さて、自分の体験から、中学3年生の書く物語について、語ってみたいと思う。
実際に書き始め気が付いたことは、どうも、プロの書いた物語と比較して、短いと言うことだ。実際に、文字数を計算してみると、同じようなシーンを書いているのに、プロの半分かそれ以下の文字数で終わってしまう。これは、客観的に見て、判断できることなので、当人にも分かる。そして、長編小説が原稿用紙何枚分か、などと考える知恵も付いてくる時代なので、そのことを気にしてしまう。
結論は簡単に言える。なぜ、同じシーンが短く終わってしまうのか。それは、中学3年生の時期では、人生経験が不足しており、ある物事を一面的にしか理解をしていないからだ。物事には、多くの側面があって、そのどれもを把握していなければ、生き生きとした描写はできない。自意識に目覚め始める中学3年生には、到底得られぬものなのだ。
話はずれるが、若くしてデビューする作家は、優れた作品をいくつか書くことができる(かもしれない)。だが、生涯をプロの第1線の人気作家として過ごせるかというと、必ずしもそうではない。人生経験の厚みが得られぬうちに、専業作家になってしまうのは、実はとても不幸なことなのだ。
話を戻そう。
丹念に、プロの書いたものと、自分の書いたものを比較すれば、何が不足しているか、知ることができる。また、何かをありきたりの描写しようとして、ありきたりの筈の物事のディテイルをあまりにも知らないことに気付かされることもある。
これらをリカバーしようとして努力することはできる。
だが、その努力は報われない。努力すれば、努力するほど、泥沼のように深い奥行きにとらわれていく。
誠実に目標に向かって進む限り、最終的には、挫折が訪れるのが当たり前なのだ。
結局のところ、大人の人生経験は、大人にならねば得られない。
周囲のみんなと同じように時を過ごして行かねばならない。
おそらく、月島雫が、高校へ行って勉強したいと言ったことには、そのようなニュアンスが含まれているのだろう。
さて、もう一つ、書いた本人には分かりにくい問題がある。それはオリジナリティだ。自我が完全に確立していない中学3年生ぐらいに時期に書くものは、しょせんは、借り物のアイデアやイメージの寄せ集めでしかない。だが、書いている本人には、そのことが明確に見えていない。このあたりは、むしろ魔女の宅急便のウルスラの台詞に、そのような意味が強く出ている。月島雫作の「耳をすませば」は所詮、イバラードのイメージを借りた作品でしかないし、中学3年生の書く物語としては妥当だと思う。本当にオリジナルの物語であったりしたら、かえって不自然だ。 そのようなわけで、私自身、中学3年生の頃に書いたものを読み返すと、「その頃は、良く書けたと思ったんだけどなぁ」という感想しか出てこない。今だって、書いたものが本当に価値のあるものかどうか、分からない。もし、万一、私が専業の作家になる日が来るとしたら、それは40歳以降になるだろうと思っている。それ以前では、人生経験の厚みが不足して、多くの人を納得させる作品は作れないだろうと考えている。
月島雫は、はたしてどうだろうか。高校生になり、大人になって成長していき、どんな人生を歩むのだろうか。少なくとも、物語を作り出すことは、人生の主要な問題ではない。どのみち、初恋などというものは、成就しないのが当たり前だから、天沢聖司との結婚の約束は成就しないと考えた方が妥当だろう。とすれば、天沢聖司との未来像が夢破れる挫折の後で、いったい、どんな人生を選び取るのか。そこで、彼女の人生の流れが決まるのだろうと思いつつ、話は終わりとしよう。
「風使い通信 vol.8」に戻る(Return to "Kazetsukai-tsushin vol.8")