フィリピンと私


 私が始めてフィリピンに渡ったのは、1983年の夏でした。アキノが暗殺される2週間前でした。 マニラのラスパルマスにチェックインしましたが、何だか薄暗いホテルだなと感じておりました。 部屋のカーテンが、夏なのに異常にぶ厚いのが印象的でした。外の熱気を遮断するためでした。 いま、考えても、あの時期のマニラの歓楽街マビニのホテルで、20代の男が生活することになれば、 どうなるか容易に想像が出来ます。

 マニラの生活は、刺激があり、楽しいことも多かったが、決して天国ではありません。ホテルでの滞在 の後は、アパートを高山右近の銅像があるパコの近くに、借りました。はじめは言葉で苦しみました。 2週間も日本語を話さないと、不安になり、休みになると日本人に会いに行きました。3ヶ月もすると、 それに慣れ、フィリピンの友人も出来るようになってきました。はじめは、歓楽街で知り合った奴らだ。 いっしょに飲んだり騒いだり、教わることも多かったが、失うモノも多かった。無知な私は、結構だまさ れていた。だまされるのも当然かもしれない。毎晩、マビニの歓楽街をふらふらしている方が悪いのだから。

 アパートの近所や職場の人たちのことが解ってくると、ホントに気のいい人が多い。それにみんな陽気である。 タガログが解るようになってくると、気さくに声をかけてくれる。"Saan ka pupunta?"(どこいくの?) "Saan ka galing?"(どこ行ってきたの?)フィリピン人はパーティー好きで、誕生日、フィエスタ、クリスマス 盛大にやり、しかも誰でもウェルカムだ。そんな写真が残ってましたので見てください。

 フィリピンでかなりの写真をとったが、いまではもう数枚しか残っていない。この理由はフィリピーナに 関係する。フィピリーナのは陽気であり、情熱的である。言い方を替えれば嫉妬深いのである。私は、フィリピーナ と結婚した事があるが、この時点で、彼女以外のフィリピーナの写真は消えた。飲んで帰りが遅くなったとき、 喧嘩になり、その次の日には、友達の写真も見あたらなかった。そして彼女と別れたときには、写真どころか、 金も残っていなかった。

 それでも、フィリピンが好きな「フィリピン馬鹿」です。

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Created Nov 7, 1995
Last modified Jan 20, 1996