もののけ姫雑感

おおひがみ

 上映初日、期待で一杯の僕は映画館に向かった。
 そして映画館の前には、僕の住む町としては異例の人たちが集まっていた。慌てて列に並び幸運なことには何とか初回の上映に入り込むことができた。(僕の20人位後ろの人からは2回目の上映組)無論、帝都の混雑からみればなんという事もないのではあるが、何とも異様な事態ではある。
 さて、見終わった後、僕の心の中はぐちゃぐちゃになっていた。
 単純に「素晴らしいアニメだな・・」という気持ちと「え!これが宮崎監督の作品」という戸惑いがせめぎ合っていた。
 客観的に見て、凄いアニメだと思った。描写や出来といった技術的な部分だけでなく、ストーリーも難しいテーマを扱っているにも関わらず楽しめた。ただ、その反面この映画って本当にエンターティメントなんだろうか?という疑問もふつふつと心の中からわき起こってくる。
 コミック版ナウシカの最後の展開で、僕はナウシカの側ではなく墓所の側に立つ人間だと実感した。そうした意味で考えると、僕が今回感情移入出来るような登場人物(もののけも含む)は一体誰なのか?アシタカではないし、サンでもない。エボシ御前も違うしモロの君やシシ神は論外!(おのおのの立場や考えは理解でっきるのですが・・)結局、今回の僕はタタラ場の人たちに共感してしまう。
 普通の人間として精一杯生きている。
 なんか凄く共感できましたね。
 結局生きるっていうのは、色々な妥協と我慢の産物だと僕は思っているのだけれど、その中に希望や喜びを見いだせるのかどうかだと思う。
 映画を見ている途中でふと頭に浮かんだ事がある。「サンとナウシカはどちらが幸せなんだろうと・・」
 ナウシカは自分は母に愛されなかったといった。サンは親には捨てられたがモロという母に愛情を持って育てられたんだと思う。ナウシカには兄弟はいないが、サンにはモロの子たちがいる。モロの子の実年齢が解らないが、少なくともサンにとっては同じ乳兄弟だとは思う。
 なんでこんな事を書くかというと、自分にとっての理解者がどれだけ回りに居るかという事は大きな問題だと思うから・・。
 風の谷の人々はいい人たちだと思うけど、はたしてナウシカの事をどれだけ理解していたんだろう?(あ!これはいまだに僕自身にも言えますが・・)サンは、モロ親子の他のもののけからどう見られていたかは解らないが、少なくともポジションの確保は出来ていたと思う。
(ああ、ナウシカとの比較検証になってしまった!いかん、いかん・・・)
 急に話しが飛びますが、僕は日本の原風景ってどうもぴんとこないのですね。屋久島には今の様にブームになる以前、数度いったことが有るんですが、僕にとっては屋久島の風景でしかないんですね。原生林なるものは、別に日本に限らず非常に少なくなっています。なにしろ人間が自然に手をつけると今のように機械がなくともあっというまに開墾してしまいますから・・・昼なお暗い森というのは植生の最終形態なのだれれど、それで終わるわけではないのですね。長い間に山火事やいろんな原因で、またゼロからのスタートになるわけです。
 タタラ場ができると、そこで使うために木は切られるしそうした意味で自然は破壊されると思う。でも今の様に、人間が多くない時代なら(山の一つや二つ禿げ山になっても)人間が放置すると、回りの自然が短時間の内にそれを飲み込んでしまう。様は亜熱帯的な気候なら凄く自然の回復力は大きいんですね。(山小屋の残骸なんかは、気候が寒冷だとかなりの期間原型を留めていますが、熱帯に行くと2〜3年前の集落がほとんど埋もれていたりします)
 きっともののけ姫で描かれている自然は、宮崎監督にとっての原風景なのだろうけれど、そのあたりにも違和感を感じているのかもしれません。
 僕は、神のいなくなった時代に生まれ育ちましたから、シシ神やモロの君に共感できないし、その代弁者のようなサンにも共感は出来ない。ただ、人が自分の手で自然を切り開いた時代、人間が手を休めると自然は急速に回復したと思っています。(回りに豊かな自然が残っていればですが)それこそが亜熱帯や熱帯の自然の持つ姿だし、その観点で考えると日本の森林にはそれほどの生産力は無いように思います。
 長くなりましたが結局、そういった事に自分として答えが見いだせないうちに、映画を見た回りの人から色々言われた。それは一言で要約すると「面白い」という事だった。その時思った。「ああ、なんの事はない・・あの映画はおもしろいんだ!」
 そんな単純な事をすなをに気付くのに一週間以上もかかった僕は・・・。
 そう思いながら、また映画館に向かう僕なのではありました・・・。

おわり・・・


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