プロローグ

表紙へ第1章へ

 「火の7日間」から数千年の時が過ぎ、世界は浄化された。汚染された世界を浄化する為の人工生態系である腐海と蟲達はその役目を終えて、全て滅びた。ヒドラは、墓所の貯蔵庫に蓄えられた動植物を放出した。世界は次第に緑と生き物に満ちつつあった。かつて地球浄化教団が計画した「地球浄化プロジェクト」は、全て順調に進んでいる様に見えた。だが、最後にして最大の誤算がそこには有った。人間である。

 かつて、ナウシカは巨神兵オーマを使って墓所を破壊した。墓所には浄化の進み具合を監視する役目と、選ばれた人間の卵を清浄な世界で孵化させる役目が有ったが、破壊によって機能の大半は失われた。しかし、墓所は死んではいなかった。バックアップシステムと自己修復機能により、主な機能を回復して世界が浄化されるのを待ち続けた。そして、世界は浄化された。墓所は清浄な人間を浄化された世界へと送り出した。清浄な人間は墓所を中心に町を作り、貯蔵庫に蓄えられた旧世界の奇跡の技を使って、世界を作り替えて行った。彼らこそ、再び地上を支配する「神の子」だったのだ。

 だが、もう一種類の人間が居た。旧世界の生き残りの人々である。彼らはかつて「火の7日間」の前後に、汚染された環境でも生きられる様、遺伝子を改造された人々であった。その代わり、彼らは清浄な環境では生きられない。腐海や蟲達と同時に、自分達以外の人類を世界から抹殺しようとした、地球浄化教団の巧妙な罠であった。その罠は失敗した。旧世界の生き残りの人々は自らの運命を克服し、生き延びる事に成功した。浄化されていない深地下を探し出し、そこに巨大な地下都市を建設したのだ。

 彼らは地上に出る事は出来ない。浄化された大気は彼らにとって毒の障気なのだ。僅か5分で肺が腐って血を噴き出してしまう。一方、墓所から生まれた人々は逆にマスク無しで地下都市に棲む事は出来ない。汚染された大気は浄化された人々にとって毒の障気なのだ。

 かくして、浄化された世界は人間の手によって二つに分断された。清浄と不浄と云う二元論的価値観が、かつてのイデオロギーや宗教と同じ様に、世界に緊張と憎しみと破壊をもたらす事になったのだ。

 清浄な地上に棲む、浄化された人々は自らを「神子()かみこ)」と呼んだ。汚染されて滅亡しか無かったかつての世界を浄化させ、再び人間の手の中に戻したこの偉業は正に神の為せる技だ。自分達はその神の子なのだ、と。更に、彼らは地下都市に棲む旧世界の生き残りの人々を「罪人(ざいじん)」と呼んだ。世界を汚染し、「火の7日間」で自らを滅ぼした罪深い連中の生き残りと云う意味だ。「火の7日間」を引き起こしたのが誰かは明かでないが、「神子」は「罪人」のせいだとしている。一方、地下都市の住人は別な見方をしている。彼らは自らを「青民(せいみん)」と呼び、地上に棲む人間を「掠獣(かすめ)」と呼んだ。「青民」とは、かつてナウシカに率いられて腐海と共に生きる術を学んだ人々の末裔と云う意味である。また、「掠獣」とは世界を「火の7日間」で滅ぼした上に自らの物にしようと云う、その恐るべき略奪行為を行うけだものと云う意味である。

 呼称からして、既に地上の民と地下の民は対立関係にあった。地上の民には傲慢さが溢れ、地下の民には被害者意識が溢れていた。

 地上の民は旧世界の奇跡の技を独占していた。しかも、地上は全て自分の物であり、かつヒドラと云う奴隷が居て労働力にも事欠かなかった。唯一の難点は人口が少ない事であった。これは巨神兵オーマによって墓所が破壊された時の後遺症である。それは時間が解決する事になるだろう。一方、地下の民は技術力に乏しかった。しかし、数千年の蓄積によって、地上の民に負けないと自負出来る分野も出来つつあった。それでも、マイクロエレクトロニクスやバイオテクノロジーは全くと云って良い程遅れていた。膨大なエネルギーを消費する産業は歴史的に禁止されていたので、これも遅れをとっていた。彼らは専らエネルギー消費の少ない自給自足の生活を目標にしていたので、食べるのが精一杯と云う状況であった。特に地下都市の生活となってからは耕地面積も少なく、耕地を広げる事も大変な労力を要する為に困難で、ギリギリの生活であった。つまり、彼らには未来が無い。この事実が地下の民の心に重圧となっていた。その結果、事実上の敗北ではあるが、地上の民との交易がクローズアップされた。物々交換で、地下では手に入りにくい物を入手すると云う物である。だが、その結果、余分な物も入ってきた。

 先ずは地上の情報である。果てしない地平線とあくまで青い空。それらがキミ達を待っていると云う、甘い誘惑である。これには心が動く。次にやってきたのは宗教である。地球浄化教。彼らは云う。

 「我に従え。お前達に未来は無い。我に従え。未来と土地と太陽と空を授けよう。恐れる事は無い。我らがお前達の身体を改造して、我ら『神子』と同じ身体と為すであろう。我に従え」

 身体が「神子」と同じになると云うのは実はウソである。遺伝子を操作して、単に、浄化された環境で生きられる能力を付与するだけであり、顔立ちが明らかに異なる地上の民と同じになるワケでは無い。更に遺伝子中にマーカーが施され、簡単な検査で地下の民であった事が判明する。しかも、特殊な薬物を投与する事によって、付加された機能が短時間で消去されてしまうのである。これでは只の人質或いは奴隷である。事実、地下の民に与えられる仕事は限定されており、「危険、きつい、汚い」の3Kを絵に描いた様な作業が多い。ヒドラと同列である。地上に夢を託してやってきた連中を待ち受ける運命は過酷でしかも取り返しがつかない。そう云った情報も地下の民に流れ、地上の民に対する憎悪の心をかき立てる事になる。それでも地下を捨てたい人々は存在し、シンパも増大していた。

 近年、ついに地下都市の中心部に地球浄化教団の教会が建設された。地下の民の反発を考えて、正体を隠ぺいする為に「聖NOVA教団」と呼称を変更した。「神は見つめている」と云う派手なイルミネーションを施したケバい建物は、地下の民の憎悪を具現化した様なデザインをしていた。実際、その建物は地下の民の憎悪のシンボルとなっていた。人々はその教会の近くを通る時、睨みつけ、或いは唾棄した。教会の中に居る人々は全て清浄な世界でのみ生きられる人々であり、教会内部は清浄な空気が充満していた。

 そして、事件は起こるべくして起こったのだった。


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