『ナウシカ解読』もう一つの終章

稲葉振一郎(sinaba@e.okayama-u.ac.jp)


 以下は初校時に窓社の西山俊一氏のご意向を受けて破棄された、『ナウシカ解読 ユートピアの臨界』(窓社・1996年)の「おわりに」第一稿の全文である。読み返してみれば確かに現行の公刊されたテクストの方が数段ましなことを言っているが、ここにも私がいずれ追求したいと考えているテーマ(子供の政治哲学)が提示されているので、この機会にこの場を借りて公表させていただくことにした。関係各位に感謝いたします。


 本書を締めくくるにあたって、マンガ『ナウシカ』の物語の構造について、比較文学的考察を行っておきたい。

 ジャンル的にいうならこの作品はSF、ないしはファンタジーと呼ばれるものの中にはいる。そして物語の形式としてはこれは冒険の物語、更にいえば「旅」の物語である。物語の軸は主人公たちの旅によって引かれている。ナウシカ自身の探索の旅のみならず、ナウシカにゆかりある者たちの旅が同時平行して描かれ、語りはポリフォニックに錯綜する。この錯綜は物語をしばしば迷走させるが、逆にその緊張がエンジンとなって物語を前に進め、登場人物それぞれの視点から事態が描かれることによって様々な問題が次々と開示されていくことが、この物語の最大の魅力でもある。

 旅の物語は通常、ある場所を出て別の場所に辿り着く物語、あるいはある場所から元の同じ場所へと「行きて帰りし物語」、どちらかである。ところがこのマンガ『ナウシカ』はそのどちらとも微妙にずれている。アニメ『ナウシカ』のごとく救世主として聖杯を持ち帰る旅と最初は見えたものが、結局はどこにも行き着けない旅となって終わってしまう。しかしそれは宙ぶらりんではない。旅を続けることによって初めて、行き着くことのできない場所としての「青き清浄の地」がはっきりと見出だされる。この「青き清浄の地」が主人公たちそれぞれの旅の(到達点ならぬ)重心として物語を一つにまとめている。そのことによって、かろうじてではあるが、マンガ『ナウシカ』は一個の物語として完結しえているのだ。

 ところで児童文学というゲットーの中でのファンタジー、SFの大半は、異世界冒険旅行記、「行きて帰りし物語」の体裁をとっていた。こうした物語が子供たちを日常的現実へ向けて「規律・訓練」していく装置であることは見やすい道理である。異世界のファンタジーによって逆に日常的な現実世界のかけがえのなさが確認される、というのがその基本線である。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』はその極めて確信犯的な告白であった。(『はてしない物語』については佐藤健二『読書空間の近代 方法としての柳田国男』弘文堂、1987年、の周到な読解を参照のこと。)

 しかし児童文学の総体をこのような制度へと貶めることを我々は慎まなければならない。今一つの「旅」、子供が日常的現実、つまり「子供」として居心地よく保護された「家」などの小宇宙から引き離され、外なる現実としての「大人の世界」に放り出される物語、そこにおいて「大人の世界」の都合に振り回され傷つく子供たちの姿を、我々はリアリズム児童文学においては見慣れている。ただしそのような子供たちが書き手としての大人の願望の投影に過ぎないものであれば、そうした子供たちの苦悩は「大人の世界」を批判する道具立てか、あるいは単なる感傷に終わってしまうが。優れた児童文学とは、子供の苦悩をそれ自体として十分に描ききったもの、それは大人になれば消え去ってしまうかもしれないが、決してそれによって解決されるわけではないということを描きえたものであろう。つまりそれは、私のいう「倫理」の固有の水準を描くものなのである。

 このような「児童文学」の枠組みの中にマンガ『ナウシカ』を置いてみるとき、我々は何を見いだすだろうか? 

 クシャナの「旅」はまさに「行きて帰りし物語」を構成している。妄執に憑かれた「恐るべき子供」であったクシャナは、「大人」として「王道を開くために」トルメキアへ帰る。古典的なまでに幸福な教養小説の枠組みがここでは崩されていない。

 ナウシカの「旅」はその対極に立つ。彼女はどこにもたどりつけない。「風の谷」に帰ることも、「青き清浄の地」にたどりつくこともできない。しかし彼女は戦場でのクシャナがそうであったように浮遊し続けるわけでもない。彼女にとってはいまやどこも等しく「異世界」であるが、同時にどこも等しく「故郷」である。そのような緊張の中で彼女は生きなければならない。

 このようにマンガ『ナウシカ』の中には、二種類の「児童文学」が混在している。と、ここまで書いてしまって気付いたことがある。原型としての『コナン』あるいはアニメ『ナウシカ』を想起してみよう。もしクシャナの原型を『コナン』のモンスリーに求めるとしたら? 彼女は「子供」と呼べるだろうか? あるいはアニメ『ナウシカ』のクシャナは? 彼女らを「子供」呼ばわりすることは、あるいは彼女たちの物語を「児童文学」と呼ぶことは少々難しいのではないだろうか。

 『コナン』のモンスリーは子供の時に文明を崩壊させた大変動に出会っている。これに対し主人公のコナンとラナは大変動後に生まれた。大変動をトラウマとして背負った(「戦争を引き起こしたのは、あのとき大人だったあんたたちじゃないの」というセリフを彼女は吐いているし、またハイハーバーで犬を見つけた彼女は、大変動のさなか彼女の傍らで死んでいった愛犬のことを思い出し、無意識にその犬にかつての愛犬の名で呼びかける)モンスリーに対し、コナンたちにはそのようなものはない。だからモンスリーがコナンに同調していく過程は、このトラウマからの脱却の過程として解釈することもできる。またこう考えてみるならば、マンガ『ナウシカ』のクシャナもまた、殊更に「子供」呼ばわりすべき存在ではないのかもしれない。彼女の物語もまたモンスリーのそれと同様、幼児期のトラウマの克服、「癒し」の物語と読めないことはない。

 だがそれ以上にモンスリーの物語は、コナンを取り巻く大人たちの物語のひとつとして読み解かれることがふさわしい。それは『コナン』におけるいまひとりの重要な脇役ダイスの存在によって明らかとなる。モンスリーをクシャナになぞらえるならダイスはクロトワの前身ということになろうが、ダイスの活躍ぶりはクロトワのそれをはるかにしのいでいる。クシャナなどにふりまわされ結局のところ右往左往するだけのクロトワに対して、ダイスはクロトワと同程度には間抜けだが徹頭徹尾自分の欲望に忠実に行動しており、その限りでは『ラピュタ』のドーラによほど近い。もっともドーラの方が抜け目なく、堂々としてはいるが。このダイスの存在ゆえに、モンスリーはクシャナのごとく突出してもう一人の主人公になることはできず、単に重要な脇役にとどまるだけの存在になっている。だから彼女のトラウマなど、物語においてさして重要なテーマではないのだ。

 コナンなど主人公の子供たちを取り巻く大人たちは、大体において二種類(ないし三種類)に分けられる。ひとつは「師」というべき位置にある大人であり、『コナン』においてはラオ博士がそれに当たる。ラオはコナンとラナにとっての道標というべき存在であるが、しかし彼らを助けてくれることはあまりない。コナンとラナの方が、ラオを助けるために奔走しなければならない。いまひとつはモンスリーやダイスのそれであるが、その役割とは、「子供」であるコナンたちを守るのでも教え導くのでもなく、「子供」を助ける、それも「救う」のではなく「手伝う」という意味において助ける役割である。理想や夢を子供たちに与えるが無力な大人と、力強く子供たちを助けてくれるが、指し示すべき理想も夢も自らは持たず、むしろそれを子供たちにあおぐ大人。『コナン』や『ナウシカ』に限らず、宮崎の描く世界における大人たちの大半はこのどちらかである。(そして三番目のカテゴリーは「敵役」である。)そして大人の鑑賞者たちにとってもっとも感情移入しやすいのは、「手伝う大人」、モンスリーやダイス、クシャナやクロトワである。だがあくまでも物語の主人公は、「何をなすべきか」を絶えず問い続けつつ行動するのはあくまでも子供たちなのだ。

 更に言えば、『コナン』とマンガ『ナウシカ』を決定的に分かつのは、「師たる大人」が後者では消滅してしまうこと、主人公ナウシカがその旅の途上で次々と師を追い抜いていってしまうこと、である。追い抜かれた師たちは、ナウシカを導く役から助ける役へとその位置を変え、やがて死んでいく。最後に彼女の前に現れる「青き清浄の地」(もちろんそれは「大人」ではない、そもそも人間でさえないのだから)はもはや彼女を導くことはしない。それは「師」ではなくむしろ「神」、しかも沈黙する神、あえて言えば無神論の神である。

 エンターテインメントを読むという経験において、作中人物への感情移入という契機は根本的である。そして我々、私と本書の読者であるあなた方のような、大人のマンガ『ナウシカ』の読者にとって、ストレートな感情移入の対象が文字通りの主人公、タイトルロールであるナウシカではなく、クシャナやクロトワ、あるいはチヤルカ、そして追い越された師であるユパであるとしたら、あるいは幼少時のトラウマに捕らわれた「大人」としてのクシャナであるとしたら、それは何を意味するのだろうか? 

 ここで川喜田八潮の先駆的な宮崎駿論『〈日常性〉のゆくえ 宮崎アニメを読む』(JICC出版局(現、宝島社)、1992年)を参照しよう。本書中ではふれることができなかった宮崎駿の劇場用アニメ『となりのトトロ』(徳間書店、1988年。以後『トトロ』と略記)を、最初の興行時に併映された宮崎の盟友、高畑勲の監督作品『火垂るの墓』(徳間書店、1988年)と対比して、後者を支配している、現代社会を冒す〈死〉の観念からの〈癒し〉の表現の可能性を宮崎の創作の営為のなかに探っていく川喜田の作業は示唆に富む。本書の鈍重な解読が結局は少しも明らかにすることができなかった、宮崎駿の作品のもたらす比類ない解放感の正体に迫る作業としては、それは明らかに正攻法である。

 しかしその一方で、高畑のなかにある左翼的な現代社会批判の契機を〈死〉にとりつかれたイデオロギー的な重さとして切り捨て、宮崎における〈癒し〉の契機をやはり彼のなかにもあるイデオロギー性から無理矢理に切断しようとする川喜田の読解の姿勢は承服しうるものではない。本書の読解が示したとおり、宮崎はイデオロギーのレベルにおいても死力を尽くして苦闘しているのであり、それを切り離してその表現の官能的な見事さのみを称揚するというやり方は明らかに批評としては不当である。それにこれは川喜田が切り捨て否定しているのではなく、単純に見落としていることだが、宮崎の作品は基本的にはすべて血沸き肉踊る冒険活劇である(ある意味では、悪い奴らをやっつける、という体裁をとらない『トトロ』でさえも!)、ということもまた重要である。これがあるからこそ宮崎の作品はイデオロギー臭紛々のお説教にならずに済んでいるということが言いたいのではない。冒険活劇という形式は本来的にイデオロギー的なものなのだ。

 異世界冒険旅行記の規律・訓練装置としての性格にはすでに触れたとおりである。そうでなくとも、冒険活劇は異なる立場と立場の激突という体裁をその結構のなかに本質的に取り込んでいるため、ストーリーのなかで思想を語るには実はきわめて適した形式であるとさえ言えるのだ。ごく乱暴に言ってしまえば『コナン』も『ラピュタ』もアニメ『ナウシカ』でさえも悪い奴らをやっつけるお話である。そしてマンガ『ナウシカ』は、「悪い奴ら」とは誰のことか、そもそも「善い」「悪い」とはどういうことなのか、を戦いながら探求していくお話である。「善い」「悪い」とはどういうことなのか、を決めるのが、あるいはどうやってそれを決めるのか、そもそもそんなことを決められるものなのか、を問うことが「イデオロギー」「思想」の課題であるとするならば、ただ単に、宮崎作品を語るにあたって我々はそこから目を背けるわけにはいかない、というだけでは済まない。思想は、イデオロギーは「血沸き肉踊る」ものなのだ。それは宮崎作品の魅力の骨格をなしているのだ。

 宮崎作品の主人公の少年少女たちはどれも「良い子」であり、生きた人間としての性格に乏しいとはよく言われることであるが、宮崎は別に心理小説を書いているわけではない。物語のキャラクターとしての彼らの造形において重要なのは第一にその行動であって、心理小説的な内面などではないのだ。我々が作中人物たちに感情移入するにあたっては、それで充分である。

 この視点を欠落させた川喜田は例えばこう書いている。

「宮崎駿は、かつてナウシカ、シータ、ドーラといった、魅力的な“自立する女性”を表現してみせた。だが、彼女らの像は、神経症的な自意識をぴりぴりさせて針ねずみのように毛を逆立てている「今」ふうのフェミニストたちとは似ても似つかぬものである。
(中略)
 ドーラの魅力は、泣き言をいっさいこぼさず、生活上の計算外の障害をそのつど、どう猛な闘争心によって黙々と乗り切ってゆくところにある。俊敏さや英知は、その体液のリズムによって支えられ、その内部に溶かし込まれている。
(中略)
 宮崎駿は興味深いことに、クシャナやモンスリーのような、世界に対して絶えずヒステリックに身構えている、ある種のつっぱったフェミニストを象徴するような女性たちを生き生きと描いている。彼女らはナウシカとはおよそ正反対のタイプではあるが、魂の奥にある深い〈喪失感〉を抱え込んでいるという点では、ナウシカと共通するものがあり、その「つっぱり」は、ひとつの切ない〈代償〉行為のような趣きをもっている。」(川喜田前掲書、159〜164頁)

 一読して「あなたの方こそ一体何にいらだって針ねずみのように毛を逆立てているのか?」と問い返したくなるような文章だが、前半は宮崎作品の主人公たる子供たちや脇役の「助ける大人」たちの特徴をある程度的確につかんでいる。しかしすでに述べたような、彼らの間にある「主人公」と「脇役」の違いはここでは看過されてしまう。そして後半はどうだろう。「世界に対して絶えずヒステリックに身構えている、ある種のつっぱったフェミニスト」というそれ自体ヒステリックで悪意に満ちた形容がまさにフェミニズムが批判してやまない「からかいの政治」の一典型であることはさておいて、このように見ていくならばクシャナもモンスリーも基本的にはその〈喪失感〉を抱え込んでいる内面において、キャラクターとしてとらえられることになるだろう。しかし「世界に対して絶えずヒステリックに身構えている、ある種のつっぱったフェミニスト」とはいかにも血沸き肉踊るではないか。たしかにクシャナもモンスリーも物語の進行のなかでその〈喪失感〉を癒されてはいくだろう。しかしそれはあくまでも川喜田が「世界に対して絶えずヒステリックに身構えている、ある種のつっぱったフェミニスト」としての立場から出発して「泣き言をいっさいこぼさず」果敢に行動する限りにおいてである。そうでなければ彼女らはその癒し手としてのナウシカやコナンに巡り会うことはできなかった。そしてマンガ『ナウシカ』の後半、泣き言をこぼし始めたクシャナがユパを死に追いやってしまったことは言うまでもない。

 大人の鑑賞者たる我々が、すんなりと「助ける大人」の脇役たちに感情移入してしまうことは無理からぬことである。だが立ち止まって考えてみよう。マンガ『ナウシカ』は血沸き肉踊る冒険活劇である。そしてこのことは、この作品が大人の鑑賞者を引きつける思想的深みを持っていることと切り離してとらえうるものではない。マンガ『ナウシカ』を児童文学として読み解くことは、それをお子様向け冒険ファンタジーとして読むことと別のことではない。別に無理をして主人公たるナウシカに感情移入しろ、とは言わない。しかし物語の世界にあっては、主人公あっての脇役である。世界の秘密の探求者は、もっとも深く考え、もっとも深く傷付くのはナウシカである。それに寄り添うことなくしてはマンガ『ナウシカ』を読むことの意味は半減しよう。たとえ我々の立場がナウシカのそれではありえずとも、我々にとってのナウシカも、そして「青き清浄の地」も、どこかに現実に存在しているかもしれない。最後に「児童文学」「冒険活劇」という形式の問題にこだわったのは、そうした形式が私が本書中で提示した「ユートピア」「倫理」の問題と本質的なところでつながる可能性を持つ形式だからである。ゆめゆめ『風の谷のナウシカ』を「大人の鑑賞にも堪える」という形容で褒めないことにしよう。「児童文学」も、「冒険活劇」もまた良きにつけ悪しきにつけ我々のものなのだ。その力を侮ってはならない。


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