いとしい風に導かれて

高崎 真哉(takasaki@mech.kyoto-u.ac.jp)


 ナウシカの映画を最初に見たのは小学生の頃であっただろうか。テレビで見て涙ぐんだのを覚えている。もともと泣き虫であるが、ナウシカの映画は見るたびに泣き、忘れることが出来なくなった。大学に入ってから、その涙の原因を探るように宮崎アニメーションにのめり込み、すでに4年半。

 コミック版を読んだのは大学に入ってからだ。こちらも涙が止まらなかった。そして疑問はますます募るばかりだった。「僕はどうしてこの少女に惹かれるのだろう」と。

 原案となったギリシャ神話のナウシカアも、虫愛づる姫君も魅力的な女性だ。パイアケスのナウシカアは凛とした生き方で、虫愛づる姫君はあの時代にそぐわない物事の本質を見ようとする驚嘆すべき姿勢で、確かに我々の心を揺さぶる。だが宮崎駿のナウシカはそれだけではない。

 ナウシカが他の宮崎キャラクターに比べて、両性的な所が強いというのはよく言われることだ。しかしナウシカは、宮崎駿の好む理想の少年と少女の単なる融合に留まっていない。東陽一氏が「彼女(ナウシカ)の『性』が、彼女の『生』の中心と分かちがたく溶けあって彼女を動かし、ほとんど『聖』的なまでに昇華されている」と書いているのを読んだ時、私はナウシカに自分が惹かれ、ナウシカの物語が好まれる理由をやっと教えられた気がした。ナウシカに秘められた聖的な匂い。それは人間という所詮弱い一個の生き物のでしかない自分にとって限りなく魅惑的な香りであったのではないか。

 それにしても「『聖』的」というのは非常に曖昧なものだ。感性に訴える感動は理性を通り越し、結局は分けの分からない深層心理的な領域に逃げ込んでしまう。しかし理性的に考えたとき、その感情をどう扱ったら良いのであろう。もしその感性にだけ素直に従うとすると、例えばあの漫画の世界に自分が置かれたとき、きっと蟲使い達のようにナウシカの従者となるに違いない。それは結局現実の世界でもナウシカのような存在を探しているということだ。だがそれは、ささやかな趣味として歴史を読む自分にとって今一つ納得の出来ない行動であり、次第にあの物語に対し、釈然としない思いを抱くようになる。

 すなわち聖なる香りは一方で危険な香りにも感じるのだ。例えばナウシカの特殊な能力(それは漫画版で特に著しい)、風の谷の人々との明らかな区別、身を挺した自己犠牲(映画版でも漫画版でもこのシーンはあり、ナウシカ自身の思いがどうであれ、あの出来事は民衆にとって王たるに相応しい条件となる)など。それらが示唆するのは明らかに理想的な君主や宗教祖としての姿であり、永江朗氏が述べているように、そこに強い救世主待望思想を感じざるを得ない。つまり英雄願望思想である。

 赤坂憲雄氏は著書の中で、ナウシカは日本人が無意識裡に描いてきた王のイメージを体現しているのではないかと書いている。宮崎駿がインタビューで、映画版ナウシカの最後のシーンが宗教色になってしまったことに自ら困惑したと述べていることからしても、「作者のあずかり知らぬところで、インド=ヨーロッパ語圏の&rt;王<たちとは異質な、あえかにして美しき小さなハタモノである日本的な<王>の物語が鮮やかに描かれたのではないか」という赤坂氏の推測は間違いではあるまい。やはりこの映画を英雄待望思想を抜きに見ることは難しい。

 そして最近私は田中芳樹氏の小説で、「英雄願望は民主主義と相容れない」という内容を読み、大きな衝撃を受けた。我々一人一人の楽を求めようとする気持ちが君主の存在を生み出し、独裁の温床になるのだと。その論の是非はともかく、私の考えの曖昧な部分をはっきり突かれたのは否定できない。自分としては過去の歴史を読むことで、人間とは完璧には遠いのであり、所詮みな似たような生き物であって、個人や特定集団に無責任に頼ろうとするのには無理があると感じ始めており、それゆえに民主主義を準理想的なものとして位置づけていたつもりだった。それにもかかわらず、同時に私もやはり、途方もない英雄、すなわちナウシカのような存在を求め、そのような人に頼るのを理想としていた気がする。田中氏の文章の一節を読んだとき、私は自分がナウシカの物語に対して理性的に釈然としなくなり始めていた理由が分かった気がした。そしてはっきりとナウシカの物語に決別すべきだと思った。つまり、あそこに描かれる救世主物語は、現在の世界では再現すべきものでも理想的なものでもない、あの物語は人類が原始共同体からもう一歩進むときの昔話を語ったものに過ぎず、物語自体は私の人生にとって参考にすべきではないと判断したのである。例えばあの物語とは違って、自分達それぞれがナウシカのように考え、悩み、未来への道を他人と話し合いながら見つけて行くべきだということだ。

 もちろん私はあの物語に対する自分の感動を捨てるつもりはない。物語はともかく、ナウシカ個人に自分が見習うべきことはいくらでもあると思う。アニメーション映画だったらナウシカを一番に挙げるだろうし、ナウシカファンも止める気はない。そもそも、恋心にも似た強烈な感情を経て心に残ったあのいとしい風を、どうして忘れることが出来ようか。

 しかし同時に彼女のような一個体としての聖なる存在は、あくまで私個人が心の中で追い求めるべき幻影でしかなく、幻影でなければならず、幻影だからこそ尊んで良いのだと思うようになった。ナウシカを外に求めてはいけない、自分の心の中に探さなくてはならない。それが一抹の寂しさとともに現在達している私なりの結論である。

 嗚呼!いとしい風よ、我が心の中で永遠たれ!

参考文献


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