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(1998年10月28日(水)版)

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東京のハイロンサム

不景気の日本で、粋な連中はアメリカのブルーグラスの悲しげな弦の音に、慰めを見出している。

By Michael Dorgan , Mercury News Writer

東京−

 日本の首都のど真ん中にまるでテネシイのような場所がある。 そこでは、貧しい片田舎のアメリカで誕生した音楽が、豊かで国際的な都市の、そこでは快適な時間が流れているように見える、サラリーマンや都会人達に人気を得ている。

 このテネシーの一部分とはロッキートップ、広い居間ほどの大きさのブルーグラスパブで、華やかな銀座にある雑居ビルの3階にある。 

 この店は銀座でかれこれ20年営業しているのだが、初めの15年ほどはあまり知られず、赤字続きだった。いわゆる日本のバブル経済が崩壊してからやっと、カントリーミュージックが辛い時を表わしているようで、ハイロンサム-サウンドと言われる今は亡きブルーグラスの父、ビルモンローの歌が、日本人にも愛されるようになってきた、とオーナーの小柳氏は言う。 

 ”心理的要素がある、”とバンド演奏の休みの合間に、カウンターの後ろから小柳氏は言った。”僕には今の若い人は、違った感覚を持っているように思える。彼らは表面的には楽しげにみえるが、本当は寂しいのではないだろうか。そしてアコースティックな音は慰めてくれるような気がする。”と。

 その人気にも拘わらず、ロッキートップは、人が多く派手なネオンまたたく銀座では、見つけるのが容易ではない。又行くのも難しい。銀座のネオンが派手に宣伝している繁華街をぬけた後、ファンは狭く曲がった入り口通路を通り、日本人なら3人、グリッツエンドグルーヴィーブッバなら1人でいっぱいになるようなエレヴェーターに乗り込まなければならない。

 しかし苦労するに価する、ロッキートップは旅行者目当てのおざなりな店ではないからだ。正に本物、言ってみればブルーグラスが根付いているアパラチアン渓谷から7000マイル離れている事など物ともしない程である。 

 こじんまりしたステージの後ろには牛の毛皮が鋲でとめられている。その横には”God Bless America.”と書かれたステッカー、”If it ain't country, it ain't music.”と書かれたものもある。

 先日の晩、灰色のスーツを着た中年のサラリーマンが、75ドル50セントのジャックダニエルをちびりちびりやっているその後ろで、ビル・モンローが満足げに横の壁のポスターから傍観していた。

 しかしロッキートップを正真正銘の本物としているのは、装飾ではなく、そこでの音楽である。ニューアップルシードの様に優れたバンドが出演している夜には、演奏は技術的に完璧であり、歌の心は、たとえ詩は日本語訛りの発音であったとしても、ナッシュビルで聞くことができるものと何ら変わらない。

 

ブルーグラスが日本人の心の弦に触れた

言葉の壁を越えて

 発音がネイティブアメリカンではなくても、それは問題ではない。とにかくファンの多くは、英語が解らないのだし、それで曲の楽しさが半減する訳ではないようだ。地味なビジネススーツを着ているにも拘わらず、ホットなマンドリンのリフ(楽節)や、バンジョーの素晴らしい演奏を聞くと、男性も女性も、ヒルビリーと同じように、歓声を上げる。

 ”日本人はこの悲しく寂しい音が好みさ。こんな音楽は、他には無いだろうな。”とニューアップルシードのリーダー、笹部益生氏はステージの合間に語った。

 横浜で建築家として活躍している笹部氏は、ブルーグラスーミュージシャンとしても本格的で、1991年、アラバマ州ハンツビルに於いて、初期の頃のバンドで彼は唄を披露し、その地の名誉市民となった程である。

 彼とバンドメンバーがアメリカを初めて訪れたのは1974年、本場で正真のブルーグラスフェスティバルを探し求め経験しようという旅であった。当時ブルーグラスを聞いたことがある日本人はあまりいなかったし、笹部氏自身も東京のレコード店でパラパラとめくっていて見つけた数枚のアルバムによって、やっと知ったようなようなものだった。笹部氏(現在48才)は、14才の時キングストーントリオを聞き、アメリカンフォークミュージックに魅了された。しかしブルーグラスのフィンガーピッキングを聞いた時には、すっかり夢中になった。

 最初のアメリカ旅行の時、笹部氏とバンドのメンバーはシアトルを訪れ、6日の間1日13時間車を走らせ、ようやく彼らにとって初めてのフェスティバルを見つけた。ペンシルベニア州ゲティスバーグで開催されたもので、そこはまるで格闘技場のようだったと笹部氏は語った。フェスティバルの主催者は日本のブルーグラスバンドの意向に大変驚かされ、2〜3曲歌うようにと招いたのだが、結局それは30分のステージとなった。演奏が終わると、気のいい人々が自分たちのハットを回し、耳の肥えた聴衆から300ドルのチップを集めたと、笹部氏は誇りを持って回想した。

 それ以来もう笹部氏はブルーグラスに専心していたが、日本でその音楽が受け入れられるようになるまでには数年掛かった。 今日では日本で年2回、大きなブルーグラスのフェスティバルがある。そのうちの一つでは、とても多くのバンドが集まってくるので、各バンドの演奏時間は短いのだが、朝10時から翌日の明け方3時まで続く。

 ”バンドの連中は10分演奏するために、10時間運転してくる、”と笹部氏は語った。

 ロッキートップのマスター小柳氏は、1991年の経済不況とその後引き続いている停滞の後、多くの日本人がブルーグラスの良さを解するようになったと言う。また、単にその独特なサウンドに興味があるというのではなく、ブルーグラスはくつろぎを与えてくれる類の音楽だという事が人々の関心を集めている、とも言った。

 小柳氏(彼は3軒のパブを経営している)は次の様にも語った、1980年代の好景気の時には、ビジネスマンにとって会社帰りに2〜3杯飲んで、ちょっとつまみを取って、200ドル使うという事が当たり前であった。今は高額な支払いは影を潜め、人々は手軽な価格で楽しみを求めるようになった。ロッキートップのカバーチャージは大体10ドルか15ドルで、これは銀座の平均からいうと極めて控えめな額である。

 しかしブルーグラスの人気は外に広がるというよりは内側に向かっていくようだ。小柳氏は次のように感じている、多くの若者が技術を磨き始めてきたーそしてたぶん傷ついて、酒を飲み、ごまかすという素朴なアメリカの歌を、ギターやマンドリンやバンジョーでどう演奏するかを学ぶ事で、希望が薄れていく痛みをいやしているのではないのだろうか。

 ”日本が不景気になった時に、エレキの楽器よりもアコースティックの楽器が売れだした。”と彼は言った。

 

似たようなルーツが見られる

 笹部氏はブルーグラスは独特であると考えており、小柳氏は日本の伝統的なフォークミュージックの特性を共有する所が多いと感じている。バンジョーでさえ、日本の三味線と似ていると彼は言った。

 小柳氏はブルーグラスに熱中するのは遅かったが、今は夢中であると語った。彼の唯一の不満は、その速いペースの調子が運転する時には不向きな事だ。 ”僕はブルーグラスのテープを車に置かないようにしているんだ。前にそれをかけながら運転したらものすごいスピードを出してしまったから。ブルーグラスを聞いていると、高速では130キロなんて軽いもの。だから僕は運転中はゆっくりとした音楽を聞くことにしているんだ。”