山部宿禰赤人
やまべのすくねあかひと
- 生没年 未詳。名は明人にも作る(万葉巻17)。
- 系譜など 未詳。山部宿禰は、山林の管理と産物を貢納する山部を管掌した伴造氏族。もとは連、684(天武13)年の八色の姓制定の時宿禰を賜わる。785(延暦4)年5月、桓武天皇の諱山部に触れるため山と改められた。
- 略伝 続紀には名が見えず、官人としての履歴は全く不明。制作年の知られる最初の歌は、724(神亀1)年10.5の紀伊国行幸の時の作(06/0917〜0919)。翌年の吉野行幸(06/0923〜0927)・難波行幸にも作歌(06/0933・0934)。726(神亀3)年9月の播磨国印南野行幸(06/0938〜0941)・734(天平6)年3月の難波行幸(06/1001)にも従駕して歌を残し、736(天平8)年6月の吉野行幸での作歌(06/1005・1006)が制作年の知れる最後の歌である。ほかに文武・元明朝の作かと思われる勝鹿真間娘子の墓(千葉県市川市)を過ぎる時の歌(03/0431〜0433)、神亀年間の作と思われる富士山を詠んだ歌(03/0317・0318)・伊予温泉に至って作る歌(03/0322・0323)などがある。また「故太政大臣藤原家の山池」を詠んだ歌があり(03/0378)、藤原氏との深い関係が推測される。聖武朝前期の宮廷歌人と見るのがほぼ定説となっている。万葉収載歌は長歌13首、短歌36首。なお『三十六人集(歌仙家集)』の一巻として『赤人集』と名付けられた歌集があるが、大半は万葉巻十に収録された作者不明歌で占められており、万葉抄出本を赤人集に誤認したものらしい。
家持の大伴池主宛書簡に「山柿の門」とあり(17/3969)、この「山」は山部赤人を指すと見る説が有力(但し山上憶良説などもある)。古今集序は柿本人麿と共に赤人を歌仙と仰いでいる。
関連サイト:赤人の歌(やまとうた)
山部赤人神社(姫路市立津田小学校)
山部赤人の墓(榛原)
山部神社・赤人寺(滋賀県八日市市観光案内)
表紙へ