■関東工業専用線■
  幻の南雀宮駅(雀宮南駅)

1.沿革

(1)歴史
 関東工業株式会社は、日産自動車の加工部を母体として旧陸軍の要請により砲弾を大量生産することを目的に設立された。自動車生産のノウハウを投入した画期的な生産性の向上が期待されたという。複数の候補地から平坦で広大な用地確保が可能な当時の雀宮村が選定され、「雀宮村608番地」と称された。この工場の物流を担うために敷設されたのが雀宮駅からの専用線(引込み線)だ。。
 実際の生産は、1944(S19)に入ってから行われたようだが、その立ち上がりは素早く、数千人の従業員(S20.3時点 約7,000人)と3,000に及ぶ機器・設備を有する大工場となった。専用線は、これらの人員輸送も担い、後には東北本線上(雀宮−石橋間)へ旅客駅(工場関係者専用)も設けられた。終戦と共に関東工業を取り巻く環境は一変した。平和産業への転換を試み鉄道車輌製作なども目論むが結局実を結ぶことなく工場は閉鎖となる。専用線や機関車もこれと運命を共にしたものと思われる。
月日 出来事
1895(M28) 7.6 日本鉄道奥州線(現東北本線)に雀宮駅を設置
1942(S17) 10 関東工業株式会社設立総会
12.20 雀宮小に集合した地主600余名が土地買収承諾書に調印
総面積120万坪金額140万円
1943(S18) 2.11 関東工業雀宮工場建設着工(鍬入れ式)
3 専用線建設内定
11 専用線完成
1944(S19) 母体であった横浜(追浜)工場からの移駐を完了 初出荷
11 南雀宮駅設置(東北本線上の旅客駅?・・・後述)
1945(S20) 南雀宮駅供用開始
8.15 終戦
9.30 関東工業従業員全員に解雇を通告
10 関東工業、平和産業として再出発 関東車輌工業と称した時期もある
1947(S22) 米軍航空写真に専用線(関東工業周辺)が記録される
(文献31)
1949(S24) 関東工業閉鎖 全資産が大蔵省関東財務局所轄となる
1950(S25) 11 警察予備隊(現自衛隊)が工場跡地に駐屯
1952(S27) 宇都宮機関区にて保管中の専用線機関車が確認される
(交友社 鉄道ファン 2003年1月号)
上記年表は、参考文献:27,29,30,31及び下野史談第84号を元に作成
(2)ルート
 以下に推定される路線ルートを示す。本線からの分岐箇所は明らかでないが、地形、現状、関東工業の用地取得状況などから勘案して雀宮駅南方の羽牛田街道踏切南方(東京起点101.45km)付近であったと考えられる。因みに、雀宮駅の石橋方場内信号機は101.41Km(S55.3北局路線図)であり、場内信号機の移設が行われていなければ場内最南端で分岐していたものと思われる。
 専用線は本線西側に隣接して敷設され、全長1.8km程度であったと推定される。

(3)雀宮駅
 現在までの調査では、当時の構内配線を明らかにすることはできなかった。
(4)専用線の駅
 現在の茂原2丁目に存在していた。「雀宮南駅」と表現している文献もある。
本線からやや西に離れ、荷役ホーム(石造り?)及び荷役上屋が設けられていた。
          
(下野史談第84号掲載写真 画像クリックで拡大表示)

また、北方に伸びる行き止まりの線路は、何らかの機関車メンテ設備があったことをうかがわせる。なお、専用線を用いた人員輸送も行われていたようである。
下図は、文献29・30に掲載されている図
 ■1977(S52).1 元関東工業役員 安原 一郎氏が作成された
   S20.9.30現在 関東工業雀宮工場 建屋配置図
   (占領軍へ提出資料等を参照して作成)
を元に、達磨小僧の推測を加えて作成した。(道路配置は当時のもの)
1947(S22)の米軍航空写真とは若干異なっているようにも見える。
(5)旅客駅
 設置時期と輸送開始時期のずれなど不明点が多いが、前出の旧写真を見たところ次のようなことが読み取れる。
■関東工業専用駅にほぼ並行する形で隣接し設置されている。
■駅名板には「みなみすゞめのみや」「南雀宮」と右書きされている。
■ホームは対向式で、木製の支柱上に厚い板を張ったような構造である。
  (本線は明治期に複線化済み)
■注意看板があり、以下の内容が記されている。
  「本驛は定期券所持者以外の方の乗降は出来ません」

尚、1947(S22)撮影の米軍航空写真には、何の痕跡も見当たらず、戦後いち早く撤去されたものと思われる。
(6)機関車
 文献30には、専用線の機関車は1943(S18)「北海道の炭坑で中古を見つけた」と書かれており、また、「動輪が小さいので自走できず貨車に積み込まれて・・・」雀宮にやって来たとも書かれている。一方、蒸気機関車史の研究(文献10)によると、この機関車は東亜車輌(旧橋本鉄工所 北海道小樽市)が海軍省に5両納入した重量20tのD型タンク機の1両<1943(S18).10月製造>とされている。元をたどると、義経・弁慶シリーズも製作した米国H.Kポーター社が台湾台東線(当時軌間762mm)に納入した機関車を、国内メーカが共同で軽便鉄道用強力機として標準化し(早い話がコピー)、さらに東亜(橋本)が軌間のみ1067mmに改めたものである。したがって、ベースとなった台東線のDタンク機LDK50型と形態が似ている。因みに動輪直径はわずか2フィート4インチ(約710mm)で、自力や甲種での回送ができなかったことがわかる。

 上記のとおり、この機関車が雀宮にやって来た正確な経緯はわからないが、中古ではなく、少なくとも新古レベルであったと推測される。1952(S27)に宇都宮で撮影された写真では、煙室戸ハンドルに@のナンバープレートが付されていた。

 その後、産業用として復活したとの履歴はなく10年弱(実働は2年弱)で姿を消したものと推測される。

 

2.専用線跡の現状

 専用線跡と推定する東北本線西側に並行する道路を雀宮駅から南してみた。
■雀宮駅舎■
新幹線ルートからわずかに離れていることで旧来の駅舎が残った。構内には、「鉄道院」の陽刻がのこる跨線橋の柱が残されている。
■分岐点と推定する
       101.4kmポスト付近■
雀宮駅方を見る。画面奥に、羽牛田街道踏切、画面中央に雀宮駅下り線場内信号機が見える。舗装から砂利道に変わる道路が専用線ルートと推定される。
■本線101kmポスト付近■
本線に並行する道路は徐々に細くなりながらも続いている。奥が雀宮方。
この先、牛塚踏切(100.8km)から長島踏切(100.5km)までルート跡を偲ばせる痕跡は畑と住宅地の中に消える。
■本線100.3kmポスト付近■
長島踏切(100.5km)を越えるとルート跡と思われる舗装道路が現れるが、200mほどで再び住宅地の中の中に消える。
写真奥が雀宮方。
■本線100kmポスト■
画面左に100kmポスト。踏切は、「第三茂原踏切」。関東工業専用駅の北端にあたる箇所である。踏切を左に進むと現陸上自衛隊宇都宮駐屯地正門に向かう。
写真奥が、雀宮方。
■本線100kmポスト■
上と同じ場所から、石橋方をみる。
当時は、本線両側に「南雀宮」の乗降ホーム、画面右側に専用駅があったと思われる。
(旧写真に近い位置と思われる)
■本線99.8kmポスト付近■
写真左が「専用駅」右が「南雀宮駅」
奥が雀宮駅方
■本線99.7kmポスト付近■
「専用駅」の南端に近い箇所。分岐点からここまで何一つ遺構は発見できなかった。左の住宅地内には、何かが眠っているかもしれないが・・・・・・
奥が雀宮駅方。
■関東工業の水がめだった給水タンク■
専用駅の東約1kmの高台にある関東工業が建設した給水タンク。非常に巨大なもので新幹線車窓からもよく見える。現在は、宇都宮市に移管されている。実働しているか否かは不明。
近くで観察すると、当時のコンクリートの材質によるものか、施工によるものか、表面のコンクリートが広範囲に剥落し一部鉄筋が露出している箇所も見受けられる。

3.あとがき

 現時点までに調査できたことをまとめてみたが、謎の解明には程遠いのも現実だ。廃止後、実働期間の30倍もの時が経過しているためいたし方ないところではあるが撤去時期、運行状況などは、まだ調査出来る可能性があると考えている。この専用線に関して何らかの情報をお持ちの方はとちレビへご連絡いただければ幸いである。



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更新    2005.5.29 下野史談84号掲載写真を追加
作成    2005.5.5
写真撮影 2004.11.13 2005.3.20

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