「もののけ姫」と云う名の「アシタカせっ記」騒動

佐藤(EHF41721@pcvan.or.jp)

 1997年7月12日から上映されている「もののけ姫」。予想外の観客動員数を更新中の、この作品に対する、わたしの感想を綴ってみました。

●その壱.「荒ぶる違和感」

○違和感1.「エンタテイメントではない」

 「これが新しいエンタテイメントの形なのだ」と云われてしまえばそれっきりですが、「もののけ姫」に関して、わたしは「肩すかし」と云う事を取り敢えず云いたいです。  自然と人間の根元的闘争と云うテーマを取り上げるのは全然気になりませんが、エンタテイメントとしての映画を使って、それに一つの決着を付けると云うので有れば、逃げないで欲しかった。ディダラボッチの暴走の部分は、宮崎さんの「もののけ姫」に対する未消化の部分、そのものと云う気がします。
 即ち、あくまで映画としての完成度と云う事を問題にしたいワケですね。

 わたしは、エンタテイメントじゃない漫画映画は作っちゃいけないと思います。そんな漫画映画は、自分の金を使って、自分一人で、自分専用の上映室か映画館で観れば良いと思います。伝説の大富豪ハワード・ヒューズが自分の好きな女優を観たいが為に作ったと云われる映画「征服者」の様に…。
 かつて、宮崎さんは富沢洋子編「また、会えたね!」に於いて、漫画映画の神髄を述べていましたが、わたしはそれに心酔したクチです。(^_^)
 で、「もののけ姫」を観ると、それが全て反故にされた様な気分になってしまいました。例えて云えば、有名なシェフの料理を食べに行ったら、素材がそのまま出てきて、料理はお前がやれみたいな…。それって、タダの逃げでは?
 「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ…」(^_^;)

★参考資料:富沢洋子編「また、会えたね!」より抜粋。

「漫画映画の浄化作用」

 …僕は漫画映画と云うのは、見終わった時に解放された気分になってね、作品に出てくる人間達も解放されて終わるべきだと云う気持ちが有る。出てくる人間達が無邪気になったと云うのが、僕は好きなんですよ。…
「漫画映画を目指して」
 僕は自分が観たい物を作りたい。僕は漫画映画は、何よりも心を解きほぐしてくれて、愉快になったり、すがすがしい気持ちにしてくれる物だと思ってる。その間は、自分を抜け出せると云うか…。僕らは抜き差しならない現実社会に、抜き差しならない自分を抱えて生きてるでしょう。だけどね、いろんなコンプレクスとかがんじがらめの関係から抜け出て、もっと自由な、おおらかな世界にあればね、自分は強くも雄々しくもなれる。もっと美しく、優しくなれるのに、自分の存在も意味有る物になるのに、と云う思いを持っているんじゃないか。少年も老人も、女も男も…。

…と云う事で、ぼやきを少々。(^_^)

 「風の谷のナウシカ」から13年、天才・宮崎駿はタタリ神になっていた…。
 ナウシカは好きだが、サンは嫌いだ(クラリス様はもっと好きだ)(^_^;)
 解き放て!あの子は美少女だぞ(美少女は世界の宝。カヤの方が美少女だぞ)(^_^;)

○違和感2.「サンに魅力を感じない」

 作品に入れ込む要因はヒロインなりヒーローなりに感情移入出来るかと云う事が大きいと思います。未来少年コナンに関して宮崎さんが述べた言葉で「一目見た途端に、一生この女のために頑張るぞと云う位の美少女でなければならない」(富沢洋子編「また、会えたね!」)と云うのが有りますが、これは別にコナンとラナの関係だけではなく、観客と作品の関係でもあると思います。なのにサンには感情移入出来ない。どっちかと云うとアシタカの妹であるカヤの方がヒロインとして違和感無く受け入れられます。(^_^) 地獄で仏と云うか…。(^_^;)
 くそう、いっその事、あの妹をサンにして、もののけにさらわれた姫を助ける話にした方がなんぼか良かったか…。(それじゃあ、原作「もののけ姫」に近い…)
 冒頭のシーン辺りの緊張感は、観客の期待に十分に応える物だったと思います。が、その後のシーン間の繋がりが希薄で、一向に盛り上がらないと云うのが観ていて辛かったです。宮崎駿、衰えたり…と云う感じで。

●その弐.「宮崎監督最後の長編作品!?」

 引退には、色々なタイミングが有ると思いますが、「もののけ姫」を最後に長編映画の監督業を引退と云うのは、悪くない選択だと思います。

  1. 年齢的と云うか体力の制約
     幾ら「超人コナン」といえども、年を取っては往年のエネルギッシュな制作活動は出来ません。近年の宮崎作品には、「途中で力尽きて」しまっている様な印象を受けます。出だしは凄くイイのに、後半から迷走を始めて、結局、「未来少年コナン」や「風の谷のナウシカ」の様な、力づくの大団円と大感動へ持ち込む事が出来なくなって、最後は大騒ぎ(大破壊と云うそうですが…)をやらかして、お茶を濁している様です。「紅の豚」とか、特に感じました。
     映画は終わり善ければ全て善し。これが出来なくなってしまっては、観客の失望は必至です。絵が綺麗とか、絵が動いているってのは、作品の完成度の一部ではありますけど、全てでは無いのです。(^_^)

  2. 精神的混迷の悪化
     もはや、ルパン三世「カリオストロの城」の様に、美しい物を純粋に希求すると云う事に負い目と云うか、気恥ずかしさを感じてしまっている様なので、結局、「紅の豚」の様に「大人のおねえさん」(ってポケモンか)を持ってきたりするワケです。「耳をすませば」で、ぬけぬけと思春期のざわめきを描いてくれたかと思ったら、それは近藤監督の美学の現れだったんですね。宮崎監督の精神は未だ混迷と混乱を抜けきっていない様です。「もののけ姫」の予告編で、ぬとぬとする様な粘菌状のタタリ神が登場していますが、あれが宮崎監督、その物なのかも知れません。(^_^;)

  3. 花道か引責辞任か
     もし、「もののけ姫」の興行成績が良好だった場合、それを花道にして、引退と云うのは現状では最高の選択だと思います。また、興行成績が悪い場合は、引責辞任と云う事で、例えば、鈴木プロデューサーと共に引退と云うのも、可能性としては、十分です。ま、わたしとしては、幹部の1人である高畑勲監督も一緒に引退して欲しいと思いますが。(^_^;)

  4. 後継者
     宮崎駿の、宮崎駿による、宮崎駿の為のスタジオジブリ。それが正体だと思います。そのご主人が居なくなったら、どうなるのか。まァ、急激な変更はスタジオジブリそれ自身の解体につながりますから止めるとして、取り敢えず、押井守、庵野秀明、幾原邦彦辺りが或る程度、荷を背負える人間かなと思います。ホント?

●そのサン.「大ヒットの原因」

 6月22日の、日本生命保険相互会社主催「もののけ姫」試写会、及び7月9日の、徳間書店14雑誌連合試写会を観たわたしの感想を一言で云えば、「「もののけ姫」は作品の完成度で映画「風の谷のナウシカ」と原作「風の谷のナウシカ」を共に超えられなかった」と云う物でした。
 試写会での自分の感想、観客の反応を鑑み、「もののけ姫」の大ヒットはあり得ないと云う結論を出してしまっていたのですが、現実は「大ヒット上映中」(^_^) な訳で、日本映画史上のトップに躍り出ると喧伝されています。

 では、その予想外れの原因を探ってみようと思います。(^_^)

  1. CM映像の凄さ
     これがアニメか!?と思われるほどの、動きの早い、動き回る大迫力。こいつは内容はともかく、絵を見るだけでも価値が有ると思わせるだけの絵です。わたしもCMの映像を見て、思いっきり期待が膨らんだクチです。

  2. 宮崎駿最後の作品?
     10億円の宣伝費を超える「殺し文句」です。レア効果、即ち、「これが最後、もう観れないんだよ」と云う事を云われると、今まで無関心だった人間も「おお、そうか。じゃあゲットしておかなくては…」と色めき立つ訳です。

  3. 「待ち行列自己増幅」(^_^) 現象
     これもレア効果です。街中で最も目立つ「宣伝塔」は何でしょうか?それは行列です。「何だろう。え、映画の行列?もののけ姫?それって超面白そう…」
     映画館が狭いから溢れていると云う事実よりも、「映画館から溢れているイコール凄く面白い映画」と云う図式が、出来てしまう訳です。で、行列は一層行列を呼び、社会現象になり、皆が飽きるまで自己拡大を続けます。出荷制限や買い占めをして品薄を演出する商品。かつてのゲームソフトや最近の「たまごっち」現象でお馴染みの光景ですが、それは映画でも使われる手法です。

  4. 話題作上映ラッシュ
     話題作の並んだ今年の夏。話題作は映画それ自体への関心を引き起こし、「じゃあ、映画でも見てみようか」と云う動機付けに繋がります。「エヴァンゲリオン」と「もののけ姫」、ついでに「ロスト・ワールド」と云う図式かも知れません。洋画の大作が大きな映画館を占領してしまい、「もののけ姫」は次に大きな映画館で上映する羽目になり、結果的に行列を作ってしまったと云う事なのでしょう。

  5. 自由からの逃走
    Illustrated by たけしのたけし
     宮崎駿は各種のインタビューを通じて、「世界を革命する力」(「少女革命ウテナ」)(^_^) を持った人間と目されています。近代科学が行き詰まり、科学のエリートがオウム真理教に走る時代。年功序列が崩壊して過剰な競争で擦り切れる一方、住宅ローンを抱え、過大なストレスに苛まれるサラリーマン。子供が少なくなればなるほど峻烈を極める受験戦争に精神分裂的様相を帯びる少年達。幾ら必死に頑張ったとしても自分達の出口はせいぜいサラリーマンに過ぎない事も彼らの絶望に拍車を掛けています。
     行き詰まっているのは日本だけではありません。「On Your Mark」の世界じゃ無いですが、人口爆発と、大気汚染、放射性廃棄物の山、ダイオキシンなどの化学系汚染物質により、これからの世界を生きる人間には飢餓とエイズなどの疫病が不可避となっています。百億を超える人間が喰らい、汚し、更に、生活水準を上げる為に、大量の無駄な消費を行う。その巨大な負荷を、所謂自然は受け止める事が出来ません。
     先人の愚行と浪費のツケは次の世代の人間が背負う事になります。放射能物質と有毒化学物質に汚染された僅かな食料を、(アトピーやエイズ他の)疫病に冒された人間どもが戦争で奪い合いながら、喰らう。取り敢えずの飢え死を避ける為に。しかし毒を取り込んだ体は一段と死に近づいて行く…。それが「生きる」と云う意味になるのです。
     他者の屍と怨念、呪いの上に成り立つ人間の生。アシタカが受けた死の刻印は、既に今の人類に打たれているワケです。我々もアシタカの様に、その死の刻印を逃れる為の旅をしなければならないのです。その努力の結果が、人類の苦痛を先延ばしにするだけに終わったとしても、生き物である限り、生きると云う事を止めるワケには行かないのです。「生きろ!」それは我々が負わなければならない、余りにも大きな荷物なのですね。
     あらゆる面で行き詰まった世紀末的世界。この世界を変える力は何か?そしてそれは誰がどの様な形で人々に知らしめるのか?世は正に救世主を求めているのです。「世界を革命する力」を。
     人間は自由である事に耐えられない。真の自由とはあらゆる保護からも解放される事だからです。多くの人間は「世界を革命する力」にすがり、その指し示す道に進む事を望んでいるのです。宮崎駿の指し示す道を観ようとして、人々は「もののけ姫」にすがっているのかも知れません。(んなワケ無いか…)(^_^)


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