 伊香保(いはほ)ろの傍(そひ)の若松限りとや君が来まさぬ心許(うらもと)無くも 3496 橘の古婆(こば)の放髪(はなり)が思ふなむ心愛(うつ)くしいで吾(あれ)は行かな 3497 川上の根白高草(ねじろたかがや)あやにあやにさ寝さ寝てこそ言に出にしか 3498 海原(うなはら)の萎柔(ねやはら)子菅あまたあれば君は忘らす我忘るれや 3499 岡に寄せ我が刈る草(かや)のさ萎草(ねかや)のまこと柔(なご)やは寝ろと言(へ)なかも 3500 紫草(むらさき)は根をかも終ふる人の子のうら愛(がな)しけを寝を終へなくに 3501 安波峰(あはを)ろの峰(を)ろ田に生はるたはみづら引かばぬるぬる吾(あ)を言な絶え 3502 我が目妻人は放(さ)くれど朝顔の年副(さ)へこごと我(わ)は離(さか)るがへ 3503 安齊可潟(あせかがた)潮干の寛(ゆた)に思へらばうけらが花の色に出めやも 3504 春へ咲く藤の末葉(うらば)の心安(うらやす)にさ寝(ぬ)る夜そ無き子ろをし思(も)へば 3505 うちひさつ美夜能瀬川(みやのせがは)の容花(かほばな)の恋ひてか寝(ぬ)らむ昨夜(きそ)も今宵も 3506 新室(にひむろ)の蚕時(こどき)に至ればはたすすき穂に出し君が見えぬこの頃 3507 谷狭(せば)み峰に延(は)ひたる玉かづら絶えむの心我が思(も)はなくに 3508 芝付(しばつき)の御浦崎なるねつこ草あひ見ずあらば吾(あれ)恋ひめやも 3509 栲衾(たくぶすま)白山(しらやま)風の寝なへども子ろが襲着(おそき)の有ろこそ善(え)きも 3510 み空ゆく雲にもがもな今日行きて妹に言問ひ明日帰り来む 3511 青嶺(あをね)ろに棚引く雲のいさよひに物をそ思ふ年のこの頃 3512 一嶺ろに言はるものから青嶺ろにいさよふ雲の寄そり妻はも 3513 夕さればみ山を去らぬ布雲(にのぐも)のあぜか絶えむと言ひし子ろはも 3514 高き嶺に雲の著(つ)くのす我さへに君に著きなな高嶺と思(も)ひて 3515 吾(あ)が面(おも)の忘れむ時(しだ)は国溢(はふ)り嶺に立つ雲を見つつ偲(しぬ)はせ 3516 對馬の嶺は下雲あらなふ上(かむ)の嶺に棚引く雲を見つつ偲はも 3517 白雲の絶えにし妹をあぜせろと心に乗りてここば悲しけ 3518 岩の上(へ)にいがかる雲のかぬまづく人そおたはふいざ寝しめとら 3519 汝が母に嘖(こ)られ吾(あ)は行く青雲の出で来(こ)我妹子相見て行かむ 3520 面形(おもかた)の忘れむしだは大野ろに棚引く雲を見つつ偲はむ 3521 烏とふ大嘘鳥(おほおそどり)の真実(まさて)にも来まさぬ君を子ろ来(く)とそ鳴く 3522 昨夜(きそ)こそは子ろとさ寝しか雲の上ゆ鳴きゆく鶴(たづ)の間遠く思ほゆ 3523 坂越えて阿倍の田の面(も)に居る鶴(たづ)のともしき君は明日さへもがも 3524 真小薦(まをごも)の結(ふ)のみ近くて逢はなへば沖つ真鴨の嘆きそ吾(あ)がする 3525 水久君沼(みくくぬ)に鴨の匍(は)ほのす子ろが上に言おろ延へていまだ寝なふも 3526 沼二つ通は鳥が巣吾(あ)が心二行くなもとな思はりそね 3527 沖に住も小鴨のもころ八尺鳥(やさかどり)息づく妹を置きて来ぬかも 3528 水鳥の立たむ装(よそ)ひに妹のらに物言はず来にて思ひかねつも 3529 鳥矢(とや)の野に兎(をさぎ)ねらはりをさをさも寝なへ子ゆゑに母に嘖(ころ)ばえ 3530 さ牡鹿の臥すや草叢見えずとも子ろが金門(かなど)よ行かくしえしも 3531 妹をこそ相見に来しか眉引(まよびき)の横山辺ろの獣(しし)なす思へる 3532 春の野に草食(は)む駒の口やまず吾(あ)を偲ふらむ家の子ろはも 3533 人の子の愛(かな)しけ時(しだ)は浜洲鳥足悩(あなゆ)む駒の惜しけくもなし 3534 赤駒が門出をしつつ出でかてにせしを見立てし家の子らはも 3535 己が男(を)をおほにな思ひそ庭に立ち笑ますがからに駒に逢ふものを 3536 赤駒を打ちてさ緒引き心引きいかなる夫汝(せな)か我許(わがり)来むと言ふ 3537 垣(くへ)越しに麦食む駒のはつはつに相見し子らしあやにかなしも      或ル本ノ歌ニ曰ク、     馬柵(うませ)越し麦食む駒のはつはつに新肌触れし子ろしかなしも 3538 飜橋(ひろはし)を馬越しかねて心のみ妹がり遣りて我(わ)はここにして      或ル本ノ歌ノ発句ニ曰ク、小林(をはやし)に駒を馳ささげ。 3539 崖(あず)の上に駒を繋ぎて危(あや)ほかど人妻子ろを息に我がする 3540 左和多里(さわたり)の手児にい行き逢ひ赤駒が足掻きを速み言問はず来(き)ぬ 3541 崖辺(あずへ)から駒の行このす危(あや)はども人妻子ろをまゆかせらふも 3542 さざれ石に駒を馳させて心痛み吾(あ)が思(も)ふ妹が家のあたりかも 3543 むろがやの都留(つる)の堤の成りぬがに子ろは言へどもいまだ寝なくに 3544 飛鳥川下濁れるを知らずして夫汝(せな)なと二人さ寝て悔しも 3545 飛鳥川塞(せ)くと知りせばあまた夜も率寝(ゐね)て来(こ)ましを塞くと知りせば 3546 青柳の波良(はら)ろ川門に汝を待つと清水(せみど)は汲まず立ち処(ど)平(なら)すも 3547 あぢの棲む須沙の入江の隠沼(こもりぬ)のあな息づかし見ず久にして 3548 鳴瀬ろに木積(こつ)の寄すなすいとのきて愛(かな)しけ夫(せ)ろに人さへ寄すも 3549 手結潟(たゆひがた)潮満ちわたるいづゆかも愛しき夫(せ)ろが我許(わがり)通はむ 3550 押して否と稲は舂かねど波の穂のいたぶらしもよ昨夜(きそ)独り寝て 3551 味鎌(あぢかま)の潟に咲く波平瀬にも紐解くものか愛(かな)しけを置きて 3552 麻都(まつ)が浦に騒(さわ)ゑうら立ち真他言(まひとごと)思ほすなもろ我が思(も)ほのすも 3553 味鎌の可家(かけ)の湊に入る潮の言痛(こてた)けくもか入りて寝まくも 3554 妹が寝(ぬ)る床のあたりに岩泳(ぐく)る水にもがもよ入りて寝まくも 3555 真久良我(まくらが)の許我(こが)の渡の柄楫(からかぢ)の音高(だか)しもな寝なへ子ゆゑに 3556 潮船の置かれば悲しさ寝つれば人言繁し汝をどかもしむ 3557 悩ましけ人妻かもよ榜ぐ舟の忘れはせなないや思(も)ひ増すに 3558 逢はずして行かば惜しけむ真久良我(まくらが)の許賀(こが)榜ぐ船に君も逢はぬかも 3559 大船を舳(へ)ゆも艫(とも)ゆも堅めてし許曾(こそ)の里人あらはさめかも 3560 真金(まかね)吹く丹生(にふ)の真朱(まそほ)の色に出て言はなくのみそ吾(あ)が恋ふらくは 3561 金門田(かなとだ)を新掻(あらがき)まゆみ日が照(と)れば雨を待とのす君をと待とも 3562 荒磯辺(ありそへ)に生ふる玉藻の打ち靡き独りや寝(ぬ)らむ吾(あ)を待ちかねて 3563 比多潟(ひたがた)の磯の若布の立ち乱え我(わ)をか待つなも昨夜(きそ)も今宵も 3564 小菅ろの浦吹く風のあどすすか愛(かな)しけ子ろを思ひ過ごさむ 3565 彼の子ろと寝ずやなりなむ旗すすき浦野の山に月片寄るも 3566 我妹子に吾(あ)が恋ひ死なば其(そこ)をかも神に負ほせむ心知らずて 防人の歌 3567 置きて行かば妹はま悲し持ちて行く梓の弓の弓束(ゆつか)にもがも 3568 後れ居て恋ひば苦しも朝猟の君が弓にもならましものを      右の二首は、問答(とひこたへのうた)。 3569 防人に立ちし朝明(あさけ)の金門出(かなとで)に手放(たばな)れ惜しみ泣きし子らはも 3570 葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の寒き夕へし汝をば偲はむ 3571 己の妻を人の里に置きおほほしく見つつそ来ぬるこの道の間 譬喩歌(たとへうた) 3572 あど思(も)へか阿自久麻山(あじくまやま)の弓絃葉(ゆづるは)の含(ふふ)まる時に風吹かずかも 3573 あしひきの山葛蘿(やまかづらかげ)ましはにも得がたき蘿(かげ)を置きや枯らさむ 3574 小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれど末(うら)若みこそ 3575 美夜自(みやじ)ろの岡辺に立てる貌が花な咲き出でそね隠(こ)めて偲はむ 3576 苗代の子水葱(こなぎ)が花を衣に摺り馴るるまにまにあぜか愛(かな)しけ 挽歌(かなしみうた) 3577 かなし妹をいづち行かめと山菅の背向(そがひ)に寝しく今し悔しも      以前ノ歌詞、未ダ国土山川ノ名ヲ勘ヘ知ルコトヲ得ズ。 -------------------------------------------------------- .巻第十五(とをまりいつまきにあたるまき) 天平(てむひやう)八年(やとせといふとし)丙子(ひのえね)夏六月(みなつき)、新羅(しらき)の国に遣ひ使はさるる時、使人(つかひ)等、各(おのもおのも)別れを悲しみ贈り答へ、また海路(うみつぢ)にて情(こころ)を慟(かなし)み思ひを陳(の)べてよめる歌、また所につきて誦詠(うた)へる古き歌、一百四十五首(ももちまりよそいつつ) 3578 武庫(むこ)の浦の入江の洲鳥羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし 3579 大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましものを 3580 君が行く海辺の宿に霧立たば吾(あ)が立ち嘆く息と知りませ 3581 秋さらば相見むものを何しかも霧に立つべく嘆きしまさむ 3582 大船を荒海(あるみ)に出だしいます君障(つつ)むことなく早帰りませ 3583 ま幸(さき)くと妹が斎(いは)はば沖つ波千重に立つとも障(さは)りあらめやも 3584 別れなばうら悲しけむ吾(あ)が衣下にを着ませ直(ただ)に逢ふまてに 3585 我妹子(わぎもこ)が下にを着よと贈りたる衣の紐を吾(あれ)解かめやも 3586 我がゆゑに思ひな痩せそ秋風の吹かむその月逢はむものゆゑ 3587 栲衾(たくぶすま)新羅(しらき)へいます君が目を今日か明日かと斎ひて待たむ 3588 はろばろに思ほゆるかも然れども異(け)しき心を吾(あ)が思(も)はなくに      右の十一首(とをまりひとつ)は、贈答(おくりこたへのうた)。 3589 夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてそ吾(あ)が来る妹が目を欲り      右の一首(ひとうた)は、秦間滿(はたのはしまろ)。 3590 妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてそ吾(あ)が来る      右の一首は、竊(ひそ)かに私家(いへ)に還りて思ひを陳(の)ぶ。 3591 妹とありし時はあれども別れては衣手寒きものにそありける 3592 海原に浮寝せむ夜は沖つ風いたくな吹きそ妹もあらなくに 3593 大伴の御津に船(ふな)乗り榜ぎ出てはいづれの島に廬りせむ我      右の三首(みうた)は、発たむとする時よめる歌。 3594 潮待つとありける船を知らずして悔しく妹を別れ来にけり 3595 朝開き榜ぎ出て来れば武庫の浦の潮干の潟に鶴(たづ)が声すも 3596 我妹子が形見に見むを印南都麻(いなみづま)白波高みよそにかも見む 3597 わたつみの沖つ白波立ち来らし海人処女(あまをとめ)ども島隠る見ゆ 3598 ぬば玉の夜は明けぬらし玉の浦にあさりする鶴(たづ)鳴き渡るなり 3599 月読(つくよみ)の光を清み神島の磯廻(いそま)の浦ゆ船出す我は 3600 離れ磯(そ)に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも 3601 しましくも独りあり得るものにあれや島のむろの木離れてあるらむ      右の八首(やうた)は、船乗りして海つ路に入(いづ)る時よめる歌。 所につきて誦詠(うた)へる古き歌 3602 青丹よし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも      右の一首は、雲を詠める。 3603 青柳の枝伐り下ろし斎種(ゆたね)蒔き忌々(ゆゆ)しく君に恋ひ渡るかも 3604 妹が袖(そて)別れて久になりぬれど一日も妹を忘れて思へや 3605 わたつみの海に出でたる飾磨川(しかまがは)絶えむ日にこそ吾(あ)が恋やまめ      右の三首は、恋の歌。 3606 玉藻刈る処女(をとめ)を過ぎて夏草の野島(ぬしま)が崎に廬りす我は      柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、敏馬を過ぎて。又曰ク、船近づきぬ。 3607 白妙の藤江の浦に漁(いざ)りする海人とや見らむ旅ゆく我を      柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、荒栲の。又曰ク、鱸(すずき)釣る海人      とか見らむ。 3608 天離(あまざか)る夷(ひな)の長道を恋ひ来れば明石の門(と)より家のあたり見ゆ      柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、やまと島見ゆ。 3609 武庫の海の庭よくあらしいざりする海人の釣船波のうへゆ見ゆ      柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、けひの海の。又曰ク、刈薦(かりこも)の      乱れて出づ見ゆ海人の釣船。 3610 安胡(あご)の浦に船乗りすらむ処女らが赤裳の裾に潮満つらむか      柿本朝臣人麿ガ歌ニ曰ク、あみの浦。又曰ク、玉裳の裾に。 〔七夕歌一首〕 3611 大船に真楫しじ貫(ぬ)き海原(うなはら)を榜ぎ出て渡る月人壮士(つきひとをとこ)      右、柿本朝臣人麿の歌。 備後国(きびのみちのしりのくに)水調郡(みつきのこほり)長井の浦に船泊てし夜、よめる歌三首 3612 青丹よし奈良の都に行く人もがも草枕旅ゆく船の泊り告げむに 旋頭歌なり。      右の一首は、大判官(おほきまつりごとひと)。 3613 海原を八十(やそ)島隠り来ぬれども奈良の都は忘れかねつも 3614 帰るさに妹に見せむにわたつみの沖つ白玉拾(ひり)ひて行かな 安藝国(あぎのくに)風速(かざはや)の浦に舶(ふね)泊てし夜、よめる歌二首 3615 我がゆゑに妹歎くらし風速の浦の沖辺に霧たなびけり 3616 沖つ風いたく吹きせば我妹子が歎きの霧に飽かましものを 長門の島の磯辺に舶泊ててよめる歌五首 3617 石走(いはばし)る滝(たぎ)もとどろに鳴く蝉(せび)の声をし聞けば都し思ほゆ      右の一首は、大石蓑麿(おほいそのにのまろ)。 3618 山川の清き川瀬に遊べども奈良の都は忘れかねつも 3619 磯の間ゆたぎつ山川絶えずあらばまたも相見む秋かたまけて 3620 恋繁み慰めかねてひぐらしの鳴く島蔭に廬りするかも 3621 我が命を長門の島の小松原幾代を経てか神(かむ)さびわたる 長門の浦より舶出(ふなで)せし夜、月光(つき)を仰観(み)てよめる歌三首 3622 月読の光を清み夕凪に水手(かこ)の声呼び浦廻(うらみ)榜ぐかも 3623 山の端に月かたぶけば漁(いざ)りする海人の燈し火沖になづさふ 3624 我のみや夜船は榜ぐと思へれば沖辺の方に楫の音すなり 古き挽歌(かなしみうた)一首、また短歌(みじかうた) 3625 夕されば 葦辺に騒き 明け来れば 沖になづさふ    鴨すらも 妻とたぐひて 我が尾には 霜な降りそと    白妙の 羽さし交へて 打ち掃ひ さ寝(ぬ)とふものを    行く水の 帰らぬごとく 吹く風の 見えぬがごとく    跡も無き 世の人にして 別れにし 妹が着せてし    馴れ衣 袖片敷きて 独りかも寝む 反(かへ)し歌一首 3626 鶴(たづ)が鳴き葦辺をさして飛び渡るあなたづたづし独りさ寝(ぬ)れば      右、丹比大夫(たぢひのまへつきみ)が亡(みまか)れる妻(め)を悽愴(かなし)める歌。 物に属(つ)きて思ひを発(の)ぶる歌一首、また短歌 3627 朝されば 妹が手にまく 鏡なす 御津の浜びに    大船に 真楫しじ貫き 韓国(からくに)に 渡り行かむと    直向ふ 敏馬(みぬめ)をさして 潮待ちて 水脈(みを)びき行けば    沖辺には 白波高み 浦廻より 榜ぎて渡れば    我妹子に 淡路の島は 夕されば 雲居隠りぬ    さ夜更けて ゆくへを知らに 吾(あ)が心 明石の浦に    船泊めて 浮寝をしつつ わたつみの 沖辺を見れば    いざりする 海人の処女は 小船(をぶね)乗り つららに浮けり    暁(あかとき)の 潮満ち来れば 葦辺には 鶴(たづ)鳴き渡る    朝凪に 船出をせむと 船人も 水手(かこ)も声呼び    にほ鳥の なづさひ行けば 家島は 雲居に見えぬ    吾(あ)が思(も)へる 心なぐやと 早く来て 見むと思ひて    大船を 榜ぎ我が行けば 沖つ波 高く立ち来ぬ    よそのみに 見つつ過ぎ行き 玉の浦に 船を留めて    浜びより 浦磯を見つつ 泣く子なす 音のみし泣かゆ    わたつみの 手纏(たまき)の玉を 家苞(つと)に 妹に遣らむと    拾(ひり)ひ取り 袖には入れて 帰し遣る 使なければ    持てれども 験(しるし)を無みと また置きつるかも 反し歌二首 3628 玉の浦の沖つ白玉ひりへれどまたそ置きつる見る人を無み 3629 秋さらば我が船泊てむ忘れ貝寄せ来て置けれ沖つ白波 周防国(すはうのくに)玖河郡(くがのこほり)麻里布(まりふ)の浦に行く時、よめる歌八首(やつ) 3630 真楫貫き船し行かずば見れど飽かぬ麻里布の浦に宿りせましを 3631 いつしかも見むと思ひし粟島をよそにや恋ひむ行くよしを無み 3632 大船にかし振り立てて浜清(ぎよ)き麻里布の浦に宿りかせまし 3633 粟島の逢はじと思ふ妹にあれや安眠(やすい)も寝ずて吾(あ)が恋ひ渡る 3634 筑紫道の可太(かだ)の大島しましくも見ねば恋しき妹を置きて来ぬ 3635 妹が家路近くありせば見れど飽かぬ麻里布の浦を見せましものを 3636 家人は帰り早来(こ)と伊波比島(いはひしま)斎ひ待つらむ旅ゆく我を 3637 草枕旅ゆく人を伊波比島幾代経るまて斎ひ来にけむ 大島の鳴門を過ぎて再宿(ふたよ)経し後、追ひてよめる歌二首 3638 これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海人処女(あまをとめ)ども      右の一首は、田邊秋庭(たのべのあきには)。 3639 波の上に浮き寝せし宵あど思(も)へか心悲しく夢(いめ)に見えつる 熊毛の浦に船泊てし夜、よめる歌四首 3640 都辺に行かむ船もが刈薦の乱れて思ふこと告げやらむ      右の一首は、羽栗(はくり)。 3641 暁の家恋しきに浦廻より楫の音するは海人処女かも 3642 沖辺より潮満ち来らし韓(から)の浦にあさりする鶴(たづ)鳴きて騒きぬ 3643 沖辺より船人のぼる呼び寄せていざ告げやらむ旅の宿りを      一ニ云ク、旅の宿りをいざ告げやらな。 佐婆(さば)の海にて、忽ち逆風(あらきかぜ)漲浪(たかきなみ)に遭ひて、漂流(ただよひ)宿(ひとよ)経て、のち順風(おひて)を得、豊前国(とよくにのみちのくち)下毛郡(しもつみけのこほり)分間(わくま)の浦に到着(つ)きぬ。ここに艱難(いたづき)を追ひ怛(いた)みて、よめる歌八首 3644 おほきみの命(みこと)畏(かしこ)み大船の行きのまにまに宿りするかも      右の一首は、雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)。 3645 我妹子は早も来ぬかと待つらむを沖にや住まむ家附かずして 3646 浦廻より榜ぎ来し船を風速み沖つ御浦に宿りするかも 3647 我妹子がいかに思へかぬば玉の一夜もおちず夢にし見ゆる 3648 海原の沖辺に灯し漁(いざ)る火は明かして灯せ大和島見む 3649 鴨じもの浮寝をすれば蜷(みな)の腸(わた)か黒き髪に露そ置きにける 3650 久かたの天照る月は見つれども吾(あ)が思(も)ふ妹に逢はぬ頃かも 3651 ぬば玉の夜渡る月は早も出でぬかも海原の八十島の上ゆ妹があたり見む 旋頭歌なり。 筑紫の館(たち)に至り、本つ郷(くに)のかたを遥望(みさ)け、悽愴(かなし)みてよめる歌四首 3652 志賀(しか)の海人の一日もおちず焼く塩のからき恋をも吾(あれ)はするかも 3653 志賀の浦に漁(いざ)りする海人家人の待ち恋ふらむに明かし釣る魚 3654 可之布江(かしふえ)に鶴(たづ)鳴き渡る志賀の浦に沖つ白波立ちし来らしも      一ニ云ク、満ちし来ぬらし。 3655 今よりは秋づきぬらしあしひきの山松蔭にひぐらし鳴きぬ 七夕(なぬかのよ)天漢(あまのがは)を仰観(みさ)け、各(おのもおのも)思ひを陳べてよめる歌三首 3656 秋萩ににほへる我が裳濡れぬとも君が御船の綱し取りてば      右の一首は、大使(つかひのかみ)。 3657 年にありて一夜妹に逢ふ彦星も我にまさりて思ふらめやも 3658 夕月夜影立ち寄り合ひ天の川榜ぐ船人を見るが羨(とも)しさ 海辺にて月を望(み)てよめる歌九首 3659 秋風は日に異(け)に吹きぬ我妹子はいつかと我を斎ひ待つらむ      大使の第二男(おとむすこ)。 3660 神さぶる荒津の崎に寄する波間なくや妹に恋ひ渡りなむ      右の一首は、土師稲足(はにしのいなたり)。 3661 風の共(むた)寄せ来る波にいざりする海人処女らが裳の裾濡れぬ      一ニ云ク、海人のをとめが裳の裾濡れぬ。 3662 天の原振り放け見れば夜そ更けにけるよしゑやし独り寝(ぬ)る夜は明けば明けぬとも      右ノ一首ハ、旋頭歌ナリ。 3663 わたつみの沖つ縄海苔来る時と妹が待つらむ月は経につつ 3664 志賀の浦にいざりする海人明け来れば浦廻榜ぐらし楫の音聞こゆ 3665 妹を思ひ眠(い)の寝らえぬに暁(あかとき)の朝霧ごもり雁がねそ鳴く 3666 夕されば秋風寒し我妹子が解き洗ひ衣(ごろも)行きて早着む 3667 我が旅は久しくあらしこの吾(あ)が着(け)る妹が衣の垢づく見れば 筑前国(つくしのみちのくちのくに)志麻郡の韓亭(からとまり)に舶(ふね)泊てて三日(みか)経ぬ。時に夜月(つき)の光、皎々流照(てりわたれり)。奄(たちま)ち此の華(けはひ)に対(よ)りて、旅の情(こころ)を悽噎(かなし)み、各(おのもおのも)心緒(おもひ)を陳(の)べてよめる歌六首(むつ) 3668 おほきみの遠の朝廷(みかど)と思へれど日(け)長くしあれば恋ひにけるかも      右の一首は、大使(つかひのかみ)。 3669 旅にあれど夜は火灯し居る我を闇にや妹が恋ひつつあるらむ      右の一首は、大判官(おほきまつりごとひと)。 3670 からとまり能古(のこ)の浦波立たぬ日はあれども家に恋ひぬ日はなし 3671 ぬば玉の夜渡る月にあらませば家なる妹に逢ひて来(こ)ましを 3672 久かたの月は照りたり暇(いとま)なく海人の漁火(いざり)は灯し合へり見ゆ 3673 風吹けば沖つ白波かしこみと能古の泊にあまた夜そ寝(ぬ)る 引津(ひきづ)の亭(とまり)に舶泊てし時よめる歌七首 3674 草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也(かや)の山辺にさ牡鹿鳴くも 3675 沖つ波高く立つ日に遭へりきと都の人は聞きてけむかも      右の二首は、大判官。 3676 天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都にこと告げやらむ 3677 秋の野をにほはす萩は咲けれども見る験(しるし)なし旅にしあれば 3678 妹を思ひ眠(い)の寝らえぬに秋の野にさ牡鹿鳴きつ妻思ひかねて 3679 大船に真楫しじ貫き時待つと我は思へど月そ経にける 3680 夜を長み眠(い)の寝らえぬにあしひきの山彦とよめさ牡鹿鳴くも 肥前国(ひのみちのくちのくに)松浦郡(まつらのこほり)狛島の亭(とまり)に舶泊てし夜、海浪(うなはら)を遥望(みさ)け、各(おのもおのも)旅の心を慟(かなし)みてよめる歌七首 3681 帰り来て見むと思ひし我が屋戸の秋萩すすき散りにけむかも      右の一首は、秦田滿(はたのたまろ)。 3682 天地の神を乞ひつつ吾(あれ)待たむ早来ませ君待たば苦しも      右の一首は、娘子(をとめ)。 3683 君を思ひ吾(あ)が恋ひまくはあら玉の立つ月ごとに避(よ)くる日もあらじ 3684 秋の夜を長みにかあらむなそここば眠(い)の寝らえぬも独り寝(ぬ)ればか 3685 たらし姫御船泊てけむ松浦の海妹が待つべき月は経につつ 3686 旅なれば思ひ絶えてもありつれど家にある妹し思ひ悲(がな)しも 3687 あしひきの山飛び越ゆる雁がねは都に行かば妹に逢ひて来(こ)ね 壹岐(ゆき)の島に到りて、雪連宅滿(ゆきのむらじやかまろ)が、忽ち鬼病(えやみ)にて死去(みまか)れる時よめる歌〔一首、また短歌〕 3688 すめろきの 遠の朝廷と から国に 渡る我が背は    家人の 斎(いは)ひ待たねか ただ身かも 過ちしけむ    秋さらば 帰りまさむと たらちねの 母に申して    時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと    家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず    大和をも 遠く離(さか)りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君 反し歌二首 3689 石田野(いはたぬ)に宿りする君家人のいづらと我を問はばいかに言はむ 3690 世の中は常かくのみと別れぬる君にやもとな吾(あ)が恋ひゆかむ      右三首は、姓名がよめる挽歌(かなしみうた)。 3691 天地と 共にもがもと 思ひつつ ありけむものを    愛(は)しけやし 家を離れて 波のうへゆ なづさひ来にて    あら玉の 月日も来経ぬ 雁がねも 継ぎて来鳴けば    たらちねの 母も妻らも 朝露に 裳の裾ひづち    夕霧に 衣手濡れて 幸(さき)くしも あるらむごとく    出で見つつ 待つらむものを 世の中の 人の嘆きは    相思はぬ 君にあれやも 秋萩の 散らへる野辺の    初尾花 仮廬(かりほ)に葺きて 雲離(ばな)れ 遠き国辺の    露霜の 寒き山辺に 宿りせるらむ 反し歌二首 3692 愛(は)しけやし妻も子供も高々(たかたか)に待つらむ君や島隠(がく)れぬる 3693 もみち葉の散りなむ山に宿りぬる君を待つらむ人し悲しも      右の三首は、葛井連子老(ふぢゐのむらじこおゆ)がよめる挽歌。 3694 わたつみの 恐(かしこ)き道を 安けくも なく悩み来て    今だにも 凶(も)なく行かむと 壱岐(ゆき)の海人の 秀(ほ)つ手の占(うら)へを    肩焼きて 行かむとするに 夢(いめ)のごと 道の空路に 別れする君 反し歌二首 3695 昔より言ひけることの韓国のからくもここに別れするかも 3696 新羅(しらき)へか家にか帰る壱岐の島行かむたどきも思ひかねつも      右の三首は、六鯖(むさば)がよめる挽歌。 對馬島(つしま)の淺茅の浦に舶泊てし時、順風(おひて)を得ず、停(とど)まりて五箇日(いつか)を経き。ここに物華を瞻望(みや)りて、各(おのもおのも)慟心(おもひ)を陳べてよめる歌三首 3697 百船の泊つる對馬の淺茅山しぐれの雨にもみたひにけり 3698 天ざかる夷にも月は照れれども妹そ遠くは別れ来にける 3699 秋されば置く露霜に堪(あ)へずして都の山は色づきぬらむ 竹敷(たかしき)の浦に舶泊てし時、各心緒(おもひ)を陳べてよめる歌十八首(とをまりやつ) 3700 あしひきの山下光るもみち葉の散りのまがひは今日にもあるかも      右の一首は、大使。 3701 竹敷の黄葉(もみち)を見れば我妹子が待たむと言ひし時そ来にける      右の一首は、副使(つかひのすけ)。 3702 竹敷の浦廻の黄葉われ行きて帰り来るまて散りこすなゆめ      右の一首は、大判官(おほきまつりごとひと)。 3703 竹敷の上方山(うへかたやま)は紅の八しほの色になりにけるかも      右の一首は、小判官(すなきまつりごとひと)。 3704 もみち葉の散らふ山辺ゆ榜ぐ船のにほひに愛でて出でて来にけり 3705 竹敷の玉藻靡かし榜ぎ出なむ君が御舟をいつとか待たむ      右の二首は、對馬娘子、名は玉槻(たまつき)。 3706 玉敷ける清き渚を潮満てば飽かず我行く帰るさに見む      右の一首は、大使。 3707 秋山の黄葉を挿頭(かざ)し我が居れば浦潮満ち来(く)いまだ飽かなくに      右の一首は、副使。 3708 物思(も)ふと人には見えじ下紐の下ゆ恋ふるに月そ経にける      右の一首は、大使。 3709 家づとに貝を拾(ひり)ふと沖辺より寄せ来る波に衣手濡れぬ 3710 潮干なばまたも我来むいざ行かむ沖つ潮騒高く立ち来(き)ぬ 3711 我が袖は手本とほりて濡れぬとも恋忘れ貝取らずは行かじ 3712 ぬば玉の妹が干すべくあらなくに我が衣手を濡れていかにせむ 3713 もみち葉は今はうつろふ我妹子が待たむと言ひし時の経ゆけば 3714 秋されば恋しみ妹を夢にだに久しく見むを明けにけるかも 3715 独りのみ着寝(ぬ)る衣の紐解かば誰かも結はむ家遠(どほ)くして 3716 天雲のたゆたひ来れば九月(ながつき)の黄葉の山もうつろひにけり 3717 旅にても凶(も)なく早来(こ)と我妹子が結びし紐は褻(な)れにけるかも 筑紫の海つ路に回(かへ)り来て、京(みやこ)に入(まゐ)らむと播磨国家島に到れる時よめる歌五首 3718 家島は名にこそありけれ海原を吾(あ)が恋ひ来つる妹もあらなくに 3719 草枕旅に久しくあらめやと妹に言ひしを年の経ぬらく 3720 我妹子を行きて早見む淡路島雲居に見えぬ家附くらしも 3721 ぬば玉の夜明かしも船は榜ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ 3722 大伴の御津の泊に船泊てて龍田の山をいつか越えいかむ 中臣朝臣宅守(やかもり)が蔵部(くらべ)の女(め)に娶(あ)ひて、狹野茅上娘子(さぬのちかみをとめ)を娉(よば)へる時、勅(みことのり)して流す罪に断(さだ)めて、越前国(こしのみちのくちのくに)に配(はな)ちたまへり。ここに夫婦(めを)別れ易く会ひ難きを嘆き、各(おのもおのも)慟(かな)しみの情を陳べて、贈り答ふる歌、六十三首(むそちまりみつ) 3723 あしひきの山道越えむとする君を心に持ちて安けくもなし 3724 君が行く道の長手を繰り畳み焼き滅ぼさむ天(あめ)の火もがも 3725 我が背子しけだし罷(まか)らば白妙の袖を振らさね見つつ偲はむ 3726 この頃は恋ひつつもあらむ玉くしげ明けて後(をち)よりすべなかるべし      右の四首は、別れむとして娘子(をとめ)が悲しみよめる歌。 3727 塵泥(ちりひぢ)の数にもあらぬ我ゆゑに思ひ侘ぶらむ妹が悲しさ 3728 青丹よし奈良の大道は行き良けどこの山道は行き悪しかりけり 3729 愛(うるは)しと吾(あ)が思(も)ふ妹を思ひつつ行けばかもとな行き悪しかるらむ 3730 畏みと告(の)らずありしを御越道(みこしぢ)の峠(たむけ)に立ちて妹が名のりつ      右の四首は、中臣朝臣宅守が上道(みちだち)してよめる歌。 3731 思ふゑに逢ふものならばしましくも妹が目離(か)れて吾(あれ)居らめやも 3732 あかねさす昼は物思(も)ひぬば玉の夜はすがらに音のみし泣かゆ 3733 我妹子が形見の衣なかりせば何物もてか命継がまし 3734 遠き山関も越え来ぬ今更に逢ふべきよしの無きが寂(さぶ)しさ 一ニ云ク、さびしさ 3735 思はずもまことあり得むやさ寝(ぬ)る夜の夢にも妹が見えざらなくに 3736 遠くあれば一日一夜も思はずてあるらむものと思ほしめすな 3737 人よりは妹そも悪しき恋もなくあらましものを思はしめつつ 3738 思ひつつ寝(ぬ)ればかもとなぬば玉の一夜もおちず夢にし見ゆる 3739 かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹をば見ずそあるべくありける 3740 天地の神なきものにあらばこそ吾(あ)が思(も)ふ妹に逢はず死にせめ 3741 命をし全(また)くしあらば珠衣(ありきぬ)のありて後にも逢はざらめやも 一ニ云ク、ありての後も 3742 逢はむ日をその日と知らず常闇(とこやみ)にいづれの日まて吾(あれ)恋ひ居らむ 3743 旅といへば言にそ易き少なくも妹に恋ひつつすべ無けなくに 3744 我妹子に恋ふるに吾(あれ)は玉きはる短き命も惜しけくもなし      右の十四首(とをまりようた)は、配所(はなたえしところ)に至りて中臣朝臣宅守がよめる歌。 3745 命あらば逢ふこともあらむ我がゆゑにはたな思ひそ命だに経ば 3746 人の植うる田は植ゑまさず今更に国別れして吾(あれ)はいかにせむ 3747 我が屋戸の松の葉見つつ吾(あれ)待たむ早帰りませ恋ひ死なぬとに 3748 他国(ひとくに)は住み悪しとそ言ふ速(すむや)けく早帰りませ恋ひ死なぬとに 3749 他国に君をいませていつまてか吾(あ)が恋ひをらむ時の知らなく 3750 天地の極(そこひ)の裡(うら)に吾(あ)がごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ 3751 白妙の吾(あ)が下衣失はず持てれ我が背子ただに逢ふまてに 3752 春の日のうら悲しきに後れ居て君に恋ひつつ顕(うつ)しけめやも 3753 逢はむ日の形見にせよと手弱女の思ひ乱れて縫へる衣そ      右の九首(ここのうた)は、娘子が京(みやこ)に留まり、悲傷(かなし)みてよめる歌。 3754 過所(ふた)なしに関飛び越ゆる霍公鳥(ほととぎす)我が身にもがも止まず通はむ 3755 愛(うるは)しと吾(あ)が思(も)ふ妹を山川を中にへなりて安けくもなし 3756 向ひ居て一日もおちず見しかども厭はぬ妹を月わたるまて 3757 吾(あ)が身こそ関山越えてここにあらめ心は妹に寄りにしものを 3758 刺竹(さすだけ)の大宮人は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ 一ニ云ク、今さへや 3759 たちかへり泣けども吾(あれ)は験なみ思ひ侘ぶれて寝(ぬ)る夜しそ多き 3760 さ寝(ぬ)る夜は多くあれども物思(も)はず安く寝(ぬ)る夜はさねなきものを 3761 世の中の常のことわりかく様に成り来にけらし据ゑし種から 3762 我妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし 3763 旅と言へば言にそ易きすべも無く苦しき旅も娘(こ)らにまさめやも 3764 山川を中にへなりて遠くとも心を近く思ほせ我妹(わぎも) 3765 真澄鏡懸けて偲へと奉(まつ)り出す形見のものを人に示すな 3766 うるはしと思ひし思はば下紐に結ひ付け持ちてやまず偲はせ      右の十三首(とをまりみうた)は、配所より中臣朝臣宅守が贈れる歌。 3767 魂は朝夕(あしたゆふへ)に霊(たま)振れど吾(あ)が胸痛し恋の繁きに 3768 この頃は君を思ふとすべも無き恋のみしつつ音のみしそ泣く 3769 ぬば玉の夜見し君を明くる朝(あした)逢はずまにして今そ悔しき 3770 味真野(あぢまぬ)に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ 3771 家人(いへびと)の安眠(やすい)も寝ずて今日今日と待つらむものを見えぬ君かも 3772 帰りける人来たれりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて 3773 君が共(むた)行かましものを同じこと後れて居れどよきこともなし 3774 我が背子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたまふな      右の八首は、娘子が和贈(こた)ふる歌。 3775 あら玉の年の緒長く逢はざれど異(け)しき心を吾(あ)が思(も)はなくに 3776 今日もかも都なりせば見まく欲り西の御厩(みまや)の外(と)に立てらまし      右の二首は、中臣朝臣宅守がまた贈れる歌。 3777 昨日けふ君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしそ泣く 3778 白妙の吾(あ)が衣手を取り持ちて斎(いは)へ我が背子直に逢ふまてに      右の二首は、娘子が和贈(こた)ふる歌。 3779 我が屋戸の花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに 3780 恋ひ死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物思(も)ふ時に来鳴き響(とよ)むる 3781 旅にして物思(も)ふ時に霍公鳥もとなな鳴きそ吾(あ)が恋まさる 3782 雨ごもり物思(も)ふ時に霍公鳥我が住む里に来鳴き響もす 3783 旅にして妹に恋ふれば霍公鳥我が住む里にこよ鳴き渡る 3784 心なき鳥にそありける霍公鳥物思(も)ふ時に鳴くべきものか 3785 霍公鳥間(あひだ)しまし置け汝(な)が鳴けば吾(あ)が思(も)ふ心いたもすべなし      右の七首は、中臣朝臣宅守が花鳥(はなとり)に寄せて      思ひを陳べてよめる歌。 -------------------------------------------------------- .巻第十六(とをまりむまきにあたるまき) 有由縁(よしあるうた)、また雑歌(くさぐさのうた) 昔娘子(をとめ)有りけり。字(な)をば櫻兒(さくらのこ)と曰ふ。時に二(ふたり)の壮子(をとこ)有りて、共に此の娘(をとめ)を誂(と)ふ。生(いのち)を捐(す)てて格競(あらそ)ひ、死を貪りて相敵(いど)みたりき。ここに娘子、なげきけらく、「古(いにしへ)よりこの方、一(ひとり)の女(をみな)の身、二(ふたり)の門(をとこのいへ)に往適(ゆ)くといふことを聞かず。方今(いま)、壮子の意(こころ)、和平(にき)び難し。妾(あれ)死(みまか)りて相害(あらそ)ふこと永(ひたぶる)に息(や)めなむには如かじ」といひて、すなはち林に尋入(い)りて、樹に懸(さ)がり経(わた)き死にき。両(ふたり)の壮子、哀慟血泣(かなしみ)に敢(た)へず、各(おのもおのも)心緒(おもひ)を陳べてよめる歌二首(ふたつ) 3786 春さらば挿頭(かざし)にせむと吾(あ)が思(も)ひし桜の花は散りにけるかも 3787 妹が名に懸かせる桜花咲かば常にや恋ひむいや年のはに 或ひとの曰く、昔三(みたり)の男(をとこ)有りて、同(とも)に一(ひとり)の女(をみな)を娉(つまど)ひき。娘子(をとめ) 字(な)をば縵兒(かづらのこ)と曰ふ 嘆息(なげ)きけらく、「一(ひとり)の女の身、滅(け)易きこと露の如し。三(みたり)の雄(をとこ)の志(こころ)、平(にき)び難きこと石(いは)の如し」。すなはち池の上(ほとり)に彷徨(たちもとほ)り、水底に沈没(しづ)みき。時に壮士(をとこ)等、哀頽之至(かなしみ)に勝(た)へず、各(おのもおのも)所心(おもひ)を陳べてよめる歌三首(みつ) 3788 耳成(みみなし)の池し恨めし我妹子(わぎもこ)が来つつ潜(かづ)かば水は涸れなむ 3789 あしひきの山縵の子今日行くと我に告(の)りせば早く来(こ)ましを 3790 あしひきの山縵の子今日のごといづれの隈(くま)を見つつ来にけむ 昔老翁(おきな)有り、竹取(たかとり)の翁(をぢ)といふ。此の翁、季春之月(やよひばかり)に、丘に登りて遠望(くにみ)するとき、羮(あつもの)を煮る九箇(ここの)女子(をとめ)に値(あ)へりき。百(もも)の嬌(こび)儔(たぐ)ひ無く、花の容(すがた)止(ならび)無し。時に娘子等、老翁(をぢ)を呼び、嗤ひて「叔父来て此の鍋火(ひ)を吹け」と曰ふ。ここに翁、「唯々(をを)」と曰ひて、漸(やや)ゆきて、座(しきゐ)の上(ほとり)に著接(つ)きたりき。しまらくありて娘子等、皆共に含咲(したゑ)み、相推し譲りけらく、「誰(たれ)そ此の翁を呼びし」。すなはち竹取の翁のいふ、「非慮(おもひ)の外に神仙(ひじり)に偶逢(あ)ひ、迷惑(まど)へる心敢(た)へがたし。近く狎れし罪、謌を以(もち)て贖(あがな)ひまをさむ」。即ち作(よ)める歌一首(ひとつ)、また短歌(みじかうた) 3791 緑子の 若子(わくご)髪には たらちし 母に抱(うだ)かえ    すきかくる 這ふ子が身には 木綿肩衣 純裏(ひつら)に縫ひ着    頚(くび)つきの 童(わらは)が身には 結ひはたの 袖つけ衣 着し我を    吾(あ)に寄る子らが 同輩(よち)には 蜷(みな)の腸(わた) か黒し髪を    真櫛持ち 肩にかき垂れ 取り束(たが)ね 上げても纏(ま)きみ    解き乱し 童に成しみ 紅の 丹つかふ色に    馴付(なつ)かしき 紫の 大綾の衣    住吉(すみのえ)の 遠里(をり)の小野の 真榛(はり)もち にほしし衣に    高麗(こま)錦 紐に縫ひつけ ささへ重なへ なみ重ね着    打麻(うつそ)やし 麻続(をみ)の子ら あり衣の 宝の子らが    打栲(うつたへ) 延へて織る布 日さらしの 麻手作りを    重裳(しきも)なす 重(しき)に取り敷き ほころへる 稲置娘子(いなきをとめ)が    妻問ふと 吾(あ)にそ賜(たば)りし 彼方(うきかた)の 二綾下沓(ふたやしたくつ)    飛ぶ鳥の 飛鳥壮士(をとこ)が 長雨(ながめ)忌み 縫ひし黒沓(くりくつ)    さし履きて 庭に立ち 往きもとほれば 母刀自(おもとじ)の 守(も)らす娘子が    ほの聞きて 吾(あ)にそ賜りし 水縹(みはなだ)の 絹の帯を    引帯(ひこび)なす 韓帯(かろび)に取らし わたつみの 殿の甍に    飛び翔ける すがるの如き 腰細に 取り飾らひ    真澄鏡 取り並め懸けて おのが顔 還らひ見つつ    春さりて 野辺を廻(めぐ)れば 面白み 吾(あれ)を思へか    さ野つ鳥 来鳴き翔らふ 秋さりて 山辺を行けば    なつかしと 吾(あれ)を思へか 天雲も い行き棚引き    還り立ち 路(おほち)を来(け)れば うち日さす 宮女(みやをみな)    刺竹(さすだけ)の 舎人壮士も 忍ふらひ 還らひ見つつ    誰が子そとや 思はれてある かくそしこし    古の ささきし吾(あれ)や はしきやし 今日やも子らに    いさにとや 思はれてある かくそしこし    古の 賢しき人も 後の世の 鑑(かがみ)にせむと    老人(おいひと)を 送りし車 持ち帰り来(こ)し 反し歌二首 3792 死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪(しろかみ)子らに生ひざらめやも 3793 白髪し子らも生ひなばかくのごと若けむ子らに罵(の)らえかねめや 娘子ら和(こた)ふる歌九首(ここのつ) 3794 はしきやし老夫(おきな)の歌におほほしき九(ここの)の子らや感(かま)けて居らむ 3795 恥を忍ひ恥を黙(もだ)りて事もなく物言はぬさきに吾(あれ)は寄りなむ 3796 否(いな)も諾(を)も欲(ほ)りのまにまに許すべき貌(かたち)は見えや吾(あれ)も寄りなむ 3797 死にも生きも同じ心と結びてし友や違(たが)はむ吾(あれ)も寄りなむ 3798 何すとか違ひは居らむ否も諾も友の並々吾(あれ)も寄りなむ 3799 あにもあらぬおのが身のから人の子の言も尽くさじ吾(あれ)も寄りなむ 3800 旗すすき穂には出でじと思(しぬ)ひたる心は知れつ吾(あれ)も寄りなむ 3801 住吉の岸の野榛(ぬはり)に染(にほ)へれどにほはぬ吾(あれ)や媚(にほ)ひて居らむ 3802 春の野の下草靡き吾(あれ)も寄りにほひ寄りなむ友のまにまに 昔壮士(をとこ)と美女(をとめ)と有りき 姓名不詳。二親(ちちはは)に告(しら)せずて、竊(しぬ)ひ交接(あ)ひたりき。時に娘子の意(こころ)に、親に知らせまく欲(おも)ひて、歌詠みて、其の夫(せ)に送れるその歌 3803 隠(こも)りのみ恋ふれば苦し山の端ゆ出で来る月の顕さば如何に      右、或ヒトノ云ク、男答ヘ歌有リトイヘリ。未ダ探リ求ムルコトヲ得ズ。 昔壮士(をとこ)有りけり。新たに婚礼(よばひ)して、幾時(いくだ)もあらぬに、忽ちに駅使(はゆまつかひ)と為りて、遠き境に遣はさる。公事(おほやけごと)限り有り。会ふ期(とき)日無し。ここに娘子、感慟悽愴(かなし)みて、疾病(やまひ)に沈臥(こや)れりき。年累(へ)て後、壮士還り来て、覆(かへりこと)命(まを)し了(を)へて、乃ち詣(ゆ)き相視るに、娘子の姿容(かほ)、疲羸甚異(いたくみつれ)て、言語(こととひ)哽咽(むせ)びき。時に壮士、哀嘆流涙(かなし)みて、裁歌口号(うたよみ)せる、其の歌一首 3804 かくのみにありけるものを猪名川の奥(おき)を深めて吾(あ)が思(も)へりける 娘子臥しながら夫(せ)の君の歌を聞きて、枕より頭を挙げて声に和ふる歌一首 3805 ぬば玉の黒髪濡れて沫雪(あわゆき)の降るにや来ますここだ恋ふれば      今按フニ、此ノ歌、其ノ夫使ハサレテ、既ニ累載ヲ経、      還ル時ニ当テ、雪落ル冬ナリキ。斯ニ因テ娘子此ノ沫雪      ノ句ヲ作メルカ。 娘子が夫(せ)に贈れる歌一首 3806 事しあらば小泊瀬山の石城(いしき)にも隠(こも)らば共にな思ひ我が背      右伝云(いひつて)けらく、時(むかし)女子(をみな)有りけり。父母に知らせずて      壮士(をとこ)に竊(しぬ)ひ接(あ)ひたりき。壮士その親の呵嘖(ころび)をかしこみ      て、稍(やや)猶予(いざよふ)の意(こころ)有り。此に因りて娘子斯の歌を裁作(よ)      みて、其の夫に贈与(おく)れりといへり。 前(さき)の采女(うねべ)が詠める歌一首 3807 安積山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾(あ)が思(も)はなくに      右の歌は伝云(いひつて)けらく、葛城王、陸奥(みちのく)の国に      遣はさえし時、国司(くにのみこともち)あへしらふこと緩怠(おろそか)      なりければ、王(おほきみ)の意(こころ)に悦びず、怒色顕面(おもほでり)      まして、飲饌(みあへ)を設(ま)けしかども宴楽(うたげ)をもしたま      はざりき。ここに前(さき)の采女風流(みさを)娘子有りて、左の      手に觴(さかづき)を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝(みひざ)に      撃ちて、此の歌を詠みき。ここに王の意(こころ)解脱(なご)みて、      終日(ひねもす)に楽飲(うたげあそ)びきといへり。 鄙(いや)しき人のよめる歌一首 3808 住吉の小集楽(をづめ)に出でて正目(まさめ)にもおの妻すらを鏡と見つも      右伝云(いひつて)けらく、昔鄙しき人あり 姓名未詳也 。      時に郷里(さと)の男女(をとこをみな)、衆集(つど)ひて野の遊びせり      き。是の会集(つどひ)の中(うち)に、鄙しき人夫婦(めを)有り。      其の婦(め)容姿(かほ)端正(きらきらし)きこと衆諸(もろひと)に秀れたり。      すなはち彼の鄙人(をとこ)の意(こころ)、妻(め)を愛(うつく)しむの情(こころ)      弥(いや)増さりて、斯の歌をよみて美貌(きらきらしき)を讃嘆(ほ)      めたりき。 娘子が恨みよみて献れる歌一首 3809 商(あき)返し領(し)らせとの御法(みのり)あらばこそ吾(あ)が下衣返し賜(たば)らめ      右伝云(いひつて)けらく、時(むかし)幸(うるはしみ)せらえし娘子有り 姓名未詳 。      寵薄(こころうつろへ)る後、寄物(かたみ)を還し賜りき 俗ニかたみト云フ 。こ      こに娘子、怨恨(うら)みて聊か斯の歌をよみて献上(たてまつ)りき。 娘子が恨みてよめる歌一首 3810 味飯(うまいひ)を水に醸み成し吾(あ)が待ちし代(かひ)はかつて無し直(ただ)にしあらねば      右伝云(いひつて)けらく、昔娘子有り。其の夫(せ)に相別(わか)れ、      年を経て恋ひわたりき。さる間に夫の君、更に      他妻(あだしつま)を娶(え)て、正身(みづから)は来ずて、徒(ただ)に苞(つと)を贈(おこ)せ      りき。此に因り娘子(をとめ)、此の恨みの歌を作みて、      還し酬(おく)れりき。 娘子が夫の君を恋ふる歌一首、また短歌 3811 さ丹づらふ 君が御言と 玉づさの 使も来ねば    思ひ病む 吾(あ)が身ひとつそ ちはやぶる 神にもな負ほせ    卜部(うらべ)座(ま)せ 亀もな焼きそ 恋(こほ)しくに 痛き吾(あ)が身そ    いちしろく 身に染みとほり むら肝の 心砕けて    死なむ命 にはかになりぬ 今更に 君か吾(あ)を呼ぶ    たらちねの 母の御言か 百(もも)足らず 八十(やそ)の衢(ちまた)に    夕占(ゆふけ)にも 卜(うら)にもそ問ふ 死ぬべき吾(あ)がゆゑ 反し歌 3812 卜部をも八十の衢も占問へど君を相見むたどき知らずも      或ル本ノ反シ歌ニ曰ク、  3813 吾(あ)が命は惜しくもあらずさ丹づらふ君によりてそ長く欲りせし       右伝云けらく、時(むかし)娘子有り 姓ハ車持氏ナリ。       其の夫(せ)年を逕(へ)て徃来(かよ)はず。時に娘子、息の緒に       恋ひつつ、痾疾(やまひ)に沈臥(こや)れりき。日に異(け)に痩羸(みつ)れ       て、忽ち臨泉路(みまか)りなむとす。ここに使を遣はし       て、其の夫の君を喚ぶ。来て乃ち歔欷(なげ)きつつ斯       の歌を口号(よ)みて、登時(すなはち)逝没(みまか)りき。 壮士(をとこ)が娘子の父母に贈れる歌一首 3814 真珠(しらたま)は緒絶(をだえ)しにきと聞きしゆゑにその緒また貫(ぬ)き吾(あ)が玉にせむ 答ふる歌一首 3815 真珠の緒絶はまこと然れどもその緒また貫き人持ち去(い)にけり      右伝云けらく、時(むかし)娘子有り。夫の君に棄てらえて      他氏(ひとのいへ)に改め適(ゆ)きき。時に壮士有りて、改め適くを      知らずて、此の歌を贈遣(おく)りて、女(をみな)の父母(おや)に請誂(こ)ひき。      ここに父母の意(おも)ひけらく、壮士委曲(つばら)なる旨(さま)を聞(し)らじ      とおもひて乃ち彼の歌に報送(こた)へがてり、改め適きし      縁(よし)を顕はせりきといへり。 穂積親王の誦(うた)はせる歌一首 3816 家にありし櫃(ひつ)に鍵さし蔵めてし恋の奴のつかみかかりて      右の歌一首は、穂積親王の宴したまふ時、いつも斯の歌を      誦(うた)ひて恒賞(あそびくさ)と為たまへり。 河村王の誦ひたまへる歌二首 3817 柄臼(かるうす)は田廬(たぶせ)のもとに我が背子はにふぶに笑みて立ちませり見ゆ 田廬ハたぶせノ反 3818 朝霞鹿火屋(かひや)が下に鳴くかはづ偲ひつつありと告げむ子もがも      右の歌二首は、河村王の宴せる時、琴弾きて、即ち先づ      此の歌を誦(よ)みて、常行(あそびくさ)と為たまひき。 小鯛王(をたひのおほきみ)の吟(うた)ひたまへる歌二首 3819 夕立の雨うち降れば春日野の尾花が末(うれ)の白露思ほゆ 3820 夕づく日さすや川辺に作る屋の形(かた)をよろしみうべそ寄り来る      右の歌二首は、小鯛王の宴の日、琴を取る登時(すなはち)      必先(まづ)此の歌を吟詠(うた)ひたまひき。      小鯛王ハ、更(マタ)ノ名ハ置始多久美(オキソメノタクミ)トイフ、斯ノ人ナリ。 兒部女王(こべのおほきみ)の嗤(あざ)けりの歌一首 3821 うましものいづく飽かじを尺度(さかど)らし角のふくれにしぐひ合ひにけむ      右、時(むかし)娘子有りき 姓ハ尺度氏ナリ。此の娘子、      高姓(たふとき)美人(うましをとこ)の誂(つまと)ふを聴かず、下姓(いやしき)醜士(しこを)の誂      ふを許(き)きき。ここに兒部女王、此の歌を裁作(よ)み      て、彼(そ)の愚(かたくなし)きを嗤咲(あざ)けりたまふ。 古歌(ふるうた)に曰く 3822 橘の寺の長屋に吾(あ)が率(ゐ)寝し童女(うなゐ)放髪(はなり)は髪上げつらむか      右ノ歌、椎野連長年ガ説ニ曰ク、夫レ寺家ノ屋ハ、俗人      ノ寝処ニアラズ。亦若冠ノ女ヲ称(イ)ヒテ放髪丱(ウナヰハナリ)ト曰ヘリ。      然レバ腰ノ句已ニ放髪丱ト云ヘレバ、尾ノ句重ネテ著冠      ノ辞ヲ云フベカラザルカトイヘリ。改メテ曰ク、  3823 橘の照れる長屋に吾(あ)が率ねし童女放髪に髪上げつらむか 長忌寸意吉麻呂が歌八首(やつ) 3824 さす鍋に湯沸かせ子ども櫟津(いちひつ)の桧橋(ひはし)より来む狐(きつ)に浴(あ)むさむ      右の一首は、伝云(いひつて)けらく、ある時衆(ひとびと)集ひて宴飲(うたげ)す。      時に夜ふけて狐の声聞こゆ。すなはち衆諸(ひとびと)奥麿を誘(いざな)      ひけらく、此の饌具雑器(くさぐさのうつはもの)、狐の声、河橋等の物に      関(か)けて、歌よめといへり。即ち声に応(こた)へて此の歌を作      めり。 3825 食薦(すこも)敷き青菜煮持ち来(こ)梁(うつはり)に行騰(むかはき)懸けて休むこの君      右の一首は、行騰(むかはき)、蔓菁(あをな)、食薦(すこも)、屋の梁(うつはり)を詠める歌。 3826 蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの意吉麻呂が家なるものは芋(うも)の葉にあらし      右の一首は、荷葉(はちすば)を詠める歌。 3827 一二(ひとふた)の目のみにあらず五つ六つ三つ四つさへあり双六(すぐろく)のさえ      右の一首は、双六(すぐろく)の頭子(さえ)を詠める歌。 3828 香(こり)焚ける塔にな寄りそ川隈の屎鮒(くそふな)食(は)める甚(いた)き女奴(めやつこ)      右の一首は、香、塔、厠、屎、鮒、奴を詠める歌。 3829 醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗き合(か)てて鯛願ふ我にな見せそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)      右の一首は、酢、醤、蒜、鯛、水葱を詠める歌。 3830 玉掃(たまばはき)刈り来(こ)鎌麻呂室の木と棗(なつめ)が本を掻き掃かむため      右の一首は、玉、掃、鎌、天木香(むろ)、棗を詠める歌。 3831 池神の力士舞かも白鷺の桙(ほこ)啄(く)ひ持ちて飛び渡るらむ      右の一首は、白鷺の木を啄ひて飛ぶを詠める歌。 忌部首が数種(くさぐさ)の物を詠める歌一首 3832 からたちと棘原(うまら)刈り除(そ)け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自(とじ) 境部王の数種の物を詠みたまへる歌一首 穂積親王ノ子ナリ 3833 虎に乗り古屋を越えて青淵に蛟龍(みつち)捕り来む剣大刀もが 作主(よみひと)しらざる歌一首 3834 梨棗(なつめ)黍(きみ)に粟つぎ延ふ葛(くず)の後も逢はむと葵(あほひ)花咲く 新田部親王に献れる歌一首 3835 勝間田(かつまた)の池は吾(あれ)知る蓮(はちす)無ししか言ふ君が鬚なき如し      右或る人つたへけらく、新田部親王、堵(みさと)に      出遊(いでま)して、勝間田の池を見(め)して、御心の中に      感(め)でたまひ、彼(そ)の池より還りまして、忍ひか      ねて、婦人(をみな)に語りたまはく、今日ゆきて、勝      間田池を見しに、水みちたたへて、蓮花(はちす)灼(て)り      かがやけり。その怜(おもしろ)さかぎりなし。ここに      婦人、此の戯歌(たはれうた)を作みて、すなはち吟詠(うた)ひ      きといへり。 侫人(ねぢけびと)を謗(そし)れる歌一首 3836 奈良山の児手柏(このてかしは)の両面(ふたおも)にかにもかくにも侫人の徒(とも)      右の歌一首は、博士消奈公行文(せなのきみゆきふみ)の大夫(まへつきみ)がよめる。 荷葉(はちすば)を詠める歌一首 3837 久かたの雨も降らぬか蓮葉に溜まれる水の玉に似たる見む      右の歌一首は、伝云(いひつて)けらく、右の兵衛(つはもののとねり)有り      姓名未詳。 歌作みすることに能(た)へたり。時に府(つかさ)      の家酒食(さけさかな)を備設(ま)け、府官人等(つかさびとたち)を饗宴(あへ)す。ここに      饌食(け)を盛るに、皆荷葉(はちすば)を用ふ。諸人酒酣(たけなは)にして、      歌ひ舞ひ、駱駅兵衛(つはもののとねり)を誘ひて、其の荷葉に      関(か)けて、歌を作めといへり。すなはち声に応(こた)へて      斯の歌を作めり。 心の著(つ)く所無き歌二首 3838 我妹子が額(ぬか)に生ひたる双六(すぐろく)の事負(ことひ)の牛の倉の上(へ)の瘡 3839 我が背子が犢鼻褌(たふさき)にせるつぶれ石の吉野の山に氷魚(ひを)そ下がれる 懸有ハ、反シテ云ク、さがれる      右の歌は、舎人親王、侍座(もとこびと)に令(のりご)ちたまはく、もし      由(よ)る所無き歌を作む者有らば、銭帛(ぜにきぬ)を賜(たば)らむとのり      たまへり。時に大舎人安倍朝臣子祖父、乃ち斯の歌      を作みて献上(たてまつ)る。登時(すなはち)募る所の銭二千文(ふたちち)給へりき。 池田朝臣が大神朝臣奥守を嗤(あざけ)る歌一首 3840 寺々の女餓鬼(めがき)申さく大神(おほみわ)の男餓鬼賜(たば)りてその子産まはむ 大神朝臣奥守が報へ嗤ける歌一首 3841 仏造る真朱(まそほ)足らずば水溜まる池田の朝臣(あそ)が鼻の上(へ)を掘れ 或ヒト云ク、 平群朝臣が穂積朝臣を嗤咲(あざ)ける歌一首 3842 小児(わくご)ども草はな刈りそ八穂蓼(やほたで)を穂積の朝臣が腋草を刈れ 穂積朝臣が和ふる歌一首 3843 いづくにそ真朱掘る丘薦畳(こもたたみ)平群の朝臣が鼻の上を掘れ 土師宿禰水通(はにしのすくねみみち)が、巨勢朝臣豊人が黒色を嗤咲ける歌一首 3844 ぬば玉の斐太(ひだ)の大黒(おほくろ)見るごとに巨勢の小黒(をくろ)し思ほゆるかも 巨勢朝臣豊人が答ふる歌一首 3845 駒造る土師(はし)の志婢麻呂(しびまろ)白くあればうべ欲しからむその黒色を      右の歌は、伝云けらく、大舎人土師宿禰水通といふひと有り。      字(あざな)をば志婢麻呂と曰へり。時に大舎人巨勢朝臣豊人、字(あざな)を      ば正月麻呂(むつきまろ)と曰へり、巨勢斐太朝臣名字ハ忘レタリ。島村大夫ノ      男ナリ。両人(ふたり)みな貌(かほ)黒かりき。ここに土師宿禰水通、斯の歌を      作みて嗤咲けりぬ。かくて巨勢朝臣豊人これを聞きて、即ち      和への歌を作みて酬(むく)い咲(あざ)けりきといへり。 戯れに僧(ほうし)を嗤ける歌一首 3846 法師らが鬚の剃り杭馬繋ぎいたくな引きそ法師半(なか)ら欠(か)む 法師が報ふる歌一首 3847 壇越(だむをち)や然もな言ひそ里長(さとをさ)らが課役(えつき)徴(はた)らば汝(なれ)も半ら欠む 夢(いめ)の裡(うち)によめる歌一首 3848 新墾田(あらきた)の猪鹿田(しした)の稲を倉にこめてあなひねひねし吾(あ)が恋ふらくは      右の歌一首は、忌部首黒麿(いみべのおびとくろまろ)が、夢の裡に此の恋の歌を      作みて友に贈り、覚めて誦習(うた)はしむるに前(もと)の如しといふ。 世間(よのなか)の常無きを厭ふ歌三首 3849 生き死にの二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも 3850 世の中の醜(しき)借廬(かりいほ)に住み住みて至らむ国のたづき知らずも 3852 鯨魚(いさな)取り海や死にする山や死にする死ねこそ海は潮干(ひ)て山は枯れすれ      右の歌三首は、河原寺の仏堂(ほとけどの)の裡の倭琴(やまとこと)の面(おも)に在り。 藐姑射(はこや)の山の歌一首 3851 心をし無何有(むがう)の郷(さと)に置きてあらば藐姑射の山を見まく近けむ      右の歌一首は、作主(よみひと)未詳(しらず)。 痩人(やせひと)を嗤咲ける歌二首 3853 石麻呂(いはまろ)に吾(あれ)物申す夏痩によしといふものそ鰻(むなぎ)取り食(め)せ 反シテ云ク、めせ 3854 痩す痩すも生けらば在らむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな      右、吉田連老といふひと有り。字をば石麻呂と曰へり。      所謂仁教の子なり。其の老、為人身体(かたち)甚(いた)く痩せたり。      多く喫飲(のみくら)へども、形飢饉(うゑひと)のごとし。此に因りて大伴      宿禰家持、聊か斯の歌を作みて戯咲(あざけり)す。 高宮王の数種(くさぐさ)の物を詠める歌二首 3855 葛英爾延ひおほとれる屎葛(くそかづら)絶ゆることなく宮仕へせむ 3856 婆羅門(ばらもむ)の作れる小田を食む烏瞼(まなぶた)腫れて幡桙(はたほこ)に居り 夫(せ)の君を恋ふる歌一首 3857 飯食めど 美味くもあらず 歩けども 安くもあらず    茜さす 君が心し 忘れかねつも      右の歌一首は、伝云けらく、佐為王(さゐのおほきみ)、近習婢(まかたち)有り。      時に宿直(とのゐ)遑(いとま)なく、夫の君遇ひ難し。感情(こころ)いたく結      ぼれ、係恋(おもひ)実(まこと)に深し。ここに宿(とのゐ)に当たる夜、夢      の裡に相見る。覚寤(おどろ)きて探抱(かきさぐ)れども手にも触れず。      すなはち哽咽歔欷(かなし)み、高く此の歌を吟詠(うた)ひき。因(かれ)      王聞かして、哀慟(あはれ)みたまひ、永へに侍宿(とのゐ)することを      免(ゆる)しき。 恋の歌二首 3858 この頃の吾(あ)が恋力記し集(つ)め功(くう)に申さば五位の冠(かがふり) 3859 この頃の吾(あ)が恋力賜(たば)らずば京職(みさとつかさ)に出でて訴(うた)へむ      右の歌二首は、作者未詳。 筑前国(つくしのみちのくちのくに)志賀(しか)の白水郎(あま)が歌十首(とを) 3860 おほきみの遣はさなくに情進(さかしら)に行きし荒雄ら沖に袖(そて)振る 3861 荒雄らを来むか来じかと飯(いひ)盛りて門に出で立ち待てど来まさず 3862 志賀の山いたくな伐りそ荒雄らがよすかの山と見つつ偲はむ 3863 荒雄らが行きにし日より志賀の海人の大浦田沼(たぬ)は寂(さぶ)しからずや 3864 官(つかさ)こそ差しても遣らめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る 3865 荒雄らは妻子(めこ)の業(なり)をば思はずろ年の八年を待てど来まさず 3866 沖つ鳥鴨とふ船の帰り来ば也良(やら)の崎守(さきもり)早く告げこそ 3867 沖つ鳥鴨とふ船は也良の崎廻(た)みて榜ぎ来と聞こえ来ぬかも 3868 沖行くや赤ら小船(をぶね)に苞(つと)遣らばけだし人見て解き開け見むかも 3869 大船に小船引き添へ潜(かづ)くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも      右、神亀の年中(とし)、太宰府(おほみこともちのつかさ)、筑前国宗像郡の      百姓(おほみたから)、宗形部津麻呂を差して、對馬の粮(かて)を送る      舶の柁師(かぢとり)に充(あ)つ。時に津麻呂、滓屋(かすや)郡志賀村の白      水郎、荒雄が許に詣(ゆ)きて語りけらく、「僕(あれ)小事(こと)あり。      もし許さじか」。荒雄答へけらく、「僕郡(こほり)異(かは)れど      も、船に同(あひの)ること日久し。志兄弟(はらから)より篤し。殉死(ともにし)      ぬとも、なぞも辞(いな)まむ」。津麻呂が曰く、「府官(つかさ)僕(あれ)      を差して對馬の粮(かて)を送る舶の柁師(かぢとり)に充(あ)つ。容歯(よはひ)衰老(おとろ)      へ海つ路(ぢ)に堪へず。故(かれ)来たりて祇候(さもら)ふ。願はくは相      替りてよ」。ここに荒雄、許諾(うべな)ひて遂に彼(そ)の事に従ひ、      肥前国松浦県美弥良久(みみらく)の埼より発舶(ふなだち)して、直に對馬      を射して海を渡る。すなはち天(そら)暗冥(くらが)り、暴風(よこしまかぜ)雨に      交じり、竟に順風(おひて)無くして、海中(うみ)に沈没(しづ)みき。因斯(かれ)妻(め)      子(こ)等、特慕(しぬ)ひかねて此の謌を裁作(よ)めり。或ひは、筑前      国守山上憶良臣、妻子の傷みを悲感(かなし)み、志を述べて此      の歌を作めりといへり。 無名歌六首 3870 紫の粉潟(こかた)の海に潜(かづ)く鳥玉潜き出ば吾(あ)が玉にせむ      右の歌一首。 3872 吾が門の榎(え)の実もり食(は)む百千鳥(ももちどり)千鳥は来れど君そ来まさぬ 3873 吾が門に千鳥しば鳴く起きよ起きよ我が一夜夫(ひとよづま)人に知らゆな      右の歌二首。 3871 角島(つぬしま)の瀬戸の若布は人の共(むた)荒かりしかど吾(あ)が共(むた)は和海藻(にきめ)      右の歌一首。 3874 射ゆ鹿(しし)を認(つな)ぐ川辺の和草(わかくさ)の身の若かへにさ寝し子らはも      右の歌一首。 3875 琴酒を 押垂(おしたる)小野ゆ 出づる水 ぬるくは出でず    寒水(ましみづ)の 心も潔(けや)に 思ほゆる 音の少なき    道に逢はぬかも 少なきよ 道に逢はさば 汝(いろ)着(け)せる    菅笠(すががさ)小笠(をがさ) 吾(あ)がうなげる 玉の七つ緒 取り替へも    申さむものを 少なきよ 道に逢はぬかも      右の歌一首。 豊前国(とよくにのみちのくち)の白水郎(あま)が歌一首 3876 豊国の企救(きく)の池なる菱の末(うれ)を摘むとや妹が御袖濡れけむ 豊後国(とよくにのみちのしり)の白水郎が歌一首 3877 紅に染めてし衣雨降りてにほひはすとも移ろはめやも 能登の国の歌三首 3878 梯立(はしたて)の 熊来(くまき)のやらに 新羅斧 落し入れわし    懸けて懸けて な泣かしそね 浮き出づるやと 見むわし      右の歌一首は、伝云けらく、或る愚人(かたくなひと)、斧の      海底(うみ)に堕ちて、鉄(かね)沈(しづ)きて浮かばざることを解(さと)ら      ざりしかば、聊か此の歌をよみて喩(さと)せりき。 3879 梯立の 熊来酒屋に ま罵(ぬ)らる 奴わし    さすひ立て 率(ゐ)て来(き)なましを ま罵らる 奴わし      右一首。 3880 香島嶺(ね)の 机の島の 小螺(したたみ)を い拾(ひり)ひ持ち来て    石もち つつき破(はふ)り 早川に 洗ひ濯ぎ    辛塩に ここと揉み 高坏(たかつき)に盛り 机に立てて    母に奉(まつ)りつや 女(め)つ児の刀自 父に奉りつや み女つ児の刀自 越中国(こしのみちのなかのくに)の歌四首 3881 大野道は繁道(しげち)の森径(もりぢ)繁くとも君し通はば道は広けむ 3882 澁谿(しぶたに)の二上山(ふたかみやま)に鷲ぞ子産(む)といふ翳(さしは)にも君が御為に鷲ぞ子産といふ 3883 伊夜彦(いやひこ)おのれ神さび青雲の棚引く日すら小雨そほ降る 一ニ云ク、あなに神さび 3884 伊夜彦の神の麓に今日らもか鹿(か)の伏せるらむ皮衣着て角つけながら 乞食者(ほかひひと)の詠(うた)二首 3885 愛子(いとこ) 汝兄(なせ)の君 居り居りて 物にい行くと    韓国(からくに)の 虎といふ神を 生け捕りに 八つ捕り持ち来    その皮を 畳に刺し 八重畳 平群(へぐり)の山に    四月(うつき)と 五月(さつき)の間(ほと)に 薬猟 仕ふる時に    あしひきの この片山に 二つ立つ 櫟(いちひ)が本に    梓弓 八つ手挟(たばさ)み ひめ鏑(かぶら) 八つ手挟み    獣(しし)待つと 吾(あ)が居る時に さ牡鹿の 来立ち嘆かく    たちまちに 吾(あれ)は死ぬべし おほきみに 吾(あれ)は仕へむ    吾(あ)が角(つぬ)は 御笠の栄(は)やし 吾が耳は 御墨の坩(つぼ)    吾が目らは 真澄の鏡 吾が爪は 御弓の弓弭(ゆはず)    吾が毛らは 御筆の栄(は)やし 吾が皮は 御箱の皮に    吾が肉(しし)は 御膾(みなます)栄やし 吾が肝も 御膾栄やし    吾が屎(みぎ)は 御塩の栄やし 老いはてぬ 我が身一つに    七重花咲く 八重花咲くと 申し賞(は)やさね 申し賞やさね      右の歌一首は、鹿の為に痛(おもひ)を述べてよめり。 3886 押し照るや 難波の小江(をえ)に 廬(いほ)作り 隠(なま)りて居る    葦蟹を おほきみ召すと 何せむに  吾(あ)を召すらめや    明らけく 吾(あ)は知ることを 歌人(うたひと)と 我(わ)を召すらめや    笛吹きと  我を召すらめや 琴弾きと 我(わ)を召すらめや    かもかくも 命(みこと)受けむと 今日今日と 飛鳥に至り    置かねども 置勿(おきな)に至り つかねども 都久野(つくぬ)に至り    東(ひむかし)の 中の御門ゆ 参り来て 命受くれば    馬にこそ 絆(ふもだし)掛くもの 牛にこそ 鼻縄はくれ    あしひきの この片山の 百楡(もむにれ)を 五百枝(いほえ)剥き垂り    天照るや 日の日(け)に干し さひづるや 柄臼(からうす)に舂き    庭に立つ 磑子(すりうす)に舂き 押し照るや 難波の小江の    初垂(はつたれ)を 辛く垂り来て 陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を    今日行きて 明日取り持ち来 我が目らに 塩塗り給ひ    もちはやすも もちはやすも      右の歌一首は、蟹の為に痛(おもひ)を述べてよめり。 怕(おどろ)しき物の歌三首 3887 天なるや神楽良(ささら)の小野に茅草(ちかや)刈り草(かや)刈りばかに鶉を立つも 3888 沖つ国領(し)らす君が染(し)め屋形黄染めの屋形神が門(と)渡る 3889 人魂(ひとたま)のさ青(を)なる君が唯独り逢へりし雨夜は久しく思ほゆ -------------------------------------------------------- .巻第十七(とをまりななまきにあたるまき) 天平(てむひやう)二年(ふたとせといふとし)庚午(かのえうま)冬十一月(しもつき)、太宰帥(おほみこともちのかみ)大伴の卿(まへつきみ)の、大納言(おほきものまをすつかさ)に任(よ)さされ 帥を兼ねたまふこと旧の如し、京(みやこ)に上りたまふ時、陪従人(ともひと)ら、海路(うみつぢ)に別れて京に入(むか)へり。是に羇旅(たび)を悲傷(かなし)み、各(おのもおのも)所心(おもひ)を陳べてよめる歌十首(とを) 3890 我が背子を吾(あ)が松原よ見渡せば海人娘子(あまをとめ)ども玉藻刈る見ゆ      右の一首(ひとうた)は、三野連石守(みぬのむらじいそもり)がよめる。 3891 荒津の海潮干潮満ち時はあれどいづれの時か吾(あ)が恋ひざらむ 3892 磯ごとに海人の釣舟泊てにけり我が船泊てむ磯の知らなく 3893 昨日こそ船出はせしか鯨魚(いさな)取り比治奇(ひぢき)の灘を今日見つるかも 3894 淡路島門(と)渡る船の楫間にも吾(あれ)は忘れず家をしそ思ふ 3895 玉はやす武庫の渡りに天伝ふ日の暮れ行けば家をしそ思ふ 3896 家にてもたゆたふ命波の上に浮きてし居れば奥処(おくか)知らずも 3897 大海の奥処も知らず行く我をいつ来まさむと問ひし子らはも 3898 大船の上にし居(を)れば天雲のたどきも知らずうたがた我が背 3899 海人娘子漁(いざ)り焚く火の朧(おほほ)しく角(つぬ)の松原思ほゆるかも      右の九首(ここのうた)は、作者(よみびと)不審姓名(しらず)。 十年(ととせといふとし)七月(ふみつき)の七日(なぬか)の夜、独り天漢(あまのがは)を仰(み)て懐(おも)ひを述ぶる歌一首 3900 織女(たなばた)し船(ふな)乗りすらし真澄鏡(まそかがみ)清き月夜(つくよ)に雲立ち渡る      右の一首(ひとうた)は、大伴宿禰家持がよめる。 十二年(ととせまりふたとせといふとし)十一月(しもつき)九日(ここのかのひ)、太宰(おほみこともち)の時の梅の花の歌を追ひて和(よ)める新歌(にひうた)六首 3901 御冬過ぎ春は来たれど梅の花君にしあらねば折る人もなし 3902 梅の花み山と繁(しみ)にありともやかくのみ君は見れど飽かにせむ 3903 春雨に萌えし柳か梅の花ともに後れぬ常の物かも 3904 梅の花いつは折らじと厭はねど咲きの盛りは惜しきものなり 3905 遊ぶ日の楽(たぬ)しき庭に梅柳折り挿頭(かざ)してば思ひ無みかも 3906 御苑生(みそのふ)の百木の梅の散る花の天(あめ)に飛び上がり雪と降りけむ      右、大伴宿禰家持がよめる。 十二年(ととせまりみとせといふとし)の二月(きさらぎ)、三香原(みかのはら)の新都(にひみやこ)を讃むる歌一首、また短歌(みじかうた) 3907 山背(やましろ)の 久迩(くに)の都は 春されば 花咲き撓(をを)り    秋されば 黄葉(もみちば)にほひ 帯ばせる 泉の川の    上つ瀬に 打橋渡し 淀瀬には 浮橋渡し    あり通ひ 仕へまつらむ 万代までに 反し歌 3908 楯並(たたな)めて泉の川の水脈(みを)絶えず仕へまつらむ大宮所      右、右馬頭(みぎのうまのつかさのかみ)境部宿禰老麿(さかひべのすくねおゆまろ)がよめる。 四月(うつき)の二日(ふつかのひ)、霍公鳥(ほととぎす)を詠める歌二首 3909 橘は常花(とこはな)にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ 3910 玉に貫(ぬ)く楝(あふち)を家に植ゑたらば山霍公鳥離(か)れず来むかも      右、大伴宿禰書持が奈良の宅(いへ)より兄家持に贈る。 四月の三日(みかのひ)、和ふる歌三首 橙橘(たちばな)初めて咲き、霍公鳥嚶(な)き飜(かへ)る。此の時候(とき)に対(あた)りて、なぞも志を暢(の)べざらむ。因(かれ)三首(みつ)の短歌をよみて、欝結(おほほ)しき緒(おもひ)を散(や)るにこそ 3911 足引(あしひき)の山辺(やまへ)に居(を)れば霍公鳥木の間立ち潜(く)き鳴かぬ日はなし 3912 霍公鳥何の心そ橘の玉貫く月し来鳴き響(とよ)むる 3913 霍公鳥楝の枝にゆきて居(ゐ)ば花は散らむな玉と見るまで      右、内舎人(うちとねり)大伴宿禰家持が久迩の京より弟(おと)書持に報送(こた)ふ。 霍公鳥を思(しの)ふ歌一首 田口朝臣馬長(たぐちのあそみうまをさ)がよめる 3914 霍公鳥今し来鳴かば万代に語り継ぐべく思ほゆるかも      右ハ伝ヘテ云ク、一時交遊集宴セリ。此ノ日      此処ニ霍公鳥喧カズ。仍チ件ノ歌ヲ作ミテ、      思慕ノ意ヲ陳ベリト。但其ノ宴ノ所ト年月ハ、      詳審ラカニスルコトヲ得ズ。 山部宿禰赤人が春鴬(うぐひす)を詠める歌一首 3915 足引の山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声      右ハ年月所処、詳審カニスルコトヲ得ズ。但      聞キシ時ノ随ニ茲ニ記載ス。 十六年(ととせまりむとせといふとし)四月の五日(いつかのひ)、独り平城(なら)の故宅(ふるへ)に居りてよめる歌六首 3916 橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ 3917 霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れずか鳴かむ 3918 橘のにほへる苑に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを 3919 青丹よし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに 3920 鶉鳴き古しと人は思へれど花橘のにほふこの屋戸 3921 かきつはた衣に摺り付け大夫(ますらを)の着装(きそ)ひ猟する月は来にけり      右、大伴宿禰家持がよめる。 十八年(ととせまりやとせといふとし)の正月(むつき)、白雪(ゆき)多く零り地(つち)に積むこと数寸(ふかし)。時に左大臣(ひだりのおほまへつきみ)橘の卿(まへつきみ)、中納言(なかのものまをすつかさ)藤原豊成朝臣と諸王(おほきみたち)諸臣(おみたち)とを率(ゐ)て、太上天皇(おほきすめらみこと)の御在所(みあらか)中宮西院 に参入(まゐ)りて、供(つか)へ奉(まつ)りて雪を掃(はら)ふ。是に詔(みことのり)して大臣(おほまへつきみ)参議(おほまつりごとひと)また諸王をば大殿の上(へ)に侍(さもら)はしめ、諸卿大夫(まへつきみたち)をば南の細殿に侍はしめて、酒(おほみき)賜ひて肆宴(とよのあかり)す。勅(みことのり)したまはく、汝(いまし)諸王卿等(おほきみたち、まへつきみたち)、此の雪を賦(よ)みて、各(おのもおのも)其の歌を奏(まを)せとのりたまへり。 左大臣橘宿禰の詔を応(うけたま)はる歌一首 3922 降る雪の白髪までに大皇(おほきみ)に仕へまつれば貴くもあるか 紀朝臣清人(きのあそみきよひと)が詔を応はる歌一首 3923 天の下すでに覆ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか 紀朝臣男梶(をかぢ)が詔を応はる歌一首 3924 山の峡(かひ)そことも見えず一昨日(をとつひ)も昨日も今日も雪の降れれば 葛井連諸會(ふぢゐのむらじもろあひ)が詔を応はる歌一首 3925 新(あらた)しき年の初めに豊の年表(しる)すとならし雪の降れるは 大伴宿禰家持が詔を応はる歌一首 3926 大宮の内にも外(と)にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも      藤原豊成朝臣、巨勢奈弖麻呂朝臣、大伴牛養宿禰、      藤原仲麻呂朝臣、三原王、智奴王、船王、邑知王、      小田王、林王、穂積朝臣老、小田朝臣諸人、小野      朝臣綱手、高橋朝臣国足、太朝臣徳太理、高丘連      河内、秦忌寸朝元、楢原造東人。右の件(くだり)の王(おほきみ)      卿(まへつきみ)たち、詔を応はりてよめる歌、次(つぎて)の依(まにま)      に奏(まを)せりき。登時(すなはち)其の歌の漏失(もれ)しをば記さず。      但(ただ)秦忌寸朝元は、左大臣橘の卿の謔(たは)ぶれて曰(のたま)は      く、歌を賦み堪(あ)へずば、麝(かほりけだもの)以ちて贖(あがな)へと      のりたまへり。此に因りて黙止(もだ)りき。 大伴宿禰家持、天平十八年閏七月(のちのふみつき)、越中国(こしのみちのなかのくに)の守(かみ)に任(ま)けられ、即ち七月に任所(まけどころ)に赴(ゆ)く。時に姑(をば)大伴坂上郎女が家持に贈れる歌二首 3927 草枕旅ゆく君を幸(さき)くあれと斎瓮(いはひへ)据ゑつ吾(あ)が床の辺(べ)に 3928 今のごと恋しく君が思ほえば如何にかも為むするすべの無さ また越中国に贈る歌二首 3929 旅に去(い)にし君しも継ぎて夢(いめ)に見ゆ吾(あ)が片恋の繁ければかも 3930 道の中国つ御神は旅ゆきもし知らぬ君を恵みたまはな 平群氏女郎(へぐりうぢのいらつめ)が越中守大伴宿禰家持に贈れる歌十二首(とをまりふたつ) 3931 君により我が名はすでに龍田山絶えたる恋の繁きころかも 3932 須磨ひとの海辺常去らず焼く塩の辛(から)き恋をも吾(あれ)はするかも 3933 ありさりて後も逢はむと思へこそ露の命も継ぎつつ渡れ 3934 なかなかに死なば安けむ君が目を見ず久ならばすべなかるべし 3935 隠沼(こもりぬ)の下ゆ恋ひあまり白波のいちしろく出でぬ人の知るべく 3936 草枕旅にしばしばかくのみや君を遣りつつ吾(あ)が恋ひ居らむ 3937 草枕旅去(い)にし君が帰り来む月日を知らむすべの知らなく 3938 かくのみや吾(あ)が恋ひ居らむぬば玉の夜の紐だに解き放(さ)けずして 3939 里近く君がなりなば恋ひめやともとな思ひし吾(あれ)そ悔しき 3940 万代と心は解けて我が背子が抓(つ)みしを見つつ忍びかねつも 3941 鴬の鳴くくら谷に打ち嵌めて焼けはしぬとも君をし待たむ 3942 松の花花数にしも我が背子が思へらなくにもとな咲きつつ      右ノ件ノ十二首ノ歌ハ、時々ニ便使ニ寄セテ      来贈ル。一度ニ送レルニハ在ラズ。 八月(はつき)の七日(なぬか)の夜、守大伴宿禰家持が館(たち)に集ひて宴する歌 3943 秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折り来る女郎花(をみなへし)かも      右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。 3944 女郎花咲きたる野辺を行き廻り君を思ひ出徘徊(たもとほ)り来ぬ 3945 秋の夜は暁(あかとき)寒し白布(しろたへ)の妹が衣袖(ころもて)着むよしもがも 3946 霍公鳥鳴きて過ぎにし岡傍(び)から秋風吹きぬよしもあらなくに      右の三首は、掾(まつりごとひと)大伴宿禰池主がよめる。 3947 今朝の朝明(あさけ)秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも 3948 天ざかる夷(ひな)に月経ぬしかれども結ひてし紐を解きも開けなくに      右の二首は、守大伴宿禰家持がよめる。 3949 天ざかる夷にある我をうたがたも紐解き放けず思ほすらめや      右の一首は、掾大伴宿禰池主。 3950 家にして結ひてし紐を解き放けず思ふ心を誰れか知らむも      右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。 3951 晩蝉(ひぐらし)の鳴きぬる時は女郎花咲きたる野辺を行きつつ見べし      右の一首は、大目(おほきふみひと)秦忌寸八千島(はたのいみきやちしま)。 古歌(ふるうた)一首 大原高安真人ノ作。年月審ラカナラズ。但聞キシ時ノ随ニ茲ニ記載ス。 3952 妹が家に伊久里(いくり)の杜の藤の花今来む春も常かくし見む      右の一首、伝へ誦(よ)むは僧(ほうし)玄勝(げむしやう)なり。 3953 雁がねは使ひに来むと騒くらむ秋風寒みその川の辺(べ)に 3954 馬並(な)めていざ打ち行かな澁谿(しぶたに)の清き磯廻(いそみ)に寄する波見に      右の二首は、守大伴宿禰家持。 3955 ぬば玉の夜は更けぬらし玉くしげ二上(ふたがみ)山に月かたぶきぬ      右の一首は、史生(ふみひと)土師宿禰道良(はにしのすくねみちよし)。 大目秦忌寸八千島が館に宴する歌一首 3956 奈呉の海人の釣する船は今こそは船棚(ふなだな)打ちて喘(あべ)て榜ぎ出め      右、館ノ客屋ハ居ナガラニシテ蒼海ヲ望ム。      仍テ主人八千島此歌ヲ作メリ。 長逝(みまか)れる弟(おと)を悲傷(かなし)む歌一首、また短歌(みじかうた) 3957 天ざかる 夷治めにと 大王の 任(まけ)のまにまに    出でて来(こ)し 我を送ると 青丹よし 奈良山過ぎて    泉川 清き河原に 馬駐(とど)め 別れし時に    好去(まさき)くて 吾(あれ)還り来む 平らけく 斎(いは)ひて待てと    語らひて 来(こ)し日の極み 玉ほこの 道をた遠み    山川の 隔(へな)りてあれば 恋しけく 日(け)長きものを    見まく欲り 思ふ間に 玉づさの 使の来(け)れば    嬉しみと 吾(あ)が待ち問ふに 妖言(およづれ)の 狂言(たはこと)とかも    愛(は)しきよし 汝弟(なおと)の命(みこと) 何しかも 時しはあらむを    はたすすき 穂に出(づ)る秋の 萩の花 にほへる屋戸を 言フハ、斯ノ人、為性(ヒトトナリ)花草花樹ヲ好愛(コノ)ミテ多ク寝院ノ庭ニ植ヱタリ。故レ花薫フ庭ト謂ヘリ。    朝庭に 出で立ち平(なら)し 夕庭に 踏み平らげず    佐保の内の 里を往き過ぎ 佐保山ニ火葬(ヤキハフリ)セリ。故レ佐保ノウチノサトヲユキスギト謂ヘリ。    足引の 山の木末(こぬれ)に 白雲に 立ち棚引くと 吾(あれ)に告げつる 3958 好去(まさき)くと言ひてしものを白雲に立ち棚引くと聞けば悲しも 3959 かからむとかねて知りせば越の海の荒磯(ありそ)の波も見せましものを      右、天平十八年秋九月(ながつき)の二十五日(はつかまりいつかのひ)、越中守大伴      宿禰家持が遥かに弟の喪を聞き感傷(かなし)みてよめるなり。 相(あ)へるを歓ぶ歌二首 3960 庭に降る雪は千重敷くしかのみに思ひて君を吾(あ)が待たなくに 3961 白波の寄する磯廻を榜ぐ舟の楫取る間なく思ほえし君      右、天平十八年八月、掾大伴宿禰池主が大帳使に      附きて、京師(みやこ)に赴向(おもむ)き、同じ年の十一月(しもつき)、本の任(つかさ)      に還到(かへ)れり。仍(かれ)宴して弾琴(ことふえ)の飲楽(あそび)せり。時に白雪(ゆき)      降りて、地(つち)に積むこと尺余(ひとさかあまり)なり。復(また)漁夫(あま)の船、      入海に瀾(なみ)に浮かぶ。爰に守大伴宿禰家持が二つの      ものを眺(み)て、聊か所心(おもひ)を裁(の)ぶ。 十九年(ととせまりここのとせといふとし)春二月(きさらぎ)の二十日(はつかのひ)、忽ち病ひに沈み、殆(ほとほと)みうせなむとす。仍(かれ)歌詞(うた)をよみて、悲緒(かなしみ)を申(の)ぶる一首(ひとうた)、また短歌 3962 大王の 任(まけ)のまにまに 大夫(ますらを)の 心振り起こし    足引の 山坂越えて 天ざかる 夷に下り来    息だにも いまだ休めず 年月も いくらもあらぬに    うつせみの 世の人なれば 打ち靡き 床に転(こ)い伏し    痛けくし 日に異(け)に増さる たらちねの 母の命の    大船の ゆくらゆくらに 下恋に いつかも来むと    待たすらむ 心寂(さぶ)しく 愛(は)しきよし 妻の命も    明けくれば 門に寄り立ち 衣袖(ころもで)を 折り返しつつ    夕されば 床打ち払ひ ぬば玉の 黒髪敷きて    いつしかと 嘆かすらむそ 妹(いも)も兄(せ)も 若き子どもは    をちこちに 騒き泣くらむ 玉ほこの 道をた遠(どほ)み    間使(まつかひ)も 遺るよしも無し 思ほしき 言伝(つ)て遣らず    恋ふるにし 心は燃えぬ 玉きはる 命惜しけど    為むすべの たどきを知らに かくしてや 荒夫(あらしを)すらに 嘆き伏せらむ 3963 世間(よのなか)は数なきものか春花の散りの乱(まが)ひに死ぬべき思へば 3964 山川の極(そきへ)を遠み愛(は)しきよし妹を相見ずかくや嘆かむ      右、越中国の守の館にて、病に臥し悲傷みて、      此の歌をよめり。 二十年(はたとせといふとし)二月の二十九日(はつかまりここのかのひ)、守大伴宿禰家持が掾大伴宿禰池主に贈れる悲しみの歌二首 忽に病ひに沈み、累旬痛苦す。百神を祷ひ恃みて、且消損を得れども、由ほ身体疼(いた)み羸(つか)れ、筋力怯軟(よは)くして、未だ謝を展るに堪へず。係恋弥よ深し。方今(いま)春の朝春の花、春の苑に流馥(にほ)ひ、春の暮春の鴬、春の林に囀(な)く。此の節候に対(あた)りて、琴樽翫(もてあそ)びつべし。乗興の感有りと雖も、策杖の労に耐へず。独り帷幄の裏に臥して、聊か寸分の歌をよみて、軽(かろがろ)しく机下に奉り、玉頤を解かむことを犯す。其の詞に曰く、 3965 春の花今は盛りににほふらむ折りて挿頭(かざ)さむ手力(たぢから)もがも 3966 鴬の鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折り挿頭さむ      天平二十年二月二十九日、大伴宿禰家持。 三月(やよひ)の二日、掾(まつりごとひと)大伴宿禰池主が守大伴宿禰家持に報贈(こた)ふる歌二首 忽に芳音を辱(かたじけなく)す。翰苑雲を凌ぎ、兼て倭詩(うた)を垂(たまは)る。詞林錦を舒べ、吟(うた)ひ詠(なが)めて能く恋緒をのぞく。春の朝の和気、固より楽しむべく、春の暮の風景、最も怜(たぬし)むべし。紅桃灼々とし、戯蝶花を回りて舞ひ、翠柳依々として、嬌鴬葉に隠りて歌ふ。楽しきかも。淡交席を促して、意を得て言を忘る。楽しきかも、美(うるは)しきかも。幽襟賞(いつく)しむに足れり。豈(あに)慮(はか)りきや、蘭尅pを隔て、琴樽用(つか)はるること無けむと。空しく令節を過さば、物色人を軽(あなづ)らむ。怨むる所此に有り。然黙止することを能はず。俗語に云く、藤を以て錦に続ぐと云へり。聊か談咲に擬するのみ。 3967 山峡(かひ)に咲ける桜をただ一目君に見せてば何をか思はむ 3968 鴬の来鳴く山吹うたがたも君が手触れず花散らめやも      沽洗(やよひ)の二日、掾大伴宿禰池主。 三月の三日(みかのひ)、守大伴宿禰家持が更に贈れる歌一首、また短歌 含弘の徳、恩を蓬体に垂れ、不貲の思、陋心に報へ慰めしむ。来眷を載荷し、喩ふる所に堪ふること無し。但稚き時、遊藝の庭に渉らず、横翰の藻、自ら彫虫に乏し。幼年山柿の門に逕らず、裁歌の趣、詞を叢林に失ふ。爰に藤を以て錦に続ぐといふ言を辱(かたじけな)くす。更に石を将て瓊に同じくする詠を題(しる)す。固(まこと)に俗愚懐癖、黙止すること能はず。仍(かれ)数行を捧げて、式て嗤咲に酬ふ。其の詞に曰く、 3969 大王(おほきみ)の 任(まけ)のまにまに しなざかる 越を治めに    出でて来し ますら我すら 世間(よのなか)の 常し無ければ    打ち靡き 床に臥い伏し 痛けくの 日に異に増せば    悲しけく ここに思ひ出 苛(いら)なけく そこに思ひ出    嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを    足引の 山来隔(へな)りて 玉ほこの 道の遠けば    間使も 遣るよしも無み 思ほしき 言も通はず    玉きはる 命惜しけど 為むすべの たどきを知らに    隠(こも)り居て 思ひ嘆かひ 慰むる 心はなしに    春花の 咲ける盛りに 思ふどち 手折り挿頭さず    春の野の 茂み飛び漏(く)く 鴬の 声だに聞かず    娘子らが 春菜摘ますと 紅の 赤裳の裾の    春雨に にほひ湿(ひ)づちて 通ふらむ 時の盛りを    いたづらに 過ぐし遣りつれ 偲はせる 君が心を    うるはしみ この夜すがらに 眠(い)も寝ずに 今日もしめらに 恋ひつつそ居る 3970 足引の山桜花一目だに君とし見てば吾(あれ)恋ひめやも 3971 山吹の茂み飛び漏く鴬の声を聞くらむ君は羨(とも)しも 3972 出で立たむ力を無みと隠(こも)り居て君に恋ふるに心神(こころど)もなし      三月(やよひ)の三日(みかのひ)、大伴宿禰家持。 晩春(やよひ)の三日、遊覧する七言の詩(からうた)一首、また序(はしかき) 上巳の名辰、暮春の麗景、桃花瞼(まなぶた)を照して、紅を分つ。柳の色苔を含みて緑を競ふ。時に手を携へて曠く江河の畔を望(みや)り、酒を訪ひて迥かに野客の家に過ぐ。既にして琴樽性を得、蘭契光を和らぐ。嗟乎、今日恨むる所は、徳星已に少きか。若し寂含の章を扣(たた)かずは、何を以てか逍遥の趣を抒(の)べむ。忽に短筆に課して、聊かに四韻を勒すなり。    余春の媚日怜賞すべし    上巳の風光覧遊するに足れり    柳陌江に臨みてゲン服を縟(まだら)にし    桃源海に通ひて仙舟を泛(うか)ぶ    雲罍(うんらい)桂を酌みて三清湛へ    羽爵人を催(うなが)して九曲流る    縦(ほしきまま)に酔ひ陶心彼我を忘れ    酩酊処として淹しく留らざること無し      三月の四日(よかのひ)、大伴宿禰池主。 掾大伴宿禰池主が報贈(こた)ふる歌二首、また短歌 昨日短懐を述べ、今朝耳目を汗(けが)す。更に賜書を承り、且不次を奉る。死罪々々謹み言(まを)す。下賎を遺(わす)れず、頻に徳音を恵む。英雲星気、逸調人に過ぎたり。智水仁山、既に琳瑯の光彩を韜(つつ)み、潘江陸海、自ら詩書の廊廟に坐す。思ひを非常に騁せ、情を有理に託(つ)け、七歩に章を成し、数篇紙に満つ。巧に愁人の重患を遣り、能く恋者の積思を除く。山柿の歌泉、此に比ぶるに蔑(な)きが如し。彫龍の筆海、粲然として看ることを得。方に僕の幸有ることを知りぬ。敬みて和ふる歌、其の詞に云く、 3973 大王の 命畏み 足引の 山野(やまぬ)障(さは)らず    天ざかる 夷も治むる 大夫(ますらを)や なにか物思(も)ふ    青丹よし 奈良道(ならぢ)来通ふ 玉づさの 使絶えめや    隠(こも)り恋ひ 息づきわたり 下思(したもひ)に 嘆かふ我が背    古ゆ 言ひ継ぎ来らく 世間(よのなか)は 数なきものそ    慰むる こともあらむと 里人の 吾(あれ)に告ぐらく    山傍(び)には 桜花(さくらばな)散り 容鳥(かほとり)の 間なくしば鳴く    春の野に すみれを摘むと 白布(しろたへ)の 袖折り返し    紅の 赤裳裾引き 娘子らは 思ひ乱れて    君待つと うら恋すなり 心ぐし いざ見にゆかな ことはたな知れ 3974 山吹は日に日に咲きぬうるはしと吾(あ)が思(も)ふ君はしくしく思ほゆ 3975 我が背子に恋ひすべなかり葦垣(あしかき)の外(ほか)に嘆かふ吾(あれ)し悲しも      三月の五日、大伴宿禰池主。 守大伴宿禰家持が、また報贈(こた)ふる詩(からうた)一首、また短歌 昨暮使を来(たまは)る。幸なるかも、晩春遊覧の詩を垂れ、今朝信を累ぬ。辱(かなじけな)きかも、相招望野の歌を賜はる。一たび玉藻を看て、稍欝結を写し、二たび秀句を吟ひて、已に愁緒をのぞく。此の眺翫にあらずは、孰(たれ)か能く心を暢べむ。但惟(ただ)下僕(あれ)、禀性彫(ゑ)り難く、闇神瑩(みが)くこと靡し。翰を握れば毫を腐し、研に対へば渇を忘る。終日因流して、綴れども能はず。所謂(いはゆる)文章の天骨、習へども得ず。豈字を探り韻を勒して、雅篇に叶和するに堪へむ。抑々鄙里の少児に聞く、古の人言酬いざるは無しと。聊か拙詠を裁りて、敬みて解咲に擬す。如今(いま)言を賦し韻を勒し、斯の雅作の篇に同じくす。豈石を将て瓊に同じくし、声遊の走曲に唱ふるに殊ならむ。抑小児の濫謡に譬ふ。敬みて葉端に写し、式て乱に擬すに曰く、     七言一首    抄春の余日媚景麗し    初巳の和風払ひて自ら軽し    来燕泥を銜えて宇を賀きて入る    帰鴻蘆を引きて迥(はる)かに瀛(おき)に赴く    聞く君が嘯侶新たに曲を流すことを    禊飲爵を催して河の清きに泛ぶ    此の良宴を追尋せむと欲すれども    還りて知りぬ染懊して脚のレイテイすることを 短歌二首 3976 咲けりとも知らずしあらば黙(もだ)もあらむこの山吹を見せつつもとな 3977 葦垣の外(ほか)にも君が寄り立たし恋ひけれこそは夢に見えけれ     三月の五日、大伴宿禰家持が病み臥(こ)やりてよめる。 恋の緒(こころ)を述ぶる歌一首、また短歌 3978 妹も吾(あれ)も 心は同(おや)じ たぐへれど いやなつかしく    相見れば 常初花(とこはつはな)に 心ぐし 目ぐしもなしに    愛(は)しけやし 吾(あ)が奥妻 大王の 命畏み    足引の 山越え野行き 天ざかる 夷治めにと    別れ来(こ)し その日の極み あら玉の 年行き返り    春花の うつろふまでに 相見ねば 甚(いた)もすべ無み    敷布(しきたへ)の 袖返しつつ 寝る夜おちず 夢には見れど    うつつにし 直(ただ)にあらねば 恋しけく 千重に積もりぬ    近くあらば 帰りにだにも うち行きて 妹が手枕    差し交へて 寝ても来(こ)ましを 玉ほこの 道はし遠(どほ)く    関さへに 隔(へな)りてあれこそ よしゑやし よしはあらむそ    霍公鳥 来鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ    卯の花の にほへる山を 外(よそ)のみも 振り放け見つつ    近江路(あふみぢ)に い行き乗り立ち 青丹よし 奈良の吾家(わがへ)に    鵺鳥(ぬえとり)の うら嘆(な)げしつつ 下恋に 思ひうらぶれ    門に立ち 夕占(ゆふけ)問ひつつ 吾(あ)を待つと 寝(な)すらむ妹を 逢ひて早見む 3979 あら玉の年返るまで相見ねば心も萎(しぬ)に思ほゆるかも 3980 ぬば玉の夢にはもとな相見れど直にあらねば恋ひやまずけり 3981 足引の山来隔(へな)りて遠けども心しゆけば夢に見えけり 3982 春花のうつろふまでに相見ねば月日数(よ)みつつ妹待つらむそ      右、三月の二十日(はつか)の夜裏(よ)、忽ち恋の情(こころ)を起してよめる。      大伴宿禰家持。 立夏四月(うつきたち)、既(はや)く累日(ひかず)を経て、由ほ霍公鳥の喧(こゑ)を聞かず。因れ恨みてよめる歌二首 3983 足引の山も近きを霍公鳥月立つまでに何か来鳴かぬ 3984 玉に貫く花橘を乏(とも)しみしこの我が里に来鳴かずあるらし      霍公鳥は立夏(うつきたつ)日、必ず来鳴きぬ。又越中(こしのみちのなか)の      風土(くにざま)、橙橘(たちばな)希なり。此に因りて大伴宿禰家持が懐      を感発(かま)けて、此歌を裁(よ)めり。三月二十九日。 二上(ふたがみ)山の賦(うた)一首 此山ハ射水郡ニ在リ 3985 射水川(いみづがは) い行き廻れる 玉くしげ 二上山は    春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に    出で立ちて 振り放け見れば 神柄(かむから)や そこば貴き    山柄(やまから)や 見が欲しからむ すめ神の 裾廻(すそみ)の山の    澁谿(しぶたに)の 崎の荒磯(ありそ)に 朝凪に 寄する白波    夕凪に 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく    古(いにしへ)ゆ 今の現在(をつづ)に かくしこそ 見る人ごとに 懸けて偲はめ 3986 澁谿の崎の荒磯に寄する波いやしくしくに古思ほゆ 3987 玉くしげ二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり      右、三月の三十日(つごもりのひ)、興(こと)に依(つ)けてよめる。大伴宿禰家持。 四月の十六日(とをかまりむかのひ)の夜裏(よ)、遥かに霍公鳥の喧(こゑ)を聞きて懐(おもひ)を述ぶる歌一首 3988 ぬば玉の月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠(どほ)みかも      右、大伴宿禰家持がよめる。 大目(おほきふみひと)秦忌寸八千島の館にて、守大伴宿禰家持を餞(うまのはなむけ)する宴の歌二首 3989 奈呉(なご)の海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば 3990 我が背子は玉にもがもな手に巻きて見つつ行かむを置き去(い)かば惜し      右、守大伴宿禰家持が正税帳を以ちて京師(みやこ)に入(まゐ)らむとす。      仍(かれ)此歌をよみて、相別(わかれ)の嘆を陳ぶ。四月二十日。 布勢水海(ふせのみづうみ)に遊覧(あそ)べる賦(うた)一首、また短歌 此海ハ射水郡ノ舊江村ニ在リ 3991 物部(もののふ)の 八十伴男(やそとものを)の 思ふどち 心遣らむと    馬並めて 彼此触(うちくちぶり)の 白波の 荒磯に寄する    澁谿の 崎廻(たもとほ)り 松田江(まつだえ)の 長浜過ぎて    宇奈比(うなひ)川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き    見つれども そこも飽かにと 布施の海に 舟浮け据ゑて    沖へ榜ぎ 辺に榜ぎ見れば 渚には あぢ群騒き    島廻(しまみ)には 木末(こぬれ)花咲き ここばくも 見のさやけきか    玉くしげ 二上山に 延(は)ふ蔦の 行きは別れず    あり通ひ いや毎年(としのは)に 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと 3992 布勢の海の沖つ白波あり通ひいや毎年(としのは)に見つつ偲はむ      右、守大伴宿禰家持がよめる。四月廿四日。 布勢水海に遊覧びたまへる賦(うた)に敬和(こたへまを)す一首(うたひとつ)、また一絶(みじかうたひとつ) 3993 藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今そ盛りと    足引の 山にも野にも 霍公鳥 鳴きし響(とよ)めば    打ち靡く 心も撓(しぬ)に そこをしも うら恋しみと    思ふどち 馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば    射水川 水門(みなと)の渚鳥(すどり) 朝凪に 潟に漁りし    潮満てば 嬬(つま)呼び交す 羨しきに 見つつ過ぎ行き    澁谿の 荒磯の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻    片縒(よ)りに 蘰(かづら)に作り 妹がため 手に巻き持ちて    うらぐはし 布勢の水海に 海人船に 真楫(まかぢ)掻い貫(ぬ)き    白布(しろたへ)の 袖振り返し 率(あども)ひて 我が榜ぎ行けば    乎布(をふ)の崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨(あしがも)騒き    さざれ波 立ちても居ても 榜ぎ廻り 見れども飽かず    秋さらば 黄葉(もみち)の時に 春さらば 花の盛りに    かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや 3994 白波の寄せ来る玉藻世の間も継ぎて見に来む清き浜傍(び)を      右、掾大伴宿禰池主がよめる。四月廿六日追和。 四月の二十六日(はつかまりむかのひ)、掾大伴宿禰池主が館にて、税帳使守大伴宿禰家持を餞(うまのはなむけ)する宴の歌、また古歌(ふるうた)四首 3995 玉ほこの道に出で立ち別れなば見ぬ日さまねみ恋しけむかも      右の一首は、大伴宿禰家持がよめる。 3996 我が背子が国へましなば霍公鳥鳴かむ五月(さつき)は寂(さぶ)しけむかも      右の一首は、介(すけ)内藏忌寸繩麿(うちのくらのいみきなはまろ)がよめる。 3997 吾(あれ)なしとな侘び我が背子霍公鳥鳴かむ五月は玉を貫(ぬ)かさね      右の一首は、守大伴宿禰家持が和(こた)ふ。 石川朝臣水通(みとほし)が橘の歌一首 3998 我が屋戸の花橘を花ごめに玉にそ吾(あ)が貫く待たば苦しみ      右の一首、伝へ誦むは主人(あるじ)大伴宿禰池主なりき。 守大伴宿禰家持が館にて飲宴(さけのみするひ)の歌一首 四月二十六日 3999 都方(みやこへ)に立つ日近づく飽くまてに相見て行かな恋ふる日多けむ 立山(たちやま)の賦(うた)一首、また短歌 此山ハ新河郡ニ在リ 4000 天ざかる 夷に名懸かす 越の中 国内(くぬち)ことごと    山はしも 繁(しじ)にあれども 川はしも 多(さは)にゆけども    すめ神の 領(うしは)きいます 新川(にひかは)の その立山に    常(とこ)なつに 雪降り敷きて 帯ばせる 片貝川の    清き瀬に 朝宵ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや    あり通ひ いや毎年(としのは)に 外(よそ)のみも 振り放け見つつ    万代の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ    音のみも 名のみも聞きて 羨(とも)しぶるがね 4001 立山に降り置ける雪を常なつに見れども飽かず神(かむ)ながらならし 4002 片貝の川の瀬清くゆく水の絶ゆることなくあり通ひ見む      四月の二十七日、大伴宿禰家持がよめる。 立山の賦に敬和(こたへまを)す一首(うたひとつ)、また二絶(みじかうたふたつ) 4003 朝日さし 背向(そがひ)に見ゆる 神(かむ)ながら 御名に負はせる    白雲の 千重を押し分け 天(あま)進(そそ)り 高き立山    冬夏と 別(わ)くこともなく 白布(しろたへ)に 雪は降り置きて    古ゆ 在り来にければ 凝々(こご)しかも 巌(いは)の神さび    玉きはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども霊(あや)し    峯高(だか)み 谷を深みと 落ち激(たぎ)つ 清き河内(かふち)に    朝離(さ)らず 霧立ち渡り 夕されば 雲居たな引き    雲居なす 心も萎(しぬ)に 立つ霧の 思ひ過ぐさず    行く水の 音も清(さや)けく 万代に 言ひ継ぎゆかむ 川し絶えずは 4004 立山に降り置ける雪の常なつに消(け)ずてわたるは神(かむ)ながらとそ 4005 落ち激つ片貝川の絶えぬごと今見る人も止まず通はむ      右、掾大伴宿禰池主が和ふ。四月廿八日。 京(みやこ)に入(まゐ)らむこと漸(やや)近く、悲しみの情(こころ)撥(はら)ひ難くて、懐(おもひ)を述ぶる歌一首、また一絶 4006 かき数(かぞ)ふ 二上山に 神さびて 立てる樛(つが)の木    幹(もと)も枝(え)も 同(おや)じ常磐(ときは)に 愛(は)しきよし 我が背の君を    朝離(さ)らず 逢ひて言問(ことど)ひ 夕されば 手携はりて    射水川 清き河内に 出で立ちて 我が立ち見れば    東風(あゆ)の風 甚(いた)くし吹けば 水門(みなと)には 白波高み    嬬(つま)呼ぶと 渚鳥(すどり)は騒く 葦刈ると 海人の小舟(をぶね)は    入江榜ぐ 楫の音高し そこをしも あやに羨(とも)しみ    偲ひつつ 遊ぶ盛りを 天皇(すめろき)の 食(を)す国なれば    御言持ち 立ち別れなば 後れたる 君はあれども    玉ほこの 道ゆく我は 白雲の 棚引く山を    岩根踏み 越え隔(へな)りなば 恋しけく 日(け)の長けむそ    そこ思(も)へば 心し痛し 霍公鳥 声にあへ貫(ぬ)く    玉にもが 手に巻き持ちて 朝宵に 見つつゆかむを 置きて去(い)かば惜し 4007 我が背子は玉にもがもな霍公鳥声にあへ貫き手に巻きてゆかむ      右、大伴宿禰家持が掾大伴宿禰池主に贈る。四月卅日。 忽に入京述懐の作を見て、生きながら別るる悲しみ、腸を断つこと万回。怨緒禁(のぞ)き難し。聊か所心を奉(まを)す一首(うたひとつ)、また二絶(みじかうたふたつ) 4008 青丹よし 奈良を来離れ 天ざかる 夷(ひな)にはあれど    我が背子を 見つつし居(を)れば 思ひ遣る 事もありしを    大王(おほきみ)の 命畏み 食す国の 事執り持ちて    若草の 脚帯(あゆひ)手装(たづく)り 群鳥(むらとり)の 朝立ち去なば    後れたる 吾(あれ)や悲しき 旅にゆく 君かも恋ひむ    思ふそら 安くあらねば 嘆かくを 留めもかねて    見わたせば 卯の花山の 霍公鳥 音のみし泣かゆ    朝霧の 乱るる心 言に出でて 言はば忌々(ゆゆ)しみ    礪波(となみ)山 手向(たむけ)の神に 幣(ぬさ)まつり 吾(あ)が乞ひ祈(の)まく    愛(は)しけやし 君が直香(ただか)を 真幸(まさき)くも 在り廻(たもとほ)り    月立たば 時も易(か)はさず 撫子が 花の盛りに 相見しめとそ 4009 玉ほこの道の神たち幣(まひ)はせむ吾(あ)が思ふ君をなつかしみせよ 4010 うら恋し我が背の君は撫子が花にもがもな朝旦(あさなさな)見む      右、大伴宿禰池主が報贈(こた)ふる和歌(うた)。五月二日。 放逸(そら)せる鷹を思(しぬ)ひ、夢(いめ)に見て感悦(よろこ)びよめる歌一首、また短歌 4011 大王(おほきみ)の 遠の朝廷(みかど)と 御雪降る 越と名に負へる    天ざかる 夷にしあれば 山高(だか)み 川透白(とほしろ)し    野を広み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛りと    島つ鳥 鵜養(うかひ)が伴は 行く川の 清き瀬ごとに    篝さし なづさひ上る 露霜の 秋に至れば    野も多(さは)に 鳥多集(すだ)けりと 大夫(ますらを)の 友誘(いざな)ひて    鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 吾(あ)が大黒(おほくろ)に 大黒ハ蒼鷹ノ名ナリ    白塗(しらぬり)の 鈴取り付けて 朝猟に 五百(いほ)つ鳥立て    夕猟に 千鳥踏み立て 追ふ毎に 免(ゆる)すことなく    手放(たばなれ)も 還(をち)も可易き これをおきて または在り難し    さ並べる 鷹は無けむと 心には 思ひ誇りて    笑まひつつ 渡る間に 狂(たぶ)れたる 醜(しこ)つ翁の    言だにも 我には告げず との曇り 雨の降る日を    鳥猟(とがり)すと 名のみを告(の)りて 三島野を 背向(そがひ)に見つつ    二上(ふたがみ)の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去(い)にきと    帰り来て 咳(しはぶ)れ告ぐれ 招(を)くよしの そこに無ければ    言ふすべの たどきを知らに 心には 火さへ燃えつつ    思ひ恋ひ 息吐(づ)きあまり けだしくも 逢ふことありやと    足引の 彼面此面(をてもこのも)に 鳥網(となみ)張り 守部(もりべ)を据ゑて    ちはやぶる 神の社(やしろ)に 照る鏡 倭文(しづ)に取り添へ    乞ひ祈みて 吾(あ)が待つ時に 少女(をとめ)らが 夢(いめ)に告ぐらく    汝(な)が恋ふる その秀(ほ)つ鷹は 松田江の 浜ゆき暮らし    つなし捕る 氷見(ひみ)の江過ぎて 多古の島 飛び徘徊(たもとほ)り    葦鴨の 多集(すだ)く舊江(ふるえ)に 一昨日(をとつひ)も 昨日もありつ    近くあらば いま二日だみ 遠くあらば 七日(なぬか)のうちは    過ぎめやも 来(き)なむ我が背子 ねもころに な恋ひそよとそ 夢(いめ)に告げつる 4012 矢形尾の鷹を手に据ゑ三島野に猟らぬ日まねく月そ経にける 4013 二上の彼面此面に網さして吾(あ)が待つ鷹を夢(いめ)に告げつも 4014 松反(がへ)りしひにてあれかもさ山田の翁(をぢ)がその日に求めあはずけむ 4015 心には緩(ゆる)ぶことなく須加の山すかなくのみや恋ひわたりなむ      右、射水郡古江の村にて蒼鷹を取獲たり。形容      美麗(うるは)しくて、雉を鷙(と)ること群に秀れたり。時に      養吏(たかかひ)山田史君麿、調試節を失ひ、野猟候に乖く。      風に搏る翅、高く翔り雲に匿る。腐鼠の餌、呼      び留むるに験靡し。是に羅網を張り設けて非常      を窺ひ、神祇に奉幣して虞らざるを恃む。粤(ここ)に      夢裏(いめ)に娘子有り。喩して曰く、使君(きみ)苦念を作し      て空に精神を費すこと勿れ。逸放(そら)せる彼の鷹、      獲り得むこと未幾(ちかけむ)。須叟ありて覚寤して、懐に      悦びて、因(かれ)恨みを却す歌をよみ、式て感信を旌      す。守大伴宿禰家持。九月二十六日ニ作メリ。 高市連黒人が歌一首 年月審ラカナラズ 4016 婦負(めひ)の野のすすき押しなべ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ      右、此の歌を伝へ誦むは三國真人五百國(いほくに)なり。 二十一年(はたとせまりひととせといふとし)春正月(むつき)の二十九日(はつかまりここのかのひ)、よめる歌 4017 東風(あゆのかぜ) 越ノ俗語ニ東風ヲアユノカゼト謂ヘリ 甚(いた)く吹くらし奈呉の海人の釣する小舟榜ぎ隠る見ゆ 4018 水門(みなと)風寒く吹くらし奈呉の江に嬬(つま)呼び交し鶴(たづ)多(さは)に鳴く 4019 天ざかる夷とも著(しる)くここだくも繁き恋かも和(なぐ)る日もなく 4020 越の海の信濃 浜ノ名ナリ の浜をゆき暮らし長き春日(はるひ)も忘れて思へや      右の四首(ようた)は、大伴宿禰家持。 礪波郡(となみのこほり)雄神河(をかみのかは)の辺(へ)にてよめる歌一首 4021 雄神川紅にほふ娘子らし葦付 水松ノ類 取ると瀬に立たすらし 婦負郡(めひのこほり)にて鵜坂河(うさかがは)を渡る時よめる歌一首 4022 鵜坂川渡る瀬多みこの吾(あ)が馬(ま)の足掻(あがき)の水に衣濡れにけり 潜鵜(うつかふ)人を見てよめる歌一首 4023 婦負川の早き瀬ごとに篝さし八十伴男(やそとものを)は鵜川立ちけり 新河郡(にひかはのこほり)にて延槻河(はひつきがは)を渡る時よめる歌一首 4024 立山の雪し消(く)らしも延槻の川の渡り瀬鐙(あぶみ)漬かすも 氣多の大神宮(おほかみのみや)に赴参(まゐ)るに、海辺を行く時よめる歌一首 4025 志雄路(しをぢ)から直(ただ)越え来れば羽咋(はくひ)の海朝凪したり船楫(ふねかじ)もがも 能登郡にて、香島の津より発船(ふなで)して、熊來(くまき)の村を射して徃く時よめる歌二首 4026 鳥総(とぶさ)立て船木(ふなき)伐るといふ能登の島山今日見れば木立繁しも幾代神(かむ)びそ 4027 香島より熊來をさして榜ぐ船の楫取る間なく都し思ほゆ 鳳至郡(ふふしのこほり)にて饒石川(にぎしかは)を渡る時よめる歌一首 4028 妹に逢はず久しくなりぬ饒石川清き瀬ごとに水占(みなうら)はへてな 珠洲郡(すすのこほり)より発船(ふなで)して、太沼郡(おほみのさと)に還る時、長濱の湾(うら)に泊てて月光(つき)を仰見(み)てよめる歌一首 4029 珠洲の海に朝開きして榜ぎ来れば長濱の浦に月照りにけり      右の件の歌詞(うた)は、春の出挙(すいこ)に依りて諸郡(こほりこほり)を巡行(めぐ)る。      当時(すなはち)目に属(つ)く所(ごと)によめる。大伴宿禰家持。 鴬の晩哢(おそき)を怨む歌一首 4030 鴬は今は鳴かむと片待てば霞たな引き月は経につつ 造酒(みきたてまつる)歌一首 4031 中臣の太祝詞言(ふとのりとごと)言ひ祓へ贖(あが)ふ命も誰がために汝(なれ)      右、大伴宿禰家持がよめる。 -------------------------------------------------------- .巻第十八(とをまりやまきにあたるまき) 天平(てむひやう)二十一年(はたとせまりひととせといふとし)、春三月(やよひ)の二十三日(はつかまりみかのひ)、左大臣(ひだりのおほまへつきみ)橘の家の使者(つかひ)造酒司(さけのつかさ)の令史(ふみひと)田邊史福麿(たのべのふみひとさきまろ)を、守(かみ)大伴宿禰家持が館(たち)に饗(あへ)す。爰に新歌(にひうた)を作(よ)み、また古詠(ふるうた)を誦(うた)ひて、各(おのもおのも)心緒(おもひ)を述ぶ 4032 奈呉の海に舟しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む 4033 波立てば奈呉の浦廻(み)に寄る貝の間無き恋にそ年は経にける 4034 奈呉の海に潮の早干(ひ)ばあさりしに出でむと鶴(たづ)は今そ鳴くなる 4035 霍公鳥いとふ時なしあやめ草かづらにせむ日こゆ鳴き渡れ      右の四首(ようた)は、田邊史福麿。 その時明日布勢(ふせ)の水海に遊覧(あそ)ばむと期(ちぎ)りき。かれ懐(おもひ)を述べて各(おのもおのも)作(よ)める歌 4036 いかにせる布勢の浦そもここだくに君が見せむと我を留むる      右の一首(ひとうた)は、田邊史福麿。 4037 乎布(をふ)の崎榜ぎ廻(たもとほ)りひねもすに見とも飽くべき浦にあらなくに 一ニ云ク、君が問はすも      右の一首は、守大伴宿禰家持。 4038 玉くしげいつしか明けむ布勢の海の浦を行きつつ玉藻拾(ひり)はむ 4039 音のみに聞きて目に見ぬ布勢の浦を見ずは上(のぼ)らじ年は経ぬとも 4040 布勢の浦を行きてし見てば百敷の大宮人に語り継ぎてむ 4041 梅の花咲き散る園に我ゆかむ君が使を偏(かた)待ちがてら 4042 藤波の咲きゆく見れば霍公鳥(ほととぎす)鳴くべき時に近づきにけり      右の五首は、田邊史福麿。 4043 明日の日の布勢の浦廻の藤波にけだし来鳴かず散らしてむかも 一ニ頭云ク、ほととぎす      右の一首は、大伴宿禰家持が和(こた)ふ。      前の件の十首歌(とうた)は、二十四日(はつかまりよかのひ)の宴によめる。 二十五日(はつかまりいつかのひ)、布勢の水海に往く道中(みち)、馬にのりながら口号(よ)める二首(うたふたつ) 4044 浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣船 4045 沖辺より満ち来る潮のいや益しに吾(あ)が思(も)ふ君が御船かも彼      右の一首は、大伴宿禰家持。 水海に至りて遊覧(あそ)ぶ時、各(おのもおのも)懐(おもひ)を述べて作める歌六首 4046 神(かむ)さぶる垂姫(たるひめ)の崎榜ぎめぐり見れども飽かずいかに我せむ      右の一首は、田邊史福麿。 4047 垂姫の浦を榜ぎつつ今日の日は楽しく遊べ言ひ継ぎにせむ      右の一首は、遊行女婦(うかれめ)土師(はにし)。 4048 垂姫の浦を榜ぐ舟楫間(かぢま)にも奈良の我家(わぎへ)を忘れて思へや      右の一首は、大伴宿禰家持。 4049 疎(おろ)かにそ我は思ひし乎布の浦の荒磯(ありそ)のめぐり見れど飽かずけり      右の一首は、田邊史福麿。 4050 めづらしき君が来まさば鳴けと言ひし山ほととぎす何か来鳴かぬ      右の一首は、掾(まつりごとひと)久米朝臣廣繩(ひろなは)。 4051 多古(たこ)の崎木晩(このくれ)繁(しげ)に霍公鳥来鳴き響(とよ)まばはた恋ひめやも      右の一首は、大伴宿禰家持。      前の件の八首歌(やうた)は、二十五日よめる。 掾久米朝臣廣繩が館(たち)にて、田邊史福麿を饗(あへ)する宴の歌四首 4052 ほととぎす今鳴かずして明日越えむ山に鳴くとも験(しるし)あらめやも      右の一首は、田邊史福麿。 4053 木晩(このくれ)になりぬるものを霍公鳥何か来鳴かぬ君に逢へる時      右の一首は、久米朝臣廣繩。 4054 霍公鳥こよ鳴き渡れ灯し火を月夜(つくよ)になそへその影も見む 4055 鹿蒜廻(かへるみ)の道ゆかむ日は五幡(いつはた)の坂に袖振れ我をし思はば      右の二首は、大伴宿禰家持。      前の件の四首歌(ようた)は、二十六日よめる。 太上皇(おほきすめらみこと) 清足姫天皇なり 難波の宮に御在(いま)す時の歌七首 左大臣(ひだりのおほまへつきみ)橘宿禰の歌一首 4056 堀江には玉敷かましを大王(おほきみ)を御船漕がむとかねて知りせば 御製歌(みよみませるおほみうた)一首 和 4057 玉敷かず君が悔いて言ふ堀江には玉敷き満てて継ぎて通はむ 或ハ云ク、玉扱(こ)き敷きて      右の件の二首歌(ふたうた)は、御船江より泝(のぼ)りて      遊宴(うたげ)する日、左大臣の奏(まを)す歌、また御製(おほみうた)。 御製歌一首 4058 橘の殿の橘弥(や)つ代にも吾(あれ)は忘れじこの橘を 河内女王の歌一首 4059 橘の下照(で)る庭に殿建てて酒漬(さかみづ)きいます我が大王かも 粟田女王の歌一首 4060 月待ちて家には行かむ我が插せるあから橘影に見えつつ      右の件の三首歌は、左大臣橘の卿(まへつきみ)の宅(いへ)に在(いま)      して、肆宴(とよのあかり)きこしめす御歌(おほみうた)、また奏す歌。 4061 堀江より水脈(みを)引きしつつ御船さす賤男(しづを)の伴は川の瀬申せ 4062 夏の夜は道たづたづし船に乗り川の瀬ごとに棹さし上れ      右の件の二首歌は、御船綱手を以(ひき)て江より泝(のぼ)り遊宴(うたげ)      せる日作めり。伝へ誦(よ)む人は、田邊史福麿なり。 後に追ひて和(なぞら)ふる橘の歌二首 4063 常世物この橘のいや照りにわご大王は今も見るごと 4064 大王は常磐にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして      右の二首は、大伴宿禰家持がよめる。 射水郡(いみづのこほり)の駅館(うまや)の屋柱(はしら)に題(か)き著くる歌一首 4065 朝開き入江榜ぐなる楫の音のつばらつばらに我家(わぎへ)し思ほゆ      右の一首は、山上臣がよめる。名はしらず。或ひと云く、      憶良の大夫(まへつきみ)の男(むすこ)といへり。但其の正名(な)さだかならず。 庭中(には)の牛麦(なでしこ)の花を詠める歌一首 4070 ひともとの撫子植ゑしその心誰(たれ)に見せむと思ひ始(そ)めけむ      右、先の国師の従僧(ずそう)清見、京師(みやこ)に入(まゐのぼ)らむとす。      因(かれ)飲饌(あるじ)を設(ま)けて饗宴(うたげ)す。時に主人(あろじ)大伴宿禰家持、      此の歌詞(うた)を作みて、酒を清見に送れりき。 また作(よ)める歌二首 4071 しなざかる越の君のとかくしこそ柳かづらき楽しく遊ばめ      右、郡司(こほりのつかさ)より下(しも)、子弟より上(かみ)、諸人此の      会(つどひ)にあり。因(かれ)守大伴宿禰家持、此の歌を作める。 4072 ぬば玉の夜渡る月を幾夜経(ふ)と数(よ)みつつ妹は我待つらむそ      右、此の夕、月の光遅く流れて、和やかなる風稍たちぬ。      即ち目に属(ふ)るるに因りて、聊か此の歌を作めり。 越前国(こしのみちのくちのくに)の掾大伴宿禰池主が来贈(おく)れる歌三首 今月十四日を以ちて、深見の村に到来(いた)り、彼の北方を望拝す。常に芳徳を思ふこと、何れの日か能く休(や)まむ。兼(また)隣近に以(より)て、忽ちに恋緒を増す。加以(しかのみにあらず)、先の書に云はく、「暮春惜しむべし、膝を促(ちかづ)くることいつとかせむ」と。生別の悲しみ、それ復た何をか言はむ。紙に臨(むか)ひて悽断す。奏状不備。 一 古人(いにしへひと)の云へらく 4073 月見れば同じ国なり山こそは君があたりを隔てたりけれ 一 物に属(つ)きて思ひを発(の)ぶ 4074 桜花今そ盛りと人は言へど吾(あれ)は寂(さぶ)しも君としあらねば 一 所心歌(おもひをのぶるうた) 4075 相思はずあるらむ君をあやしくも嘆きわたるか人の問ふまで      三月(やよひ)の十五日(とをかまりいつかのひ)、大伴宿禰池主。 越中国の守大伴宿禰家持が報贈(こた)ふる歌四首 一 古人の云(うた)に答ふ 4076 あしひきの山は無くもが月見れば同じき里を心隔てつ 一 物に属きて思ひを発ぶに答へ、兼(また)遷し任(よ)さして旧りにし宅の西北(にしきた)の隅の桜の樹を詠める 4077 我が背子が古き垣内(かきつ)の桜花いまだ含(ふふ)めり一目見に来ね 一 所心(おもひをのぶ)に答ふ。即ち古人之跡(ふること)を今日の意(こころ)に代へたり 4078 恋ふと言ふはえも名付けたり言ふすべのたづきも無きは吾(あ)が身なりけり 一 また物に属きてよめる 4079 三島野に霞たなびきしかすがに昨日も今日も雪は降りつつ      三月の十六日、大伴宿禰家持。 四月(うつき)の一日(つきたちのひ)、掾久米朝臣廣繩が館にて宴せる歌四首 4066 卯の花の咲く月立ちぬ霍公鳥来鳴き響めよ含みたりとも      右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。 4067 二上(ふたがみ)の山にこもれる霍公鳥今も鳴かぬか君に聞かせむ      右の一首は、遊行女婦(うかれめ)土師(はにし)がよめる。 4068 居り明かし今宵は飲まむ霍公鳥明けむ朝(あした)は鳴き渡らむそ       二日ハ立夏ノ節ニ応(アタ)ル。故(カレ)明旦ハ喧カムト謂ヘリ。      右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。 4069 明日よりは継ぎて聞こえむ霍公鳥一夜の故(から)に恋ひ渡るかも      右の一首は、羽咋郡(はくひのこほり)の擬主帳(ふみひと)能登臣乙美がよめる。 姑(をば)大伴氏坂上郎女が、越中守大伴宿禰家持に来贈(おく)れる歌二首 4080 常人の恋ふといふよりは余りにて我は死ぬべく成りにたらずや 4081 片思ひを馬に太馬(ふつま)に負ほせ持て越辺に遣らば人詐(かた)はむかも 越中守大伴宿禰家持が報ふる歌二首 4082 天ざかる夷の奴(やつこ)に天人(あめひと)しかく恋せれば生ける験あり 4083 常の恋いまだやまぬに都より馬に恋来ば担ひ堪(あ)へむかも 別(こと)に心(おもひ)をのぶ一首(ひとうた) 4084 暁(あかとき)に名のり鳴くなる霍公鳥いやめづらしく思ほゆるかも      右、四日(よかのひ)、使に附けて京師(みやこ)に贈上(おく)る。 天平感宝(てむひやうかむはう)元年(はじめのとし)五月(さつき)の五日(いつかのひ)、東大寺(ひむかしのおほてら)の占墾地使(はりところをしむるつかひ)の僧(ほうし)平榮等を饗(あへ)する時、守大伴宿禰家持が、酒を僧に送れる歌一首 4085 焼大刀(やきたち)を礪波(となみ)の関に明日よりは守部(もりべ)遣り添へ君をとどめむ 同(おや)じ月の九日(ここのかのひ)、諸僚(つかさづかさ)少目(すなきふみひと)秦伊美吉石竹(はたのいみきいはたけ)の館に会(つど)ひて飲宴(うたげ)す。その時主人(あろじ)、百合の花縵(はなかづら)三枚(みつ)を造りて、豆器(あぶらつき)に畳ね置き、賓客(まらひと)に捧贈(ささ)ぐ。各(おのもおのも)此(そ)の縵をよめる歌三首 4086 燈火(あぶらひ)の光に見ゆる我が縵早百合の花の笑まはしきかも      右の一首は、守大伴宿禰家持。 4087 灯し火の光に見ゆる早百合花ゆりも逢はむと思ひそめてき      右の一首は、介(すけ)内藏伊美吉繩麿(うちのくらのいみきなはまろ)。 4088 早百合花ゆりも逢はむと思へこそ今のまさかも睦(うる)はしみすれ      右の一首は、大伴家持 和。 短歌(みじかうた) [ママ] 独り幄(あげはり)の裏(うち)に居て、霍公鳥の喧(ね)を聞きてよめる歌一首、また短歌(みじかうた) 4089 高御座(たかみくら) 天(あま)の日継(ひつぎ)と すめろきの 神の命(みこと)の    聞こし食(を)す 国のまほらに 山をしも さはに多みと    百鳥(ももとり)の 来居て鳴く声 春されば 聞きのかなしも    いづれをか 別(わ)きて偲はむ 卯の花の 咲く月立てば    めづらしく 鳴く霍公鳥 あやめぐさ 玉貫くまでに    昼暮らし 夜わたし聞けど 聞くごとに 心うごきて    打ち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし 反し歌 4090 行方なくありわたるとも霍公鳥鳴きし渡らばかくや偲はむ 4091 卯の花の咲くにし鳴けば霍公鳥いやめづらしも名のり鳴くなべ 4092 霍公鳥いと妬(ねた)けくは橘の花散る時に来鳴き響(とよ)むる      右の四首は、十日、大伴宿禰家持がよめる。 英遠浦(あをのうら)に行くとき、よめる歌一首 4093 阿尾の浦に寄する白波いや益しに立ちしき寄せ来(く)東風(あゆ)をいたみかも      右の一首は、大伴宿禰家持がよめる。 陸奥国(みちのくのくに)より金(くがね)を出だせる詔書(みことのり)を賀(ことほ)く歌一首、また短歌 4094 葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめしける    すめろきの 神の命の 御代重ね 天の日継と    知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方(よも)の国には    山河を 広み厚みと たてまつる 御調(みつき)宝は    数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども 我が大王の    諸人(もろひと)を 誘(いざな)ひ賜ひ 善きことを 始め賜ひて    金(くがね)かも たのしけくあらむ と思ほして 下悩ますに    鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に    金ありと 奏(まう)し賜へれ 御心を 明らめ賜ひ    天地の 神相うづなひ 皇御祖(すめろき)の 御霊(みたま)助けて    遠き代に かかりしことを 朕(あ)が御代に 顕はしてあれば    食(を)す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして    もののふの 八十(やそ)伴の雄を まつろへの むけのまにまに    老人(おいひと)も 女童児(めのわらはこ)も しが願ふ 心足らひに    撫で賜ひ 治め賜へば ここをしも あやに貴み    嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の    その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし職(つかさ)    海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生す屍    大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと異立(ことだ)て    大夫(ますらを)の 清きその名を 古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に    流さへる 祖の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は    人の祖(おや)の 立つる異立て 人の子は 祖の名絶たず    大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官(つかさ)そ    梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き    朝守り 夕の守りに 大王の 御門の守り    我をおきて また人はあらじ といや立て 思ひし増さる    大王の 御言の幸(さき)の 聞けば貴み 反し歌三首 4095 大夫の心思ほゆ大王の御言の幸(さき)の聞けば貴み 4096 大伴の遠つ神祖(かむおや)の奥つ城(き)は著(しる)く標(しめ)立て人の知るべく 4097 すめろきの御代栄えむと東(あづま)なる陸奥山に金(くがね)花咲く      天平感宝元年五月の十二日、越中国の守の館にて、      大伴宿禰家持がよめる。 芳野の離宮(とつみや)に幸行(いでま)さむ時の為、儲(あらかじ)めよめる歌一首、また短歌 4098 高御座 天の日継と 天の下 知らしめしける    すめろきの 神の命の 畏くも 始め賜ひて    貴くも 定め賜へる み吉野の この大宮に    あり通ひ 見(め)したまふらし もののふの 八十伴の男も    おのが負へる おのが名名負ひ 大王の 任(まけ)のまにまに    この川の 絶ゆることなく この山の いや継ぎ継ぎに    かくしこそ 仕へまつらめ いや遠長に 反し歌 4099 古を思ほすらしも我ご大王吉野の宮をあり通ひ見(め)す 4100 もののふの八十氏人も吉野川絶ゆることなく仕へつつ見む 京(みやこ)の家に贈らむが為、真珠(しらたま)を願(ほり)する歌一首、また短歌 4101 珠洲(すす)の海人(あま)の 沖つ御神に い渡りて 潜(かづ)き取るといふ    鮑(あはび)玉 五百箇(いほち)もがも 愛(は)しきよし 妻の命の    衣手の 別れし時よ ぬば玉の 夜床(よどこ)片さり    朝寝髪 掻きも梳らず 出でて来し 月日数(よ)みつつ    嘆くらむ 心なぐさに 霍公鳥 来鳴く五月の    あやめ草 花橘に 貫(ぬ)き交へ 縵(かづら)にせよと    包みて遣らむ 反し歌四首 4102 白玉を包みて遣らなあやめ草花橘にあへも貫くがね 4103 沖つ島い行き渡りて潜くちふ鰒玉もが包みて遣らむ 4104 我妹子が心なぐさに遣らむため沖つ島なる白玉もがも 4105 白玉の五百(いほ)つ集ひを手にむすび遣(おこ)せむ海人は喜(むが)しくもあるか      右、五月の十四日、大伴宿禰家持が興(こと)に依(つ)けてよめる。 史生(ふみひと)尾張少咋(をはりのをくひ)を教喩(さと)す歌一首、また短歌 七出の例(さだめ)に云はく、 但一条を犯せらば、即ち出(さ)るべし。七出無くて輙(すなは)ち棄(さ)らば、徒(みつかふつみ)一年半(ひととせまりむつき)。 三不去の例(さだめ)に云はく、 七出を犯すとも、棄(さ)るべからず。違へらば、杖一百。唯奸悪疾を犯せれば棄(さ)れ。 両妻の例に云はく、 妻有りて更に娶らば徒一年。女家は杖一百にして離(はな)て。 詔書に云はく、 義夫節婦を愍み賜ふ。 先(かみ)の件の数条(をどをぢ)を謹み案(かむが)ふるに、建法(のり)の基、化道(みち)の源(はじめ)なり。然れば則ち義夫の道、情存して別無く、一家財を同じくす。豈旧きを忘れ新しきを愛(うつく)しむる志あるべしや。所以(かれ)数行の歌を綴作(よ)み、旧きを棄(さ)る惑を悔いしむ。その詞に曰く、 4106 大汝(おほなむぢ) 少彦名(すくなひこな)の 神代より 言ひ継ぎけらく    父母を 見れば貴く 妻子(めこ)見れば 愛(かな)しくめぐし    うつせみの 世のことわりと かくさまに 言ひけるものを    世の人の 立つる異立て ちさの花 咲ける盛りに    愛(は)しきよし その妻の子と 朝宵に 笑みみ笑まずも    打ち嘆き 語りけまくは とこしへに かくしもあらめや    天地の 神言寄せて 春花の 盛りもあらむと    待たしけむ 時の盛りを 離(さか)り居て 嘆かす妹が    いつしかも 使の来むと 待たすらむ 心寂(さぶ)しく    南風(みなみ)吹き 雪消(け)溢(はふ)りて 射水川(いみづがは) 浮ぶ水沫(みなわ)の    寄る辺無み 左夫流(さぶる)その子に 紐の緒の いつがり合ひて    にほ鳥の 二人並び居 奈呉の海の 奥(おき)を深めて    惑(さど)はせる 君が心の すべもすべなさ 佐夫流ト言フハ、遊行女婦ガ字(アザナ)ナリ 反し歌三首 4107 青丹よし奈良にある妹が高々に待つらむ心しかにはあらじか 4108 里人の見る目恥づかし左夫流子に惑(さど)はす君が宮出(みやで)後風(しりぶり) 4109 紅はうつろふものそ橡(つるはみ)のなれにし衣になほしかめやも      右、五月の十五日、守大伴宿禰家持がよめる。 先(もと)の妻(め)、夫(せ)の君の喚(め)す使を待たず、自ら来たる時よめる歌一首 4110 左夫流子がいつぎし殿に鈴懸けぬ駅馬(はゆま)下れり里もとどろに      同じ月の十七日、大伴宿禰家持がよめる。 橘の歌一首、また短歌 4111 かけまくも あやに畏し 皇祖神(すめろき)の 神の大御代に    田道間守(たぢまもり) 常世に渡り 八矛(やほこ)持ち 参ゐ出来(こ)しとふ    時じくの 香久(かく)の木(こ)の実を 畏くも 残し賜へれ    国も狭(せ)に 生ひ立ち栄え 春されば 孫枝(ひこえ)萌いつつ    霍公鳥 鳴く五月には 初花を 枝に手折りて    をとめらに 苞(つと)にも遣りみ 白妙の 袖にも扱入(こき)れ    香ぐはしみ 置きて枯らしみ 熟(あ)ゆる実は 玉に貫きつつ    手に巻きて 見れども飽かず 秋づけば しぐれの雨降り    あしひきの 山の木末(こぬれ)は 紅に にほひ散れども    橘の なれるその実は ひた照りに いや見が欲しく    み雪降る 冬に至れば 霜置けども その葉も枯れず    常磐なす いや栄(さかは)えに しかれこそ 神の御代より    よろしなべ この橘を 時じくの 香久の木の実と 名付けけらしも 反し歌一首 4112 橘は花にも実にも見つれどもいや時じくに猶し見が欲し      閏五月(のちのさつき)の二十三日(はつかまりみかのひ)、大伴宿禰家持がよめる。 庭中(には)の花を詠(み)てよめる歌一首、また短歌 4113 おほきみの 遠の朝廷(みかど)と 任(ま)きたまふ 官(つかさ)のまにま    み雪降る 越に下り来 あら玉の 年の五年(いつとせ)    敷妙の 手枕まかず 紐解かず 丸寝(まろね)をすれば    いふせみと 心なぐさに 撫子を 屋戸に蒔き生ほし    夏の野の 早百合引き植ゑて 咲く花を 出で見るごとに    撫子が その花妻に 早百合花 ゆりも逢はむと    慰むる 心し無くば 天ざかる 夷に一日も あるべくもあれや 反し歌二首 4114 撫子が花見る毎にをとめらが笑まひのにほひ思ほゆるかも 4115 早百合花ゆりも逢はむと下延(ば)ふる心し無くば今日も経めやも      同じ〔閏五〕月の二十六日、大伴宿禰家持がよめる。 国の掾久米朝臣廣繩、天平二十年(はたとせといふとし)に、朝集使(まゐうごなはるつかひ)に附きて京(みやこ)に入(のぼ)り、その事畢(をは)りて、天平感宝元年閏五月(のちのさつき)の二十七日(はつかまりなぬかのひ)、本の任(つかさ)に還到(かへ)る。仍(かれ)長官(かみ)の館(たち)に詩酒宴(うたげ)楽飲(あそ)べり。その時主人(あろじ)守大伴宿禰家持がよめる歌一首、また短歌 4116 おほきみの 任(ま)きのまにまに 取り持ちて 仕ふる国の    年の内の 事結(かた)ね持ち 玉ほこの 道に出で立ち    岩根踏み 山越え野行き 都辺に 参ゐし我が兄(せ)を    あら玉の 年ゆき返(がへ)り 月重ね 見ぬ日さまねみ    恋ふるそら 安くしあらねば 霍公鳥 来鳴く五月の    あやめ草 蓬かづらき 酒漬(さかみづ)き 遊びなぐれど    射水川 雪消(ゆきけ)溢(はふ)りて 行く水の いや益しにのみ    鶴(たづ)が鳴く 奈呉江の菅の ねもころに 思ひ結ほれ    嘆きつつ 吾(あ)が待つ君が 事終り 帰り罷りて    夏の野の 早百合の花の 花笑みに にふぶに笑みて    逢はしたる 今日を始めて 鏡なす かくし常見む 面変りせず 反し歌二首 4117 去年(こぞ)の秋相見しまにま今日見れば面やめづらし都方人(みやこかたひと) 4118 かくしても相見るものを少なくも年月経れば恋ひしけめやも 霍公鳥の喧(ね)を聞きてよめる歌一首 4119 古よ偲ひにければ霍公鳥鳴く声聞きて恋しきものを 京(みやこ)に向(まゐ)でむ時、貴人(うまひと)を見、美人(をとめ)に逢ひて飲宴(うたげ)せむ日、懐(おもひ)を述べむ為、儲(あらかじ)めよめる歌二首 4120 見まく欲り思ひしなべに縵(かづら)掛け香ぐはし君を相見つるかも 4121 朝参(まゐり)の君が姿を見ず久に夷(ひな)にし住めば吾(あれ)恋ひにけり 一ニ云ク、愛(は)しきよし妹が姿を      同じ〔閏五〕月の二十八日(はつかまりやかのひ)、大伴宿禰家持がよめる。 天平感宝元年閏五月の六日(むかのひ)より小旱(ひでり)して、百姓(おほみたから)のうゑし田畝(た)稍(やや)凋める色あり。六月(みなつき)の朔日(つきたちのひ)に至りて、忽ちに雨雲之気(あまけのくも)を見、仍て作める歌一首 短歌一絶 4122 すめろきの 敷きます国の 天の下 四方の道には    馬の爪 い尽くす極み 船(ふな)の舳(へ)の い泊(は)つるまでに    古よ 今の現(をつつ)に 万調(よろづつき) 奉る長上(つかさ)と    作りたる その農業(なりはひ)を 雨降らず 日の重なれば    植ゑし田も 蒔きし畑も 朝ごとに 凋(しほ)み枯れゆく    そを見れば 心を痛み 緑子の 乳(ち)乞ふがごとく    天つ水 仰(あふ)ぎてそ待つ あしひきの 山のたをりに    この見ゆる 天の白雲 海神(わたつみ)の 奥津宮(おきつみや)辺に    立ちわたり との曇りあひて 雨も賜はね 反し歌一首 4123 この見ゆる雲ほびこりてとの曇り雨も降らぬか心足らひに      右の二首は、六月の一日の晩頭(ゆふぐれ)、守大伴宿禰家持がよめる。 雨落(あめ)を賀(よろこ)ぶ歌一首 4124 我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも年は栄えむ      右の一首は、同じ月の四日(よかのひ)、大伴宿禰家持がよめる。 七夕(なぬかのよ)の歌一首、また短歌 4125 天照(あまで)らす 神の御代より 安の川(がは) 中に隔てて    向ひ立ち 袖振り交はし 息の緒に 嘆かす子ら    渡り守 舟も設(まう)けず 橋だにも 渡してあらば    その上(へ)ゆも い行き渡らし 携はり 項(うな)がけり居て    思ほしき ことも語らひ 慰むる 心はあらむを    何しかも 秋にしあらねば 言問ひの 乏しき子ら    うつせみの 世の人我も ここをしも あやに奇(くす)しみ    往き更(かは)る 年のはごとに 天の原 振り放(さ)け見つつ    言ひ継ぎにすれ 反し歌二首 4126 天の川橋渡せらばその上(へ)ゆもい渡らさむを秋にあらずとも 4127 安の川い向ひ立ちて年の恋日(け)長き子らが妻問の夜そ      右、七月(ふみづき)の七日(なぬかのひ)、天漢(あまのがは)を仰見(み)て、      大伴宿禰家持がよめる。 越前国(こしのみちのくちのくに)の掾(まつりごとひと)大伴宿禰池主が来贈(おく)れる戯歌(たはれうた)四首 忽ちに恩賜を辱(かたじけな)くす。驚き欣ぶこと已(すで)に深し。心の中に咲(ゑみ)を含み、独り座りて稍開けば、表裏同じからず。相違何ぞ異れる。所由(そのゆゑ)を推し量るに、率爾に策を作(な)す歟。明かに言の如きことを知りぬ。豈に他の意有らめや。凡そ本物を貿易(まうやく)する、其の罪軽(かろ)からず。正贓倍贓、急(すみや)けく并満すべし。今風雲に勒して、徴使を発遣(おく)る。早速返報したまへ。延回したまふべからず。  勝宝元年十一月十二日。物貿易せらる下吏、謹みて  貿易の人断る庁官司の 庁の下に訴ふ。 別に白(まを)す、可怜(うつくしみ)の意、黙止(もだ)り能(え)ず。聊か四詠(ようた)を述(よ)みて、唯睡覚に擬す。 4128 草枕旅の翁と思ほして針そ賜へる縫はむ物もが 4129 針袋取り上げ前に置き返さへばおのともおのや裏も継ぎたり 4130 針袋帯び続けながら里ごとに照らさひ歩けど人もとがめず 4131 鶏(とり)が鳴く東(あづま)をさして誇(ふさ)へしに行かむと思へどよしもさねなし       右の歌の返報歌(こたへうた)は、脱漏(も)れて探求(もと)め得ず。 更に来贈(おく)れる歌二首 駅使(はゆまつかひ)を迎ふる事に依りて、今月十五日、部下(くぬち)加賀の郡の境に到来(いた)る。面蔭射水の郷に見はれ、恋緒深海(ふかみ)の村に結ふ。身胡馬にあらねど、心北風を悲しめり。月に乗りて徘徊(たもとほ)り、曽て為す所無く、稍来封を開く。その辞に云く、「著者先に奉る書、返りて疑ひに度れることを畏る歟」とのりたまへり。僕(われ)嘱羅を作し、且使君を悩ます。夫れ水を乞ひて酒を得、従来能き口なり。論じて時理に合へり。何か強吏と題(しる)さめや。尋ねて針袋の詠を誦むに、詞泉酌めども渇(つ)きず。膝を抱(むだ)き独り咲(わら)ふ。能く旅愁をのぞき、陶然として日を遣る。何か慮(はか)らむ、何か思はむ。短筆不宣。  勝宝元年十二月十五日。物を徴(はた)りし下司(かし)、謹みて 伏せぬ使君 記室に上(たてまつ)る。  別(こと)に奉る云々歌二首 4132 竪(たた)さにもかにも横さも奴とそ吾(あれ)はありける主の殿戸(とのど)に 4133 針袋これは賜(たば)りぬすり袋今は得てしか翁(おきな)さびせむ 宴席(うたげのとき)、雪、月、梅の花を詠める歌一首 4134 雪の上に照れる月夜に梅の花折りて送らむ愛(は)しき子もがも      右の一首は、十二月(しはす)、大伴宿禰家持がよめる。 4135 我が背子が琴取るなべに常人の言ふ嘆きしもいやしき増すも      右の一首は、少目(すなきふみひと)秦伊美吉石竹が館の宴に、      守大伴宿禰家持がよめる。 天平勝宝二年正月(むつき)の二日、国庁(くにのまつりごとどの)にて諸(もろもろ)の郡司(こほりのつかさ)等を給饗(あろじ)せる宴歌(うた)一首 4136 あしひきの山の木末のほよ取りて挿頭(かざ)しつらくは千年寿(ほ)くとそ      右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。 判官(まつりごとひと)久米朝臣廣繩が館の宴の歌一首 4137 正月(むつき)立つ春の初めにかくしつつ相し笑みてば時じけめやも      同じ月の五日(いつかのひ)、守大伴宿禰家持がよめる。 墾田(はりた)の地(ところ)を検察(みさだ)むる事に縁りて、礪波の郡の主帳(ふみひと)多治比部北里(たぢひべのきたさと)が家に宿れる時、忽ちに風雨(かぜあめ)起こり、え辞去(かへ)らずてよめる歌一首 4138 荊波(やぶなみ)の里に宿借り春雨に籠りつつむと妹に告げつや      二月(きさらぎ)の十八日(とをかまりやかのひ)、守大伴宿禰家持がよめる。 -------------------------------------------------------- .巻第十九(とをまりここのまきにあたるまき) 天平勝宝(てむひやうしようはう)二年(ふたとせといふとし)三月(やよひ)の一日(つきたちのひ)の暮(ゆふへ)に、春の苑の桃李(ももすもも)の花を眺矚(み)て作(よ)める歌二首(ふたつ) 4139 春の苑紅にほふ桃の花下照(で)る道に出で立つ美人(をとめ) 4140 吾が園の李の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも 翻(と)び翔(かけ)る鴫(しぎ)を見てよめる歌一首(ひとつ) 4141 春設(ま)けて物悲(がな)しきにさ夜更けて羽振(ぶ)き鳴く鴫誰(た)が田にか食(は)む 二日(ふつかのひ)、柳黛(やなぎ)を攀ぢて京師(みやこ)を思(しぬ)ふ歌一首 4142 春の日に張れる柳を取り持ちて見れば都の大路(おほぢ)し思ほゆ 堅香子草(かたかご)の花を攀折(を)る歌一首 4143 もののふの八十(やそ)乙女らが汲み乱(まが)ふ寺井の上の堅香子の花 帰る雁を見る歌二首 4144 燕来る時になりぬと雁がねは本郷(くに)偲ひつつ雲隠り鳴く 4145 春設(ま)けてかく帰るとも秋風に黄葉(もみち)む山を越え来ざらめや 一ニ云ク、春されば帰るこの雁 夜裏(よる)千鳥の鳴くを聞く歌二首 4146 夜降(よぐた)ちに寝覚めて居れば川瀬尋(と)め心もしぬに鳴く千鳥かも 4147 夜降ちて鳴く川千鳥うべしこそ昔の人も偲ひ来にけれ 暁(あかとき)に鳴く雉(きぎし)を聞く歌二首 4148 杉の野にさ躍(をど)る雉いちしろく音(ね)にしも泣かむ隠(こも)り妻かも 4149 あしひきの八峯(やつを)の雉鳴きとよむ朝明(あさけ)の霞見れば悲しも 江(かは)を泝(のぼ)る船人(ふなひと)の唄を遥(はろばろ)聞く歌一首 4150 朝床に聞けば遥けし射水川(いみづがは)朝榜ぎしつつ唄ふ船人 三日(みかのひ)、守(かみ)大伴宿禰家持が館(たち)にて宴する歌三首(みつ) 4151 今日のためと思ひて標(しめ)しあしひきの峯上(をのへ)の桜かく咲きにけり 4152 奥山の八峰の椿つばらかに今日は暮らさね大夫(ますらを)の輩(とも) 4153 漢人(からひと)も船を浮かべて遊ぶちふ今日そ我が背子花縵(かづら)せな 八日(やかのひ)、白大鷹(ましらふのたか)を詠める歌一首、また短歌(みじかうた) 4154 あしひきの 山坂越えて 往きかはる 年の緒長く    しなざかる 越にし住めば 大王(おほきみ)の 敷きます国は    都をも ここも同(おや)じと 心には 思ふものから    語り放(さ)け 見放くる人眼 乏(とも)しみと 思ひし繁し    そこゆゑに 心なぐやと 秋づけば 萩咲きにほふ    石瀬(いはせ)野に 馬だき行きて をちこちに 鳥踏み立て    白塗りの 小鈴(をすず)もゆらに あはせ遣り 振り放け見つつ    いきどほる 心のうちを 思ひ延べ 嬉しびながら    枕付く 妻屋のうちに 鳥座(とくら)結ひ 据ゑてそ吾(あ)が飼ふ    真白斑(ましらふ)の鷹 反(かへ)し歌 4155 矢形尾の真白の鷹を屋戸に据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも 鵜潜(うつか)ふ歌一首、また短歌 4156 あら玉の 年ゆきかはり 春されば 花咲きにほふ    あしひきの 山下響(とよ)み 落ち激(たぎ)ち 流る辟田(さきた)の    川の瀬に 鮎子さ走り 島つ鳥 鵜養(うかひ)伴なへ    篝(かがり)さし なづさひ行けば 吾妹子(わぎもこ)が 形見がてらと    紅の 八入(やしほ)に染めて おこせたる 衣の裾も 徹りて濡れぬ 反し歌 4157 紅の衣にほはし辟田川絶ゆることなく吾等(あれ)かへり見む 4158 毎年(としのは)に鮎し走らば辟田川鵜八つ潜(かづ)けて川瀬尋ねむ 季春三月(やよひ)の九日(ここのかのひ)、出挙(すいこ)の政に擬(よ)りて舊江(ふるえ)の村に行き、道の上(ほとり)に目を物花に属(つ)くる詠(うた)、また興の中によめる歌 澁谿(しぶたに)の埼を過ぎて、巌(いそ)の上(へ)の樹を見る歌一首 樹名つまま 4159 磯の上(へ)のつままを見れば根を延(は)へて年深からし神さびにけり 世間(よのなか)の常無きを悲しむ歌一首、また短歌 4160 天地(あめつち)の 遠き初めよ 世の中は 常無きものと    語り継ぎ 流らへ来たれ 天の原 振り放け見れば    照る月も 満ち欠けしけり あしひきの 山の木末(こぬれ)も    春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露霜負ひて    風交(まじ)り もみち散りけり うつせみも かくのみならし    紅の 色もうつろひ ぬば玉の 黒髪変り    朝の笑み 夕へ変らひ 吹く風の 見えぬがごとく    行く水の 止まらぬごとく 常も無く うつろふ見れば    にはたづみ 流るる涙 とどめかねつも 反し歌 4161 言問はぬ木すら春咲き秋づけばもみち散らくは常を無みこそ 一ニ云ク、常なけむとそ 4162 うつせみの常無き見れば世の中に心つけずて思ふ日そ多き 一ニ云ク、嘆く日そ多き 予(あらかじ)めよめる七夕(なぬかのよ)の歌一首 4163 妹が袖われ枕かむ川の瀬に霧立ちわたれさ夜更けぬとに 勇士(ますらを)の名を振(ふる)ふを慕ふ歌一首、また短歌 4164 ちちの実の 父のみこと ははそ葉の 母のみこと    おほろかに 心尽して 思ふらむ その子なれやも    大夫(ますらを)や 空しくあるべき 梓弓 末振り起し    投ぐ矢持ち 千尋(ちひろ)射わたし 剣大刀 腰に取り佩き    あしひきの 八峯(やつを)踏み越え 差し任(まく)る 心障(さや)らず    後の世の 語り継ぐべく 名を立つべしも 反し歌 4165 大夫は名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね      右の二首は、山上憶良臣が作める歌に追ひて和(なぞら)ふ。 霍公鳥(ほととぎす)また時の花を詠める歌一首、また短歌 4166 時ごとに いやめづらしく 八千種(やちくさ)に 草木花咲き    鳴く鳥の 声も変らふ 耳に聞き 目に見るごとに    打ち嘆き 萎(しな)えうらぶれ 偲ひつつ 有り来るはしに    木晩(このくれ)の 四月(うつき)し立てば 夜隠(よごも)りに 鳴く霍公鳥    古よ 語り継ぎつる 鴬の 現(うつ)し真子(まご)かも    あやめ草 花橘を をとめらが 玉貫(ぬ)くまでに    あかねさす 昼はしめらに あしひきの 八峯飛び越え    ぬば玉の 夜はすがらに 暁(あかとき)の 月に向ひて    往き還り 鳴き響(とよ)むれど 如何で飽き足らむ 反し歌二首 4167 時ごとにいやめづらしく咲く花を折りも折らずも見らくしよしも 4168 毎年に来鳴くものゆゑ霍公鳥聞けば偲はく逢はぬ日を多み 毎年、としのはト謂フ      右、二十日(はつかのひ)、未だ時及ばずと雖も、興(こと)に依(つ)けて      預(あらかじ)めよめる。 家婦(め)が京(みやこ)に在(いま)す尊母(ははのみこと)に贈らむ為に、誂(あつら)へらえてよめる歌一首、また短歌 4169 霍公鳥 来鳴く五月(さつき)に 咲きにほふ 花橘の    かぐはしき 親の御言(みこと) 朝宵に 聞かぬ日まねく    天ざかる 夷にし居れば あしひきの 山のたをりに    立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けなくに    思ふそら 苦しきものを 奈呉の海人の 潜(かづ)き取るちふ    真珠(しらたま)の 見がほし御面 ただ向ひ 見む時までは    松柏(まつかへ)の 栄えいまさね 貴き吾(あ)が君 御面、みおもわト謂フ 反し歌一首 4170 白玉の見がほし君を見ず久に夷(ひな)にし居れば生けるともなし 二十四日(はつかまりよかのひ)、立夏四月節(うつきたつひのとき)に応(あた)れり。此に因りて二十三日(はつかまりみかのひ)の暮(ゆふへ)、忽ち霍公鳥(ほととぎす)の暁(あかとき)に喧かむ声を思(しぬ)ひてよめる歌二首 4171 常人も起きつつ聞くそ霍公鳥この暁(あかとき)に来鳴く初声 4172 ほととぎす来鳴き響まば草取らむ花橘を屋戸には植ゑずて 京(みやこ)の丹比(たぢひ)が家に贈れる歌一首 4173 妹を見ず越の国辺に年経(ふ)れば吾(あ)が心神(こころど)の慰(な)ぐる日も無し 筑紫の太宰(おほみこともち)の時の春の苑の梅を追ひてよめる歌一首 4174 春のうちの楽しき竟(を)へば梅の花手折り持ちつつ遊ぶにあるべし      右の一首は、二十七日(はつかまりなぬかのひ)、興(こと)に依(つ)けてよめる。 霍公鳥を詠める二首 4175 ほととぎす今来鳴きそむ菖蒲草(あやめぐさ)かづらくまでに離(か)るる日あらめや ものは三箇ノ辞闕ク 4176 我が門よ鳴き過ぎ渡る霍公鳥いやなつかしく聞けど飽き足らず ものはてにを六箇ノ辞闕ク 四月の三日、越前(こしのみちのくち)の判官(まつりごとひと)大伴宿禰池主に贈れる霍公鳥の歌、感旧の意(おもひ)に勝(た)へずて懐(おもひ)を述ぶる一首(ひとうた)、また短歌 4177 我が背子と 手携はりて 明けくれば 出で立ち向ひ    夕されば 振り放け見つつ 思ひ延べ 見なぎし山に    八峯には 霞たなびき 谷辺には 椿花咲き    うら悲し 春の過ぐれば 霍公鳥 いやしき鳴きぬ    独りのみ 聞けば寂(さぶ)しも 君と吾(あれ) 隔てて恋ふる    礪波山(となみやま) 飛び越えゆきて 明け立たば 松のさ枝に    夕さらば 月に向ひて あやめ草 玉貫くまでに    鳴き響め 安眠(やすい)し寝(な)さず 君を悩ませ 4178 吾(あれ)のみし聞けば寂しも霍公鳥丹生(にふ)の山辺にい行き鳴けやも 4179 ほととぎす夜鳴きをしつつ我が背子を安宿(やすい)な寝(な)せそゆめ心あれ 霍公鳥を感(め)づる心に飽かず、懐を述べてよめる歌一首、また短歌 4180 春過ぎて 夏来向へば あしひきの 山呼び響め    さ夜中に 鳴く霍公鳥 初声を 聞けばなつかし    あやめ草 花橘を ぬきまじへ 縵(かづら)くまでに    里響(とよ)め 鳴き渡れども なほし偲はゆ 反し歌三首 4181 さ夜更けて暁月に影見えて鳴く霍公鳥聞けばなつかし 4182 霍公鳥聞けども飽かず網捕りに捕りてなつけな離(か)れず鳴くがね 4183 霍公鳥飼ひ通せらば今年経て来向かふ夏はまづ鳴きなむを 京師(みやこ)より贈来(おこ)せる歌一首 4184 山吹の花取り持ちてつれもなく離(か)れにし妹を偲ひつるかも      右、四月の五日(いつかのひ)、郷(さと)に留れる女郎(いらつめ)より送(おこ)せたるなり。 山振(やまぶき)の花を詠める歌一首、また短歌 4185 現身(うつせみ)は 恋を繁みと 春設(ま)けて 思ひ繁けば    引き攀ぢて 折りも折らずも 見るごとに 心なぎむと    繁山の 谷辺に生ふる 山吹を 屋戸に引き植ゑて    朝露に にほへる花を 見るごとに 思ひはやまず    恋し繁しも 4186 山吹を屋戸に植ゑては見るごとに思ひはやまず恋こそまされ 六日(むかのひ)、布勢(ふせ)の水海(みづうみ)に遊覧(あそ)びてよめる歌一首、また短歌 4187 思ふどち 大夫(ますらをのこ)の 木(こ)の晩(くれ)の 繁き思ひを    見明らめ 心遣らむと 布勢の海に 小船(をぶね)連なめ    真櫂かけ い榜ぎ巡れば 乎布(をふ)の浦に 霞たなびき    垂姫(たるひめ)に 藤波咲きて 浜清く 白波騒き    しくしくに 恋はまされど 今日のみに 飽き足らめやも    かくしこそ いや年のはに 春花の 繁き盛りに    秋の葉の にほへる時に あり通ひ 見つつ偲はめ    この布勢の海を 反し歌 4188 藤波の花の盛りにかくしこそ浦榜ぎ廻(た)みつつ年に偲はめ 水烏(う)を越前判官大伴宿禰池主に贈れる歌一首、また短歌 4189 天ざかる 夷としあれは そこここも 同(おや)じ心そ    家離(ざか)り 年の経ぬれば うつせみは 物思(も)ひ繁し    そこゆゑに 心なぐさに 霍公鳥 鳴く初声を    橘の 玉にあへ貫き かづらきて 遊ばくよしも    ますらをを 伴なへ立ちて 叔羅川(しくらがは) なづさひ上り    平瀬には 小網(さで)さし渡し 早瀬には 鵜を潜(かづ)けつつ    月に日に しかし遊ばね 愛(は)しき我が背子 反し歌二首 4190 叔羅川瀬を尋ねつつ我が背子は鵜川立たさね心なぐさに 4191 鵜川立て取らさむ鮎のしが鰭(はた)は吾等(あれ)にかき向け思ひし思(も)はば      右、九日(ここのかのひ)、使に附けて贈れる。 霍公鳥また藤の花を詠める歌一首、また短歌 4192 桃の花 紅色に にほひたる 面輪(おもわ)のうちに    青柳の 細(くは)し眉根(まよね)を 笑み曲がり 朝影見つつ    をとめらが 手に取り持たる 真澄鏡(まそかがみ) 二上山(ふたがみやま)に    木(こ)の晩(くれ)の 茂き谷辺を 呼び響(とよ)め 朝飛び渡り    夕月夜 かそけき野辺に 遙々(はろばろ)に 鳴く霍公鳥    立ち潜(く)くと 羽触(はぶり)に散らす 藤波の 花なつかしみ    引き攀(よ)ぢて 袖に扱入(こき)れつ 染(し)まば染むとも 反し歌 4193 霍公鳥鳴く羽触にも散りにけり盛り過ぐらし藤波の花 一ニ云ク、散りぬべみ袖に扱入れつ藤波の花      同じ九日よめる。 また霍公鳥の喧(な)くこと晩きを怨む歌三首 4194 霍公鳥鳴き渡りぬと告げれども吾(あれ)聞き継がず花は過ぎつつ 4195 吾(あ)がここだ偲(しぬ)はく知らに霍公鳥いづへの山を鳴きか越ゆらむ 4196 月立ちし日より招(を)きつつ打ち慕(しぬ)ひ待てど来鳴かぬ霍公鳥かも 京人(みやこひと)に贈れる歌二首 4197 妹に似る草と見しより吾(あ)が標(しめ)し野辺の山吹誰(たれ)か手(た)折りし 4198 つれもなく離(か)れにしものと人は言へど逢はぬ日まねみ思ひそ吾(あ)がする      右、郷(さと)に留れる女郎の為に、家婦(め)に誂(あつら)へらえてよめる。      女郎は、即ち大伴家持が妹(いろも)なり。 十二日(とをかまりふつかのひ)、布勢の水海に遊覧(あそ)び、多古(たこ)の湾(うら)に船泊(とど)め、藤の花を望見(み)て、各(ひとびと)懐(おもひ)を述べてよめる歌四首(よつ) 4199 藤波の影なる海の底清み沈(しづ)く石をも玉とそ吾(あ)が見る      守大伴宿禰家持。 4200 多古の浦の底さへにほふ藤波を挿頭(かざ)して行かむ見ぬ人のため      次官(すけ)内藏(うちのくら)忌寸(のいみき)繩麻呂(なはまろ)。 4201 いささかに思ひて来(こ)しを多古の浦に咲ける藤見て一夜経ぬべし      判官(まつりごとひと)久米朝臣廣繩。 4202 藤波を借廬(かりほ)に作り浦廻(み)する人とは知らに海人とか見らむ      久米朝臣繼麻呂(つぐまろ)。 霍公鳥の喧かぬを恨む歌一首 4203 家に行きて何を語らむあしひきの山霍公鳥一声も鳴け      判官(まつりごとひと)久米朝臣廣繩。 攀折(を)れる保宝葉(ほほがしは)を見る歌二首 4204 我が背子が捧げて持たる厚朴(ほほがしは)あたかも似るか青き蓋(きぬがさ)      講師(かうし)僧(ほうし)恵行(ゑぎやう)。 4205 皇祖神(すめろき)の遠(とほ)御代(みよ)御代(みよ)はい敷き折り酒飲むといふそこの厚朴(ほほがしは)      守大伴宿禰家持。 還る時に、浜の上(へ)にて月光(つき)を仰見(み)る歌一首 4206 澁谿(しぶたに)をさして吾(あ)が行くこの浜に月夜(つくよ)飽きてむ馬しまし止め      守大伴宿禰家持。 二十二日(はつかまりふつかのひ)、判官久米朝臣廣繩に贈れる、霍公鳥の怨恨(うらみ)の歌一首、また短歌 4207 ここにして 背向(そがひ)に見ゆる 我が背子が 垣内(かきつ)の谷に    明けされば 榛(はり)のさ枝に 夕されば 藤の繁みに    遙々(はろばろ)に 鳴く霍公鳥 我が屋戸の 植木橘    花に散る 時をまたしみ 来鳴かなく そこは恨みず    然れども 谷片付きて 家居れる 君が聞きつつ    告げなくも憂し 反し歌 4208 吾(あ)がここだ待てど来鳴かぬ霍公鳥独り聞きつつ告げぬ君かも 霍公鳥を詠める歌一首、また短歌 4209 谷近く 家は居れども 木高(こだか)くて 里はあれども    霍公鳥 いまだ来鳴かず 鳴く声を 聞かまく欲(ほ)りと    朝(あした)には 門に出で立ち 夕へには 谷を見渡し    恋ふれども 一声だにも いまだ聞こえず 反し歌 4210 藤波の茂りは過ぎぬあしひきの山霍公鳥などか来鳴かぬ      右、二十三日、掾(まつりごとひと)久米朝臣廣繩が和(こた)ふ。 処女(をとめ)墓の歌に追ひて和(なぞら)ふる一首(ひとうた)、また短歌 4211 いにしへに ありけるわざの くすはしき 事と言ひ継ぐ    血沼(ちぬ)壮子(をとこ) 菟原(うなひ)壮子の うつせみの 名を争ふと    玉きはる 命も捨てて 相共に 妻問ひしける    処女らが 聞けば悲しさ 春花の にほえ栄えて    秋の葉の にほひに照れる 惜身(あたらみ)の 盛りをすらに    大夫(ますらを)の 語(こと)労(いとほ)しみ 父母に 申し別れて    家離(さか)り 海辺に出で立ち 朝宵に 満ち来る潮の    八重波に 靡く玉藻の 節(ふし)の間も 惜しき命を    露霜の 過ぎましにけれ 奥つ城(き)を ここと定めて    後の世の 聞き継ぐ人も いや遠に 偲ひにせよと    黄楊(つげ)小櫛(をぐし) しか刺しけらし 生ひて靡けり 反し歌 4212 処女らが後の表(しるし)と黄楊小櫛生ひ代り生ひて靡きけらしも      右、五月の六日、興(こと)に依(つ)けて大伴宿禰家持がよめる。 4213 東風(あゆ)をいたみ奈呉の浦廻に寄する波いや千重しきに恋ひ渡るかも      右の一首は、京の丹比(たぢひ)が家に贈る。 挽歌(かなしみうた)一首、また短歌 4214 天地の 初めの時よ うつそみの 八十伴男(やそとものを)は    大王(おほきみ)に まつろふものと 定めたる 官(つかさ)にしあれば    天皇(おほきみ)の 命畏み 夷ざかる 国を治むと    あしひきの 山川隔(へな)り 風雲(かぜくも)に 言は通へど    直(ただ)に逢はぬ 日の重なれば 思ひ恋ひ 息づき居るに    玉ほこの 道来る人の 伝言(つてこと)に 吾(あれ)に語らく    愛(は)しきよし 君はこの頃 うらさびて 嘆かひいます    世間(よのなか)の 憂けく辛けく 咲く花も 時にうつろふ    うつせみも 常無くありけり たらちねの 母の命    何しかも 時しはあらむを 真澄鏡 見れども飽かず    玉の緒の 惜しき盛りに 立つ霧の 失せぬるごとく    置く露の 消(け)ぬるがごとく 玉藻なす 靡き臥(こ)い伏し    行く水の 留めかねきと 狂言(たはこと)や 人し言ひつる    逆言(およづれ)か 人の告げつる 梓弓 爪引(つまび)く夜音(よと)の    遠音(とほと)にも 聞けば悲しみ にはたづみ 流るる涙    留めかねつも 反し歌二首 4215 遠音にも君が嘆くと聞きつれば哭(ね)のみし泣かゆ相思(も)ふ吾(あれ)は 4216 世間の常無きことは知るらむを心尽くすな大夫(ますらを)にして      右、大伴宿禰家持が、聟南の右大臣(みぎのおほまへつきみ)の家      藤原の二郎(なかちこ)の喪慈母患(ははのも)弔(とぶら)へる。五月二十七日。 霖雨(ながめ)晴るる日、よめる歌一首 4217 卯の花を腐(くた)す長雨の始水(みづはな)に寄る木糞(こつみ)なす寄らむ子もがも 漁夫(あま)の火光(いざりひ)を見る歌一首 4218 鮪(しび)突くと海人の灯せる漁火の秀(ほ)にか出ださむ吾(あ)が下思(も)ひを      右の二首は、五月。 4219 我が屋戸の萩咲きにけり秋風の吹かむを待たばいと遠みかも      右の一首は、六月(みなつき)十五日(とをかまりいつかのひ)、芽子早花(わさはぎ)を見てよめる。 京師(みやこ)より来贈(おこ)せる歌一首、また短歌 4220 海(わたつみ)の 神の命の み櫛笥(くしげ)に 貯ひ置きて    斎(いつ)くとふ 玉にまさりて 思へりし 吾(あ)が子にはあれど    うつせみの 世の理(ことわり)と 大夫(ますらを)の 引きのまにまに    しなざかる 越道をさして 延(は)ふ蔦の 別れにしより    沖つ波 撓(とを)む眉引(まよびき) 大船の ゆくらゆくらに    面影に もとな見えつつ かく恋ひば 老いづく吾(あ)が身    けだし堪(あ)へむかも 反し歌一首 4221 かくばかり恋しくしあらば真澄鏡見ぬ日時なくあらましものを      右の二首は、大伴氏坂上郎女が、女子(むすめ)の大嬢(おほいらつめ)に賜ふ。 九月(ながつき)の三日、宴の歌二首 4222 この時雨いたくな降りそ我妹子(わぎもこ)に見せむがために黄葉(もみち)採りてむ      右の一首は、掾久米朝臣廣繩がよめる。 4223 青丹(あをに)よし奈良人見むと我が背子が標(し)めけむ黄葉(もみち)土に落ちめやも      右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。 4224 朝霧の棚引く田(たゐ)に鳴く雁を留め得めやも我が屋戸の萩      右の一首歌(ひとうた)は、吉野の宮に幸(いで)ましし時、藤原の皇后(おほきさき)の      御作(よみませ)るなり。但し年月審詳(さだか)ならず。十月の五日、河邊(かはへの)      朝臣東人(あそみ あづまひと)が伝へ誦めり。 4225 あしひきの山の黄葉にしづくあひて散らむ山道(やまぢ)を君が越えまく      右の一首は、同じ月の十六日(とをかまりむかのひ)、朝集使(まゐうごなはるつかひ)少目(すなきふみひと)      秦忌寸石竹(はたのいみきいはたけ)を餞(うまのはなむけ)する時、守大伴宿禰家持がよめる。 雪ふる日、よめる歌一首 4226 この雪の消(け)残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む      右の一首は、十二月(しはす)、大伴宿禰家持がよめる。 雪の歌一首、また短歌 4227 大殿の この廻(もとほ)りの 雪な踏みそね しばしばも    降らざる雪そ 山のみに 降りし雪そ ゆめ寄るな    人や な踏みそね雪は 反し歌一首 4228 ありつつも見(め)したまはむそ大殿のこの廻りの雪な踏みそね      右の二首歌(ふたうた)は、三形沙彌(みかたのさみ)が、贈左大臣(おひてたまへるひだりのおほまへつきみ)      藤原の北の卿(まへつきみ)の語(こと)を承けて、作誦(よ)めり。聞き伝      ふるは、笠朝臣子君(かさのあそみこきみ)なり。また後に伝へ読む者(ひと)は、      越中国(こしのみちのなかのくに)の掾(まつりごとひと)久米朝臣廣繩なり。 天平勝宝三年(みとせ) 4229 新(あらた)しき年の初めはいや年に雪踏み平(なら)し常かくにもが      右の一首歌は、正月(むつき)の二日、守の館にて集宴(うたげ)せり。      その時零雪殊多(ゆきふりつむこと)、積尺(ひとさか)有(まり)四寸(よき)なりき。即ち主人(あろじ)      大伴宿禰家持此の歌を作める。 4230 降る雪を腰になづみて参ゐり来し験(しるし)もあるか年の初めに      右の一首は、三日、介内藏忌寸繩麻呂が館に会集(つど)ひ      て宴楽(うたげ)せる時、大伴宿禰家持が作める。 その時、積もれる雪重なる巌(いはほ)の趣を彫(ゑ)り成し、奇巧(たくみ)に草樹の花を綵(いろど)り発(ひら)く。此に属(つ)きて掾(まつりごとひと)久米朝臣廣繩がよめる歌一首 4231 撫子は秋咲くものを君が家の雪の巌に咲けりけるかも 遊行女婦(うかれめ)蒲生娘子(かまふのいらつめ)が歌一首 4232 雪の島巌に殖(た)てる撫子は千世に咲かぬか君が挿頭(かざし)に ここに、諸人(もろひと)酒酣(たけなは)にして、更深(よふけ)鶏(とり)鳴く。此に因りて主人内藏伊美吉繩麻呂がよめる歌一首 4233 打ち羽振(はぶ)き鶏(かけ)は鳴くともかくばかり降り敷く雪に君いまさめやも 守大伴宿禰家持が和(こた)ふる歌一首 4234 鳴く鶏(かけ)はいやしき鳴けど降る雪の千重に積めこそ吾(あ)が立ちかてね 太政大臣(おほきまつりごとのおほまへつきみ)藤原の家の縣犬養(あがたのいぬかひ)の命婦(ひめとね)が、天皇(すめらみこと)に奉れる歌一首 4235 天雲を散(ほろ)に踏みあたし鳴神(なるかみ)も今日にまさりて畏(かしこ)けめやも      右の一首、伝へ誦(よ)めるは掾久米朝臣廣繩。 死(みまか)れる妻(め)を悲傷(かなし)む歌一首、また短歌 作主未詳 4236 天地の 神は無かれや 愛(うつく)しき 吾(あ)が妻離(さか)る    光る神 鳴り波多(はた)娘子(をとめ) 手携ひ 共にあらむと    思ひしに 心違(たが)ひぬ 言はむすべ 為むすべ知らに    木綿(ゆふ)襷(たすき) 肩に取り掛け 倭文(しつ)幣(ぬさ)を 手に取り持ちて    な離(さ)けそと 我は祈(の)めれど 枕(ま)きて寝し 妹が手本(たもと)は 雲に棚引く 反し歌一首 4237 うつつにと思ひてしかも夢(いめ)のみに手本巻き寝(ぬ)と見ればすべなし      右の二首、伝へ誦めるは遊行女婦蒲生なり。 二月(きさらき)の三日、守の館に会集(つど)ひて宴して、よめる歌一首 4238 君が旅行(ゆき)もし久ならば梅柳誰(たれ)と共にか吾(あ)が蘰(かづら)かむ      右、判官(まつりごとひと)久米朝臣廣繩、正税帳を以ちて、      京師(みやこ)に入(のぼ)らむとす。仍(かれ)守大伴宿禰家持、此の      歌を作(よ)めり。但越中(こしのみちのなか)の風土(くにざま)、梅花(うめ)柳絮(やなぎ)、      三月(やよひ)咲き初む。 霍公鳥を詠める歌一首 4239 二上(ふたがみ)の峯(を)の上(へ)の繁(しじ)に籠りにし霍公鳥待てど未だ来鳴かず      右、四月の十六日(とをかまりむかのひ)、大伴宿禰家持がよめる。 春日(かすが)にて祭神之日(かみまつりせるほど)、藤原の太后(おほきさき)のよみませる御歌一首。即ち入唐大使(もろこしにつかはすつかひのかみ)藤原朝臣清河(きよかは)に賜ふ 4240 大船に真楫しじ貫(ぬ)きこの吾子(あご)を唐国(からくに)へ遣る斎(いは)へ神たち 大使(つかひのかみ)藤原朝臣清河が歌一首 4241 春日野に斎(いつ)く三諸(みもろ)の梅の花栄えてあり待て還り来むまで 大納言(おほきものまをすつかさ)藤原の卿(まへつきみ)の家にて、入唐使(もろこしにつかはすつかひ)等を餞(うまのはなむけ)する宴日(ひ)の歌一首 即チ主人卿ヨメリ 4242 天雲の往き還りなむものゆゑに思ひそ吾(あ)がする別れ悲しみ 民部少輔(たみのつかさのすなきすけ)丹治比(たぢひ)真人(まひと)土作(はにし)がよめる歌一首 4243 住吉(すみのえ)に斎(いつ)く祝(はふり)が神言(かむこと)と行くとも来(く)とも船は早けむ 大使藤原朝臣清河が歌一首 4244 あら玉の年の緒長く吾(あ)が思(も)へる子らに恋ふべき月近づきぬ 天平五年(いつとせといふとし)、入唐使に贈れる歌一首、また短歌 作主未詳 4245 そらみつ 大和の国 青丹よし 奈良の都ゆ    押し照る 難波に下り 住吉の 御津に船(ふな)乗り    直(ただ)渡り 日の入る国に 遣(つか)はさる 我が兄(せ)の君を    懸けまくの 忌々(ゆゆ)し畏き 住吉の 吾(あ)が大御神    船(ふな)の舳(へ)に 領(うしは)きいまし 船艫(ふなども)に み立たしまして    さし寄らむ 磯の崎々 榜ぎ泊(は)てむ 泊々(とまりとまり)に    荒き風 波に遇はせず 平けく 率(ゐ)て還りませ もとの国家(みかど)に 反し歌一首 4246 沖つ波辺(へ)波な立ちそ君が船榜ぎ還り来て津に泊つるまで 阿倍朝臣老人(おいひと)が、唐(もろこし)に遣はさるる時、母に奉れる悲別(かなしみ)の歌一首 4247 天雲のそきへの極み吾(あ)が思(も)へる君に別れむ日近くなりぬ      右の件(くだり)の八首歌(やうた)は、伝へ誦める人、越中の大目(おほきふみひと)      高安倉人種麻呂なり。但し年月の次(なみ)は、聞ける時の      随(まにま)、載(あ)げたり。 七月(ふみつき)の十七日(とをかまりなぬかのひ)、少納言(すなきものまをすつかさ)に遷任(うつ)されて、悲別(かなしみ)の歌を作みて、朝集使(まゐうごなはるつかひ)掾久米朝臣廣繩が館に贈貽(おく)れる二首(ふたうた) 既に六載の期に満ち、忽ち遷替の運に値ふ。是に旧(ふりにしひと)に別るる悽(かな)しみ、心中に欝結(むすぼほ)れ、涕の袖を拭(のご)ふ。いかにか能く旱(かは)かむ。因(かれ)悲しみの歌二首を作みて、莫忘の志を遺せり。其の詞(うた)に曰く 4248 あら玉の年の緒長く相見てしその心引き忘らえめやも 4249 石瀬野(いはせの)に秋萩凌(しぬ)ぎ馬並(な)めて初鷹猟(はつとがり)だにせずや別れむ      右、八月(はつき)の四日(よかのひ)贈れりき。 便ち大帳使を附(さづ)け、八月の五日に、京師に入(のぼ)らむとす。此に因りて四日、国の厨(くりや)の饌(もの)を介内藏伊美吉繩麻呂が館に設(ま)けて、餞(うまのはなむけ)す。その時大伴宿禰家持がよめる歌一首 4250 しなざかる越に五年(いつとせ)住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも 五日(いつかのひ)、平旦(つとめて)上道(みちだち)す。仍(かれ)国司(くにのつかさ)次官(すけ)より、諸の僚(つかさづかさ)まで、皆共(みな)視送りす。その時射水(いみづ)の郡(こほり)の大領(おほきみやつこ)安努君廣島(あぬのきみひろしま)が門の前の林の中(うち)に、預め饌餞(うまのはなむけ)の宴(まけ)を設(な)す。時に大帳使大伴宿禰家持が、内藏伊美吉繩麻呂が盞(さかづき)を捧ぐる歌に和ふる一首(ひとうた) 4251 玉ほこの道に出で立ち行く吾(あれ)は君が事跡(ことと)を負ひてし行かむ 正税帳使掾(まつりごとひと)久米朝臣廣繩、事畢りて退任(まけところにかへ)れり。越前国(こしのみちのくちのくに)の掾大伴宿禰池主が館に適(ゆ)き遇ひて、共に飲楽(うたげ)す。その時久米朝臣廣繩が、芽子(はぎ)の花を矚(み)てよめる歌一首 4252 君が家に植ゑたる萩の初花を折りて挿頭(かざ)さな旅別るどち 大伴宿禰家持が和ふる歌一首 4253 立ちて居て待てど待ちかね出でて来て君にここに逢ひ挿頭しつる萩 京(みやこ)に向(まゐのぼ)る路にて、興(こと)に依(つ)け預め作める、宴(とよのあかり)に侍りて詔を応(うけたま)はる歌一首、また短歌 4254 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国を 天雲に 磐船(いはふね)浮べ    艫(とも)に舳(へ)に 真櫂しじ貫(ぬ)き い榜ぎつつ 国見しせして    天降(あも)りまし 掃(はら)ひ平らげ 千代重ね いや嗣ぎ継ぎに    領(し)らし来る 天(あま)の日継と 神ながら 我が大皇(おほきみ)の    天の下 治め賜へば もののふの 八十伴男(やそとものを)を    撫で賜ひ 整へ賜ひ 食(を)す国の 四方(よも)の人をも    あぶさはず 恵み賜へば 古よ 無かりし瑞(しるし)    度まねく 奏(まを)し賜ひぬ 手拱(てうだ)きて 事無き御代と    天地 日月と共に 万代に 記し継がむそ    やすみしし 我が大皇 秋の花 しが色々に    見(め)し賜ひ 明らめ賜ひ 酒漬(さかみづ)き 栄ゆる今日の 奇(あや)に貴さ 反し歌一首 4255 秋の花種々(くさぐさ)なれど色ことに見(め)し明らむる今日の貴さ 左大臣(ひだりのおほまへつきみ)橘の卿を寿(ことほ)かむと、預めよめる歌一首 4256 古に君が三代経て仕へけり我が王(おほきみ)は七代奏(まを)さね 十月(かみなつき)の二十二日(はつかまりふつかのひ)、左大弁(ひだりのおほきおほともひ)紀飯麻呂(きのいひまろ)の朝臣が家にて宴する歌三首 4257 手束弓(たつかゆみ)手に取り持ちて朝狩に君は立たしぬ棚倉の野に      右の一首は、治部卿(をさむるつかさのかみ)船王(ふねのおほきみ)の伝へ誦める、      久邇(くに)の京都(みやこ)の時の歌なり。作主(よみひと)しらず。 4258 明日香川川門(かはと)を清み後れ居て恋ふれば都いや遠そきぬ      右の一首は、左中弁(ひだりのなかのおほともひ)中臣朝臣清麻呂が伝へ      誦める、古き京の時の歌なり。 4259 十月(かみなつき)時雨の降れば我が背子が屋戸のもみち葉散りぬべく見ゆ      右の一首は、少納言大伴宿禰家持が、当時梨の黄葉(もみち)を      矚(み)て、此の歌を作めり。 〔天平勝宝〕四年 壬申(みづのえさる)の年の乱(みだれ)、平定(たひ)らぎし以後(のち)の歌二首 4260 皇(おほきみ)は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ      右の一首は、大将軍(おほきいくさのきみ)贈右大臣(おひてたまへるみぎのおほまへつきみ)      大伴の卿の作みたまふ。 4261 大王は神にしませば水鳥の多集(すだ)く水沼(みぬま)を都と成しつ 作者未詳      右の件の二首は、〔天平勝宝四年〕二月の二日に聞きて、      茲(ここ)に載(あ)ぐ。 閏三月(のちのやよひ)、衛門督(ゆけひのかみ)大伴古慈悲(こじひ)の宿禰が家にて、入唐副使(もろこしにつかはすつかひのすけ)同(おや)じ胡麿の宿禰等を餞(うまのはなむけ)する歌二首 4262 唐国(からくに)に行き足らはして還り来むますら健男(たけを)に御酒(みき)奉る      右の一首は、多治比真人鷹主が、副使(つかひのすけ)大伴胡麻呂      の宿禰を寿(ことほ)く。 4263 櫛も見じ屋中(やぬち)も掃かじ草枕旅ゆく君を斎(いは)ふと思(も)ひて 作主未詳      右の件の二首歌(ふたうた)伝へ誦めるは、大伴宿禰村上、      同じ清繼等なり。 従四位上(ひろきよつのくらゐのかみつしな)高麗朝臣福信(こまのあそみふくしむ)に勅(みことのり)して、難波に遣はし、酒(おほみき)肴(さかな)を入唐使(もろこしにつかはすつかひ)藤原朝臣清河等に賜へる御歌(おほみうた)一首、また短歌 4264 そらみつ 大和の国は 水の上(へ)は 地(つち)ゆくごとく    船(ふな)の上(へ)は 床(とこ)に居るごと 大神の 鎮(いは)へる国そ    四つの船 船(ふな)の舳(へ)並べ 平らけく 早渡り来て    返り言 奏(まを)さむ日に 相飲まむ酒(き)そ この豊御酒(とよみき)は 反し歌一首 4265 四つの船早帰り来(こ)と白紙(しらが)付け朕(あ)が裳の裾に鎮(いは)ひて待たむ      右、勅使ヲ発遣シ、マタ酒ヲ賜フ楽宴(ウタゲ)ノ日月、      未ダ詳審(ツマビ)ラカニスルコトヲ得ズ。 詔を応(うけたまは)らむが為に、儲(あらかじ)めよめる歌一首、また短歌 4266 あしひきの 八峯(やつを)の上の 樛(つが)の木の いや継ぎ継ぎに    松が根の 絶ゆることなく 青丹よし 奈良の都に    万代に 国知らさむと やすみしし 我が大王の    神ながら 思ほしめして 豊宴(とよのあかり) 見(め)す今日の日は    もののふの 八十(やそ)伴の雄(を)の 島山に 赤る橘    髻華(うず)に挿し 紐解き放(さ)けて 千年寿(ほ)き ほさき響(とよ)もし    ゑらゑらに 仕へまつるを 見るが貴さ 反し歌一首 4267 すめろきの御代万代にかくしこそ見(め)し明らめめ立つ年の端(は)に      右の二首は、大伴宿禰家持がよめる。 天皇(すめらみこと)と太后(おほきさき)と、共に大納言(おほきものまをすつかさ)藤原の家に幸(いでま)しし日、黄葉(もみち)せる沢蘭(さはあらき)一株(ひともと)を抜き取りて、内侍佐佐貴山君(ささきやまのきみ)に持たしめ、大納言藤原の卿また陪従(みとも)の大夫等(まへつきみたち)に遣賜(たま)へる御歌(おほみうた)一首 命婦(ひめとね)が誦(とな)へて曰(い)へらく 4268 この里は継ぎて霜や置く夏の野に吾(あ)が見し草は黄葉(もみ)ちたりけり 十一月(しもつき)の八日(やかのひ)、太上天皇(おほきすめらみこと)、左大臣橘朝臣の宅(いへ)に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)きこしめす歌四首 4269 よそのみに見つつありしを今日見れば年に忘れず思ほえむかも      右の一首は、太上天皇の御製(おほみうた)。 4270 葎(むぐら)はふ賎しき屋戸も大王の座(ま)さむと知らば玉敷かましを      右の一首は、左大臣橘卿。 4271 松陰の清き浜辺に玉敷かば君来まさむか清き浜辺に      右の一首は、右大弁藤原八束朝臣。 4272 天地に足らはし照りて我が大王敷きませばかも楽しき小里(をさと)      右の一首は、少納言大伴宿禰家持。 未奏。 二十五日(はつかまりいつかのひ)、新嘗会(にひなへまつり)の肆宴(とよのあかり)に、詔を応(うけたま)はる歌六首 4273 天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき      右の一首は、大納言巨勢朝臣。 4274 天にはも五百(いほ)つ綱延(は)ふ万代に国知らさむと五百つ綱延ふ      右の一首は、式部卿(のりのつかさのかみ)石川年足(としたり)朝臣。 4275 天地と久しきまでに万代に仕へまつらむ黒酒(くろき)白酒(しろき)を      右の一首は、従三位(ひろきみつのくらゐ)文屋(ふむやの)智努麻呂(ちぬまろの)真人(まひと) 4276 島山に照れる橘髻華(うず)に挿し仕へ奉(まつ)らな卿大夫(まへつきみ)たち      右の一首は、右大弁藤原八束朝臣。 4277 袖(そて)垂れていざ我が苑に鴬の木伝(こづた)ひ散らす梅の花見に      右の一首は、大和国守(おほやまとのくにのかみ)藤原永手(ながて)朝臣。 4278 あしひきの山下日蔭かづらける上にやさらに梅を賞(しぬ)はむ      右の一首は、少納言大伴宿禰家持。 二十七日(はつかまりなぬかのひ)、林王の宅にて、但馬(たぢまの)按察使(あぜちし)橘奈良麻呂の朝臣を餞(うまのはなむけ)せる宴歌(うた)三首 4279 能登川の後は逢はめど暫(しま)しくも別るといへば悲しくもあるか      右の一首は、治部卿船王。 4280 立ち別れ君がいまさば磯城島(しきしま)の人は我じく斎(いは)ひて待たむ      右の一首は、右京少進(みぎのみさとつかさのすなきまつりごとひと)大伴宿禰黒麻呂。 4281 白雪の降り敷く山を越え行かむ君をそもとな息の緒に思(も)ふ 左大臣尾ヲ換ヘテ云ク、いきのをにする。然レドモ猶喩シテ曰ク、前ノ如ク誦メト。      右の一首は、少納言大伴宿禰家持。 五年(いつとせといふとし)正月(むつき)の四日(よかのひ)、治部少輔(をさむるつかさのすなきすけ)石上朝臣宅嗣(いそのかみのあそみいへつぐ)が家にて、宴する歌三首 4282 言(こと)繁み相問はなくに梅の花雪にしをれて移ろはむかも      右の一首は、主人(あろじ)石上朝臣宅嗣。 4283 梅の花咲けるが中に含(ふふ)めるは恋や隠(こも)れる雪を待つとか      右の一首は、中務大輔(なかのまつりごとのつかさのおほきすけ)茨田王(まむたのおほきみ)。 4284 新(あらた)しき年の初めに思ふ共(どち)い群れて居れば嬉しくもあるか      右の一首は、大膳大夫(おほかしはでのつかさのかみ)道祖王(みちのやのおほきみ)。 十一日(とをかまりひとひのひ)、大雪落積(つ)もれること、尺有二寸(ひとさかまりふたき)。因(かれ)拙懐(おもひ)を述ぶる歌三首 4285 大宮の内にも外(と)にもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し 4286 御苑生(みそのふ)の竹の林に鴬はしば鳴きにしを雪は降りつつ 4287 鴬の鳴きし垣内(かきつ)ににほへりし梅この雪にうつろふらむか 十二日(とをかまりふつかのひ)、内裏(おほうち)に侍(さもら)ひて、千鳥を聞きてよめる歌一首 4288 河渚(かはす)にも雪は降れれや宮の内に千鳥鳴くらし居むところ無み 二月(きさらき)の十九日(とをかまりここのかのひ)、左大臣橘の家の宴に、攀ぢ折(と)れる柳の條(えだ)を見る歌一首 4289 青柳(あをやぎ)の上枝(ほつえ)攀ぢ取りかづらくは君が屋戸にし千年寿(ほ)くとそ 二十三日(はつかまりみかのひ)、興(こと)に依(つ)けてよめる歌二首 4290 春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも 4291 我が屋戸の五十笹(いささ)群竹吹く風の音のかそけきこの夕へかも 二十五日(はつかまりいつかのひ)、よめる歌一首 4292 うらうらに照れる春日(はるひ)に雲雀あがり心悲しも独りし思へば      春ノ日遅々(ウラウラ)トシテ、ヒバリ正ニ啼ク。悽惆ノ意、      歌ニアラザレバ撥ヒ難シ。仍此ノ歌ヲ作ミ、式テ      締緒ヲ展ク。但此ノ巻中、作者ノ名字ヲ称(イ)ハズ、      徒(タダ)年月所処縁起ヲノミ録セルハ、皆大伴宿禰家持      ガ裁作セル歌詞(ウタ)ナリ。 -------------------------------------------------------- .巻第二十(はたまきにあたるまき) 山村(やまむら)に幸行(いでま)しし時の歌二首(ふたつ) 先の太上天皇(おほきすめらみこと)、陪従(おほみとも)の王臣(おほきみおみ)に詔(みことのり)したまはく、夫諸王卿等(いましらもろもろ)、和(こた)へ歌を賦(よ)みて奏(まを)せと宣(の)りたまひて、即ち御口号(みうたよみ)したまはく 4293 あしひきの山行きしかば山人(やまびと)の我に得しめし山つとそこれ 舎人親王(とねりのみこ)、詔を応(うけたま)はりて和へ奉(まつ)れる御歌一首(ひとつ) 4294 あしひきの山にゆきけむ山人の心も知らず山人や誰(たれ)      右、天平勝宝(てむひやうしようはう)五年(いつとせといふとし)の五月(さつき)、大納言(おほきものまをすつかさ)      藤原朝臣(ふぢはらのあそみ)の家に在(いま)せる時、事を奏(まを)すに依りて請ひ      問ふ間(ほど)、少主鈴(すなきすずのつかさ)山田(やまたの)史(ふみひと)土麿、少納言(すなきものまをすつかさ)      大伴宿禰家持に語りけらく、昔(さき)に此の言(こと)を聞けりと      いひて、即ち此の歌を誦(よ)めりき。 天平勝宝五年八月(はつき)の十二日(とをかまりふつかのひ)、二三(ふたりみたり)の大夫等(まへつきみたち)、各(おのもおのも)壺酒(さかつぼ)を提(ひきさ)げて、高圓野(たかまとぬ)に登り、聊か所心(おもひ)を述べて作(よ)める歌三首(みつ) 4295 高圓の尾花(をばな)吹きこす秋風に紐ときあけな直(ただ)ならずとも      右の一首(ひとうた)は、左京少進(ひだりのみさとつかさのすなきまつりごとひと)大伴宿禰池主。 4296 天雲に雁そ鳴くなる高圓の萩の下葉はもみち堪(あ)へむかも      右の一首は、左中弁(ひだりのなかのおほともひ)中臣清麿朝臣。 4297 をみなへし秋萩しぬぎさ牡鹿の露分け鳴かむ高圓の野そ      右の一首は、少納言大伴宿禰家持。 六年(むとせといふとし)正月(むつき)の四日(よかのひ)、氏族人等(やからどち)、少納言大伴宿禰家持が宅(いへ)に賀集(つど)ひて、宴飲(うたげ)する歌三首 4298 霜の上(へ)に霰(あられ)飛走(たばし)りいや益しに吾(あれ)は参(まゐ)来む年の緒長く 古今未詳      右の一首は、左兵衛督(ひだりのつはもののとねりのかみ)大伴宿禰千室(ちむろ)。 4299 年月は新た新たに相見れど吾(あ)が思(も)ふ君は飽き足らぬかも 古今未詳      右の一首は、民部少丞(たみのつかさのすなきまつりごとひと)大伴宿禰村上。 4300 霞立つ春の初めを今日のごと見むと思へば楽しとそ思(も)ふ      右の一首は、左京少進大伴宿禰池主。 七日(なぬかのひ)、天皇(すめらみこと)、太上天皇(おほきすめらみこと)、皇太后(おほみおや)、東(ひむかし)の常宮(みや)の南の大殿に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)きこしめす歌一首 4301 印南野(いなみぬ)の赤ら柏は時はあれど君を吾(あ)が思(も)ふ時はさねなし      右の一首は、播磨(はりま)の国の守(かみ)安宿王(あすかべのおほきみ)奏(まを)したまへり。古今未詳。 三月(やよひ)の十九日(とをかまりここのかのひ)、家持が庄(なりところ)の門の槻(つき)の樹の下(もと)にて宴飲(うたげ)する歌二首 4302 山吹は撫でつつ生ほさむありつつも君来ましつつ挿頭(かざ)したりけり      右の一首は、置始連長谷(おきそめのむらじはつせ)。 4303 我が背子が屋戸の山吹咲きてあらば止まず通はむいや年の端に      右の一首は、長谷花を攀ぢ、壺を提(ひきさ)げて到来(きた)れり。因是(かれ)      大伴宿禰家持、此の歌をよみて和(こた)ふ。 同(おや)じ月の二十五日(はつかまりいつかのひ)、左大臣(ひだりのおほまへつきみ)橘の卿(まへつきみ)、山田御母(やまだのみおも)の宅に宴したまへる歌一首 4304 山吹の花の盛りにかくのごと君を見まくは千年(ちとせ)にもがも      右の一首は、少納言大伴宿禰家持、時の花を囑(み)て      よめる。但し未だ出(いだ)さざりし間(ほど)、大臣(おほまへつきみ)宴を      罷(や)めたまへるによりて、詠み挙げせざりき。 霍公鳥(ほととぎす)を詠(よ)める歌一首 4305 木(こ)の暗(くれ)のしげき峯(を)の上(へ)をほととぎす鳴きて越ゆなり今し来らしも      右の一首は、四月(うつき)、大伴宿禰家持がよめる。 七夕(なぬかのよひ)の歌八首(やつ) 4306 初秋風すずしき夕へ解かむとそ紐は結びし妹に逢はむため 4307 秋と言へば心そ痛きうたて異(け)に花になそへて見まく欲りかも 4308 初尾花(をばな)花に見むとし天の川へなりにけらし年の緒長く 4309 秋風になびく川廻(び)の和草(にこぐさ)のにこよかにしも思ほゆるかも 4310 秋されば霧たちわたる天の川石並(な)み置かば継ぎて見むかも 4311 秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ 4312 秋草に置く白露の飽かずのみ相見るものを月をし待たむ 4313 青波に袖(そて)さへ濡れて榜ぐ舟のかし振るほとにさ夜更けなむか      右、七月(ふみつき)の七日の夕(よひ)、大伴宿禰家持、独り天漢(あまのがは)を      仰(み)てよめる。 4314 八千種(やちくさ)に草木を植ゑて時ごとに咲かむ花をし見つつ偲(しぬ)はな      右の一首は、同じ月の二十八日(はつかまりやかのひ)、大伴宿禰家持がよめる。 4315 宮人の袖付け衣秋萩ににほひよろしき高圓(たかまと)の宮 4316 高圓の宮の裾廻(すそみ)の野つかさに今咲けるらむ女郎花(をみなへし)はも 4317 秋野には今こそ行かめもののふの男女(をとこをみな)の花にほひ見に 4318 秋の野に露負へる萩を手折らずてあたら盛りを過ぐしてむとか 4319 高圓の秋野の上の朝霧に妻呼ぶ壮鹿(をしか)出で立つらむか 4320 ますらをの呼び立てませばさ牡鹿の胸(むな)分けゆかむ秋野萩原      右の歌六首(むつ)は、兵部少輔(つはもののつかさのすなきすけ)大伴宿禰家持、独り      秋の野を憶(しぬ)ひて、聊か拙懐(おもひ)を述べてよめる。 天平勝宝七歳(ななとせといふとし)乙未(きのとひつじ)二月(きさらき)、相替へて筑紫の諸国(くにぐに)に遣はさるる防人(さきもり)等が歌 4321 畏きや命(みこと)被(かがふ)り明日ゆりや加曳(かえ)が斎田嶺(いむたね)を妹(いむ)無しにして      右の一首は、国造(くにのみやつこ)の丁(よほろ)、長下郡(ながのしものこほり)、物部秋持(もののべのあきもち)。 4322 我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影(かご)副(さ)へ見えて世に忘られず      右の一首は、主帳(ふみひと)の丁、麁玉郡(あらたまのこほり)、若倭部身麿(わかやまとべのむまろ)。 4323 時々の花は咲けども何すれそ母とふ花の咲き出来(でこ)ずけむ      右の一首は、防人、山名郡(やまなのこほり)、丈部(はせつかべの)眞麿(ままろ)。 4324 遠江(とへたほみ)白羽(しるは)の磯と贄(にへ)の浦と合ひてしあらば言も通(かゆ)はむ      右の一首は、同じ郡の丈部川相(かはひ)。 4325 父母も花にもがもや草枕旅は行くとも捧ごてゆかむ      右の一首は、佐野(さやの)郡(こほり)、丈部黒當。 4326 父母が殿の後(しりへ)の百代草(ももよぐさ)百代いでませ我が来たるまで      右の一首は、同じ郡生玉部(いくたまべの)足國(たりくに)。 4327 我が妻も絵に描き取らむ暇(いつま)もか旅ゆく吾(あれ)は見つつ偲はむ      右の一首は、長下郡、物部古麿(ふるまろ)。      二月(きさらき)の六日(むかのひ)、防人部領使(ことりつかひ)遠江(とほつあふみ)の国の史生(ふみひと)坂本      朝臣人上(ひとかみ)が、進(たてまつ)れる歌の数十八首(とをまりやつ)。但し拙劣(つたな)き      歌十一首(とをまりひとうた)有るは取載(あ)げず。 4328 大王の命かしこみ磯に触り海原(うのはら)渡る父母を置きて      右の一首は、某郡助丁(すけのよほろ)、丈部造(みやつこ)人麿。 4329 八十(やそ)国は難波に集ひ船(ふな)飾り吾(あ)がせむ日ろを見も人もがも      右の一首は、足下郡(あしからのしものこほり)の上丁(かみつよほろ)、丹比部(たぢひべの)國人(くにひと)。 4330 難波津に装ひ装ひて今日の日や出でて罷(まか)らむ見る母なしに      右の一首は、鎌倉郡(かまくらのこほり)の上丁、丸子連(まるこのむらじ)多麿(おほまろ)。      二月の七日、相模(さがむ)の国の防人部領使、守(かみ)従五位(ひろきいつつのくらゐの)      下(しもつしな)藤原朝臣宿奈麿(すくなまろ)が進れる歌の数八首。但し拙劣(つたな)      き歌五首(いつつ)は、取載(あ)げず。 防人の悲別(わかれ)の心を追痛(いた)みてよめる歌一首、また短歌(みじかうた) 4331 天皇(すめろき)の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国は    賊(あた)まもる 鎮(おさ)への城(き)そと 聞こし食(を)す 四方の国には    人多(さは)に 満ちてはあれど 鶏(とり)が鳴く 東男(あづまをのこ)は    出で向かひ かへり見せずて 勇みたる 猛(たけ)き軍卒(いくさ)と    労(ね)ぎたまひ 任(まけ)のまにまに たらちねの 母が目離(か)れて    若草の 妻をも枕(ま)かず あらたまの 月日数(よ)みつつ    葦が散る 難波の御津に 大船に 真櫂しじぬき    朝凪に 水手(かこ)ととのへ 夕潮に 楫引き撓(を)り    率(あど)もひて 漕ぎゆく君は 波の間を い行きさぐくみ    真幸(まさき)くも 早く到りて 大王(おほきみ)の 命(みこと)のまにま    大夫(ますらを)の 心をもちて ありめぐり 事し終はらば    恙(つつ)まはず 還り来ませと 斎瓮(いはひへ)を 床辺(とこへ)に据ゑて    白妙の 袖折りかへし ぬば玉の 黒髪しきて    長き日(け)を 待ちかも恋ひむ 愛(は)しき妻らは 反(かへ)し歌 4332 大夫の靫(ゆき)取り負ひて出でて行(い)けば別れを惜しみ嘆きけむ妻 4333 鶏が鳴く東男(あづまをとこ)の妻別れ悲しくありけむ年の緒長み      右、二月の八日、兵部少輔大伴宿禰家持。 4334 海原(うなはら)を遠く渡りて年経(ふ)とも子らが結べる紐解くなゆめ 4335 今替る新(にひ)防人が船出する海原の上に波な開(さ)きそね 4336 防人の堀江榜ぎ出(づ)る伊豆手船楫取る間なく恋は繁けむ      右の三首は、九日、大伴宿禰家持がよめる。 4337 水鳥(みづとり)の立ちの急ぎに父母に物言(は)ず来(け)にて今ぞ悔しき      右の一首は、上丁(かみつよほろ)、有度部(うとべの)牛麿。 4338 畳薦(たたみけめ)牟良自(むらじ)が磯の離磯(はなりそ)の母を離れて行くが悲しさ      右の一首は、助丁(すけのよほろ)、生部(いくべの)道麿。 4339 国めぐる当(あとり)か任(ま)けり行き巡り還(かひ)り来までに斎(いは)ひて待たね      右の一首は、刑部(おさかべの)虫麿。 4340 父母え斎ひて待たね筑紫なる水漬(みづ)く白玉取りて来までに      右の一首は、川原虫麿。 4341 橘の美衣利(みえり)の里に父を置きて道の長道(ながち)は行きかてぬかも      右の一首は、丈部足麿(たりまろ)。 4342 真木柱(まけばしら)讃めて造れる殿のごといませ母刀自(とじ)面(おめ)変はりせず      右の一首は、坂田部(さかたべの)首麿(おびとまろ)。 4343 我(わ)ろ旅は旅と思(おめ)ほど恋にして顔持(こめち)痩すらむ我が身悲しも      右の一首は、玉作部(たまつくりべの)廣目(ひろめ)。 4344 忘らむと野ゆき山ゆき我来れど我が父母は忘れせぬかも      右の一首は、商長(あきをさの)首麿(おびとまろ)。 4345 我妹子(わぎめこ)と二人我が見し打ち寄(え)する駿河の嶺(ね)らは恋(くふ)しくめあるか      右の一首は、春日部(かすかべの)麿。 4346 父母が頭(かしら)掻き撫で幸(さき)くあれて言ひし言葉そ忘れかねつる      右の一首は、丈部稲麿(いなまろ)。      二月の七日、駿河の国の防人部領使、守従五位下布勢(ふせの)朝臣      人主(ひとぬし)、実(まこと)進(たてまつ)るは九日。歌の数二十首(はたち)。但し拙劣(つたな)き歌      十首(とを)は、取載(あ)げず。 4347 家にして恋ひつつあらずは汝(な)が佩(は)ける大刀(たち)になりても斎(いは)ひてしかも      右の一首は、国造の丁(よほろ)、日下部(くさかべの)使主(おみ)三中(みなか)が父の歌。 4348 たらちねの母を別れてまこと我旅の仮廬(かりほ)に安く寝むかも      右の一首は、国造の丁、日下部使主三中。 4349 百隈(ももくま)の道は来にしを又更に八十(やそ)島過ぎて別れか行かむ      右の一首は、助丁(すけのよほろ)刑部(おさかべの)直(あたへ)三野(みぬ)。 4350 庭中の阿須波(あすは)の神に小柴さし吾(あれ)は斎はむ還り来までに      右の一首は、主帳(ふみひと)の丁(よほろ)、若麻續部(わかをみべの)諸人(もろひと)。 4351 旅衣八つ着重ねて寝(いぬ)れどもなほ肌寒し妹にしあらねば      右の一首は、望陀郡(うまぐたのこほり)の上丁(かみつよほろ)、玉作部國忍(くにおし)。 4352 道の辺(べ)の茨(うまら)の末(うれ)に延(は)ほ豆のからまる君を離(はか)れか行かむ      右の一首は、天羽郡(あまはのこほり)の上丁、丈部鳥。 4353 家風は日に日に吹けど我妹子が家言(いへごと)持ちて来る人も無し      右の一首は、朝夷郡(あさひなのこほり)の上丁、丸子連大歳(おほとし)。 4354 立ち鴨(こも)の立ちの騒きに相見てし妹が心は忘れせぬかも      右の一首は、長狭郡(ながさのこほり)の上丁、丈部與呂麿(よろまろ)。 4355 よそにのみ見てや渡らも難波潟雲居に見ゆる島ならなくに      右の一首は、武射郡(むざのこほり)の上丁、丈部山代(やましろ)。 4356 我が母の袖(そて)持ち撫でて我が故(から)に泣きし心を忘らえぬかも      右の一首は、山邊郡(やまのべのこほり)の上丁、物部乎刀良(をとら)。 4357 葦垣の隈所(くまと)に立ちて我妹子が袖(そて)もしほほに泣きしそ思(も)はゆ      右の一首は、市原郡の上丁、刑部直千國(ちくに)。 4358 大王の命かしこみ出で来れば我(わ)ぬ取り付きて言ひし子なはも      右の一首は、種淮郡(すゑのこほり)の上丁、物部龍(たつ)。 4359 筑紫方(へ)に舳(へ)向かる船のいつしかも仕へまつりて国に舳向(へむ)かも      右の一首は、長柄郡(ながらのこほり)の上丁、若麻續部羊(ひつじ)。      二月の九日、上総(かみつふさ)の国の防人部領使、少目(すなきふみひと)      従七位下(ひろきななつのくらゐのしもつしな)茨田(まむたの)連(むらじ)沙彌麿(さみまろ)が進る歌の      数十九首(とをまりここのつ)。但し拙劣(つたな)き歌六首は、取載(あ)げず。 私拙懐(おもひ)を陳(の)ぶる一首、また短歌 4360 天皇(すめろき)の 遠き御代にも 押し照る 難波の国に    天の下 知らしめしきと 今の緒に 絶えず言ひつつ    かけまくも あやに畏し 神(かむ)ながら 我ご大王の    打ち靡く 春の初めは 八千種に 花咲きにほひ    山見れば 見の羨(とも)しく 川見れば 見のさやけく    ものごとに 栄ゆる時と 見(め)し賜ひ 明らめ賜ひ    敷きませる 難波の宮は 聞こし食(を)す 四方の国より    奉る 御調(みつき)の船は 堀江より 水脈(みを)引きしつつ    朝凪に 楫引き泝(のぼ)り 夕潮に 棹さし下り    あぢ群の 騒き競(きほ)ひて 浜に出でて 海原見れば    白波の 八重折るが上に 海人小船(をぶね) はららに浮きて    大御食(おほみけ)に 仕へまつると をちこちに 漁(いざ)り釣りけり    そきだくも おぎろなきかも こきばくも ゆたけきかも    ここ見れば うべし神代ゆ 始めけらしも 反し歌 4361 桜花今盛りなり難波の海押し照る宮に聞こしめすなべ 4362 海原のゆたけき見つつ葦が散る難波に年は経ぬべく思ほゆ      右、二月の十三日、兵部少輔大伴宿禰家持。 4363 難波津に御船下ろ据ゑ八十楫(やそか)貫(ぬ)き今は榜ぎぬと妹に告げこそ 4364 防人(さきむり)に立たむ騒きに家の妹が業(な)るべきことを言はず来(き)ぬかも      右の二首は、茨城郡(うばらきのこほり)、若舎人部(わかとねりべの)廣足(ひろたり)。 4365 押し照るや難波の津より船装(ふなよそ)ひ吾(あれ)は榜ぎぬと妹に告ぎこそ 4366 常陸(ひたち)指し行かむ雁もが吾(あ)が恋を記して付けて妹に知らせむ      右の二首は、信太郡(しだのこほり)、物部道足(みちたり)。 4367 吾(あ)が面(もて)の忘れもしだは筑波嶺(つくはね)を振り放け見つつ妹は偲(しぬ)はね      右の一首は、茨城郡、占部(うらべの)小龍(をたつ)。 4368 久慈川は幸(さけ)くあり待て潮船に真楫しじ貫(ぬ)き我(わ)は還り来む      右の一首は、久慈郡、丸子部(まろこべの)佐壯(すけを)。 4369 筑波嶺の早百合(さゆる)の花の夜床(ゆとこ)にも愛(かな)しけ妹そ昼も愛しけ 4370 霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみいくさ)に我は来にしを      右の二首は、那賀郡(なかのこほり)の上丁(かみつよほろ)、大舎人部(おほとねりべの)千文(ちふみ)。 4371 橘の下吹く風のかぐはしき筑波(つくは)の山を恋ひずあらめかも      右の一首は、助丁(すけのよほろ)、占部廣方(ひろかた)。 4372 足柄(あしがら)の 御坂た廻(まは)り 顧みず 吾(あれ)は越(く)え行く    荒し男(を)も 立しや憚る 不破の関 越(く)えて我(わ)は行く    馬(むま)の爪 筑紫の崎に 留(ち)まり居て 吾(あれ)は斎(いは)はむ    諸々は 幸(さけ)くと申す 還り来まてに      右の一首は、倭文部(しつりべの)可良麿(からまろ)。      二月の十四日、常陸の国の部領防人使(ことりさきもりつかひ)、大目(おほきふみひと)      正七位上(おほきななつのくらゐのかみつしな)息長(おきながの)真人(まひと)國島(くにしま)が進れる歌      の数十七首。但し拙劣(つたな)き歌七首は、取載(あ)げず。 4373 今日よりは顧みなくて大王(おほきみ)の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ我は      右の一首は、火長、今奉部(いままつりべの)與曽布(よそふ)。 4374 天地(あめつち)の神を祈りて幸矢(さつや)貫(ぬ)き筑紫の島を指して行(い)く我は      右の一首は、火長、大田部荒耳(あらみみ)。 4375 松の木(け)の並(な)みたる見れば家人(いはびと)の我を見送ると立たりし如(もころ)      右の一首は、火長、物部眞島(ましま)。 4376 旅ゆきに行くと知らずて母父(あもしし)に言申さずて今ぞ悔しけ      右の一首は、寒川郡の上丁、川上巨老(おほおゆ)。 4377 母刀自(あもとじ)も玉にもがもや戴きて角髪(みづら)の中に合へ巻かまくも      右の一首は、津守(つもり)宿禰小黒栖(をくるす)。 4378 月日(つくひ)やは過ぐは行けども母父(あもしし)が玉の姿は忘れせなふも      右の一首は、都賀郡(つがのこほり)の上丁、中臣部足國(たりくに)。 4379 白波の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度(やたび)袖(そて)振る      右の一首は、足利郡の上丁、大舎人部禰麿(ねまろ)。 4380 難波門(なにはと)を榜ぎ出て見れば神(かみ)さぶる生駒高嶺に雲そたなびく      右の一首は、梁田郡(やなたのこほり)の上丁、大田部三成(みなり)。 4381 国々の防人集ひ船乗りて別るを見ればいともすべなし      右の一首は、河内郡の上丁、神麻續部(かむをみべの)島麿。 4382 太小腹(ふたほがみ)悪しけ人なり疝病(あたゆまひ)我がする時に防人に差す      右の一首は、那須郡の上丁、大伴部廣成。 4383 津の国の海の渚に船装ひ発(た)し出も時に母(あも)が目もがも      右の一首は、塩屋郡の上丁、丈部足人(たりひと)。      二月の十四日、下野(しもつけぬ)の国の防人部領使、正六位(おほきむつのくらゐの)      上(かみつしな)田口朝臣大戸(おほと)が進れる歌の数十八首。但し拙劣(つたな)      き歌七首は、取載(あ)げず。 4384 暁(あかとき)のかはたれ時に島陰(かぎ)を榜ぎにし船のたづき知らずも      右の一首は、助丁(すけのよほろ)海上郡(うなかみのこほり)海上の国造、池田      日奉直(ひまつりのあたへ)得大理(とこたり)。 4385 行(ゆ)こ先に波な音(と)動(ゑら)ひ後方(しるへ)には子をと妻をと置きてとも来ぬ      右の一首は、葛餝郡(かづしかのこほり)私部(きさきべの)石島(いそしま)。 4386 我が門(かづ)の五本(いつもと)柳いつもいつも母(おも)が恋すな業(なり)ましつつも      右の一首は、結城郡、矢作部(やはきべの)眞長(まなが)。 4387 千葉(ちは)の野の児手柏(このてかしは)の含(ほほ)まれどあやに愛(かな)しみ置きて発ち来ぬ      右の一首は、千葉郡(ちはのこほり)、大田部足人。 4388 旅とへど真旅になりぬ家の妹(も)が着せし衣に垢付きにかり      右の一首は、占部(うらべの)虫麿。 4389 潮舟の舳(へ)越そ白波急(には)しくも負ふせ賜(たま)ほか思はへなくに      右の一首は、印波郡(いにはのこほり)、丈部直(はせつかべのあたへ)大歳(おほとし)。 4390 群玉(むらたま)の枢(くる)に釘刺し堅めとし妹が心は危(あよ)くなめかも      右の一首は、サ島郡、刑部(おさかべの)志加麿(しかまろ)。 4391 国々の社(やしろ)の神に幣(ぬさ)奉(まつ)り贖(あが)乞ひすなむ妹が愛(かな)しさ      右の一首は、結城郡、忍海部(おしぬみべの)五百麿(いほまろ)。 4392 天地(あめつし)のいづれの神を祈らばか愛(うつく)し母にまた言問はむ      右の一首は、埴生郡(はにふのこほり)、大伴部麻與佐(まよさ)。 4393 大王の命にされば父母を斎瓮(いはひへ)と置きて参(まゐ)出来にしを      右の一首は、結城郡、雀部(きさきべの)廣島。 4394 大王の命かしこみ夢(ゆみ)のみにさ寝か渡らむ長けこの夜を      右の一首は、相馬郡、大伴部子羊(こひつじ)。      二月の十六日、下総の国の防人部領使、少目従七位下      縣犬養宿禰(あがたのいぬかひのすくね)浄人(きよひと)が進れる歌の数二十二首(はたちまりふたつ)。但し      拙劣(つたな)き歌十一首は、取載(あ)げず。 独り龍田山の桜の花を惜しめる歌一首 4395 龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに 独り江水(え)に浮漂(うか)べる糞(こつみ)を見て、貝玉の依らざるを怨恨(うら)みてよめる歌一首 4396 堀江より朝潮満ちに寄る木糞(こつみ)貝にありせば苞(つと)にせましを 館(たち)の門(かど)にて、江南美女(をとめ)を見てよめる歌一首 4397 見渡せば向つ峯(を)の上(へ)の花にほひ照りて立てるは愛(は)しき誰が妻      右の三首は、二月の十七日(とをかまりなぬかのひ)、兵部少輔大伴宿禰      家持がよめる。 防人の情(こころ)に為りて思を陳べてよめる歌一首、また短歌 4398 大王の 命かしこみ 妻別れ 悲しくはあれど    大夫の 心振り起し 取り装(よそ)ひ 門出をすれば    たらちねの 母掻き撫で 若草の 妻は取りつき    平らけく 我は斎(いは)はむ 好去(まさき)くて 早還り来(こ)と    真袖もち 涙を拭(のご)ひ むせびつつ 言問(ことどひ)すれば    群鳥(むらとり)の 出で立ちかてに とどこほり かへり見しつつ    いや遠に 国を来離れ いや高に 山を越え過ぎ    葦が散る 難波に来居て 夕潮に 船を浮けすゑ    朝凪に 舳(へ)向け漕がむと さもらふと 我が居(を)る時に    春霞 島廻(み)に立ちて 鶴(たづ)が音の 悲しく鳴けば    はろばろに 家を思ひ出 負征矢(おひそや)の そよと鳴るまで 嘆きつるかも 反し歌 4399 海原に霞たなびき鶴(たづ)が音の悲しき宵は国方(くにへ)し思ほゆ 4400 家思ふと眠(い)を寝ず居れば鶴(たづ)が鳴く葦辺も見えず春の霞に      右、十九日、兵部少輔大伴宿禰家持がよめる。 4401 唐衣(からころも)裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母(おも)なしにして      右の一首は、国造、小縣郡(ちひさがたのこほり)、他田舎人(をさだのとねり)大島。 4402 ちはやぶる神の御坂に幣まつり斎ふ命は母父(おもちち)がため      右の一首は、主帳、埴科郡(はにしなのこほり)、神人部(かむとべの)子忍男(こおしを)。 4403 大王の命かしこみ青雲(あをくむ)のとのびく山を越よて来ぬかむ      右の一首は、小長谷部(をはつせべの)笠麿。      二月の二十二日(はつかまりふつかのひ)、信濃の国の防人部領使、道にて      病を得て来たらず。進れる歌の数十二首。但し拙劣(つたな)き      歌九首は取載(あ)げず。 4404 難波道を行きて来(く)まてと我妹子が付けし紐が緒絶えにけるかも      右の一首は、助丁(すけのよほろ)、上毛野(かみつけぬの)牛甘(うしかひ)。 4405 我が妹子(いもこ)が偲ひにせよと付けし紐糸になるとも我(わ)は解かじとよ      右の一首は、朝倉益人(ますひと)。 4406 我が家(いは)ろに行(ゆ)かも人もが草枕旅は苦しと告げやらまくも      右の一首は、大伴部節麿(ふしまろ)。 4407 ひな曇り碓日(うすひ)の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも      右の一首は、他田部(をさだべの)子磐前(こいはさき)。      二月の二十三日、上野(かみつけぬ)の国の防人部領使、大目      正六位下(おほきむつのくらゐのしもつしな)上毛野君駿河が進れる歌の数十      二首。但し拙劣(つたな)き歌八首は取載(あ)げず。 防人の悲別(わかれ)の情(こころ)を陳ぶる歌一首、また短歌 4408 大王の 任(まけ)のまにまに 島守(さきもり)に 我が発ち来れば    ははそ葉の 母の命は 御裳(みも)の裾 摘み上げ掻き撫で    ちちの実の 父の命は 栲綱(たくづぬ)の 白髭の上ゆ    涙垂り 嘆きのたばく 鹿子(かこ)じもの ただ独りして    朝戸出の 愛(かな)しき吾(あ)が子 あら玉の 年の緒長く    相見ずは 恋しくあるべし 今日だにも 言問(ことどひ)せむと    惜しみつつ 悲しびいませ 若草の 妻も子どもも    をちこちに さはに囲み居 春鳥の 声のさまよひ    白妙の 袖泣き濡らし たづさはり 別れかてにと    引き留め 慕ひしものを 天皇(おほきみ)の 命かしこみ    玉ほこの 道に出で立ち 岡の崎 い廻(たむ)むるごとに    万(よろづ)たび かへり見しつつ はろばろに 別れし来れば    思ふそら 安くもあらず 恋ふるそら 苦しきものを    うつせみの 世の人なれば 玉きはる 命も知らず    海原の 恐(かしこ)き道を 島伝ひ い榜ぎ渡りて    あり巡り 我が来るまでに 平らけく 親はいまさね    つつみなく 妻は待たせと 住吉(すみのえ)の 吾(あ)が統神(すめかみ)に    幣(ぬさ)まつり 祈り申(まう)して 難波津に 船を浮け据ゑ    八十楫(やそか)貫(ぬ)き 水手(かこ)ととのへて 朝開き 我(わ)は榜ぎ出ぬと    家に告げこそ 反し歌 4409 家人(いへびと)の斎へにかあらむ平らけく船出はしぬと親に申(まう)さね 4410 み空行く雲も使と人は言へど家苞(いへづと)遣らむたづき知らずも 4411 家苞に貝そ拾(ひり)へる浜波はいやしくしくに高く寄すれど 4412 島陰に我が船泊てて告げやらむ使を無みや恋ひつつ行かむ      二月の二十三日、兵部少輔大伴宿禰家持。 4413 枕太刀腰に取り佩き真憐(まかな)しき夫(せ)ろが罷(ま)き来む月の知らなく      右の一首は、上丁(かみつよほろ)、那珂郡、檜前舎人(ひのくまのとねり)石前(いはさき)が妻(め)、      大伴眞足女(またりめ)。 4414 大王の命かしこみ愛(うつく)しけ真子が手離れ島伝ひ行く      右の一首は、助丁(すけのよほろ)、秩父郡、大伴部小歳(をとし)。 4415 白玉を手に取り持(も)して見るのすも家なる妹をまた見てもやも      右の一首は、主帳(ふみひと)、荏原郡(えはらのこほり)、物部歳徳(としとこ)。 4416 草枕旅ゆく夫汝(せな)が丸寝(まるね)せば家なる我は紐解かず寝む      右の一首は、妻(め)椋椅部(くらはしべの)刀自賣(とじめ)。 4417 赤駒を山野に放(はか)し捕りかにて多摩の横山徒歩(かし)ゆか遣らむ      右の一首は、豊島郡の上丁、椋椅部荒虫(あらむし)が妻(め)、      宇遲部(うぢべの)黒女(くろめ)。 4418 我が門の片山椿まこと汝(なれ)我が手触れなな土に落ちもかも      右の一首は、荏原郡の上丁、物部廣足(ひろたり)。 4419 家(いは)ろには葦火(あしふ)焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思(も)はも      右の一首は、橘樹郡(たちばなのこほり)の上丁、物部眞根(まね)。 4420 草枕旅の丸寝の紐絶えば吾(あ)が手と付けろこれの針(はる)持(も)し      右の一首は、妻(め)、椋椅部弟女(おとめ)。 4421 我が行きの息づくしかば足柄の峰這(は)ほ雲を見とと偲(しぬ)はね      右の一首は、都筑郡(つつきのこほり)の上丁、服部(はとりべの)於由(おゆ)。 4422 我が夫汝(せな)を筑紫へ遣りて愛(うつく)しみ帯は解かなな奇(あや)にかも寝も      右の一首は、妻(め)服部呰女(あため)。 4423 足柄の御坂に立(た)して袖振らば家(いは)なる妹はさやに見もかも      右の一首は、埼玉郡(さきたまのこほり)の上丁、藤原部等母麿(ともまろ)。 4424 色深(ぶか)く夫汝(せな)が衣は染めましを御坂廻(たば)らばまさやかに見む      右の一首は、妻(め)物部刀自賣。      二月の二十幾日(はつかまりいくかのひ)、武藏(むざし)の国の部領防人使、      掾(まつりごとひと)正六位上安曇(あづみ)宿禰三國が進れる歌の数      二十首。但し拙劣(つたな)き歌八首は取載(あ)げず。 4425 防人にゆくは誰が夫(せ)と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思(も)ひもせず 4426 天地(あめつし)の神に幣(ぬさ)置き斎ひつついませ我が夫汝(せな)吾(あれ)をし思(も)はば 4427 家(いは)の妹ろ我(わ)を偲(しの)ふらし真結(ゆす)びに結(ゆす)びし紐の解くらく思(も)へば 4428 我が夫汝(せな)を筑紫は遣りて愛(うつく)しみ帯(えび)は解かなな奇(あや)にかも寝む 4429 馬屋なる縄断つ駒の後(おく)るがへ妹が言ひしを置きて悲しも 4430 荒し男(を)のい小箭(をさ)手挟(だはさ)み向ひ立ちかなるましづみ出でてと吾(あ)が来る 4431 笹が葉のさやく霜夜に七重(ななへ)着(か)る衣に増せる子ろが肌はも 4432 障(さ)へなへぬ命(みこと)にあれば愛(かな)し妹が手枕離れあやに悲しも      右の八首は、昔年(さきつとし)の防人の歌なり。主典(ふみひと)刑部(うたへのつかさの)      少録(すなきふみひと)正七位上(おほきななつのくらゐのかみつしな)磐余(いはれの)伊美吉(いみき)諸君(もろきみ)が、      抄写(かきつけ)て兵部少輔大伴宿禰家持に贈れり。 三月(やよひ)の三日(みかのひ)、防人を検校(かむが)ふる勅使(みかどつかひ)、また兵部(つはもののつかさ)の使人等(つかひども)、同(とも)に集ひて飲宴(うたげ)するときよめる歌三首 4433 朝な朝(さ)な上がる雲雀になりてしか都に行きて早還り来む      右の一首は、勅使、紫微(しび)の大弼(おほきすけ)安倍沙美麿(さみまろ)の朝臣。 4434 雲雀あがる春へとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく 4435 含(ふふ)めりし花の初めに来(こ)し我や散りなむ後に都へ行かむ      右の二首は、兵部少輔大伴宿禰家持。 昔年(さきつとし)相替はれる防人が歌一首 4436 闇の夜の行く先知らず行く我をいつ来まさむと問ひし子らはも 先の太上天皇(おほきすめらみこと)の霍公鳥を御製(みよみ)ませる歌(おほみうた)一首 4437 霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな吾(あ)を音(ね)し泣くも 薩妙觀(さつめうくわむ)が詔を応(うけたま)はりて和へ奉れる歌一首 4438 霍公鳥ここに近くを来鳴きてよ過ぎなむ後に験(しるし)あらめやも 冬の日、靱負(ゆけひ)の御井(みゐ)に幸(いで)ましし時、内命婦(うちのひめとね)石川朝臣 諱曰邑婆 詔を応(うけたま)はりて雪を賦(よ)める歌一首 4439 松が枝の土に着くまで降る雪を見ずてや妹が籠り居るらむ      その時、水主内親王(みぬしのひめみこ)、寝膳安からず。累日参りたまはず。      因(かれ)此の日太上天皇、侍嬬(みやをみな)等に勅(の)りたまはく、水主内親王      の為に、雪を賦みて奉献(たてまつ)れとのりたまへり。是に諸(もろもろ)の      命婦(ひめとね)等、作歌(うたよみ)し堪(か)ねたれば、此の石川命婦、独り此の歌      を作(よ)みて奏(まを)せりき。      右の件の四首(ようた)は、上総の国の大掾(おほきまつりごとひと)正六位上(おほきむつのくらゐのかみつしな)      大原真人今城(いまき)伝へ誦(よ)めりき。年月未詳。 上総の国の朝集使(まゐうごなはるつかひ)大掾大原真人今城が京(みやこ)に向かへる時、郡司(こほりのつかさ)の妻女等(めら)が餞(うまのはなむけ)せる歌二首 4440 足柄の八重山越えていましなば誰をか君と見つつ偲はむ 4441 立ち萎(しな)ふ君が姿を忘れずば世の限りにや恋ひ渡りなむ 五月(さつき)の九日(ここのかのひ)、兵部少輔大伴宿禰家持が宅(いへ)にて集飲(うたげ)せる歌四首 4442 我が背子が屋戸の撫子日並べて雨は降れども色も変らず      右の一首は、大原真人今城。 4443 久かたの雨は降りしく撫子がいや初花に恋しき我が兄(せ)      右の一首は、大伴宿禰家持。 4444 我が背子が屋戸なる萩の花咲かむ秋の夕へは我を偲はせ      右の一首は、大原真人今城。 4445 鴬の声は過ぎぬと思へども染(し)みにし心なほ恋ひにけり      右の一首は、即ち鴬の哢(な)くを聞きてよめる。大伴宿禰家持。 同じ月の十一日(とをかまりひとひのひ)、左大臣(ひだりのおほまへつきみ)橘の卿(まへつきみ)の、右大弁(みぎのおほきおほともひ)丹比國人真人が宅に宴したまふ歌三首 4446 我が屋戸に咲ける撫子幣(まひ)はせむゆめ花散るないやをちに咲け      右の一首は、丹比國人真人が左大臣を寿(ことほ)く歌。 4447 幣しつつ君が生(お)ほせる撫子が花のみ問はむ君ならなくに      右の一首は、左大臣の和へたまふ歌。 4448 あぢさゐの八重咲くごとく弥(や)つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ      右の一首は、左大臣の、味狭藍(あぢさゐ)の花に寄せて詠みたまへる。 十八日(とをかまりやかのひ)、左大臣の、兵部卿(つはもののつかさのかみ)橘(たちばなの)奈良麿(ならまろの)朝臣(あそみ)が宅に宴したまふ歌一首 4449 撫子が花取り持ちてうつらうつら見まくの欲しき君にもあるかも      右の一首は、治部卿(をさむるつかさのかみ)船王(ふねのおほきみ)。 4450 我が背子が屋戸の撫子散らめやもいや初花に咲きは増すとも 4451 愛(うるは)しみ吾(あ)が思(も)ふ君は撫子が花になそへて見れど飽かぬかも      右の二首は、兵部少輔大伴宿禰家持が追ひてよめる。 八月(はつき)の十三日(とをかまりみかのひ)、内の南の安殿(やすみとの)にて、肆宴(とよのあかり)したまへるときの歌二首 4452 官女(をとめ)らが玉裳(たまも)裾曳くこの庭に秋風吹きて花は散りつつ      右の一首は、内匠頭(うちのたくみのかみ)播磨守(はりまのかみ)兼(か)けたる正四位下(おほきよつのくらゐのしもつしな)      安宿王(あすかべのおほきみ)奏(まを)したまへり。 4453 秋風の吹き扱(こ)き敷ける花の庭清き月夜(つくよ)に見れど飽かぬかも      右の一首は、兵部少輔従五位上(ひろきいつつのくらゐのかみつしな)大伴宿禰家持。未奏。 十一月(しもつき)の二十八日(はつかまりやかのひ)、左大臣、兵部卿橘奈良麿朝臣が宅に集ひて、宴したまふ歌三首 4454 高山の巌(いはほ)に生ふる菅(すが)の根のねもころごろに降り置く白雪      右の一首は、左大臣のよみたまへる。 天平(てむひやう)元年(はじめのとし)、班田(たあがつ)時の使葛城王(かづらきのおほきみ)の、山背の国より、薩妙觀(さつめうくわむ)の命婦(ひめとね)等が所(もと)に贈りたまへる歌一首 芹子(セリ)ノ髱(ツト)ニ副ヘタリ 4455 あかねさす昼は田賜(た)びてぬば玉の夜のいとまに摘める芹これ 薩妙觀の命婦が報贈(こた)ふる歌一首 4456 大夫と思へるものを大刀佩きて可尓波(かには)の田居に芹そ摘みける      右の二首は、左大臣読みあげたまへり。 〔天平勝宝〕八歳(やとせといふとし)丙申(ひのえさる)、二月の朔(つきたち)乙酉(きのととり)二十四日(はつかまりよかのひ)戊申(つちのえさる)、天皇(すめらみこと)、太上天皇(おほきすめらみこと)、〔太〕皇太后(おほみおや)、河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)して、信信(よよ)を経て、壬子(みづのえね)に難波の宮に伝幸(うつりいでま)し、三月(おやじつき)の七日(はつかまりなぬかのひ)、河内の国の仗人(くれの)郷(さと)の馬史國人(うまのふひとくにひと)が家にて、宴したまへるときの歌三首 4457 住吉の浜松が根の下延(ば)へて我が見る小野の草な刈りそね      右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持。 4458 にほ鳥の息長川(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ言(こと)尽きめやも      右の一首は、主人(あろじ)散位寮(とねのつかさ)の散位(とね)馬史國人。 4459 葦刈ると堀江榜ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに      右の一首は、式部少丞(のりのつかさのすなきまつりごとひと)大伴宿禰池主      読みあぐ。即ち云へらく、兵部大丞(つはもののつかさのおほきまつりごとひと)      大原真人今城、先つ日他所(あだしところ)にて読みあげし歌な      りといへり。 4460 堀江榜ぐ伊豆製(て)の船の楫つくめ音しば立ちぬ水脈(みを)速みかも 4461 堀江より水脈さかのぼる楫の音(と)の間なくそ奈良ば恋しかりける 4462 舟競(ふなぎほ)ふ堀江の川の水際(みなきは)に来居つつ鳴くは都鳥かも      右の三首は、江(え)の辺(べ)にてよめる。 4463 霍公鳥まづ鳴く朝明(あさけ)いかにせば我が門過ぎじ語り継ぐまで 4464 霍公鳥懸けつつ君を松陰に紐解き放くる月近づきぬ      右の二首は、二十日、大伴宿禰家持興(こと)に依(つ)けてよめる。 族(やがら)を喩(さと)す歌一首、また短歌 4465 久かたの 天(あま)の門(と)開き 高千穂の 岳(たけ)に天降(あも)りし    天孫(すめろき)の 神の御代より 梔弓(はじゆみ)を 手(た)握り持たし    真鹿児矢(まかこや)を 手挟(たはさ)み添へて 大久米の ますら健男(たけを)を    先に立て 靫(ゆき)取り負ほせ 山川を 岩根さくみて    踏み通り 国覓(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け    まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へまつりて    蜻蛉島(あきづしま) 大和の国の 橿原(かしばら)の 畝傍(うねび)の宮に    宮柱 太知り立てて 天(あめ)の下 知らしめしける    天皇(すめろき)の 天(あま)の日嗣(ひつぎ)と 次第(つぎて)来る 君の御代御代    隠さはぬ 赤き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽して    仕へくる 祖(おや)の職業(つかさ)と 事立(ことた)てて 授け賜へる    子孫(うみのこ)の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り継ぎてて    聞く人の 鑑(かがみ)にせむを 惜(あたら)しき 清きその名そ    疎(おほ)ろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 遠祖(おや)の名絶つな    大伴の 氏と名に負へる 健男(ますらを)の伴 反し歌 4466 磯城島(しきしま)の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男(を)心つとめよ 4467 剣大刀(つるぎたち)いよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名そ      右、淡海真人三船(あふみのまひとみふね)が讒言(よこ)せしに縁りて、出雲守大伴古慈悲(こじひの)宿禰      任(つかさ)解けぬ。是以(かれ)家持此の歌をよめり。 臥病(や)みて常無きを悲しみ、修道(おこなひ)せまくしてよめる歌二首 4468 現身(うつせみ)は数なき身なり山川のさやけき見つつ道を尋ねな 4469 渡る日の影に競(きほ)ひて尋ねてな清きその道またも会はむため 寿(いのち)を願ひてよめる歌一首 4470 水泡(みつぼ)なす仮れる身そとは知れれどもなほし願ひつ千年(ちとせ)の命を      以前(かみ)の歌六首(むうた)は、六月(みなつき)の十七日(とをかまりなぬかのひ)、大伴宿禰家持がよめる。 冬十一月(しもつき)の五日の夜、少雷起鳴(かみなり)、雪散覆庭(ゆきふれり)。忽懐感憐(かなしみて)よめる短歌(みじかうた)一首 4471 消(け)残りの雪にあへ照るあしひきの山橘を苞(つと)に摘み来な      右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持。 八日、讃岐守(さぬきのかみ)安宿王(あすかべのおほきみ)等(たち)、出雲掾(いずものまつりごとひと)安宿奈杼麿(あすかべのなどまろ)が家に集ひて、宴したまふ歌二首 4472 大王の命かしこみ於保(おほ)の浦を背向(そがひ)に見つつ都へのぼる      右の一首は、掾安宿奈杼麿。 4473 うち日さす都の人に告げまくは見し日のごとくありと告げこそ      右の一首は、守(かみ)山背王(やましろのおほきみ)の歌なり。主人(あろじ)安宿奈杼麿(あすかべのなどまろ)      語りけらく、奈杼麿朝集使(まゐうごなはるつかひ)に差され、京師(みやこ)に入(まゐ)て      むとす。此に因りて餞(うまのはなむけ)する日、各(おのもおのも)歌をよみて、      聊か所心(おもひ)を陳(の)ぶ。 4474 群鳥(むらとり)の朝立ち去(い)にし君が上はさやかに聞きつ思ひしごとく      右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持、後日(のち)に出雲守山背王      の歌に追ひて和ふる作(うた)。 二十三日(はつかまりみかのひ)、式部少丞(のりのつかさのすなきまつりごとひと)大伴宿禰池主が宅に集ひて、飲宴(うたげ)する歌二首 4475 初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我は見つつ偲はむ 4476 奥山の樒(しきみ)が花の名のごとやしくしく君に恋ひ渡りなむ      右の二首は、兵部大丞(つはもののつかさのおほきまつりごとひと)大原真人今城。 智努女王(ちぬのおほきみ)の卒(みうせ)たまへる後、圓方女王(まとかたのおほきみ)の悲傷(かなし)みてよみたまへる歌一首 4477 夕霧に千鳥の鳴きし佐保路をば荒しやしてむ見るよしをなみ 大原櫻井(さくらゐの)真人が、佐保川の辺(ほとり)を行く時、よめる歌一首 4478 佐保川に凍りわたれる薄氷(うすらび)の薄き心を我が思はなくに 藤原の夫人(おほとじ)の歌一首 浄御原ノ宮ニ御宇(アメノシタシロシメ)シシ天皇ノ夫人ナリ。字ヲ氷上大刀自(ヒガミオホトジ)ト曰ヘリ 4479 朝宵に音(ね)のみし泣けば焼き大刀の利心(とごころ)も吾(あれ)は思ひかねつも 4480 畏(かしこ)きや天(あめ)の朝廷(みかど)を懸けつれば音のみし泣かゆ朝宵にして      右の件の四首、伝へ読むは兵部大丞大原今城。 〔勝宝〕九歳(ここのせといふとし)三月の四日、兵部大丞大原真人今城が宅にて、宴する歌二首 4481 あしひきの八峯(やつを)の椿つらつらに見とも飽かめや植ゑてける君      右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持が植椿(つばき)を属(み)てよめる。 4482 堀江越え遠き里まて送り来(け)る君が心は忘らゆまじも      右の一首は、播磨介藤原朝臣執弓(とりゆみ)、任(まけところ)に赴(ゆ)くときの      別悲(わかれ)の歌なり。主人大原今城伝へ読めりき。 〔勝宝九歳〕六月の二十三日、大監物(おほきおろしもののつかさ)三形王(みかたのおほきみ)の宅にて、宴する歌一首 4483 移りゆく時見るごとに心痛く昔の人し思ほゆるかも      右、兵部大輔(つはもののつかさのおほきすけ)大伴宿禰家持がよめる。 4484 咲く花は移ろふ時ありあしひきの山菅(やますが)の根し長くはありけり      右の一首は、大伴宿禰家持が、物色(もの)の変化(うつ)ろへるを悲伶(かなし)みてよめる。 4485 時の花いや愛(め)づらしもかくしこそ見(め)し明らめめ秋立つごとに      右の一首は、大伴宿禰家持がよめる。 天平(てむひやう)宝字(はうじ)元年(はじめのとし)十一月(しもつき)の十八日、内裏(おほうち)にて肆宴(とよのあかり)きこしめす歌二首 4486 天地を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ      右の一首は、皇太子(ひつぎのみこ)の御歌。 4487 いざ子ども狂行(たはわざ)なせそ天地の堅めし国そ大和島根は      右の一首は、内相藤原朝臣奏(まを)したまふ。 十二月(しはす)の十八日、大監物三形王の宅にて、宴する歌三首 4488 み雪降る冬は今日のみ鴬の鳴かむ春へは明日にしあるらし      右の一首は、主人三形王。 4489 打ち靡く春を近みかぬば玉の今宵の月夜霞みたるらむ      右の一首は、大蔵大輔(おほくらのつかさのおほきすけ)甘南備(かむなびの)伊香(いかごの)真人。 4490 あら玉の年往き還り春立たばまづ我が屋戸に鴬は鳴け      右の一首は、右中弁(みぎのなかのおほともひ)大伴宿禰家持。 4491 大き海の水底(みなそこ)深く思ひつつ裳引き平(なら)しし菅原の里      右の一首は、藤原宿奈麿朝臣が妻(め)石川女郎(いしかはのいらつめ)が、      薄愛離別(したしみおとろへてのち)、悲恨(かなし)みてよめる歌なり。年月未詳。 二十三日、治部少輔大原今城真人が宅にて、宴する歌一首 4492 月数(よ)めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか      右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 二年(ふたとせといふとし)春正月(むつき)の三日、侍従(おもとひと)・堅子(ちひさわらは)・王臣等(おほきみたちおみたち)を召して、内裏(おほうち)の東(ひむかし)の屋の垣下(みかきもと)に侍(さもら)はしめ、玉箒(たまばはき)を賜ひて肆宴きこしめす。時に内相藤原朝臣勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて、宣(のりたま)はく、諸王卿等(おほきみたちまへつきみたち)、随堪任意(こころのまにま)歌よみ詩(ふみ)賦(つく)れとのりたまへり。仍(かれ)詔旨(みことのり)のまにま、各(おのもおのも)心緒(おもひ)を陳(の)べて歌よみ詩(ふみ)賦(つく)れり。諸人ノ賦レル詩マタ作メル歌ヲ得ズ。 4493 初春の初子(はつね)の今日の玉箒(たまばはき)手に取るからに揺らく玉の緒      右の一首は、右中弁(みぎのなかのおほともひ)大伴宿禰家持がよめる。      但し大蔵(おほくらのつかさ)の政(まつりごと)に依りて、え奏(まを)さざりき。 4494 水鳥の鴨の羽(は)の色の青馬を今日見る人は限りなしといふ      右の一首は、七日の侍宴(とよのあかり)の為に、右中弁大伴宿禰      家持、此の歌を預(あらかじ)めよめり。但し仁王会(おがみ)の事に      依り、六日(むかのひ)、内裏(おほうち)に諸王(もろもろのおほきみたち)卿等(まへつきみたち)を召し      て、酒を賜ひ肆宴(とよのあかり)きこしめし、禄(もの)給へるに因りて      奏さざりき。 六日、内庭(おほには)に仮に樹木(き)を植ゑて、林帷(かきしろ)と作(し)て、肆宴きこしめす歌一首 4495 打ち靡く春ともしるく鴬は植木の木間(こま)を鳴き渡らなむ      右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。未奏。 二月の某日(それのひ)、式部大輔(のりのつかさのおほきすけ)中臣清麿朝臣が宅にて、宴する歌十首(とを) 4496 恨めしく君はもあるか屋戸の梅の散り過ぐるまで見しめずありける      右の一首は、治部少輔大原今城真人。 4497 見むと言はば否(いな)と言はめや梅の花散り過ぐるまて君が来まさぬ      右の一首は、主人中臣清麿朝臣。 4498 愛(は)しきよし今日の主人(あろじ)は磯松の常にいまさね今も見るごと      右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 4499 我が背子しかくし聞こさば天地の神を乞(こ)ひ祈(の)み長くとそ思ふ      右の一首は、主人(あろじ)中臣清麿朝臣。 4500 梅の花香をかぐはしみ遠けども心もしぬに君をしそ思ふ      右の一首は、治部大輔(をさむるつかさのおほきすけ)市原王(いちはらのおほきみ)。 4501 八千種の花は移ろふ常盤(ときは)なる松のさ枝を我は結ばな      右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 4502 梅の花咲き散る春の長き日を見れども飽かぬ磯にもあるかも      右の一首は、大蔵大輔甘南備伊香真人。 4503 君が家の池の白波磯に寄せしばしば見とも飽かむ君かも      右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 4504 うるはしと吾(あ)が思(も)ふ君はいや日日(ひけ)に来ませ我が背子絶ゆる日なしに      右の一首は、主人中臣清麿朝臣。 4505 磯の裏に常呼び来棲む鴛鴦(をしどり)の惜しき吾(あ)が身は君がまにまに      右の一首は、治部少輔大原今城真人。 興(とき)に依(つ)けて、各(おのもおのも)高圓(たかまと)の離宮処(とつみやところ)を思(しぬ)ひてよめる歌五首 4506 高圓の野の上(うへ)の宮は荒れにけり立たしし君の御代遠そけば      右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 4507 高圓の峰(を)の上(うへ)の宮は荒れぬとも立たしし君の御名忘れめや      右の一首は、治部少輔大原今城真人。 4508 高圓の野辺はふ葛(くず)の末つひに千代に忘れむ我が大王かも      右の一首は、主人中臣清麿朝臣。 4509 延(は)ふ葛の絶えず偲はむ大王の見(め)しし野辺には標(しめ)結ふべしも      右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 4510 大王の継ぎて見(め)すらし高圓の野辺見るごとに音(ね)のみし泣かゆ      右の一首は、大蔵大輔甘南備伊香真人。 山斎(しまのいへ)を属目(み)てよめる歌三首 4511 鴛鴦(をし)の棲む君がこの山斎(しま)今日見れば馬酔木(あしび)の花も咲きにけるかも      右の一首は、大監物御方王(みかたのおほきみ)。 4512 池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を袖(そて)に扱入(こき)れな      右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。 4513 磯影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも      右の一首は、大蔵大輔甘南備伊香真人。 二月の十日、内相の宅にて、渤海(ぼかいに)大使(つかはすつかひのかみ)小野田守(たもりの)朝臣等(ら)を餞(うまのはなむけ)する宴の歌一首 4514 青海原(あをうなはら)風波なびき往くさ来(く)さ障(つつ)むことなく船は速けむ      右の一首は、右中弁大伴宿禰家持。未誦之。 七月の五日、治部少輔大原今城真人が宅にて、因幡守(いなばのかみ)大伴宿禰家持を餞(うまのはなむけ)する宴の歌一首 4515 秋風の末吹き靡く萩の花ともに挿頭(かざ)さず相か別れむ      右の一首は、大伴宿禰家持がよめる。 三年(みとせといふとし)春正月(むつき)の一日(つきたちのひ)、因幡の国の庁(まつりごととの)にて、国郡司等(つかさびとら)を賜饗(あへ)する宴の歌一首 4516 新(あらた)しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)      右の一首は、守(かみ)大伴宿禰家持がよめる。 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