井上直久さんとその作品

オータム(SVD85360@pcvan.or.jp)


 1995年9月9日、PC-VANの宮崎駿ネットワーカーFCのオフラインミーティングで、井上直久さんの個展に行きました。場所は、南青山のPinpoint Gallery。そこで、井上さんの作品を生で見ることができ、それどころか、直接お話しすることもできました。

 井上直久さんというのは、言うまでもなく、映画「耳をすませば」で、雫の書く物語世界の背景として使われた空想異世界「イバラード」の作者であり、実際に映画で使用された背景も描いた方です。

 実は、耳をすませばの関連情報で名前を聞くまで、井上直久さんのことは知りませんでした。不勉強で恥ずかしいことですが、まるで縁の無い(と思っていた)世界で活動されていた方であり、ある意味で、仕方のないことだと思います。でも、実際に見てみれば、縁がないという雰囲気ではないです。

 最初に購入した井上直久さんの本であるコミックのイバラードを読んだときには、凄く興奮させられました。たった一冊のコミックを読み通すだけで、何日も掛かるという、普通では考えられない体験をさせられました。そうなったのは、ページごとの内容の濃厚だからです。しかし、単に描き込みが細かくて凄い、というような、ビジュアル表現だけの凄さではありません。細かい描き込みで人気を博している漫画家の方もいますが、そういうタイプとは明らかに違います。実際に線として描かれている以上の深い内容がページの中に隠れているのです。それを読みながら引き出して読み解いていくのは、知識と感性の両輪を必要とされる、厳しくも愉快な作業だったのです。

 私の見るところ、イバラード世界の特徴は、現実世界を、井上直久というフィルターを通して見る「視点」であるという所にあると思います。つまり、よくあるファンタジー世界のように、作者の心象風景を取り出して描いたものとは違うのです。イバラード世界での作者の位置づけは、創造者ではなく、仲介者であると思います。もちろん、仲介者と言っても、単に右から左に流すだけでなく、作者ならではの感性によって、変形が行われます。しかしながら、作品の芯となる部分は、現実世界の断片であって、それが失われることはありません。言い換えるなら、井上直久と現実世界の共作が、イバラードだと言うことができます。

 そのため、イバラードは、単なる一人のクリエイターの想像力だけで作られた世界よりも、ずっと壮大で広く奧が深い世界となっているのです。

 ただし、(ここが重要)、イバラードの諸作品は、これだけの奥の深さを備えながら、けして、難解ではありません。誰でも、それを見ることで、「美しい」とか、「素敵だ」という感想を持てると思います。実際に、その色彩やデザインだけを見ても、それ単体で評価できるほど素晴らしいものです。しかし、ある意味で、これがイバラードの弱点といえるかもしれません。なぜなら、そのレベルでイバラードが分かったと誤解した場合、更にその奧に広がる本当の世界に気付かずに終わってしまう可能性があるからです。

 さて、それはさておき。個展に出かけた日、私はかすかな野望を持っていたのでした。それは、とりあえず、銀行に残っている当面必要のないお金で買える絵があったら、買ってしまおうというものです。

 結局、大きな絵ではないですが、1枚買ってしまいました。(おかげで、今は貧乏です^^;)。下の絵が、それです。

 この絵は、「浜のキャビン」というタイトルで、海岸に置かれたキャビンの前に、女の子が立っているという構図です。遠くには海が広がっています。

 この絵を買おうと思ったのは、値段的に払える範囲内にあったというだけでなく、内容的に非常に気に入ったためです。この窓の多いキャビンの中に寝ころんだら、遠くまでよく見えるだろうな。そして、遠い異国のことを空想したら楽しいだろう。と思って、そういうことを井上さんに話したところ、実は、このキャビンは浜に乗り上げたある船の一部で、再び船が海に戻って旅をするという物語があるとのこと。私の空想を超えたイメージが井上さんにはあるようで、嬉しかったので、そのまま買ってしまいました。

 今、これを部屋に飾っていますが、毎日見ていても飽きません。それどころか、新しい発見もあったりします。けして、高い買い物ではなかったと思う今日この頃です。


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