★もう1度観たくなる映画。

じょばんに (VCF88038@pcvan.or.jp)
I'd like to see this film more and more again.
Giovanni (VCF88038@pcvan.or.jp)

Summary
He saw the film 4 times, and thought about the realities it had. Mr.Miyazaki portayed fictional things as if they could be existed. Even though Mr.Miyazaki inuqired the realities into the film so closely, they're completely figments of his imagination. However, the world of the film does have the realities, because he accumulated such fictions with gentle deliberation and care. So, we can believe that such a wonderful encounter can be happened.

「この作品はひとつの理想化した出会いに、ありったけのリアリティーを与えながら、生きる事の素晴らしさを、ぬけぬけと唱いあげようという挑戦である」
(宮崎駿:「耳をすませば」パンフレットより)

 もう4度ほど映画館に足を運んだのだが、これほど文章としての感想を書きにくい作品もない、と少々困っている。まずもって、ストーリーの善し悪しというものを話題にもってくるようなことになるのだが、「耳をすませば」の場合、原作が少女漫画ということもあって、女の子が男の子を好きになる、またその逆、これで間違いない。そこには二人の邪魔をする悪者もいなければ、少年が少女を守るべき動機もない。二人は出会い、お互いの目指すものを求め、将来のパートナーとなることを約束する。至って明解なのである。とはいえ、それだけでは自分自身が4度も映画館に足を運ぶあろうはずがない(まぁ「On Your Mark」を観るためとも言えなくはないが(^^;)。
 結局、テーマをしぼってちょっと考えてみることにした。

★リアリティのすること。

 冒頭に引用した宮崎さんの言葉の中にも出てきたリアリティ。リアリティとはなんだろう。

 今までのジブリ作品の場合、キャラクターの動き、背景のディテールなど作品の描き込みの質そのもののこともそうであるし、今回の作品のような、現代しかも東京の郊外を舞台とするようなものの場合、「より現実に即して」ということもそれにあたる。実際、この「耳をすませば」の舞台として考えられている地域も実在する。駅周辺の様子や住宅街、雫の団地、丘陵の風景など、いずれも単なる背景に留まらず、作品の雰囲気そのものを決定しているのはうなづける。

 しかし万事がこの調子というわけでもない。聖司のように、中学3年生でバイオリン職人になろうというやつは(それが現実に可能であるという確証が得られていたとしても)そうはいない。あのじいちゃんのやってる地球屋のような店に出会うのも難しい(というか無理だろう)し、ましてや互いに好きになって朝焼けの中でプロポーズされるなんて、、、。
 いやそれだけではない。雨上がりの校舎の屋上から眺める風景や、聖司のアトリエのベランダから見える昼下がりの住宅街や、あの朝焼けの東京の遠景そのものも、実際にあれほど美しいのか。例えばリアリティを追求するのであれば(劇中劇「バロンのくれた物語」のシーンはともかく)、実写でやってしまえばよかったのだろうか。そんなことあろうはずがないことは容易に想像できる。

 実際にはありえないことを、いかにもこの有り得たかのように描く。リアリティを追求しつつ、最後の最後でひらりとかわす。それもぬけぬけと。そのほんのちょっとずつの慎重な「嘘」の積み重ねによって、心の中の「有り得ない」という囁きを一瞬でも戸惑わせる。それがこの「耳をすませば」が持つリアリティなんじゃないかと思う。


 「耳をすませば」に戻る(Return to "Whisper of the heart")

 「風使い通信 vol.8」に戻る(Return to "Kazetsukai-tsushin vol.8")


 風使い工房に戻る(Return to Kazetsukai-Kobo HomePage)